初恋はジャスミンの香り春休みに日本に帰った時、お父さんの実家で古いアルバムを見つけた。
それはお父さんと叔母さんの子供時代のアルバムで、季節ごとの色んな思い出がまんべんなくストックされていた。
私は分厚い中身をひとしきり吟味して、その中から気に入った写真を一枚こっそり抜き取った。
もちろん、お父さんにもお母さんにも、あんちゃんにもナイショで。
私のお父さんは宇宙飛行士だ。
六太さんみたいにまだ月へは行っていないけれど、人類史上初(!)の小惑星探査の旅を成功させた。
五歳の私は月へ行けなくなったお父さんを責めたけど、今はお父さんの成し遂げた功績とお父さんの所属したスウェッツのメンバーを、心から誇りに思っている。
フレディもバディも、優しくて楽しいから大好きなんだ。みんなで集まるとバーベキューとか始まっちゃうこの国の風土が私は好き。たまに帰る日本より、お父さんが夢のために奮闘して、お母さんがあんちゃんを産んだこの国が好き。
あと、私はお父さんの相棒の新田さんが好き。秘密だけど、これは初恋。
私が物心ついたころから、いつもお父さんのかたわらにいる新田さん。新田さんは六太さんとはよく笑いながら口げんかをしてるけど、そういうの、お父さんとしているのは見たことない。
新田さんは冷静沈着でかっこいい。ブロマイド、史上最高に売れたらしい。お父さんから譲ってもらった物だけど、私も新田さんのブロマイド、ぜんぶ持ってる。
三ヶ月くらい前かな。
飲み足りないからウチで飲むよって、お父さんが新田さんを連れ帰った夜。仕事で何かいいことがあったんだって、二人の楽しそうな雰囲気から伝わった。
お母さんもあんちゃんも部屋へ戻って、私もそろそろ寝るよ、おやすみってお父さんに言おうとしたんだ。
ちょうどお父さんはトイレで中座してたみたい。リビングにいたのは酔いつぶれた新田さん。こういうシーンではすごく理性が利きそうなのに、楽しくて飲み過ぎちゃうこともあるんだね。
こっそり近づいたテーブルの下に、スラッと長いジーンズの両脚。ねこが好きだって知ってたけど、かわいいねこ柄のソックスを履いてる姿はちょっと衝撃だった。
天井を仰いだ新田さんは、上半身を背後のソファにグデッと預けてまるで無防備。
一二歳の女の子が見ても、一目瞭然、説得力のある美形。こっちの人にだって、こんなに目鼻立ちの整ったきれいな横顔の男性はそうそういない。自分の親を持ち上げるのもヘンだけど、芯の強い男らしい顔つきのお父さんと端正な顔立ちの新田さんは、ビジュアル的にも相性のいいコンビだと思う。
「レイ君は僕の一生の盟友(ともだち)」
これが、無事に探査を終えて帰還したお父さんの口ぐせ。
二人の間に強い絆があることは、今よりずっと小さかった私の目にも、はっきりとそのカタチが見えるくらいにわかっていた。
お父さんは他人を見る目は鋭いけど、自分のこととなるとたぶん、鈍感。
だから、眠ってる新田さんが「ケンさん……好きになって、ごめんなさい……」って苦しそうな声でうなされたみたいに言った時、この人の好きはクローズドの、決して報われない好きなんだなって、直感で察した。
お父さんを好きな男の人がいる——。
娘からしたらこれって異常事態なはずだけど、新田さんの苦しい胸の内(無意識の告白?)を聞いてしまった身としては、ただただ切なくて気の毒な気持ちでいっぱいになった。
新田さんは今四十歳。うちのお父さんを好きにならなかったら、絶世の美人と結婚して子どももたくさんいたかもしれない。
バーベキューにも家族で来て、私とあんちゃんで新田さんの赤ちゃんをあやしてたかもしれない。
お父さんってホント鈍感。私だって、新田さんのこと好きなのに。
私はこれを初恋だと思っていて、初恋は実らないとも小説で読んで知っているから平気だけど、新田さんの恋が実らないのは、へんな話だけどとてもかなしい。
私の恋も、新田さんの恋も、隠して日の目を見なかった恋心って一体どこへ行くのかな?
「……うちのお父さんを、好きになってくれてありがとう。また勉強教えてね」
私は小声でつぶやいて、寝息を立てる新田さんの肩へブランケットをかけた。
リビングを出たらお父さんと鉢合わせた。お父さんは来客用のお布団を両手に抱えていた。
「あ、風佳。ちょうどよかった、ドア開けて」
「うん、いいよ。新田さん、ぐっすり寝てるよ」
私がドアを開けると、お父さんは「ありがとう、そうなんだよ」と笑って中へ入って行った。
「お父さん」
新田さん用のお布団を敷く背中に、新田さんを起こさないくらいの声で呼びかけた。
「ん〜?どした?風佳」
少し間伸びした、私の大好きな優しい声。
「今日、新田さんと飲んで楽しかった?」
「え?うん、楽しかったよ。実はね、仕事で嬉しいことがあって……だけど、ちょっと飲み過ぎたね。こんなに酔いつぶれたレイ君、付き合いが長いけど初めて見るよ」
ふふっと笑ってお父さんが新田さんを振り仰ぐ。新田さんはたまにうちにやってくるけど、泊まりはこの日が初めてだった。
明日の朝も、家に新田さんがいることがふんわり嬉しい。
私はドアに背をもたせて、少し背伸びして言った。
「新田さん、明日の朝なに食べるかなぁ。私早起きして、朝ごはん作り手伝おうかな」
「お、いい心がけだね。明日の朝は、みんなでご飯を食べよう」
「うん。じゃあ、私寝るね。お父さん、おやすみ」
「おやすみ、風佳」
私に笑顔を向けたあと、お父さんは寝こける新田さんに歩み寄った。レイ君、と肩を揺すられて新田さんが目を覚ます。
ぼーっとする新田さんにも「おやすみなさい」を言って、私はリビングを後にした。
予期せず、新田さんの『告白』を聞いてしまったあの夜がはじまり——。
次に新田さんに会ったら渡そうと思って、私はお父さんの実家から持ち出した写真を一枚、無地の白封筒に入れて大切に持っていた。
今日は日曜。遊びに来てくれた新田さんに、少しの時間だけ勉強を教わるていで部屋に来てもらった。
そよそよとカーテンをくすぐるそよ風に、新田さんが気持ちよさそうに目を細める。
「四月の風っていい匂いがするでしょ?こないだ、あんちゃんと匂いをたどって行ったらね、公園のジャスミンに行き着いたんだ。ちょっとだけお母さんに摘んで帰ったんだよ」
私が言うと、ふふっと新田さんが頬笑んだ。
「いいね、ちょっとした冒険だ」
「うん」
窓辺に立つ新田さんは、私の学校の参考書をペラペラとめくっている。長身のスタイルの良さは抜群で、私は網膜に焼き付けるように、だけどこっそり新田さんを見つめた。
タイミング、今ならいいかな……?
「あのね、新田さん。
これ……」
私は胸のどきどきを抑えて言った。
「こないだ、家族で日本に帰った時のおみやげ」
「え?俺に?」
私の差し出した封筒に、一瞬新田さんの怪訝が見て取れた。
「大丈夫だよ、あやしいものじゃないよ。ラブレターでもないし、新田さん開けてみて」
「いや、あやしいとか思ってないよ」
なんだろう、開けるね、ふっと目を伏せ、新田さんが封筒を開ける。下から覗くどんな表情もとてもハンサムで、私は何度でも新田さんに見惚れてしまう。
桜色のきれいな爪が縁取る長い指が、すすっと中身の写真を引き出した。
「えっ……」
一瞬、はっと雷に打たれたように、新田さんが目をみはる。
「こ、これ……」
「うん……。お父さんだよ」
写真の中のお父さんは詰襟の学生服姿で、家の表札の前でにっこり頬笑んで立っている。
私が見ても格好いい!って自信を持って言えるくらいの、自慢の一枚を選んできた。
「これね、高校の卒業式の朝に撮ったみたい。初々しいけど、かっこいいでしょ?
このお父さん、新田さんにあげる」
新田さんはしばらく写真を見つめたまま、少し潤みを帯びた声で私に訊いた。
「な、なんで俺に……?」
「うーん……私も新田さんのブロマイド持ってるから?よくわかんないや、えへへ」
本当のことを濁したら、よくわからない言い訳になった。私は笑ってごまかしたけど、新田さんは笑わなかった。
新田さんは苦しそうに眉根を寄せて、私を見ずに怖々訊いた。
「フーちゃん……俺の気持ち、いつから気づいてたの……?」
「……」
「……気持ち悪いだろ?こんな奴がお父さんのそばにいるなんて……本当にごめん……」
「気持ち悪くないよ。新田さんをそんな風に思ったことない」
「……秘めてるだけなんだ。お父さんには打ち明けてない。この先も言わないし、俺の胸に、ずっと秘めてるだけだから……」
だから、好きでいさせて欲しい……声にはならない、まるでそんな懇願が聞こえてくるみたいで、私まで胸が苦しくなる。
「うん、知ってるよ」
あのね、新田さん。
これはね、私たちの成就しない恋心への、せめてもの手向け。好きだと言わないでいてくれた新田さんへの、ありがとうとごめんねの気持ち。
「お母さんと出会う前の、誰のものでもないころの、フリーのお父さん。写真だけど、新田さんにあげる」
私は新田さんを見上げて、ニコッと笑った。
新田さんも眉毛を歪めて、詰めていた息をふわっと吐いた。
「ありがとう、フーちゃん。
まさか、こんな形で高校生のケンさんに会えるなんて、夢にも思わなかったよ」
そう言った新田さんの目尻に、きらりと涙がにじんだ。新田さんの震える心に触れたみたいに、私も切ない気持ちになる。
「会えて嬉しい?」
「嬉しいよ、すごく」
「よかったぁ。お父さん、あんまり変わってないでしょ?」
「ホントに、むしろぜんぜん。さすがだな、ケンさん」
「言ったら怒るけど、童顔だからね」
くすくすっと笑い合って、私は新田さんの手元を一緒に覗き込んだ。
新田さん、あの日公園で嗅いだみたいな、優しい香りがした。
「ふーかー、レイくーん、お茶淹れるよ、降りといでー」
階下から、お父さんの伸びやかな声が私たちを呼ぶ。今日、新田さんがおみやげに買ってきてくれたケーキ、すごく可愛くておいしそうだった。
あんちゃんとケンカになる前に、どれを食べるかしっかり相談しなくっちゃ。
私は新田さんに降りよ?と目配せして、めいっぱい元気な声でハーイ!と応えた。