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    【うつせみ】第四部②。延々ループするので疲れるかもですが、頑張って読み進めて頂きたいです……。最後にちゃんと藍湛が出てきてくれました。

    うつせみ:第四部②感光幕②


     ピッ、ピッ、という一定のリズムを奏でる電子音を遠くに聞いて、薄らと瞼を持ち上げた。ぼやける視界の向こうに見えたのは真っ白な天井。
     身体が鉛の枷に拘束されたよう、思うよう云うことを聞かない。どうしてだろう。辛うじて自由の利いた視線をほんの少しだけ巡らせたら、三方が淡いクリーム色のカーテンで覆われていた。天井に近い上の方が網目になっている。たまに見掛ける景色だ、と思った。でも、その景色の中心に自分が居るようだ、という現状が上手く飲み込めなかった。
     もう少し視野を広くしてみたら、銀色の棒に液体の入ったビニールバックがぶら下がっていた。その下部から伸びて居るのは細いチューブ。これもテレビとかで見たことがある。点滴だ。側にそれがあるということは、自分がその点滴の世話になっているようだとは何となく察することが出来た。
     点滴なんて、病院でしか使い道を知らない。詰まるところ、自分は今病院に居るということなのだろうか。
     何で? どうして? 頭の中にハテナが飛び交う。意識がどうにもハッキリしてくれない。それがもどかしくて顔を歪めながら瞬きをまた数度していたら、左側からシャッという音が聞こえた。
     やっぱり身体は云うことを聞いてくれないから、視線だけを横に流す。すると、予想を裏切らないスクラブ姿が俺を見下ろしてきた。
    「あぁ、目が覚めたのね」
     良かった、と笑顔を見せるその女性はきっと看護師さんだろう。
    「……ここ、は……病院、ですか?」
     発した声は掠れていて、ちゃんと音になったか自分でも判断出来なかった。けれども、相手はちゃんと俺の云いたかったことを汲んでくれて、えぇ、と肯定をくれた。
    「……どう、して……」
     俺が記憶している限り、ついさっきまで俺は両親と一緒に高速バスに乗っていた筈だ。久し振りに家族旅行でもしようという話が持ち上がり、夏休みで暇を持て余していた俺にはそれを断る理由がなかった。
     もう少ししたらお前も旅行なんて一緒に行ってくれなくなるだろう、なんてわざとらしく肩を竦められたら、これも親孝行になるのかな、と思った。
     日帰りのバスツアー。流石、学生は夏休みというだけあって、同乗者は親子連れが多かった。
     小さい子供がはしゃぐのを窘める声を懐かしく聞いていた気がする。
    「なん、で……?」
     もう一度疑問を投げ上げたら、看護師さんはらしゃがんで、俺と目線を近くしてくれた。
    「高速道路の事故に巻き込まれたの」
    「事故……?」
     じゃあ、父さんと母さんは? 同じ病院に居るのか? 喉の粘膜が張り付いて声にならなかったそれを、看護師さんは痛ましい表情で俺を見た。
    「お父さんとお母さんは、助からなかったの」
    「…………」
     数呼吸分、思考が停止した。
    「たすから、なかっ、た……?」
     えっと、それって、つまり……。
    「亡くなられたの」
     オブラートに包んでも仕方がないとでも云うように、看護師さんは明瞭な声で残酷な事実を俺に告げた。
     頭の中が真っ白になった。それこそ、今見える天井よりももっとずっと真っ白だ。
     また、何で? どうして? が飛び交ったけど、今聞いたばかりの事実を反芻したら、一気に視界が歪んだ。
     嫌だ。嘘だ。そんなの信じたくない。信じたくないけど、この人が嘘を云う訳がなくて。これは悪夢なのかなとかも思いたかったけど、噛んだ下唇は痛かったから、これは夢なんかじゃなくて現実なんだ、って下瞼がヒリヒリした。
     ぐすり、鼻を鳴らしたら、目許をティッシュで拭われた。だけどそんなの全然意味がなくって、身体が云うことを聞けば袖をぐちゃぐちゃになるまで濡らしただろう。
     親孝行になるかな、なんて思った自分が馬鹿みたいに思えた。行くって頷かなかったら、こんなことにならなかったかも知れないのに。
     何を言葉にすれば良いのかも判らなくて、俺は引き攣る喉から微かな悲鳴を上げることしか出来なかった。
     看護師さんは俺が一頻り泣き終えるまでずっと傍に居てくれて、やっと少し落ち着いた頃にそっと頭を撫でてから、俺の手にボタンを握らせた。
    「何でも良いから、何かあったらこれを押してね。すぐに誰かが来るからね」
     柔らかな声でそう云って、点滴をいじってから静かにカーテンを閉めて俺を一人にした。
     一人にされたらまた目の縁がヒリヒリしてきた。ぎゅっと目を瞑ってその場を遣り過ごそうとしたけれどそんなのは無意味で。俺はぐすぐすと横顔を枕に押し付けることしか出来なかった。
     散々泣いている間に、意識がぼんやりし始めて、俺の意識はそのまま真っ白な世界に沈んでいった。
     
     ん……、と目を覚ますと、見慣れない真っ白な天井が見えた。周りはクリーム色のカーテンで囲われている。
     鈍く動く腕をどうにか持ち上げて額に手を当てる。この光景はテレビとかで見たことがある。
    「びょー、いん?」
     何で俺がこんな所に居るのだろうか。
     首を傾げていると、カーテンがシャッと音を立てて開いた。
    「おはよう、魏無羨くん」
     柔らかく降ってきた声に益々首を傾げる。
     スクラブ姿で横に立つその女の人は恐らく看護師さんだ。
     気分はどう? と訊かれて、数度瞬く。
    「……ここ、は……病院、ですか?」
     掠れた声で問えば、看護師さんは一瞬だけ眉根を寄せてから、「そうよ」と返してきた。
    「……どうして、俺が病院に……?」
    「…………昨日、説明されてない?」
    「昨日……」
     昨日は「明日家族旅行に行こう」と決めた前日だった筈だ。
     病院の世話になるようなことは何もなかった気がする。
    「俺……何か、あったんですか?」
     瞬きで困惑を見せたら、看護師さんはゆっくりと喋った。
    「事故に遭ったのよ」
    「……事故?」
    「バスツアーでの事故に巻き込まれたの」
    「バスツアーは……今日な筈、ですけ、ど……」
     何だろう。どうにも看護師さんと話が噛み合っていない気がする。
    「……ご両親がどうなったか、昨日説明があった筈なんだけれど……」
    「父さんと、母さんにも何かが……?」
     三人揃って病院の世話になっているのだろうか?
     父さんと母さんは今どこに?
     その問いに、看護師さんは今度こそ眉根を寄せた。
    「バスツアーの事故で……」
     亡くなったのよ……、と。しゃがんで俺と目線を同じくした看護師さんが小さな声でそんなことを云った。
    「その冗談、は……」
     あまりに洒落にならないと苦言を呈したら、看護師さんは今日の日付を問うてきた。それに答えたら、看護師さんは静かに立ち上がった。
    「まだ、混乱しているのかも知れないわね」
     俺の頭を撫でて、体温や血圧を測った看護師さんは、手の側に転がっていた楕円形のプラスチックを俺の手に握らせた。
    「何かあったら、このボタンを押してね」
     また来ますから、とカーテンを閉めて出ていってしまった看護師さん。
     バスツアーには確かに行こうという話が出て、明日行くことになっていた筈。
     それなのに、俺は……父さんも、母さんも、バスツアーの事故に遭ったと云う。
     なくなった……とは、どういう意味だろう。頭の中で必死に漢字変換をしてみるが、浮かぶ漢字はひとつだけ。
    「…………?」
     冗談にも程がある。何だ、これは。夢の中で夢を認知しているのだろうか。
     次に現れた看護師さんは、俺に親しい間柄の人を訊いてきた。
     親しい、っていったって、一番近しいのは両親だ。そう答えたら、他には? と追及された。
     両親の次に関係が深い、となったら、幼馴染みの江澄と江厭離だ。江家のおじさんとうちの父さんが仲良かったのだ。
     それを告げれば、連絡先は判る? と問われる。
     江澄の携帯番号なら覚えている。その十一桁の数字をゆっくりと紡いだら、ありがとう、と云われてまた一度頭を撫でられた。
     それからどのくらい経ったか。
    「魏無羨!」
     と、場を弁えた静かな叫び声が俺の鼓膜を打った。
    「阿羨、大丈夫?」
     江澄の背後から江厭離姉さんが顔を覗かせる。
    「とても、心配したのよ」
     江澄の背後から出てきた姉さんが、しゃがんで俺の頭を撫でる。
    「……どうして、二人が……?」
    「どうして? どうしてだって? 何を云っているんだお前は? バスツアーの事故に巻き込まれて病院の世話になっているなんて聞いて、放ったらかす程俺たちは人でなしじゃないぞ」
    「……その、バスツアーは、明日の筈なんだけど……」
     俺の返答に、江澄と姉さんは顔を見合せてから苦々しい表情を浮かべた。
    「馬鹿も休み休み云え」
    「馬鹿って、酷いだろ」
    「阿羨、看護師さんが、昨日も説明したと云っていたわ……」
     貴方のご両親は、亡くなったの、と。
     痛ましい顔をする姉さんまで看護師さんと同じことを云うものだから、俺の頭の中はハテナでいっぱいになる。
    「姉さんは、いつから冗談が上手くなったんだ……?」
     キョトンとする俺に、姉さんは僅かに目を細めた。
    「現実よ」
    「意味が、判らない……」
     両親が亡くなった? 何で?どうして?
     ぽかん、とする俺を見て、また二人が顔を見合わせる。
    「お前は頭を強く打っていたと聞いた」
    「……はぁ」
    「その所為で混乱しているのでは、とも」
    「混乱……は、してる」
     だって、父さんと母さんが亡くなった……詰まり、死んだ、だなんて、俄には信じ難いことじゃないか。
    「お前の親の葬儀は江家で執り行うことになった」
     執り行う、と云っても、火葬するだけだと続ける江澄に、待ってくれと話に水を差す。
    「夢にしては、酷くないか?」
    「阿羨……これは夢じゃないのよ」
     安置するにも限界があるから、私たちが代わりに葬儀を行うことにしたの。最期にお別れを出来ないのは辛いでしょうけど、事実は事実と受け止めなければならないのよ。
     柔らかい声なのに、告げられている台詞は辛辣だ。
    「嘘、だ……」
    「嘘じゃないわ」
    「だって、」
    「魏無羨、いい加減にしろ」
     江澄の苛立った声に眉根が寄る。
     だって、そんな、こんなことってあるか? 起きたら両親が死んだなんて聞かされて、はいそうですか、と受け入れられる程、俺の神経だって図太くない。
     意味が判らない。そんな顔をしていたのだろう。姉さんは眉尻を下げながら、何度も俺の頭を撫でた。
     意味の判らない話を聞かされて、頭の中がオーバーヒートしたのかも知れない。俺は姉さんに頭を撫でられている内に瞼を落としてしまった。
     
     ぼんやりと目を覚ましたら、自分の部屋とは違う真っ白な天井が見えた。首を回すと、クリーム色のカーテンに囲われている。これまた馴染みのないベッドの上に居ることに戸惑い。ぱちり、ぱちり。瞬きをしてから、そっと起き上がろうとしたけれど、身体はゼンマイが壊れたブリキ人形みたいに上手く動いてくれなかった。
     起き上がるのを諦めて、のそりと持ち上げた左腕には針が刺さっていた。真横に点滴のぶら下がった棒を見て、ここは病院か? と首を傾げる。
     何で? そう思ったのと同時にカーテンが開いた。
    「おはよう、魏無羨くん。気分はどう?」
     スクラブ姿のその人は看護師さんだろうか。
    「……ここは、病院ですか?」
     何で俺が病院に居るんだ?
     そう問うたら、看護師さんは一瞬だけ顔を歪めた。
    「魏無羨くん、昨日のことは覚えている?」
    「昨日……? 昨日は、」
     昨日は家族でバスツアーに出掛けようと話が盛り上がった筈だ。
     それをそのまま告げれば、看護師さんは一度ゆっくりと瞬いてからしゃがんで俺と視線を同じくした。
    「貴方はもう三日前から入院しているのよ」
    「……三日……?」
     三日前なんて、暑さに辟易して適温にした自室で漫画を読んでいた気がする。
    「昨日、貴方と親しい人が来たのは覚えていない?」
    「親しい、人?」
     それは親、ではなく? キョトンとする俺の頭をひと撫ですると、看護師さんは「またすぐ来るね」と俺をクリーム色の中に閉じ込めた。
     頭の中がハテナで埋まる。
     何だ? 自分の身に何が起こっているのかが全く判らない。
     暫くしてから、さっきの看護師さんと、ドクターコートを纏った若めの男性が姿を見せた。纏っているものの文字通り、医者なのだろう。
    「魏無羨くん、今日が何日か判るかな?」
    「今日、ですか?」
     訊かれるがまま『今日』の日付を答えたら、医者は緩く首を振ってから『今日』の日付を教えてくれた。
    「……?」
     どういうことだ? 医者の云う日付は俺が知っている日付から数日先に進んでいる。
    「バスツアーの事故に遭ったのは?」
    「は……?」
    「ご両親が……亡くなったことは……」
    「え、ちょっと、待ってください……父さんと母さんが、亡くなった……?」
     どんな冗談だ? 無意識に浮かんだ薄笑い。
    「昨日、江家の方がいらっしゃったのは?」
    「江家……? 江澄か?」
     何だ? 何にも判らない。医者が俺の知らないことばかり喋るものだから、思考がついていかない。
    「後で、精密検査をしようと思う」
    「精密検査……」
     どうして俺にそれが必要なのか判らないけれど、医者はそれを決定事項として、二時間後にまた看護師が来るから、と白衣を翻してカーテンの向こうへ消えて行ってしまった。
     横になったままでも良くないから、とベッドの上半分を緩く斜めにした看護師さん。
     そこで、ようやっと自分があちこちに包帯を巻かれていることに気が付いた。
     点滴が、ぽたりぽたりと規則正しく雫を落としている。
     何だか何もかもが判らない。何が起きていて、どうなっているのかを考えることすら面倒臭い。
     ぼんやりとしていたら、一時間はあっという間に過ぎていたらしく、江おじさんが姿を現した。後ろには江澄も居る。
    「気分はどうだい?」
    「……どうもこうも……」
     判らないことだらけで頭の中が真っ白だと答えたら、江おじさんは、眉尻を下げて「そうか」と俺の頭を撫でた。
     江澄も江澄で、悪態を吐きはしなかったけれど、無愛想な顔で俺をたまに睨んでいた。
    「お前の両親は昨日火葬を済ませたよ」
    「…………は?」
     唐突な発言に、間抜けな声が喉の奥から飛び出る。
    「か、そう……?」
     火葬? 火葬って云ったら、死んだ時にするものじゃないか? 目をぱちくりさせてから、そう云えばさっき医者が「両親が亡くなった」と訳の判らないことを云っていた気がする……と曖昧な記憶を探る。
    「すぐに受け入れられることじゃないと思う。だけど、これは事実だ。お前の両親は亡くなった」
    「……な、んで……? いつ……?」
     俺の記憶では、親が死ぬなんて状況はこれっぽっちも知らない。
    「バスツアーの事故に遭って、お前だけ奇跡的に助かったんだ」
     真っ直ぐに俺を見詰めてくる江おじさんの眼差しに嘘は見えない。
     嘘だ、と唱えたかった反論は音にならなかった。
     そうこうしている内に看護師さんが顔を見せ、そろそろ検査に、と車椅子を持ってきた。
     鈍く痛む身体を車椅子に乗せられて、そのまま看護師さんに押されて病室(らしい)から検査室とやらに連れて行かれた。
     あれやこれやと色んな機械が俺の内部を探る。曰くの検査が終わってから病室に戻され、また何とも云えない時間を江おじさんと過ごしていたら、検査結果が出たからドクターからご説明があります、とまた看護師さんが現れた。
     再び車椅子に乗せられ、今度は江おじさんと江澄が一緒に着いて来た。
     決して広いとは云えない小部屋。
     白く発光している板には何枚かのフィルムが並べられていた。
    「端的に云いましょう。魏無羨さんの脳には器質的損傷が見られます」
    「器質的、損傷?」
     まるで呪文のように聞こえたそれに、俺はただ首を傾げるだけ。
    「損傷しているのは、記憶を司る部分です。それにより魏無羨さんには記憶障害が起こっていると考えられます」
     そこで一度息を吸って、医者は話を続けた。
    「現在、魏無羨さんの記憶は一日しか保てなくなっているようです」
    「……は?」
     医者の話に驚いたのは俺だけみたいなのが、逆におかしく感じた。どうして江おじさんも江澄も驚いた声を出さないんだ?
    「看護師の話によると、毎朝魏無羨さんは前日を含め、以前ことを覚えていない様子です」
    「…………」
     確かに、何だかよく判らないけれど、俺の知っている昨日は昨日ではないらしい……ということは皆の反応でぼんやり納得がいく。だけど……、
    「でも、俺は江家の人は分かるし、学校は今夏休みだとか、学校の友達のことだって、思い出そうと思えばちゃんと覚えてます」
     嘘じゃない。事故に遭った。両親が死んだらしい、という話より前のことはきちんと覚えている。それだというのに……。
    「俺が、変な記憶喪失になったって云うんですか」
    「そういうことになります」
    「…………」
    「大変珍しい症例ではありますが、全くないこともありません。古い記憶はそのままに、脳が損傷したのを切っ掛けに新しい記憶が一日しか保てなくなる。そういうことはあり得ないことではありません」
     ただ、これが一時的なものになるか、永久的なものになるかは現在の時点では何とも云えないと医者は云う。
    「……つまり、俺はこれから毎日日付が変わっていくことが理解出来ない、ということになるんですか……?」
    「そういうことになります。こればかりは経過観察をしていくしかありません。損傷を受けた脳が回復するという例もあります」
     その一言は俺たちに淡い光となってそっと降り注いだ。
     現状は困難でも、将来的に見れば可能性はあるのだというのだから、それは光明といわずに何といえば良いのだろうか。
    「今後、経過観察の為に定期的に通院して頂きたいと思います」
    「……どのくらいの頻度で?」
    「すぐに良くなるとは云えません。しかし経過はこまめに観察していきたいとも思います。ですから、二週に一度のペースで様子を診ていきましょう」
     そう云われたら、そうするしかない。
    「判りました……よろしくお願い、します」
     俺と一緒に江おじさんも頭を下げれば、医者は大きく頷いて、
    「では、判りやすく隔週で金曜日に検査を行なっていきましょう」
     と、話を終いに運んだ。
    「記憶が一日しか保てなくなるというのは大変不便だとは思いますが、良くなることを考えて前向きに経過を観察していきましょう」
     最後の医者の台詞は鼓膜から鼓膜へと逃げていき、俺はその後どうやって病室に戻ったかよく覚えていなかった。
     ……毎日記憶がなくなる……。それは学業に支障を来さないだろうか? 別に勉強に対して物凄く真面目、という訳ではないけれど。連続して授業を受けられないということには大層不便を感じる気がした。
     大事をとってあと三日入院し、四日後に退院した。ひとまず帰った自宅は薄暗くがらんとしていて、何回も(俺にとっては毎日新しい情報として与えられるのだが)聞いた「両親が死んだ」という事実をようやっと受け入れることが出来た気がした。このことを忘れる訳にはいかず、俺は自室の机の棚からルーズリーフを取り出して、ここ数日のことを江澄に聞きながら書き留めていった。
     携帯電話はすっかり使い物にならなくなっていたらしい。それでも携帯がなければこの時代不便しかない。いざという時に誰かと連絡を取る手段がなくなるというのは大分困る。
     そんな俺のことを思って、江おじさんは俺に新しい機種を持たせてくれた。使い物にならなくなっていた携帯でも、個人情報が詰まった小さなチップは辛うじて無事だったようだから、ノートパソコンに残しておいた一ヶ月前のバックアップデータを復元させた。
     電話帳を見るよりチャットの履歴を見る方が、密に連絡を取っていた人間を把握しやすい。
     サッとスクロールさせた名前はやはり覚えがあったけれど、一人だけ。一番上に表示されている名前だけが誰だか判らなかった。
    「藍、忘機……?」
     小首を傾げた俺に、江澄は隣で少し驚いた顔をした。
    「どうした? 江澄」
    「お前は藍忘機と知り合いなのか?」
    「……さあ? でも、チャットの一番上に居るってことは、それなりに親しかったのかもな」
     藍忘機とのチャット画面を開くと、何だかよく待ち合わせをしているような文面が並んでいた。
    「そうか、藍忘機、と……」
    「江澄はその藍忘機って奴を知っているのか?」
     ぱちぱちと瞬きをしたら、江澄は「まぁ、多少だが」と渋い顔をした。
    「どんな奴なんだ?」
    「ウチが毎年新年に世話になっている写真館の息子……今は甥だが、その家の人間だ」
     確かお前よりひとつ学年がひとつ上だった気がする。
     そう云われた瞬間、手にしていた携帯が大きな音で鳴って思わず手落としてしまいそうになった。
     ディスプレイに表示されているのは、噂をすれば何とやら、の藍忘機たった。
     どうしたら良いか迷っている俺の携帯を取り上げて、江澄がコールに応える。
    「……魏無羨」
    「うん?」
    「本当に藍忘機のことを覚えていないのか?」
     通話口を塞いで問い掛けられた俺は大きく頷く。
     江澄は俺の自室から出て、リビングでその藍忘機とやらと話をしていた。
    「魏無羨」
    「何だ?」
    「これから藍忘機が来ると云っている」
    「…………知らない奴に会うのは気が引けるな……」
     尻込みすれば、しかし相手はお前のことをよく知っていそうだとを雰囲気を出している。
     高校が同じだといっていると云っている。それを江澄は僅かに不思議がっているようだった。
     ふむ、基本どのコミュニティにも出入りしている俺だけど、こんな風に密に連絡を取る人間も居たのか。そこまで考えて、頭を捻る。事故前のことだったら忘れていない筈なのに。この藍忘機という名前だけは、どうにも判らない。
    「試しに掛けてみる」
     携帯を貸せと云われるがまま、江澄に携帯を渡す。チャット画面から通話に変えた江澄の手際は早かった。
     無事すぐに繋がった電波に、江澄は俺の身に起こったことを相手に簡単に説明した。
     少しして、江澄が俺に携帯を差し出してきた。
    「声が聞きたいと」
    「え、あ、うん……」
     恐る恐る携帯を握って耳に当てる。
    「魏嬰」
     親しげに俺の名前を呼ぶ藍忘機の声に覚えはない。
    「事故に遭った、と」
    「うん、そうらしい、です……」
     相手が誰だか判らないから、取って付けたような敬語になった。
    『大体の事の顛末は判ったが、魏嬰は本当に私のことを覚えてていないのか?』
     電話口から聞こえてくる声には名前と同様覚えはない。
    「申し訳、ない……けど」
     お前のことは知らないと、相手に見えないのに首を左右に振ったら、藍忘機は電波の向こうで息を詰めたようだった。
     また江澄に代わってくれと云われ、江澄に携帯を渡す。
     少しの間、小声で話していた二人だったが、プツ、と江澄が終話ボタンを押した。
    「魏無羨のことは江家で引き取り見守ることにしていたのだが……」
    「うん」
     それは無難な選択だろう。
    「けれども、藍忘機は自分の家にお前を呼びたいと云っている」
     と、江澄が気に食わなさそうな顔をした。
     大学の進学が確定したから、これから特に忙しさはないらしい。
     魏無羨がこの藍忘機のことを覚えていないというのは少々奇怪ではあるが、高校も同じ。部活も似たり寄ったりだから、日常生活のフォローは自分の方が良いのではないかと打診されたらしい。
    「魏無羨は、」
     ウチに来るのと藍忘機の家に行くのとどっちが良いか。
     問われても悩む質問だった。
     記憶が残っている、という点では江家の方が安心度が高いが、この藍忘機という男が俺の学業をサポートしてくれるのだとしたら、それはそれで助かる。
     悩んでいる内に、チャットが一通。藍忘機からだった。
    『ウチには空き部屋がある。私はお前と同じ時間を過ごしたい』
     まるで告白のようなそれに、俺はつい笑ってしまったけれど、江家に余分な部屋はない。となると、空き部屋があるという藍忘機の家の世話になる方が良いのかも知れない。ましてや、学校が同じなら余計に有り難さもある。
    「江澄、この藍忘機って奴は信用に値する人間か?」
     問えば、江澄は大きな溜息を吐き出してから、まあ、恐らく悪い奴ではないだろうと答えた。
     江澄は案外俺に対して過保護なところがある。そんな彼が「悪い奴ではないだろう」というのなら、きっと藍忘機という男は俺に害を成すことをしたりはしないだろう。
    「江澄、俺はあんまり江家に負担を掛けたくない」
     藍忘機がウチに、と誘ってくるのであれば、そうしてみても大丈夫そうだろうかとまた疑念を投げたら、それはお前が選ぶことだ、と大人な対応をされた。
     託された二択。どうしようか。けれどもチャットを軽く遡る辺り、俺とこの藍忘機との仲は決して悪いものではなさそうだ。
    「取り敢えず、一度会ってみてから決めるんでも良いかな」
     俺の打診に、江澄は好きにしろとスケジュールアプリを開いた。
     余り間を空けるのも良くないだろう、と。俺たち三人は翌々日の昼に繁華街の喫茶店で待ち合わせることになった。
     この二日は江家の世話になった。
     三人での顔合わせは決して朗らかとは云えなかった。
    「魏嬰」
    「何ですか? 藍忘機、先輩?」
    「ウチに来て欲しい」
    「…………」
     ちら、と江澄を見たら、好きにしろ、という顔。
    「通院も、許可を得られれば私が付き添おう。金曜日は必須授業も選択授業もない」
     ふむ。江家の負担が少しでも軽くなるのは幸いだ。
    「でも、藍忘機先輩、はどうしてそんなに俺のことを気に掛けてくれるんですか……?」
     他人行儀な俺の台詞を、藍忘機は苦いものでも噛み潰すような顔をしてから、お前とは親しくしていたからだ、とだけ呟いた。
     まあ、チャットの一番上に名前があったのだから、それは嘘ではないのだろう。
    「それなりのフォローは出来ると思う」
     確かな声音に、俺は一度天井を仰いでから、藍忘機を真っ直ぐに見詰めた。
    「記憶が一日しか保てない人間を相手にするの、結構面倒臭いと思うんですけど」
    「それでも構わない」
    「俺はアンタのことを全く覚えていないのに、それでも良い、と?」
    「構わない」
     迷いない返答に、俺はまた江澄をチラ見してからアイスカフェラテを啜った。
     江澄は本当に俺の意見をそのまま尊重するつもりでいるらしい。
     迷惑を掛けるのは恐らく両者共に。けれども、明らかに望まれているのはきっと藍忘機の方で。
     俺はゆるりと瞬いてから、江澄を見て、藍忘機を見て。唇に隙間を作った。
    「判った。学校のこともあるし、俺、藍忘機先輩の世話になろうと思う」
     これは決定事項だと断言する口調でそう云えば、江澄は腕を組んで「そうか」とだけ呟き、藍忘機もまた「そうか」と、江澄とは違うニュアンスで同じ言葉を紡いだ。
    「じゃあ、今日の話を忘れる前に魏嬰は軽く荷物を纏めてウチに」
    「うん、判った」
    「魏無羨」
    「ん?」
    「経過報告は定期的にしろ」
     無愛想に見えて、江澄は結構優しいところがある。幼馴染みとしてはこれ以上ない相手だ。
    「じゃあ、藍忘機先輩……このまま、俺の家に……」
    「あぁ、そうしよう」
     藍忘機がそう頷いたところで話は終わりを迎え、江澄は自分の帰路を。俺と藍忘機は俺の家へと足を向けた。
     ボストンバックに一週間分くらいの着替えと、制服を雑に突っ込んだ。あとは携帯と、充電器。他に特に持っていくものはないだろう。必要だと思ったら取りに帰ってくれば良いだけの話。
     江おじさんは暫く俺の家をそのままにしてくれると云ってくれたから、それには遠慮なく甘えることにした。
     藍忘機——藍湛と呼べ、と云われたその男に着いて行ったのは、学校の最寄駅を抜けてもう数駅進んだところだった。
     来た記憶はあるな、と思う。
     ただ、それが一人でだったのか、誰かと一緒だったのか、は曖昧だが。
     駅からバスに揺られて二十分程。高台の、もう使われていないロータリーの一角に藍湛の家である写真館はあった。
     写真館の裏手に自宅がくっ付いているらしく、写真館の裏手に回った藍湛はクラシカルなデザインの扉に鍵を差し込んで引き開けるなり、俺を屋内に導いた。
     一歩先を歩く藍湛の後をゆっくりと追う。藍湛が俺にと充ててくれた部屋は、二階奥のドン付きの部屋だった。
     扉を開けると、人の気配は微塵も感じないというのに、ほんのりと甘い匂いがした気がした。
    「藍湛……」
    「勉強机のようなものは運び込めないが、ローテーブルくらいなら用意出来る」
    「あ、うん……」
    「他にも必要だと感じたものがあれば、遠慮なく云ってもらって構わない」
    「……うん」
    「魏嬰……」
    「はい……?」
    「お前は私の……」
     そこで言葉を区切り、藍湛はふるふると頭を左右に振り、何でもないと俺に背を向けた。
     翌日。俺は見知らぬ天井を起き抜けに見ながら、ここはどこなんだろう? と首を傾げるのだった。
     
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