万雷の話俺に一体何があるのだろう、と生まれた時から彼は思い続けていた。
赤ん坊は母親からの無償の愛情を受けて己の自己肯定感を高めるとどこかで聞いたことがあった。
しかし俺には、と彼は太い指をゆっくりと曲げて拳を握りしめた。
一体俺に何があるというのだろう。
呼吸をする。目を開いて閉じる。歩く。座って立つ。飯を食らい、排泄をする。生きる。生きて生きて、そして死ぬ。
いつあるとも知れない死を胸に抱いて生きる。
彼にとっては死ぬことはあまり恐怖の対象ではなかった。ただ始まりには終わりがあり、生物の理としてそれが当たり前だということだけだ。
始まりには終わりがある。
彼は手に生えた白い体毛の隙間で、赤く擦り切れてヒリヒリと痛んだ手の皮膚を見つめた。
いつまで俺は生きたらいいんだろうか?
近頃彼はそう思うようになっていた。
子供に課されるものとは思えない多くの労働をこなし、機嫌が悪い父親の暴力や暴言を受け入れる日々をいつまで続ければいいのだろう。
はあ、と息を吐いて冷えすぎてズキズキと痛む手を暖める。辛いと思った事はなかった。生まれた時からこんな生活だったのだから。これが、この痛みだらけの生活が当たり前だ。
しかしそれでも癒されることがなければ疲労は溜まっていく。
「……ふぅ」
ため息をついていると、荒々しい音を立ててボロい立て付けの悪い扉が開かれた。
「おいっいつまでちんたら洗濯してんだ間抜け!!」
男の不快ながなり声が聞こえてくる。父親だ。いつも自分を虐げてくる不快な存在。
彼はため息をついた。慣れたとはいえ、痛いのはやはり嫌だ。
これ以上父親をイラつかせないためにできる事といえば、非力な子供を装って謝るということだけだ。
彼はろくな食事を取っていなかったが、普通の子供よりも身の丈も横幅もあった。格闘技でもやっているのかと言われるような体格だ。しかし父親の方がそれよりも遥かに体格には恵まれている。
身の丈は3mはあろうかと言うほどの巨漢だ。彼の恵まれた体格は父親譲りのものであるに違いない。
俺が本気を出したなら、父親から殴られずに済むかもしれない。そんな事を考えたことも何回かあった。だがその度にやはり体格も身体能力も父親が優っていると思い知らされ、無駄な怪我を負うことになってしまうのだ。
ならば大人しくしているのが賢いやりかたというものだ。
「ご、ごめんなさい、すぐ、すぐにすませるから……」
彼は言いながら、ちくちく痛む手を動かす速度を早める。ピリッと時々指が痛むのは、あかぎれが裂けているからだろう。
舌打ちが聞こえる。
あ、ヤバい。
彼が思うや否や父親が足音を立てて歩いてくると、彼の背中を思い切り蹴った。咄嗟の出来事に受け身すら取れずに彼は冷たい水と洗濯物が入ったたらいの中に顔を突っ込んだ。
「ごっ、ご、め、ごめんなさいっ許してくださいっ」
なぜか声が震える。寒いからだろうか。寒いと胸の奥まで痛くなって震えてしまうんだろうか。
「その気色の悪い喋り方をやめろと何度言ったら!」
耳を引っ張られ、無理矢理身体を起こされてまた背中を蹴られる。今度は地面に顔を打ち付ける。痛い。鼻から鉄臭い生暖かい液体が流れ落ちる。
背中を蹴られる。何度も蹴られる。痛いついでに気持ちが悪くなってくる。
堪えきれずに口の中に溜まった苦い液体を少しだけ逃すと、それを皮切りに胸が内側からひっくり返りそうな不快感と共に熱い液体が口をこじ開けて勢いよく噴き出した。
「汚ねえな。クソガキが!」
四つんばいになって吐いていると、罵声と共に頭上から冷たい水が降ってきた。
「掃除と洗濯が終わるまで家に入ってくるんじゃねえぞ。凍え死んだら川にでも流してやるからな」
父親の大人気ない脅しを聞きながら、吐瀉物と汚水に塗れた彼はただ蹲っていた。
そんな思い出を眠っている時に思い出してしまうことは、彼にとってはたまにある事だった。
今思えばあの扱いは酷いものだったし、そんな事を思い出すなんてきっとそれは俗に言う悪夢というものなのだなと思いながらベッドから起き上がる。悪夢を見た後の寝起きの口内はひどく苦く感じる。
その苦味と未だに身体を支配している眠気とだるさに顔を顰めながら、彼はのろのろと巨体を引きずって歩いていく。
うがいをして口を濯ぎながら、彼は鏡に映った自分の寝ぼけた顔を見つめた。顔にはどでかい傷が二つある。
一つは右頬の辺りに走っている傷。父親に昔激昂され、抵抗したら牛刀で斬りつけられた跡だ。あれは痛かった。なにせ手当てもなかったものだから化膿してしまった。その化膿した場所はしばらく治らず、高熱まで出た。よく死なずに治ったものだ、と彼はしみじみ思いながら傷をそっと爪の先でなぞった。
もう一つは左目の少し上から下までを横断するように走る傷。これもかなり痛かった。前にいたグループで鉄砲玉をしていた時にナイフで切られた時の傷だ。これは手当てはされたが、切られたおかげで左目があまり見えなくなった。その証拠に左目は今も白く濁っている。
俺の顔はボロボロだな、体はもっとボロボロだけど。と思いながらまた部屋に戻ってのろのろと着替えを済ませる。
そうしてこの屋敷の離れ、召使い達が暮らす場にある食事場にのろのろと歩いていく。
屋敷にはいろいろな人がいる。食事を作る人、女中(それが男であろうとも、召使であればそう呼ばれている)掃除夫、庭師。
そしてこの屋敷の頂点に立つ女帝たるマダム。彼女を支える秘書もいる。
「万雷、今日は遅いね。話す練習でもしてたの?」
彼、万雷の気配を感じた料理人見習いが厨房の奥から顔をひょっこり覗かせてニヤニヤと笑いながら、揶揄うような口ぶりで言った。
「んん」
万雷は顔をまた顰めた。この少年は万雷の話し方を一々小馬鹿にして事あるごとに揶揄ってくるのだ。
嫌いではなかったが、できれば関わりたくはなかった。
「そんな顔すんなって、ほらこれ。料理長がお前のって」
そうして席についた万雷に、見習いが持ってきたのは彼の体格に見合うような大振りの丼に山盛りに盛られた汁かけ飯だった。ほとんど残り物のようなものだったが、万雷はほんの少し顔を綻ばせて「ん」と声をあげて軽く会釈をした。
ここには色々な人間が居る。万雷と同じ、獣人と呼ばれる種類の人もいたが、その誰もが彼にとってはどうでも良い存在だった。
俺にはマダムさえいればそれでいい。
万雷の心は頑なだった。彼にとって、マダム以外の人間というものはあまり印象になかった。
そもそも彼らは近づいても来なかったのだから。
その理由を彼は詳しく考えたことはなかった。しかし1人の女の女中は、万雷が後ろから近づいてきた時に驚いて声もあげずに逃げていった。
きっと他の奴らは、俺が怖いから近寄っても来ないんだろうなあ。それか俺の話し方が不気味で気持ちが悪いから近寄りたくないんだろうなあ。
万雷は特にそれ以外、考えようとはしなかったのだ。
モサモサと口に汁かけ飯を運び、食欲のない身体とまだ半分微睡んでいる脳に喝をいれている間に厨房の奥からガシャンという大音量の破壊音が聞こえた。程なくして、料理人が怒鳴る声。それとほぼ同時にさっきの少年が大声で謝る声が聞こえた。
まだ元気が有り余ってそそっかしい見習いが皿でも割ったのだろう。
後で皿を返しに行ったら、きっとあの子の顔を見られないだろうなと思いながら、万雷は食事を続けた。
厨房から、また料理人が怒鳴る声が聞こえてきた。今度は、彼の故郷の言葉だった。
マダムは美しい。この世の誰よりも綺麗で、欠点など見当たらない。肌は白くはないが、万雷と出会ってから歳を重ねた今もシミも皺もなく滑らかな肌をしている。
短く切り揃えられ、おかっぱになっている髪はいつも艶があったし、金木犀のような甘い香りがした。
万雷は、そんな彼女の顔すら見ることもできずに俯いて彼女の横に立っている。仕事をする彼女の隣に立ち睨みを効かせ、外に行く時は秘書と共に同行して彼女達の身を守るのが彼の仕事だ。
女帝のペット。マダムを知る人から、こう呼ばれている事を彼は知っている。
女帝に飼われた無知で無学で哀れな低脳。この館にいる女中達からもしばしばそう陰で呼ばれているのも知っていた。
胸は少し痛むが、無駄に気にするものではなかった。
「万雷、あなた少し太ったんじゃぁないの」
マダムが言いながら、魔石内蔵型電子計算機ーーーー通称パソコンーーーーの画面から万雷の腹に視線を移し替えた。
「う、ぅッ……そ、そう、で、ですね」
心の準備ができていなかったためか呻きをあげ、同意する。確かに太った。元々恰幅が良く、骨太さと四肢の逞しさと毛皮のふっくらとした見た目からふくよかに見られがちだった。しかし今の彼は、腕の逞しさをそのままに腹がでっぷりと突き出ている。
これではまるでダルマだ。子供が遊ぶ、あの転がして遊ぶ人形そのままだ。
「全く、これじゃあ妊婦じゃない。食いしん坊のパンダさんはどれくらい食べてるのかしら?」
マダムは意地悪そうなニヒルな笑みを口元に浮かべ、立ち上がると万雷の足をヒールで思い切り踏んだ。
「う、ぅうッ」
痛みに思わず呻きを漏らしながらも、合図通りに跪く。
身長が3m近くある巨漢の万雷と接するには、跪かせた方が都合がいい。
そんな時マダムは万雷の足を踏んだり、脛を軽く蹴ったりする。
「不細工なぬいぐるみみたいな顔して」
そんな酷いことを言いながらも彼女は微笑んでいる。いつもの見るもの全てを喰らい尽くすような、恐ろしく美しい笑みではない。心から安心しきっている、万雷に対してそういうことを言うのを楽しんでいるような笑みだ。
彼女は跪き、俯いて打ち震えている万雷の顎を人差し指で軽く持ち上げた。
万雷の瞳に写っているのは、いつも通り変わらぬ美しさを宿すマダムの顔。雌ライオンを思わせる獰猛で鋭い切長の目。歳を重ねてもシミも皺もない白い肌。真っ赤な紅を引いたふっくらとした口紅。
万雷は彼女の顔にしばらく見惚れてぼうっとしていたが、彼女が見つめているのは他ならない醜くて傷と血に塗れた汚れきった自分なのだということを不意に思い出して視線を逸らした。
傷に塗れた身体。片目を失って崩れかかった顔。そうでなくとも無骨で醜さすら感じさせる顔。愚鈍だと罵倒されるような喋り方。
彼女に見つめてもらえるなんて、本当ならありえないことなのに。ただ彼女を守るだけの存在である自分が、影としてしか存在を認められないような自分がこうして見つめてもらえていると思うと恥ずかしくて目も合わせられない。
「誰が勝手に目を逸らしてもいいなんて言ったのかしら」
言葉はやさしくとも、声色は鋭い。彼女の言葉に万雷は「うぅ」と呻き、怯えた目を向けた。
「万雷、やっぱり太ったわね」
言いながら、マダムはやはり笑っていた。
万雷とマダムが出会ったのは、今よりも相当前のことだった。
万雷はマフィアの鉄砲玉をやっていたが、致命傷を負ったことで呆気なく捨てられたのだった。
路地裏で死を待つばかりの哀れなパンダ獣人にとって、傘をさした美女が手を差し伸べてくるというのは、都合のいい幻覚にしか見えない光景だった。
「ゆ、夢に決まってら……」
意識を遠のかせながら絞り出した言葉。
だが美女は「目を覚ましなさい」とその言葉を一蹴した。
そして雨と血に濡れるのも構わずに彼の胸倉を掴んだ。
「こんな所で無様に死んでいいの?」
彼女の言葉には、端々に怒りが混ざっている。
万雷は虚な目で、彼女を見た。視界が霞むようなザザ降りの雨の中でも、彼女の姿だけは霞むこともなく白くぼうっと光って見える。
生きたい。
純粋な欲求が込み上げてくる。かつて父を殺す前、歯が折れるまで顔を殴られて首を絞められた時と同じような欲求だ。心の中で叫んでいる。体ではなく、心が求める本能的な欲求が脳内を駆け巡る。
生きたい。生きたい。死にたくない。ここで死にたくない。
万雷は彼女の、己の胸ぐらを掴んでいる手をそっと握る。その細い手首を握り潰さぬように。
「お、お願い、します、どうか」
それが万雷とマダムの出会いだった。
マダムにとって万雷は可愛いペットであったし、優秀な用心棒だった。無口でおしゃべりではないし、何よりも素直だ。決して彼女を疑うことはなかったし、こっちがやる事に対して余計な口を挟むことはなかった。
「マダム、マダム! 鈴麗様!」
やかましい声が聞こえて、彼女はうるさそうにパソコンの画面から顔を上げた。
ああ、あなたなの、何。と万雷にくれてやるのとは違う冷徹な目で目の前の男を睨みつける。
七三分けをぴっちりポマードで固めた男。大きい丸めがねがトンボのように見える。
彼は秘書だ。彼女の仕事をサポートする、影の存在だ。
「13時から坂福商事と商談が入っております」
スケジュール管理、やかましい記者の対応、書類作成。この優秀な秘書は万雷とは別の方面でマダムを守る防波堤の一部だった。
「わかったわ、ありがとう。支度するから待っててちょうだい。万雷、支度をお願い」
それまで冷静にマダムを見つめていた秘書だったが、彼女が万雷の名を出した途端に露骨に眉間に皺を寄せて嫌そうな表情を浮かべた。
「鈴麗様、その男も連れて行くのですか、車に入りますかね?」
「もちろん。彼は優秀な用心棒よ。車にも入るわ」
「優秀な用心棒と言いましてもね、もし商談の場で粗相でもされたら」
マダムはきっ、と秘書を睨みつける。彼は優秀だ。秀才だし教養もある。だがこのようにねちっこく、選民意識が強いうえに主人であり上司でもあるマダムにも口を出す男だ。
「あなた、私に文句があるなら言いなさいよ。それとももしものことがあって私が大怪我をしても責任が取れるっていうの。いつからそんなに偉くなったのかしら?」
マダムの怒りはもっともだ。
万雷は十分に躾けられている。商談の場ではほとんど大人しく横に突っ立って睨みを効かせているか、部屋の外で不審者が入ってこないように睨みを効かせている。実際にマダムが襲われようとした時にその不届きものを捕らえ、自分が盾になって防いだことも何回もある。
そんな万雷を否定するということは、彼女の躾を否定し彼女がどうなってもいいのだと言っているのと同等だ。
万雷はそんな二人をばつが悪そうに横目で見ている。
「……申し訳ありませんマダム。少々お言葉がすぎたようですね。では私は先に車で待っておりますので」
彼女の怒りの目に秘書は流石に恐れをなしたらしい。申し訳程度の謝罪をするとそそくさと部屋を出て行った。
マダムはため息をつくと、「万雷、何をやってるの。早く準備をしてちょうだい」と半ば八つ当たりのように言ったのだった。
嫌われることには慣れている。まずは父親から嫌われていたし、母からも嫌われてしまった。もちろんその他の人も自分の喋り方を聞いたら大体面倒がったし気持ち悪がった。
もちろんこの屋敷にいる人たちも、大体万雷を馬鹿にしたり怖がったりした。特に秘書は彼を愚鈍だと見下し、忌み嫌っていた。
だが万雷にとってはそんな事は瑣末な問題に過ぎない。
彼にとってはマダムに嫌われさえしなければいいのだ。
そんなわけなので、彼は隣で文句言いたげにしている秘書のことはどうでもよかった。
車のシートに体を沈め、天井に頭をぶつけないようにすることに必死になっている万雷。巨体は身を縮めてもなお存在感を誇示している。
どこまでもついていきますからね、マダム。
声にならない言葉で、彼は呟いた。