犬の見た夢「犬が……」
そう言いかけてアッシュは口を閉ざした。
窓の向こうにはファブレ邸の中庭があって、動物どころか人影さえも見えない。いるのは応接室の円卓に向かい合って座ったアッシュとナタリアだけだ。ナタリアはアッシュの言葉に庭に目を移したけれどもそこにはもちろん何もいない。
「あら、庭に犬がいるのですか? 姿はないみたいですけれど」
ナタリアが不思議そうに首をかしげるのも当たり前だ。アッシュだって庭に何かを見たわけでもなかったからだ。
「いや、犬を飼ったことがないからどういう感じなんだろうかと、庭を見て思っただけなんだが」
「アッシュが犬を、ですか?」
ナタリアはアッシュの突然の言葉に驚いたように目を丸くし、次いで小さく笑った。
「なんだ」
「いえ、ルークが犬を飼いたいと言うのならば想像できるのですけど、アッシュがそんなことを言うとは思わなくて」
アッシュは笑うナタリアからむっと目をそらせ、窓の外へ視線を移した。自分には似合わないというのか、一体どう思われているのか気になったがこの様子では自分の思う答えは返ってこないのだろう。
「別に犬が好きとかいうんじゃねぇ、気になるだけだ」
ナタリアは笑いを抑えて、ごめんなさいと謝った声はするけれども内心面白がっているのは分かる。
「軍用犬ならうちにもいますけどそれは飼っているというのとは少し違いますし。ですが、なぜ急に犬が飼いたいなんて?」
飼いたいというのではない。どちらかといえば動物に嫌われるタイプのアッシュは、動物にまで威嚇するのやめろよとルークに言われるほどで、好きでもないし実際に寄ってこない。だから犬のことを呟いた理由だって好きだからとかでもない。
そんなことはどうでもいいだろうと呟きかけたその時、おざなりに応接室の扉がノックされ、その直後に開いた扉から赤い頭がひょこっとあらわれた。それはあっという間だったので、アッシュはそれに対して口を開く隙もなかった。
「アッシュ、ナタリア、ごめんお待たせ! ……って、アッシュその顔、何? 怒ってんの? 遅れたから……そんなに遅れては、ない……う、ごめんなさい?」
そして、いつもの顔のつもりのそのアッシュの顔を見てルークがくるくると顔色を変えながら何やら弁明することも止めることもできなかった。怒ってないと言うのは簡単だが、ルークがそう思ったのは心にやましいことがあるからだろうとアッシュは誤解もそのままにしておく。
「……別に遅れたことに関しては怒ってない。お前が返事を待たずに部屋に飛び込んできたことに関しては別だが」
普段はそんな無作法なことをしないルークだが、今日は気が急いていたのは分かる。即座に謝ってきたということは反省はしているのだろう。だが、その反省の表情は直後にルークに触れた人物によってふわっと明るくなって反省の色が消え、アッシュはルークの背後を思わず睨んでしまう。
「まあ、アッシュ許してくれよ、船の時間がちょっと遅れててルークも焦ってたんだしさ、なあ」
「そうそう!」
ルークの後ろからその両肩を掴むようにして現れたのは、今までもこれからもこうやってルークを甘やかしていくのだろう、ガイだった。アッシュがナタリアと二人きりで顔を突き合わせていたのも、今日バチカルを訪れるガイを待つためでルークは彼を迎えに港にまで行っていたのだ。
「ナタリアもアッシュも久しぶりだな。それで、二人で何の話してたんだ? アッシュ話の途中だったんだろ?」
「……いや、別にいい」
「ええ、アッシュが急に犬を飼いたいと」
さっきルークみたいだと暗に言われた犬の話題など忘れてくれればいいのに、だからこそなのだろう、話題を変えたいアッシュとは意見の食い違いがそこに発生したらしい。言うなというつもりだったのだが、あっさりばらされる。
「え、俺そんな話聞いてない! 前に飼いたいって言ったら母上の体に悪いから駄目だって、言ったのアッシュだろ?」
やはり覚えていたか。アッシュがうやむやにしてしまいたかったのはルークの以前の言動故でもない。だがその時飼えないと自分で否定した言葉なのにというのは確かにあった。
「飼いたいなんて言ってない、ただ、夢で見ただけだ」
「夢で?」
「時々夢に出てくるんだ。自分の部屋に当たり前みたいに子犬がいたから、何かの暗示だろうかと思っただけだ」
理由なんてそんなものだ。らしくない、と言われようとも勝手に夢に出てきたのだから仕方がない。それもその子犬は度々アッシュの夢の中に現れてはじっとアッシュを見ているのだから、これは自分の意志ではなくて誰かの、ローレライとかの意志が何か介入しているのではと思っても仕方がないだろう。
「子犬と戯れるアッシュ……?」
そしてアッシュの顔をじっと見て何かを考えているらしいルークの頭の中なんて覗かなくてもわかる。
「何想像してやがる、夢の中だって俺は犬にさわったことなんかねぇぞ。何しろ寄ってこないからな」
「えっ……」
ルークの目が驚きに開かれたのは何だ。犬を目の前にして触らないなんてあり得ないとでもいうのか。だから別に犬が好きではないのだと言っているのに、どうしてそんな夢を見たのかさえアッシュにはわからないのだ。ならば何に驚いているのか、ガイがそんなルークを見て思いついたように手を打った。
「ルーク、お前秘密で屋敷で飼っててアッシュにばれないようにしてるとか、ないよな」
「ちがうちがう、ないない! ぜってーばれるもん」
首をぶんぶんと振って否定するルークは、たぶんそんな計画を練ったことがあるのだろう。つい最近か、それともかなり昔か。ほほえましげにルークを見つめているガイを見れば後者かもしれない。そしてばれて怒られた、と。
「まあルーク、うちに来れば犬はいないがブウサギはいるぞ いつでも撫でに来てくれていいんだからな?」
まだブウサギ係をしているらしいガイが胸を張るが、ルークのふさふさしてないから別にという言葉にガイの計画は消え去った。後ろでうなだれているが仕方ない、ブウサギは俺たちの中では食材だ。
「それでアッシュ、何で犬の夢の話なんてしてんの?」
「……お前らが遅かったから話題がなかっただけだ」
その話は終わりだとばかりにアッシュは不愛想に答える。さすがのルークもそのサインがわかったらしい、そろそろこの話題でからかう気もないナタリアと視線を交わして小さく笑うと空いている席に腰を下ろした。
これは、夢だ。そのことにアッシュは気付いていた。いつもの自分の部屋。一人で使うには広すぎる部屋だが、この部屋の主はルークでもある。二人で使っているはずの部屋だが、けれど夢の中ではここにはアッシュ一人しかいない。
輝く陽の下など望んでいなかった。手を伸ばせるほどの先に落ち着けるだけの小さな空間があればそれでよかった。音などいらない、誰もいらない。なにも欲しくはなかった。
けれど現実は、アッシュは戻ってきてしまった帰るつもりもなかったバチカルにいる。一度失った命と未来を再び手にして、バチカルへ帰ることを選んだのは確かに自分だ。同じようにあの時隣に立っていたルークが強要したわけでもない。
本当はバチカルに居たくないのか。この暮らしを煩わしいと思っているのか、だからせめて夢の中だけでもと一人だけの空間を作り出したのか、考えても仕方がない。ここは所詮夢だ。
ソファーに腰をおろして、目を伏せる。静かだ。現実の世界であればきっとこうはいかない。目が覚めれば、そこにはきっと自分と同じ顔をしたレプリカがいるのだ。いや、実際にはずっと顔を合わせてはいないが、同じ部屋に暮らしている以上毎日この部屋でルークと顔を合わせる。だからこそ夢にまで見ているのかとアッシュは小さく息を吐いた。
夢と現実が同じ景色だというのは奇妙な感じがする。寝ているのか起きているのか境界が曖昧になってここが本当に夢なのか不安になる。
夢なのだろう。アッシュがそう思うのだから。
相変わらずそこにはアッシュ一人の姿しかない。窓から見える外はいつも明るくて、けれど動いているもののいないその風景はまるで絵のようだった。殺風景だと思ったのか、動くものならば鳥でも揺れる木々でもよかったはずだった。だが、そこになぜか現れたのは小さな犬だった。
その子犬はアッシュなど気にしていないように時折現れては庭を走り回ったり転がったり、日向ぼっこをしたり、その規則性のない行動は確かに見ていて飽きない。いつの間にか庭に現れて気が付けばいなくなっているその子犬は別にアッシュの邪魔をするでもない、アッシュの望む夢の空間にいてもかまわないと許容した瞬間からアッシュの夢の住人になった。それにつられたのか、庭にはアッシュの知る人影が現れることもあったが、その中でも定期的に表れるのはその子犬だけだった。たぶんそれがいけなかったのだ。
ある日の夢の中、いつものようにソファーに腰を落として本を手に取っていた。
このソファーと窓からの位置は外の光が入り込むいい場所で、ルークもそう思っているのだろう、休みが被ることも多い二人が狙う場所も同じで、いつも奪い合っている場所である。それを夢の中では思う存分独り占めできる。そんな場所で寛いでいてふと気が付けば視界の中で揺れる何かが見えた。
また外で子犬がよくわからないものを追いかけているのかと思えば、それは思ったより近い、窓際の光の差し込む部屋の隅で揺れていたのだ。
そこにいたのは外にいると思っていた白いふわふわの子犬で、部屋の隅からアッシュを見ていた。
今までアッシュなど見ていないと思っていた子犬の瞳がじっとアッシュを見ている。なのに子犬はそれ以上近づいてこようとせず、部屋の隅で転がったり寝そべったりしているだけだ。だから、アッシュはそれも許容した。
だからなのか、最近の子犬は部屋の中で何かふかふかしたクッションの上で寝息を立てていたりする。現実のアッシュの部屋にクッションなど存在しなかった。まるでアッシュがその子犬のために用意したような、そこまで考えて気が付く。ここはアッシュの夢の中なのだから実際アッシュが必要だと思って用意したものなのだろう。
けれど、決してかわいいとかほだされたとかいうのではない。視界に入るだけで近づいて来ない何もしないその子犬が同じ空間に存在することをただ許容しただけだ。そうアッシュは思っていた。
今日の夢では部屋の中に子犬はいなかった。どうやら外で転がっているらしい。光さす明るい中庭でその姿を見つけた時になぜかほっとしたことにアッシュは何とも言えない気持ちになる。別に探していたわけでも、部屋にいないのを残念に思っていたわけでもない。第一あれは闖入者なのだからアッシュの部屋にいないほうが当然なわけで。
ソファーに深く腰掛けて、テーブルの上の本を手に取る。いつもの静かな時間を過ごすはずのアッシュの視界に映るのは、部屋の隅に置かれているはずの使用者のいないクッションだ。あれはこんな場所にあっただろうか。初めは部屋の隅にあった気がしたが今はソファーの足の少し向こうだ。移動している? そう思ったが犬が蹴飛ばして近くに飛んできていただけだろうと思って、元の場所に戻すべきかと視線をずらした。
その時見えたのは、明るい陽の下で尻尾を振る子犬と、その犬の頭を笑顔で撫でている、あれはガイだ。こうやって現実に会った人物や気になったものが窓の外だが夢の中に現れることはままあることで、動物に好かれそうなガイならこういう行動をとるだろうと思ったから出てきたのだろう。
だが、撫でられ尻尾振って跳ねながらガイの足元にまとわりついている子犬を見て、アッシュはいまだ子犬に触れたことすらなかったことを思い出す。触れたら、あいつはあんなふうに喜んで尻尾をるのか。いや、動物に触れたいなどといった欲求はなかったはずだ。けれど、自分でさえ触れてない子犬に誰かが触れているのは何か腹立たしい。これはただの夢の中で、アッシュの思う通りの世界のはずなのに。そう思ったのは確かだが、別に子犬を呼んだわけでもなかった。けれど子犬はくるりと一回りして、そのくりっとした目をアッシュに向けた。
緑の一対の目がじっとなにかの期待を含んだ眼差しでアッシュを見ている。
それはまるで……
「アッシュ? ガイが久しぶりにアッシュと手合せしたいって言ってるんだけど。あ、……ごめん、邪魔だった?」
部屋に顔を出したルークがソファーの後ろから声をかけてくるのを聞いて、アッシュはゆっくりと振り返った。
「いや、問題ない。そうだな、持っていくのは真剣でいいか」
「……ガイも同じこと言ってたけど、やるならナタリアも帰っちゃったから木刀にしといてくれよ」
ガイと同じことを言ったというのは解せないが、ガイがどう思っているかはさておき、今のところガイと決闘をするつもりなどはないし、こんなものただの社交辞令のようなものだ。
アッシュはソファーから立ち上がると小さく息を吐いた。温かな日差しのせいで少し転寝をしていたらしい。そこでいつもの夢を見たのはさっきそんな話をしていたからだ。本を手に俯いていたから大丈夫だとは思うが、ソファーの斜め後ろに立っているルークからは寝ていたのがばれているかもしれない。だが、そのことに触れなければいいのだとアッシュは手に持っていた本を何でもないようにテーブルに置いた。
「どうした?」
アッシュの了解を得たのだから、早速ガイに伝えに行くと思っていたルークはまだそこにいる。その位置が、さっき夢で見たクッションが置いてあった場所だなと思ったのはまだ夢心地だったせいだ。ソファーから少し離れた、手を伸ばしてもアッシュに届かない位置。そう思えばルークもアッシュがソファーに座っている時にはそれ以上近づいてきたりはしなかった。
「アッシュの見てる夢ってさ、」
そこで言葉を止めたルークは少し視線をずらして、どこにも置き場のない手を彷徨わせる。アッシュは今まどろんでいたことがばれていたのかとどきりとするがそうではなさそうだ。
「何でアッシュは犬に触らないのかなって。嫌いなら追い出せばいいし、犬が好きなら構えばいいのにって思ってさ」
寝ていたことがばれたのではないとほっとしたものの、ルークの質問の意図がわからない。夢なのだから実際に犬を飼うとか駄目だとか言っているわけでもなし、聞いてどうするのだ。
「犬が好きでそんな夢を見てるわけじゃねぇし、だが……しいて言えばあいつが近づいてこないから、か」
かまってほしそうにじゃれてくるのを部屋の中に入れているくらいなのだからわざわざ払ったりはしない、と思う。
「じゃあ、もし近づいてきたら撫でたりするんだ?」
「……俺だって犬を撫でたことくらいある。アリエッタがライガの子を連れてきてたりしてたしな。だからどうした」
「いや、今なら押したら犬飼わせてくれるかなって!」
飼わねぇからな、と念を押したのにルークはまだ何やら策を練っているらしい。結局うんと明らかに話を聞いてない返事をして自分の中で何か結論付けたようだ。そんなに犬が飼いたかったようには見えなかったが、飼わないと言っているのに、笑顔で早く中庭にいこうぜとアッシュをせかす。
「本当にどこかで飼ってるとかじゃねぇだろうな」
「え? それだけはほんとに絶対ないから!」
ルークの挙動が不審でないわけではなかった。けれど本当にどこかで飼っているならアッシュがわかるだろう、アッシュはそれ以外の理由を見つけられずにルークとの会話をやめて、ガイが待っているだろう中庭に向かった。
確かにそのソファーは一人で座るには大きい。アッシュと、クッションに乗った子犬と、さらに子犬が飛び跳ねるくらいのスペースはある。だからと言って、手を伸ばせば触れるほどの距離に動くものがいるというのは落ち着かない。落ち着くために作りあげた夢の中の空間のはずが、かといっていまさら子犬を払い落すのも大人げない。近づいてくれば撫でるかも、とか自分は何を言った。あんなことを言ったからか、あれからだんだんとクッションが近づいてきて、最近アッシュの足元まで来てしまった子犬用のクッションは現在ソファーの上にある。
そうだ、子犬自体は自らアッシュに近づいてきたりはしなかった。ただ、子犬のためのクッションの位置がだんだん近づいてきていただけだ。夢の中の部屋はアッシュが望まなければそこにはない。総合すれば、家具であるクッションを移動させたのは子犬ではなくアッシュで、近くに来ることを許容したのもアッシュだということだ。
子犬はクッションの上で前足の上に頭を乗せて目を閉じて、寝ている。子犬はクッションから先には決してアッシュに近づかなかったけれどアッシュを見ていないわけでもない。目を開ければその緑の目が自分を見上げるのを知っているし、その尻尾が揺れるのも知っている。その期待のまなざしにわざわざ答えるのも癪で、アッシュは視線を背けるだけだ。
もともと、この夢の世界はアッシュが望んだものしか存在しないはずだった。その中で、唯一部屋に入り込んだ子犬。けれど決して自ら近づいては来なかったのは、アッシュがそう望んだからだ。部屋に引き入れたのも自分で、こいつならばこう行動するだろうと思って、その通りに夢が進んだ結果がこれだ。
部屋にいてもいいと許したのに、それでもあいつは結局近づいてこなくて、アッシュから手を伸ばすのは簡単だ。けれどいつかのガイと戯れていたときのように飛んで跳ねて、あいつらしく遠慮などせずにいればいいのにと思っただけなのだ。
子犬は、あいつは、結局近づいてこなかった。それがアッシュの心を少しだけ苛立たせるのを知っていた。だから、それはアッシュが譲歩してやったのだ。
手を伸ばして触れる。それは思った通り柔らかだった。別にあいつから近づいてくるのを振り払ったりなんてしないのに。
手の下のふわふわの耳がぴくりと動いた。起こしてしまったのだろうか。声をかけるべきか悩んで、そして。
その夢を見ることをルークは誰にも言ったことはなかった。言えばこの不思議な世界が消えてしまう気がしたからだ。
いつもより鮮明に見える夢では、気付けば屋敷の中のどこかにいる。だが屋敷の外に出れないと思うのは昔の名残か、出たこともない。中庭を歩けば青い空と鮮やかな花が眩しい。けれど綺麗すぎると思ってしまうのはその夢が作られた世界だからだろう。誰にも会わないのもそうだ。ルークは世界に一人取り残されたような気持ちになってさみしくなった。
そんな何度目かの夢の中、ルークはずっと閉まったままだった自分の部屋の扉が少しだけ開いているのを見つけた。アッシュとルーク二人の部屋の扉はいつも閉じていて、ルークは無意識に入れないのだと思っていた。けれどその扉が少し開いているのが不思議に思ってその時そっと中を覗き込んだ。
アッシュがいる。いつものソファーに座って、いつもの仏頂面で。ルークのことには気づいているのかいないのか一度視線を向けただけでそれから気にする様子もなかった。
夢から覚めれば、現実でアッシュが自分と同じ空間にいることは本当に少なかった。何の話をすればいいのか迷った結果先にルークが部屋を出てしまうのだ。ガイ相手だったらどんなことでも言えるのに、アッシュ相手だとアッシュを目が合うだけで時々どうしていいかもわからなくなる。緊張しているのか慣れれば治るのか、話題があるときはいい、けれど話が終われば途端に沈黙が訪れてしまう。嫌われてはいないと思う。怒られることはあるけれど、そんな時は大抵ルークが何かした時だ。この間みたいに、礼儀がなっていないとか。好かれている自信はない。仕方なく付き合ってくれているのだろう。
だからと言ってアッシュが怖いとか嫌いとかではない。むしろ近寄りたくて何でも話したいけれど。ルークのことを認めてくれたとは思うし、だから同じ部屋で暮らすことが決まってからそれに対して文句を聞いたことはない。けれどどう思ってアッシュが同じ空間にいることを赦してくれているのか聞くことすら怖かった。気が変わられても困る。ルークは平気なふりをしながらアッシュの様子を窺うしかできなかった。
夢の中でも同じだ。夢だとわかっていてもやはりルークはアッシュに近づけない。部屋に立ち入ることは咎められなかった。次は窓際に行ったり、本棚の本を手に取ってみたり、けれど何をしても時折視線をよこすだけでアッシュは何も言わない。それでもアッシュと同じ空間にいるだけでうれしかった。ここにいてもいいのかな、何度目かの夢でそう思った時、床の上に見慣れない大きめのクッションが現れていた。窓からの光が差し込むソファーの斜め横の床の上。あそこに座れば温かいし、アッシュの顔も見れる。本当はソファーの隣にまで行きたいけれども、夢の中まで近寄るななんて言われたらへこむ。邪魔しないからそっと眺めるくらいならいいよなと、ルークはそのクッションに腰を下ろした。お気に入りのソファーみたいにふかふかで気持ち良くて、ルークはとてもそこが気に入った。
「なあ、ガイ。俺って動物で言ったらなんだと思う?」
「犬だろ、小さいやつな」
なんとなく分かっていたが即答されて、ルークは少しへこむ。
「そっか……お前から見てもそうか……」
「なんだ、ルーク悪い意味じゃないぞ。犬は賢いしかわいいし、お前だって犬好きだろ? ああ、もしかしてアッシュに犬ならもういるから二匹はいらんとか言われたとか!」
「ガイまで俺を犬扱いすんなよ、それに言われてねーし!」
ルークが気になっていたのはそこではなく、アッシュが見ているという夢の話だ。部屋にいる夢を見て、そこに子犬がいてけれどそいつはアッシュには近づいてこないという。まさかと思った。部屋にいるのにアッシュに近づけない夢を見るルークとアッシュのそれが重なる。でもアッシュの夢に出てくるのは子犬だけだ。だとすれば。まさかそんなはずはと思ってガイに確認してみた結果がこれだった。完全同位体だからこそ夢までつながっている、というのはできすぎた話だ。けれど。
「犬だったらアッシュに近づいてもかまってくれるかな」
それは夢だけれども、夢だからこそ近づきたい。
「何言ってんだルーク、お前はそのままがいいんだからお前の良さがわからないアッシュが悪い。よし、久々にアッシュと真剣に手合せでも願いたい気分になってきたぞ」
「そうか? じゃアッシュに声かけてくるよ」
落ち込んでいるルークを励ましてくれたらしい。アッシュに声をかける口実ができたみたいだ。ちょっとだけ、ガイに感謝しながらルークは部屋にいるだろうアッシュの元へ急いだ。
少しでも近付けたらな、と思ったのが夢の中でかなったのかルークの座るクッションはだんだんとアッシュに近づき、現在アッシュの座るソファーの上にある。これは隣に座ってもいいということなのか、恐る恐るルークが隣に座ってもアッシュは何も言わなかった。そうだ、これはルークの夢なのだからアッシュの見ている夢とは別に決まっている。ここではルークの望むとおりになるはずなのだ。例えば隣に座っても何も言われないとか、転寝してたら肩を貸してくれるとか。けれど夢の中でも隣にアッシュがいるとじっとしていてもアッシュを見るのもドキドキしていたたまれない。ルークは思わずギュッと目を閉じて、ひたすらアッシュの気配を感じていた。アッシュは近づいてくるなら子犬に触れてもいいと言っていた。思い切ってアッシュの傍に行ってしまおうか。もし、この夢が繋がっていたってルークはただの子犬だ。不自然にならないように、そっと、夢の中くらいアッシュの隣にいたっていいはずだ。
それは、たわいもない願いだったけれども、ルークにとっては夢でなければ叶わないと思うほどの願いだった。ガイに言えば目標が低すぎると笑われるのだろう。それでもよかった。
手を伸ばせば届く距離。それはあと少しだった。けれどもルークはその一歩が踏み出せなくて。
その時、頭に何かの温かさを感じた。髪に触れてそっと梳かれる感触に一瞬びくりと体が震える。それと同時に触れられていた感触が止まり、一拍おいてまた軽く触れて離れていった。
触れることのできる範囲にいるのはたった一人。
ルークはまだ信じ切れずにゆっくりと目を開ける。視界に映ったのは深い緑の一対の瞳。視線が絡み合って離せなくなる。
「起きたか」
アッシュは一言、いつもの仏頂面でそう口にした。
「……アッシュ? え、アッシュ?」
「耳元で騒ぐな、やかましい」
これが慌てずにいられるわけがない。混乱しかない頭でルークは視界に入ってくるものを必死に理解しようとしていた。
目を開けた、そしたらアッシュと目があった。それはどうしてか、ルークが寝ていたからだ。いや、それは理由になってない。目を開けてアッシュと至近距離で目があうなんてそんなことあるわけがなかったからだ。たとえば夢の中の時のように隣で座って、肩が触れ合うくらいの距離にいたのならば。
「えっ?」
それどころかアッシュの肩に寄りかかっているこの状態が夢なのか現実なのか、どっちだっていい、とりあえず離れなければと慌てて目の前のアッシュを押しやろうとして逆にルークが後方へ倒れこんでしまう。肘掛けに頭をぶつけていたい。
「何をやってるんだ、お前は」
「だって、アッシュが近いから……って、夢?」
「へこんでないな」
夢だと思ったのも仕方ない、夢に見たのと同じアッシュの手が伸びてきてルークの頭に触れたからだ。いや、その前に肘掛けを確認したのもルークは見たけれども、そのあとだ。
「そのくらいでへこむかよ」
「よかったな、これ以上お前の頭が悪くならなくて。その調子じゃ明日提出の書類はできてるんだろうな」
ルークは思い出した。机の上に散らかっている本やらレポートやらは自分が持ち込んだもので、明日までに仕上げなけばいけないからと昼間から悩みながら書類製作を進めていたのだ。アッシュもいなくて暖かいからとソファーに座ったのがいけなかった。もちろんできている、と言いたかった。だが机の上の書類が未完成なのは誰が見ても分かる状態だった。わかっていてアッシュは言っているのだから逃れられない。
「あと、ちょっとなんだ」
言い訳なのもバレバレだ。脳内では大体できているのだ。あと資料に沿って書き出すだけ、いい日差しがルークを眠りに誘わなければもうできていたはず、たぶん。けれどそんな言い訳をしたってアッシュは聞いてくれないだろう。これはアッシュにも必要な書類なのだから。仕方ない、気合を入れて仕上げるためにルークは自分の机に向かおうと書きかけの書類を手に取ろうと腰を上げた。
「どこに行くつもりだ」
「え、逃げたりしないって」
逃亡するとでも思われたのは心外だ。けれど掴まれた手が痛い。逃げないと言っているのにそれは離されなかった。
「ここで書けばいい」
「でもアッシュ、ここアッシュの席だし」
「二人でも座れるだろう。目印なんてなくてもどこでも勝手に座ればいいんだ」
そういえば、一人で座っていたはずのルークの隣になぜアッシュがいたのだろうか、それも、触れるほど近くに。
「?」
「クッションなんて用意しねぇからな」