『手を伸ばす幸福』 いつか、誰かと。
いつも、あんたと。
いつか、誰かの。
いつも、君の。
心のベクトルなんて、関係ない。
今ここにいる自分が、すべて。
駅から南北に延びる公園の切れ目から広がる光の波。色とりどりの出店が道の両側を埋めて、どこまでも延びている。
公園の木々の上に見えているのは熊手の屋台だろう。
「盛況、だね。」
横断歩道を渡ったところで、広がる景色と吸い込まれていく人の流れに寂雷が感嘆したように息をつく。
思わずこぼした言葉に、けれど隣に立つ男は赤い目を険しくしてその穏やかな横顔をにらみ上げた。
「あぁ。
シンジュクだって似たようなもんだろ。」
「まあ、ね。
けれど、こういう祭にはその街の色というか匂いがでるものだよ。」
これは、この街の。潮の気配がするこの街だけのものだろう。
どこか雑然としたその雰囲気を見渡して寂雷は穏やかに笑んだ。
その表情に、左馬刻もまた笑みをもらす。
「センセーのお気に召したかよ。」
「そうだな。……いいね。」
鮮やかで、仄暗い。君によく似たこの街が私は好きだよ。
ささやく声に左馬刻はただ肩をすくめるだけ。
それでも、その口の端に浮かぶ笑みを寂雷はいとおしげに見つめる。
「……なんだよ、」
「なんでもないよ。」
どこかすねたようなその物言いもまた。
「どちらから回ろうか。」
「熊手は最後でいいだろ。
こっち側に射的やらくいもん以外の屋台が出てるぜ。」
「それは楽しそうだね。」
細い路地に並ぶパチンコや射的の屋台を興味深げにみやる。
「センセーがやったら景品総取りしちまいそうだな。」
「手加減はするよ。」
「そこは否定しねぇのかよ。
じゃあ、その腕前見せてもらおうか。」
「おいおい、そりゃ勘弁してくれよ。」
「客寄せになってやろうってんだ。感謝しやがれ。」
「かなわねぇなぁ。
ほいよ。玉はこいつだ、やるのはこっちの兄ちゃんかい」
差し出されたおもちゃのライフルを、寂雷は苦笑いしながら受け取った。コルクの玉を銃身に詰めて軽く構える。
「なんだよ、手を伸ばしたら棚に届いちまうんじゃねぇか。」
「ふふ、そんなズルはしないよ。
何か欲しい物はあるかな?」
「ここでそれを聞くかよセンセー。」
そんなコトを言いながら棚に並んだ駄菓子や景品が書かれた札をみやる。
昔、そうもうずっと昔。あのお人形が欲しいと服の裾を引っ張る合歓に、二人分のお小遣いを合わせて一回だけやった射的。
あのころはこの台がやたら高くて思い切り身を乗り上げて腕を伸ばした。
結局小さな駄菓子を一つ落として、二人で食べた。あの甘酸っぱさをまだ覚えている。
「左馬刻君?」
優しく問いかける寂雷の手にあるライフルは、あの日の記憶よりやけに小さく見えるけれど。
「センセーが欲しい物はないのかよ。」
「それは、君の後でね。」
「大した自信だな。
じゃあ、あれを取ってくれよ。」
そう言って左馬刻が指さしたのは煙草を模した駄菓子の箱。
「あれかい?」
確認するように銃口を向ける寂雷に頷くことで答える。
背筋を伸ばし、片手で狙いをつけるそのまなざしにぞくりと背に冷たいものが滑り落ちる。
その銃口に詰められたのはコルク玉のはずなのに。その視線の先にあるのはただの的なのに。
引き金を引くその瞬間に息が、つまる。
「っ」
軽い音をさせて、シガレットチョコの箱が棚から落ちた。
「ほい、当たりだ。」
「はい、左馬刻君。」
「あ、ああ……あんがとな、センセー」
差し出されたそれを素直に受け取る。
「どういたしまして。君はやらないのかい?」
「俺は……そうだな。
じゃあ今度は俺がセンセーの欲しいもの取ってやんよ。どれがいい?」
「ふふ。ではあれがいいな。」
そう言って寂雷が指さしたのは小さな馬のぬいぐるみ。
「……あれか?本当に?」
「難しいかな。」
「そういう意味じゃねぇよ。」
笑いながら、小さなコルクを銃口に詰めて昔のように両手で構える。ああ、やはりこんなに小さかったのか。
寂雷に倣って背筋を伸ばし、彼が欲しいと言った標的に狙いを定める。
………ぱんっ
小さな引き金を引けば、軽い破裂音と共に的が揺れる。
「あ、惜しいね。」
「ちっ」
舌打ちして、二つ目のコルクを詰めた。
再びの破裂音と共にころりとぬいぐるみが棚から落ちる。にやりと笑って屋台のおやじがぬいぐるみを拾い上げた。
「ほいよ、おかしら」
「笑ってんじゃねぇよ。」
ライフルを置いて、小さなぬいぐるみを手に取る。
何故、と問うて欲しそうなまなざしにわざと笑ってその鼻面をぐいと押し付けた。
「ありがとう、左馬刻君。」
とても大切なもののように大きな手に包まれるぬいぐるみがなんとも面映ゆい。
「邪魔したな。」
「まだ玉が残ってますぜ。」
「ん?
ほらよ、おまけだ。上手く取れよ。」
「ありがとう!」
隣で目一杯体を伸ばしていたガキの皿に残りの玉を転がして頭をくしゃりとなでる。
その元気な声にひらりと手を振って歩き出すと、隣に並ぶ寂雷に視線を向けた。
「勝手にわりぃな。」
「いや、あれでよかったと思うよ。若頭さん。」
「からかうなよ。調子狂っちまう。」
「そんなつもりはないのだけれど。」
「余計たちがわりぃや」
人出を増していく細い通りをすり抜けながら、お互い軽口を交わす。
「ああ、はぐれてしまいそうだね。」
そんな言葉と共にするりと触れた指が左馬刻の手を捉える。軽く握られたその手を、振り払うことは出来なくて。
冷たい手が、触れる自分の体温が熱い。
「子供扱いすんなよ。」
「まさか。そんなことはしないよ。」
わかっているだろう?
首を傾げ、言い聞かすように囁きかける。その言葉を、左馬刻は受け入れることしか出来ない。
寂雷を、この男を振り払うことなど出来ないのだから。
「……ちっ」
舌打ちしながら、その指を握り返す。
「……」
悔しげな、嬉しげなその表情をのぞき見て、うっそりと笑う。
左馬刻の葛藤も何もかも、寂雷にはいとおしいもので。その心の移ろいの全てを、眺め慈しみたいと思う。
そんなことを言えばまた怒られてしまうけれど。
「神社に参る前に少し腹ごしらえしとくか。」
「いいのかい?」
「一遊びしといて今更だろ。」
「確かに。」
細い路地から少しばかり広い通りに出たところで左馬刻が寂雷を振り返る。
「なんか食いたいもんあったか?
戻ってもいいし、この先にも大概のもんはそろってるぜ。」
「そうだね……左馬刻君は何が食べたいかな?」
「ん、そうさなぁ少しは腹にたまるもんがいいが。
今日はセンセーの好きなもんでいいんだぜ。」
「ありがとう。では、一つ気になっているものがあってね。」
そう言って寂雷が指さした先に見えたのは『大阪焼き』の大きな文字。
「ああ、あれか。」
「うん。あれはお好み焼きとは違うのかい?」
「いや、同じ様なもんだが。ありゃ見た方が早いな。」
寂雷の手を引いて屋台の前にくると、大判焼きのような丸いものがいくつも鉄板で焼かれていた。
ふわりと薫る小麦の焼ける匂い。プラケースに円盤を二枚乗せてソースを刷毛で一塗りすれば何とも香ばしい匂いが辺りに漂う。
「おい、二つくれや。」
「あ、おかしらさん。まいどありっ」
「ああ、待って左馬刻君。ひとつでいいよ。」
「?
こんぐらい軽いだろ。」
「他にも気になるものがあるからね。
半分こしよう。」
折角だし、いろいろ食べたいからね。。
「半分こ、って……可愛いこと言うなセンセー」
「駄目、かい?」
「まさか。
じゃ、悪いが一つで。箸だけ二膳もらってくぜ。」
「……あ、ああ。もってってくれ。」
目の前のやりとりに目をしばたたかせている屋台の親父を置き去りに、人波を避けるように路地を外れ、パックのふたを開ける。
「ふふ、熱々で美味しそうだね。
手が熱くないかい?大丈夫?」
「あ?こんくらいどうってことねぇよ。
ほら、先に一口いってみろよセンセー。」
「ん、」
差し出されたそれに顔を寄せて、パクリと一口かじり取る。伏せた目元、落ちかかる髪を押さえる仕草、小さく開いた口に覗く朱い舌。
「………」
「うん、美味しいね。……左馬刻君?」
思わずごくりと生唾を飲み込む左馬刻に、気付いて寂雷が首を傾げる。
「……あ、」
「おかしらさん!そんなところで食べてないでこっちにおいでよ!
お連れさんも一緒にさ!どうぞ!」
不意に勢いよく掛けられた声に振り向けば、屋台裏にしつらえられたテーブルの奥から、屋台のおかみさんが大仰な身振りで手を振っていた。
「……かなわねぇなぁ。」
甲高い声に毒気を抜かれて、呼ばれるままスペースの隅に二人で腰掛けた。
「さあさあ、まずは一杯。何飲むかい?」
指さした先に並ぶドリンクメニューを見やって烏龍茶を二つ頼む。
「あれ?なにかしこまってるんだい、好きなの飲んでもらっていいんだよ。」
「ありがとうございます。今日は残念ながら車で来ているもので。左馬刻君はお呼ばれしてもいいんだよ。」
「いや、俺もセンセーに付き合うさ。一人で酔っ払ってもつまらねぇしな。」
「私は楽しいけれど。」
「そりゃセンセーはな!」
「ははっ仲いいもんだね。
はいよ、烏龍茶!あと、うちの看板料理も食べてっておくれ!」
そう言って差し出されたのはモツ煮の椀と串焼きが載った皿。牛豚鶏と、それぞれタレと塩が載せられていた。
「二人で食べるならこの位軽いだろ。」
「ああ、ありがとさん。わりぃな。」
「何言ってんだい、いつも気にかけてもらってるんだ。こんなときくらいお返しさせておくれよ。
じゃ、ゆっくりしてっておくれ。」
言うだけ言ってまた屋台の方へ戻るおかみを見送って二人で肩をすくめる。
「つきあわせちまって悪いな、先生。」
「ふふ、私は楽しいよ。普段見られない君の姿もとても興味深い。」
「……そうだな。先生はそういう人だったよ。」
脱力する左馬刻の頭を優しくなでて、鶏塩串を口にする。強めの塩味と肉汁が程よい歯ごたえと共にじゅわりと口に広がる。
顔を上げれば、投光器が照らす屋台と奥へと延びる路地の暗がりが鮮やかな対比を見せて、より濃い闇がそこに浮かび上がる。
光と闇の狭間に流れゆく人の波。
ふと、周囲の音が途切れる。
「先生?」
「あ、いや。なんでもないよ。」
一通り食べ終わったゴミを片付け席を立つ。
「おかみ、こちそうさん。美味かった。」
「ああ、こっちこそいつもありがとよ!」
おかみさんの声に見送られて、また二人で人混みに流れていけば、通りの突き当たりに見上げるほどの提灯の壁が見えてきた。
シンジュクとはまた違う、街を形作る人々の祈りの形。
確か、ここは金比羅さんが御祭神だったはず。
「なかなか壮観だね。」
「ああ、せっかくだ。挨拶してこうぜ。」
二人連れだって提灯の間を通って境内に入る。溢れる人波を縫うように小さな稲荷社の前を通りいくつもの福鈴が並んでいる本殿前に並ぶ。ほどなく来た順番に、鈴からたれさがる鈴緒に寂雷が手を伸ばす。
「左馬刻君、」
振り返り、呼ばれる声に引かれるまま同じ鈴緒を手に取り、二人で一つの鈴を鳴らした。
喧噪の中、寂雷が鳴らす柏手がやけに耳に響く。
何故、こんなにも。
いつもと同じ、いつもと違う場所で。
この人と、こうしていることがこんなにも特別で。
『……ちっ らしくねぇ。』
寂雷へと向いてしまう気持ちの女々しさに舌打ちしても、この心地よさをもう手放せない。
せめてこの想いが、俺ばかりではないことを祈る。
この人にも、自分の傍らで息をつくひとときがあればいい。
それこそ、らしくない感傷だったけれど、それもまた左馬刻にとっては偽らざる心情で。
流れる人の波に揺られ流され、二人でいることを互いに楽しむ。
「ふむ、じゃがバタにもいろいろあるんだね。」
「そうだな、蒸かしただけのもあれば衣をつけて揚げたのやら、いっそ芋もちみたいなやつもあったな。
どれか食べてみるか?」
「うん、どれも美味しそうなんだけど、あれも気になるね。」
「あれ?
ああ、芋スティックか。ありゃあ芋は芋でもサツマイモだぞ。」
「大丈夫、どちらも好きだから。」
「……そういう問題じゃねぇよ。」
「分かっているよ。
じゃがバタの衣はフリッターのようなものかな。」
「というよりアメリカンドックだな。少し甘いからよ。」
ほれ、百聞は一見に如かずだ。
「左馬刻君?」
差し出された大ぶりのカップと箸を思わず受け取ってから、どこか得意げなその顔を見返す。
芋を丸ごと揚げたような大きさの塊を豪快に割って、そこにバターをひとかけら落としてあった。ふわりとかおる甘い匂い。
「気になったなら食べてみりゃいいだろ。」
「ありがとう左馬刻君。
ふぅふぅあちちっ……うん、美味しいね。」
はい、左馬刻君。
差し出されたひとかけらの芋をパクリと口にすれば、ほくほくとした芋の味と衣の甘さに、バターの塩気がちょうどいい。
何より、口を開く自分を見下ろす寂雷のまなざしがくすぐったくて。
「……うめぇな。」
「うん、そうだね。」
ここでは、自分がこの男をもてなしたいのに。気がつけばこうしてあやされて。
その手が、まなざしの心地よさが少しだけ悔しい。
目尻にさした紅を隠すようにぷいと顔を背ける左馬刻は、こうして自分をかまうことがたまらなく寂雷を満たしていることに。
『……気づいてはいないようだね。』
顔をそらす左馬刻の、柔らかく光に透ける髪に口づけたい想いを堪えながら、寂雷はくすりと笑う。
自分の足で立つことを知っている。人の上に立つことを知っているこの子を、甘やかしてしまいたいと思うのは自分のエゴだと分かっている。
自分と並び立つ姿をいとおしいと想うと同時に、ぐずぐずに甘やかして自分に依存させてしまいたいとも思ってしまう。
自分達が共に立つ未来はもはやないと知っていても。
それでも、こうして手を伸ばすことはできるから。
「センセー?」
「ふふ、口許についているよ。」
「っ!」
親指の腹で口の端をそっと拭えば、ぱっと顔に朱が走る。
「かわいいね、左馬刻君。」
「からかうなよ、ったく。」
「そんなつもりはないのだけれど。」
「あーもうほんとにたちがわりぃ!」
分かってんだろ、本当は。
自分を睨む紅い瞳に、寂雷はただ肩をすくめることで答える。
ここで説明するのも野暮と言うものだろう。
「おや、もう元に戻ってきたのかい?」
人の流れが変わり、細い路地から視界が広がって寂雷は首を傾げた。
並ぶ屋台の奥に公園の木々がのぞき、点滅する信号が歩行者天国の終わりを告げる
けれど、左馬刻はその言葉に首を振った。
「いや、ここはあそことは一区画違う。この通りを右に行けば最初の場所に戻るんだよ。
それでちょうど一回りになる。」
「なるほど、」
左馬刻の説明に寂雷が頷く。
改めて視線を巡らせば、一際高く並ぶ飾り物が見える。それは公園の木々を越える熊手の山。
「すごいね、」
素直な感嘆の言葉を少しだけ誇らしげに聞いて、左馬刻は寂雷の手を取った。
「さ、行こうぜ。」
酉の市の中でも一際明るく照らされた通りで、大小様々な飾りをつけた熊手が幾重にも折り重なるようにかけられて。
「あんなに大きな熊手もあるんだね。」
「何だよ。シンジュクだって酉の市はあるだろ。」
「そうだね。ただ、忙しさにかまけて私はあまり行ったことがなくてね。
だから、誘ってくれてありがとう。左馬刻君。」
「……おう、」
「あれ?おかしら?
事務所の分はお届けしましたが何かありましたか?」
「ああ。いや、今日はそっちじゃねぇんだ。」
法被に鉢巻き姿のオヤジに声をかけられて首を振る。それは、毎年熊手を届けてもらう組でも馴染みの男だった。
足を止めた左馬刻の後ろに立つ寂雷の姿に気付いて男は深く頭を下げる。
「あ、お連れさんですか?そりゃ失礼しました。」
「いや、気にしないでください。」
「そうだ、先生一つ買っていかねえか。
ここならものは保証するぜ。」
「嬉しいこと言ってくれるねぇおかしら。」
「うーん、どうしようか。
私が買ってもいいのかな。」
熊手の持ち手に貼られた千社札を興味深げに見ていた寂雷は、けれどと言葉を濁した。
「あぁ、まあ確かに病院が客を呼んじゃ不味いか。」
「お連れさんお医者さんかい?
熊手は運をかき集める縁起物だから、別に商売繁盛ってだけじゃないですよ。この辺なんてどうですか?」
そう言っておやじが差し出したのは正面に大きなおかめと米俵が飾られた小振りな熊手。
「なんだよ、小さくねぇか?」
「お連れさん熊手を買うのは初めてでしょう?
最初は程々のものを買って、年々大きくしていくんですよ。」
「へぇ、毎年買い変えるんですか。」
「そうですよ。神社の前に納めどころがあったでしょう。」
「ああ、なるほど。」
「先生、どうするよ?」
「そうだね、これもせっかくのご縁だ。買わせてもらおうかな。おいくらかな?」
「こいつで1万ですね。」
「こっちは?」
「1万5千で。」
「この枡飾りも熊手かい?」
「ああ、同じもんですよ。」
「飾りやすそうだし、これにしようかな。」
「おう、じゃこれで頼むぜ。」
「はいっありがとうございます。お買い上げー!」
「左馬刻君、」
「いいだろ、これくらい。
これで毎年先生が来てくれるなら安いもんだ。」
「参ったね、」
「さあ、お手を拝借!」
店員総出の手締めを受けて、枡におかめや米俵、松竹梅など縁起物を溢れんばかりに盛った枡飾りを受け取る。
「はい、おまけですよ。」
そう言って横にいたおかみが最後に稲穂と小さな大入り袋を刺してくれる。
「かわいいね。ありがとう。」
「来年もご贔屓に!」
その声に片手に掲げて店を後にする。
歩く度ひらひらと揺れる一対の稲穂に笑みがこぼれる。
「左馬刻君、」
「あぁ?」
「ありがとう。」
「……おぅ。」
「また、来年これを納めに来なくてはね。」
「うん、そうしてくれや。」
「そのときは、また案内してくれるかな?」
「当たり前だろ。むしろ俺以外の誰と来んだよ。」
「またそんなかわいいことを……」
「あ?」
「ふふ、なんでもないよ。」
本当に、左馬刻にとってはなんてことのないことなのだろう。
相手が自分であっても変わらないそれが、寂雷にとってはたまらなくくすぐったくて。
「……困ったね。」
「何がだ?」
「何でもないよ。……ああ、一二三君と独歩君におみやげを買いたいのだけど。」
「なににするんだ?」
「あれにしようかと。」
そういって寂雷が指さした先には、ピカチュウの形を模した人形焼きの屋台。
「……あれ、か?」
「うん。かわいいだろう。
少し待っていてくれるかな。」
少なくとも三十路間近の男二人に買っていくものではないと思うが、良いものを見つけたとご機嫌な寂雷に、左馬刻は賢く口を閉ざした。
「あー、なら俺はちょっと公園で一服してくるわ。
買ったら来てくれや。」
「……左馬刻君。」
「堅いこと言ってくれるなよ。
これでも我慢してたんだぜ。」
「仕方ないね。
買ったらすぐに行くから、待っていて。」
「ああ。熊手持っててやろうか?」
「ありがとう。お願いするよ。」
寂雷から熊手を受け取って、左馬刻は人波を外れて屋台の脇を抜け、ガードレールをまたいで人気のない公園に入った。
喧噪から一本外れただけなのにここでは全ての音が遠い。園内にはそれなりに人もいるだろうが、この闇に紛れてしかとは見えなかった。
まばらな街灯も繁る木々に埋もれてぼんやりとした明かりを落とすのみ。
太い幹に半ば隠れるようにもたれて懐から煙草の箱を取り出し、一本口に咥える。
かちり、と一瞬灯る炎に映る自分の指先。
深くゆっくりと燻らせて、闇に煙を溶かすように吐き出した。
顔を上げれば、木々の隙間に見える屋台の明かり。形を成さぬ喧噪の音。
手を伸ばせば届くほど近く、けれど遠いそれらが左馬刻の纏う闇を更に色濃く沈めていた。
「……、」
片手に持つ熊手を軽く掲げて、ふぅと煙を吹きかける。
らしくないと、分かっていても。
じゃらじゃらと賑やかなそれに左馬刻もまた願いをかける。
願わくば。あの人に幸あれと。
「……ちっ」
そう願う気持ちに嘘はない。
けれど、それだけでもなくて。
「きっちり返しに来いよ。先生。」
儚い縁をわずかでもたぐり寄せられるなら。
形あるものなど信じないけれど。何もない、自分たちだから、せめて。
「あんたは、約束は守ってくれるだろう……」
そんな、自分の女々しさに反吐が出る。
それでも、願う気持ちも伸ばす手も左馬刻の中では真実だった。
もう一度、ゆっくりと煙を燻らせる。
情けなさも葛藤も、あの人に見せるつもりはない。
あの人の前では、常に揺るぎない自分でありたい。
「でなきゃ、あんたは甘えてくれないだろう。」
小さな呟きに重なる声。
「……左馬刻君?」
闇を手繰る呼び声に振り返れば、見慣れた長身のシルエットが小首を傾げてこちらを見ていた。
「先生、こっちだ。」
ひらひらと煙草を持つ手を振れば、その火を見つけたのかまっすぐに歩み寄ってくる。
「お待たせしてしまったね。」
「いや、んなこともねぇが……なぁ。」
「なんだい?」
「その……手に持ってるもんはなんだ?」
「チョコバナナだよ。今はいろんな色があるんだね。」
はい、左馬刻君の分だよ。
そう言って差し出された水色のチョコバナナを、煙草の火を落として受け取る。
寂雷の手には白いチョコバナナ。
「ピカチュウ焼きの隣に売っててね。じゃんけんで勝ったらおまけしてくれるというのでやってみたんだ。」
「で、勝ったのか?」
「うん、得してしまったね。」
「こんなもんガキの頃以来だぜ。」
昔々、合歓と分け合った一つ。まるまる一つ食べさせたかったのに、差し出したらあいつは逆に怒り出したっけか。
思い出のほろ苦さを飲み下して、寂雷がくれたそれをぱくりとかじる。
「甘っ」
まぶされたスプレーチョコをこぼさぬように舌で舐めとる。
「うん、なかなか美味しいものだね。」
「単なるチョコとバナナだろ。」
「そうなのだけど……これは色によって味が違うのかな?」
「ん?
食べてみるか?」
自分が一口かじったそれを寂雷に差し出せば、ふわりと笑って顔を寄せた。
落ち掛かる髪を片手で押さえて、その形良い唇が俺のモノを咥えて齧りとる。ぺろりと唇をなぞる赤い舌に、ぞくりと身の内に震えが走る。それはたまらなく甘く、体の奥を疼かせて。
「ん。同じ、かな?
左馬刻君も食べてみるかい?」
差し出された白いそれを、ぱくりと咥えてみせれば目線の先で寂雷も笑みが深める。
口に残る甘ったるいそれを飲み下して、自分を見つめる眼差しに唇を寄せた。
違うことなく重なる唇。甘ったるいチョコと、やけに青いバナナの味が互いの舌で交わる。
「……これ以上は、駄目だよ。」
「誰も見やしねぇよ。」
「それでも、だよ。ここは君の街だから。」
「……ちっ」
盛大に舌打ちすると、左馬刻は残ったチョコバナナを口に放り込んで手近なゴミ箱に割り箸を放り込んだ。
空いた手で、寂雷の手を握り込む。
「なら、見えないとこならいいんだよな。」
にらみ付けるようにそんなことを口にすれば、寂雷は深い深い笑みを浮かべる。
出来の悪い生徒を導く教師のような、愚かな信者を説き伏せる聖職者のような、慈愛に満ちたその笑みが纏う闇にこそ、飲み込まれてしまいたい。
それはさながら、底の見えない淵を覗き込むのにも似て。
危険と知りつつ吸い込まれてしまいそうになる。
「どこに連れて行ってくれるのかな?」
「イイところ。」
笑いあい、連れだって歩く二人は軽やかに夜の街の狭間へと消えていった。