本軸の話/婚約後 知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる。
仕事の用事でたまたま通りかかったその場所にはまるで記憶がない。なのに、どうしてこんなに懐かしい、と思ってしまうのか。
近所に見える公園だって、知らない。母親が、子供が、楽し気に遊んでいる様子から視線を逸らせない。知らない。自分には、知らないものだ。母親など、知りたくもない。
過去に一度だけ―――あれは小学生の頃だったと思う―――孤児院の母親のようにかわいがってくれていた年配の女性に自分の母親について尋ねたことがある。理由は単純で、悪気があって言った訳ではないのだろうが、同級生に真雁の母親が授業参観に来ないのはおかしい、と教室で無意味に騒ぎ立てられたことが原因だった、と思う。
母親なんかいない、と何度言ってもそれはおかしい、と言われて無性に腹が立って思わず殴りかかったことだけは鮮明に覚えている。その後、その同級生の母親にこっぴどく怒られたからだ。
「親がいないとこんな暴力的な子になるんですね」
軽蔑するような視線を向けながら、その母親は面と向かって真雁にそう言い放った。親がいないから、親がいないのがそんなにダメな事なのだろうか。
自分だって、好きで親がいない人生になった訳じゃない。あの同級生みたいに怪我をしても本気で心配してくれるような人がいない。抱きしめてくれる人もいない。誰も、褒めちゃくれない。この頃から誰かに何かを求めるのは諦めていた覚えがある。
結局、自分の母親については教えてもらえなかった。誰も真雁の母親が、真雁を預けてからどこに行ったのか知らないのだから、答えられる訳がない。
自分は本当に孤独なのだと思った。どうせ誰にも愛してもらえないなら、最初から期待するのはやめようと、他人を信用することすら諦めた。
は、と視界の隅でちかりと一瞬光った手元を見る。先日引き取って、黒住に嵌めてもらった左薬指の結婚指輪。プロポーズしたから結婚指輪、というだけで籍は入れられていないが。
孤独だと思っていたのに。今さっきも彼と言葉を交わしたばかりで、すっかり孤独とは縁遠い生活になった。彼は恐らく心配もしてくれるし、愛してもくれている。十分だ、と思えるほど真雁に幸せをくれている。自分には勿体ないと思えるほど、愛らしくて優しい、素敵な人だ。
左手を持ち上げて陽に当ててみると、銀色の指輪が朝日を反射して眩しかった。