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    【うつせみ】第五部。仮完結編です。もう一話、続きがある予定ですが、ここで本編一区切りとなります。

    うつせみ:雪葬 隔週の通院は必ず藍湛が付き添ってくれた。
     初めの数回こそどうして俺が病院に行かなければならないのかと疑問を重ねたが、最早日記と化しているスクラップブックに『隔週金曜日に藍湛と午後に病院』
     という規則的な書き込みを続け様に見て、漸く自分が病院に行く必要性を受け入れられた。
     隔週という規則をもって流れていく日々は何だかあっという間に過ぎていってしまい、特別何がある訳でもなく(良くも悪くも病状? に進展はないし)気付いたら街はクリスマス一色になっていた。
    「もうすぐクリスマスか……」
     マフラーに顔を埋めてぽつりと呟けば、隣を歩く藍湛がそうだなと相槌。
    「去年の俺はお前と過ごしたのか?」
     視線を流せば、藍湛もこちらに視線を流してきて、小さく縦に頭が振られた。
    「カラオケのフリータイムに滑り込んで、コンビニで買ったチキンとケーキを食べた」
    「へぇ……それ云い出したのは絶対俺だろうな」
     藍湛がそんな提案するとは思えないと笑う俺に、藍湛は僅かにだけ複雑そうな顔をした。
    「今年も一緒に過ごす……?」
    「……一緒に、過ごしたい」
     返ってきた声に、そりゃそうだよなとまた笑う。
    「クリスマスなんて、恋人同士の三大イベントみたいなもんだし」
     肩を揺らしてから、ほんの少しだけマフラーに顔を深く埋める。
     俺はこのクリスマスに、ひとつ大きな区切りを付けようと思っていたからだ。
     クリスマスは終業式の日だった。多分、去年と同じように藍湛を急き立ててコンビニに寄ってからカラオケに飛び込んだ。
     個室で適当な会話をしながらチキンとケーキを頬張る。
     いかにも学生のクリスマス、といった感じ。
     買ってきたものを平らげてから、何を歌うでもなくフリードリンクをちまちまと啜る。
     平常運転で口数の少ない藍湛を横目に見てから、なぁと唇を舐める。
     どうした? とこちらを向いた顔。真っ直ぐな視線を正面に捉えて、俺は細長く息を吸った。
    「藍湛」
    「何だ?」
    「藍湛。俺たち、別れよう」
     そう告げたら、藍湛の目が大きくなった。
    「……まだ、何も終わっていない」
     お前が始めたゲームは終わっていないと云われて、俺はふるふると首を左右に振った。
    「終わってないんじゃない……多分、始まってもいなかったんだ」
     それは俺が藍湛のことを忘れたからとかではなく。きっと俺が持ち掛けたらしいゲームはそもそも始まってもいなかったんじゃないだろうか。
    「それは、本気で云っているのか?」
     細められた目。その双眸から注がれる視線は部屋の温度を低くするようだった。
    「本気だよ」
     だって、俺たちが付き合っていたって誰にも利はないし、恋人っていう関係で藍湛に世話を掛け続けるのも気持ちが良いもんじゃない。
    「嫌だ」
     キッパリとした否定。
    「でも……、」
    「嫌だ。どうせこれ以上付き合っていても私に迷惑掛けるだけだとか、そんな理由だろう?」
     図星を突かれて思わず押し黙る。
    「そうだとしたら、絶対に別れたりはしない」
     藍湛の意志は強そうだが、ここは俺も負けじと真面目な顔をする。
    「だって俺は一日しか藍湛のこと覚えていられないんだぞ?」
    「それがどうした? 私には魏嬰が必要だ」
    「俺に執着したって仕方ないじゃないか」
    「仕方ないことなんてない。私はずっと魏嬰のことを想い続けている」
    「そんなの、藍湛の幸せに繋がらない」
    「私の幸せは魏嬰と繋がってることだ。例え毎日忘れられていようと」
     頑として別れる気などさらさらないという姿勢を崩さない藍湛に閉口する。
    「……俺が……」
    「……?」
    「俺が、ツラいんだ……」
     恋人のことを忘れているという事実に直面する朝がツライ。
     他のことは、事故に遭う前のことはちゃんと覚えているというのに。
     藍湛のことだけ忘れているという事実がツライのだと訴える声は我知らず震えていた。
    「藍湛の為に別れようって云ったのは嘘だ……本当は、自分の為なんだ……」
    「魏嬰……」
     俯いた俺の顎を捉えて、藍湛は軽く触れるだけのキスを唇にひとつ。
    「私はお前を絶対に手放せない……」
     エゴでも何でも。魏嬰の願いはひとつでも多く叶えてやりたいが、別れるということだけは許せないと藍湛は真剣な顔で云う。
    「私のことを覚えてないのがツラい云うのなら、私だって忘れられてるんはツラい。それでおあいこでは?」
     違うか? と俺の顔を覗き込む顔はどこか悲しげ。
    「私だって、泣きたくなった。魏嬰は昔のこと全部覚えているのに自分のことだけは綺麗さっぱり忘れていたのだから。泣きたくなった日はたくさんあった」
     でも、と目尻を指の背でなぞられる。
    「それでも、私には魏嬰と別れるなどという選択肢は浮かばなかった」
     何でか判るか? 問われ小さく首を左右に振る。
    「それくらい、私は魏嬰のことを好きなんだ」
     愛してるから、離れようだなんて選択肢は浮かばなかったと云う藍湛。
     どんなに泣きたくなっても、もしかしたら明日には私のこと思い出してくれるかも知れないと毎日期待する。
     例えそれが不毛だとしても、私は諦めきれないのだ。
     それもこれも全部魏嬰のことが好きで好きで仕方がないからだ。
     だから、嫌いになったとか、他に好きな人間が出来たとか、そういうことではない理由で別れるのは嫌だ、と藍湛は俺の手を握った。
    「私は、どんな魏嬰でも愛し続けると決めている」
     僅かに水気を含んだ声音。
     藍湛の決意は「離れて行かないでくれ」という嘆願にも似ていた。
    「……そんなの、馬鹿だ……」
     思わず零れたそれに悪意はない。殆ど呆れに近い呟き。
    「お前、馬鹿だよ……」
     いつくるとも知れない、もしかしたら一生思い出さない可能性もある俺の記憶が戻ると頑なに信じて待つだなんて、馬鹿だ。
     だけど、それが一瞬でも嬉しいと思ってしまった自分も大概だ。
    「魏嬰……」
     きゅっ、と手を握る力が少しだけ強くなる。
    「頼むから。別れようとか、云わないでくれ……」
     私はずっとお前の傍に居たいんだ、と。
     今にも泣き出しそうな顔で云われて俺は無意識に唇を噛んだ。
    「藍湛の幸せは……」
    「だから、お前の傍だ」
    「そんなの、全然幸せじゃないじゃないか」
    「そんなことはない」
     どんな魏嬰でも愛してると云っているだろう。
     そう繰り返す藍湛はもう一度触れるだけのキスをしてきた。
    「魏嬰こそ、本当に別れたいなら拒んだら良いのでは? 逃げれば良いのに、私のことを振り払いもせずこうしている」
     それは本当に別れたいと思っている人間の取る行動じゃないと云われ、睫毛を伏せる。
     それは……藍湛の云う通りだ。
    「キスをされるのは、嫌か……?」
    「…………」
     押し黙ってしまったのは、嫌悪感を覚えなかったからだ。
     無言を「否」と取ったらしい藍湛は、僅かに泣き笑いのような顔で云った。
    「覚えていないことよりも。忘れられているよりも。きっと別れてしまった方がずっと悲しい」
     その台詞に胸が詰まって苦しくなった。
     俺が記憶をなくしてから、今までこんな風に「好きだ」という感情を真っ直ぐに藍湛からぶつけられたことはない。
     どうやら俺は相当藍湛に「愛情」とやらを注がれているらしい。
     その「愛情」というものを俺が判らないでいるという記憶はある。そんな俺を好きだと云い続ける藍湛の気が知れなかった。
     どうしてだか、こんなにも愛されているらしいのに。何故俺は藍湛のことを忘れてしまっているのだろう。
     込み上げた自責の念。
     忘れてしまってごめん。
     謝罪は喉をせり上がらず、胃に重たく落ちていった。
     暫しの沈黙。それを破ったのは俺の方。
    「……藍湛が俺と別れたくない、っていうのは判った」
     でも、と息を吸う。
    「俺だって、もう小さな子供じゃないんだ」
     自分の面倒は自分で見れる。
     だから、俺を自宅に帰らせてくれないか?
     一人暮らしが出来ない歳じゃない。寧ろ、これから一人でも生活していく必要性が出てくるとしたら、予行練習みたいなことをしておいた方が良いと思うんだ。
     それは嘘じゃない。嘘じゃないし、このままじゃあ藍湛に依存し兼ねない。
     別れるという選択肢が打ち払われども、誰かに寄り掛かりながら生きていくのは嫌だった。
     だから、
    「せめて、俺を独立させてくれないか」
     この提案だけは飲んで欲しいと眼差しで訴えれば、藍湛は数拍視線を彷徨わせてから、魏嬰がそこまで云うのなら……と苦々しい顔をしながらも小さな許諾を示してくれた。
     そうして俺は年が明ける前に、少ない荷物を持って藍湛の家を出ることにした。
     一人暮らしを始めてからというもの、一日に一回は藍湛からチャットが飛んでくるようになった。まるで生存確認のようだ。
     あぁ、俺はよっぽど愛されているんだな……とは思うが、その愛情と、他人を特別に好くという感情を俺が知るには足りなかった。
     一人の朝は藍湛の家に居た時よりも毎日が新鮮に感じられた。
     朝起きて枕元に置かれているスクラップブックを不思議に思いながら捲る。
     一番初めに出てくる男の写真に首を傾げながらも自分の筆跡を辿れば、なるほど、そういう関係性がある人間なのかと納得する。同性と付き合っている、ということに嫌悪感はなかった。幾らかでもオープンになりつつあるセクシャルの話は今時そんなに珍しいことじゃない。
     両親のことは、恐らく心の奥底で悲しい現実なのだと受け入れていたのだろう。ツラいとは思えど、心が裂けるような衝撃を感じることはなかった。
     年明けのご来光をカメラに収めに行くが、お前はどうする? と投げられたチャットの文章には、俺も行く、と返した。
     何か。何かひとつでも藍湛のことを思い出す切っ掛けが欲しかったからだ。
     そのまま、学校近くの神社へお参りにも行った。去年も同じようにしたらしいから。
     願い事は、これまでとは少し違った。
     少しでも病状が良くなりますように。
     ただただそれだけを願った。
     人混みの中、どさくさ紛れに繋がれた手の温度が嫌になる程心地好くて。神社を出る前に、もう一度遠くから同じ願い事を心の中で唱えた。
     年が明けて一週間もすれば新学期が始まる。
     学校への道程に問題はなく、級友との遣り取りに苦は要さなかった。
     スクラップブックに書いてあった『写真部の部室に入り浸っている』という記述にも従ってみた。
     すると、そこには恋人という関係性にあるらしい藍湛の姿があった。
    「……三年はもう授業がないんじゃないのか?」
     机に現像したばかりらしい写真を広げている藍湛にそう問う。
    「暗室を、使いたいから」
     ちらりと部室の中にあるもう一枚の扉に流れる視線。
     あぁそう云えば、藍湛は部内で唯一暗室を使っているんだっけか。
     俺はリュックの中からポラロイドカメラを取り出す。藍湛から貰ったらしいカメラだ。これで毎日一枚写真を撮ってその日のことを記すようにとスクラップブックに書いてあった。
     今日は特に撮るものも思い付かないし、と机にレンズを向ける。パシャリ、撮ったのは藍湛が撮った写真たち……に、見せ掛けてパッとカメラを上げる。
     本当にシャッターを切った瞬間は、レンズが藍湛の俯き顔を捉えた瞬間だった。
     ぱちくり、目を丸くした藍湛に悪戯な笑みを浮かべる。
    「今日の藍湛だ」
     最近撮ってなかったみたいだから、たまにはな。なんて肩を揺らす。そうすると、藍湛はほんの微かにだけ表情を和らげた。
     どうやら俺は藍湛に対してそんな気など欠片も持っちゃいない癖に、彼と付き合うことを自分から提案したらしいではないか。
     その理由が『俺が愛情を向け続けているのが誰か』を探る為のゲームという感覚から始まっているようなのに、今の俺はそんな打算さを忘れかけている。
     ただただ、彼のことを覚えていないことに罪悪感を抱き、早く思い出したいと願っているのだ。
     執着されるのは確かに余り好きではない。けれども、藍湛からの執着には何故だか倦厭的にならなかった。もしかして、これが人を特別に慕うという気持ちなのだろうか。
     けれどもそれはただの憶測にしか過ぎず。俺の心は一体どこにあるのだろうかと溜息が零れた。
     
     二月に差し掛かった頃からだろうか。俺は真っ白から始まる夢を見るようになった。
     毎夜毎夜、必ず真っ白から始まる夢。
     真っ白な靄の向こうには二人の男が居た。
     靄に溶け込みそうな真っ白い服を着た男と、それに対比するよう真っ黒な服を着た男。
     どちらも、今ではコスプレとかでしか見ないような時代錯誤な格好をしている。
     二人の長い髪の毛が微風に靡いている様は穏やかな空気に包まれているようだった。
     初めこそただ後ろ姿しか見えなかったその二人は、次第にコマフィルムを流すよう動くようになった。
     それでも顔だけはいつまでも判然としなかったけれど。
     動き始めた二人の男は最初そんなに親しくはなさそうだった。いや、その表現はやや違うか。お互い相手の言動を探りながら接しているように見えた。
     けれども、いつしか二人の間に漂っていた緊張感は空気中に霧散したかのよう、黒い男の方は無邪気さを纏いながら白い男に話し掛けたり、触れたりしていた。
     反面、白い男は自らアクションを起こすことは滅多になかったが、それでも時折とても愛おしそうに黒い男の髪の毛に指を通したり、頬に手を添えたりしていた。
     仲が良さそうだ、という括りから一線を超えた仲なのではないかと思わせるその遣り取り。
     顔は判然としないし、声も聞こえないけれど、どうしてだかその表情は予測出来たし、喋っている声もそっと鼓膜の内側を打つようだった。
     そんな夢を絶えず毎日見るようになった俺は、これもスクラップブックに書き留めておくべきだろうか、と思って、日記の頭にその日見た夢を大雑把にではあるが書き記すことにした。
     決して嫌な夢ではないけれど、常に夢を見続けているのは多少なり疲れるものでもあり。
     放課後写真部の部室で生欠伸をしていたら、藍湛に「寝不足か?」と問われた。
    「いや、寝てはいるんだけど」
     長い夢を見る所為であんまり寝た気がしないんだと苦笑したら、藍湛は「そうか」と相槌を打っただけだった。
     夢は日々、四季折々を二人の男が過ごすだけの穏やかなものだった。
     春は花見をして。
     夏は花火をして。
     秋は紅葉を眺め。
     冬は雪を纏った。
     服装同様、場面場面の景色も古めかしいものだったが、やっていることは今の俺と藍湛とさして変わらないように思えた。
    「なぁ、藍湛?」
    「何か?」
     部室の机に頬杖をつきながら、藍湛が広げた写真をぺらりと一枚摘み上げる。
     そこには枯れ木が纏うイルミネーションを見上げる俺の横顔。イルミネーションはぼやけているのに、俺にだけはしっかりとピントが合っている。
     まるで敢えてそうやって撮っているような写真だ。
    「藍湛って、俺のどこが好きなの」
     素朴な質問に、藍湛は一度大きく瞬いてから、ゆっくりと唇を動かした。
    「約束を、したから……」
    「約束……?」
     どんな? 首を傾げたら、藍湛は静かに唇を動かした。
    「最期まで、共に在る、と」
    「さいご……?」
     何だそれは。余りにも重たい約束だ。
    「最期まで一緒に居たいと云ったのは、お前の方だ」
     冗談に聞こえない藍湛の声。それでも「まさか」という気持ちが込み上げたのは不思議なことではないと思わないか?
    「時間の許す限り、私は君に寄り添うと」
     そう告げたのだ。真面目な声に、軽い眩暈を覚えた気がした。
    「そんなこと、いつ云ったんだよ……」
     誰かを特別好きになるという感情をどこぞに置いてきてしまった俺が、そんなことを云うとは思えない。
    「……遥か、昔……」
    「昔……?」
     俺たちはこの学校で出会ったんじゃなかったのか?
     重ねた疑問に、藍湛は口を閉ざしてしまった。
     その日の帰り道。俺たちは会話らしい会話をせずに駅で別れた。
     遥か昔、とはいつのことを指すのだろう。
     全く身に覚えがない。いや、それもその筈だろう。だって俺は藍湛のことだけ綺麗さっぱり忘れてしまっているのだから。
     風はまだ冷たく鋭さを保ってはいるが、それでも目の前には三月が見え始めてきた。
     あぁ、もう少ししたら藍湛が卒業してしまうなとぼんやり思う。
     結局俺が深層心理で誰に懸想し続けているのは判らないままで終わるのだろうか。
     そうなったら、俺と藍湛との間にはもう関わりがなくなるのだろう。そう、俺が云ったらしいのだから。
     藍湛のことを忘れる前の俺はどんな心境でそんな提案をしたのだろうか。
     正直なところ。今の俺は藍湛との関係を切りたくはないなと思い始めている。
     ただ、無条件に優しくしてくれる藍湛に縋る気持ちでいるのかも知れないけれど。
     相変わらず、真っ白から始まる夢は毎夜見る。
     一日、一日と親密さを増していく白と黒の男。その影が重なった瞬間。俺の意識は弾けるように浮上した。
     ちっとも悪夢なんかじゃないのに、まるで悪夢を見た後のように心臓が煩く胸の内側を叩いていた。
    「あれは……誰なんだ……」
     夢の中の二人がただならぬ関係なのだということが判明した。
     そんな夢をどうして俺が見るんだ。他人の色事になんて興味などない筈なのに。
     あの夢は一体何を示唆しているのだろう。
     今日は土曜日。学校は休みだ。どうしてだか、それが無性に俺をホッとさせた。今日は、何となく藍湛に会いたくない気がした。
     いつものよう(らしい)藍湛から飛んできたチャットに適当な返事をして携帯をベッドの隅に放る。
     何だろう。何となく落ち着かない。
     寒空の中散歩に出てみたけど、やっぱり胸の奥はどうしてかざわざわしていた。
     コンビニで調達した夕飯を食べながらテレビのチャンネルをいじるが、面白いと思える番組がなくってすぐに消してしまった。
     シャワーを浴びたらスッキリするだろうかと思ったけど、そう上手くいくこともなく。
     胸の奥のざわざわを感じながら。俺は珍しく早めに布団の中に潜り込んだ。
     
     黒い世界に居た。闇とは違う。混じり気のない、真っ黒な世界。
     どれだけそこに居たのだろうか。突然ふわりと胃の腑が浮いて、ぐらりと足元が揺らいだ。
     直後、視界がノイズに埋め尽くされて。
     気が付くと、俺は真っ白な空間にぽつねんと立っていた。
     どこだ、ここは?
     辺りを見回すが何もない。
     壁も行き止まりもない。
     上も下も。右も左も判らない。音もない。
     開放的過ぎて、逆に息が詰まるような空間だった。
     どうしてこんなところに?
     目が霞んでいるのだろうか?
     ごしごしと目を擦ってみるが何も変わりはしない。
     病的に白いその空間で、俺は急にガクンと肩を押された。圧縮した空気の塊に殴られたような衝撃だった。ドサリ、膝をつく。身体が云うことを聞かない。
     手も足も首も、爪の先ですら固まったように動かない。
     何だ? 何なんだ?
     辛うじて動いた視線で状況を窺う。
     何も、ない。あるのはただただ目に痛い白ばかり。
     は、と喘ぐ。唇は動いた。
     不意に、すぐ傍に影が落ちて視線を遣る。その先には病的な白の中でも浮かんで見える純白。風なんかないのに、細く白い布が黒絹に重なって揺らいでいた。
     時代錯誤な格好、長い黒絹。すぐ傍にあるその影はどうやらいつも夢に見る白い男なのだろうと知れた。
     もう少し。首が上がれば顔の造作がハッキリするかも知れないのに。
     もどかしい思いでいたら、純白が長い裾をすっと揺れた。
     その離れていく純白を視線で追い、漸く全身像が判ってハッとする。
     あれは、
    「っ、藍湛!」
     そうだ。あの後ろ姿は、間違いない。時代錯誤な格好をしているその男は間違いなく藍湛の後ろ姿だ。
     今の藍湛ではない。記憶の奥底に眠っていた、遥か昔の藍湛。あぁ、ずっと夢に見続けてきた白い男は藍湛だったのか。
     遠退いていく背中に全力で叫んだ。
     だけどその声は自分の鼓膜にでさえ届かない。それでも叫ぶ。喉が枯れる程。同じ名前を。
     どうしてこの身体は動かない?
     腕が伸びれば、その裾を掴み。
     足が動けば、駆けて行くのに。
     一歩、また一歩と彼の背中が遠退いていく。
     膝をついたまま、いっそ哀れな格好で。
     俺はただひたすらに名前を呼び続けて、彼が振り向いてくれるのを泣きそうになりながら、ただただ、待った。
    「らんじゃん……ッ!」
     待て。置いてくな。待ってくれ。
     いよいよ泣きそうな顔で彼の後ろ姿を凝視していると、ゆるり、長い髪の毛を翻すようにして、藍湛が早足におれの眼前にやってきた。
     そうしておれを見下ろしてポツリと呟く。
    『また、必ず逢おう』
    「…………え?」
    『そうと、約束した』
     ひっそりとした声。
    『時間の許す限り、私は君に寄り添うと告げたことを忘れたのか?』
     小さな、小さな声で呟いた彼は——藍湛は……俺を見下ろしたまま、少し困ったような笑みを浮かべた。
     視界に再びノイズが走る。
    「ら、んじゃん……っ!」
     その声は、澄んだ黒に吸い込まれていった。
     
     緩慢な動きで瞼を持ち上げる。目尻がヒリヒリしていた。
     目許を拭ったら、手の甲が濡れた。
     胸が苦しくて、呼吸が上手く出来ない。
    「らん、じゃん……」
     熱っぽく呟いて、僅かに首を回したら枕元にスクラップブックを見付けた。
     表紙に『毎朝確認すること!』と自分の字で書いてあるそれをゆっくりと起き上がってからそっと開く。
     一ページ目に藍湛の写真と、彼に纏わるメモがびっしりと書き込まれている。
     今更何を? という内容ばかりだった。
     次のページを捲ると、両親が亡くなっていること。自分の記憶は一日しか保たないこと。学校には通っているが、二週に一度は病院に通っている旨が書き記されていて、その後は日記になっていた。
     もう一度一ページ目に戻ってみると、色の違うペンの文字が目に飛び込んできた。
    『俺は昔のことを覚えているけど、藍湛のことだけは忘れてしまっている』という文句を見付けて、胸の苦しさはこれが原因か、と思い至った。
     また日記を捲って、最後のページに書かれていた文章を読んだ俺は、息を詰まらせた。
     そこには二日前に藍湛から云われたらしい台詞が書いてあって。
     それは、ついさっきまで見ていた夢とリンクする台詞だったからだ。
    「時間の許す限り、私は君に寄り添う」
     そう云われたのだと自分の字が俺に教えてくれる。
     そして、夢の中でも云われた。
    『時間の許す限り、私は君に寄り添うと告げたことを忘れたのか?』
     その言葉を望んだのは、俺自身に他ならず。つまり、夢の中で白に寄り添っていた黒い男は恐らく俺だ。
     そう理解した瞬間、脳裡に大量の映像が流れた。過去も現在も入り交じった藍湛との思い出が。
     そうしてやっとハマったパズルのピース。
     俺は誰かを好きになれない。そう思っていたのは、ずっと、ずっと昔の藍湛に焦がれ続けていたからなのだ、と。
     ゲームの勝敗は決まった。軍配は藍湛に上がったのだ。だって、俺は自分が恋を出来ない理由を見付けてしまった。
     俺は、現代ではない藍湛の隣をずっと独占していたいと願っていたことを思い出したから。そして、そのことを思い出した今、俺は藍湛の傍で生きていきたいと自然にそう思った。
     俺が幸せで在れる居場所は、心も体も藍湛の傍にしかない。
     『毎日連絡がくる』とスクラップブックに書いてあるよう、その日も昼前くらいにチャットが飛んできた。
    『今日は雨が強くて写真を撮りに行くには向かないな』
     そんなどうでも良い話題に、
    『これから会えないか?』
     と簡素な文を打つ。
     すると、チャットではなく電話の着信音が鳴った。相手は当然藍湛。
    『急にどうしたんだ?』
    「俺、思い出したんだ……」
    『何を……?』
    「藍湛のこと」
     そう云うと、電話の向こうで藍湛が息を呑んだのが判った。
    『ほん、とう、に……?』
     おずおずとした問いに、事故後の記憶は連続していないけれど、事故前の藍湛のことは思い出したと正直に云う。
     だから、一度会えないか?
     俺の二度目の誘い文句に藍湛は勿論、とどこか水っぽい声で諾意を示した。
     
     藍湛の家まで行こうか、という提案には否を唱えられた。今は丁度兄が居るから、と。だから藍湛が俺の家に来ることになった。
     小一時間で着くと思う。その宣言通りの時間に俺の家のインターフォンを鳴らした。外はまだ雨が強いのだろう。藍湛の右肩は少ししっとりとしていた。
     どこか緊張しているような藍湛をリビングに呼び、ダイニングテーブルの三面に置かれた椅子の内の長椅子に藍湛を座らせてから、インスタントコーヒーを淹れたマグカップをテーブルに置く。そうして俺は藍湛の隣に腰を落とした。
     揺らぐ乳白色の湯気をほんの少しだけ見詰めてから、藍湛はカップに口を付けずに首を俺の方へ向けた。
    「……本当に、私のことを思い出した、のか……?」
    「あぁ……」
     静かに頷いて、俺は唇を舐めた。
    「事故に遭う前に過ごした藍湛との時間を、思い出した」
     それと、と視線を少し斜め下に落としてから、また藍湛と真っ直ぐ向き合う。
    「俺が藍湛に持ち掛けたゲームは藍湛の勝ちだ」
    「……どういうことだ?」
     訝る藍湛に、俺は何て云えば良いんだろうな、と頬を搔く。
    「俺が、今まで誰かを好きになれない理由が判った……。俺の心が誰に囚われていたのかが、判ったんだ……」
     そう呟いたら、藍湛は喉を小さく鳴らした。
    「一体、誰のことを……」
    「……藍湛」
    「……?」
    「何て云えば良いんだろうな……。現代じゃなくて、もっとずっと昔……もしかしたら、前世とか、そういう次元? 藍湛はそういうの信じないかも知れないけど……。とにかく、そういう、根深いとこから藍湛のことを好きだったんだ……」
     ごめん、と付け足したら、何に対してだ? と藍湛の左手が俺の右頬に添えられた。
    「……私は、」
     す、と細く息を吸った藍湛。
    「私が、魏嬰に執着していたのは……お前の云う前世とやらの約束通り、現在でもお前と共に在りたいと思ったからだ……」
     そう云われて、俺はひとつ大きく瞬き。
    「……また、必ず出逢おうと、約束した……」
     そうして、それが今叶った。
     だから、魏嬰が私のことを覚えていなくても私はお前に執着せずには居られなかったんだと続ける藍湛。
     そう云われたら、息が詰まった。
    「……ごめん」
     現代のことも、前世らしき頃のことも。
     全部忘れていてごめんと鼻を啜ったら、藍湛はゆるゆると首を左右に振った。
    「思い出して欲しいとは思っていた……。けれども、思い出さなくても構わないとも思っていた……」
    「どう、して……」
    「お前の人生は、お前のものだから……」
     出逢おう、という約束は果たされたのだ。また愛し合おう、そんな意味を込めた約束ではあっただろうが、それを理由に魏嬰の人性を私に縛り付けるのは本望ではなかったから、と藍湛は饒舌に語る。
     大事なことを言葉にせず時折俺に誤解を与えたり、憤慨させてきた藍湛ではあったけれど、本当に本当に大事なことはちゃんと言葉にする。それがこの男だ。あぁ、変わらないんだな、と思った。
    「……藍湛、」
    「うん?」
    「何か、取って付けたみたいになるけど……」
     頬に添えられた手に手を重ねて目を細める。
    「俺……藍湛のことが、好きだ……」
     だって、ずっと一緒に居たいと思う。藍湛の傍に居られない現実なんて考えたくない。
    「一緒に、生きていきたいんだ……」
     ずっと傍に居て欲しいんだ。
     縋るような俺の告白を、藍湛は無言でそっと飲み込んだ。
     柔らかな感触が離れていくのが嫌で、俺は藍湛の腕を引いて今度は自分から触れにいった。
    「藍湛、好きだ……」
     心の底からそう思う。まるで泉から湧き上がる水のように。愛おしさがとめどなく溢れてくる。
    「ずっと、ずっと好きだったし、この先も何度だってお前のことしか好きにならない」
     俺の「愛してる」は、後にも先にも藍湛へしか紡ぐことは出来ないだろう。
    「本当に……ごめん」
     ぐすりと鼻を鳴らしたら、藍湛は俺の唇を親指で撫でながら微かにだけ笑みを浮かべた。
    「過程も大事だが……結果の方がもっと大事だ」
     魏嬰が私のことを思い出したこと。現代での私のことだけでなく。過去の私のことも思い出してくれたことが何よりも嬉しいと目を細める藍湛の言に、上っ面さは微塵も感じられなかった。元より、藍湛はそういう取り繕いが上手い方ではない人間だ。だから、こちらも泣き笑いみたいな顔になる。
     そんな表情を見られるのは何だか不恰好な気がして、藍湛の腕を引き、彼の肩に額を乗せた。
    「らんじゃん……」
     名前を。ごめん、を。そして、お前が好きだ、と。何度も繰り返す。
     俺が藍湛の肩に額を落としたのと同じように、藍湛は俺の肩に顎を乗せて背に腕を回してきた。
     うん、うん、と静かに頷く藍湛は、時折俺の名前を呼んでは、自分も好きだと繰り返すものだから。俺たちは空白になっていた今までの分を取り戻すように互いの名前を呼んで、想いを寄り添わせた。
    「……魏嬰」
     どれだけそうしていたか。そっと腕を張った藍湛が俺の両頬を手の平で包んできた。
    「藍湛……?」
     一瞬視線を彷徨わせた藍湛に首を傾げる。
    「その……嫌悪感があるのならば、これ以上触れることはしないが……」
     直後、軽く斜に重なった唇同士。
    「…………」
     藍湛がその先に云いたいことが判らない程、鈍い俺ではなかった。
    「え、と……」
     俺も視線を彷徨わせて、舌先を噛む。
    「嫌、じゃ……ない、けど……」
     嫌じゃない。過去にしてきたことと同じことをしたいと言われているのだ。嫌悪感なんてある訳がない。
     ある訳がない、の、だが。
    「……この身体では、初めて、になる……だろ……?」
     突然、記憶の中のような交わりは出来ないのではないだろうかと戸惑いを見せたら、藍湛は小さく頷いた。
    「無論、きちんと段階を踏む」
     いきなり無理はしないと確かな声音で紡がれて、肩の力が少し抜ける。
    「……少しずつ、」
    「あぁ」
    「少しずつ……藍湛のことが欲しい」
     藍湛の横髪を梳いたら、藍湛は記憶の底にあるものと同じほんのりとはにかむような笑顔を浮かべてから俺を抱き締めてきた。
    「魏嬰……愛している……」
     耳許に囁かれた優しく低い声が、俺の神経を甘く痺れさせる。
     外の雨はいつの間にか六花に変わり始めていた。
     
     
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