レンタル彼氏8「うぁー、疲れた……っ!」
急遽行われた短時間の撮影を終え、私服姿に戻った魏嬰はビルを出るなり大きく体を伸ばして言葉通り疲れきった声を出した。
「改めて藍忘機の凄さを知った」
「どういう意味だ?」
「そのまんま。ちょーっと撮影してもらっただけでこんなに疲れるのに、お前はこの何倍も掛けて撮影してもらって、インタビューなんかの仕事もこなして……って。よく俺に構っている時間があるな、と」
「その云い方は、少し好かない」
「へ?」
「私は、魏嬰に会いたいと思った会っているだけだ。構っている、と云い方は違う」
「……藍湛って、俺にゾッコン?」
「…………」
「ちょ、黙るなよ」
「不測の事態に付き合わせてしまった詫びではないが、夕飯でもどうだ」
まだ時間はあるだろう、と話題を変えれば、魏嬰はそれ以上何も云わずに「そうしたら、甘えようかな」と表情を明るくした。
タクシーを呼んで向かったのは一見お断り、という高級小料理屋が並ぶ一角だった。
魏嬰がそれを知らない訳もなく、これまた敷居の高い所へ……と肩を揺らした。
大通りでタクシーを降り、急勾配の小路を歩く。
入り組んだ先にあるその店の前で、見慣れた姿を見付けた私は思わず忙しなく瞬いてしまった。
「おや? 忘機じゃないか」
先に声を発したのは相手の方。
「兄上、どうしてここに?」
「それは私からの質問でもあるね」
温和な笑みを浮かべた男——国内では知名度の高い有名俳優藍曦臣は私の兄だ。
そんな兄と首を傾げ合っていたら、隣に居た魏無羨が私より何倍も驚いた声で誰かの名前を叫んだ。
「江澄っ?」
「魏、無羨……」
名前を呼び合った、ということは知り合いなのだろう。
よく見れば兄の後ろに隠れるよう一人の男が立っていた。
「江澄、何でお前が藍曦臣と一緒に居るんだっ?」
「そっくりそのまま返してやろう。どうしてお前が、藍忘機と一緒に居るんだ?」
「それは……かくかくしかじか理由があってだな……」
「私だって同じだ……」
苦い顔をし合う魏嬰と江澄と呼ばれた男はふいと視線を左右別方向へ流した。
「君たちは知り合いなのかな?」
兄の問い掛けに、江澄が口篭る。
「知り合いと云うか、何と云うか……」
語尾を濁す江澄に魏嬰がむくれた横顔で目を細める。
「別に隠すことないだろ江澄」
親戚みたいなものです、と魏嬰が云えば、兄と私は「ほう」と短く息を吐いた。
「藍ほ……藍曦臣。店を変えませんか」
「どうして? 知り合いなのだったら四人で食事をするでも……」
にこやかな兄の言葉を遮って魏嬰が私の腕を引く。
「藍湛、俺たちこそ場所を変えよう」
「私は構わないが……」
魏嬰にそう返してから、兄に視線を遣る。
無言で交わした言葉は「お互い別の店にしようか」という結論。
「江澄の気が進まないのなら今夜はやめておこうか」
「魏嬰が別の所に行きたいのだったら、そうしよう」
互いの連れにそう告げれば、そうしてくれ、と魏嬰並びに江澄は大きく頷いた。
「では兄上、失礼します」
「あぁ。楽しんでおいで」
「兄上たちも」
僅かに頭を下げれば、兄は相変わらずの穏やかな笑みを浮かべたまま江澄の肩に手を置いて踵を返して行った。
反対方向へ足を向けた私たちだから、次に出会すことはないだろう。
「……何故嫌がった?」
歩きながら魏嬰に問えば、魏嬰は頭の後ろで手を組み、大したことじゃないけどと肩を竦めた。
「江澄と居ると大人しく出来ない」
「どういう意味だ?」
「……口も態度も悪くなるってこと」
俺も江澄も互いの連れ添いにそんな格好悪いところなど見せたくないと言ちる魏嬰には私の知らない顔がまだあるようだ。
それは少々面白くない。
しかし「親戚のような」と云っていたのだから、それも仕方のないことだろうとも思った。
私も兄の前と魏嬰との前では対応が変わらないでもない。身内との遣り取りを見せるのは確かにまだ早いような気もする。
それに、魏嬰と江澄が互いの連れ添いに驚いていたことを鑑みるに、互いに私や兄上との関係性を暴露していないということだろう。それが明かされるのは私にとっても少し不都合だ。
まさか男の時間を買っている、などということは実の兄へもやや明かしづらい。
そうして私たちは別の店の暖簾をくぐった。
食事に満足したらしい魏嬰は、先程の邂逅など忘れたようににこにこしている。
二十三時には別れられるように時間を確かめながら会話を弾ませ、またタクシーでターミナル駅まで魏嬰を送る。
その車中で私は追加料金を魏嬰に渡した。
魏嬰はそれを、ズボンのポケットから取り出したマネークリップに挟んでまたポケットの中へと戻す。
薄闇の中でもそのマネークリップは以前私が贈ったものだったのが判り、胸の裡ではひっそりと嬉しさが込み上げた。
「藍湛、今日は貴重な体験させてくれて有難うな」
楽しかったと肩を揺らす魏嬰に、それなら良かったと微かな笑みを浮かべる。
「あー、ホント、藍忘機はカッコイイわ」
「私は?」
「へ?」
「モデルの藍忘機ではなく、藍湛という私は?」
つい独占欲の端を見せてしまったことに舌先を噛みつつも、前言をなかったことには出来ず口を引き結ぶ。
すると魏嬰は私の膝をペシペシと叩きながら笑った。
「藍湛の方が当然カッコイイよ」
だって藍忘機は外見の魅力しか判らないけど、藍湛は中身のカッコ良さだって見せてくれるから、と。例えそれがリップサービスだったとしても、そう続けられた台詞が嬉しくて胸の奥がポッと温かくなった。
「魏嬰」
「ん?」
「少ししたら、予定に余裕が出来る」
「へぇ、じゃあ日頃の疲れを取る為にゆっくりしないとな」
私の意を汲まない魏嬰に焦れながら、膝の上で手を組む。
「……私も、長期予約が出来るだろうか?」
そっと横顔を覗いたら、魏嬰は少し驚いたような顔をしてからにこやかに笑った。
「予定が空いてれば」
ご予約はお早めに。パチッと器用に片目を瞑って見せた魏嬰に、私はこくんと頷いた。