セカイノハテ「……ッシュ……、アッシュ?」
その声にアッシュは顔をあげた。目の前には一対の碧の瞳がきらりときらめいて、その中にアッシュの同じ瞳を映していた。ただまっすぐに自分にだけ向かっているその視線を感じるのは悪くない。けれどその少し不安を含んだ声音にどうしたのかと問えば、目の前の瞳がふわりと柔らかくゆるむ。
「アッシュがこんなところで寝てるなんて珍しいな」
こんなところで、とはどういうことだろうか。それを思い出さねばならないということは言われた通りアッシュは寝ていたのだろうか。寝ているつもりなどなかったが声のする直前まで一人ではないことを忘れていたのだから。そうだ、この空間には自分ともう一人いる。そっとのばされたその手はアッシュに触れる直前で一瞬ためらったのちに、そっと頬に触れて、一度触れたその手は遠慮をなくしてアッシュに体温をうつしていく。
「 」
名前を呼んだ、気がした。声を出したのだと思う。けれど口にしたはずのアッシュの耳には届かなかった気がしたのはやはり寝ぼけていたのかもしれなかった。けれどその声に彼は口元を緩めて小さく笑ったし、うんと頷いたのだから間違いない。
ここには彼と自分の二人だけしかいなかった。だから彼はアッシュだけを見ているし、アッシュもいつもは仲間たちとともにいるはずの彼を独占している。
こんな時間を手に入れたことはいつかあっただろうか。
触れた体温が同じになって、まるで元々が一つの個体のような……いや、彼は自分のレプリカなのだからそんなことは当たり前で、だから触れることも許すし、むしろこうやって二人の距離がなくなるほどに近くに存在することのほうが当たり前なのだ。
「こんなところにアッシュがいるなんて、やっぱり俺たち……同じ、なんだな」
そういいながら隣に座りこむルークとの間にあるほんのわずかな隙間が無性に気になって、アッシュはルークの肩に手を回してその距離をゼロにする。そうすればさっきから感じている同じ温度がふわりと全身を包むような気さえしてくる。
「アッシュ?」
アッシュの胸に倒れこむような形になったルークは少し驚いたのか目を丸くして少し下からアッシュを見上げるけれども、あまりに近い距離に照れたのか少し頬を染めると肩口に顔をうずめるように顔を押し付けた。
「やばい、アッシュ……すきだ……って」
アッシュの耳に確かに届いたその声に、アッシュは驚きもしなかった。なぜならそんなことは当然なのだから。きっとその顔は真っ赤に染まっているのだろう。そして少しもったいないけれども抱きしめた腕を緩めればその顔が見れるはずだ。
あたたかい、触れたままの体温。
「 」
目の前のルークにだけ聞こえる声で囁いて、アッシュはそっとその頬に手をかけた。柔らかな唇を親指でそっとなぞると一瞬びくりと体を震わせたルークが、けれども何かを待つようにそっと瞳を閉じる。ルークの唇のまだ慣れない感触にアッシュはむしろ喜びを感じながらほとんど触れたままで何度もその感覚を確かめるように口づけていく。ただ受け入れているだけのルークに、これは自分のものだという気持ちだけが募っていく。
そうだ、こうやって触れたかったんだ。それは多分ルークも。
少しだけ顔を離せば濡れた瞳のルークが目の前にいて、小さく開くその唇からは多分声はしなかった。けれどもアッシュにはもっとと言っているようにしか聞こえなかった。
それは多分自分の心の声なのだと知っていたけれども。
ルークもアッシュの目をじっと見て、小さくこくりとうなずいた、ように見えた。アッシュにもわかるのだ、ルークにもアッシュの心がわからないはずはない。
そしてその口が小さく言葉を紡いだ。
「……こんなところで……?」
その言葉は、夢見心地だったアッシュの心に投げられた小さな疑問のかけらだった。投げこまれたそれは波紋を描いてアッシュの中に広がり、それが何かに触れた。
ルークはさっきからずっと、こんなところで、を繰り返している。確かにここはそういった雰囲気を醸し出すような場所ではないとアッシュは知っていた。アッシュにだって夢はある。シチュエーションとしては昔使ったバチカルを望める小高い丘は絶好の場所だったし、白銀のケテルブルクなんかも捨てがたい。二人きりになるならばそれほど広くない部屋とか、だれの目にもつかないような場所がいい。けれど今のこの場所は想像していたそれとはなんとなく違う気がしていた。
気がした?
アッシュは再び飛んできた疑問をひとまず頭の中に並べた。
どうしてルークが自分の腕の中にいるのだろうか。そもそもルークは、そしてここはどこだった?
ここは……
Q1.ここはどこでしょうか
A:分かってたらこんなところで寝てない
頭が痛い、と思うのは多分気分のせいだ。実際には頭が痛いわけではない。ただ頭が痛かったからだと言い訳したいだけだ。
アッシュは確かに寝ていた、のだと思う。はっきり言ってこんな状況で寝ているほうがおかしいと思うのだが、いかんせんアッシュにはやることがなかった、いやできることがなかったというのが正しいだろうか。
覚醒しきれない頭を気合で起こして、アッシュはぐっと瞼を押し上げればそこにはやはり見知らぬ景色が広がっていた。もちろん腕の中にルークなどいない。座ったままの変な姿勢で寝ていたのか体が、特に肩が重く痛かった。夢だ、今アッシュが見ていた映像はすべて夢なのだとアッシュは理解していた。そうでなければ、そんな状況なんておかしすぎる。目が覚めている今にしてみればおかしいことなんてわかりすぎるほどわかるのに、夢というのは恐ろしいものだ。アッシュは少し首を振って頭を整理する。
そこは、まさに見知らぬ場所だった。アッシュが立ち入った遺跡からつながったこの場所に迷い込んだのは昨日のことで、出口を探したが見つからずそのまま夜になった。明かりのないまま彷徨い歩く気もなく、そして今は朝になって少し明るくなったのでやっとこの場所の姿が見えたわけである。
部屋の中、であるとは思う。普通の家よりは高い天井の上部にある天窓からうっすらと差し込む光は暗闇の中にいたアッシュにはそれでもまぶしく感じる。この場所に迷い込んだのは時間にすれば太陽の落ちる直前のことだった。しかしアッシュはいつその太陽が沈んだかを知ることはできなかったし、またいま差し込む光に朝が来たのかと理解したところだ。意図せず迷い込んだのは多分ここからそう遠くない建物のどこかで、太陽は落ち、音素灯の明かりもついているのかつかないのか判別のできない状況で小さなランプを手元に、暗がりのなか感覚的に安全だろうと入り込んだこの部屋で何かを考えようとしたのか、休もうとしたのか、とにかく壁際に座り込んだ。そして気が付いたら今だ。
そうだ、たぶんいろいろ対策を考えた末にあいつを呼ぼうかと考えたのだ。いつだってどんな時だってルークにならばアッシュの言葉は届く。それは一番簡単な作業であり、最終手段でもあった。その時はもう日付の変わる直前くらいだったけれども、ルークが何をしているだとかそんなことはアッシュには基本どうでもいいことで、どうでもよくないのはアッシュが迷ってルークに助けを求めなければいけないという状況だけだ。だが、アッシュには後者の理由ゆえに安易にルークに助力を求めることをしたくはなかった。多分ルークはアッシュのことを心配してくれるだろうし、協力してくれるだろう。ただこんなざまを知られたくないただの見栄がアッシュの原動力だった。朝が来れば何かわかるかもしれないしそれまで待とうと思ったのも事実だし、結局覚えている限りではルークに回線で話しかけたりはしなかったのだから朝まで待つを選んだのだろう。
多分。
ただそれが記憶にないだけで。
それを思ったのは昨晩のことで、気が付いたのは今。その空白の時間に何をしていたかといえば、だから多分寝ていたのだ。
言い訳をすれば、それまで一人で一日新しく発見した遺跡を探索していたし、疲れていた。それにここは気温も暑くもなく寒くもなく、誰の気配も感じないくらい静かで、じっとしていれば自分の心音すら聞こえてきそうなくらいだったのだ。
あまりにも静寂な空間にいれば、いつも静かだと思っているその時ですら普段は音機関の稼働音や人の気配、木々のざわめきなど音がないことなどない。まるでどこか世界の果てに取り残されたような小さな不安がアッシュに静寂という形で襲い掛かっているような気さえしたのだ。
誰かが、そう思ったのも事実だ。そして脳裏に浮かんだのが世界中でただ一人、どんな時でもどこでもコンタクトの取れる彼だったのは仕方のない事実だった。
そうだ、どんな場所にいたって、自分がどこにいるかさえわからなくても、世界にたった二人だけになってしまってもアッシュとルークはそれでもつながっていて、意思を疎通することができるだなんて世界の常識から考えれば異常ですらある。けれどその事実をアッシュは当然であると思っているし、ルークもそうだろう。ルークは自分のレプリカである以上に、この世に例を見ない完全同位体であり、他にあるわけもない第七音素との同位体でもあるのだ。奇跡以上に奇跡の存在である二人が存在することすら異常事態であり、それ以上に驚くものなどないはずなのだ。
だからルークはアッシュにとって唯一であり、最初に脳裏に浮かぶ人物であるとともに最後に残る人物である。ここまでがアッシュの言い訳だ。
Q2.空白の時間アッシュは何をしていたのか
A:あんな夢なんて見ていない!
目を開ける前の記憶をアッシュはしっかりと持っている。それは多分、いや絶対夢だと断言できるのはここにルークなんかがいるわけがないからだ。アッシュがここにたどり着いたことすら偶然で、ルークたちどころか漆黒の翼たちまでここに来る前にいた遺跡に行くことすら伝えていない。ギンジだって遺跡のほど近い浜辺までしかアッシュを送っていないのだ。それに、アッシュが誰か他人が寝ている間に近づいて気が付かないわけがない。これでも神託の盾騎士団の形だけでも師団長でいたのだ。それなりの戦いは経験しているし、騎士としての心構えだってある。なのにそれを疑問にも思わず、それもルークを前にしてあんなふわふわとした気持ちでいるなんて、正気の自分には考えられなかった。
それでも、いつも見ているような夢と違ってなぜかはっきりと脳裏に焼き付いたあのルークの表情も、触れたぬくもりも、唇の感触も……あまりのリアルさに自分にドン引きしながらもむっと顔をしかめるのはそうしないと顔の表情を保てないからだ。
実際で言えばルークのそういった艶めいた表情なんて見たこともないし、聞いたこともないし、そんな雰囲気になったことなどかけらもない。アッシュ自身がそんなことを思ったこともないのだから当たり前だ。けれど夢の中だとはいえ、アッシュはそんなルークにも自分にも違和感を覚えるどころか当然と思っている節すらあったし、思い出している今でもそんなことを考えている自分にドン引きはするもののルークに対してそれはないのは事実だった。
Q3.何もないところからそんな夢なんて見ないんじゃないだろうか
A:……
「俺……は」
何か見つめなおしてはいけないものを見つけた気がして、アッシュは誰もいないのにもかかわらずその口から何かいけないものを出さないようにその手で口を覆う。けれども覆った手が触れて思い出すのはその唇に触れた感触だけで。それはどんな感触だったのだろうか、触れてもしょせんは夢の中の出来事でアッシュは実際のルークなど知らない。いや、それどころかアッシュはいまだかつてそんな事態に陥ったことがなかった。今思い出しているすべては完全な妄想でしかない事実に愕然とした。周囲にそういった対象が全くいなかったわけでもなく、アッシュも健全な青少年であるし今まで事実はなかったとしても妄想で致したことがないわけではなかった。けれどその対象は決してルークではなかったし、そんなことを考え付いたりもしたことはなかった。
だが。
今の脳内に回想している夢の話もとい妄想は脳内アッシュがいけると判断している。おかしくないか、いやおかしいだろう。
仮もくそもなく相手は自分のレプリカで、けれど彼が決して自分自身ではないこともわかっている。自分自身は目の前に現れたりしないし、腕に抱き着いてそれが暖かいと思ったりしないし。
「……アッシュ?」
名前を呼ばれたりしない。
……いや、それはたとえの話で、幻聴が聞こえるなんてアッシュはいまだ寝ているか、相当混乱しているかのどちらかなのだろうとむしろ冷静に一度大きく息を吐いた。
「あ、ごめんアッシュ。なんかよく寝てるから起こすのどうかなって思って隣で待ってたら俺も寝ちゃったみたいで……アッシュ?」
とん、と一度かるく腕をたたかれて、離れていくからだをアッシュは瞬きもせずに見つめていた。わかったのは隣にいたはずの二人の間に空いた隙間に入り込んできた朝の空気が思ったよりも冷たいことだけ。
Q4.いつからルークがアッシュの隣で寝ていたのでしょうか
A.「時間わかんないけど真っ暗なとこ歩いてたらアッシュがいたからここ安全なのかなって。アッシュ起こすと怒られそうだからじっと待ってたんだ!」
山奥に見知らぬ遺跡のようなものがあるという話を聞きつけたのは一週間前のことだった。場所はテオルの森の奥、あまり地元民も立ち入らない場所で、人の手のほとんど入っていないそこにはあまり街の近くには寄り付かないような魔物も跋扈していて、けれども場所としてはキノコロードに近いことから貴重な素材が手に入る場所なので人が絶対に入らない、というわけでもなかった。けれども好んでそこに入るものは稀だ。街からも遠く、途中で森に入るため馬車も使えない、人の目をしのんで生きる盗賊などが住みやすい場所でもなかったので、マルクト領にもかかわらず、長らくそこに調査が入ることもなかったのだが、大陸を降下させた時のひずみで山の一部が滑落しているらしいと向かった先で見つかったのが件の遺跡だった。
創世歴時代の遺跡であることはその遺跡を形作っている素材を調べればすぐにわかった。もちろん発見したのはマルクト軍であるわけだから何か有益な情報など先に根こそぎ奪われていることは承知の上だ。セフィロトでもないこの場所を調べたところで何かわかるとも思わなかったが、意図せずに思いがけない収穫があるかもしれないとアッシュはその遺跡に一度行ってみようとそこに向かった。
けれど、そこは軍の管理下にあるのだからアッシュが身一つで行って入れるわけもないことはわかっていた。アッシュの持っている伝手でどうにかしようとも考えたが、結局どんな手を使っても最終的にはルークのそばにいるあのジェイドに話は通ってしまうのだろうから、手を回したところでルークたちにばれずにということを考えたところで無駄だ。そんなことに無駄な労力と精神力を使う気にもなれず、いろいろ考えた末にアッシュはルーク伝手にジェイドへと直接話を通すことにした。
ジェイドのことは気に食わないが、彼自身は軍人らしく損得のわかる人物だ。アッシュの手に入れたその遺跡の情報では、創世歴時代の民間の何かの施設だろうということだった。今でいえば保養施設に近いのだろうか、あの場所は辺鄙な場所であるだけで、気候も悪くない。これが軍事施設ならばアッシュが頼んでも入れてもらえないかもしれないが、グランコクマからの遺跡探検ツアーとか構想されているらしいですよなどという噂まで聞こえてきているのだ、一人先に入るくらい問題ないだろうと踏んだのだ。確かそれが三日前。
そして、アッシュの予想通りジェイドから現場に話を通しておきましょうと返事があったのが一昨日で、アッシュは早速その遺跡に向かったのである。
そこにたどり着くまでに道はなかったが、ここ最近何人もの関係者が往復したのか、けもの道のようなかろうじて道だとわかるような草の生えていない道があって、一番近い小さな町から徒歩で二時間ほどでようやくそこにたどり着いた。
その遺跡の入り口はいまだ半分土で埋もれていた。その姿を見てみれば今まで見つからなかった、というのがよくわかる。比較的土の新しい新しい崩れた右側の山肌が先日滑落したという部分だろう。だが、そのほかの遺跡の入り口を覆っている岩土はもとは土であろうそれが岩のようにかっちりと固まり、そこには無数の蔦が這っている。入り口が埋もれてしまったのは最近の話ではないことはそれだけでわかる。ここまで見つからなかったのも道理だとアッシュは思った。
新しく表れたその建物は、今まで見た創世歴時代の建物と同じく、山肌から見えるその建造物は白く時代を感じさせない美しさを保っている。入り口から数メートル四方には扉を包み込むような荘厳な模様で彩られた柱と壁があるが、その周囲には何か埋まっているのかと思うようなものはないから、アッシュがよく向かうセフィロトのように地中に深く掘り進めていく構造なのだろう。さすがにこの山ひとつ何かの具合で建物ごと埋もれてしまったというのは考えにくい。面白いものを見つけたら教えてくださいと渡された調査済み遺跡内の見取り図を見ても一般的なオールドラントの建物とは違っていてむしろいったいどういう構造にしたかったのかさえ分からない。今まで行ったことのある創世歴時代の建物もそうだった。中に何が隠してあるのかと思うくらいの罠や仕掛けでようやくたどり着いたそこに何もなかったということも多くある。多分昔には何かあったのだろう。その何かが今では意味のないことなのか、失われてしまったのかはわからないけれども。
「許可証は……ありますね。ここは泊まれるところもないから帰るなら日のあるうちに出てくることをお勧めしますよ」
入り口を警備しているマルクト兵がジェイドの発行した許可証とアッシュの顔とで視線を往復して多少気の毒そうな視線を向けたのが気になった。中に何かあるのか……いや、ただルークのことを知っているか、こんな若いのにジェイドに直接許可証を発行させるなんてどんな見返りを要求されたのかとか思っているのだろうか。アッシュも正直何かの見返りを要求されないか探っているのだが今のところはない。ここで何か発見できればペイできるのか、何もなかった時のことを考えるとなんとなく頭が痛い。マルクト軍が隅から隅まで調べているはずなので出てきたほうがマルクト軍的に困るのでは、と思ったが出てきたところできっと奴の功績にされるのだから何も困ることはないのか。
対するアッシュも複雑な顔になっていたのだろう、大丈夫ですかと聞き返されてしまった。たぶん大丈夫ではない気がするのだが、ここまで来たからには仕方がない、アッシュは兵士にありがとうとよくわからない返事を返して遺跡の中へ足を踏み入れた。
その中は遺跡、というよりは大きなホテルか宮殿に近いつくりだった。入り口に大きなホールがあり、地下へ続く階段が大きくとられていて左右に広がる廊下に個々の部屋につながる扉がある。見渡す限りは今の建物と変わらないように見えるが、階段を下りた下は創世歴の建物らしく突然別の広間に飛んだり、多分建物の上部だろう空の見える部屋にたどり着いたりするらしい。譜陣を使った転移装置は便利なものだなと思いながらもなんとなく不気味でアッシュ自身はあまり使いたくない。一度物質を消して再構築しているようなものなのだから途中でなにかミスでもあったらと思ってしまうのは多分普通だ。それは後回しにしようと、入って右側の部屋から順に覗いていくことにした。
思ったより普通だな感じたのは逆にアッシュにとっての違和感だった。部屋の中には椅子やテーブル、ランプといった調度品があり、窓がないだけで普通の部屋だった。窓はないが部屋の中は音素灯の明かりで十分明るい。これは探索の際にマルクト軍が修理して使えるようにしたらしい、創世歴時代の音機関でもシンプルな音素灯くらいならば修繕することはたやすい。他にも何かそういったものがあるだろうかと見回しても、それらしきものは見えない。だが、アッシュはそこで違和感の正体に気が付く。
創世歴時代の遺跡が出てきたということで確認しに来たはずだったのに、部屋の様子が思ったより普通だと感じたこと。それは。
「……最近まで誰かが使っていた、か」
確かに建物自体は創世歴時代のものである。けれども、今アッシュの目の前にある調度品はそれほど古いものではない。部屋の片隅にある音楽を聴くための譜業などはアッシュが知る限りバチカルにいたころにはなかったはずだ。十年よりまだちかい時にここは誰かに使われていた。
だが、入り口は塞がれていたし、この周辺に誰かが行き来した形跡もなかったらしい。地元民も知らない打ち捨てられた遺跡にどうやってたどり着いてどうやって使っていたのか。改めて手元の見取り図を眺めてみたけれどもほかに出入り口は書かれていなかった。道なんてすぐに消えるし、入り口がふさがれたのも最近なのかもしれない。だが、そういった情報はどこからもジェイドからも聞かされなかった。
いや、もしかしたら知っていて教えなかったのかもしれない。この遺跡が誰かに利用されていたことなんて見ればわかる事実だし、それが誰かさえわかっていて、もう調べることがないからアッシュに簡単に見せたとか。
考えても仕方がなかった。何もないなら何もないでいい。ここには何も新しい情報はないという情報がアッシュの中に書き込まれるだけだ。いつだってそうやって可能性を消したうえで選ぶべき道を選んできたのだ。無駄なことではない。
ここは何の建物だったのか、に加えて誰が使っていたのかという増えた疑問を調査すべくアッシュは建物の中を歩いていく。
気が付いたのは、新しい調度品が入っている部屋はほんの数部屋で、あとは何もないがらんどうの部屋ばかりだということだった。創世歴時代から残っているものは建物自体だけで、あとは空調など大きな譜業の置いてある部屋や調理場などで、暖炉や作り付けの棚などは古いものだが、調度品やこまごまとしたものは最近運び込まれたものだということがわかる。さすがにそんな昔のものがホイホイと残っているわけもなさそうだ。この建物がずっと埋まっていたならともかく、埋まっていない時期もあっただろう。その間に盗掘されたり、何かほかのことに利用されたりしていたことも大いに考えられる。
確かにここは不便だが、不便さを好むものもいる。一通り見て回ったらここが誰が使っていたのか見当がついているか警備をしていた兵士にでも聞こうかとアッシュは地下へと向かう階段を降りる。下の階も多分似たようなものだろう。部屋数は一階よりも減るがその代りに転移装置がいくつか置いてあるらしい。アッシュはわざとそれを避けて、まずは一番突き当りの見取り図で言えば何も書かれていない部屋の扉を開けた。今までの見取り図と現物の関係からいうと何も書きこみのないところには何もない。その隣の本棚があると書かれている場所のほうがきっと何か得るものがあるだろう。けれどアッシュはせっかくここまで来たのだから全部見て回るつもりでいたし、見て回らなかったところに「そこには面白いものがあったのに、残念です」とか眼鏡を光らせながら言われると悔しいので何も書かれていなくとも絶対に調査してやると無駄な労力を使う気でいたのだ。
どうせなにもないのだからさっさと……と考えながらと扉を開いたその先で。
「床が光ったと思ったらさ、なんか俺だけどこかほかのところに来ちゃったらしくて、譜陣が光ったのはわかったんだけど、それならほかのみんなが来ると思ってしばらく待ってたけど誰も来ないし、そしたら真っ暗で何も見えないし、うろうろしてたらアッシュがいたんだけど寝てるし、声かけても起きないし、アッシュ隙だらけだから心配だし待ってたら起きるかなと思って隣に座ったら……ここどこ?」
アッシュは心底落ち込んでいた。
目が覚める前の夢から始まって、目が覚めて隣に見つけてしまったルークとか、それ以上に実は一番の頼みの綱だったルークがアッシュと同じ状況で同じ場所の目の前にいることとか。いや、決してルークに何か期待していたわけではなかった。回線を繋げたところで何かわかるとか思っていなかったし、助けを呼ぶつもりもなかった。ここもきっと誰かが使っていた場所で、どこかに入り口も出口もあるはずで、明るくなればきっと解決するものだと思っていたし、つまりはこんなところにルークがいていいはずがなかったのだ。そして声をかけても起きなかったとか、ルークの話を聞いていればルークのアッシュにかけた言葉とアッシュの記憶にある夢の中のルークのセリフがダブって……そうか、好きじゃなくて隙か……とか、浮上する要素は一つもなかった。分かったのは自分の脳味噌が高性能であることと、ルークが一人であることだけだ。
「お前もあの遺跡の部屋から来たのか。まさか一人、じゃないだろうな」
「ジェイドもこの遺跡見ておきたいって言ったからじゃあみんなで行こうかって、なのに何で追ってきてくれないんだろ」
考えればルークを一人でこんなところにやるようなことはあの面子からしてなさそうだし、アッシュの足の踏み入れた部屋には確かに譜陣があった。けれど見取り図には書かれていなかったし、ここに誰か先に来たのならば音素灯がともっているはずで。消えたルークを追って誰も来ていない、のではなく誰も来れないとしたら。
「あの譜陣に何か仕掛けがある、とか」
そうでなければ今の時間まで誰もここに現れないなんてありえない。
「俺たちだけがなぜか飛ばされて、あとは誰も反応してない可能性があるってこと?」
「お前が消えたのにガイが追いかけてこないわけないだろうが」
「……言いたいことはわかるけど、お前のその無駄な信頼感は何だ。俺だってそんなにいろいろやらかしてるわけじゃない……んだからな!」
言葉に少し間があったということは今回も何かやらかした自覚があるらしい。一人で勝手に行動したとか、ここにいることとか。
「俺たち以外のだれの気配もないということは、理由はどうあれ誰も来れないということなんだろう。それだけわかれば十分だ」
アッシュだって今ものすごく脳内は混乱しているのだ。その中でとりあえずすべきことだけ隅っこで整理して、ルークの前で何とか体面を保っている状態で、できれば今すぐ目の前からルークが消えてほしいという願望は確かにある。ちょっとでいい、いやできれば一時間くらい消えてほしい。
一時間したら戻ってくるくらいは許してやる。
一瞬そんなことを思ってしまって、アッシュは深いため息とともにルークからの視線を遮るようにはらりと落ちてきた前髪をかきあげた。状況確認も何もあったものではなかった。ルークがアッシュの名を不思議そうに呼ぶ、それだけで夢であったような甘やかな気持ちが浮き上がってくるのだ。これはおかしい。現実のルークはほら、こんなに馬鹿面をして状況がわかっているのかわかっていないのか、じっとアッシュの動向を見つめているのに。
その瞳が少し不安を映してゆらりと潤んだ……ように見えた。いやそれただの気のせい、気のせいでしかないのだ。
「お前……は」
思わずルークの視線を振り払うように立ち上がって、けれど何を言おうとしていたのか全然わからなくて口が途中で止まる。首をかしげるルークにアッシュはひとつ息をつくと浮かんだ言葉をただ口にする。
「アッシュ?」
「お前はここに来た時の状況をもっとちゃんと思い出せ。俺はもう一度飛ばされたところまで行って確認してくる」
そうだ、ルークに消えてもらうのではなく自分がルークの前から一時的に消えればいい。それはアッシュにとって名案だと思った。
「え? 俺も行くって。俺も戻りたいもん」
けれどもルークがそういうのも当たり前だ。知らない場所で置き去りにされるのは確かに不安もあるだろう。特に今までそんなにアッシュはルークに信用されるようなことをしたこともなかったし、知っている場所ならそんなことを言いながら置き去りにしても不思議でないシチュエーションだ。だが今のアッシュがそんなことは絶対しないといっても説得力がないのもわかっていた。
「俺もお前と同じで勝手に飛ばされたここがどこだかわからん。唯一回線で連絡が取れるお前がここにいる以上一緒に行動したところで意味はないだろう。何かあれば連絡する……そうだな、剣以外の荷物は置いていく」
そういって荷物を手渡せば、ルークは不安げな瞳はそのままに小さくうなずいた。
「そうだよな。手分けしたほうが効率的……だよな。多分魔物の気配はないみたいだけど気を付けて。俺はこの部屋確認してみるから」
おいていくなと言いたげな目をしながら、ルークがそれを言わないのはアッシュを信頼していてか、仕方ないとでも思っているのか。本当はよくわからないこんな場所ならば二人で行動したほうがいいに決まっている。それをあえてルークを置いていこうと無理に納得させたのはアッシュのただの自己都合だ。その自己都合の内容ゆえに絶対にルークを置いて言ったりはしないのだが、言えないから余計に不安をあおるような言葉になってしまうのだ。
こういう時はどうすればいいのだろうか。今までルークに対してそんなことをしたことも、しようと思ったこともないからわからない。
「俺が確認したいだけだ、すぐに戻る」
この言葉が正しかったかどうかはわからない。けれどルークは表情は変えないまま小さくうなずいたので間違ってはいなかったのだろう。
扉を開けておくことを条件にアッシュは漸くの事ルークの視線から逃れて部屋の外に出ることができた。いくらか歩いて後ろからなにもついてくる気配がないことを確認してアッシュは再び深くため息をついた。
足元は薄暗かった。それは長く続く通路には窓がないせいだ。アッシュの立ち入った遺跡と同じ施設ならばここは地下で、だから窓も明かりもないのだというのならばなんとなくわかる気がする。ただ昨日は真っ暗だった通路がなんとなく明るく見えるのは天井についている石がぼんやりと光っているからだ。外からの光を屋根の上のどこかから入れる場所があるのだろう、さっきいた部屋でも上のほうに窓があったのだからそれほど地下深くではなさそうだ。幸にしてアッシュは夜目が効くほうだ。一度目をつぶって暗さに目を馴染ませればさっきはぼんやりとしか見えなかった通路も足元に不自由がないほどには見える。
歩けばかつんと靴音が鳴る。誰の気配もしないが誰もいないという確証はない。けれどもさっきの部屋にもルークがいることだし、昨日もそれほど気配を消して歩いたわけではなかった。自分たちがいるということを隠す必要はないとアッシュは足音もそのままに足を進めた。足元の石のような感触は確かに昨日歩いた遺跡と似ている気がする。建物自体も同じだろう。とすればここは発見されたかった遺跡の一部である確率が高い。
昨日もこの場所に飛ばされてきてから二時間ほど歩いたが、建物の広さ自体はそれほどでもない。あまりよく見えなかったので確証はないが上に上がったり下に降りたりする階段のようなものはなかったし、部屋数も五部屋くらいで、アッシュのいたあの部屋が一番奥の一番広そうな場所だった。暗かったので書くことのできなかった見取り図を頭の中で展開しながらアッシュは柱の数を数えつつ通路を進んでいく。三回ほど曲がって、その先を右手に行ったところが始発点のはずだった。
通路に確認すべきものは特になさそうに見えた。いや、今だって特に何か確認しようと思って出てきたわけでもなかったのだから、あとで明かりをもってちゃんと確認すればいいだろう。そうだ、わざわざルークを置いて出てきたのは、ルークに言ったように建物内を確認したかったわけでもなく、アッシュの中での現状確認をしたかっただけなのだ。
昨日訳も分からず譜陣に足を踏み入れ転移装置で飛ばされたここにたどり着いて、この暗さでは何もできないと朝まで待つことにしたあの後、本当ならばこんなところで寝るつもりなどなかった。一日二日寝なくても何とか活動できる自信はあるし、この闇の中で動き回るほど馬鹿でもない。持っているランプにも時間の限りがあるし、最終的にはルークに連絡を取ることもできるだろう。幸にしてジェイドがアッシュの居所を知っているし、いつこの遺跡に入ったかも把握されている。先にあの警備兵が知らせてくれている可能性もある。別に迷ったわけでも罠にかかったわけでもないが、マルクト軍の調査しきれなかった場所にいることだけは確かだった。見つけてやったくらい言えば迷っていたなどといわれることもないだろう。だから、いつだれが、それが味方か敵かはわからないけれども、来てもかまわないように壁際に座り込んで夜明けを待つつもりだった。
けれど気が付いたら隣にルークがいて一緒に眠っていたとか、そうだ今のここまでが夢でそろそろ目が覚めるのだ、と現実逃避をしたけれども無駄だった。
問題はルークがいつアッシュの隣にいたかと、ルークの扱いをどうしようかということだ。ルークだってそれほど遅い時間に遺跡に入ったわけではないだろう。警備兵の言った通り日が落ちればそこから近くの街までは拓かれていない道を進まねばならないので日が暮れる前に街につけるような時間に出る必要がある。迷い込んだこの場所は入り組んではいるが基本一本道で迷うような仕掛けもなかったように思う。アッシュが最後にたどり着いたようにルークのアッシュのいる部屋に最後にたどり着いてアッシュを見つけたのだろうが、ルークがそばに来てアッシュが気が付かなかったことにアッシュは驚いているのだ。
もしかしたら、あの夢が関係しているのかもしれない。ルークの夢を見ていたからルークの接近を許した? ルークが接近していたからあんな夢を見た? どちらもあり得るようであり得てほしくない話ではあった。
どちらにしても。
思い出せば思い出すほどアッシュの気は滅入る。
ルークが触れるほど近くにいても気が付かなかった。それはきっと夢のせいだけではない。夢を見ている時間なんてほんの一瞬の時間だ。ルークはその時間より長くアッシュのそばにいたはずだし、それなのにその存在に目を覚まさなかった。たとえば、ルークの音素振動数がアッシュと同じだから他人がそばにいると気が付かなかったとか、そう考えようとしても今までルークの存在に気が付かなかったことなんてなかったし、今だって遠く離れていたって誰がわからなくともルークはルークだとしてアッシュに認識されたままだ。ほかの誰かと思い違うことも、自分だと思うこともあるはずがなかった。
だとすれば、ルークがアッシュにとって目を覚ますに値しない相手だということで。犬猫がそばに来たくらいでは目が覚めないのと同じでそういう位置なのか。いや、もしくはルークがそばに来ても目を覚ます必要がないくらいに、気を許しているか。
可能性としては。
「……そういえば、今あいつと二人きり……か」
ルークがこの場所に迷い込んでから多分半日は経っているだろう。その間誰の気配もないということは誰もここに来れていないということで。遺跡自体はそれほど広くはないし、出入口は把握している限りでは警備兵のいるあの入り口だけだ。地中奥深く作られた建物はほかに出入り口はない。だからルークは迷子だというよりは何かの仕掛けに引っかかって消えたと自分なら思う。アッシュとルークが来れたのだから何らかの仕掛けか条件があって転移装置が起動したのだから、それほど遅くないうちに助けは来るだろう。だがそれまでは、少しの不安を隠しながらルークと二人きりで、ここに。
ぞわりとしたものがアッシュの背中を駆け上がる。
それはよくわからない恐怖のようなものでもあり、見知らぬ喜びのようでもあった。
息を大きく吸い込んで、胸に浮かんだものを吐き出すようにゆっくりと吐く。
いつもなら消えてしまっている夢の残り香が消えない。ただそれが残り香ではなくアッシュの中にもともとあったものだとしたら。
目を覚ました時にルークがそばにいることに驚きはあったけれどもそこに嫌悪はなかった、と思う。むしろ触れているのが当然と思ったのは夢の続きで、離れたぬくもりが惜しいとも思った。それは今でも、だ。地下に造られたここは外よりも少し気温が低く肌寒い。ルークに触れていたあの温度はアッシュには心地よいほどの温度だった。
それがただ温度のせいだったのか、ルークの温度だったからかというのはわからないけれども。
足音が響く。
ついたのはエントランスホールを模した高さのあるホールだ。けれども突き当りに扉があるわけでもなく幾何学模様の入った壁が三方を覆っているだけ。模様があることは昨日は見えなかったがそこに扉も何もないことだけは確認していた。そして天井にぶら下がっているガラスのオーナメントのようなものは多分輝石で、アッシュがここにたどり着いた時にふわりと光を発していたことだけ覚えている。ホールの真ん中には一段低い円形のくぼみがあり、今はそこには何も描かれていないただのつるりとした床だ。多分ここに譜陣が描かれていたのだろう。昨日は戻っても何も反応をしなかったそこが今は動くかもしれない。
けれど。
アッシュはホールに足を踏み入れて、けれどもその中央に足を踏み入れることなくぐるりとその周りをまわって、そして足を止めた。一歩後ろに下がれば背中にとんと壁が当たる。それほど広い部屋ではない。中心に足を踏み入れられないとしたらアッシュの居場所はそれほど多くなかった。
ルークに言った目的はここを見てくるだけの話だ。普通に起動している転移装置は譜陣が淡く光っているのが常だが、目の前の丸く区切られた床には何の光も見えない。そして誰もここに立ち入った気配はない。それだけで目的は完了のはずだ。戻らなければ。本当ならば部屋の真ん中も確認しなければいけないのだけれども暗いから、そうだ明かりをもってから来ればいい。
そう考えればアッシュは戻らなければいけない。戻って、ルークと顔を合わせて。
すっと気持ちが重くなる。
ルークがいなければ自分のペースを保っていられるが、その自信が今は喪失している。普段ならば、そう思っても仕方がない。現にいまアッシュはルークのことを変に意識しているし、夢の中で見た潤んだ瞳のルークの顔とさっきの不安げなルークの顔がだぶってその境界をあいまいにする。夢の中ではアッシュは確かにルークのことを好ましく思っていたし、それが俗にいう恋とか愛とかそういわれるものだったかはわからない。ただルークは自分のものでそばにいるのが当たり前で、離したくないと思っていただけだ。
ただし、その気持ちが夢の中だけでなく今もアッシュの中にあることが問題なだけだった。
今までそんなことを思ったことはなかったはずだ。
多分。……アクゼリュスの前傍若無人だと思っていたあの頃も、ただひたすらむしろ馬鹿だと思うほどにまっすぐに進もうとしている今も、ルークがじぶんのレプリカだということを除外すれば好ましい部類に分類されていたと思う。ルークの純粋なまっすぐさははじめからずっと変わらない、アッシュにはないまぶしくてかなわないと思う部分だ。憎んだその裏でうらやましいとも、手に入れたいとも思ったことは確かに覚えている。
アッシュにとってはルークはもう一人の自分であったし、それは成りえなかった姿でもあった。ルークのようになりたいと思ったことはないけれど、ルークはまさにアッシュを映す鏡であった。
だからそこに好きだとか嫌いだとかそういう感情はなかったはずなのだ。
壁に背を持たれかけたまま大きく息を吐けばふっと体から力が抜けてそのまま壁伝いに腰を落とす。動けないわけではない、ここから出れる算段があるわけでもなく、できれば早く何らかの情報を手に入れたい。わかっているのだ。
けれど、一度ルークのその声を、その表情を好きだと思っていたのはただの夢の中のはずなのに。
思わず顔を覆う。嫌いなところを上げればきりがない。無知で馬鹿で、身の程知らずで、その場の勢いで邪魔ばかりする。けれども以前思っていたようないらつきよりも、その時々でよく変わる自分と同じはずなのに同じになんて全く見えない顔が浮かんでくるのだ。今までこんな気持ちになったことなどないのではっきりと断言することはできない。だがアッシュだって十七年生きてきてこの気持ちが何というのかわからないわけはなかった。
むっと口をつぐむ。
どうしても不安を覚えてしまう知らない場所で二人きり、いつここから出れるか分からないことがその不安を乗算して、ただのたわいのない夢だったそれが増幅したのだ。そうに違いない。ここから外に出ればきっと、またいつもの落ち着いた気持に戻るはずだ。
そうに違いない。
別に今だっていつも通りにふるまうことはできるはずだ。これはただの気のせいで、それに自分の感情を抑えることなんていつもやっていることだ。問題ない。
これからしなければいけないことを考えよう。ここがどこであるか確認して、できれば自力で元の場所でも違う場所でもいい、知っている場所に戻る。そのためにはくまなく調査をすべきだ。今すぐにでも動き出さなければ。
いけないのに。
あと五秒、いや十秒と思っているうちに時間だけが経つ。
こうやっていても仕方がないと、アッシュは立ち上がってもう一度ホールの中央を眺めた。何の形跡もないその場所に一歩近づく。踏み出し、けれど先ほどのようなためらいはなかった。一段下がった円形のふちに足をかけ、そのまま足音を立てて足を踏み入れた。
もしかしたら、と思わないでもなかったがやはり何も起こりはしなかった。そのことにほっとしている自分がいることには気が付いていた。
何か見えるだろうかと目を凝らしてもほとんど光のないその場所では足元すらそれほどはっきり見えるわけではない。近づけばと思い、かがんで床に手を伸ばした。
「アッシュ? そこにいるのか?」
急に近くから聞こえてきた声にアッシュは驚いてその声の聞こえてきた方向へ顔を上げた。
「なっ、お前、何やって……」
暗いこの場所では目の前にいる人影でさえ色のほとんどついていない黒いシルエットだ。それが本当に目の前にいたとしても。それでも、突然現れたその姿にアッシュは内心どきりとする。
好きだと思う感情があると認めたばかりのアッシュには意図せずして目の前に現れたルークの存在を処理しきれずに、動かさなければいけないはずの脳内が混乱する。どうしてここにいるのか、いや近くにいたはずなのだから現れても不思議ではない。それほど長い時間が経ってしまっていたのか。ルークはまさかアッシュの心配をして出てきてしまったのか。こんな暗いところに?
考えがまとまらないまま、けれど暗闇の中に溶けるように立つルークに本当に本物かと少しいぶかしむ心もある。
ルークはアッシュのすぐ後ろ、ちょうどホールの中に足を踏み入れようとしているところだった。ルークがそこに足を踏み入れてもやはり何も起こらない。混乱したままの頭の片隅で再びほっとしながら、近づいてくるルークを見つめた。
暗闇の中でもその白い衣装は闇にまぎれない。アッシュより若干薄い髪の色もアッシュのように先が闇に溶けてしまいそうな色でなく、暗闇の中でも淡く光るようにルークの存在を示す。
そんなものがなくても、アッシュはルークを間違えたりなんかしない。ただ、今ルークに会いたくなかったという心がルークの存在を疑っただけだ。
ルークはアッシュの三歩ほど手前で何かを考えるようにいったん止まって、けれどもあと一歩を詰めたところで止まった。
「え? 本当にアッシュだよな?」
その不安そうな声は何だ。ルークとアッシュとの距離は実に一メートルほどしかないのだ。この距離でそこにいるのかとか声をかけられれば驚かないほうがおかしい。
いや、それ以前に驚いていたことがあった。アッシュはこの距離になるまでまたルークの存在に気が付いていなかった。それは目が覚めた時と同じだった。いま、目の前にルークがいるということは視認できるし、存在を感じる。だが声をかけられるまでその存在をアッシュは認識していなかった。足音はしただろうか。ルークだってそれなりに気配を消したり足音を立てずに歩いたりということはできるだろう。逆にアッシュならばルークに気が付かれずに近づけると思う。だが、気が付かない、というのはどうしてだろう。寝ていたのならばかろうじてわかるが、起きていて目もあけていて、だれもいないことがわかっていたから多少の油断はあったものの、ここは外だ。普段のアッシュにしてはやはりあり得ないと思うのだ。
けれどそんなことは表に出せるわけなどなかった。暗いがゆえに表情を隠せているだろうことにアッシュは感謝した。
「他に何に見える」
「いやだって、見えないし」
そういいながら視線が合っていない気がするのは、本当に見えていないのかと不安になるほどだ。ルークの視線は一応アッシュの顔の上にあるものの目が合った気がしない。手を伸ばしても避ける気配もないから見えていないのだろうか。
「明かりが全くないわけじゃないだろう。このくらいだったら月のない夜よりは明るいだろうが」
「え? アッシュみえてんの? 俺ここからじゃ何にも見えないからさ。なんとなくこっちにアッシュがいるかなって方向に壁伝いに来たんだけど、あってて良かった!」
思わずアッシュは目の前のルークの腕をつかんで引き寄せた。何も見えてないといったルークが一体どうやってここまで来たのかだとか、たどり着いたここにいたのがアッシュではなかったらとか、どうして自分がルークの心配までしなければいけないのかだとか、いろいろなことが脳裏に浮かんで、けれど言葉にはできない。掴んだのだって思わずだった。
「あそこにいろと言わなかったか」
「だって、アッシュいつまでたっても帰ってこないし、もしかして敵でもいるんじゃ! と思って。多分、いなかったけど」
通路に出れば暗いのもわかっただろう、それなのに暗い中ここまで来るとは。アッシュも人のことは言えないし明かりも持ってこなかったのも同じだが、足元が見えていないわけでもない。どうして、と思って心配されていた? それともアッシュがいなくて不安に思った? どちらでもアッシュがルークに必要とされているのだと思えばそれほど気分は悪くなかった。ただ、勝手に出てきたことには多少むかついてはいるし、見えない中を歩いてきたことには危機管理能力を問いただしたいが、今目の前にいるのだからまあいい、と思う。後でまた説教しなければと思いながら間近にあるルークの顔を見つめた。さっきより距離が近いと思うのは自分が引き寄せたからだ。見えないというルークがどこかに行ってしまうのではないかとふと思ったからだけでそこには何の意図もなかった。
「見えないといったがどのくらい見えないんだ」
「曲がり角とか……輪郭は見えるよ。アッシュだってアッシュの形してるかなーくらいには見えたから声かけたんじゃん。よくこの暗さでここまで来たかってびっくりするし」
「この距離で、俺のことは見えないのか?」
「う……さすがに、アッシュかなーくらいには、モノクロだけど!」
今の距離は五十センチほどしかない。もし明るいところにいればかなりの至近距離で、多分ルークなら近寄ってこない距離だ。けれど今は見えないのが幸いしているのかルークはこの距離に疑問を持つでもなく、むしろアッシュのことがわかると安心した様子なのが少しだけイラついた。
レプリカだからアッシュより視力が落ちるのか、それともただ暗闇に慣れていないせいか。そのどちらかだとしてもこのままルークだけで歩かせるわけにはいかないことだけは確かだ。アッシュだって戻ろうと思っていたところだったのだ。さっさと明るい部屋に戻って解決策をみいだしてさっさとルークと別れるのだ。
そうしないと、今のルークの腕を捕まえている手の熱さとか、いつもよりも早く感じるこの鼓動とか、アッシュ自身が自分をごまかせない。
「あ、でもこの距離ならアッシュの顔見えるかな?」
なのになぜルークから今距離を詰めてくるのか。さらにぐっと近づいた距離は二十センチほど。吐息まで届いてしまいそうな距離に、アッシュは一瞬くらりとする。アッシュには初めから見えていたルークのその瞳が近づくと暗闇の中でその色は深い緑に染まってきらりときらめいた気がした。その目がまっすぐに自分を見つめている。そしてここはやはり二人きりの、そのほかには誰もいない空間で。
掴んだままの腕、間近にあるその眼がアッシュを捕えて、そうだ、ルークは自分のレプリカでこうやって真正面にたっていれば自ずと目の位置も肩の位置もそして口の位置も寸分たがわず同じなのだ。それは簡単なことだとアッシュは知っていた。ただその手に少しだけ力を入れるだけ。そうすればほんの少ししかなかった距離は一気になくなって。
触れたのは一瞬だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。もっと、という気持ちが湧き上がった瞬間にアッシュははっと気が付いてルークから身を離した。
「あ……アッシュ……?」
ルークが右手でアッシュが腕をつかんでいた場所に触れて、一歩身を引いたのがわかる。そうだろう、ルークにしてみれば急にアッシュが近づいてきてキスされた状態である。さぞ困惑しているだろうと思うのだがさすがに暗いので今の細かい表情まではわからない。けれども瞳をそらすことなくアッシュを見ているのは相当驚いているからだろう。対してアッシュ自身も実は驚いていた。アッシュはただ手を引いたらもっと近づくかも、ちょうど顔の位置も同じだから、そう思っていただけだった。いや、たぶん思ったのと行動したのとは同時だったのだろう。
「ああ、何か当たったか?」
「何か、って、アッシュ……うん、別に何でも」
あくまでアッシュは分かっていないという普通に考えればあり得ないことを主張していくことにすれば、ルークは初めの勢いを失って、最後にふと顔をそらせて黙り込んだ。アッシュの行動がわざとだということに気が付いているのか、いないのか。
「ひとまず戻るぞ」
アッシュは自分の顔を見られないようにさっさとルークの前に立って歩き始める。このままじっとしていればいらないことを言いそうになりそうだったからだ。けれどついてこない足音に少しだけ振り返れば、ルークはさっきの恰好のまま立ち止まっている。
「どうした」
「え? ……いや、暗いからアッシュよく道分かるなっ……って、それだけだから!」
どうやら、ただ暗くて戸惑っていただけのようだ。アッシュのさっきの行動が偶然何かが当たっただけだと納得したかどうかはわからない。ただ、ルークが暗闇でよく見えないのは本当らしいことだけは確かなので仕方ないとアッシュは足を止めた。
これは仕方ないから、敵がいればやめればいいだけ。いま暗いままのここにいる必要がないから、仕方ないからだ。
手を取ればルークには突然に思えたのかびくりと震えたのがわかった。けれどもアッシュは何も言わず軽くその手を引けば思ったよりも軽くルークの体がそれについてくる気配があって、そのまま前を向いてアッシュは歩き出す。
「アッシュ、なんで……」
「見えないんだろう? こんなところで迷子になられたら面倒だからな」
「そんな、見えないって言ったってここまで来れたし、昨日だってちゃんとあの部屋までたどり着いたんだから大丈夫だって。アッシュがいたら大体わかるし」
大体とか大丈夫とか不安をあおる言葉ばかり聞こえる気がして、アッシュはその手を放す気は全くなかった。問題ないはずだ、手を繋いでいるのはアッシュが左手でルークが右手だ。何かあった時には武器が取れる。
「俺は別に問題ない」
「……だったら、いい……けど」
時々なぜかはっきりしない物言いになるのはルークの癖だ。何か言いたいのならはっきりといえばいいのにアッシュだからルークの考えていることを覗き込もうと思えば無理矢理にでもできる。けれどアッシュ以外にはそれがわからないのだ。今だって本当に必要ないならばその手を振り払っていらないといえばいいのに、しないのだからアッシュは勝手に諾ととる。
もう一度周辺の見取り図を頭に思い浮かべて、壁伝いに歩いていく。敵はいないだろうが足元に何か危険なものが転がっている可能性もないわけでもない。来るときに歩いた同じ壁側なら問題ないだろうと足を進めて、一つ目の角を曲がろうとした。
「あ」
その時、黙ってついてきていると思っていたルークから小さな声が上がった。
何かあったのかと振り向けば、視界が急に明るくなったと思えば驚いた顔のルークを目があった。
何が起こったのかアッシュも一瞬わからず足を止める。
「あ、ごめん。何かさわった、と思ったんだけど。なんか明かりついたっぽい?」
さっきまで暗くてほとんど姿が見えなかったルークの白い服が光に慣れていないアッシュの目にはまぶしくて少し目を眇める。そのまま天井を見上げれば先ほどまで申し訳程度にしか光っていなかった輝石が柔らかな光をともしている。
「何かしたのか?」
「多分、いや何かしようと思ったわけじゃないんだけど」
ルークが手をついている左側の壁に手のひらほどのくぼみがあって、なんだとのぞきこめばスイッチのようなものがある。何か文字が書かれているようだがかすれてほとんど見えないが、照明をつけるためのスイッチだということだけ読み取れれば十分だ。見える範囲で壁を見渡せば曲がり角や部屋の扉の横に似たようなくぼみがあり、しかしそれらは目の前にあるような装置は見えずふたがされているようにも見えた。足元を見ればその蓋が欠け落ちているのが見えて、それでたまたまルークの手に触れたのだということが分かった。
「動いたんだな」
「最近まで誰かが使ってた形跡があったから、まだ譜業が生きてるのかもな」
「最近? どういうことだ」
「ああ、だってあの部屋にある本とかそんなに古い本じゃなかったし。元の遺跡でもジェイドが誰かが使ってたみたいだって言ってたし」
そういえばルークはあの部屋を先に確認するとか言っていたか。さすがに何も知らずには来ていないらしいが、この様子ではそれほどわかったことがあるようには見えなかったが、どうせアッシュもあとで調べる予定だったのだからどうでもいい。ルークに任せるつもりなんてさらさらなかったのだ。予定通りだ。
ルークの言う通りこの建物自体は古い構造物だが誰か使っていた形跡は確かにあった。遺跡のほうは壊れていて修理しなければ使えないものもあったようだが、幸いにして音素灯は譜業の中でも単純なつくりをしているので、最近使っていたものならば壊れていない可能性のほうが高かった。それだけだ。勝手に装置を触るなとルークに言おうと思ったがアッシュも明かりは必要としていたし、特に大した装置でもなかった。それにわざとではないようなので言わないでおく。
光が入れば通路がどんな状態なのかよくわかる。それほど高くない天井に、威圧感のある白い壁。それぞれに何か模様が入っているがただの幾何学模様だ。何かヒントになりそうな図柄でもなさそうだった。扉はアッシュが昨日確認した通り、今通っている通路には三つ、そしてこれから向かう部屋には向こうにある角を曲がって突き当たったところにある。暗闇の中では遠く思えたが明るくなればさほど遠いとは思わなかった。
さっさと戻ろうとそのまま歩き始めようとすれば、なぜかルークがくいとその手を引くので足を進めるのをやめてルークに向き直る。
「せっかく明かりついたのにほかのところ調べなくていいのか?」
目の前に開けていない扉があるのが見える。ルークはそれを指さしてそういったのだろう。そうか、もっとちゃんと調べることもできるのかとアッシュはそこで気が付いたのだがそんなことはいえない。今のところルークとともに何か行動しようなんて計画がアッシュの中に全くないのだ。無計画に何かうっかりいけないことをしゃべったりしたりしそうなので、多分調べるべきなのだろうその部屋を無視することにした。
「昨日のうちにざっと見て回っているから、一番調べがいのあるあの部屋から調べる。お前が調べたいなら止めないが」
「いや、また真っ暗になったら怖いし。俺も戻るよ!」
そう言ったルークは先ほどまでの慎重な足取りがどこかに行ったように軽い足取りでアッシュの横に並ぶとじゃあ行くかとアッシュに微笑んだ。
それはただのルークのいつもの行動に違いなかった。微笑んだのだって暗いところからやっと明るくなってうれしいというそれだけだろう。けれど、その笑みは確かにアッシュに向けられていて、なぜかその表情が脳裏に焼き付いたのはこれまであまり見たことのない表情だったからだ。アッシュはルークを喜ばせるようなことをした覚えもないし、好かれる要素もないと思っている。ただアッシュがルークの被験者だから、ルークにひどい言葉を告げたことも剣を抜いたことも記憶に鮮明で。どう考えても笑いかけられるような関係になるはずもなかった。けれど、なぜか嫌われてはいないしむしろ好意を持たれているのだとどこかで確信しているのは回線でルークの中をのぞいたことがあるからだ。アッシュに向ける感情が決してマイナスではないことにどこかで安堵していたし、当然だと思ったし、けれどもどうやっても複雑な二人の関係ではルークがアッシュに向けた笑顔を拝めることは今まであった記憶があまりない。
だからアッシュは一瞬ルークの表情から意識を離せなくなり、それが微妙な間としてルークとの間に横たわった。何かを言うタイミングを逃し、アッシュは自棄になってそのまま強引に足を進めることにした。ぐっとルークの手を引く。
けれどそのつないだままの手が視界に入った途端、アッシュは見てはいけないものを見つけた気がしておもわずその手をぐっと握ってしまう。この手は暗闇でルークがはぐれないために仕方なくつないだもので、明るくなった今となっては不必要なものだ。ルークも気が付かなかったから声をかけなかったのだろうし、アッシュも今まで全くそのことに気が付かなかった。気が付かないままならばそのまま部屋まで行ってしまっただろう、けれどアッシュは気が付いてしまった。しかも不自然に力を込めてしまった。気が付いたのに手を離さなかったそれだけの事態はアッシュにとって大事件だった。
視線をずらせば、同じようにつないだ手元に目をやっているルークが見えて、アッシュは終わった、となぜか思った。さっきわざとキスした時だって強引に手を取った時だって、何かの理由はつけたけれどもそれが納得できる何かかと言われれば、アッシュならば不審に思うものばかりだ。けれどそのすべてだってアッシュが何か計算して行った行為でもない、ほんの偶然が重なって、アッシュの妄想が少しだけ具現化してしまっただけだ。けれどその理由をルークに告げるわけにもいかない。
ルークの視線には気が付かないふりをして、ルークが何かを言うまで待つことにした。アッシュは気が付いていないのだということにしよう。けれど気が付いているはずのルークから何も言葉がない。二人の歩幅も一緒だし手の長さも同じだから手を引くというよりは横に並んで歩いている状態で、手を繋いでいても何の不便もなかった。違和感があればはずそうと思うその手はいつまでたってもつながったまま。そんな何かを考えているうちに部屋の扉の前まで来てしまって、アッシュはもう何も気が付かなかったことにして握っていた手を放して、空いている右手があるにもかかわらず左手で扉を開けるために離したかのように左手でその扉を開いた。その間ルークの顔は一切見ていない。見れなかった顔の代わりに名残惜しく感じるその手の行く先だけを見ていた。
ルークは手を繋いでいたことにも、離されたことにも何も言わずアッシュの後ろに続いて部屋に入る。そしてアッシュが見ているとも知らずに離された右手を軽く閉じたり開いたりしているのを何とも言えない気持ちで見ていた。手を繋がれていたことは認識していた、けれど何も言わなかったのはいつもの遠慮癖でいえなかったのか、もしくは言わなかったのか。アッシュが気が付いていないと思って、変に気を使って言わなかったのならわかる。けれどもアッシュはルークがもしかしたらアッシュと手を繋ぐことを望んでいたのではというどうしようもない自分に都合のいい妄想がどこかで湧いてくるのを知っていた。ルークにそんなことを考えている様子はかけらも見えない。けれどルークへの感情を意識した時からどうしても思考は自分に都合のいいように動きがちになる。妄想は妄想だとちゃんとわかっている。けれど、アッシュは自分がちゃんと理解していてそのうえで行動してるのかはさっきの自身を思うと断定はできなかった。
部屋の扉がぱたんと閉まる音がして、通路から差し込む光が消えると部屋は元の暗さになる。朝起きた時にはまだここは明るいと思ったのに、窓から差し込む光だけでは薄暗く感じる。そういえば部屋の中をちゃんと確認していなかったなとアッシュは思い出した。あの時は今の状況を確認するのと、ルークがそばにることでいっぱいだったのだ。とりあえずルークのそばを離れることが優先で、明るくなった部屋の中をほとんど確認していなかった。部屋は五メートル四方ほどで、中央に大きな円卓があって壁際には戸棚と奥には暖炉も見える。普通の家とすればリビングか、何かの施設としても談話室とか人が集まって話をするような場所だろう。右手奥にも棚のようなものも見えて雑多に本や食器が置かれている。しかしそれもすべてうっすらと埃をかぶっているのでしばらく使われていないことは容易にわかった。そして自分たち以外にはここに足を踏み入れた形跡がないことも。
二人きりだと改めて思う。
ここに敵はいないけれども、何か別のものと戦っているようなそんな気持ちになる。落ち着いているとは思っている。けれど自分が何をしでかすかわからないのが一番怖い。気持ちを落ち着けるつもりで部屋から出て一人になったのに、何も解決されていない。当然なのだがルークがいつもの調子なのも困る。過去の自分を思えばもっと警戒されていてもいいはずだし、こんなところで戻る方法もわからない現状でもっと焦るか不安がるかしてもいいはずなのにそんな様子もない。
「明るいって思ってたけどそうでもなかったな」
ルークはくるりと部屋の中を見回して、光の差し込まない奥を覗き込んだ。明かりのついた通路は不自由ないくらいには明るかったし、けれど、目が覚めた時に高い場所から差し込む光はもっとまぶしいと思っていた。実際には結局地下に造られた部屋でしかないから大きな窓もなく思ったほどは明るくなかった。いや、けれども何かアッシュが目が覚めた時よりもなんとなく明るくなった気がするのは気のせいか。日が少しだけ高くなったのかそれとも。
「やっぱり外のほうがずっと明るいよな。暗いとこにいたらなんか暗い気分になっちまう」
そういいながらルークは部屋の奥に向かって歩き出した。そこはルークの言う暗い場所のはずだったのだが、いや、さっきから何かアッシュが抱いていた違和感がアッシュの視界にかちりとはまる。
部屋の上部には明り取りの窓がある。そこから朝の光が部屋に差し込んで部屋は少しだけ明るい、はずだった。けれどもルークの向かう先に部屋の上部からでない光が差し込んでいるのが見えた。それはどこからか、とその光をたどっていけばルークの背中が見えた。そこには階段があるのか少し高い位置からいつものよくわかならないマークがアッシュをにらんでいる、と思った時、ルークの服の裾がふわりと浮いて、ルークが光に包まれたように見えた。
一瞬消えてしまうと思わんばかりの光景にアッシュはまぶしさに目を眇めた。光をまとったルークはなんだかちょっと感動するほどに神々しく見えるのは多分気のせいだ。その実態は見ればわかる、そこにただ扉があっただけだ。扉から差し込む光でルークのいる場所がよく見える。そこはアッシュのいる場所からはロフトのように見える中二階のような形をしていた。部屋の奥右手に階段がありそこから上に上がれるようだった。アッシュも昨晩確認した時も中二階的なものがあることは知っていたが、階段の前に椅子や箱が置かれていたこと、覗き込んだその手に持つランプではどうも物置のようにしか見えなかったので朝になったら確認しようと思っていた場所だった。そもそもアッシュはここが地下深くだと思っていたし、朝目が覚めるまで天井近くは外に面していることなど知らなかったのだ。知っていれば、中二階から外に出られる何かがあるかもしれないということはなんとなく思いついたはずだ。現にルークは気が付いて、そしてその扉を何の戸惑いもなく開けたのだ。
「アッシュ、俺外に出る扉見つけたんだ!」
宝物でも見つけたかのような笑顔がまぶしいのは実際に光がまぶしいからだ。アッシュは何を言おうかいくつか考えたが、結局選んだのは一つだ。
「勝手に扉開けてるんじゃねぇよ。扉の外がどうなってるか分かんねぇだろうが。少しは慎重に行動するとか学ばなかったのか」
「でも! 絶対外につながってると思ったんだ!」
そんなことは部屋の構造を見ればわかる。けれどルークの目はどう見てもご主人さまに褒めてほしい犬の目にしかみえなかった。これは叱っても叱られたと思ってない目だ。惚れた欲目で言動が甘くなったのだろうかと思ったが、一番厳しめの言葉を選んだのだ、それはない。ただルークに効いていないだけだ。
「それに、もう外探索した後だし」
別にはじめて開けたわけじゃないから一気に開けたんだといっても、アッシュには逆効果でしかなかった。
そうだ、こいつは馬鹿だったのだと思い出したのはこの言葉を聞いた後だ。確かにルークがアッシュがこの部屋から出るときに部屋の中を確認してみるといったのは止めなかった。何もするなと言っても何かするだろうからだ。だが予想以上の何かをしているとは思わなかった。いや、部屋の奥に差し込む光を見た時になんとなくそんな予想はしていたのだ。けれどルークがあまりにまぶしく、そしてアッシュをキラキラをした目で見つめるのでわかっていながら止めなかった。多分一度目に開けた時くらいは慎重にあけただろうと願っているのだが、もしかしたらないかもしれない。
頭が痛くなりそうなのはルークと二人きりである以上仕方のないことだ。ルークはレプリカであるからかそれ以外の理由もあるからか、何かとアッシュに対して比較されることも多く、劣等感でもあるのかそれを見返したいのか、何か認めてほしそうにアッシュの前では無駄にやる気を出すことが多い。そして空回りをすることも多い。馬鹿なことをしようとするからアッシュもルークを叱らざるを得なくなり、結果口論になってしまうことも仕方のないことだ。全部ルークのせいだ。普通にしていれば、アッシュはルークの腕を別に見くびってなどいないし、それなりの教育を受けているのだから経験不足なところはあるだろうけれども人並みの思考回路で行動できるはずだ。馬鹿だと思うのは自分のできることを把握できていないところで、できるところを自分の評価が低いあまりにできなく、できないところを背伸びしようとするところだ。
「だったら外に何があって、ここがどこだか把握できたんだろうな」
「え? 何があるって、森?」
今回のポイントは外に出られることではなかった。高いところの窓から光が差し込んでいるのだから地上は近いのは当たり前で、外に出られることは重要なことではない。問題は最初から知りたい「ここがどこか」ということだけだ。転移装置の仕様上初めに訪れた遺跡と近いところにあるかもしれないし、全然違う場所にあるかもしれないのだ。そこを知りたいがために転移装置があっただろう場所を確認したし、一番外にも近いだろうこの部屋から調べるつもりだったのだ。
ルークが扉の外を覗き込みながら何かちらちらとうかがっているのは、言われてから危険があるかもとか気が付いたからだろう。
「俺が知りたいのはここがどこかだ。森なんて世界にどんだけあると思ってんだ」
「見たってここがどこの森かなんてわかるわけないだろ。お前だってどの森に何本木が生えてるとか知ってんのかよ」
当たり前だが、当たり前に返したくない質問が飛んできて、アッシュは誰にこの気持ちをぶつければいいのか一瞬悩んですぐに浮かんだ顔にぶつけることに決めた。もちろんガイだ。
「本数じゃなくて調べるのは種類だろ。どんな木や草が生えているかでざっくりどの大陸かくらいは判別できる、と習わなかったか」
地理の基本だ。気候や場所によって生態が違ってくるのだから、普段移動するときもそれに合った行動計画を立てるし、旅をしていく上では必須のはずだ。
「ああ、それ! わかるよ、俺ミュウの餌係りだからそうだよな、地方ごとに取れる草が違ってて探すのも面倒で……」
こいつは実践しないと覚えないタイプか。そもそも旅に出た当初から無知だという前提で扱われていたし、実際に屋敷から外に出たことすらなかったのだから経験値が低いのはアッシュも認めるところだ。多分ルークの周囲が秀逸すぎるのがいけないのだろう。いろいろやらかしたにも関わらずルークに対する皆からの扱いは甘い。
「……だったら、ここがどのあたりに近いと思う?」
「うん、茂みにあまり草生えてないからわかんなかった」
やはり役に立たなかった。
そんな会話をしている間にも、アッシュは階段を上り、ルークの真後ろまでたどり着いていた。暗い室内からすれば外はまぶしく明るかったが、扉の近くまで来てしまえば見えるのは鬱蒼と広がる森の姿だ。
「外は」
「見たところ誰もいないし、この近くには魔物もいないよ」
歩いてくるのがわかったのかルークは扉の向こうを確認してそんなことは的確に告げるのだからいまいちルークの経験値はわからない。一緒に行動していればわかるようになるのだろうか。今まではルークの思考回路が理解できないことが不快だったが、今はルークの思考回路を自分が理解していないことが不快だ。ガイだけでない、ジェイドも多分アッシュよりはルークのことをよく知っているはずだ。自分は被験者なのに、そう思ってもどんな理由をつけていたにしろルークと行動していないのは自分の意志で、それが正しいと思っていたからこそ今のアッシュがある。後悔などはしていないが、むかつくのは事実だ。
アッシュはそれを隠しながら、ルークの後ろについて扉をくぐった。
一歩外に出てみれば真上には青い空が見えるが、視界にあるその周りには背の高い木々が覆って空の青を切り取っている。さすがに扉から数メートルは背の高い木は生えていないが低木がいくつか葉を揺らしていて、けれど密集している木々のせいで地面にまで光が届いているところを数えたほうが早い。数歩歩いて振り向いてみる。そこにはアッシュ達が今までいた建物があるはずだった。
「あれ? ない?」
同じようにアッシュの隣に立ってくるりと振り返ったルークが首をかしげているのもわかる。振り向いたそこには建物の影は全くなく、そこには五メートルほどの岩肌とその上にはやはり森が続いているようにしか見えなかったからだ。
扉は岩陰に隠れるように存在していて、明かりが入っていた窓も外からではただの岩の影に見える。本格的に外からわからないようにして作られたらしい、まさに隠れ家と言っていい建物なのだろう。シュレーの丘のパッセージリングの入り口もそうだったし、昨日立ち入った遺跡もそうだった。一見建物とわからない場所に建築された古代の建物だからこそ今まで残ったのか。誰もが訪れる場所ではないこととどこからも見えないこと。もしかしたらここは過去には誰かが隠れ住むために作ったものだったのかもしれなかった。アルビオールが現在に復活したように創世歴時代は空を飛ぶ音機関はほかにも存在していただろう。誰も立ち入らない森の中に建物を建てても上空から発見できる。地下ならばれにくい。転送技術があるからこそ誰も立ち入らない場所に建物を作ることも創世歴時代なら可能だっただろう。建物があればそこに必ず道がなければ人も物も行き来ができないというのは現代の常識で、過去にはそうでなかったかもしれない。
見渡して、そこにどこにも道らしきものがないことにアッシュは半ば予想していたけれども落胆した。道らしきものがあればどこかに通じているはずだ。それは多分人の住む場所のはずだった。けれども道はない。いやもしかしたらあったのかもしれなかったがこんな森の中だ一時的に人工的に道を作ったとしても自然の力でそんなものは数年で消えてしまう。建物は利用された形跡があった。けれどもそれは本当の最近ではないのだろう。
「ここが外だってことは、この地面がどこかにはつながってるんだよな? 歩けばどこかの街についたり……しないかな?」
「……もしここがテオルの森で、北に向かって進んだらどこに出ると思う?」
「じゃあ南に……そうだよな、歩いていけないとこの可能性もあるんだもんな。あ、まさかどこかの島とかもあり得る?」
ルークが帰れなかったらどうしようとここにきて初めて不安げに頭を抱えているのをアッシュは横目に見ながらもっとちゃんと確認しようと森へと向き直った。
道はない。周りはずっと森で、見渡すほど遠くが見えるわけでもない。もしかしたらこの崖の上に登れば少しは何かが見えるかもしれないが、そこを上れるような装備を今は持っていない。助けが来るかもわからない状態で危険なことに手を出すのは好ましくない。ここがどこか、がわかれば森の中を突っ切ったとして近くの村や街にたどり着けるのだろうが、今のところ全く手がかりはなかった。生えている木々の様子を見れば、元入った遺跡の周辺とそれほど変わらない場所にあるのだろうかと思うので多分南か西に向かえばどこか知った街か街道に出るのではないか、と思うのだが確証はない。もしもの時はそれを実行するのだろうがその時はルークを連れていくか、置いていくか判断に迷うところだ。アッシュはルークと回線でつながっている、だから敵が強いとかそういったこと以外で一緒に行動する意味はあまりない。別々に行動したって互いの位置がわかってさえいるのならそちらのほうが理に適っているはずだ。けれど相手はルークだ。こんなところに一人、そう思うだけでアッシュはだめだと思う。無理だ、あいつを一人にするなんて無謀な。
「なあ、アッシュどうする?」
「仕方ないから一緒に……」
「なに?」
ちょうどいいタイミングに話しかけられたせいで、つい反射的に出てしまった言葉にルークが無駄に食いついてきてしまったのでアッシュはぐっとこらえてわざとらしいだろうか一つコホンと咳をした。なんだか同じようなことがあったような気がするが思い出せない。今日の出来事なのにもうものすごく長い時間が経った気さえしてきた。
「道もない、とりあえずここからどこに向かえばいいとかわからないんだ。ひとまずお前も部屋に戻って何か資料らしきものでも探したほうが得策だ」
「あー、アッシュが一人で出かけるから一緒に行けないから残っとけって言われるんだと思ってた。そうだよな、いくら回線つながってるからって確実じゃない行動しないよな」
何にほっとしているのか、胸をなでおろしているルークをちら見しながらアッシュは元の建物に戻るために扉に手をかける。実際にはルークの考えていることは正解で、アッシュは内心ばれるかどうかハラハラしていたのだ。ルークでも考え付くということはそこそこベストに近い案ではあったのだろうか。建物内を探索して何も得られなかったならその手段をとるしかないだろうが、アッシュはさっきルークを連れて行くことに決めていたのだからルークの懸念は無駄である。言わないけれど。そもそも連絡役など残しておかなくても伝言でもしておけば済むことだ。そうだ、普通に知らないところにはぐれた二人がいたら一緒に行動するだろう。当然のことだ。
もし、手掛かりが見つからず、あてずっぽうで外に出て歩くことになるのならば、それはルークと二人旅ということなのか。これだけ木があるのならばどこかに水もあるだろう。さいわい気候も穏やかそうだし食べれる木の実も見える、食べるものに困ることもないだろう。いつまで続くかわからない二人旅、と思えばアッシュは未知なる未来に感じたこともない感情が湧き上がってくる。うれしい、恥ずかしい、そして愛しい。総合すればこれがときめくという感情なのだろうか。そんな気がする。だがそんなものが湧き上がってきた自分を今すぐに殴りたい気分でいっぱいだった。こんな状況に陥ったのも偶然で誰かの意図があるわけでもない。知らない場所にいることは危機の一つでもあるだろう。決して喜んでいい事態でもない。危機感を持つべきは自分で、ルークのことをとやかくなんていえない。
「まだ、建物内の探索が済んでいないからだ。中から帰れるのならそれに越したことはない」
「そうだな、来れたんだから帰れるかもしれないし、昼間はいいけどこんな森の中で俺一人だったら絶対迷子になってる……あれ、俺ら実は迷子じゃね?」
扉をくぐって再び建物の中に入りながら、ルークは何かに気が付いたかのように首を傾げた。
「なあアッシュ、俺今までみんなとはぐれただけで迷ってはないと思ってたんだけど、こういうのも迷ってるっていうのかな?」
いまさらな質問だ。なんとなくルークが不安がっていなかった理由が見えた気がする。はぐれただけだと思っていたならすぐに合流できるとどこかで思っていたのだろう。自分の居場所すら理解できない迷った状態であるのは明白で、だからアッシュもそれなりにいろいろと考えて行動しているのに、ルークときたらどうだ。けれど、アッシュがそれを肯定すれば自分も迷っている、ということになる。もしアッシュ一人ならば、もともと一人で遺跡に入ったし、迷子、という物には該当しないだろう。ルークは確かにほかのルークの仲間からすれば今現在迷子である。だが、アッシュもルークも迷っていないと思っているのできっと迷子ではないのだ。
ただ出口を探しているだけだ。
「建物内での自分の位置を把握しているんだから迷ってないだろ」
「そうだよな! 迷ってないなら迷子じゃないよな」
パッと明るくなった顔を見てアッシュはお前はれっきとした迷子だといえばどうなっただろうと考えて、それは不安げな瞳で「どうしよう、アッシュ」とか……いや、やめよう。そのルークは現実じゃない。現実のルークは……
「あ、そうだ」
ぴたりと立ち止って振り返る。
ちょうど階段を下りているところだったので、先に行くルークはアッシュを見上げる形になる。前にギンジが言っていた言葉をふと思い出す。「ルークさんは話す時に目を見つめてくるから、ちょうどちょっと見下ろす感じになるとルークさんが上目遣いみたいになっていいですよね! アッシュさんは近づいてこないからそうならないのでもう少し……ああ、睨まないでください!」それはギンジ的にアッシュにもっと歩み寄ってほしいという遠回しな言葉だったらしいが、どうもアッシュには別の意味にしか聞こえなくてイラついたのを覚えている。そもそもルークはアッシュのレプリカなのだから上から見下ろすなんてそんな差が生まれるはずもなく、今までそんなシチュエーションにありついたことなどなかった。今アッシュは、それはこういうことなのかとむしろ感動すらしていた。少しだけ上を向けば丸い目がアッシュを下から覗き込んでいるように見える。
「なんだ」
何かを告げるために振り向いたのだろう、口が少しだけ開いたまま、ルークは少しだけ困ったような表情をした。それが憂い顔にも見えて、これが妄想なら捗るだろうと考えてしまったその時。
「どうしよう、アッシュ」
空耳だと思ったがそうではないようだ。さっきアッシュはこんなセリフとシチュエーションを想像したような気がしないでもない。いや、した。
今までのこれがすべてアッシュの夢、もとい妄想ではないかとさえ考えた。が、たぶんまぎれもない現実だ。ルークがそんな期待通りのことをするはずがたとえどんな場面でもない。
「すぐ戻れると思って、昨日持ってた携帯食食べちゃったからもう食べるものないんだ!」
その表情は今までになく真剣で、そして困惑している。おなかを抱えているところを見るとどうやら腹が鳴ったらしい。そう考えてみればアッシュも昨日から何も食べていないし、ルークも携帯食を食べたとは言っているが食べ盛りの満足する量ではないだろう。
「戻れねぇんだから仕方ねぇだろうが。少しは考えて手持ちの道具をつかえ」
「うう、水はまだある……よ? いや、ほんとにアッシュもあと一週間とか帰る方法わかんなかったらどうするんだよ。大事な問題だろ? やっぱり動けるうちに外に出て移動したほうが……」
「お前だけ外に出て草でも食ってろ」
「……俺、それミュウに言ったことある……」
適当に言ったセリフだったのだが、意外にルークの心をえぐってしまったらしい。ここで謝るのも何か違う気がするし、そんな言動をしたこともないので傷心のルークの扱いがわからない。
「外に実がなってる木もいくつかあっただろう」
「そうなんだ! 俺食べれるものならアニスに仕込まれたからわかるよ! アッシュのさっきのも俺のこと動物扱いしてたんじゃなくて、そういう意味だったんだな。勘違いして落ち込むとこだった」
それはよかったなと適当に相槌を打って、実際にそう思ったのかもしれないとも言えずアッシュは一喜一憂するルークをじっと見つめていた。
一目散にまた外へかけ出ると思いきや、ルークは軽やかに階段を下りて、一番下までたどり着いた後に少しだけアッシュを振り返る。餌を確保して安心した犬のようだとは言えない。
アッシュは言葉にしない代わりに小さく息をついて、ルークの後を追って階下に降りる。その間にもルークは壁際に寄ると通路にあったのと同じようなスイッチを発見したのか、ルークがふれた途端部屋がふわりと明るくなった。
「ここもちゃんと使えるんだな、よかった」
そういいながらも、ほかにも何かないか視線を彷徨わせながら部屋の中をぐるぐると歩いているさまは本当に犬のようだった。別に何かを探しているわけでもない、目的もなく歩いてはちらりとアッシュを見る。ルークがあまりにも落ち着かないので、アッシュまで落ち着かない気分になる。
「お前は少しはじっとしていられないのか」
そういえばルークがじっとしていたのは寝ている時くらいだ。それならばおなかがすいたと言い出すのも道理だ。こういう時は無駄に体力を使わないというのが鉄則のはずなのだが、誰にも教わらなかったのか。
「だって、じっとしてるとなんか落ち着かないから。ここ知らないとこだし、いつ帰れるかわからないし、……アッシュと二人っきりだし!」
最後にやけくそのように叫んだ一言がアッシュの心に深く刻まれたのがわかった。今の言い方は本気にしろ冗談にしろアッシュを意識しているということで、意識されているほうとしては自分に言い聞かせるようなその物言いに、心の中で何度かすでにリピートした。
「アッシュは何でそんなに落ち着いてんだ? 俺が知らないだけで脱出方法確認してるとか……だったらもう出てるよな。でも……」
そわそわしている理由はわかった。けれどそんな言動をされるとアッシュも内心の妄想が加速しそうで、できるだけルークを視界に入れずにいようと心に決めたのに、そういうときに限ってルークがひょこりとアッシュの前まで来てアッシュを覗き込んできたりするのだ。
「そんなことより、早く脱出手段を探すぞ」
ルークはそうだなと答えると、やはり落着きない感じでそのあたりの棚へと向かった。ひとまず目の前から離れてくれたことにほっとしたアッシュは大きく息を吐くと気を取り直して作業に取り掛かったのだ。
二時間ほど経った。
なんだかまぶしいと思ったら、上部の明り取りの窓からの光が時間とともに移動してアッシュのいる所にまで移動してきたようである。見上げてみれば高くにある窓なのに輝く太陽がちらりと見える。思わず壁にかかっている時計を見てしまったがその時計はすでに時間を止めて久しかった。アッシュは懐から懐中時計を取り出せば、思った通り昼に近い時間になってしまっている。
一度外に出た後、いったん部屋に戻りそのままこの部屋の探査を二人で始めて、最初のほうはルークがこれどうしようとかどこを見ようかとか話しかけていたが、何も見つからないのに話しかけるなと何回か言えば、それから話しかけられる回数が減り、そういえば今は近くにルークの気配もない。
アッシュは手元の本から顔を上げて部屋の中を見回した。
ルークは部屋の戸棚を開けたり、円卓の上に重ねてあった本をめくったりしていたようなのだが、途中で飽きたのかわからなくなったのか円卓の上や床の掃除始めたのまでは見ている。もし帰り道分からなかったらここにいるんだろ? らしい。確かに昨日よくわからず床に座ったがそこだって綺麗とはいいがたい。部屋の奥のほうに木箱が積まれたソファーが発見されたとルークが喜んでいたのを見たような気がする。それから先は? それが一時間前だったのかさっきだったのかよくわからない。ルークのことを気にしていなかったわけではないが、少し何かに集中するとルークの存在がすっぱりと抜けてしまうようだった。これは寝ているときにルークの存在に気が付かなかったのと似ているのか。目の前にいればルークを認識するし気になる。けれども視界の外にいればそれは同じ空間にいるのと世界中どこかにいるのとアッシュにとってはそれほどは変わらない事実なのかもしれなかった。どこにいてもルークの存在を感じるのは間違いないからだ。多分そのせいだ。
ルークが今部屋にいないと気が付いてもアッシュはそれに対して動揺したりはしなかった。近くにルークがいることはわかるからだ。
かたんと音がして、ふと振り向けばまた部屋の中に光が差し込んでいる。今度はその姿に驚かせられないようにと思ったのにやはり逆光でルークがキラキラ光っているように見えてどきりとする。扉を肩で押すようにして開けたルークが階下で振り返ったアッシュと目が合って驚いたように目を丸くした。その拍子にルークの腕で抱えられていた何かがぽろりと落ちる。
「あ」
けれど落としたそれをとれないのは両腕に抱えたままの、果実のせいだ。扉を閉めることもできず背中で押してそれをしめると、落とした果実を恨めしそうに見ながらルークが階段をゆっくり降りてくる。
「アッシュ、なんかわかった?」
持っているときはあんなに慎重に持ち歩いていたのに、それをざらりと円卓の上にばらまくように置いて、ルークは近くにあった椅子を寄せた。そういえばおなかがすいているとか言っていたか、近くにいなかったのは外に何かを取りに行っていたのか。勝手に外に行っていることに少しだけむっとしたが、別にアッシュはルークの保護者でもないし、ルークがいちいち何かをアッシュに伝える必要もないのもわかっている。どうせ自分の居場所なんてすぐにわかるだろうということくらい考えていたんだろう。いや、それすら考えなかったかもしれない。あれでいてルークは自身が自立していると思っているらしいからだ。
「……まだだ。それより、ちゃんと食えるものとってきたんだろうな」
「大丈夫だって、今までだって食べ物なかったらその辺の果物とか草とか取って料理してたし!」
その言葉に不審な目をしてしまったのは仕方ないだろう。ルークたちの面子でそんな暮らしをしてそうなのはアニスとミュウくらいで、あとは金に困るような生活をしていそうには見えなかったからだ。特にナタリアもそんな食べ物を食べさせたりしているのだろうかとかルークがよくそんな生活に慣れたな、とかいろいろ思うところがあった。
「そんな、見てみろよこれなんてちょっと熟れる前だけどそのまま食べれるし、こっちの実はちょっと火を通さないといけないけど日持ちするから」
「俺が心配したのは食べれるかどうかじゃねぇよ」
「えっ、ちゃんとアッシュの分もとってきたって」
「そうじゃなくて、なんでそんなサバイバルな生活してんだ、お前ら」
そうルークに言えば、ルークは少しだけその言葉の意味を考えた後にちらりと目線をそらせる。何か嫌なことでも思い出したかのように。
「野営しなきゃいけないときってあるじゃん。その時にナタリアとか、俺とか料理したりしたときに、まあ食べられないもの? 食べたくないもの? ができたりしたらさ、食材足りなくなるじゃん?」
責任もって何かとってきてよね、と魚釣りまでさせられたらしいルークはこれでいて自然の食べ物を探せるスキルは必然的に身に着けさせられた能力なんだろう。こんなところで発揮するとは思わなかっただろうけれども。確かに目の前に並んでいるものの中で食べられないものはないし、収穫時期も外してはいない。ルークの実力に間違いはないようだった。
「いろいろ覚えといたらなんかの役に立つもんだな!」
そういいながら調査の続きもせずに収穫にありついている姿を見て、アッシュもいろいろ疲れて昼休憩をとることにしたのだ。
「ここには誰かが住んでた形跡があるんだよな」
二人で作った建物の見取り図を円卓の中央に広げて覗き込みながらルークは言った。
結果、この部屋には特に手掛かりのようなものはなかった。並べてあった本もそれほど古い本ではないけれども建物が建てられた当時のものでもなく最近のものでもない。家具や食器類も同じだ。ここまで持ち込むとしたら直接外からか、アッシュたちの通ってきた転移装置を使ってかしかない。元の遺跡にも使われた形跡があったからどちらも同時に使っていたという可能性も否定できなかった。そして比較的きれいに使ってあったそれは、ここを使っていた誰かが残してはいけないものを全部持ってここを去ったか、綺麗に使っただけかわからない。ここが何かの研究所で、創世歴時代とかレプリカに関してとか何かわかったならば収穫もあっただろうが、今のところ何もなさそうだった。
「最近でもないからな、置き去りにされている本の日付が百年前から十年くらい前だからそのくらいだろうな。山の奥まで逃げてきた盗賊とか、たまたまここを見つけた探検家か、ここの近くに街があるか、だ」
「あ、それいいな。近くに街があるって……うっ」
アッシュの言葉に食いついてきたのか乗り出し気味のルークの顔が少し近かったのでアッシュは思い切り手のひらでその顔を押しやった。ルークはひどいとつぶやくがひどいのはどっちだ。不用意に近づくなといいたい。
「お前も、何かわかったことはないのか」
「うーん、結構森の中歩いたけど森以外なかったかな?」
有益な情報はないらしい。アッシュもルークにはあまり期待していなかったし、建物の中になにか有益な情報があるとも思っていなかった。初めから遺跡内ですらただの民間の建物だと思われていたのだ、その先につながっている建物が何かすごい隠された施設とか遺跡であるわけもあまりなかった。
「隠された遺跡! って感じなのに拍子抜けだよな」
「立てた当初は別に隠れてなかったかもしれねぇじゃねぇか」
道があったけれども消えただけ、年月が経つにつれてここに何かあることを知っている人が減っただけ。打ち捨てられてそれほど時間のたっていないコーラル城すら近くの子供たちには幽霊城だとか言われている始末なのだからそれ以上経っているこの建物が忘れられても仕方がなかった。
だから助けは来ないかもしれない。そう思うとアッシュも少しだけ不安になる。けれどもルークにそんなことを感じ取らせるわけにもいかなかった。これは被験者としての意地で、絶対にルークより先に解決策を探してみせると、アッシュはもう一度探索することにしたのだ。
結果、外にまで出て時間を決めて歩いてみたがそこには道も街も何も見えなかった。太陽の位置と時間とでオールドラント上での大体の位置はわかる。元の遺跡とそう大きく離れたところではない、のだと思う。けれどちゃんとした機材がなければそれも確実にそこだという確証はない。収穫は食べれそうな果実だけだ。戻って建物内を再び探索してもやはり出口に関する何も新しい情報はなかった。
その日は結局何の手がかりもないまま、始めは調子のよかったルークもだんだんと無口になっていくのがわかる。帰る手段が出てこないと落ち込んでいるのだろう。日が高いうちにとルークがもう一度森の中に食べ物を確保しに行った帰りには昼間よりたくさんのものを採ってきたのは、しばらく帰れないかもというルークの不安の表れだったのかもしれない。
日が暮れる。
磁石は持っているから日の落ちる方角で北がどちらかとかを確認する必要はない。けれど日が落ちるのが一つの区切りに思えて、なんとなく部屋の上部にある小窓から見える紫の空をふと見上げた。昨日は明かりがつくか分からなかったしつけ方も分からなかったのでこのまま部屋が真っ暗になるのを待っていたのだった。
だんだんと自分の周りが暗くなっていって、自分も影に溶け込んでしまう瞬間というのはあまり楽しい体験ではない。
「また一日終わったな」
そういいながらルークも同じように紫色の空を見上げている。心なしルークとの距離が近い気がした。ルークも昨日暗闇の中を過ごしたのだから、アッシュと同じことを思っているのかもしれない。幸にして今日は明かりがあるから完全に真っ暗になることはないが、このあかりだっていつ切れるかわからない。不安はいくらだってあるが考えても仕方がない。アッシュが目をそらせばルークも小さく笑ってアッシュに続いた。
けれど昨日と違うのは隣にルークがいることだ。
よくわからない場所に一人でないのは心強いことだし、ルークにとってはそうだろう。だがアッシュにとっては暗くなって隣にルークがいるということは心強い以上に何か危機感を覚えないでもなかった。
昼間は調査に集中していたし、作業中に話しかけられてもぞんざいな返事しかしなかったせいかルークもあまりアッシュの近くには寄ってこなかった。けれど一通り調べつくして結局何もなく、日も暮れた後では今日の助けは多分来ない。可能性があるとすれば明日、外に出て近くに何かないか確認するくらいか。とりあえずわかっていることは今日はほぼすることはない、ということだ。そして目の前にはルークが机に向かって何か書き物をしている。日記でも書いているのだろう。今はただペンが走る音がするだけ。けれどたった二人の空間でずっと無言というわけにもいかないだろう。相手はルークだ。無視してもいいが逃げる場所もない。別の部屋に行けばいいが、どちらかといえばルークを一人にするほうが不安に感じるのは仕方ないことだ。今まで敵も魔物もいなかったけれども今この瞬間に現れないとも限らない。一人よりは二人でいたほうがいい、理由はそれだけだ。
アッシュはルークから離れたソファーに座ってルークを見ていた。
不安はある。けれども食べるものもあるし、凍えるような寒い季節でもない。人がいた形跡があるなら孤立無援の場所でもないのだろう。
そして、ルークがいる。
ルークは一日いつもと変わらない馬鹿さ加減で、アッシュがいなければどうなっていたかと思うほど緊張感もない。アッシュが気にしているのが馬鹿らしくなるほどだ。そうだ今朝の夢のことだって、今考えれば目の前のルークがそんな恋愛の対象になるなんてあるわけなかった。夢は夢で、現実ではない。愛しいと思ったことも、触れたいと思ったことも、きっとただの夢の残り香で、こうやってあまりルークとともにいたことがないから戸惑っているだけに違いないのだ。
「アッシュ、何か言った?」
そう思った瞬間にふいにルークが首をかしげてアッシュを見た。視線が交わるのがわかってどきりとする。
「俺は何も言ってねぇぞ」
「えー、なんか聞こえた気がしたけど、気のせいか」
そういってまた手元の手記に目線を戻したルークにアッシュはほっとした。もしかして今の瞬間ルークのことを考えていたから回線がつながってしまっていたのかと思って多少動揺してしまったが、本当に気のせいだったのか、ルークが疑問に思っていないならそれでいい。
けれど目線を戻した次の瞬間にふわりと笑ったのを見て、アッシュはその微笑み先に一瞬殺意を覚えたのだからさっき考えていることがどれだけ無駄であるかを知るのである。
アッシュは昼間は奥底に押し込んでいた感情がまた顔を出してくるのに気が付いて、思わず立ち上がった。どこかへ行こうとか何かをしようとか思ったわけではない。ただじっとしていられなかっただけだ。
「なんか思いついたんだ?」
けれどそれほど広くない部屋にルークと二人。ルークがアッシュの行動に気が付かないわけはない。手元の手帳を閉じるとルークも腰を浮かせて何事かとアッシュを見ている。特に用事はないとは言えない。けれど思いついたように立ち上がってしまったから、さてどうしようと思ったその時。
「えっ?」
一瞬音もなく音素灯が点滅した。音素の供給ができなくなったとき、急な豪雨や雷、整備不良によって音素灯が消えることがあるが、半地下であるここでは外の様子は分からない。昼間の様子から見れば急な天候の変化はなさそうに思えたのだが、ここがどこだか分からない以上断言はできない。一度だけなら偶然だ。だが、もう一度音素灯が瞬いたから、ルークは椅子から立ち上がってアッシュを見た。
「ここで明かりが消えたらまた真っ暗じゃん。アッシュ、明かり持ってたよな」
「ああ、俺が持ってる荷物の中に……なんだ?」
「ひゃ……」
そういっている間にもう一度明かりが点滅すると、その次の瞬間室内は真っ暗になる。ルークは中途半端に立ち上がってアッシュのほうへ足を向ける途中で、足音がおろおろしているので暗さに目が慣れないのだろう。
「そのまま左にまっすぐ歩けば障害物もなく壁があるからそこまで歩け」
何かに触れていたほうが楽だろうとさっきルークの向いていた方向から助言してみれば小さく唸り声が上がったもののどこかへ向かう足音ははっきりとする、と思ったのに。とんとんと足音が近づいてきて、あっと思う間に足音は目の前に迫り、何かがアッシュに触れた。
「何やってんだ」
「あ、ごめん。アッシュ? これ」
もう一度頭に触れた何かにアッシュははじくように手を伸ばせば、それに触れた途端ギュッと力いっぱい掴まれた。
「俺以外に誰もいねぇだろうが」
「うん、でも……見えないし、ごめん」
ごめんといいながらも手の力は全く緩まない。掴まれているのも痛いのでアッシュはそのまま軽く腕を引っ張ればアッシュに倒れこむようにルークが近づくのは仕方のないことで、ルークのもう片方の手がアッシュの肩に触れて、掴むようにその感触を確かめるとそのまま思い切り抱き着いてきた。
「アッシュ……だな。よかった」
抱き着かれた上に耳元でほっとしたため息とともに小さくささやかれて、アッシュはその声にルークを突き放していいかどうか迷う。急に暗くなったから、驚いただけなのだと思うし、まっすぐに歩けなくてアッシュのところにたどり着いただけだと思う。けれども何も見えない暗闇に感じる体温と吐息というのは思ったよりもアッシュにとってやばい状態だ。ルークの心音まで聞こえてきそうな距離に、アッシュの心音もルークに届いてしまうだろう。暗闇に、ではなくルークの接近にどきりとしているのを知られるのは困る。いや、この体温自体はとても心地よいと思うし、ルークに頼られているというのは優越感も増す。だから余計いけないのだ。暗闇に紛れてまた口づけれることができるかもとか、余計な妄想が頭をもたげてくるから。さっきそういうのはないと自分に言い聞かせたところではないか。
「落ち着け、照明の調子が悪いだけだまたつくかもしれないしつかないかもしれない。確認するからとりあえず見えないなら座ってろ」
他人を落ち着かせようと言葉にすれば、自然と自分も落ち着く。これは事故、ルークには何の意図もない。それは心の中で三度つぶやいて、アッシュは浮かせた手でルークを抱きしめそうになるのをこらえながら軽く肩をたたいた。ルークが顔を上げる気配がする。そろそろ暗闇に慣れた目が間近にあったルークの顔をとらえて思わず声が出そうになる。見えないというのにアッシュを不安げな瞳で見つめるルークがそこにいて、もしかして見えているのではないかと錯覚さえする。思わずその頬に手を滑らせればそっと瞳を閉じられて、たぶん反射的だというのはわかっているのに倒錯的な気分になる。
「アッシュ?」
落ち着いていないのは自分だ。ルークを自分から思いっきりはがしソファーへと沈めると、ルークが不安そうに残されたアッシュの手を握りしめてくる。アッシュは名残惜しいと思いながらもそれを感じさせないために手を引きはがした。
「昨日もこの暗い暗かったはずだ。別に何ともないだろう」
「……そう、だな。うん、大丈夫だ」
少し歯切れの悪い返事だが、再び手を伸ばされることはなかった。ただの暗闇でここまで動揺しては今までどうやって旅をしてきたのか。常に誰かはそばにいただろうし、本当の暗闇というのは街の光も月の光もどこかに光はあることが多いのであまり存在しないのでなかったのだろうか。こんな状態でよく旅などしてこれたなとむしろ周りに感心する。こうやって近くにいる誰かに抱き着いたり……少しここにはいない誰かにむかつきを感じてアッシュはそれを考えることをやめた。考えても仕方のないことだ。
アッシュはそのままもう一度ソファーに腰を下ろすと小さくため息をついた。
「明かり、確認しに行くんじゃないのか?」
「先にランプに火をつけてから行くほうがいいかと思った。しばらくすれば音素灯もつくかもしれない」
確か荷物は足元に置いていたはずだと足元を探ればルークの足元のほうにおいていたらしい、手を伸ばせばルークの足に触れて、ルークはひゃっと驚いた声を上げた。
「なんだよアッシュ、下にあるならあるって……」
ルークの驚きには謝罪もせずにアッシュは目的のものを手にして身を起せば驚いてバランスを崩したルークが倒れ掛かってくるところだった。片手はランプで埋まっているのでそれをうまく止められずルークはそのままアッシュを押し倒す形で止まる。ランプの油がこぼれては明かりもつかなくなるとそのままアッシュはこらえて、何とか体制を整えようとするが、見えていないルークはどこを支えにしたらいいのか分からず手がアッシュの肩や胸やいろんなところに触れては離しを繰り返してわたわたとしている。
「ご、ごめ……アッシュ。あ」
かたんと何かがが床に落ちた音がした。このままでは変にころがしてしまうとアッシュが床に降ろしたのだ。けれどルークはそれがランプの落ちた音だと思ったらしい、どうしようとさらに焦ったルークが床に手を伸ばそうとする。アッシュがそれはかまわないと言おうとしたその口がルークの手だろうか、なにかに当たって言えない。
その時、パチッと音がして再び部屋の明かりがともった。アッシュはまぶしさに二三度眼をぱちぱちとさせると、ぼんやりとしていた視界がクリアになってくる。けれどそれはよくなかった。
「う……わっ!」
目の前にあったのはルークの驚きに目を丸くした顔。アッシュにもたれかかっていた状態だったルークはランプの落ちる音に床に手を伸ばした。その状態はルークが起き上がろうとするのと逆方向にアッシュにさらに近づいてしまう行動だったのだ。見えていればほぼ隙間のない状態まで密着したりしないだろうに、暗闇のおかげでいまだルークの顔は近い。さっき唇がふれたかもと思っても否定できないくらいの距離だ。いや、もしかしたら触れていたかもしれなかった。
けれどアッシュも、そしてルークもそのことは口にしない。
アッシュは足元のランプを手に持って、何事もなかったかのように近くのテーブルの上に置いた。別に明るくなったのでランプは必要ないはずだった。わざわざ置いたのは一番にルークと離れるためだ。
「あ、アッシュ……ありがと」
「ああ、古い音機関だから調子が悪いのかもしれないな」
なるべくルークを見ずに上部の音素灯をじっくりと眺める。ルークには不審には思われていないと思うが、これはいい機会だからちょっとルークから離れるいいアイテムだ。
「多分問題ないと思うがほかの音素灯も見てくる」
そう言い残して、ルークの顔も見ずにアッシュは部屋を出たのである。
ほかの音素灯も異常がないか確認してくると部屋を出てきたはいいが、どんな顔をして部屋に戻ればいいかとか、ルークがどんな顔をして部屋で待っているかとかを考えると頭が重くなる。……部屋で待っているとか、妄想も甚だしいと思う。けれど現状その言葉が多分ぴったりと当てはまるのだから言葉とは恐ろしい。けれどルークの待つ場所に戻らないという選択肢はなかった。たとえ自分で勝手にそのあたりの部屋に避難したとしてもルークならアッシュのところに飛び込んでくる自信はあった。
ルークとまた一晩あの部屋で過ごすのか、それだけが確定した事実だ。ここに来た当初はそんなことになるなんて全く思ってもいなかった。まる一日、ルークがいないとしたらルークの仲間たち、特にガイなんかは必死に探しているだろう。元の遺跡の中から直接どこかに消えた、そしてアッシュもいないということだけはさすがにわかるだろう。はやくあちら側から何かの手がかりでも見つけてくれないだろうかとアッシュは切に思う。アッシュがさっさと何かを見つけることができればよかったのだが、今のところ何もない。
今のところはルークもアッシュもそれほど長い時間ともにいたことがないせいか、ルークの態度も遠慮がちだ。けれどいつだって何か話しかける瞬間を狙っているのはわかるので、そろそろうざいくらいに話しかけてくるのではと思っていた。アッシュもここで口げんかしてもしばらく顔を合わせないということにもならず、ルークを置いていくこともできないので、適当に話を合わせるしかない。ルークもアッシュを怒らせて出て行かれては困るといつものようあ口論にはならないだろう。こうやって少しずつ二人が譲歩すればそこそこの普通の関係が築けるのだ、ということがわかっていた事だが判明してしまった。いつもは時間もない余裕もないそんな状態で出会っているのがいけないのだ。今は余裕はないが時間はある。むしろ余っている。アッシュだってこんな所でのんびりしている暇はないのだがすぐにでもしなければいけないこともなく、そしてここを脱する手段もなく仕方なく、だ。
戻れば多分ルークがいろいろ話しかけてくるだろう、そしてそれにアッシュは適当に答えて、そんな一見穏やかな時間が二人の間に流れるとは思ってもみなかった。
もし、今朝にあんな夢を見なかったら、アッシュは隣にいるルークに対してどう思っただろうか、どんな対応をしただろうか。あれがなければルークをあれほど意識することはなかったし、一緒にいてもいいと思うこともなかった? 多分、アッシュはそれほど変わらない行動をしただろう。ルークのことは今まで意識しなかったこともないし、ルークに抱いている複雑だが昔抱いた殺したいほど憎いという感情は今はない。むしろ今あるのはルークを気にする感情ばかり。それがレプリカに対するものなのか、愛しいという感情なのか、運命を分かったものに対するものなのか、それはアッシュの中でごちゃごちゃになって一つになんかならない。けれどそれはもともとアッシュの中にあったもので、驚くべきものでもなかった。
息を吸って大きく吐き出す。それだけで少しだけ心が落ち着く気がした。ルークはいたっていつも通りだ。アッシュも朝目が覚めた時ほどの気持ちの揺れはない。それは多分もともとアッシュの中にあったものだし、またしまえばいい。ルークに気付かせる気もないし、いまさらルークに対する態度を変えることもできない。この世界の状況でルークのことが好きかもしれないと気が付いて、あとできることといえばルークに気持ちを伝えるなんてことよりこの命を後どう使えるかだ。それの用途がルークのために使えるか、に代わるだけ。アッシュの生き方に変更点など何もなった。そもそも、自分の命の期限はもうすぐ目の前で、できることはそれほど多くない。それでも何をしようかと思っていたといえば、自分とルークとしなければいけないことが何かを考えていたのだと思う。
結局、アッシュを生かすために生まれたルークは、事実その通りの存在となった、それだけ。
一定のリズムで歩いていれば、何かもやもやとしたものがたまっていた心も落ち着きを取り戻す。
壁のスイッチをつけながらアッシュは朝と同じように通路を確認しながら歩いていく。今日も何度も歩いた道でどこに何があるかもうすっかり暗記してしまった。通りがかりの部屋の中まで確認して、思ったより早く一番端、すなわち初めに現れた場所までたどり着く。
アッシュだけでも二度ほど確認したし、ルークと共にも来たけれどもやはり何も起こらなかったこの場所。元々譜陣がそこにあって消えているから発動しないというのであれば痕跡があるはずだと探してみたのだが、確かにそのには痕跡はある。けれどもそれが発動するものかそうでないのかアッシュにもルークにも分からなかった。もともと創世歴時代のしかけであり、専門の知識がなければ修復などできないものだ。同じようなものが元の遺跡にもあるはずだ。そっちで何とかしてくれるとアッシュは信じている。
起動していれば足を踏み入れれば音素が活性化してうっすらと光を放つはず。けれども今もそこはただの白い床だ。一方通行ということも……あるかもしれないが、この建物の立地からするとあまり考えられない。もしかしてこちらのほうが街に近いのかもしれないがそれも探索してみないとわからない。そして、アッシュとルークはここに移動させられたのにそのほかには誰もここにたどり着かない理由。考えても答えは出ない。やはり外に出てどこか探索すべきかと思ったその時。
足元に、何かあった。
何度もここに足を運んだその時に、床には何もないことを確認していたはずだった。歩いているうちに何か落としたかとそれを拾い上げた。
「メモ……いや、手紙?」
そんなものを持ち歩いていたか、少なくとも自分は持ち歩いていないからルークが? そう思いながら何とはなしにそれを開いた。ルークのものであっても落し物なのだから誰のものか確認すべきだ。
白いただの紙を四つに折っただけのそれを片手でひらいて、アッシュはむっと眉を寄せた。一度中を見たその紙を折りたたんでもう一度足元を見渡した。そこにはやはり特に何もない。ぐるりと回って、ひとところでぴたりと足を止める。少しかがんで、床に手を伸ばした。
「これで……」
小さくつぶやいて、アッシュはゆっくりとその場を後にする。そこには何もなかった。見つけたもの、以外は。
「これが落ちてたって? あそこに?」
ルークはアッシュの拾った紙を開いて目を丸くしている。
アッシュはそれを拾ってすぐにルークのいる部屋へ戻った。それはその紙がアッシュが落したものでもルークが落したものでもなかったからだ。
「向こうの遺跡側から何かわかったらしいな」
それはアッシュが初めに思った通り手紙だった。書かれてあったことは三つ。こちらからの譜陣では移動対象が限定されているのか誰も反応しないこと。そして、限定された音素振動数の中に第七音素の振動数があったからか、誤作動でアッシュが登録されてしまったかで二人だけがこちら側に飛ばされてしまったこと。試しに第七音素でできた譜石を投げ込んだら反応したので手紙をレプリカで作って送ってみた、とのことだった。
届いたはいいがこれに対して何の反応もできない。もしルークがあちら側にいたのならば話ができるだろうが残念ながらどこにいても会話ができる相手は目の前だ。返事ができない以上届いていることも伝えられないし、知りたいことも伝えられない。たとえばこちらから転移装置を起動させる方法とか、地図での位置だとか。
アッシュが手紙の次に拾った手のひら大の石をことりと机の上に置いた。それが先に投げ込んだという譜石だろう。譜石はそれが作られる過程上そのほとんどが第七音素でできている。手紙も、触れてよく見てみれば第七音素でできているようだった。
これだけがアッシュやルークと同じくがぎられた中で転送できたもの、らしい。つながっている、とか探索はされている、とかルークのことだけでなくアッシュがここにるかもしれないことを知っていることは安堵の対象だ。少なくともルークだけはちゃんと探されているだろう。ルークの探索にアッシュを探したらいなかったくらいのものだろう。以前にもルークが迷子だとちょうど近くにいたアッシュが捕獲されたことがある。アッシュも同じようなことを考えていたのだから人のことは言えない。
「でも、結局ここがどこかだとか戻る方法とかわかんないんだよな。転送されたところにあるはずの譜陣だってこっちからは動かなかったし」
「どうしてここに来れたか、くらいだな。だがあいつらがここの位置がわかるんだったら問題ないだろ」
けれど、転送できるデータが確認できたなら転送先も登録されているはずだ。この場所を確定して誰かが来るかもしれない。長くここにとどまらなければいけない、という状況は初めの想定通りないのだ。
「……うん、そうだな。街から近かったら明日くらいにはどうにかなるかな」
ルークはそっと手に持っていた手紙を譜石の横に置いた。ほっとしたのかテーブルに肘をついて少しだけ目を伏せた。
「早ければな」
ルークにとってはうれしいことなのだろう。自分と一緒にいることがそんなに楽しいわけもない。話をするわけでもなく、何度も殺されかかった相手だ。ルークに嫌われているとは思っていないけれども、被験者だという理由を除いてしまえばそれほど好かれているとも思っていなかった。ルークがアッシュにかまってくるのはアッシュが被験者だからというのと、最終的に目指す先が同じだということだ。アッシュも煽ったがルークはアッシュに対してはその罪悪感から最終的に強く出ることはない。自分がそういう風に仕向けたのだ。それを拭い去ることは簡単ではないだろう。そしてアッシュもルークにいまさら好かれようとか好かれたいとかそういうことは期待していない。自分を変えることが無理なのだ、そのままで好かれることもないだろう。
だから期待なんてしていない。
「うん、なんとなく明日も明後日もこうやってアッシュと過ごすのかなと思ってたから、なんか急に現実じゃない気がしてさ」
机に突っ伏して力の抜けたように目だけアッシュを見上げる。
昨日の昼間まではこんなことになるとは思ってもみなかったのはアッシュも一緒だ。いや、今朝までか。無事に戻れる目算ができた、ということにほっとしているのはアッシュも同じで。けれど、ルークとの二人っきりの空間が続くと思っていたのが途切れた、そのことに関する感情は多分ルークとは違う。ほっとする気持ちも確かにあるがもっとこの時間が長引いてもよかったと思う気持ちもアッシュの中に確かにあった。これから、ルークとこんな空間を持てることがどれほどあるだろうか。今までなかったのだからないのかもしれない。とすれば、これが最初で最後のルークとの穏やかな時間なのかもしれなかった。そう思えば手放しがたくなる。
「明日は外に出てみようと思っていたが、ここで待つか?」
「うーん、ここがどこだか教えてくれたら出たほうが早いんだけど、うまく教えてくれるか分かんないし、こっちから通じるようにするにしたって誰かこっちに来ないと無理そうだもんな。明日朝に何もなかったら一緒に行こうかな」
メモでも置いておけばもし誰か来ても何とかなるだろうしと、ルークは笑う。アッシュはそうだなと答えながら内心ほっとしていた。ルークが一緒に来ると言った言葉にだ。アッシュと行動を共にするのはそのほうが戻れる確率が高いからと一人では不安だからが大きいだろう。戻れるかもしれない時にルークがどちらを選ぶか、アッシュは少し不安だった。アッシュを頼るべきだと思う心は確かにあった。けれども確実にここにいれば助けは来る。
だが、ルークはアッシュを選んだ、理由はわからないがそれだけのことがアッシュを安堵させた。
「とりあえず夜のうちはあちら側も動けないだろ。無駄に考えるよりましだから寝ろ」
「……まあ、俺がいろいろ考えても無駄なのはわかってるんだけどさ。せっかくアッシュと一緒にいるんだし話とか……」
「お前と話すことなんてねぇよ」
いつものように冷たく言ったつもりだったのに、ルークはそれを聞いて何かおかしかったのかふっと笑った。
「何だ」
「いや、アッシュが今朝からずっといつもよりやさしいなって。思い出したらこんなに長くアッシュと一緒にいたことなかったから、普段のアッシュはこうなのかなって。だったらいいな……って思っただけだから!」
ルークの言葉の最後が何か弁明に聞こえたのは、アッシュが思わずルークをにらみつけたせいだろうか。別に脅したわけではない。アッシュはいつも通りルークに接したつもりだったし、ルークの態度も変わらなかったと思う。けれどルークがどう感じているかは知らなくて、確かにルークのことはいろんな意味で気にしたし長くいなければいけない分態度は違うだろう。それがどいう言う意図であれ。
「とっとと寝ろ」
ルークは戻れるかもしれないとわかって余裕が出たのか、ただアッシュに慣れたのかアッシュににらまれているのに顔はにこやかだ。なんとなくムカついてルークをソファーに押し込むと寝具代わりのマントを投げつけた。眠くないといいながらもルークはマントを胸までかぶってソファーにゆっくりと背を投げかけた。
「昨日は床だったもんなーベッドとはいかないけど尻が痛くないのはいいよな」
「それはよかったな」
そういって離れようとするアッシュの手をルークがつかむ。
「アッシュ、どこ行くんだよ」
「俺も休むに決まってるだろ、今のところ魔物もいなさそうだしいつでも起きれる程度の仮眠なら取ってても問題ない」
「いやそうじゃなくて、ここ!」
ルークはアッシュを捕まえているのとは逆の手でたしたしとソファーの空いたスペースをたたく。意図はわかる。だがアッシュはその意図に従う気が全くなかった。
「俺は昨日と同じ場所がいいんだ」
「駄目だって、せっかくちゃんとした柔らかいソファーがあるのに冷たい床でなんて座ってたら体固まるだろ? いざというときに動けないと困るだろ?」
こういう時に無駄な知恵をつけると困る。ただ座れだけでは頷かないのがわかっているらしい、何かいろいろオプションをつけてくるのは誰の入れ知恵か。頷くまで手を離さないと言わんばかりの目にアッシュはここで言い合いをするのも面倒になってそのソファーの空いたスペースに投げやりに身を投げた。ルークが寝てしまえばそこで移動すればいい。こいつはアッシュと回線を繋いでいる途中で頭が痛いと言いつつも寝れるような奴だ。多分問題なく作戦は遂行できるはずだ。
ルークはアッシュが隣に座ったことに満足したのかアッシュに小さな声を上げて笑う。行動はまるで子供だし、騙されているところもそうだ。けれどそのアッシュとは違うまだ真っ白い純粋なところがアッシュにはまぶしくて、憎むよりも何よりもルークを愛しいと思う部分でもあるのだ。それは庇護欲かただ子供を見守るような気持ちなのか。ルークはもっと世間にもまれるべきだし、容姿なりの経験を積んでほしいのも確かだ。けれど同じ容姿であるのに自分と違うと思うのは本当に違うからだ。自分と同じなら隣でこうも何も疑わず目を閉じることなんてしないだろう。もっと疑うべきだ、たとえば隣にこうやって座るアッシュとかを。
ソファーはそれほど大きなものではない。詰めれば三人は座れるだろうが今はルークとアッシュの肩が触れるほどに近い。ほんのりと感じる温かさは朝のそれを思い出す。この温かさが自分になじむのはルークが自分のレプリカであるせいだけではない。多分、アッシュ自身がこの暖かさを欲しているからだ。
別に眠くはないが、ルークも何もしゃべらないしかといって何もすることがないのでアッシュも目を閉じる。
森に囲まれているのに虫の声も何もしないのはここが地下に造られている建物のせいだ。静かな、何も聞こえない空間に小さな吐息だけが響く。ルークは眠ってしまったのか、さすが子供は寝るのが早いと思いながらもうしばらく動いても起きないくらいになったら移動しようとアッシュは静けさの中でその体温だけを感じていた。
目を閉じていればルークの体温は自分の体温とまじりあって分からなくなる。感じている温かさもかすかな重みも、ルークがそばにいるのはこんなにも当たり前でアッシュにとっては違和感でも何でもなくて。
ルークはアッシュの一部だ。それはレプリカだからとかそういうのではなくて、たぶん生きていくのにルークという存在が必要な部品でありそれが欠ければきっとアッシュは生きていけなかった。ルークにとってアッシュがそうであるかは分からないけれども。世界中のどこかでルークの存在を常に感じることができるアッシュだから、そんな感覚に陥るのかもしれなかった。けれどだから、こんなに近くにいても存在を確かに感じるのにルークはアッシュにとって他人ではないから、その存在が近くにあることも許される。今朝のようにたとえ眠っていたとしても、起きる必要をどこにも感じなかったのだ。
これが愛しいと思うならそうなのだろうし、たぶん誰かには違うといわれるだろう。違っていたとしてもアッシュにはそれ以上の感情を抱く人物に出会ったことはなかった。
そっと目を開ければルークはアッシュの横に座ったまま目を閉じている。眠っているのか呼吸は一定で、触れている肩をそっとずらせば支えがなくなったのかルークが少しだけ体を揺らしたが目を開ける気配はない。ぬくもりが消えたのは少し寂しかったが、このまま隣にいるわけにもいかない。寝ている間ならともかく、隣にずっとルークのぬくもりと気配があると自覚してしまえば無駄にその存在を意識してしまう。肩だけでない、もっと抱きしめればアッシュともっと混じり合えるのに、そしてどちらのものか分からなくなるほど近くにいればいいのだ、夢の中ならいくらでも実践できたことを現実にすることはできない。手を伸ばせば簡単にそれは成ると知っている。だからのばさない。
少しだけ座っている位置をずらせばルークにはもう触れない。このまま立ち上がって反対側の部屋の壁際へ移動すればルークの姿を確認しながら仮眠をとることができるだろう。ルークが起きないのをもう一度確認して腰を上げようとしたその時。
支えを失ったルークが滑るようにアッシュに倒れかかってくる。避ければそのままルークはソファーに寝転ぶ形になるが確実に目は覚ますだろう。どうするか考える間にアッシュの肩に頭を乗せるように凭れてそこで止まった。
ふわふわとした髪の毛がくすぐったい。
アッシュはここからどうやって逃れようか考えていた。そのままゆっくりと頭を下せば起きないだろうか。もう少し熟睡した時間を見計らうまでこの姿勢で? いろいろと頭の中を巡るが答えは出ない。それはもう少しこのままでいいかという心の声があったからだ。
もうしばらく、そう思っているうちにどのくらい時間が経ったのか、ほとんど経っていないのかもしれなかった。部屋に時計はあるが時間を止めている。アッシュの持っている時計を取り出すにはルークをどけないといけない。
別に時間はどうでもいいが、時間を見計らうには必要かとアッシュはルークになるべく触れないように懐の時計を取り出そうと動いた。
「……アッシュ?」
小さな声は、アッシュの耳元でした。どきりとして一瞬手を止めたが声の主はルークでしかない。起こしてしまったのかと見下ろせば瞳は閉じたまま、吐息も乱れていない。ほっと息をついたアッシュはそのまま時計を取り出す。時間は、それほど経ってはいなかった。やけに長く感じたのに一時間もたっていない。このままいくとこの夜は長そうだ。そのふわふわとした髪に触れたいと思ってルークが持たれていないほうの左手を伸ばしかけてやめる。
「……アッシュ、ごめん。明日には多分またアッシュどっかいっちゃうんだろ?」
今度は間違いない、ただの寝言でこんなにはっきりとものを言うやつを見たことはない。だがどう見てもルークは寝ているようにしか見えなかった。
「うん、……これは、ただの、ねごと。だから」
アッシュは何も答えていない。けれど会話をしているようにも感じるこの声はルークが寝ぼけているか、わざとか、その少しかすれた声からも確認はできなかった。多分寝ぼけているのだ、そして自分も寝ているのだ。聞こえても聞かなかったことにすればいい。アッシュはルークが目が覚めていようとどうだろうと関係ないと目を閉じる。
それからしばらく、何の音もない静寂が二人を包む。本当にただ寝ぼけていただけなのか分からないままアッシュはもう少し目を閉じたままでルークが熟睡するのをただ待つだけ。
「俺、アッシュのことすきだ。……多分アッシュは気が付いてたかもしれないけど……ごめんな? こんな俺にも手を貸してくれてありがとう、アッシュ」
何のことだと言い返しそうになる言葉を喉の奥でぐっとこらえる。今聞こえたのは幻聴か、ただの寝言にしてはアッシュにとって物騒すぎた。ルークはアッシュが寝ていると思っているのだろうか、そうでなければこんなこと言わないだろう。だからアッシュはその言葉にかけらも反応すらできなかった。
『アッシュは気が付いてたかもしれないけど、昨日の晩アッシュを見つけた時も、朝に暗闇の中アッシュに近づいた時も、さっき突然明かりが消えた時も、俺アッシュが近くて嬉しかったから。わざとキスしてごめんな?』
そこから先のことは、アッシュもあまり良く覚えていない。
朝、窓から差し込む光に目が覚めると、視界の正面でソファーに転がるこんもりとした塊がある。朝が来たのかと思う。壁を背に座り込んだまま肩に立て掛けた件もそのままある。アッシュは寝相は悪いほうではないので野営する時や敵が近くにいるときにはこの格好で休むことが多い。別にここに敵がいないことはわかっているが、ただ床に寝転がりたくなかっただけ、というのもある。
剣をそのまま壁に立てかけて腕をぐっと前に伸ばす。あまり良い姿勢で寝たとは言えないので肩の筋肉ががちがちになっているのを軽く回してほぐす。頭に血が回るようになったら立ち上がってそのまま固まった体をほぐした。
よく寝た、とは言わない。こんなところで熟睡できるほど能天気ではない。だが目の前にすやすやと寝息を立てている自分のレプリカはその能天気なほうなのでよく寝ている。懐から時計を取り出せば時間は六時過ぎ。起きるのに早い時間ではないが、まだ寝ていても許される時間だ。
のんきに寝ているその姿にアッシュはルークを起こそうかどうしようか迷って、そこでふと昨晩のことが頭をよぎった。
『アッシュのことすきだ』
囁くようなその声はアッシュの脳内で確かに再生された。これは何だ、何の妄想だ。そう思ってもアッシュの脳内には次々とルークの言葉が再生される。
『わざとキスしてごめんな?』
アッシュの足はそこで動かなくなる。これは確かに自分の記憶なのか? いやその記憶には声しかない。映像が付いていないということはただのアッシュの妄想の賜物なのか、夢なのか。アッシュの記憶が現実ならばあの時アッシュは目を閉じていたし、けれど意識ははっきりあった……と思う。けれどソファーの上でじっとしてから一時間だ。その間目を閉じていた時間のほうが長いし、寝ていた可能性だって……それに、アッシュは予定通りソファーでなく向かいの壁際に座って寝ていたのだ。移動した記憶があいまいだから多分全部寝ていたのだ、昨日の朝のようにそれはすべてアッシュの夢で妄想なのだ。
そう思えばすっきりするような、逆に二日連続人に言えない夢を見たなんて納得いかない気持ちになるのは仕方のないことだ。これはアッシュの脳が勝手にしたことでアッシュの意志ではない。
それはルークを叩き起こせばわかる事実のはずだった。今すぐ起こせば「あの後すぐに寝たよ」と返事があるはずだ。
けれど、実際にルークが起きたのはその二時間ほど後、彼は自主的にむくりと起き上がるまですやすやと惰眠をむさぼることとなったのである。アッシュはルークに近づくことすらできず、離れた円卓で特に興味のない本を読んでいる最中のことだった。
「……? あれ、ここ……」
ルークの起きた気配に視線をやれば、まだ開ききってない瞳で周囲をきょろきょろを見回した後、アッシュに視線を定めて数度瞬きした。
「アッシュ?」
半分夢の中だった瞳が次第に光を帯びていく様をアッシュは特に理由もなく眺めていた。それがいけなかったと気が付くのは数秒後で。
「アッシュ……だ」
顔がほころぶいうのはこういう時に使うのだということをアッシュは今理解した。瞳の中は柔らかい光をたたえて、アッシュがそこにいることがうれしいと言葉にしていないのにわかってしまうような笑みにアッシュは無意識で心のシャッターを何度も切った。これは絶対保存すべき映像だ。
アッシュの脳裏に響いた昨晩の声は間違いなかったのだと思わせるようなこの光景にアッシュはそれを振り払いたかったが、目の前のルークから目を離すのはもったいなかった。
「ああ、一昨日ここにきて……そっか、アッシュといたんだったっけ」
次第にルークの思考も覚醒してきたのか目の中の光がはっきりとなり、次にぱちぱちと瞬きしたころには先ほどの笑顔は消えていた。
「アッシュ、おはよう」
立ち上がりながらぐるぐると腕を回しているのは、ソファーの上とはいえ快適な寝心地ではなかったからだろう。もう一度大きなあくびをしながらルークはアッシュのいる円卓の席に着いた。
「ああ、よく寝てたな」
「寝ろって言ったのアッシュだし、どこでもちゃんと寝れるっていうのも大事な特技だってジェイドも言ってたし」
それは半分嫌味ではないのかと思ったが口にしない。
「そだ、アッシュいつの間に移動したんだよ。動いたってのに気が付かなかったし、いつの間にかソファーに転がってるし!」
「緊張感が足りないだけじゃねぇのか」
「まあいいや、寝てる間にアッシュに置いて行かれるとかのパターンじゃなくて」
本気でほっとしているらしいルークにアッシュがどう思われているのか疑問に思う。やはり昨日の台詞はただの夢で、ルークは何も言ってないアッシュも何も思ってない、それが正解なのだ。そうしておこう。
もし昨晩の声が事実だったとしても、アッシュとルークの関係は変わったりしないのだから。……たとえば、アッシュが思うこの戦いの終わりに二人が向き合って笑える日が来るのならば話は別かもしれないが、そんな日は、来ない。
予想通り、譜陣のある場所に行けば新たな手紙となぜか方位磁石がセットになって落ちていた。旅をしていれば普通は一人一つくらいは持っているものだが、無言でルークを見れば持ってないですと自己申告された。ので投げつけておいた。
手紙に書かれていた内容は今度は一つ。
地図に書かれた赤いしるしとそこから南に延びる矢印が川のところで左に折れる。その先にまた赤いしるしがあって何か数字が書かれている。
「これは……時間? この時間にここに来い、ってことかな」
この場所がわかっても森の中に立つ建物だからアルビオールは停まれない。時間の書いてある場所まで来れば迎えに来れる、ということなのだろう。そのための地図でそのための磁石だ。
場所はやはり元の遺跡とそれほど遠いところにはなかった。だが一直線でいける距離でもない。山を挟んで反対側にあるそこにはまっすぐ歩いても多分到着しないだろう。地図にある矢印もそれほどまっすぐな線でもなく、多少迂回してたどり着けるような感じに見えた。多分この通り進むのが間違いないのだろう。けれどそれは。
「昨日二人で探索した道と似てるよな? このまままっすぐ行けばよかったんだ。アッシュすごいな!」
目測で測る自分の位置はそれほど正確なものは出ない。少し角度を測り間違えれば全然違うところだと錯覚するのはよくあることで、正式な航海士と正確な道具がなければ自分の正確な位置を調べるのは難しい。アッシュの意見はただのあてずっぽうで、だから途中で引き返したので昨日は正解だったのだ。
「行っても誰も迎えはいないし、この伝言も受け取れなかったがな」
「あ、そうか、でもアッシュかっこいいよな」
さらりと言われて、アッシュは聞かなかったことにして流した。内心はルークに尊敬のまなざしをされれば気持ちはいいし、もっといいところを見せなければいけないと思うのはこれでも恰好をつけているからだ。このまま自分から気持ちが離れなければいいと思うくらいには、ルークの気持ちを独占したい。
そんなことはできないのはわかってはいるけれども。
「そろそろ出ないとこの時間にここまで着かねぇぞ」
「あ、うん。大丈夫。いけるよ」
二人で並んで歩くこの場所も最後だ。どこかわからなかった初めは帰れないかもと思ったし、唯一の外部との連絡手段であるルークが一緒にいることで、閉じられた世界の果てに思えた。そんな中で二人しかいない空間は、アッシュにとって決して心地悪い空間ではなかった。むしろ、ルークの昨日の言葉でもないが、二人きりの空間が現実ではなくて今から現実に帰るのだと思わせる。
惜しい、と思った。けれど声にも、顔にも出さない。
ルークはそういうつもりで言った言葉ではなかったはずだ。ルークは現実に戻りたいと思ったしアッシュは戻りたくないと思った。それだけだ。
外へとつながる扉を開く。
二人しかいない世界の果ては、もう、ない。