沈黙の破片 それはもうだいぶ前からルークの中にあった。
こんな思いを抱いているなんて、誰にも気が付かれてはいけなかった。心の奥底にそっとしまって鍵を掛けて、誰にも、唯一ルークの心の中にまで足を踏み込むことの出来るアッシュであってもそれを見ることが出来ないように。
「ごめん」
小さく呟いたその先には誰もいなかった。
ふわりと風に揺れた髪の間から緑の瞳がかすかに揺れる。そっと伏せられたそれが再び開いたその時には先ほどの陰りはどこにもなく、意思を持って歩き始めたその足取りはいつもと変わらぬルークのそれだった。
はずだった。
ルークがいなくなった。その知らせがバチカルへ届いたのはその日の夜のことだった。
定期船の着く時間帯はその船から乗り降りする客ばかりでなく、その客を狙った辻馬車や行商人が港に現れていっそう騒がしくなるのはいつもの光景だった。船の上の揺れる足元から開放されたルークは、潮風の混じる外の空気を思いっきり吸い込むと、体をほぐすように大きく伸びをした。船は嫌いではないが、その性質上長時間波に揺られている上、定期船では個室などないから寝てやり過ごすという手段が取りにくいから普段より疲れた気分になる。それに、普段ならば他の乗客とたわいもない話をして気分を紛らわせれるが、今回は事情があってそれも出来ず、ちょっとだけ今の状況を悔やんだりした。
それでも決めたことだ、今からこんなことを思っていてはいけない。そう思って何かを振り払うようにふるふると顔を振ると、よしと小さく気合を入れて行き交う人ごみの中にまぎれようとしたその時、いるはずのない人影を認めてしまってくるりと背を向けてしまったのはまさに思わず、だった。
まさかそんな、何でこんなところにいるんだ? いや見間違えただけかも、この世界に似た人物は三人はいるって言うし、っていうか自分で一カウントであと二人って確率低くないか、やっぱり見間違いだよ。
そこまで一瞬で考えて、けれど見間違えるも何もあれだけ目立つアレは絶対に見間違えようがないとルークも分かっていた。
分かっていたからこそ、逃げなければと目を彷徨わせても自分の立っている場所がどこであるか確認出来ただけ。なぜなら振り向いた先には、長い桟橋しか存在しなかったからだ。そこから先には青い海が広がっているだけ。残念ながらルークは泳げないどころか海に入ったことすらなかった。ちょっと足をつけたことはあるけれども。いや泳げたとしてもその選択肢はないだろう。ルークは割と冷静に考えて、恐る恐る振り返ることにした。
「あ、」
思わず声を上げそうになって、ルークは慌てて自分の口をふさいだ。いることは分かっていた。ルークが彼を見間違うわけなんてないのだ、それがどれほどの距離であっても。さっきだって人ごみの遥か遠くにあの赤が見えて、目があったかどうかだって分からない、ルークが彼に気がついたとしても彼がルークに気がついていないかもしれない。そう思ったから勇気を出して振り返ったのだ。
なのに。
「遅かったな」
どうしてこいつはルークの真後ろで、まるで振り返るのを待っていたかのように立っているのだ。いや、その台詞からすると待たれていたのか。どちらにしろ心臓に悪いことには変わりない。それに多分これは。
あまり嬉しくないほうだからだ。
「お前は早過ぎだっての」
「そうか? これでも待ったぞ、一晩」
ルークはその言葉にどんな表情を浮かべていいやら分からなくなる。その一晩というのは、どうせすぐ見つかるから次の日でいいかと思われたのか、一晩もすれば頭が冷えて帰ってくるだろうと思われたのか、どちらにしろ今目の前にいるのがアッシュだけだという事実を考えればそれほどの事件ではなかったということなのだろうか。
ルークは昨日、から行方不明だったはずなのだ。わざと誰にも告げずに出かけていた場所から帰る筈だったバチカルへ帰らなかった。ちゃんと書置きを置いて。
『しばらく世界を見て回りたいので旅に出ます』
言い換えればただの家出だ。ただ、衝動的に行動したわけではなかった。ちゃんと前から考えていたしそこそこ準備もしていた。それを行動に移したのが昨日だっただけで。
ルークとしても奇跡的な生還を遂げてからしばらくは、死んでいたと思われた間を含めてそれ以前からいろんな人に迷惑を掛け捲った自覚があるのでおとなしくしていたが、そろそろルークも我慢の限界が来たようだった。あの場所が嫌いなわけではなかった。けれど、そこにいることがルークには出来なかった、それだけだ。
探されないとは思っていなかった。けれどどこかで探されないかもしれないという思いはあった。だって、死んだはずのルークとアッシュがこの世界に帰ってきてから半年。結局ルークは以前と同じ屋敷の中で篭って過ごすだけ。ルークのいない間に起こったことや、これからのための勉強や時折騎士団に混じって剣の稽古をしたり、以前のようにだらだらと過ごしていたわけではなかったが、あのめまぐるしかった一年のように、何かをしているという実感はあまりなかった。多分、普通の生活というものはそういうものなのだろうと分かっていた。もう少しすれば多分何かの仕事を任せてもらえるようになるんじゃないか、という実感はあった。昨日の続きの今日のように明日の姿もなんとなく見えている日常というものは多分それが平和というのだろう。流されるままけれど確実に毎日が過ぎていって、それは一足先に自分の執務室をもらったアッシュを見たからかもしれない。
それはただ、はまるべきものがそこにはまっただけのようにルークに見えた。もともとその席はアッシュのもので、アッシュが座るべき場所だった。では、自分がいるべき場所はと考えれば、それは急遽しつらえた仮初の場所にしか見えなかった。確かにそこに席はある。座っていても怒られることはない。けれどもともとあったそこに付け足したようなそれはなくてもかまわないものなのだろう。むしろ、ルークがいなかったほうがきっと全てがうまくいくんじゃないか、そんな疑念に駆られて。
いや、そんなものはただの建前だ。ルークはバチカルでの、ファブレ公爵子息としての立場をちゃんともらったことに不満なんてなかった。戦いの中のあの一年もこの肩書きがなければルークは何も出来なかったかもしれない。この肩書きでこその制約もあるけれどもそれ以上に出来ることも多い。屋敷でおとなしくしていた半年の間で世界のことも政治のことも学ぶにつれてまだ自分に出来る何かが見える気がしていたのも事実だ。そして、ルークの一歩前には常にアッシュが居た。
それがルークにはずっと不思議だった。
あんなに屋敷に帰るのを嫌がっていたアッシュなのに、何の心境の変化か普通に屋敷にいるのだ。聞いても「いろいろあったんだよ」とまともに答えてくれないのだが、まあルークが望んだことが一つ叶ったのだから理由なんてかまわないのだ。それでにやにやしていれば頭をはたかれたりした。すぐに手が出るところは変わっていないが、前みたいに剣を抜かれたりするほどのことはさすがにないし、ルークを見る視線が以前と違う気がするのは気のせいではないと思う。本当に何がいろいろあったのか良く分からない。いろいろあったとしたって最後に別れてタタル渓谷で目が覚めるまで、エルドラントで戦って、何とかルークが勝って、アッシュはレプリカ兵にやられてしまったくらいだ。もしかして、ルークの知らないその後目が覚めるまでの間に何かあったのだろうか。その間の話を聞いたことはないのでアッシュもルークと同じく気がついたらタタル渓谷にいたのだと思っていたけれどもしかしたら違うのかもしれない。
分からないけれど、アッシュのルークへの態度が変化したことだけは事実だった。今までになく同じ場所で同じ時間を過ごしているからだろうか。そういえば、本気で切られそうになったのもアクゼリュスを崩落させてしまった直後くらいまでで、本当にルークがどうしようもなかった時期だけだったと思う。それからもルークがアッシュを怒らせてばかりで、もしかしたら今のアッシュが普通のアッシュなのかもしれないと思い始めたのも最近で。
けれど、慣れないものは慣れないのだ。
アッシュが側にいることも、ごく普通の会話でさえ。きっとアッシュは知らない。ルークが普通にアッシュに話しかけることが未だに緊張することなんて。
アッシュと普通に話をしたいと願っていたはずだった。その願いも叶ってしまった。夢みたいだと思う。それはほんのちいさな願いだった。けれど一つ叶えばまた別の願いが頭をもたげてくる。これ以上願うことなんてないなんてきっとないのだ。一度となく死んでしまうと思っていたその時ですら欲しいものも願うものもいくらだってあった。ただ、願ってもしかたないと知っていただけ。
それは、今だって同じはずだった。
一番欲しいと思うものは、絶対に手に入れられないもので、けれど側にあると欲しいと思う気持ちは膨らんでいくばかり。
存在を認めて欲しかった。一緒にいられればいいとおもっていた。自分を目に留めてくれるだけでよかった。せめて嫌われていなければいいと思った。普通に話が出来ればいいと思っていた。
もっと側にいたいと思った。もっと自分を見て欲しいと思った。もっと自分だけを見て欲しいと思った。好きだと思って欲しい。彼の存在自体が欲しい。
ずっと隠し通せると思っていた。けれど少しずつ願いが現実になって、手を伸ばせば彼に触れられるところまで来て、最後の一言を呟いてしまえばその距離さえなかったことになってしまうことに気がついてルークは怖くなった。
一番欲しいものは絶対に手に入らない。
だからルークは逃げ出したのだ。側にいなければ手を伸ばさなくて済む。そしてしばらく間を置けば少なくとも隠しておけるくらいにはうまく隠せるようになるだろう。
それなのに。
最後にアッシュと顔をあわせてから一日もたっていないのに、ルークの一大決心はあっという間に崩されてしまったのだ。
「何しに来たんだよ」
少しだけ泣きそうになる。一大決心を挫かれたことも、思った以上に早くアッシュが目の前に現れたことも。
「分かってんだろうが、お前が帰ってこないから」
顔にしっかりと面倒だと書いてある。眉間の皺もいつもよりも多めなのは怒っているのだろうか、アッシュの今日の予定は知らないけれどもこんなところに来る予定があるわけはないからわざわざ来てくれたのは間違いなかった。これで機嫌がいいと思うほうがおかしい。けれど咎めるような口調はそれほど怒っているようには聞こえなかった。
ルークが突然家出した理由はどうあれ、アッシュが探しに来てくれた、少しでもルークのことを心配してくれていたのだと思えば嬉しくないわけはなかった。
「ちゃんと手紙置いてきたし、そりゃ突然出てって悪いとは思ってるけど、普通に言ったって父上は許可なんてしてくれないだろ」
手紙に書いたのは世界を見たいからとそれだけだ。けれどその言葉はルークにとっては秘めていた言葉ではないし、今までだって何度も言葉にしてきた。だから誰でもルークが世界を見て回りたいという希望を持っていることは知っているのだ。それが一番の願いではなかったから今まで飛び出さなかっただけで。
「それは父上も言ってたな、言われても許可しないだろうが一言言って欲しかったと」
「分かってるから黙って出てきたんじゃねぇか。だから、帰らないからな」
迎えが来たから帰りますでは子供の家出にも劣る。世界を見たいというのもルークの願いの一つで、今は理由に使ってしまっているけれども望んでいないことではない。一度出てしまったからには意地でもしばらくは家には戻れない。本当の理由を隠すというその意味でも。
だから、帰らないという意思を示すべくむっと目の前のアッシュを睨みつけるように見つめたのだ。けれどアッシュはその言葉を聞いても表情を変えることはなかった。
「そうか」
そう一言呟いただけで。
拍子抜けするのはルークの方だ。
そうかって、他に何かないのか。迎えに来てくれたんじゃないのか。そう思っていた自分が間違っていて、じゃあ、アッシュは何をしに来たんだ。
「誰かに言われて俺のこと探しに来たんじゃないのかよ」
そう言えば目の前のアッシュが少しだけ怪訝な瞳をルークに向ける。変なことを言っただろうか。家出をした自覚のあるルークが考えるには普通のことだと思うのだが。
「お前を探す必要なんてないだろう?」
「え?」
探されないかもしれないとは思ったが、必要がないまでいわれると少々へこむ。さっきのアッシュの態度も帰らなくてもいいということだったのか。アッシュが現れて少しだけ嬉しいと思った気持ちを返せといえなくてぐっとその手を握り締めれば、「そうじゃねぇ」と腕をとられた。そのまま引っ張るようにアッシュの隣に並ばされて、いつの間にか並んで歩いている。そういえばずっと港で向かい合ったままで、すでにルークの乗っていた船もまた出港してしまって港には人影もなくなってしまっていた。次に船が到着するのは夕方だ。どこかに行くにしろ、帰らされるにしろこのままここで立っていても仕方がないことは確かだった。馬車が行き来できるように舗装された道は近くの町まで繋がっているはずだった。アッシュの足取りは真っ直ぐにその町へ向かっている。ルークもどうせ向かう予定だった場所だ。決してアッシュについていくわけではないのだと言い聞かせながら肩を並べて人のいない街道を歩く。
「なんなんだよ」
「あんなところで二人でいたら目立つだろうが、お前見つけてくれって言ってるようなもんだぞ」
それをお前が言うかとルークはアッシュを上から下まで見る。ルークは一応普通の旅行者のようにいつもの服の上に外套と大き目のカバンで今は隠していない髪も次の街で帽子なり染めるなりして目立たないようにするつもりだった。対してアッシュは一応旅装に見えないことはないけれど、その仕立てのいい服は一人で歩いていれば襲ってくださいといわんばかりの格好だ。以前から準備していたルークと違って手元にある服を着てきた結果だとは分かっているのだが、立派な馬車に乗っていた方が似合うその出で立ちは田舎道にはそぐわない。多分、一人でも十分目立つだろう。その全く隠してもいない赤い髪も含めて。
「もう見つかってんだから今さらだろ」
そもそも隠れる気のないアッシュと並んでいるのだからアッシュの言っていることなんて今更で、それでいて彼は本気なのだから返す言葉に困る。アッシュが来たということはルークの逃亡劇はここで終了で家に送還するために来たはずだから、目立ったところで一向に構わないはずなのだ。見つかって困るのは、ルークがまだ逃げおおせている状態の場合だけだ。
「何だ、今屋敷に帰らないって言ったのはお前だろう?」
そこでどうして不思議そうにルークを見るのかこっちが聞きたいくらいだ。家出したルークを探しに着たんだろう、常識的に考えれば。けれどアッシュの言動にそれらしいところはないからルークは困惑するのだ。屋敷につれて帰りたいのか、このまま逃がしてくれるのか、後者ならば何故アッシュはこんなところでこんなことをしているのだ。
「そうだよ、俺は帰らない。それに、俺のこと探す必要がないのにこんなとこまで先回りまでしてきてるお前こそなんなんだよ」
アッシュがいま目の前にいることでルークだって多少の期待はした。少しは心配してくれたのかなとか、わざわざ迎えに来てくれたのかなとか。屋敷には帰らないといいながらもアッシュからその言葉が出てくることをほんの少しだけ望んでいた。けれどアッシュの口からはその言葉は全然出てきたりはしなかった。本当に何なんだと訳が分からない。
「お前の手紙だけでは信用がなかったってだけだろう。お前はこれでも他の奴らにとっても利用価値は高い。悪い奴らに引っかかったんじゃないかとか思われるのは日ごろの行いだな」
そう心配したのは屋敷の中でのルークしか知らない父や母だろうということは想像に難くなかった。そうか、心配されたのはそっちか。少しだけルークはがっかりする。
「じゃあ、別に出てくのを反対されたりしたわけじゃ……」
「出来ればやめて欲しいといってたな」
アッシュの言葉にルークは安堵と落胆とその他いろいろ混じった吐息を大きく吐き出した。ルークのさっきまでの悲壮なまでの決意は何だったのだ。
「で、お前はそれを言うためにわざわざ俺の居場所を探して先回りしてたって、その労力は別のところに使えよな」
「別に、お前を探すなんて大したことじゃないからな」
本当になんでもないように言われて、少しだけむっとする。これでもルークは家出を決行してから慎重に行動してきたし、せめて一週間くらいは見つからないものだと思っていた。それほど分かりやすい痕跡を残したつもりはなかったのにまだ甘かっただろうか。それを超えるほどキムラスカの諜報力はすごいのだろうか。
「そうだな、今日からはちゃんともっとしっかり隠れるよ」
次の日に見つかってしまうなんて、ルークの計画もまだまだだとアッシュは呆れただろう。ばればれだからこそ、家出を相手にされなかったのか、それもありうる。
「あまりしっかり隠れると父上が困るからほどほどにな。昨日だってお前が帰ってこないって夜中に白光騎士団を出動させようとしてたからな」
「え? だって俺のこと探す必要もないくらいばればれだったんだろ?」
驚いてアッシュを見れば、さすがに夜中にアレだから止めさせたんだと言われて訳が分からない。出て行くことは許容されていて、探されもしなかったんだろう? そう呟けば突然息子が消えたら普通は探しに行くもんだろうと冷静に言われて、訳が分からない。アッシュは疑問符を浮かべるルークの顔を見てそうだなと一言呟く。
「俺はお前の居場所なんて探さなくても分かる、だから探す必要がない。それだけだが」
その言葉は以前は時折聞いた言葉だったし、当たり前のことだった。けれど、ルークがその言葉に驚いたのは訳があった。
「でも、もう回線は閉じてるって」
それは世界に帰ってきてすぐにアッシュが言った言葉だからルークは純粋にそう信じていた。アッシュからでないと繋がらないそれを確認する術はなかったからだ。だがアッシュがそういうのならば、回線はそのままだったのだろうか、もしかして知らない間にルークの考えていることは全部筒抜けだったとか、そう思えばいろいろやばすぎてルークは軽く混乱していた。
「わかんねぇのか?」
「わわるわけないじゃん。俺からは繋げないんだから」
「そうじゃなくて、音がきこえるだろう?」
「音?」
耳を済ませていても聞こえるのは風が木々を揺らす小さな葉音だけ。何の音だろうと分からなくてアッシュを見る。その視線の一歩前で足を止めたアッシュにつられてルークも足を止めた。ルークと向かい合うように体を向けたアッシュを見れば同じ高さの瞳が同じようにルークを見ていた。
「アッシュ?」
「本当に分からないのか?」
こくりと頷けばアッシュはむっと眉間に皺を寄せた。それは怒っているのではなくて何か考え事をしているだけだと気がついたのはそう最近のことではない。アッシュの近くにいて彼の癖も、機嫌も見れば分かるようになってきた。良く観察していればアッシュのしぐさはどちらかといえば分かりやすいのだということも。そんなことが分かるほど近くにいれたことは嬉しいことだったけれど、それはルークが特別だからというわけではなかった。それが少し悲しかった。今アッシュが何を考えているか分からないことも。
アッシュは少しの間黙り込んで何か考えていたが、おもむろに右手を伸ばすとルークの左手首を掴んだ。一瞬ルークの体がびくりと震える。ちょっと我慢しろと言う声に違うんだといいたかったがルークの喉の奥で詰まって出てこない。ずっと手袋越しだった素手が触れる感触はルークには慣れることが出来なくて、触れられるたびに驚いてしまうのは仕方がないことだった。それがアッシュが何も意識せずにした行動だとしてもだ。ルークの方はずっと意識しているのだから仕方がない。それを、触れられるのが嫌だと思われてしまうのはルークがいえない以上仕方ないことかもしれない。
「目を閉じてみろ」
言われるがままに目を閉じる。触れられたままの手が少し熱く感じた。少しだけ胸の鼓動が早くなる。
「音が聞こえないか?」
そんなことを言われても聞こえるのは自分の心臓の音だけ。他に感じるのは掴まれた手の熱さとか、そこから感じる何か。
「手は人のフォンスロットでも感覚にすぐれている、そこからなら感じるはずだ」
少しだけ力を込められたアッシュの手がゆっくりと離されようとするのを無意識に追いかけようとする自分の手をとどめる。けれど、離したくないその気持ちはアッシュの手を追いかけようと感覚が研ぎ澄まされる。ルークの手に残されたアッシュの熱がそのまま指の先を伝って、アッシュへと繋がっている感覚。その先にアッシュがいると目を閉じていればはっきりと分かる。その熱は冷めることなくルークの中に確かにあって、どくんとルークの心臓が跳ねた。繋がった先に確かにアッシュがいるというそれはどういう感覚なのだろうか、目を瞑ったままのルークには確かな熱量にもまぶしい光にも見え、アッシュの生きている音にも聞こえるようだった。
そうか、これがアッシュの言った音なのか。
そっと目を開ければ手を伸ばせば届く場所にアッシュは立っていた。近くにいるから分かるのかそれが離れても分かるのかはわからなかった。けれど、今ならルークもその繋がっている糸をたどることが出来るような気がしていた。目には見えないけれども確かに指の先からアッシュの指の先へ繋がっているようなその糸はまるで御伽噺の運命の糸のようだと思えば、むだに心臓が跳ねてあまりのありえなさにその想像を力いっぱい追い払う。
多分、これは回線を閉じてもなお繋がっている完全同位体ゆえの切れないものなのだろう。それほど深くアッシュと繋がっていることにこれは自分だけが持っているものだというくらい喜びが沸いてくる。
「……たぶん、分かったと思う」
「回線そのものがこれを繋ぎやすくしただけのものだからな。そんなに難しい話じゃない。さすがに会話は出来ないが」
「便利……だけど良かったのか? こんなこと俺に教えて。お前の居場所いつだって分かるんだぜ?」
言わなければルークはそんなことは知らなかったのに。いつだって行動を把握されるのは楽しい事態ではないはずだ。ルークはもうすでにアッシュにいろいろ見られることなんて慣れてしまっているのですでに不快感はないのだけれど、アッシュはどうだろうか。
「何か問題が?」
そう呟いてからアッシュはむっと何かを考え込むように口を閉じた。そうか、普通は分からないのかと小さく呟いた言葉をルークは聞いてなんともいえない気分になる。
アッシュにとっては居場所を知ることも知られることもルークとならば普通のことで気にすることですらなかったということか。アッシュの中でのルークの位置というのが気にならないではなかったがとても聞くことは出来なかった。それを許容するほど近くにいることを許されているのか、それともまだ被験者に対するレプリカでしかない認識なのか、後者ならばへこむどころではないからだ。アッシュのことだから深く考えていないという可能性が高い。多分そうだ、そういうことにしておこう。
「それで、結局アッシュは何しに来たんだよ」
もうすぐ目的の街にも着いてしまう。港でルークを待っていたアッシュは最初はルークを探しにきたのだと思ったが、特に連れ戻す意思はないらしい。ではただ父母の言葉を伝えるためだけに、ルークの行く手で待っていたのか。確かにルークの居場所がいつだって分かるのならばアッシュが動くのが一番早い手段であることは昨日の今日で先回りされてしまったルークが一番良く分かっている。けれど、ルークが外へ出ることをきつく反対しているわけではないらしいのにそれほど急ぐ理由が見当たらなかったのも事実だ。
アッシュの行動にそれでも少しだけ期待してしまうのは仕方がないことだ。
じっとアッシュを見つめれば、アッシュはルークの視線から逃れるように少しだけ目線をそらせた。
「もしかして、アッシュも世界を回りたかった、とか」
わざわざアッシュが出てくるのはルークのことを心配したのでなければ、アッシュ自身がルークと同じことを思っていたのではないかと考えることくらいだ。アッシュは今までの不在などなかったかのように積極的に、そして自然に公爵子息として、職務をこなしているように見えた。それはルークにはまぶしくて、、アッシュのその姿に欠片も疑問を抱かなかった。けれど、ルークが思っていたような変わってしまった世界の姿を確認したいという気持ちがアッシュに無いはずはなかったのだ。変えてしまったのはルークだけでないアッシュもかなりの部分関わっていたのだから。
「そう思わない、とは言わない。けれど今の自分の職務を放棄するつもりはない。ここに来たのはお前が突然いなくなったからだ」
ルークはまだ深く関わっていないが故に全てを放棄して外へ出る決意をした。仕事を任せられていたのならばこんな決断はしなかっただろうと思う。もう少しすればそうなってしまうのが分かっていたからもし出るなら今しかないと思ったのだ。ルークが持っている責任が出来る限り少なくて、アッシュが側にいることに慣れきらない今しかなかった。
対してアッシュが今の状況で外に出る決意をするかといえば、多分しないだろう。アッシュは生真面目で、一度決めたらそれを覆したりしないだろう。だから勝手に家を出たルークは多分怒られると思ったし、最悪職務を放棄したルークを無視するんじゃないかと思っていた。役に立たないなら必要ないとかいいながら。
そのどちらでもなくて、ルークはアッシュの心情を図りかねていた。多少は分かるようになったとはいえアッシュの表情はそれほど豊かではない。機嫌がいいか悪いかくらいは分かるが今の表情はどちらともいえなかった。
どうしてそんな表情をしているのかすら分からない。
「でも、探しに来たわけじゃないんだろ」
居場所は分かる、別にルークが外に出ることを否定しない。自身がそれを理由に外に出たかったわけでもなかった。ならば何故。
「屋敷での生活はお前にとっては苦痛だったんじゃないかと」
言いにくそうにアッシュが小さく言葉にしたそれに、ルークははっと息を呑んだ。
「そんなことは、ないよ」
搾り出した言葉は真実ではあった。けれどそれよりもアッシュの口からそんな言葉が出てくることがルークには信じられなかった。アッシュから全てを知らぬ間に奪ってしまっていたルークが憎まれこそすれ、逆に気に掛けられているなんて思いもしなかったからだ。実際にアッシュが戻ってきてから屋敷での暮らしが苦痛だと思ったことはない。逆に普通に暮らせる幸せに不安になったことはあるけれども、それは嫌だからではなかった。何も出来ない、ただに荷物でしかない自分に苛立ちは会ったけれど環境は恵まれすぎるほどに恵まれていたはずだ。それを厭うなんて贅沢すぎる。
唯一あるとすれば、アッシュへの感情くらいか。それだって苦いだけのものではない故に逆こそあれ、ルークが屋敷での生活を厭う理由にはなりはしなかった。
「母上が、お前が外に出たがっていたことをしきりにおっしゃっていた。ずっと閉じ込めていた同じ場所に居たくないのかも知れないと。それは自分達のせいだと」
ルークにも多少の葛藤があったように、ルークをそれでも受け入れてくれた側にもそれがないとは思わなかった。けれど、ルークはそれに感謝する以上の何も持たなかった。もし受け入れてくれなければ悲しかったかもしれないけれども、それに異を唱えることなんて絶対にしなかった。受け入れてくれたからこそ、そこにいたいと思った。そこから飛び出そうと思ったのも本当にそこに居たいからだ。
「違う。確かに世界を見て回りたかったのは自分達がやったことの結果も、本当の世界を知らないまま国のために何も出来ないと思ったからだから。このままの俺ではナタリアの力にも、お前の力にもなってやれないから」
今家を出たことも、いつかあそこに帰るための準備だった。苦痛を感じる場所に帰りたいと思うわけがない。今も昔も、帰る場所はそこしかないのだから。そして今はアッシュがいる。そここそが自分の居場所だとルークは思っていた。
「もし、お前が俺のレプリカであるというだけであそこに縛られているのであれば、その必要はない。どこへでもお前はしたいことをすればいい。帰って来たい時に帰ってくればいい」
「それは、誰の言葉?」
アッシュの言葉は全て、ルークを歓喜させるものばかりだ。探しに来たわけではなかったけれども、アッシュはアッシュなりにルークを心配してここまで来てくれたのだと分かるからだ。それが、父母の心情を代理した言葉としてもだ。けれど、それがアッシュの言葉であれば言いと思ったのはルークの過ぎた願いだった。
「誰の言葉なら納得するんだ?」
じっと見つめてくるアッシュの瞳から目が離せなかった。どうして願いが叶うのだろう。いっそ不自然なほどにルークの願いは叶っていく。外に出たいと思ったことも、アッシュに心配されたことも。都合のいいこの世界は本当に現実なのだろうかと思いさえする。
「うん、ありがとう」
今はその幸せを噛み締めて、やりたいことをやろうと思えた。一番の願いだけ一番心の奥底にしまって。
街の入り口までたどり着けば、人通りのなかった街道と違ってざわざわとした音が響くようになる。アッシュはそこで足を止めた。どうやら街の中には入るつもりはないらしい。つられて足を止めたルークはここでアッシュと別れるのかなとなんとなく思っていた。そう思えば離れがたいのは仕方がないことだ。
「じゃあ」
いろいろ言おうと思った言葉は出てこなかった。どのくらいの時間がかかるのか、特に目的のない旅は何も分からないことばかりだ。アッシュがルークをちらりと見て、目線を街へと動かしながら小さく頷く。
「誰か連れて行く予定はないのか?」
やはり、あまり信用されていないようだ。本当に大丈夫かと言いたげな不審な目で見られれば普段の自分の行動を考えれば大丈夫だよと胸を張っていえない。けれど誰かと行くなんて本当に考えたこともなかった。そう思うのはあの時世界を旅した仲間達の中でろくに仕事をしていないのが自分だけだということに気がついたせいもある。誰もルークの目的もない旅につき合わせられるような立場ではないのだ。
「うーん、そこは考えてなかったな。そういえば一人で旅するって初めてだな、俺」
改めてそう思えば少しだけ不安になる。旅には慣れたつもりだったが、一人だと勝手が違うのだろうか。そういえばアッシュは一人でうろうろしていたしもう少し話を聞いておけば良かったと今になって思う。
「一人、ということを母上も心配しておられた。もし……」
「アッシュ」
名前を呼べばアッシュが一瞬言葉を止めてルークをじっと見た。
「多分アッシュが一人でいたときより魔物も弱くなってるし、世界情勢もよくなってるからお前が思ってるほど大変じゃないと思うんだ。だから護衛とかそういうの要らないからって父上にも言っておいてくれよな」
一人だと言うことを改めて思えば、そういえば、バチカルでは街に下りるにも白光騎士団の誰かがついてきていたのを思い出した。要らないというのに父の命令だといって着いてきていたそれをつけられるのは勘弁したい。何のために一人で出てきたのかも分からなくなりそうだ。
「母上にも大丈夫だから心配しないように伝えてくれ。ちゃんと手紙も書くからって。お前が俺の居場所が分かるんだったら、いつでも伝えてくれてもいいし。お前がバチカルに居るから俺も安心してで掛けれらるんだからさ」
あまり長く話をしていれば、離れがたくなってしまう。アッシュの気が変わって連れ帰ろうとか思われても困る。ルークは何かいいたそうなアッシュの言葉をさえぎって早口でそこまで言うと、行ってくるよと最後に小さく手を上げた。
アッシュは分かったと一言呟いて、けれどその手を振り返したりはしなかった。そのほうがアッシュらしい。
「いって来い、お前が望むなら」
その言葉に背中を押されてルークは再び歩き出した。
「それで、今ルークはどの辺りにいるのでしょうか」
「ここ一週間くらいケテルブルク周辺でうろうろしているようです」
「そう、では手紙は正直に書いているようね」
ある日の昼下がり。バチカルのファブレ邸の一室では淹れたての紅茶の香りが広がっていた。アッシュは優雅なしぐさで午後の光が差し込む一番言い席でカップを傾ける母、シュザンヌの隣で手元のカップを揺らしていた。手の中のそれをもて遊ぶようなしぐさはあまりほめられたものではないが、誰もそこを指摘したりはしなかった。
「アッシュ、ルークが心配なのは分かりますけれど、おば様の前でそんな顔をしていたら余計心配なさるでしょう?」
「そうそう、おいしいお茶も逃げ出しちゃうよー。あ、これもいっこいただきます」
テーブルの向こうの人たちの興味はそんなところになかったからだ。
「この顔はもともとだ、それにあいつのことなんて心配してない」
表情が豊かでないのは知っているし、それなりの愛想は持っていると思っている。それに、今日は仕事の途中で母に呼び出されたからきたらこんな状態だったのだから、楽しそうに出来るわけがない。
アッシュが呼ばれたその部屋には、呼び出した母のほかにナタリアとなぜかアニスが談笑していたのだから。
「そもそもどうしてお前がここにいるんだ」
ナタリアは良く遊びに来ているからいいとしてアニスはダアトにいるはずだ。めったにバチカルまでやってこないはずの彼女がいることにアッシュは不穏なものを感じずにはいられなかった。
「ルークが消えたって聞いたからに決まってんじゃん。あの時ルークダアトにいたし、あたしが最終目撃者だって言われてめちゃくちゃびっくりしたんだから。アッシュのおかげで即連行! とかされなかったからよかったけど、あたしがちゃんと船に乗るまで確認してなかったのも悪かったのかなーっておもったから、状況確認もかねて謝りに来たのよ」
それにしては楽しそうに母と談笑していたような気がする。悪かったという雰囲気は今ですら欠片も感じられない。それよりもなぜかアッシュに対する態度の方がきつい気がするのは気のせいか。
「そんな、逆に息子が迷惑をおかけしたのに申し訳なくって、ナタリア様も呼んでこうやっておもてなししているのですよ、アッシュ」
明らかに歓迎していない目にシュザンヌのたしなめの声が入る。シュザンヌの前ではさすがに猫をかぶっているのだろうかアニスはシュザンヌと目配せして笑っている。
あまり外に出られない母にとっては来客はむしろ歓迎だ。今いないルークを知る友人であるならなおさらその話に花が咲いたのだろう、楽しそうなその表情で分かる。別にそれはかまわないのだ。自分を巻き込まないでくれれば。
「別に状況も何も、ルークが出かけるなんて珍しいことじゃなかったしそれが長いだけだろう?」
そうだ、ルークが消えた日もルークは一人でダアトへ行っていたのだ。二三日ダアトやマルクトへ出かけることはこれまでもあった。まるっきり屋敷の中で篭っていたというわけでもない。ルークが不在の屋敷は何かが足りないように少しだけ静かに感じた。以前は時々感じたそれが今は長いだけだとアッシュは思うようになっていた。ほんの少しの不在の積み重ねだと思わなければ耐えられないような気がしたのだ。この世界のどこかにいることが分かっていれさえすればアッシュにとってその距離はきっと大したことなんてない。
ただ、その顔が見れなくて声が聞こえないだけだ。
「だってアッシュはいつだってルークのこと分かるんだとか言って、前みたいに話できたりしないんでしょ? 今ルークがどんな奴に声かけられて、悪い奴にそそのかされてるかなんてわかんないじゃん。心配でしょ?」
たぶん悪気のないナタリアと違ってアニスの言葉は悪気しかないのだからあまり深く反応しないのがいいということをアッシュは学んでいた。
「……あいつもいい大人なんだからそのくらいは考えてるだろ」
母の手前あまり不安を煽るようなことは言って欲しくない。さらにそんなことはすでにいろいろな人にいわれ済みなのでいちいち返答するのにも面倒だ。ルークはどれだけ子供に思われているのか、確かに不安要素は多いがそれなりに常識を身につけている……と思う。
そう言えばアニスはなぜか感心したようにへぇーとアッシュの顔を眺めているし。
「ナタリア、アッシュってだいぶ変わったよねー。前なら、あんなやつどうでもいい、みたいな感じだったのに」
にやにやしている顔がむかつくが何も言わずに無視することにする。
「そうですわ、アッシュ。そんなにちゃんと居場所を把握しているのなら何故はやく迎えに行かないのですか。ルークの一人旅なんて危険しかないに決まっています」
力説するナタリアはこれまでもルークの旅の途中の所業を母に吹き込んでいるようだった。例えば買い物に言った先で財布を落として帰るとか、野営中に迷子になったりとか、夜中にアッシュに呼び出されてほいほい一人で出かけたりとか……又聞きさせられている身としては時々身の置き場がなくなることまで。知らない旅の間のルークの様子を母が聞きたがっていることは分かっているが、アッシュは出来る限り口をつぐんできたのだ。ルークに対する態度が半ば八つ当たり的なよくないものだと分かっているからこそ。
今でこそ態度は少しは改めた。一応反省しているのだ。今だってルークのことが気にならないことはない。けれど通信手段を失った身では、バチカルにいながらどうすることも出来ないのが実情だ。ルークが出て行っている今こそ、アッシュがルークの分もバチカルでやらなければいけないことはたくさんあるし、できることもある。それがルークの願いでもあるのだからアッシュはルーク不在の中それなりにやってきた。
それを表に出すことはしないけれども。アッシュの抱いているルークへのある思いも。
「まあナタリア様、ご存じないのですか?」
けれどアッシュのルークへの態度が変化しているのは周囲にもわかりやすすぎるらしかった。特に二人の関係に気を揉んでいたシュザンヌにはしっかりと見られていた。
「もう三回もこの子は出かけて手ぶらで帰ってきたのですよ」
視線がアッシュに集中するのを感じる。見なくても分かる。興味の目線だ。別にそれらのことを隠しているわけではない。ルークが出て行く前だって、誰が見てもそれほど二人の関係は悪くなかったのだから驚かれるほどの事態ではないはずだ。
「一回目はその日のうちに行ったんだよね?」
どこで聞いてきたのか、何故アニスですら知っているのだ。そこは不思議だ。
「いえ、次の日ですわ。次の日の朝私がルークがいなくなった話をアッシュから聞きましたもの」
「居場所は分かるから行くといって、期待していたのにその日帰ってきたのはアッシュだけ。確かに私もルークがそうしたいのならあの子の希望を叶えてあげたいと。けれど一度はちゃんと連れ帰ってくるのが当然だと思いませんか?」
「そうですわよね、おば様。私もそう思いますわ」
ぐっと手を取り合うおばと姪の姿はアッシュには一瞬結託した強大な敵に見えた。多分この二人には絶対に勝てないのだろうと思うのは物心ついたときからかもしれない。
「それに、私には行くなと言っていたのにアッシュあなたはルークのところに行っていたなんて、酷いですわ!」
「……何しに行ったの?」
いろんな方向から攻められても困る。アッシュが一人で向かった理由もただアッシュなら居場所がすぐに分かるということと、後はなんとなく、だ。居場所がいつでも分かる分、何をしているのか心配するよりは向かった方が早いと思うときがあるだけ。けれどそれを言うとまたナタリアに咎められるのでアッシュは口をつぐんでいた。
「持って行くものがあったからいっただけだ」
「わざわざ? 送ればいいのに」
「届いた頃にはそこにいないかもしれないから持って行くのが確実だったからだ。それに、俺もルークの居た近くに用事があったからついでだ」
いろいろ理由をつけても、結局ルークのところに行ったことには変わりない。そこは咎められても仕方ないことだとアッシュは開き直っていた。行きたいなら皆行けばいいのだ。ただいろいろなところを行き来しているルークがすぐに捕まるかは別にして。そして、それが出来るのはアッシュだけだ。だからアッシュがルークのところへ向かうのはごく自然に思えた。
その時はルークのために用意したものがあった。世界を巡るなら必要になるもので、ルークもそれは持っていたがアッシュはわざわざそれを用意したのはいくつかの思いがあったからだ。用意したそれは旅券だった。ルークが持っているそれは確かに世界中で使えるし、どこでだってその能力を遺憾なく発揮する。なぜなら王族であるがゆえにその身分を示す旅券にはルーク・フォン・ファブレであることが余すところなく示されている。公務なら持っていなければならないそれは、こっそり世界を回りたいというルークの希望にはそぐわないだろう。下手をすればそんなものを持っている人物がふらふらしているはずがないと怪しまれることもあるかもしれない。それ以上にばればれだ。旅の間も使っていた比較的目立たない裏書のついた旅券をアッシュが用意したのはルークに請われたからではなかった。ルークが立ってから母の元へは手紙が時折届くけれどもアッシュのところにはなにも連絡の一つもないのが事実で、母への手紙の中にも何かを請うようなものは欠片もなかった。
それでもアッシュが旅券を用意しようと思ったのは、ただ理由が欲しかっただけかもしれなかった。ルークのところへいける、理由を。
その時はびっくりしながらもルークは笑ってそれを受けとった。そして少しだけたわいもない話をして、またじゃあと手を振ってルークは行ってしまった。
「アッシュがちゃんとバチカルにいてくれるから、俺は安心してうろうろ出来るんだからお前はあんまりうろうろするなよ」
残されたその言葉がルークの願いならば、アッシュはそうしようと思ったのだ。
「じゃあ、三回目は?」
「ルークと顔をあわせたのはアレから二回だけだ」
「えっ、さっきおば様が三回って……」
「ルークが出て行ってからしばらくして私が行ってきなさいといったのです。どうりで早く帰ってきたと思っていました、行っていなかったのですね」
笑って見つめられれば言葉に困る。行けといわれたから屋敷は出たものの、ルークに会いに行く理由なんて考えてなかったことに気がついてアッシュは足を止めてしまったのだ。母はどうして行けと言ったのだろうか。「気になるなら行ってくればいいじゃない?」そんなことを言われた気がする。確かにルークがどこで何をしでかすかとか、気にならないわけではない。その気を揉んでいるのはアッシュだけではなくてあの父すら時々ルークの居所をアッシュに聞いては顔をしかめているのだ。すぐに場所が分かるアッシュに様子を見て来いというのだろうか。けれどそれではアッシュが一番ルークを信用していないようで、多分ルークは気を悪くするだろう。別にアッシュは様子を見に行きたいわけでもなかったし、ルークが望んで外に出ているのだから連れ戻す気もなかった。ルークのところに行く理由が何にもないのだ。
止めた足は動かなくて。そのまま日が暮れるまでバチカルの街で立ち尽くしてから屋敷へと何も言わずに戻ったのだ。
だから次は何か理由を用意しなければと考えて、旅券を作ることを決めたのだ。
それはとても理にかなっているとその時は思った。理由があれば別にルークのところへ行くことは何の問題もないように思えた。
「今は特に行く用事がないから行かないだけだ」
用事さえあればいつでもいけるのだから。
「アッシュってそういうところは変わってないんだよね」
話を聞いていたアニスが面白くなさそうにアッシュを指差した。指差されたアッシュは少しだけむっとするが多分わざとなのでそこに突っ込んだら負けだと思ってこらえる。
「前もルークが呼び出された理由を聞いたら、それなんで今? みたいな事よくあったじゃん。誰かの伝言持ってきたり、自分がいらないからって何か見つけたもの持ってきたり。それで自分で呼び出しといてルークに文句言ってるの。前からルークのこと気になって仕方なかったんだなーって、あれ図星?」
口をふさぐわけにも行かず、けれど聞きたくなくてむっとアッシュは眉をひそめた。自分でもその時に気がつかなかったことを指摘されると過去のことだけれどもその時までいって消したくなる。その時はそういうつもりではなかったはずだが、思い返せばまさにアニスの言うとおりだと思えるのだから不思議だ。多分、アッシュの今取っている行動もあのときの思考とあわせれば似たようなものに見えるかもしれない。
「そういうんじゃねぇ」
けれど、今のアッシュの行動の根本はあの時とは全く違うのだ。誰にも言ったことはないけれども、言っても意味のないことだから。ルーク以外には。
「あいつが世界を見たいと望んだから、あいつの望みを叶えただけだ」
思い出すのは一つの情景だ。
『お前の望みは?』
目を開ければそこは見たこともない空間だった。音素が渦巻いていて、その真ん中に明らかに意識を持ってそこに佇んでいる音素の塊があった。それは時折人の形を取りながらアッシュの目の前にある。その人の形をした音素集合体の前に小さく光る塊が見えてアッシュはそちらの方に目を惹かれた。これは何だろう。
不思議にその空間にいてアッシュはなんの焦りも感じなかった。知らない場所にいるはずなのに何の思いも抱かない。どうしてここにいるのかと記憶をたどれば、思わず胸に手を当ててそこに何もないことを確認してしまう。確かにここを刺されて、それからの記憶はない。当たり前だ、自分は死んだのだから。死ねば音素にかえる。そこから先は死んだことなどないから分からないが、ここがその先の世界なのかもしれないと思った。
改めて目の前の音素集合体を見やる。圧倒的なその音素は考えなくてもそれが何か分かる。第七音素の塊、ローレライだ。そうか、ルークはちゃんとローレライを解放できたのか。そう思えば、さっき惹かれた光の塊にふと意識が向いた。この塊も第七音素の塊だ。けれど、なぜかアッシュがそこから目が離せないのは。
「ルーク」
そこにアッシュから作られた彼の体はなかった。ルークを構成する何もそこには残っておらず、それはただの第七音素の塊でしかない。けれどなぜかそれがルークだと分かった。
「ルークはそこにいるのか?」
その光がたとえルークだとしても、それがアッシュの知るルークだとは確信できなかった。レプリカは死ぬとき音素が乖離して消えてしまう。それが乖離した後の音素だけだとすれば、被験者で言えばそれはただの死体と同じだ。なんとなく冷静にアッシュはそれを受け止めていた。
『ルークの望みは聞き届けた。後はアッシュ、お前の望みを』
その言葉が聞こえたとたん、アッシュの脳裏に自分のものではない映像が一気に流れ込んでくる。知らないはずの屋敷での生活、視界に映る自分のものではない朱金の髪。アッシュ自身の姿が見えてそれは憎しみの目で剣を抜く。崩れ落ちるパッセージリングも光の中で消えていくレプリカの姿も、イオンの最後の姿も、全てがアッシュが体験したものではないルークの記憶だ。そして流れ込んでくる最後の記憶。
「アッシュがもし助かるのならば俺の音素を全部使っていいから、アッシュを」
アッシュは再び目の前の第七音素の光を見た。これはルークだ。アッシュに流れ込んできた音素の最後の残りのひとかけら。
ルークが望んだのはまさにそれだった。けれどそんなことアッシュは望まなかった。死んでしまった自分がルークの我侭とも言える願いで生き延びるなんてそんなこと。
「ルークはまだそこにいるのか?」
『この空間にいる限りは、ルークは消えない』
「ルークの音素を使わずに、俺が生きることは可能か?」
『死んだものを生き返らせることは出来ない。お前の体はまだかすかに生きていた、だから癒すだけならば可能であるゆえにルークの音素によって補われたお前は今そこにいるのだ』
「ルークを癒すことは可能か?」
『ルークもまた、未だこの空間にあり死んでしまったわけではない。死んでいないものを癒すのは条理に反しない』
そこまで聞けばもういい。ルークの無茶な願いすら聞けたのだからこんな簡単な願いを叶えられないはずはない。
「じゃあ、俺の望みだ。俺とルークの体を元通りに」
そう、目の前の意識集合体に告げれば分かったと難なく答えられる。ルークはできるかどうかを聞かなかった。だから大爆発の定理にしたがって音素を消えてしまうレプリカの体ではなくまだある被験者の体へと移すことでそれが完了すると考えてしまった。アッシュはそんなことをもともと知らなかった。いまルークの記憶をたどって知ったばかりだ。ローレライの存在が未知であるがために、そして彼の願いどおりオールドラントから開放してやったことで逆にこちらの願いを叶えてくれるのならば、こちらは命を掛けたのだ、それくらい払ってくれなければ割に合わない。
きらりと光った光がアッシュを包む。はっきりしてきた意識が急に薄れていこうとするのは先ほど得たルークの音素が再び彼へと戻っていこうとしているからなのだろうか。同時に声が聞こえる。
『全てを癒すには時間がかかるだろう。目覚めのときを待て』
薄れていく意識の中で隣にルークの音が聞こえて少しだけ安心する。道連れだ。もともとローレライの同位体として人とは違うといわれ続けてきた。一度死んで生き返るくらいなんてことはない。それに今回はルークという道連れもいる。世界でたった一人の異端ではない、そうおもえばなぜか笑えて来た。
『お前の願いはルークの願いを打ち消した。ルークの願いは叶えられない』
もう一度ルークに聞くとかしないのかと思ったが、これはアッシュがまた独断でしたことでルークに非はない。先にただの音素になってしまったルークが悪いのだ。もうちょっと頭を使えばよかったのに。そうはいっても言う先のルークは静かに眠りに着いたまま生きているかすら分からない状態で。
その時そう思ったのはただの気まぐれだったのかもしれなかった。
「ルークの願いは俺が代わりに聞いておいてやる」
任せたという声が聞こえた気がした。けれどアッシュの意識もすでに闇に飲まれて消えてしまったのだ。
「あ、アッシュ」
短い赤い髪をぴょこぴょこ揺らしてルークがふわりと笑って手を上げた。これに驚いたのは逆にアッシュのほうだった。ルークの目線はアッシュを通り越して港の向こうへ水面から飛び立とうとしているアルビオールをまぶしそうに見つめている。
「良く分かったな」
「アルビオールが見えたから。それにアッシュの気配もしたし」
アルビオールの機影が雲の向こうに隠れてしまったのにルークはまだ目を細めてその先を眺めているものだからアッシュは面白くない気分になる。
「近くに寄ったら顔を出してくれとギンジも言っていた。手が空いていればアルビオールにも乗せてもらえるそうだ」
「あれギンジだったのか。何か久しぶりにアルビオール見たなー。お前が乗ってくるとは思ってなかったけど」
やっとアッシュに視線を向けたルークは変わらない笑顔だ。アルビオールに向けるそれと自分に向けるそれが同じなのが少しだけ気に食わなかった。
「丁度バチカルに用事で飛んできてたんだ。まだ次にグランコクマに行かないといけないといっていたから途中で降ろしてもらった。残念だったな会えなくて」
「まあ、また近くに寄ったら顔出すよ。アルビオールもあったら便利なんだけどやっぱり馬車とか船とかの方が俺の目的にはあってると思うんだよな。時間があるぶんいろんな人と話せるし」
「そうか」
歩きながら最近あったことを話すこの時間はアッシュにとっても穏やかなものだった。アッシュもルークと会うことはそれほど多くない。時々他の知り合いのところにも顔を出しているようなので、アッシュと会うのもその中の一つなのかもしれない。ルークは許されたといいながらも何かの意地でバチカルに足を踏み入れることがないから、アッシュがルークと顔を会わせるのはアッシュが出向いたときだけだ。それゆえに、今日のようにルークが待っているというのは初めてのことで、少し新鮮に思えた。
一通り話を済ませれば、特に用事があったわけではないアッシュは手持ち無沙汰だ。
ルークは先ほどまで何をしていたのだろうか、特に荷物は持っていないところを見るとぶらぶらと散歩でもしていたのだろうか。特に隠してもいない赤い髪が少しだけ乱れているのを手を伸ばして梳いた。
「なっ……なんだよ」
けれどそれを慌てて振りほどかれて内心面白くなかったけれども、その表情が嫌がっているそれではなかったのでまあよしとする。
「前に染めるとか何とか言ってただろう。結局そのままか」
「別に隠れる必要がないから隠さなくてよくなっただけだよ。染めたとこ見たって別に面白くもなんともねーじゃん。お前が俺がこのまま頭さらして歩くのが迷惑だって言うのなら今からでも隠すけど?」
「何が? 俺はそのままでよかったと思っただけだ」
思ったままを言ったのに、ルークは少しだけ顔をしかめた。
「……キムラスカの王族がふらふら遊んでるとか思われて嫌じゃねぇのか?」
「お前が遊んでるわけじゃないなら別に問題ないだろ」
ルークは前髪を少しだけ掴んでむっと押し黙った。前髪の向こうから少しだけ睨まれて何か悪いことでも言っただろうかと思うが思い当たらない。
「アッシュは俺のことむかついたりしねぇの?」
しばらく黙ったかと思えば突然の質問だ。ルークが何を考えているかアッシュには分からないことの方が多い。アッシュが表情があまり出ない方だから分かりにくいといわれるが、ルークは逆に表情が変わるが故にアッシュにはその変化についていけないことがある。今だってアッシュを見て笑っていたのに、今はなぜかその表情が悲しげに見える。
「昔はずっとむかついてたが、今は……そうでもないな」
「今ってのは俺が屋敷を出る前、それとも後? 勝手に出てった俺にむかついたりしなかったのか?」
「そうだな、あの時はむかついたというよりは、驚いた」
その言葉にルークはそうなんだと小さく呟いただけ。そして何か考えるように口元に手を当てて少しだけ目を伏せた。
「今は? 俺は結構勝手なことしてるって自覚あるし、お前なら無責任だって怒ると思ってた。前なら絶対そうだった、何で今は」
「お前がそうしたいって考えて言ったのなら別に俺がどう思ってたって関係ないだろう?」
ルークが願っていたからその願いを止めることをしなかった。ただそれだけだった。ルークはそれに喜びこそすれ、こんな表情をするはずがなかった。
「関係ない、か」
ルークの口から小さな呟きが漏れる。
「関係ないって思ってんなら、なんでこうやって俺の前にわざわざ出て来るんだよ! 俺なんてどうでもいいんだろ? 別にいなくたってお前にとってはどうでもいいからむかついたりさえしないんだ」
突然言われたことにアッシュはそれを理解するのに時間を要した。いつもアッシュを見れば笑顔で迎えたルークは内心こんなことを思っていたのだろうかと。ルークが世界を自由に巡っていることはルークの望みだし、それによって何か弊害があるわけでもない。誰も困らないなら問題はないのだろう。ルークがいなくなったとき、止めるつもりは少しはあった。けれどもそれよりルークの意思を尊重した、それだけのことなのに。それがルークには興味がないから何も反対しなかったと映ったのか。本当は怒って欲しかったとか。そんなことは言ってくれないと分からない。アッシュはもうルークの中を覗けない。ルークが何を考えているかなんて分からないのだ。それを言葉にしてくれなければ。
言葉にしてさえくれれば、アッシュもその希望をかなえることが出来るのに。
「そんなことは……」
ちゃんと言ってくれればいいのだと口にしようとしたアッシュの言葉を聞きたくないとでも言うようにルークのこえがかぶさってくる。
「俺が、お前のこと見てたくないから屋敷を出たって言ったらどうする?」
ルークはぐっとアッシュを睨みつけるように目線を合わせる。それは一瞬だった、けれどとてつもない長い時間にアッシュは思えた。ルークがふいと目を逸らせてそのままアッシュに背を向けた。白いコートがゆれて、あっという間にアッシュの視界から消えていく。アッシュはそれをなんとなく見つめていた。どうしてここにいるのかすらわすれて、思わず一歩足を踏み出せば自然とルークの足跡を追うように足が進んでいく。
言われた言葉が頭の中をぐるぐると回る。
ルークの望みは。
一歩足を進めるごとに言葉の意味がじわじわと広がっていく。
望みをかなえるためには足を進めてはいけないと知っていた。
けれども、望みは。
人のいるところにはいたくなかった。あまり良く考えないままに走ってたどり着いた先は泊まっている宿屋の裏手にある小さな空き地だった。柵で囲まれたこの場所では泊まっている家族の子供や近くの子供が時折遊んでいるのを見るが今日は誰もいなかった。
少しきしむ柵に腰掛けて小さく息を吐く。
あんなこと言うつもりはなかった。
家を出たのも、外の世界をもう一度見たいという気持ちと共にアッシュの側を離れれば気持ちの整理がつくかなと思っていた部分はある。けれど本当にアッシュを見ていたくないと思ったことはない。気がつけば目で追って、ずっと想っている自分が嫌になることはあったけれども、アッシュを想う気持ちはずっと変わらなかった。アッシュはさっきの言葉を聞いてどう思っただろうか。今度こそ本気で呆れられたかもしれない。アッシュが自分を嫌うなら分かる。初めからルークはどうしようもない馬鹿で、何も出来なくて、がんばろうとしても追いつけなくて、ずっとアッシュを苛々させていただけだった。それは生還した後もそれほど自分が変わったとは思っていなかった。ただ、アッシュの態度が柔らかなものに変わったからルークはそれに気がつかない振りをしていたのだ。
嫌われていないといいと思った。多分嫌われてはないんじゃないかと思い始めた。けれどルークが変わっていない以上、好感度が勝手に上がるわけもない。アッシュの中での順位もルークはずっと下のほうで、たぶん最低ではないと思うと自覚していた。もしかしたら上のほうだったらいいなとおもっていた。
けれどあんなことを言ってしまって、アッシュがどう答えるか怖くて逃げた。
答えが出ていないから側にいれた。答えが出てしまえばルークの思っていたことはただの妄想で、現実を突きつけられるだけ。きっと今まで以上に耐えられない。
分かっていたことだ。ルークが勝手なことをしても怒らない、それはルークに興味がないからだ。家を出たルークの前に時々現れるのも、母上がこういったからとか、ルークの身分で騒ぎを起こさないようにと旅券をくれたり、ナタリアの言葉を伝えにきたりそんなことばかりだ。アッシュがルークが家を出たことについてどう思っているか聞いたことはなかった。ルークの意思ならとそればかり。ルークはアッシュの言葉が聞きたかったのに。
聞いたところで決意は変わらなかっただろうけれど。
「アッシュ」
小さく呟く。
「何だ」
頭の上から降ってきた返事にルークは慌てて顔を上げた。気がつかなかったといえば剣士としてありえない距離だ。だがアッシュなら仕方ないかもしれない。なんせ音素振動数まで同じで、世界さえ二人を区別できずに大爆発さえおきかけた。屋敷にいるときも時々アッシュの気配に気がつかないときがあったことを思い出す。本当に同じ音なんだなとこんなときに実感してしまって、驚いたこともわすれる。
「何しに来たんだよ」
ふいと目を逸らす。アッシュを見ていられなかった。アッシュはどんな顔をしているのか少しだけ気になるが、見ることが出来ない。
今度こそ呆れて、もう帰ってこなくてもいいと思われたかもしれない。ルークは屋敷には帰りたい。けれどもアッシュが顔が見たくないなら帰ってくるなといえば帰れない。あの場所にいることに本当は誰の許しも要らない、ルークはちゃんとルーク・フォン・ファブレでバチカルのファブレ邸がルークの家だ。けれどただ一人アッシュの言葉一つでルークは動けなくなる。それはアッシュがルークの主導権を被験者として握っているというわけではない。ルークがただアッシュのことを好きなだけだからだ。アッシュの望まないことをルークはしたくないだけ。
一度口にしてしまったものは消すことが出来ない。けれど答えが出るまでは逃げようと思ったけれどその時は案外早く来てしまったようだった。
「世界をもう一度見たかったのも本当だし、お前を見たくなかったのも本当の理由だし。馬鹿にするならしろよ」
「そうか」
アッシュはやはりそんな一言しか漏らさない。家出してすぐのときもそうだった。どうしてこんな奴好きになったりしたんだろう。アッシュはルークになんて興味はないのだろう。好かれようが嫌われようがアッシュの中では一言で片付けられる問題なんだろう。そう思うと悲しくなってくる。分かっていたことだけれども。
「それで、お前はいつ戻ってくるんだ?」
ルークが言った言葉の意味を分かっているのだろうか、何故今この質問なんだと思う。だから家には帰らないと今言ったところではないか。
「そんなのわかんねぇよ」
世界を回りつくすにはまだまだ時間がかかりそうだ。アッシュのことを吹っ切るのは同じくらいで足りるだろうか。いつ帰る気になるかなんてルーク自身にも分からないのだ。
「俺がいなければ帰ってくるのか?」
だから、アッシュの言ったその言葉の意味がいまいち理解できなかった。
「なに?」
「俺の顔を見たくないのなら俺がバチカルにいなければいい。そうすればお前はいつでも帰れるんだろう? 母上も父上もナタリアもお前を待っている。出来るだけ早めに帰ってやれ」
「……アッシュ、何いってんの?」
思わず顔を見上げてしまって、ルークはそこから目が離せなくなる。どうしてアッシュはそんな顔をしているのだろう。怒っているでも呆れているでもない。ルークが内心を隠している以上あの言葉はアッシュのことが嫌いだと受け取るだろう。怒ってもいい、ちょっと夢見て嫌われたことを悲しんでくれても良かった。けれど、なぜかアッシュの表情はほっとしたそんな顔だったのだ。
「お前がバチカルの屋敷に居たくないのでなければどうして頑なに帰ってこないか分からなかった。別にずっと外に出なくても定期的にどこにでも行けばいいはずなのにそうしないのは、何か理由があると思っていた。理由が分かればそれを排除すればいいだけだろう? お前は居たい場所にいながらやりたいこともすればいい」
「だからアッシュ! 俺は」
「それだけいいに来た。ちゃんとお前が帰ってくるころには俺はそこにはいないから安心しろ」
本当にそれだけ言いにきたのだろう、いい終わると背を向けて歩き出そうとするその腕をルークは思わず掴んだ。
「何なんだよお前、良くわかんないことばっかりいってんなよ」
なんとなくアッシュが本気でそれを言っていることが分かってしまった。だからその意味を理解したとたんルークはとてつもない恐怖に襲われた。
「何でお前が出て行くって話になるんだよ、そんなこと俺頼んでない!」
ぎゅっと腕を引っ張って惹きとめようとルークは必死だった。アッシュは足を止め、そんなルークをみて怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
「お前がそういったんだろう。俺がいるから屋敷を出た、と。それが理由の半分だとしても俺がいる限りお前は家に帰れない。お前は帰りたくないわけじゃないんだろう、だったら」
「俺が言ったから? 俺がなんて言ったっておまえには関係ねーじゃん」
「そうだな、関係ない話だ。だが俺がお前の願いを叶えたいからそうしている。それだけだ」
「え?」
ルークは思わずアッシュの顔を見つめなおした。表情は変わらない、さっきと同じく本気で言っている顔だ。願いを叶えたい? この目の前にいるアッシュは実は別人だとか、それしか考えられないくらいに不思議な言葉を聞いた気がした。
「アッシュ、何か悪いもの食ったんじゃ……」
けれど、その言葉を思い出せばここのところのアッシュの言動になんとなく繋がったものが見えてくる気がする。
家を出たとき、話をしただけで帰って言った。ルークが帰らないといったからだ。世界を見て歩きたいと言ってもそのまま送り出してくれた。話がしたいといえば話をしてくれたし、アッシュが絶対に帰らないといっていたバチカルへ二人で帰ってきたのも。
「お前には言っていなかったが、ローレライとの契約みたいなもんだ」
消えてしまったルークとローレライの間の契約をアッシュが代わりに果たしているのだとアッシュはなんでもないように言う。
「……なんだよそれ」
ルークは全く覚えていなかった。自分の命を捨ててアッシュを助けようとしたことも、その後でのアッシュとローレライのやり取りも。同じ状況ならばルークは自分の命を捨てる選択を続けるだろう。そこは信じよう。けれどその後の話は到底信じられる話ではなかった。もし本当ならばルークこそがアッシュに感謝しなくてはいけないのに。
なぜかその話を聞いて素直にアッシュに感謝の言葉を向けることが出来なかった。
「ローレライならお前の望みは何でもかなえることが出来たんだろう、それを俺が勝手に破棄したんだ。多少のことなら聞いてやっても俺は別にどうということはない。それにお前の願が先にあったから俺はこういう形で生きることがでいている。だからお前の願いをかなえてやってもいいかと思ったんだ」
「何だよそれ。俺はそんなことしてくれなんていってない。それに……俺の願いなんてローレライだってかなえることはできないから、いいんだ、もう」
自分の願いなんてかなえる必要はないと、そっとルークはアッシュを掴んでいた手を離した。
「いいのか? 俺はまだ何もしてやってない、俺が叶える事が出来るなら叶えてやる気はあったんだが」
アッシュがルークのために何かしてくれるとは思っていなかった。それがこんな形だとしても。アッシュは真面目で、だからこそ守れないかもしれないから約束をしたくないとまで言った奴だ。一度言ったならばそれを達成するまでやる気だったんだろう。
けれど。
「俺の願いはお前にだけは叶えられないんだ」
言って叶うのならば誰も苦労したりしない。それも本人になんていえるわけがない。お前に好きになって欲しいんだ、なんて、直接本人に願うなんてありえない。それは願いではない、ただのルークの願望で、願ってなんかいないそういうことにしたかった思いだ。
「そうか」
アッシュはやっぱり一言で。けれどルークはそろそろ気がつき始めていた。アッシュは納得してその言葉を言っているのではなくて、納得していないから言っているのだと。
「とりあえず言ってみろ。出来るか出来ないかは俺が決める」
開き直りやがった。言わないと首を振れば、苛ついたような口調で「言え」と一言だ。何か適当なことを言ってごまかそうと思うけれども全然頭が回らない。それもアッシュの顔が近いせいだ。逆に腕を取られて捕まえられれば逃げ場はもうない。
「何むきになってんだよ、別にいいだろ俺のことなんて」
「どうでもよかったらわざわざここまで来るわけねーだろうが、馬鹿か」
口調はまるで喧嘩を始める前のようで、なのに真剣な目だけが真っ直ぐにルークを捕らえて離さない。
「お前が出て行った時だって、帰ってこないといった時だって俺は別にむかついたりしなかった。お前がそう望んでるんならいいかと思ったんだ。だが、今日は駄目だ。俺の顔見たくないとか、ふざけてんのか。俺に出来るのはどっか行くことだけだと思ったからそういえば違うとか抜かしやがるし、俺にはお前の願いが叶えられないとか、当たり前だろお前が言わなかったらお前の思ってることなんてわかんねぇんだ。だから言え」
その圧力にルークはやっぱり逆らえなかった。言えばアッシュはどう答えるだろうか。その瞳に嫌悪を浮かべてルークから離れていくだろう。願いは結局叶わないのだ。
「いわねぇと無理やりにでもお前の中こじ開けてやる」
フォンスロットが開かれていないのだから前のようにしようとすればどうなるか分からない。出来ないとは思うがアッシュが言うのだからされそうな気がする。
「何意地になってんだよ、別に叶わなくていいって言ってんだからいいだろ」
「俺には叶えられないってことは他の誰かなら叶えられるってことか? そんなむかつくこと許せるか。そんな願いぶち壊してやるから、言え」
叶えるどころか壊す気とかアッシュが何を意地になっているのか分からない。けれど壊されるならもういいかなとルークは思っていた。どうせいつかは壊れる思いだ、今アッシュにぶち壊してもらって、それからまた旅に出ればいい。しばらく、それが消えるまで。
ルークはぎゅっと目をつぶって思い切り息を吸い込んだ。
「アッシュのことが好きなんだ」
吐き出す息と共に言葉も思いっきり吐き出した。
「アッシュが好きだからそれに気が付かれたくなくてお前のこと見ていたくなかった。だからお前の居ないところに行きたくて家を出たのに。なのにお前は俺の前に顔出すし、むりやりこんなこと言わせるし、もう分かっただろ。だから俺のことはほっといてくれよ。しばらくしたらちゃんと家に帰るから」
そこまで一気に言い切ると、もう一度大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。もう言うことなんてない。目をつぶっているからアッシュの反応が分からないのが幸いだ。このままアッシュが去ってくれればそれでいい。それまで目をつぶっていればアッシュがどんな顔をしているのか知らなくて済むから。
つかまれていた手がいつの間にか離されていた。同性のそれも自分のレプリカからそんな感情を抱かれているなんて普通に考えれば触れて居たくないはずだ。その熱が少しだけ寂しかった。もうその熱に触れることがないならばなおさら。
アッシュは無言で、けれどルークの前から動いた気配はなかった。よっぽど衝撃的だったのだろうか。ルークから身を引くべきかと一歩後ろに下がろうとしてその時、アッシュの手が再びルークを捉えたのだ。
その両手はルークの頬を包むようにそっと触れられた。捕まえられているわけではない、すぐにでも振り払えるのにそれが出来ないのは、ルークがアッシュのことを好きだからだ。好きな人に触れられて嫌なわけがない。
「アッシュ?」
名を呟けば、呼び返された。自分の名前なのにどきりとする。
「何を隠しているかと思えば、そんなことか」
そんなことじゃねーよとルークは反応したかったが、出来ないわけはゆっくりと頬を滑るその指先だ。
「俺には叶えられないことなんてなんだろうと思って、俺でないほかの奴になら叶えられるかもしれないことならば一つしかない。お前はバチカルの屋敷を出て、誰か他の奴のところに行きたかったんだと。そんな願いならぶち壊してやろうと思った」
囁かれるように耳元で聞こえるその声にルークは本能的に逃げ出したくなる。これは、もしかしてこの状態はよくないんじゃないだろうか。目をつぶったままでよかったと思う。あけていたらとっくに逃げ出していた。いや逃げ出せたほうがよかったのか。
「どうして俺がお前の願いをかなえてやろうと思ったかお前は分かってるのか?」
「それは、ローレライが……」
さっき聞いたその話だろうと呟けば、馬鹿がと返された。お前がそういったんじゃないか、と思ったが思ったこと全てを話していないのはお互い様だったのだと知るのは抗議しようと開いた口をふさがれたその後だった。
「俺はお前の願いだからかなえてやりたかったんだ。だからお前のその願いも、叶えてやってもいい。ルーク、お前が望むなら」