魚心あれど 一人で夕食を終え、一人で湯浴みも済ませた川端が歩く度にキュ、キュと廊下に敷かれた目の詰まった絨毯が僅かに悲鳴を上げている。日常の大半を彼と共に過ごす横光は今日に限って川端の隣、ひいてはこの帝國図書館どこを探してもあの襟巻きの柄でさえ見つけることは出来ない。
誘拐されただとかいう話ではなく、横光は今朝起きてきた川端に「町での飲みに誘われたから夕食から朝までは居ない」「だから生憎だが、今日は一人で眠ってくれ」と告げたのである。
ほんの少しの酒でたちまち睡魔に襲われる川端とは違い横光は、量を弁えれば楽しく呑む事が出来る人間であった。きっと行ったことのない町での酒呑みも、師友ならば新しい発見をする良い機会に違いないと手を振って送り出したのが数時間前。
不眠症の改善案としての添い寝を横光に強請った時からずっと、川端は今でも独り寝が出来ないでいた。
規則正しい横光の眠るのに合わせていたせいで、まだ日付も変わっていないのに川端の脳味噌を真似た洋墨の塊は眠いと人間じみた欲求を訴える。肺が酸素を求めるままにくぁ、と欠伸を溢し、そのままの足で扉をくぐり部屋へと辿り着く。見慣れた部屋の片隅に置かれた衣紋掛けに羽織を委ね、そのまま部屋に敷かれた布団に身体を、猫のように滑り込ませる。僅かに湿気った布団への不快は、夏の盛りを感じさせない程に冷たく涼しい寝具(少しでも川端が快適に眠れるように横光が態々買い揃えるのだ)の前に弾け飛ぶ。
ヒヤリと冷たいまくらカバーが頬を優しく撫ぜ、同じ素材らしい敷布団・掛け布団カバーが浴衣の下から伸びる裸の素足を擽って。一頻り清涼感を満喫した後川端は、再び襲った眠気の手が差し出すままに意識を手渡した。
はて、自分は部屋を出る前布団なぞ敷いていただろうか。
そんな若干の疑問を残しながら。
酒と煙草、それと少しばかりの喧騒を服に染み込ませ、既に酔い潰れた面子の介抱を終えた横光が自室へと帰ったのはとう日付が変わり、辺りが白み始めた頃だった。扉を開けてすぐに横光は押し入れに仕舞い忘れた布団がこんもりと人の形の丸みを帯びていることに驚き、そして衣紋掛けに見慣れた羽織が掛かったままであることに気付いて声を掛ける。
「……川端?」
返事の代わりに打たれた寝返りの最中、ふにゃふにゃと喃語の様な音が布団のあわいから横光の耳に転がり込んだ。起こさないようにと忍び足で土間から畳へと上がると恐る恐る、といった具合に横光の手は布団の端を掴んで持ち上げる。
思った通り(そうでないと困るのだが)、侵入者は彼の盟友であった。閉じた瞼越しに明るくなったことが分かったらしく、眉間に皺を寄せるので光の通り道を身体で塞いでやれば、すぐに表情を緩ませて再び静かに眠る。
想像していなかったわけではない。しかし二人の部屋の寝具は同じなのだから、自室でない部屋で眠る道理はないと横光は心のどこかで思っていた。だからきっと、扉を開けても居ないだろうと。
けれども確かに友は居た。こうしてかんばせに眠りという静かな幸福を湛えながら一人、横光を待っていたのだ。横光が川端を想う様にきっと。それほどまでに川端は、
「…………貴方にとっての帰る場所は、ここなのか」
言葉にした途端、心からドス黒い欲望が滲み出るのが分かった。髪結い紐と羽織を雑に外した横光はそのままの姿で布団に潜り込むと先客の身体を、いつもそうするように抱きしめ、頭を撫ぜる。
こうして片割れへの想いを掌に込めて繰り返せば。感情をすっかり返してしまえばいつか、元の自分に戻れはしないだろうか。そんな事を考えながら。
名も知らぬ鳥がピチチと囀る。親友への敬慕と恋慕に悶える横光の心を窓越しに嘲笑っていた。