レンタル彼氏7 夕方からの仕事前、魏嬰の時間を二時間買って『いつもの』喫茶店を訪れた。
もうマスターともすっかり顔馴染みになってしまい、注文をする前に「いつもので良いかい?」などと訊かれるようになっていた。
この喫茶店のコーヒーはサイフォン式で、香りが高いのが気に入っている。
今日の魏嬰はアイスのカフェオレとチョコチップのスコーンを頼んでいた。
彼と出会ってもう大分日が経つ。キャストと客という関係でなければこの胸に溜め込んでいる想いを発露しているところかも知れないが、如何せんそういう訳にもいかない。
リアルに恋をしてしまう所謂『リアコ』だと知られてしまったら、恐らくは敬遠されてしまうだろう。何故なら、もし自分が魏嬰の立場で想いを告げられたら私もそうするからだ。モデルという職業上、リアコを相手にするのは厄介だと私は既にこの身を以て知っている。
何でもない振りをして魏嬰の話に相槌を打っていると、彼は珍しくジーンズのポケットから携帯を取り出した。
普段擬似デートをしている際、魏嬰は殆ど携帯を触らない。
「あ、」
「どうした?」
スコーンの最後の欠片を咀嚼しながら携帯をいじり、私に向けて肩を竦めて見せた。
「藍湛の後に入ってたロングの客、キャンセルになったって連絡きた」
あーあ、藍湛が今日仕事じゃなかったら良かったのに、などと云う魏嬰は罪深い。
商売文句だろうと、そんなことを云われてしまったら傾倒するしかないではないか。
ふむ、と口許に手を遣ってから、私は魏嬰を見詰めてひとつの提案を投げた。
「ついてくるか?」
「……? どこへ?」
キョトンと首を傾ける魏嬰に、仕事場に、と短く答える。
「え、それは駄目だろう? 一般人だぞ、俺は」
流石にそこまで厚かましくはなれないと手を顔の前でパタパタさせる魏嬰に、私は何食わぬ顔で返す。
「モデル志望だと云うから連れて来たとでも云えば大丈夫だろう」
今日の撮影は付き合いの長いカメラマンとの仕事だからと付け足したら、魏嬰はうーんと腕を組んで唸った。
「そりゃあまあ、一応藍忘機の古参ファンとしては撮影現場を見たくないと云ったら嘘になるけど……」
本当に大丈夫なのか? と窺われ、心配なら今確認するが、と携帯を取り出す。
「え、いや、待っ、」
わざわざ良いって、と伸ばしてくる魏嬰の手を空いている手で制し、携帯を操作する。
耳に当てて数コール。もしもし、と出た声に今日モデル志望の知り合いを連れて行きたいのだがと伝えたら、軽く承諾を得られた。
「良い、と」
「ま、じで?」
「きっと日頃の行いだな」
仕事には真面目な姿勢で向き合ってきているから、私がわざわざ「モデル志望の知り合い」だと云ったらそれなりの見目をした人間を連れて来ると思ってくれているのだろう。
「魏嬰さえ良ければリスケになった時間延長するが」
どうだ、と訊く私に魏嬰は「あー、うーん」と視線を斜め天井に向けて頭を掻いてから、背を丸めて私を下から見上げるように見詰めてきた。
「藍湛の迷惑にならないなら」
ついて行ってみたい、と続けられた台詞に私はじゃあ店に連絡を取ってくれと魏嬰に頼んだ。
延長の連絡はキャストがすることになっているのだ。そしてその分の料金はその日に直接キャストへ渡すのが原則。
今度は魏嬰が携帯を耳に当ててぼそぼそと喋る番。
携帯を下ろした魏嬰は、親指と人差し指で丸を作って私に微笑んだ。
「今日ラストまで藍湛と居て良いってさ」
その言葉に胸の奥でひっそりと心を浮付かせる。
「なら、そろそろ行こう」
「ん、了解」
頷いて、魏嬰は残りのカフェオレを飲み干すと軽快に立ち上がった。
車より電車の方が時間通りに動けるから、私は基本仕事場へは電車で移動する。
そのことはとうに知っている魏嬰だったから、私から小銭を受け取って切符を買った。
交通費も含めて諸経費は全て客持ちだから、電車賃もICカードではなく切符を使うのだ。
電車の中で、魏嬰は少しだけそわそわした素振りで車窓の向こうを眺めていた。
「何か緊張してきた……」
苦笑混じりに呟く魏嬰が可愛いと思ってしまうのは欲目だけではないと思う。
電車を降りて十五分程歩いた所にあるビルに入る。
エレベーターに乗ると、魏嬰が軽く私のシャツの背を摘んだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「今更何を」
問題ないと私はほんの僅かにだけ口許を緩めた。
エレベーターから出て、廊下にちらほらと点在しているスタッフに「おはようございます」と挨拶をしていく。
連れが居ることに全員が全員表情に驚きを滲ませていた。
「藍湛……本当に……」
「大丈夫だ」
そんな風に縮こまらなくても良いと目を細めて控え室に入る。
カメラマンからメイクや衣装担当の馴染みの顔には話が伝わっていたようで、控え室の中に居たスタッフは驚くより興味津々といった様子で魏嬰を上から下まで見回していた。
「どんな子が来るのかと思ったけど、流石藍忘機がわざわざ連れて来たいと云った子ねぇ」
スタイル良し、私服のセンスも悪くない。何より顔立ちが良いと好評価を出すメイク担当に魏嬰はいつもの人懐っこさで、有難うございますと愛想を振り撒いた。
私が支度をしている間、魏嬰は部屋の隅で私が飾られていく様子をじぃと見ていた。
鏡越しに見えるその表情がいやに真面目で、何となく面白かった。
部屋の戸がコンコンと鳴って、細く開けた隙間からスタッフの顔が覗いた。
「準備出来ましたか?」
「あぁ」
「じゃあスタジオに」
「判りました。魏嬰、」
「え、あ、あぁ……」
視線で魏嬰を招き、私は控え室からスタジオへと足を運んだ。
スタジオに入ると、カメラマンが私を見て手を上げ、次に私の後ろについてきた魏嬰を見る。
「電話で云っていた子はその子?」
「はい」
「ちょっと二人並んで」
「魏嬰」
「あ、あぁ……」
ひょこっと私の隣に並んだ魏嬰と私をまじまじ眺めて、カメラマンは破顔した。
「悪くないね」
まぁ撮影がどんなものか見て行くと良いよ、とカメラマンは魏嬰に笑いかけた。
「魏嬰はあそこに」
部屋の隅を指差せば、判ったと頷く魏嬰。
示した場所まで足取りを弾ませて、壁に背を預けた魏嬰は背中で手を組み私の撮影姿を真剣な顔で見ていた。
休憩や衣装替えも含めて撮影が終わったのは三時間後。
「魏嬰、初めて見る現場はどうだ?」
「いや、何か、凄い……藍忘機が居た」
「……云っている意味が判り兼ねるが」
「や、だって、雑誌の中の藍忘機が。目の前で、写真撮られてるんだぞ? ただのファンだった俺が見て、感動しない訳がない」
ただ凄いとしか云えないと感嘆の溜息を零す魏嬰に、連れて来て良かったと胸を撫で下ろす。
「藍忘機、この後の予定は?」
ぽんと背中に投げられたカメラマンの声に振り向き、今日はここだけですという私の返答に、カメラマンはじゃあと首を伸ばして魏嬰に視線を向けた。
「折角だからツーショット撮ろうか」
「え、は、ツーショット……?」
どういう意味だ? と私を見る魏嬰に、そのままの意味だろうと返す。
「服のサイズもさして変わらなそうだし、適当に藍忘機の衣装を見繕ってもらっておいで」
「だ、そうだ」
「いや、藍湛、ついて来てくれないのか?」
「ついて行って欲しいのか?」
「当たり前だろうっ? イレギュラーには弱くない方だけど、流石にこれは刺激が強い」
頼むよと袖を引かれたら聞かない訳にはいかない。
じゃあ一緒に、とスタジオを出て私は魏嬰と控え室に戻った。
メイクと衣装担当に事情をすれば、それぞれ「待ってました」と云わんばかりの顔で魏嬰を『モデルのたまご』に仕立て上げた。
そうしてスタジオにまた足を運んでカメラマンと対峙する。
「これはオフショットだから気楽にね」
カメラマンの声に、気楽にと云われても……と苦く笑う魏嬰。
「せめてポージングの指示はあげてください」
助け舟を出してやれば、魏嬰は見るからにホッとした様子で私の靴の爪先にそっと自分の爪先を当ててきた。