遥か遠くの一等星六人いつも一緒のおれたちは、少しずつズレを感じはじめていた。高校二年生になった今、その違いは決定的になっている。
おれたちだけにしか区別のつかなかった特徴の差違が目に見えてでてきたのだ。少しずつ出てきた『個性』という芽は成長し、それぞれ違う色の蕾をつけた。
おれはその変化を嫌がるわけでもなく、受け入れられるわけでもなく、ただただどうしたらいいかわからなかった。
他の兄弟たちは同じように戸惑ってはいたが、諦めをつけたのか、もがいているのか。尖がってみたり真面目ぶってみたりとそれぞれ模索しているようだった。
演劇部に入ったカラ松の『個性』も模索の内の一つなのか、それとも自身が望んだ変化なのか。
わからなかった。とにかく毎日部活があって俺や他の兄弟たちとは帰る時間がいつも合わなくて、その距離がもどかしくて仕方がなかった。
カラ松は今やとても遠い。
おれの中に芽吹いたみんなと違うものの内の一つは、このカラ松に恋をしたことだ。
最初はちくりとした変化だった。きっかけも覚えていない。だけれど、着実に育っているそれを、変化と同じくしてただ持て余していた。
カラ松と過ごす時間が少なければ寂しいし、同じ時間を共有できれば嬉しい。二人きりなら殊更だ。
単純すぎるその想いは他の兄弟のものへと異なる、カラ松だけへの特別なものだった。
まるでキラキラとした宝物のようなそれを大事に抱くことは出来るけれど、それからどうしたら良いかがわからない。
例えばそれが兄弟でもなく、男同士でもない、ただの同じ高校に通う男女なら『告白』という手段が用意されている。恒例の年間行事にかこつけてしばし盛り上がるその浮ついた話を、クラスメイトが興奮気味にウワサしているのをよく耳にした。
女子が読んでるような少女漫画や純愛をテーマにした流行りの映画になぞらえて、紆余曲折を経て恋人同士になる。そんなハッピーエンドを期待したごっこ遊び。
だがそんなものはおれには初めから用意されていない。
だって、どうしたって、報われるわけない。
八方ふさがりな執着を包み隠して、毎日のくだらない日々を単調にこなすことしかできなかった。
六月。高校二年生の考査が終わり解放感と、休み前の高揚感に浮足立つクラスメイトを他所におそ松の元へ他の兄弟たちが連れ立って集まってきた。
今日はカラ松の部活もテスト最終日で休みだ。久しぶりに一緒に帰れる。なんて期待したが、『先に帰ってていいよ』、と言われたのだ。
「えーなんで?カラ松兄ちゃんは今日部活休みでしょ?一緒に帰ろ?」
「そーだよ。早く帰って昼飯食おうぜ」
トド松とおそ松が口々にカラ松を責めた。カラ松はえっと、その、とハッキリしない声で眉根を困ったように寄せていた。
おれはその様子を見て、あ、とピンときた。カラ松がなんで言い出せないのか。思い当たることが一つだけ。
そうなればと、瞬時に思考を巡らせて、他の兄弟を出し抜く算段を考え実行にうつす。
「まーまーおそ松兄さん、おれらは帰ろうよ。そんでさ、カラ松の分も先に食べちゃお」
にんまりと意地悪く笑えばそれに乗っかってくるのがわが愚兄おそ松だ。鏡のようにそっくりにそうだなぁと笑い返してくる。その顔は凶悪かつ残忍。
ああ、きっとおれもこんな顔で笑ったんだろうなと思うと内心いい気分はしない。カラ松は母さんのご飯が食べられないことに更に泣きそうな顔になりながらそんなぁ、と情けない顔をつくる。
おれはそんなカラ松を揶揄うように近づいて、耳元でぼそりと囁いた。
「大丈夫だから。おれに任せて、ちょっとだけ待ってて」
カラ松は驚いたようにおれを見る。何事かを言う前に、他の兄弟たちの背中を押して、さっさと行こうよと戸惑うカラ松を置いてその場を去った。トド松だけが「そんなの駄目だよ」と口だけで嗜めたが、本気で止める気配はない。
なにしろ食べ盛りの、全員腹を空かせた高校生だ。少しでも自分に取り分が多くいくのなら情け容赦なく他の兄弟を蹴落とす覚悟はいつだってできている。
しかも今日はテスト最終日。うっとうしいテスト週間から解放された日だ。サッサと学校から帰りたい。
靴箱まで兄弟を連れて行く。靴を履き替え昇降口を出たところで、タイミングを見計らって携帯を取り出した。
あ、ごめん、と一言目立つように声を上げた。
「今度は一松かよぉ、何?」
「ごめんごめん、友達からさ、帰りに遊びに行こうって誘われてたの忘れてたわ」
さも今連絡が入ったかのように携帯を触る。毎日の食器洗いと休日の買い物から始まり、その他文字通り死ぬほどお手伝いをしてようやく買ってもらった携帯だ。
あはは、と笑ってみせるとおそ松は少し不機嫌になった。
「ふーん。じゃあおまえの分も食っちまうからな」
「良いよ。好きにしたら?」
「……わかったよ。夕飯までには帰って来いよ」
何か勘付いた様だったが、面倒くさくなったのか予想よりもあっさりと解放してくれた。少し前まではこうやって誰かが和を乱そうとすると、しつこく食い下がってくるおそ松だったが、最近はこうして気まぐれに突き放してくる。
今日もそういう気分の時だったのかもしれない。なんにせよそういう時のおそ松は不機嫌で、面倒くさそうな表情を隠そうとしない。わざとどうでもいいと思っているような、そんな黒い感情が見え隠れする。
それが良くない兆候だということはわかっていた。だけどおれはそれよりも、待たせているカラ松の方が気がかりだった。
遠くなる兄弟を確認し、素早く靴箱から上履きを取り出して地面にたたきつけた。靴を履き替える時間すら惜しい。うまくはいらない左足は踵を潰して走り出した。
戻るのはカラ松がいるクラスだ。
「ごめん!」
息を切らしながら扉を開けるとカラ松は自分の席にちょこんと座っていた。鞄を机へと置いて、全力疾走で戻ってきたおれを心配そうな顔で見たあと、少しだけ笑った。
「いいよ、一松。ごめん、おそ松達を先に帰してくれたんでしょ」
「いや、全っ然、気にしないで。それよりさ、いつものアレでしょ?どこでやんの?」
「えっと、今日は二棟の屋上使っていいって。吹奏楽が使うから今日は開けてあるんだって」
「そっか。じゃあさっさと済ませちゃおう。で、それからなんか食べに行こうよ」
テストで昼に帰ることができても、学校に残る生徒はいる。
例えば野球部や吹奏楽部をはじめとした練習熱心な部活がそうだ。弁当を持参したり、近くのコンビニまで買いに行ったり、思い思いに昼ご飯を済ませて午後からは部活へと打ち込む。
カラ松の所属する演劇部はそこまで熱心ではではないものの、部活がない日でも各自で必ず筋トレと発声練習をしてから帰ることが義務付けられていた。強制力はないし、サボる部員もいるだろうが、カラ松は真面目にこなしていた。いつ役がまわってきても良いようにと。
場所こそ決められていないが、それなりに大声をだすので自然と限られてくる。
大抵は体育館のグランド側のベランダか、別棟の校舎同士を結ぶ渡り廊下。
しかし、今日は屋上も使用許可が下りている。
屋上は基本的に開放禁止で施錠してあるが、たまに吹奏楽がパート練習で使ったりするときに演劇部も使う許可が出るらしい。
そんなことを喋りながら屋上へと上がると、時間も少し遅くなったせいか、他の生徒の姿はなかった。
「吹部が来る前に先に筋トレしとく」
急いで腹筋に取り掛かる。腹筋が終われば次は背筋。あっという間に筋トレを終わらせたカラ松が立ち上がる。
そして、腕を後ろに組み両足を肩幅に広げる。すうっと大きく息を吸い込んだ。
————あ、え、い、う、え、お、あ、お。か、け、き、く、け、こ、か、こ。
独特の調子をつけて、大きく口を開けたカラ松がグランドに向かって声を出す。澄み切った空気が包む青空の下で、心地の良い声が腹の底に響いてくる。
おれはそんなカラ松の声を聴きながら、ああ、やっぱり良い声だな、なんて思う。
カラ松は演劇部以外の人前で発声練習をするのを嫌がった。
他の部員もそうらしいが、よくこうやって練習をしていると他の生徒にからかわれて真似されることが多いらしい。
だからなるべく誰もいないような場所で練習するのだと言っていた。
「一松にならと良いよ」と見せてくれたのはちょっと前のことだ。
俺にだけ許された特別な秘密。
他の兄弟だってカラ松が真面目にやっているのは知っているのだから、真面目に伝えれば揶揄ったりしないと思う。でも、それを伝えるとこの二人きりの時間はなくなってしまうかもしれない。ちりりと胸が焦げ付くような嫉妬が、俺を苛む。
何をするわけでもない、特別でなく穏やかに、ただ二人でいられればそれで良い。
ただそれだけでいいはずなのに、濁ったとめどない独占欲が浮き上がり、それだけで良いのかと問いかけてくる。
一言ずつ区切る練習方法が終わると、カラ松は息を大きく吐き、ん、と喉の調子を整える。
自分の持てる大きな声を、腹からだすこと。それが発声練習の最後の仕上げだ。
すぅ、とカラ松が息を吸う。肩幅に広がった足が踏ん張って、最近俯きがちの背筋がピンと伸びる。
カラ松の声が屋上中に響く。青い空に吸い込まれていく、しっかりと伸びのある声。
おれはそれを聴くのが一等好きだった。
「終わったよ、一松」
「それじゃ、行こうか」
「うん。待っててくれてありがとう」
扉に手をかけようとしたとき、カラ松がえっと、と続けた。指を胸の前でいじって、もじもじと言いにくそうにして、言葉を選んでいるようだった。まだ何か言いたいことがあるのかな。「どうしたの」と問いかけた。
「一松は格好いいね」
「……へ?」
「なんかさ、今日だってボクをおそ松たちからスマートに遠ざけたりさ。最近、音楽とか、格好とか、そういうのに気を使ってておしゃれだし。……ごめん、変なこと言って」
困ったようにはは、と頬を赤くして小さくカラ松が笑う。
俺は理解しきれずに目をしぱしぱさせた。
格好いい。俺が。
先ほどゴポリと浮き上がった欲がちらついて、頭の中に星が瞬いた気がした。
きらきらとしたそれは、俺の中で宝物のように大事にしまっていたカラ松への想いだ。それがどうして今こんなにも溢れてきているのか。
カラ松の言葉一つで簡単に制御を失いつつある何かが、衝動が、込み上げる。
好きな人に格好いいと言われて、平静でいられる奴がいるのか。やばい。なんか、脳みそが変な回路に繋がったかもしれない。
「……本当に、そう思う?」
「?うん。よくわかんないけど、モテ要素?っていうのかな。女子はエスコートがうまい人と付き合いたいって言ってたし、今日の一松はそういうのが出来てたんじゃない?だから」
「付き合いたい?」
「えっと、一松?どうしたの?」
変な回路に繋がった俺は、言葉尻一つ捉えて動揺していた。顔が赤くなって、湯気がでそうなくらいのぼせあがってしまった。心臓がドキドキして、今にも破裂しそうで。思わず顔を手で覆い隠し、その場でうずくまる。
心配したカラ松が屈んでおれの手を掴み、いちまつ、と覗き込もうとしたみたいだった。
あ、可愛いな。そういうおれを見てくれようとするところ、好きなんだよなぁ。
「おれ、カラ松のことが好き」
うずくまったまま、顔を見ることもできずに俺は熱に浮かされたまま思いつく感情を口に出してしまった。情けなく、体が震えだした。とんでもないことを言っているのはわかるのに、堰を切った想いは俺の自制とは裏腹にさらりと口からでて行ってしまった。
「どうしたの、一松」
カラ松が掴んでいた手を離そうとする。反射的にぎゅっと手を握り返していた。
その指が、手が、震える。続けざまにカラ松、と呼んだ声も震えていた。顔が見られない。
「な、んでもない」
情けなくでた声はうわずっていた。
あ。やっちゃった。何言ってるんだおれ。そこで口から出た言葉の意味を冷静に理解して、サッと血の気が引いた。やばい。これでおしまい。人生終了。明日から亡骸のような時間を過ごさなくちゃいけない。
なんで言っちゃったんだ。はいはい、来世に逝って、どうぞ。ほんとう、バカだな、おれ——。
「ボクも一松のこと、好きだよ」
遠くで蝉の声が喚いている。これは夢か。幻か。カラ松、お前は神様なのか。
「……弟だもん。当たり前だよ」
あー、そういう。なるほど。パッと手を放す。
「だっよねぇ?!あはははごめんごめん、テスト明け?だから?なんか頭ハイになっちゃって。誰にでもスキーとかアイラブユー!とか伝えたくなるときってあるよね?そういうのない?」
「えっと……あんまり、ない、かな」
「あははははそうだよね!」
「でも、いいね。ボクも真似してみようかな?」
「へー良いじゃん良いじゃんやってみればぁ!?」
自分でも何を言っているかわからなかった。とにかく誤魔化すのに必死だった。ああ、死にたい。消えたい。
カラ松が立ち上がる。膝についたホコリを払う。
でも、と少しだけ安堵する。おれは弟なら、カラ松の好きをもらえるんだ。
それはおれの思い描いたものとは遥か遠く違っていたけれど、確かに掌に掴むことができるものだった。
これでいい。これがいい。反射的に掴んでしまった手だって、放すことができた。大丈夫。大丈夫。
深く息を吸い込む。すぅっと空気の通る音がした。そのまま静かに飲み込んで、二度と口には出さないと固く誓った。