wisteria/2019/1231 偶然足を運んだカフェーで、好みだ、と思った女給がいた。父親も母親も見合いを、と喧しいのもあり、丁度いいと女給を呼びつける。誘い文句に華などない。ただ、金をやるから屋敷で働け、と強引に職を変えさせた。
自分の立場を理解しているのか、彼女は怯えた表情を少し見せたものの、決して断わりはしなかった。問題が残ったとするならば、誠一郎が話しかけると、ほんの少しだけ、いい顔をされないことだ。
「ユキさん」
屋敷で働く彼女に、仕事は慣れたか、と尋ねる。屋敷で働く人間の数は多くはない。どちらかと言えば少ない方だろう。そのせいで、屋敷でこなさなければならない仕事も多く、誠一郎が帰る頃には彼女は随分と疲れ果てているようだった。
荷物を受け取ろうとした彼女に少し休みなさい、と強く告げると、彼女はすごすごと与えた小さな自室へと戻っていく。
厄介事に巻き込まれては、自分たちにそれを押し付けていく友人の世話にもそろそろうんざりしてきた頃、ついに父が見合い写真を持って母と共にあれがいいだの、これがだめだのと誠一郎を無視して相談し始めた。
嗚呼、面倒くさい。
席を外して、屋敷で仕事をしている彼女を探してそのまま両親の元へと引っ張った。終始困惑したままの彼女に、発言権はない。
「何処ぞの馬の骨とも知らぬ女と一生を共にするくらいなら、僕はユキさんと婚約します」
どうせ、自分も同僚に比べれば随分と歳を重ねての結婚になるのだし、顔だけの女より自分が気に入った人間の方がいいとテーブルに広げられた見合い写真を片付けながらはっきりと口にした。
両親も勿論だが、何より彼女が一番驚いているようだ。当然か。彼女を一瞥する。いくつか小言を父が零していたが、折れる気配のない誠一郎の様子に一度ため息を吐いてから、彼女との婚約は許可された。
「近々、ユキさんのご両親にもご挨拶にいかなければ」
予定を確認して、間近の空いている日に挨拶に向かうことになった。当然、身分の差が大きく離れているからか、彼女の両親は困惑してはいたものの、断られることはなかった。
そうして婚約まで済ませ、彼女の逃げ道を封じた。身分の高さにものを言わせて婚約したのだ。早々手放してやるつもりはなかった。
結婚はまだ先にしようと言い出したのは誠一郎だ。自分の仕事もあるし、何より友人の後始末が終わっていない。呪いは解けたようだったが、彼のことだ。また何かに巻き込まれるに決まっている。
悪い予感ほど当たるものだ。確かにそう思えるほど、この状況はよくなかった。
勝ち目のない戦いで、敵前逃亡を謀るのであれば腹を切って死んだ方が、と考えて女優が化け物になっていく様子にそれすら消え失せた。
ここで死んだとして。無理矢理婚約させられた彼女は、どうなるのだろう。
一瞬だけでも、彼女のことを考えたのがいけなかった。
自分が死んだ時、別の男に嫁ぐのか。――彼女は、僕が見初めた、僕の、ものだ。
手を借りてどうにか劇場から逃げ遂せる。崩れていく劇場を眺めながら、生きていてよかった。早く帰って、彼女を自分のものにしよう。そう決めた。
「ユキさん」
帰宅してすぐ、彼女の腕を掴む。会話をしていた父を睨みつけて、話がある、と書斎に連れ込んだ。
顔を向けた彼女は、怯えた顔をしていた。
「そんな顔をしても、ユキさんは僕のものですから」
腰に手を伸ばして、体を引き寄せる。
カフェーで見かけた、誠一郎が一目で惚れた彼女の笑顔はどこにもない。早く奉公人の仕事など辞めさせれば、彼女は自分にだけ笑いかけてくれるようになるだろうか。
「結婚はまだ先に、と言いましたが。すぐしましょう。今月中にでも、すぐに」
ずっと、こうして彼女と二人で過ごせるなら、どれほどいいだろうか。嗚呼、少し離れた場所に、彼女と暮らす家を買えばいいのか。幸い金銭には困ってはいない。むしろ使い道がなく、貯まっていく一方だった。
知り合いに頼んで丁度いい家を探してもらうとしよう。彼女は広い屋敷の方がいいだろうか。外国の建築を真似たものでも、昔からあるような家でも、好きな方を選ばせてやれば笑ってくれるだろうか。
「幸せにします」
間違いなく本心だった。これが彼女に正しく伝わっているかは、分からないままだ。