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    求めてはいけないものを求めてしまう魏嬰が泣いちゃうお話。

    病的君希求「藍湛……」
     呟く名前。突き放したのは俺なのに。どうしてか空に浮かぶ眠たい月に映るのは藍湛の顔ばかりなんだ。
     独りぼっち。そう強く感じたのは両親を亡くして江家に引き取られるまでの幼少期、僅かな空白の時間だけだったと思う。
     それからは、誰かしらが俺の側に居た。
     良くも悪くも俺の周りは絶えず賑やかで。
     だから、独りぼっち、だなんて思うこと。独りぼっち、だなんて思う時間はなかった筈なのに。
     くすんだ夜空に星は瞬かない。
     今にも目を閉じてしまいそうな月だけがぽつねんと浮かんでいる。
    「……藍湛」
     口の中で転がす名前は甘苦い。
     いつからこんな風になってしまったのだろう。
     自分の心の在処が分からない。
     ただ、藍湛の存在が自分の傍にないことだけが俺の胸の奥を締め付ける。
     大木をよじ登り、太い枝に腰を落ち着け、腰帯から抜いた陳情を横に構えて静かに息を吹き込む。
     出来るだけ平坦に奏でたそれは、自分の心が夜気に溶けて無になってしまえば良いのにという願望の現れだった。
     藍湛の不在を惜しみ悲しむような、そんな自分が嫌だった。
     突き放したのは俺なのだから。
     藍湛が傍に居ないことは自業自得で。
     俺が藍湛に伝えたい言葉は決して音にしてはいけないものだと思っている。
     だって、余りにも身勝手が過ぎるから。
     それに、伝えたい言葉に対しての答えを聞くのが怖い。
     色良い答えが返ってこないのは分かりきっていることだから。
     俺を正道に戻したいという藍湛のその意思の中に、俺が求めている答えがあるとは思えない。
     俺が希求してやまないものを、彼から受け取れることなどないのだ、と。
     俺はただただ嘆息を零さずには居られない。
     なぁ、藍湛……——
    「お前は、誰かを好いたことがあるか……?」
     ひとつ、ゆっくりと瞬いたら、眠たそうな月がゆらりと僅かに揺れた。
     
     俺が希求しているものは、もう二度と希求してはいけないものだと思っている。
     希求したが最後。それは泡沫と弾けて目の前から消えてしまう。あの喪失感を俺はあと何度味合わされれば天帝に赦されるのだろう。
     希求するからいけないのだ。
     希求しなければ問題はない。
     きっとその筈で。
     だから俺はもう何も求めやしまいと思った。
     欲しいものは——本当に欲しいものは、ひとつだけあったけれど。
     それを希求することは余りにも危険なことだった。
    「……藍湛」
     すっかり寝入っている藍湛の頬を片手で包み、目を細める。
     どうか俺になんて縛られずに生きて欲しいのに。どうしてお前はそうやって心の片隅に俺の居場所を作るんだ。
     邪険にされていた頃が懐かしい。邪険にされたままの方がきっと良かった。
     俺の居場所なんか、作ってくれなくて良かったんだ。
    「私は君の帰る場所だ」
     壮大な愛憎劇から幾らか。
     藍湛から告げられた言葉に、俺は思わず怪訝な顔をしてしまった。
    「本気でそんなことを思っているのか?」
     あくまでも茶化すように肩を揺らしたら、藍湛は至って真面目な声で「思っている」だなんて云う。
     いい加減なことを。ふっと一笑してその場を濁す。
     帰る場所は、もう必要ない。
     帰る場所があると、俺はただただ厄災を招くばかりなのだ。
     いつだって、どこだって。
     俺は何度それを繰り返してきたか知れない。
     だから——。
     ふらり、俺は衝動に任せて夜半に外へ出た。そのままどこかへ行ってしまおうかなどと思う。
     気の利いた荷物ひとつ持って出てこなかったけど。陳情ひとつあれば俺には充分な気もする。懐には僅かにでも銀子が入っているし。
     きっとどうにかなる。明日の風は明日吹く。そんな軽い気持ちで、俺は雲深不知処から抜け出した。
     それからふた月程の遊歴。
     特に目的地も決めずに歩いて、宿があれば住み込みで寝食を賄い、なければないで野宿をした。
     ある日、丁度街で数日に渡り小さな祭りが催されるから、宿で人手を探しているという噂を聞いて俺はすぐに該当する宿へ足を向けた。
     噂は噂で終わらず。祭りが催されている間だけでも働かせてくれないかと打診しに行ったら、すぐに諾と返ってきた。
     祭りは三日三晩。昼も夜も賑やかな宿で一頻り給仕をこなしていたら、最後の夜、不意に食堂が騒ついた。
     何だ? と厨房から食堂に出て、俺は固まった。
     店の入り口に、白装束を見付けたからだ。
     ぱちり、視線が交わった音。
     どうして藍湛がこんな所に居るんだ?
     混乱する俺を他所に、藍湛は店主と短い話をしてから懐を探った。
     小さな欠片を握った店主が俺から盆を取り上げる。
    「お前さんに客だ」
     今日はもう大丈夫だと肩を叩かれ、客の相手をして来いと耳打ち。
     ほら、ともう一度肩を叩かれた俺は、ぎこちない足取りで白装束を纏う藍湛と向かい合った。
    「ら……、」
    「出よう」
    「え、あ……」
     あぁと頷くより先に手首を掴まれる。
     連れて行かれた街外れの河原はもう陽が沈みかけていた。
     色素の薄い水色に棚引く雲は淡い橙色。
    「藍湛……何で、こんな所に……」
    「それは私の台詞だ。魏嬰」
     何故突然居なくなったんだと詰問のような口調に、唇を引き結ぶ。
    「魏嬰」
     ふたつの琥珀色は橙を受けて濃い色をしている。
    「俺は、帰らない……」
     ぽつり、零した俺の台詞に藍湛は一瞬きょとんとしてから柔らかく双眸を細めた。
    「私は、君の帰る場所だと云った」
     どこに居ようとも。私の傍が君の帰る場所なのだと言葉を変えられ、俺は吐息をひとつ跳ね上げた。
    「……帰る場所が動くだなんて聞いたことがない……」
     揶揄を混じらせたかったのに、この時はどうしてか上手くいかなかった。
     じわり、じわり。空が濃紺に染まっていく。
     無言の相対はどれだけ続いたか。先にその沈黙を破ったのは俺の方。
    「藍湛……」
    「……うん」
    「お前は、」
     は、と息を吸って、小さく鼻を鳴らす。
    「藍湛は、俺のこと……どう、思ってる……」
    「…………」
     数拍分黙ってから。藍湛はそっと唇を動かした。
    「君を安寧の底へと落とし、縋れるのは私だけだと思い知らせたい」
     どこか抽象的でもあるその言葉の真意を汲み取るには少し時間を要すかと思ったが、藍湛は勿体振ることなく言葉を続けた。
    「君は、私だけを支えに生きれば良い」
     私は決して君の傍から離れたりはしないから。
    「……っ、」
     息を、飲む。求めてはいけない。希求してはいけない。そう自分に云い聞かせてみるけれど。
    「私は君の存在で生かされている」
     君が私にとっての存在意義になっているよう。
     私は君の存在理由になりたい。
     そう願うのは烏滸がましいことだろうか?
     透き通った琥珀が映すのは、歪んでしまった俺の顔。
    「俺は……、」
    「……うん」
    「俺、は……」
     大きく喘いで、俺は藍湛の袖を摘む。
    「一生、なくならない帰る場所が欲しい……」
    「……私が、なる」
     ふわり、広がった衣の袖が俺の頭を掻き抱く。
    「私は、君より一秒でも長く生きるから……」
     安心して私の傍を拠り所にしてくれないか。
     柔らかく抱き締められて、鼻の奥がツンとした。
     目の縁が熱くなる。
    「藍湛……」
     藍湛、と名を繰り返す。まるで幼い子供が母親の存在を探すよう。
    「俺……きっと……、」
    「愛している」
    「…………っ」
    「私は、君のことを愛してる」
     だから、私の為に生きて、と。私も君の為に生きるから、と。
     そう続いた優しい声音に喉の奥が詰まった。
     傍に在ることを希求してはいけないとずっと思っていたのに。
     まさか自分が傍に在って欲しいと希求されるとは思ってもいなかった。
    「藍湛……」
    「うん?」
    「……俺のことを、独りにしないでくれ……」
     懇願でもするような俺の声音に、藍湛は穏やかな声音で返してきた。
    「さっきも云った。君より一秒でも長く生きる、と」
     だから安心して私に愛されて。
     そっと抱き寄せられた頭。丁度顔が彼の肩に埋まって。俺は何度も喉を引き攣らせながら藍湛の肩を濡らした。
    「らんじゃん……」
     ありがとう、と。涙声で呟いたそれは彼の鼓膜を打っただろうか。
     震える俺の背を。藍湛は嫌になる程優しく撫で続けてくれた。
     世界がすっぽりと紺色の帷で覆われるまで。目が溶けるんじゃないかという程泣き腫らした俺は、ようやっと顔を上げてくしゃくしゃの笑顔を作る。
    「藍湛、ただいま」
     その一言に、藍湛は微笑を浮かべて小さく頷いた。
    「おかえり、魏嬰」
     俺の目尻を拭う親指の温かさが、俺を甘やかした。
     
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