交差点 その街は、日が暮れてしばらくの時間が経っているにもかかわらず、静まり返るどころか昼間のそれと変わらぬ喧騒に包まれていた。
店先を飾る音素灯が、つい先ほどまで顔を覗かせていた太陽の代わりに街を彩るようになれば、まるで昼間とは違った街のような雰囲気に変わる。それを見計らったかのように街へと足を踏み入れたアッシュはゆっくりとその頭を覆っていた外套をはずした。
ここは物と人が行き交うという意味で世界の中心ともいえる場所、ケセドニアだ。人が行き交えば情報も自然と集まってくる。アッシュが雇っている、そして時には行動を共にする漆黒の翼たちも本拠地はナム孤島だが、ケセドニアには彼らの拠点がありそれは意外と多くの人が知っている。そうでなければナム孤島の存在など知らないアッシュが漆黒の翼を雇うことすら出来なかっただろう。漆黒の翼を初めとして、ケセドニアには表から裏までさまざまな人も店もごちゃ混ぜになっている、そんな街だからこそアッシュは度々この街に足を運んでいた。
砂漠に近いせいか昼間はむっとした暑さを持つこの街も、太陽が傾けば海からの風が吹き込んで過ごしやすい気温になる。そのために日が暮れてからの方が外に出る人々も増え、むしろ人通りは日が暮れる直前あたりからがいっそう賑やかになる。そのためか夕方からしか商売を始めない露天すらある。さらにアッシュにとって明るい太陽の下では目立ちすぎるこの赤い髪も夜の暗さの中ではそれほど目立たなくなるのは好都合だった。どちらかといえば暗い赤をしたこの色は夜の色にまぎれればさらに暗く見え、ケセドニア周辺に多い黒髪と変わらなく見える。普段の昼間、特にキムラスカ方面では目立ちすぎるこの色彩は隠密行動には向かない。キムラスカ・マルクト両国公認で動き回っているルークと違ってアッシュは現在のところキムラスカ王族とも言えず、神託の盾騎士団員ともいえず、何か犯罪を犯して手配されているというわけでもない、けれど表立って堂々と歩くのは憚られるといった微妙な立ち位置にいる。むしろアッシュの存在自体ないことになっている可能性も否定できない。今のアッシュとしてはそのほうが動くのには都合はいい。けれど、実際に街中で動くとなればこの特徴的な色彩は行動の妨げにしかならない。その色彩を厭えればよかった。二つ名のとおり血に染まった紅だと。黒にでも染めてしまえばもっと行動はしやすくなるかもしれない。けれどそれをしないのは。
アッシュの脳裏にいくつ物言い訳がよぎる。捨てたといいながらどこかで捨てきれない自分の中の血筋やその名前、置いてきた約束。そして、最後によぎるのは自分のそれよりも幾分か明るい赤い色。同じ色をまとった自分のレプリカがそのままにしているものを被験者であるアッシュが何故変えなければいけないのかという小さな矜持。それは今更ないいわけだ。一度名前を捨てたときから全てを手放す覚悟があったはずなのに、結局アッシュは捨てられなかっただけなのだ。
視界に入るゆれる赤い髪。そっと触れてそれは手の中をすり抜けていく。
確かにこの色を厭ったこともあった。それは隠密行動がしにくいときとか、最近でも街中でルークたちに見つかってしまったときとか、この色でなければ預言に苦しめられなくて済んだとか。
それでもやはり捨てられない理由は。
(アッシュの色、本当に焔が燃えてるみたいでカッコいいよな)
ふいに脳裏を横切った声にむっと顔をしかめる。
小さいころ、まだアッシュがルークだった頃は良く聞いた賞賛の声は、その名前を捨ててからは「鮮血」という蔑みの言葉しか聞こえなくなった。それは髪の色がどうこうと言う訳ではなく結局存在も名前も全てひっくるめてその上での単なる印象に過ぎない。
この間笑ってそう言ったルークだって、もしアッシュがその首に刃をつきたてるその瞬間すらそう思うのか。アッシュがどれだけの血を流してきたかを知ればどう言うのだろうか。
そう思えば、少しだけ劣化したのだろうルークの髪は元は同じはずのその色から毒が抜けたように、暗いものを連想させることがない。こんな暗い場所の方が似合う自分などよりはよっぽど陽の下が似合う。故意にではないにせよアッシュよりも多くの命を奪ってきたにもかかわらず。
うらやましいと一瞬でも思った自分に小さく舌打ちする。
(あいつの持っているものなんて欠片もいらない、欲しいなんて思わない)
アッシュが、死の預言から逃れるための作り物の体以外に初めから何も求めていなかったはずなのだ。アッシュの預言を背負って死んでいけばいいだけの作り物。姿も形もその存在ですらいつか消えていくはずだった、けれど。
いつから自分達は別たれたのだろう。
それは、ほんの最近のことだったはずだ。少なくともアッシュにとっては。
けれど、ルークにとっては初めからアッシュなんて存在しないものだったのだ。アッシュの中にはずっとルークの存在はあったけれどルークにとってはそうではなかった。初めから別たれていた、のだとすれば。
ずっと、ただ死ぬだけの運命を持たされた、けれど空白の預言を持つルークにどこかでこがれていたことなんて、そんなはずはない。
(あいつが欲しがればいいんだ)
幼い頃からずっと思い描いていた自分のレプリカとはどうもそぐわないルークの姿を思い浮かべながらアッシュは面白くない気分になる。
だから何なのだ。ルークはアッシュのレプリカであり、都合のいい道具の一つだ。漆黒の翼やアルビオールや、ヴァンすら含めたうちの一つ。丁度いいから利用している、それだけでしかない。ずっとそうだったはずなのだ。
ゆるい海からの風がアッシュの髪をかき混ぜる。すこし鬱陶しいそれを左手で撫で付けながらアッシュは人ごみの中を歩き続ける。誰もアッシュのことを気にするものなどいない。この街ではそれが当たり前なのだ。
アッシュは慣れた足つきでケセドニアの路地を奥へと進んでいく。いつ来ても入れ替わりの激しいケセドニアの街並みは迷路のようで、人ごみとあいまって見知らぬところに迷い込んでしまうこともある。それでも慣れればところどころに区画の数字を書いた標識があることに気がつくし、見上げれば変わらぬアスターの豪邸がそびえているので方角を間違うことはない。
いくつか角を曲がってたどり着いた店には看板はなく、一見入るのを躊躇しそうな作りだったがアッシュは気にせずその中に入っていく。入れば一人の男がアッシュをみて小さく笑みを浮かべた。
ケセドニアのどこかにある漆黒の翼の拠点を探すのはそう難しいことではない。足を運ぶたびに場所は変わってしまっていることもあるが必ず店先に目印はあるし、何より足を運ぶアッシュのほうが目立つ。たとえ漆黒の翼の面子がそこにいなくともアッシュの容姿を例えるのは簡単だから後は頼んだ仕事ごとに変えてある合言葉を伝えれば情報の交換はそれで簡単に行える。
今日も漆黒の翼はそこにはいなかったが、三日前に訪れたらしい新しい報告書は手に入れることが出来た。それとは別に情報を二三、そう安くはない金で買う。ケセドニアだけでなく世界中どこにでも情報を売り買いしている場所はあるが、そのほとんどをアッシュは信用していなかった。その点漆黒の翼の力を借りることが出来たのは幸いだ。今日手にいれた情報が有益なものであるかは分からないが、ガセである確率が低いというだけで十分支払った金額と釣りあうのだ。
手に入れた報告書を確認しようと渡された封筒を開ければ数枚の紙束と、その底に見慣れないものを見つけてアッシュは顔をしかめた。
それは小さな一個の指輪だった。古いものなのだろう、少しだけ傷の入った緑の石が擦り切れかけた文字の刻まれた台座に収まっている。
こんなものを頼んだ記憶はアッシュにはない。不思議に思って封筒の中の一番上にある手紙らしきものを引っ張り出せば、アッシュの眉間の皺はさらに深くなる。
『頼まれたアレに関するものと、その遺跡に関する報告書を同封。ついでに遺跡で発見したものをいれておく。何か知らない文字が入ってるから知り合いには買い取り拒否されたのであげるよ。要らないんなら誰かにあげればいいんじゃないか。丁度いい色をしてるし。
昔から風習みたいなもんで、自分に関係する色の宝石を人にお守りとして渡すってのがあってね。今は好きな色とかもありになってるけど、特に瞳の色ってのが『あなたをずっと見守っています』って意味らしいよ。宝石屋のガセかもしれないけどね。緑とか青とかの宝石になると高いじゃないか。
他の件は継続して調べてるからまた』
要するにいらない物を押し付けられたということか。じっとその指輪をアッシュは眺めて、またどこかで売っぱらえばいいかと懐にしまう。書いてあった内容は無視することに決めた。どうして必要ないことを伝えようとするのか、ただ面白がっているだけなのだろう。きっとその文章を見たアッシュが渋い顔をすることまで分かった上でだ。そしてそれをどうするかまでを酒の肴にでもするつもりなのだろう。
何だか面白くない気分のまま外に出る。
そして再び、もと来た道を戻るように歩き始めた。
どこかで聞いた「日の沈まない街」というのはケセドニアをさして言っているのだと、世界中を回るアッシュには思える。バチカルやグランコクマでさえ夜が更けるにしたがってだんだんと静まり返り、夜を生業とするものだけがひっそりとその闇の中で息をしている、そんな感じだ。買い求めた荷物を片手で持ちなおして、見回せば夕方のごった返すような人ごみは消えたが、音素灯に照らされた街の光は夜更けまで消えることはなく、朝になればまた昨日とは違った姿になって生まれ変わる。昼夜を問わず動き続ける街はさすが交易で栄えただけのことはある。
足りない食材や心もとない道具類を露天でいくつか見繕って、それが終わればアッシュには特に用事はない。だが、今夜はここにとどまることに決め宿も確保している。今から宿に帰って休むというのも早い気がして、けれど、目的もなくケセドニアの街をさまよう気にならなかったのだ。。
それは、歩いているうちにしつこい客引きに引っかかりいらない物を買わされてしまったというのもある。いつかは使う道具だといっても今要るわけではない。けれど断り続けるのも鬱陶しくなってつい買ってしまった。それに苛々していたら道を間違えて元の場所に戻るまで時間がかかったり、何だか今日はついていない。時間があるからと街を歩いてみようかと思ったのが悪かったのだ。
ケセドニアにはさまざまな商人が集まる故に思いもよらぬものが売っていることもあり、もしかしたらここにあるはずのないものすら手に入るかもしれない。そんな夢を見てケセドニアを彷徨い歩く観光客や好事家は多い。時間があるのならば、この街を歩くことは決して無意味ではないのだ。けれどアッシュは無駄なことだと切り捨ててしまうことが多かった。例えば、あまり目立ちたくないのも一つ。そして、アッシュの時間は限られてしまっているということが一つ。必要なものは揃っている、本当に後はヴァンを倒して、そして大爆発で死ぬだけだ。多分、思ったよりも時間は少ないはずだった。
けれど、今のアッシュがどう行動しようが、結局アッシュは明日の昼まではケセドニアに足止めになることは決定している。それはアッシュの足として利用しているアルビオールが調整中だからだ。アッシュには音機関のことは良く分からない。一般的な音機関ならば操作することは可能だが、作るとか修理するなどといったことになれば別だ。触ったこともなかった飛行艇ならばなおさらだ。パイロットであるギンジがこまめにアルビオールに手をかけているのは知っている。動力部がもし止まっても浮きさえすれば何とかなる船とは違ってアルビオールは浮遊機関が止まれば地上まで真っ逆様、命はない。それゆえに慎重になるのは分かる。
けれどアッシュは知っていた。時々ギンジは調整と偽ってアッシュを足止めしていることを。ギンジはアッシュに休めと口にはしないし、アッシュも嘘をつくなとも言わない。ただ、妹には甘いギンジがわざとルークたちのいるところで足止めさせるのを除けば、アッシュはそれに関しては特に不満は感じていなかった。確かにアッシュ自身焦っていると思うときがある。けれど自分の意思ではそれをとめることが出来ないのはわかっていた。仕方ないからと足を止めることもアッシュには必要なことなのだろう。
ギンジはアッシュに対してどこに行くのかとは聞いても何をしにいくのかは聞いてくることはない。多分知っていたはずなのに、レムの塔へ行くときすら何も聞かれなかったのだ。あの後各方面から怒られていたらしかったが、それもアッシュには一言も言わず、そしてギンジの態度はずっと変わることはない。はじめはアッシュから取ったその微妙な距離が丁度よかった。もし、ギンジがルークのような言動をしてきたらどんなに便利でもアルビオールを使おうなどと思わないだろう。
あんなのは、一人でいい。
ふと脳裏を横切った顔に、アッシュは荷物の底に沈んでいる指輪の存在を思い出して顔をしかめた。別に自分が欲しくて手に入れたわけでもないそれは、それでもそのまま捨ててしまうにはなんとなくためらわれる。元は公爵家の生まれとはいえ、外での暮らしが長すぎてそれほど大金ではない金額だけれども捨ててしまうのはもったいないと思うし、一流とは言わなくても装飾の施されているそれは少なくとも何人かの人の手が入っているはずだ。それにその緑色は、手紙に書いてあったような自分の色よりも違う色をアッシュに思わせたからだ。
そういえば、しばらく連絡を取っていなかったなと余計なことまで思い出す。
ため息をついて、何かを自分に言い聞かせながら立ち止まって人のいない路地で足を止めた。軽く目を閉じて集中すれば脳裏に浮かぶのはここではない景色だ。見える景色に小さく息をついてアッシュは何事もなかったかのように目を開く。それと同時に脳裏にここではない音が響く。
(アッシュ、何だよいまごろ)
少しだけ不機嫌そうなその声音に、まあいつものことを考えれば当然かと思う。つなげるときに感じる頭痛はかなりのものらしいし、一度それを確認したくてアッシュの目の前でどんな風になるのか見ようとしたら切れられた。つなげる時間だって時差がある以上まちまちだろうし、アッシュは知っていてそれを気にすることはない。最低限、ルーク以外の仲間に被害が出るような場合を想定して、回線を繋ぐ前に視界を繋いで確認はしているから、戦闘中に繋ぐなんてことはしていないのに。
これでも少しは都合を考えてやっているといえばどう答えるだろうか。言わないけれども。
(てめぇの時間に合わせてるほど暇じゃないんだよ)
(……俺がいつでも暇みたいな言い方だな、俺だって、)
何か言おうとしたルークの向こうで野次馬の声が聞こえる。
「ルーク、食べないんだったら片付けるよー?」
「分かってんだろーちょっと待ってくれよ!」
食事中だったということは会話を始める前に気が付いていた。アッシュにとってはだからむしろ問題ない時間だったとも言える。逆にルークにとっては最低なタイミングだったのだろう、アッシュの見えている視界のなかで手をつけられていなかったから揚げが一つ誰かに掻っ攫われるところだった。
(お前も分かってやってんだろーが!)
その声は泣き言のように聞こえた。実際にルークは涙目くらいになっているのかもしれないが別にアッシュにとってどうでもいいことだった。
(そんなことはどうでもいい。今どこにいる)
(グランコクマだよ、ジェイドの用事!)
(それからの予定は決まってんのか)
(そうだよ、プラネットストーム止めないといけないからラジエイトゲートいかないといけないのに、アッシュお前外郭大地下ろすときに行ったんだろ? アブソーブゲートはいったことあるからいいけどラジエイトゲートは行ったことないから情報くれってジェイドが、それと!!)
(うるさい、黙れ。そこにしばらくいるのかすぐにどこかに出かけるのか答えろ)
(う……アッシュが来るって言うなら教える)
(そもそもお前が言わなきゃそれ以前の問題だろうが)
(そういえばそうか……ってだまされないぞ、アッシュなら言わないでも分かるんだろ)
それにはあえて答えずに少しだけ意識を澄ませば、小さく痛いと声が響く。回線を繋いでいるときは酷い頭痛がするらしい、アッシュには関係のないことだったが少しだけ力を込めれば負荷がかかるのかさらに痛みが増すらしいことは以前に実験済みだった。
(他にも用事があるからここを立つのは明後日くらいだってことしか決まってねぇよ。それにお前が来いって言ったって、いまグランコクマにいるんじゃなかったらいけないんだからな。俺だって用事が……ああ!)
また一つから揚げが視界から消えていった。そんなことで悲痛な叫びを上げるなと言いたい気分だったが、大勢の中で自分の食料を確保することの大変さをアッシュも知っていたので言わなかった。お坊ちゃまには過酷な世界なのだ。
(分かった、邪魔したな)
(ほんとだよっ! 来いよ、絶対だからな!!)
その言葉には答えず、アッシュは回線を切った。
ふっと、周囲の雑踏が耳に広がる。外でそれをする時には周囲からも意識を逸らさないように心がけているはずだった。回線に意識を取られて自分の身が危うくなるなんて馬鹿げている。けれど、外からの音を遮断してしまっていた感覚と言うのはアッシュに少しだけの苛立ちを起こした。うまく力が制御できていないだけなのか、もしくはルークとの会話に集中しすぎてしまっていたのか。大爆発により前者の自覚は多少ある、けれど。
「うぜぇ」
何のためにルークの居場所を聞き出したのだとか、それから自分がどうしたいのかだとか、全てが意味のないことなのかもしれないし、何か意味が見出せることなのかもしれないし。そんな中で無理やりに理由をつけようとしている自分とか。
街の中とは対称的に港は他の街と同じように陽が暮れれば人は少なくなる。昼間よりも発着する船が少ないというのもあるが、暗い中での荷物の積み下ろしが嫌われるのが大きな要因だ。数や文字の取り違いが頻繁に起こったためらしいが、それでも人がいないわけではない。行き来する人を避けながらアッシュは港の片隅に停泊してある船に足を向けた。
「アッシュさん」
中からアッシュの姿を目に留めたギンジがハッチから顔を出した。
「どうしたんですか、こんな時間に」
そういわれて時計を見てもまだ十時を過ぎたあたりだ。こんな時間と言われるほどの時間でもない。もしくはルークと同じラインで子供扱いされているのか。
「お前こそまだやってたのか」
そもそも、まだいるかもしれないと思ってここまで来たのに、いなければいいなと思っていたのも事実だった。なんとなく手持ち無沙汰で、なんとなく向かった場所がここだったわけで理由を聞かれれば答えに困るのはアッシュのほうだ。質問に質問で返すことでそれをごまかす。
「ああ、いちど作業終わって帰ろうと思ったんですけど、街の中の露店にですね探してた音機関がうってたから嬉しくてつい。ほら見てくだ……」
きらきらとした目でアルビオール内に招きいれようとするギンジにアッシュが答えるのは一言だ。
「興味ねぇよ」
「……そうですよね、アッシュさんも音機関には特に興味ないですもんね」
とたんにしょんぼりとした表情に変わることに罪悪感はない。もしさっきの言葉に付き合ってその現物を見たとしても結果は同じだからだ。
「それにしてもアッシュさんオイラになにか用事だったんでしょう?」
「……」
その言葉にアッシュは言葉を詰まらせる。用事がないわけではない、けれどここまでくる必要はなかった。もうすでにここにギンジはいなかったという可能性もある。いなければどうせ同じ宿を取っているのだ、宿に帰ればいい、それだけだ。
今日はやけに調子が狂う。
それもこれも、多分この指輪のせいだ。こんな得体の知れないものを持っているから、きっとこれは呪われているのだ。
「明日はグランコクマに飛んでくれ」
一言告げれば、ギンジは何が楽しいのかにっこりと笑った。
「はい、分かりました。じゃあ、一緒に帰りましょうか。迎えに来てくれたんですよね?」
やっぱり、そうだ。今日は厄日なのだ。
どうしてこんなことになっているのだろう。
アッシュは少し考えて、けれどやはり周囲にいる面子を見て考えることをあきらめた。
「いや、よかったです。ちょうどアッシュが来てくださって」
「本当だよね、どうしようかと思ったもん」
きっと考えても無駄なのだ。
目の前にいる大きな悪魔と小さな悪魔が笑顔で言うのが聞こえる。その笑顔はいつ見ても悪寒しかしない。今日は特に、嫌な予感しかアッシュにもたらさなかった。ルークもナタリアもよくこんなやつらと一緒にいれるものだと感心する。ガイなんかはいいカモだろうに、そう思ったけれども、あいにくそのカモはここにはいなかった。
現在アッシュの目の前にはジェイドとアニスが笑顔で立っている。思わず助けを求めてさまよわせた視界の中に映るのは、口を出すでもなくその様子を見守っているティアだけだった。あれはきっと助けにはならない、敵か味方かに分類するなら敵の方に分類するかもしれない。命の危険があるかないかで分ければ無いに分類できるだろうが。
ルークか、ナタリアか、アッシュがルークたちの中で自分に危害を加えない人物にカテゴリーしているのはこの二人くらいだった。なのに時折ルークは、自分が信用しているからとその中にアッシュをぶち込もうとする。特にガイに対してはアッシュはしたくはないのだが警戒していた。あと他の三人は少なくとも命の危険は無いだろうと思っているレベルだ。
けれど、敵は敵だ。警戒してしすぎるということは無いだろう。
なんせ現在アッシュの目の前にはその敵しかいないのだから。睨んでも効くわけがなかった。
それはさておき、今の状況だ。
アッシュはただグランコクマに立ち寄っただけなのだ。
アルビオールはマルクト・キムラスカ両国が港への寄港を許可しているために、たとえアッシュの乗り回している三号機でも自由に港への入港ができる。アルビオールは世界で二つしかない貴重な浮遊機関をつんでいる。そのため、空から着陸できる専用の場所はどこの街でもあるはずもなく、代わりに一般船籍として港に寄港するのだ。そのほうが珍しい飛行艇を見に来る野次馬も減り、軍が警備もしてくれるから操縦者兼整備士であるギンジたちは楽なのだとか。特に隠れて行動しなければいけないとき以外はアッシュも港を利用させてもらっている。それゆえに、今日もアッシュはいつもどおり普通に港からグランコクマに入った。
けれど、そこを降りて待っていたのは笑顔でアッシュを向かえるジェイドとアニスだったのだ。
そう、ただグランコクマへ足を踏み入れただけ、それなのになぜ敵地に入ったような気分にされているのだろうか。
現在アッシュがいるのは場所はグランコクマの港に近い宿屋だ。アルビオールから降りるや否や、笑顔でジェイドとアニスに迎えられたアッシュはそのまま宿屋の一室へ連行された。それもご丁寧にジェイドの部下が港から各所に配置されているのをアッシュは見てしまった。逃がしてくれる気はないらしい、そのことを感じ取ってアッシュはおとなしく宿屋まではジェイドに従った。途中で港を使わなければ今頃普通に街を歩けていたのかと思ったがやはり結果は同じだろう。マルクト軍が領地内を飛んでくるアルビオールを見逃すわけが無いし、この様子では街の入り口全てが監視されていそうだ。
確かに、昨日ルークは会話の中でジェイドがアッシュに用事があるといっていたし、グランコクマへアッシュが来ることも昨日の会話で予測されたのだろう。ジェイドにとってはいいチャンスだったのかもしれない。アッシュもルークたちの行動を邪魔したいわけではない。自身も宝珠の探索に何度か訪れ、簡単なマッピング程度のものは持っているし、それを渡すつもりもあった。
けれど。
「本日どうしてもはずせない用事がありまして、ルークに。なのにルークは……」
大げさにため息をついて告げたジェイド言葉の意味がアッシュには分からなかった。
分かりたくもなかった。特に目の前へこれ見よがしに置かれている物体とかも。
目をそらそうとしても、そらせば悪魔と目が合ってしまう。
仕方なしにアッシュは目の前の物体に目を向けた。
見たことのある衣装の上に広がる、赤い色をしたそれ。
ジェイドの言葉と、目の前のものを総合すればなんとなく分かりたくないけれど分かってしまう自分の判断力が今はいらなかった。
「どうしようと困っていたところにあなたが現れたのですよ。いや、とても困っていたのでものすごく助かりました。何事も無ければ夕方には帰ってくる予定のルークがアルビオールの故障で帰ってこれないそうなんですよ。予定がある、とちゃんと伝えていたのに悪い子ですね」
「んでね、昨日ルークがもしかしたらアッシュ来るかもっていってたから待ってたのよ。よかったー先にお断りしとかないで!」
アッシュの目の前に置かれたものは、久しく来たことのない正装と、今まで必要を感じたことのない少し明るい赤色で作られた鬘だった。
これをどうしろというのは聞かないでも分かった。けれども今日来なければ良かったと思ったのはこの瞬間ではなく、悪魔達の顔を見た瞬間なのでそれほどの驚きは無かった。とりあえず何とか顔に出さずに済んだ、くらいだろうか。
「同じ顔だといっても誰もが髪が伸びるのが早いで納得するわけではないですからね。
それに、先方はルークがレプリカであることも知っているようですし」
先方って何だ。アッシュには嫌な予感しかなかった。
「簡単なことですよ。ちょっとだけルークの代わりをしていただきたいだけなんです」
アッシュはジェイドの放った言葉を理解するのに数秒を要した。
俺が、レプリカのふりをする?
本来の用途は逆のはずだ。ルークは自分の代わりに作られたレプリカのはずなのだから。ルークがアッシュの代用になることはあっても、アッシュがルークの代用になることなどありえなかった。
「レプリカの、代わり?」
思わず聞き返してしまったアッシュは、笑顔でうなずかれて事実であることを再確認させられてしまった。話の流れと短く少し明るい赤い色の鬘でなんとなく予想はしていたが実際にそれをしろといわれると耳を疑いたくもなる。
聞きたくない話を聞けば、ルークに会いたいといっている人がいるらしい。けれどルーク本人はナタリアとガイとともに別の用事ではるか遠くケセドニアいて、約束の時間までに帰ってこられる予定だったのにアルビオールの不調で遅れてしまうと。どうしようと困っていたらアッシュが来たからよかったね☆ という話にいつの間にかなっていたようだ。来るかも分からないアッシュのために部下を配置してまで待っていたジェイドに恐怖すら感じる。
「いやいや、一応グランコクマに近づいてくる不審なものは常時見張っていますし、アルビオールの機影を見たら報告するようにしただけですよ。そんな無駄なことを私がするわけ無いじゃないですか」
その言葉の通り、ジェイドが無駄なことをしないのは分かっている。分かっているからこそアッシュにルークの代わりをさせようなんて一番無駄に思えることに手を出そうとしているのかが分からない。面白いから、それだけだろうか。
「正直に話して断ればいいだろうが、そもそも俺には関係ない話だ」
「そうですよね、アッシュあなたには断る権利はありますが……」
断ってしまえばいい、アッシュ以外でもこの話を聞けばみなそう思うだろう。話を受けた張本人がいないのだ。外郭大地を降ろすとか瘴気を消すとか、世界規模の話だとか人の命に関係することならアッシュだってルークの代わりとかそんなことにこだわったりはしない。断る権利があるのも当たり前だ。しかも、今夜遅くにはルークも帰ってくることができるらしいのに先延ばしにするとか、やめるとかすればいい。
もしかして、ふと思い至った考えにアッシュは顔をしかめる。ルークは幾度と無くアッシュに「ルーク・フォン・ファブレ」を返そうと躍起になっていた。今回もその一環でルークが帰ってこないのはわざとか、そう一瞬思ったがだとすればナタリアは残していくような気もするし、昨日だってはっきりとグランコクマへいくとも言ってないし、来いとはルークが言ったが時間などの指定もなかった。計画ならば杜撰すぎる。
ならば本当に今ルークがここにいないのはただの事故なのだろう。
そして、アッシュが巻き込まれたのもただの偶然で。
何だ、昨日から何か運のめぐりが悪くないか。本当にあれに呪いがかかっているかのようにアッシュはついていない。
「そもそも、お前ら俺がそうですかなんて受ける話じゃねぇことくらい分かってんだろうが」
それをいえばジェイドがいやに神妙な顔つきになった。
「いえ、残念なことに、これはピオニー陛下からのお誘いなのですが」
「断る」
グランコクマでルークに会いたいという人がいてそれがジェイドの口から漏れる。その時点で最高権力者の影はちらついていた。ならばその権限で先延ばしにすればいいものをそうしないのは何故だろうと考えて頭が痛くなる。
そうだ、あの皇帝はジェイド以上に面白いからやろうの言葉が良く似合う。その名前が出た時点でアッシュはこの誘いを断る権利を失ったと考えていい。断ったところでマルクトとキムラスカがまた開戦するとかそんな国交悪化に発展することは無いだろうが、一応キムラスカ王室の血を継ぐものとしては隣国の最高権力者に面と向かって逆らうことは本能が拒否する。それ以上に、直接あの皇帝と関わりたくない。
そんなアッシュの中の葛藤を見越してなのか何なのか、ジェイドはさらりとアッシュの拒否を無視する。
「ルークに会いたいという方はですね、マルクトの先王の相談役をされていた方で、ぜひとも外郭大地を降下させたルークに会いたいとおっしゃられているのですよ。陛下が気軽にルークにかまっている手前、ルークに会うのは簡単だと思われているようですね」
アッシュの言葉は軽く聞き流されてしまった上に何かまた面倒くさいことを言っていないだろうか。アッシュに拒否されるのは予想済みなのだろう。ジェイド相手に睨み付けても全く効かない。だからこいつらは苦手なのだ。
「いないものは仕方がないだろう、さっさと断ってしまえ」
ルークに会いたいというのだからどんな奴かと思えば、マルクトの重鎮らしい。先王時代に皇帝の右腕となり働いた人物で、アッシュでさえその名前に覚えがあるほど名の知られた人物だ。敵国であったはずのキムラスカに名前が届くということは、それが要注意人物であることに他ならない。ホド戦争、そして皇位継承の際の内紛で身を引いたと聞いているが、いまだに彼の意を汲むものはマルクト国内に点在し、彼自身は現在マルクトの要職には就いていないが、その伯爵という地位と、前王時代のコネクションは現マルクト王でも無視できないのだろう。断ることも出来るが、断らない方が無難だという相手だ。
さらに、ルークはレプリカであるがその事実はいまだ正式に公表されてはいない。建前上はルークはルーク・フォン・ファブレであり、どこへ行ったとしてもそれなりの扱いをされている。マルクト王であるピオニーがルークを呼びつけたとなると、表から見ればマルクトとキムラスカの要人が会っていると見られても仕方がない。きっと実際はそうでないにしてもだ。そして、伯爵はルークがレプリカであると知っている。ジェイドはピオニーが気軽にかまっているからといったが、レプリカであるということの方が多分大きいのだろう。ルークはその存在自体が政治的道具としても科学的見地からもいいネタに違いなかった。
それを思うとものすごく不愉快な気分になる。ルークの方が自分より価値を見出されているせいか、それとも珍しいモノとして他人に見られているせいか。それとも。
ルークはこの話を聞いたときに是非にと断らなかっただろう。たとえ自分が珍しいモノとして呼ばれたと分かっていてもそれでも笑っているに違いなかった。レプリカも人であることを証明するため、そしてルーク自身を認めてもらうため。
ルークが努力しているのは知っている。アッシュもそれを知っている。けれど、ルークがルークとして認められていくことが不快で、そして当然だとどこかで思う。
ルークはアッシュのレプリカなのだから。
「この話は俺には関係の無いことだ」
姿かたちが同じというだけで代わりになんてならない。そんなことはアッシュが分かりすぎるほど分かっている。自分達を知らない人にとっては、姿かたちが同じだけで変わりになってしまうということも分かりすぎるほど分かっていた。
代わりになることが出来る。
当然だと思っていたそれが無性に癇に障る。アッシュは小さく舌打ちした。
ルークがその伯爵に会う会わないで、国交に関係することはピオニーが間に入っていることでないだろうと思う。けれども、問題はそこではない。
どうしてそれが自分に回ってくるのかということだ。
「まあ、どうしても嫌だというのなら仕方ありません」
アッシュはまだ何もいっていない。
「直接陛下に断りに言ってください」
その神妙な顔つきに比べてその言葉は楽しそうだった。
顔をあわせたのはほんの数回だが、アッシュはあのマルクト王が苦手だった。聞けばルークもそうだという。あのつかみ所のなさといい、真面目なのか不真面目なのか分からない態度もどう反応していいのか分からない。けれどそれは周りに対して業とそうしているというのが分かるからこそ、いわば目の前のジェイドより性質が悪い。あの王にしてこの部下ありといった感じだ。
別にルークがこの件でどう思われようとアッシュはかまわなかった。自分が知っているルークがあればそれでいい。ピオニーの顔が立たないといわれればもっとどうでもいい。そもそもアッシュは関係ないのだから。
そこまで考えてふと気がつく。
「ピオニー陛下はあいつがいないことを知っているのか?」
「もちろん、アッシュが来ていることも報告しました」
それも別に予想外の事態ではなかった。アッシュとルークを知らない今回会うだろう人物ならともかく、ルークのことをいじり倒しているだろう皇帝は中身がアッシュだと分かるだろう。アッシュはルークと同じ反応を出来る自信は無い。それ以上に、普段ルークがこういうときにどういう反応をしているのかをアッシュは知らないことに気がついた。
だから出来ないという言葉をアッシュは飲み込んだ。なんとなくそれを告げることは負けた気分になるような気がする。
「さあ、あと二時間ですから準備お願いしますね」
あれだけ断ったのに決定されているらしい。アッシュも多分逃げられないだろうなという雰囲気は港でもうすでに気がついていた。
このまま行って、自分が被験者だとばらしてやろうか、けれどそれはアッシュがキムラスカ王族を継ぐものだと言っているようなもので、アッシュの意図に関わらずピオニー側だけでなくキムラスカ方面へ飛び火すればナタリアにも迷惑がかかる。
アッシュは自分の立場もめんどくさいものだと再確認させられるだけだ。
何だかいろいろなことが面倒くさくなって、アッシュは目の前の短い鬘に手をやった。ここでごねても結果は一緒だ。だったらさっさと終わらせて出て行ったほうが結果的には早く終わる。ただ、アッシュの疲労がたまるだけで。直前になったらあいつに回線をつなげて繋げっぱなしにしてやると心に決めて、さらりとした手触りのその鬘をじっと眺める。
こんな色だったかと後ろ髪を一房掴んでみる。その手触りは自分の髪に似ているようで少しだけ違う。作り物だからといえばそうだろう。けれど、その色を見ればルークの色だと分かるし、手触りもまるで本物の髪と変わらないのだからかなり手が込んでいるといえる。
「服はルークの寸法に合わせているので多分合うでしょう?
便利ですよね、完全同位体って。普通のレプリカと被験者なら七年も経てば生活環境の違いで多少なりとも差が出るはずなのですが、一度研究させ……」
「うるせぇ」
「おや、ルークが身長が伸びないのはアッシュのせいだなんて言っていたことを科学的に伝えただけですよ?」
そんなことを言っていたとは知らなかった。アッシュも多少持っているコンプレックスをこんなところでからかわれるのはやはりルークのせいだ。そうだ全部あいつのせいなのだ。
同じ顔でなければこんな茶番を思いつかれなかっただろうし、本当に突然起こったことならばこんなにきちんと用意されていたりしないだろう。
やはり仕組まれていたのかと思わないでもない。疑問はある。
目の前のこの鬘の出来具合から昨日今日作ったものではないそのことくらいは分かる。服はもしかしたらルークの私物かもしれないが、鬘は必要ないはずだ。
「おい、本当にわざとじゃねぇんだろうな」
ぐっと鬘を握り締めてアッシュはやりどころの無い憤りを隠さない。
ジェイドはそんなアッシュの視線を逆に面白そうな目で見やると、そうですね、私もそう思いたかったですねとこともなげに呟いた。
「ルークが今日間に合わないと陛下に伝えたときに、出てきたので私が驚きました」
そう、全く驚いていない顔でジェイドは真顔で言った。
「いつか入れ替えて遊ぶんだといってましたよ」
アッシュは一瞬あの皇帝に殺意が沸いた。遊ぶ気満々じゃねえか。今日のこともルークが間に合わないというのならば取りやめにすればいい。それがアッシュが現れたとたん決行すると決めたのならば、半分遊んでいるとしか考えられなかった。
「ところで、今日の予定はいつから決まってたんだ」
今日ルークたちがグランコクマに来ていることが知れて、それで急遽予定が組まれたのならば仕方ないと思った。
一度くらいはあの皇帝の顔を立ててやるのも悪くはない。
だがしかし、その問いにジェイドはいい笑顔で答えたのである。
「一週間ほど前からです」
途切れない人ごみと喧騒の中、ルークは突然の頭痛に頭を抱えた。
思わず足を止めたルークにガイが小さくアッシュかと声をかけてくるのに何とか頷く。歩くことは出来る、けれど人ごみの中では周囲に気を配ることまでは難しい。アッシュはルークの都合なんていつだって無視してくる。結局回りに迷惑を掛けてしまうのはルークだけで、なんとなく理不尽なものを感じるけれども、いつだって繋がるその瞬間はそんなことを思う暇なんて無い。
いつまでたっても慣れない痛みなのに、その痛みを感じれば自然と心は浮き立つ。周りから見れば苦しんでいるのか喜んでいるのかわからない表情をしていることだろう。現にルークに手を伸ばしかけたガイがどうしようか迷っているのが見える。
だって仕方ないじゃないか、ルークは苦痛にうめきながらそう思った。ほら、もうすぐ声が聞こえる。自分だけに聞こえる声が。
『てめぇ、今どこにいやがる』
大方の予想通り、一言目は耳が痛くなるような怒声だった。いや、実際に耳に聞こえているわけではないから耳が痛いわけではない。少しだけ頭痛は増したが。
まず居場所を確認するのはいつものことだった。それにしたっていつもと様子が違うアッシュの様子にルークは首をかしげた。
「ケセドニアだけど」
毎日がお祭りのような賑わいを見せる街は世界でもそうはない。さらに特徴的な露店の並びを見れば一目瞭然のはずだった。繋がっているときはルークの聞く声も見ている景色もアッシュに伝わっているはずだ。その逆はほとんどないのは残念なことだが。だから聞かなくとも分かるはずなのだ。アッシュがルークたちの居場所を確認するのは自分が効率的に動くためだといっていた。だから最近はよく回線をつなげてくるようになった。最終的な目的が同じだから仕方ないと誰に言ったのか、その言葉を聴いた覚えがある。ならば一緒に行動すればいいのにそういうと怒られた。何で怒られないといけないのかわからない。
今日だって、なにやらアッシュは初めから喧嘩腰だ。最終的にそういう口調になってしまうことはやっぱり多いけれども、以前ほどそんなことは少なくなったと思っていたのに。昨日ルークが食事中に繋げられて半ば八つ当たりしていたのを実は怒っていたとか。でもあれは仕方ない。大人数での食事は戦争なのだ。
いつだってアッシュの機嫌が良かったときなどなかったような気がするけれども、そういう口調でこられれば、なんとなくルークの口調もそれを受けてしまう。
「アッシュこそどうしたんだよ、こんな昼間から。なんかあった?」
最後に話をしたのは昨日のことだ。それから一日も経っていない間にまた繋げてくるなんてことは今までなかった。アッシュに何かあったのだろうか。少し不安になる。それにしては機嫌が悪そうだった。
『何か?』
やっぱりアッシュの機嫌は悪そうだった。
「まあ、アッシュからですの?」
頭を抱えているのだから普通はそれを心配するだろう、けれども今やそれを心配してくれるような人はガイくらいしかいなくなった。原因はアッシュだ。今だってナタリアはアッシュ目当てでルークに近寄ってきらきらした目で見つめている。
時折代わりたそうにしているナタリアに、これは譜業の通信回線じゃないんだといいたい。代われるものなら代わってやりたいと思うことは頭痛が始まる一瞬だけだ。これは自分だけの特権なのだ。それを言ったりはしないけれども。
「今どこにいらっしゃるの? わざわざルークに連絡ということは何かあったのでは!」
『お前がグランコクマにいるといったんだろうが、なんでケセドニアなんかにいやがる!』
外側と内側とで大声で騒がれればルークも訳が分からなくなってくる。ええと、自分は何を聞けばいいのだろうか、何を答えればいいのだろうか。
確かに昨日はグランコクマで用事があるから二三日滞在するとアッシュに言った覚えはある。ジェイドの用事でしばらく滞在するのだからジェイド以外は特にグランコクマに用事はない。だからルークはルークの用事でちょっと出かけただけだ。けれどもいまそれを怒られる理由がわからない。今日も夕方にはグランコクマに戻れる予定だったのだけれども、アルビオールの調子が悪いとかで出発時間が延びてしまった。けれどもう少しで出発だ。今日中にはたどり着けるだろう。本当はちょっとした用事が夕刻からあったにはあったのだが、ジェイドが何とかしてくれるというし、明日にでも頭を下げに行かなければ行けないのだけれどそれはルークの問題だ。十分間に合うと思っていたのにこんなことになって自分の運の悪さに申し訳ないという思いがいっぱいだが、起こったことは仕方がない。ノエルに怒っても仕方が無いし、アルビオールより早い交通手段も無い。ジェイドに怒られるならまだしも、ケセドニアにとどまっていることでアッシュに怒られるいわれは全く無いはずだった。
何で怒っているのだろう。ケセドニアにいくことは昨日にはすでに予定に入っていたし、ジェイドもかまわないといったし、ルークとガイの用事で半日で戻ってくる予定だったのでグランコクマに滞在するというのは間違っていない。そこまで細かい予定を聞かれなかったからアッシュに答えなかった。それだけだ。ただ、ルークだって逐一自分達の行動をアッシュに告げているわけでもない。アッシュだってそうだ。ルークたちの居場所を聞いて、自分が何をしているかを答えてくれないことなんてざらだ。昨日だって聞くだけ聞いて答えてくれなかった。いつグランコクマに来ると分かっていれば出かけなかったかもしれない。そうだ、アッシュが悪いのだ。
アッシュが少し強い口調で話しかけるたびに頭痛は増すのだ。理不尽な痛みにルークはちょっぴり涙目になった。俺が何をしたっていうんだ。
「えっと、アッシュ今どこにいるって?」
グランコクマにいないことを怒っているのならグランコクマにいるのだろう。けれど、別に約束をしていたわけでもなく、アッシュがルークと顔を会わせたいとかそんなことを言われたためしもなく、いつもルークと不満を隠していないのにこんなときだけ何故いないからと怒られるのだ。
『お前がそんなところでちんたらしてるから、俺がお前の尻拭いをさせられ……また後で繋ぐ。後で覚えてろよ』
唐突に始まった頭痛は唐突に消えた。
アッシュが何の用でルークに繋いできたのかは結局わからなかった。ただ、後でという言葉だけがルークの心に引っかかっていた。アッシュの迷惑になるようなことを何かしただろうか。覚えの無いルークは頭をひねる。
それが何なのか判明したのはアルビオールの修理が終わって乗り込んでからのことだった。
グランコクマの夜は闇に包まれることはない。
音素灯の明かりがグランコクマの街に張り巡らされた水路に反射してきらきらと光る。確かにこの幻想的ともいえる風景はきっとここだけだ。バチカルの夜景もこれにはかなわないだろう。
頭を締め付けていた鬘をむしりとるようにしてはずしたアッシュは、窓から入り込む少し冷たい風に目を細めて外を眺めた。先ほど確認した時間はそれほど遅い時間ではない。けれど、昼過ぎにグランコクマに足を踏み入れてから何日も経ったようなそんな感覚に襲われる。
昼過ぎ、港でジェイドに捕まって、夕方から今度は王宮に連行された。
「さすが本当にレプリカとオリジナルは同じ顔をしてるんだな」
数回とはいえ顔を合わせただろうに、白々とそんなことを言う目の前の男にアッシュは文句は言えなかった。なんせ彼はこの国の皇帝だ。恐れ多いというよりはあとあと面倒くさいから文句は言わないだけなのだ。とても言いたいのだけれども。
それに、同じ顔だなんてそんなことは当たり前だ。それを分かってこんな茶番を仕掛けようとしている張本人がよく言う。もし、アッシュがこの後の会談でルークではないとばれたときに一番大変なのは目の前の皇帝のはずだ。ばれても余興でごまかすつもりなのだろうか、ピオニーならばやりそうな気もしたが、そんなことはアッシュのほうがたまったものではない。
「ほら少しは愛想良くしておかないと、後々キムラスカが困るかもしれないぜ?」
それになんてものを盾に持ってくるつもりなのか。キムラスカを離れた身であってもアッシュはやはりキムラスカの人間であるという意識はある。どこにいたってそれは変えられなかった。そこをついてくるとは卑怯だ。
「緊張してるとでも言っておけばいいでしょう?」
普段のルークがこういう場でどんな言動をしているのかは知らない。アッシュは常識的な言動に勤めてはいるのだが、そのたびに目の前の偉い人たちの反応が微妙だ。
「うーん、やっぱり違うな。ルークはもっと警戒心が思わず漏れてる小動物的な。なあ、ジェイド」
「まあ、変に演技されてぼろを出されても面倒ですし、いいんじゃないですか。キムラスカの王族はマルクトに好戦的だということで」
比べられているのかけなされているのか、どちらにせよ遊ばれていることには変わりは無い。遊ぶなら他人を巻き込まないで欲しい。
それに、ルークとの微妙な差異を口にされるとなんとなく面白くない。
自分達は少なくとも見た目は全く同じであるはずだった。いったいこの世界で何人が自分とルークとを判別できるだろうか。同じ服装、同じ髪型をして並べればほとんどの者が判別することはできないだろう。自分達は双子ではない、同一なのだから。意図的にルークのふりをしたこともある、その時も誰もアッシュをルークだと疑いもしなかった。そうだ、七年前入れ替わったときも疑われることすらなかったのだ。
今回だって何の問題も無い。
ただルークの振りをして過ごすだけだ。
それだけだったはずだった。
セッティングされていた会食は予定通りに始まった。
それほど大きくない部屋にピオニーとアッシュと警備のマルクト兵が数人、その中にジェイドが含まれているのはルークの友人でもあるという触れ込みからだろうか。正直うそ臭いが本人達は至って真面目にそのことを口にするので本気なのかもしれない。
遅れて部屋に入ってきたのは小柄な老人だった。ピオニーについでアッシュへも軽く挨拶をしゆっくりとした足取りで用意された席に着いた。それは普通の動作に見えたが、そもそもこの面子自体が普通ではない。一国の皇帝に隣国の明らかに王家の象徴を持つ青年、そして精鋭の警備の中に皇帝の懐刀が一人。それに何も臆することなく普通でいるのはやはりピオニーが話を断れないだけの人物なのだろう。
その姿にアッシュは悪い印象は持たなかった。国の上層部なんて皆腹に一物抱えているものだ。むしろそのくらいで無ければやっていけない世界だということは知っている。少し前まで敵国だった国の王族をわざわざ招こうなんてよっぽどの物好きか、自分の力を誇示したいか。
(大丈夫、食べられたりしませんよってジェイドが言ってたからアッシュそんなに睨むなよ)
(ここで相手を睨んだりしたら国際問題じゃねーか、そんなへまするか)
(ふーん、でも見たかったなアッシュが俺のふりしてんの……あ、無視かよ)
脳裏に外から聞こえてくる声とは別の声がする。代わりをさせられてむかついたのと、あまり適当なことを言って後でばれて国際問題にでもなれば面倒なので、ユリアシティでのときのように視界ごとルークにも繋げてしまった。今はルークも意識があるから頭痛で唸っているだろうが自業自得だ。存分に苦しめとすら思う。
(ひでぇ、痛くて動けないんだぜ)
(アルビオールにはもう乗ってるんだろうが、何か問題でもあるのか?)
(……ありません、すいません。でも、これやろうっていったの俺じゃないし! うらむんならジェイドとピオニー陛下を……)
文句を言うルークの話を聞き流しつつ、アッシュは現実の会話も適度にこなしていく。どうせ上っ面だけの会話だ。ルークは政治的なことはまだ深く関わっていないし、別件でそこまで手が回らないのが残念ですと告げればそれ以上は突っ込んではこない。別件というのはヴァンの件だがこれも上層部だけに知られている話で、極秘事項に値するものだ。話せないのだと暗に皇帝が言えばそれに対して語らなくて済む。ルークたちとアッシュでいろいろやってしまった外郭大地降下とか瘴気の消去とかそれらはアッシュとルークの超振動といういわば隠されるべき力を使ってなされたものであるから、本当にごく僅かな者しか真実を知ることは無い。その他の多くの人が知っているのは両国で話し合って作られた偽の事象だ。例えば外郭大地の降下もパッセージリングの存在は明かされたが、降下は古代のパッセージリング制御装置でのみ行ったとされ、ルークたちは両国の代表としてそれを操作しただけとされている。瘴気も両国が譜業装置を使って第七音素を利用して消したとかそういう感じだったと思う。
もし、目の前の人物が自分の情報網を使ってアッシュとルークの力の存在を知っていたとしても、マルクトの皇帝のいるこの場でそれを言ったりはしないだろう。
外郭大地降下のときの立役者であるルークと話をしたいそういう建前であっても、多分その意図は別のところにあるはずだとアッシュは思っていた。
「大きな危機を乗り越えて、マルクトとキムラスカはよりよい関係を築いていけると私は思っています」
ありたきりな、そして無難な台詞だけを選んで答える。脳内でルークがしきりに「アッシュうまいこと言うなー」と驚きの声を上げている。
(伊達に長い間神託の盾騎士団にいたりしねぇよ、お前だって社交辞令とか覚えさせられただろうが)
(う……一応、使う機会無かったから使い方わかんねーんだよ。だって、こないだまで知らない人とほとんど会ったことなんてなかったし……ごめん)
何故そこで謝るのだと、目の前にいれば叱っていただろう。けれど口にも表情にも出すわけに行かず、アッシュは言葉を飲み込む。ルークの意思ではどうにもならなかったことも、もちろんアッシュの意思でもどうにもならなかったこともある。だからといってそれで全てが許されるわけでもないことも。
ただ、ルークがアッシュに対して謝らなければいけないことは実はほとんど無いのだ。ルークはアッシュに対して驚くほど何もしていない、それに気がついたのもそう前の話ではなかった。けれど今までのわだかまりが消えないうちはなかなかそれを認めることは出来なくて。
(そんなことはいい、とりあえず矛盾が無いようにちゃんと相手の話を聞いとけ)
(うん)
(あと、俺が違うことを言っていても遠慮なく言え、後で困るのはお前だ)
(……う、努力する)
(言わなきゃ適当なことを言うからな)
その後も、街の様子や預言についてなど時折ルークの言葉を聞きながら話は一見和やかに続いていた。本当にマルクトにいることが珍しい他国の王族に顔合わせをさせて欲しかったのか、ならば何故ナタリアを呼ばなかったのか、アッシュは警戒を解くどころか絶やさぬように相手の言葉に耳を向ける。
「やはり、屋敷のなかにばかりこもっていては駄目だと最近になって思うよ」
そう言った彼はゆっくりとテーブルの上で手を組んでアッシュを見た。
「情報だけは絶えず入ってくるのに、それをこの目で見ることが叶わないとその情報が本物であるか偽者であるか判別が出来なくなることがあってね」
「私も世界中を見て回っていろいろなことを知ることが出来たのは得がたい経験でした」
適当に話をあわせながら、彼の話の意図を探る。それは神託の盾騎士団でもずっとやってきたことだった。
「例えば私は『レプリカ技術』というものを知っていても、実際にレプリカを見たことは無かった。けれど今は世界にレプリカたちがあふれている。昔の隠されたものではないそれを私もちゃんと見ておきたかった、といえばルーク殿は怒られますか?」
やはり、彼はレプリカとしてのルークに会う口実を欲しかったのだ。彼の言うように情報だけで言えばルークはレプリカで、今世界で一番長く生きている。今の世界に広まったレプリカたちの処遇を考えるに当たって、書類上最年長であるルークは体のいいサンプルに見えるのかもしれない。ただ、ルークが正式にキムラスカの公爵子息であるとされているだけにそれを誰も言い出せないだけで。
(いいよ、俺がレプリカなのを隠したって意味が無いじゃん。俺も聞かれればレプリカだってちゃんと答えられるよ。それに、俺の印象がいい方がレプリカ全体の印象もよくなるかもしれないじゃん)
ルークのその言葉はごく普通の声音に聞こえた。けれどもルークがはっきりとこう発言できるまでにいろいろあったことはアッシュも知っている。なんせ発端は自分なのだから。
アッシュは一息おくと慎重に言葉を選ぶ。
「いいえ、私がレプリカであることは間違いありませんし、あなたが知っておられるように特にそれを隠しているわけでもありません」
そんな当たり前なことを言うのに、アッシュは今までになく緊張を感じていた。自分がレプリカを見たときにどう思った? それを思い出そうとして思い出せなくて、ただルークを憎んだことだけしかもう記憶に無い。アッシュにとってレプリカとは憎しみの対象でしかなかった。けれど、ほかの人にとってのレプリカとはどんな存在なのだろうか。レムの塔で見たレプリカたち。意思の薄い瞳をした彼らはアッシュの目にも不気味に見えた。ルークと同じレプリカだとその時は欠片も思わなかったのではないか。ただ作られてしまっただけの彼らに憎しみなど覚えなかった。むしろ覚えたのは哀れみだ。中途半端な自我を持たされた彼らをこの手で消そうとした。
アッシュがただの被験者である以上、レプリカの気持ちはわからない。本当の意味でのその問いには答える事が出来ないのだ。
「本当に、君はレプリカなんだね」
感心したような声音にアッシュは少しだけ目を伏せた。
初めからそう思いながら会話してきたのだろう、けれど目の前にいるのはレプリカではない。ただの被験者だ。でも、もし事故など無くルークがこの場にいたとしても同じ感想を持っただろうとアッシュは思う。もし二人を並べてどちらがレプリカかをたずねればほとんどの人が答えられないだろう。当たり前だ、レプリカはその生まれと構成する音素が違うだけ。人を人たらしめる脳であり体は全く被験者と変わらない。だからこそ、突然に作られてしまったレプリカたちへの対応を各国は頭を悩ませざるを得ないのだ。
ただのモノであれば簡単だった。
作られたものだ、という紙の上での情報だけ知ったならばレプリカたちはただのモノだった。生まれたばかりの彼らはその姿と刷り込みで得た情報がつりあっていない故に不気味に映る。
けれど、ルークを見て誰が人でないというだろうか。ルークと顔を合わせた当初アッシュが苛ついたのも、ルークがアッシュの想像していた道具ではなかったからだ。自分の都合のいいように動く駒にすらならなかった。それは彼が「ルーク」という一個体だったからだと今では思う。
けれど、ただのレプリカであるという情報としか見れないものは、ルークを見ても人でないというかもしれない。以前の自分のように。
「とてもレプリカには思えないけれど」
そうだ、演技する必要のないほどルークは「ルーク」であって。この場にルークがいたとしても、レプリカにはみえない、と誰もが言うだろう。
自分が思ったように。
(……これってほめ言葉なのかな? 疑われてるのかな)
(まさか被験者が来てるとは思ってないと思うが……まあ、七年も生きてりゃどこのガキだって一人前のしゃべりができるだろう、普通)
(ひっでーの)
もしかして疑われているのかとはアッシュも思った。けれどそれを証明できるものなんてどこにもないはずだ。音素振動数すら同じなのだ。なるべくルークらしい言動を心がければいいだけのはずだ。多少のミスは緊張していたということで流そう。アッシュはここを乗り越えればあとはルークに丸投げすればいいだけなのだから。そのために今回線を繋げたままにしているのだ。
(あ、でも俺最近まで自分がレプリカだって知らなかったからレプリカらしくないってのはそうなのかもな)
そういわれれば、アッシュが言うまでルークはそれを知らなかったし、そもそもレプリカらしい言動というのがどういうものなのかアッシュもよく知らなかった。
「私は他のレプリカより長く生きていますし、環境にも恵まれました。世界のレプリカたちも生活環境さえ恵まれれば被験者との差異はすぐに埋まるはずです。そのための施策を国を挙げて行っていますので」
ひとまずそれらしいことを言っておけばいいかと聞きかじった情報を言ってみたが、特にルークから違うと言われなかったのでこれで問題ないのだろう。
(レプリカたちのとの約束のことは、まだちゃんと広めてないんだよな)
ぽつりとつぶやいたルークの言葉にアッシュはそうだなとつぶやき返した。
レプリカの命を使って瘴気を消したことをまだ世界には公表していなかったのは、レプリカというものが人々の間に認識されていなかったせいだ。今の状態で公表してしまえばレプリカの意思は届かない。まだほとんどの人が「作り物のヒトモドキ」だと思っているのだから。人の意識から変えていかなければいけない、これは和平以上に難しい問題なのかもしれなかった。けれどしなければいけないことだ。アッシュが言葉にしたのは理想ではあるけれども、国としては手を付けなければいけないことでもある。決して法螺ではない。約束したのが自分たちだからこそなおさら。
けれど、それを知らないほかの人たちはどう思うか、アッシュは不安ではあった。
「そうだな、君を見ていればそれが可能だと思えるようになったよ」
「ありがとうございます」
そういいながらも、相手の顔は笑顔の一つさえなかった。これがレプリカかといわんばかりの値踏みするような瞳は正直アッシュには不快だ。友好的な態度をとっているふりはしているけれどもそこに一線がある。
ルークはいつもこんな視線にさらされているのだろうか。自分もこんな目でルークを見ているのだろうか。
ルークの立っている場所はこんなにも不安定なのか。
導師イオンにしてもそうだった。彼は最後までレプリカであることを隠してそして消えていった。誰かの代わりとして生まれた彼らですら、足元はいつ揺らぐか分からないものだった。それはもともと彼らのものでは無いものだったからだ。それを持たない多くのレプリカはなおさら。
(俺はアッシュの言ったとおり恵まれてると思うよ。だって、まだちゃんと生きていられるから)
ルークの言葉は少し弱弱しく聞こえた。慣れているとでも言いたげなその口調に心が波立つ。
改めて思い知らされるこの事実にアッシュはルークに伝える言葉を見失っていた。アッシュはこれから他人には「レプリカは人なのだ」「彼らはただ生まれただけなのだ」「彼らにも生きる権利がある」といわなくてはならない。それが自分の口で彼らに約束した言葉だからだ。言うだけならいくらでも言える。それは奇麗事だからだ。けれど、その彼らの中から意図的にアッシュはルークを除外してしまう。ルークに向かってその言葉を発せれるのか。
今更? 自分は本当にそう思っているのか? 奇麗事を述べればそれがそっくり自分の身に返ってくる。そう思っていないわけは無い。ただ生まれた彼らに何の罪も無い。
だがルークは。
矛盾するその問いの答えは分かっているのだ。それを選び取ることを拒否する何かがあるだけで。
やはりどうやってでもルークの代わりなど引き受けなければ良かった。そんなことは初めからわかっていたことだ。ただ珍しいモノがあるから興味を惹かれただけ。
会談は無難に始まって無難に終わった。得るものも無く、失うものも無い。当たり前だ、相手はルークに対して何か政治的なものも金銭的なものも得るつもりで顔をあわせたわけではない。珍しいモノを見に来ただけだったのだから。
回線を切るときにも頭痛からか、この扱いからかルークの言葉には覇気がなかった気がする。
そういう扱いをされるということは予想していた。
けれど、分かってはいるが他人にそういう扱いをされていると思うとどうしても納得できない何かがアッシュの胸の中に引っかかる。
自分だって便利な道具として扱おうとした。そうすべきだと思っていた。
「レプリカ、か」
これから彼らは次第に世界に認められていくだろう。そう遠くない未来に彼らは被験者と変わらなくなり、区別できなくなり、世界の中に混ざりこんで、そして消えていくのだ。
まるでルークのように。
「なんで、こんな」
気がつかされてしまった。
アッシュはそもそもルークを演じるつもりはなかった。目的は「ルーク」ではなく「レプリカ」なのだとすれば当たり障りのないことだけ言っていればいいだろうと思ったからだ。けれど、自分は所詮被験者で、完全同位体であるルークも結局レプリカで。アッシュはレプリカが同時に存在する自分が稀な存在であると思っていたし、確かに今まではそうだった。けれど、今では珍しいことでもなんでもない。アッシュと同じ思いを抱いた被験者も、ルークと同じ思いを抱いたレプリカも世界にあふれている。
自分の意思でなくレプリカを作られてしまった被験者と、自分の意思でなく生まれて被験者に疎まれるレプリカ。それは全く世間にありふれたものになってしまっていた。
だからこそそれは解決しなければいけない問題で、アッシュ自身が世界の礎としたレプリカたちに約束したことでもあった。レプリカがどういうものか誰よりも知っているからこそあの場でその言葉を発した。けれど。
それとルークとの話は別だと思い込んでいた。けれど、気がつかされてしまった。全然別の問題なんかではなくて、ルークを、自分のレプリカを認めることなんて出来ないと思っていた。けれど、レプリカはそう遠くない未来に認められると思ったのも事実だ。認めれると思ったのはきっと。
アッシュはとっくに「ルーク」という存在がいることを認めてしまっている。アッシュの代わりとしてのレプリカルークではなくて、「ルーク」としての意思を持つ彼は、アッシュの思うように動いてなんかくれなくて、時には反発したり、けれど予想しない行動を取ってアッシュを呆れさせることもある。それに対してアッシュは時には苛つくけれども、ずっとどこかで思っていた。ルークだから仕方がないと。そもそもは、顔をあわせたときから、こいつは自分とは違うと思い続けてきた。もう一人の自分だと思っていたのに、想像と全然違うレプリカを、自分の代わりだと思いたくなかった。ただ認めないとそれだけ強く思った心だけがアッシュの中に凝り固まって、レプリカであるルークのことを認めることができなかった。
今でもそのわだかまりはある。気がついたからといって言動を変えることは無いだろう。七年生きているにしては少しばかり足りないところがあるのは事実だ。その言動に苛つくもの事実なので、劇的に何かが代わるということは無いだろう。わだかまりが消えるのかすらアッシュにも分からない。それが何なのかさえ正体を掴みかねているのに。
アッシュはそのもやもやとしたものを吐き出すように大きく息を吐いた。
グランコクマの風は北国であるからかこの季節なのに少しだけ冷たい。いろいろな場所を行き来しているアッシュには季節の感覚も薄いので、時折服装を間違えたりしてギンジに突っ込まれるときもある。出来るだけ神託の盾騎士団の服装で歩くのはその服が丈夫なだけでなく、暑さも寒さもそれなりに耐えれる素材で出来ているというのもある。各地にある教会には必ず騎士団が常駐しているし、決して珍しい服装でもないというのも理由だが、本当はギンジや漆黒の翼たちにはなぜかばれたが服装を変更するのが面倒なだけでもある。今日は途中でそれを脱がされたので今はその着せられた正装をベッドの上に放り投げて、いつもの服から上着だけを取っ払った楽な格好で一息ついている。いくらサイズが同じといっても正装は窮屈で、これでは有事の際に動けないのではないかとさえ思う。神託の盾でもそれなりにちゃんとした服装を求められることもあったが、基本は軍なので動きにくいものはあるはずもなかった。長らく触れてない貴族の面倒くさい見栄だけのしきたりに少しだけうんざりする。ルークがラフな格好を好むのはそういう意味もあったのかもしれないし、根底はアッシュと同じであるからかもしれない。
会談が終わってから、一応体裁をとったと思うころあいで逃げるように王宮から出てきたアッシュは、誰にも止められることなく部屋に閉じこもることに成功した。ただし、頼み事をするのだから宿はこちらで手配しますと言われ、誰でもアッシュの居場所は知っている状態だが、もう一人になれるだけでいいとアッシュは別のところに移動する気も起きなかった。明日にはとっとと出て行ってやる。そう心に決める。
一人になれば昼間何もする間もなく捕獲されたのもあって何もすることはない。疲れたとベッドに横になっても寝る時間でもなく、しかも寝るわけにはいかない。一言元凶に何か言わないと気がすまない。けれどそれは今日の会食の内容などではなかった。どうせ今日のことは全部回線で繋いである。そのことについてアッシュが何か話す気はなかったし、話をされても答える気もなかった。言いたいのはこんなことになってしまったことに対する文句だけだ。
会食中に思ったことなど言えるわけが無い。ルークに対する態度に苛ついたとか、世界が先にルークを認めようとしていることが不快に思ったことなんて。
小さく息を吐く。じっとしていれば窓から入ってくる風が少し冷たく感じて、窓に手をかけたとき、その空の向こうにきらりと光った何かに一瞬目を奪われる。特に目立つ光ではなかった。けれどもその光がなにであるか知っているが故に、その光が近づいてきて港の方へと消えていくまで目を離すことが出来なかった。確かめるでもない。今のところ空を移動する光なんてこの世界に二つしかない。アルビオールだ。
夜空に浮き上がるその機影を眺めて、アッシュは窓を閉めた。ここは港から近い故にこのまま眺めていれば嫌でもあの明るい朱色が目に付くだろう。自分から出向くまでも無く多分あいつはやって来る。待っていたなんて思われるのも癪だし、けれど言いたいことはそれなりにある。いつだって回線で繋ぐことが出来るといっても、こんなことのために繋ぐことももっと癪だ。それに、今日はもうあまり他の人には会いたくなかった。会談中ずっと繋いでいたルークはともかく、ガイやナタリアは詳細は知らないだろうし、知れば興味を持たないわけは無い。それを話す気もないし面倒だ。そこまでやってやる義理もない。
そうだ、アッシュは今日は被害者なのだから、もう少し思い通りになることがあったっていい。
コンと控えめなノックをアッシュははじめ無視した。それは相手が誰だかわかっていたからだ。
当たったか当たらなかったか分からないようなその弱弱しい音はそのままルークの心情を表しているようだ。やや間をおいて今度はコンコンとはっきりとした音の後に「……いる?」とやはり小さな声が聞こえてきた。その前に聞こえてきた足音は一人分だったからきっと扉の前にいるのはルークだけだろう。もしかしたら遠くで誰かには様子見されているのかもしれない。確かにアッシュが宿に帰ってきたときは機嫌の悪さを隠していなかったし、誰とも口を聞きさえしなかったのだから近寄りがたいと思われても仕方が無い。わざとそうしていた部分もある。
何も言わなければたぶんルークは扉の前に立ったままだろう、面倒くさいと思いながらもアッシュはその扉を開ければ、同じ高さの目が合う。何かを言おうとして薄く開いたルークの口からは何も言葉は出てこず、その代わりにするりと部屋の中に入り込んで、後ろ手に扉を閉めた。けれど文句を言ってやろうと言葉を脳裏に浮かべてたはずのアッシュもなぜか何も言えず、ルークのその行動を眺めてしまっていた。確かにそこにいたのはルークだった。けれど見えたのは見慣れない赤だった。いや、むしろ見慣れた、というか。
「アッシュ! 無事だった?」
同じ目線の高さなのに、いつも見上げられると思ってしまうのは、ルークがいつもどこかアッシュに遠慮がちな言動をしているせいか、ただ自分が見下したいと言う欲求があるせいかそんなことはどちらでもいい。
恐る恐るといった表情が多分そう思わせているのだろう、確かに今日の話はルーク側が全面的に悪いし、アッシュが怒っているという事実もあるし、最近は多少強気なルークがちょっとだけ下手に出ている気持ちもわかる。
だが、その表情は今現在の状態でいえば、全くの逆効果だった。
「……お前は一体何をしに来た」
「えっと、アッシュやっぱ怒って……るよな?」
これで怒っていないと思うほうがどうにかしている。思わずドアノブに手をかけようとしたルークの頭を掴んで、アッシュはぐっとその手を引いた。
「あーっ!」
「なに胸糞悪いもんつけてやがる、からかってんのかてめぇ」
ルークの頭からもぎ取ったそれは、鬘だった。ルークの腰ほどまであったそれは今はアッシュの手の中でゆれている。アッシュは舌打ちしてその鬘をベッドの上へ放り投げる。それは丁度先ほど投げ捨てた正装の上にぱさりとおちる。
「だって、ジェイドが宿にいるはずのルークが今港に入ったってばれたら面倒だから念のためにつけとけって、俺が好きでこんなことしてるんじゃ……」
ようやく見慣れた姿になったルークは投げ捨てられた鬘の行き先を眺めてむっと眉をひそめた。そんな表情でさえ、多分、それほどアッシュとルークは似て居ないような気がする。そう思っているのは自分だけなのかどうかは知らないけれど。
はじめ扉の向こうに立っていたルークを見てほんの少しだけ動揺してしまったのはその鬘のせいだ。腰ほどにまで伸びたその髪は長さだけならば初めて目にした時のルークとそうは変わらなかったはずだ。けれど、ルークの姿に酷い違和感を覚えたのはその色が見覚えのありすぎる深い赤をしていたせいだ。アッシュのものと同じ色であるそれをまとえば、アッシュから作られたはずのルークは外見上のアッシュとの相違はなくなるはずだった。けれど違和感を覚えたのは、あまりにも鏡を見るように似ていたせいではない。その逆、そこには見たことのない人物がいると思ったのだ。昼間、短い鬘をかぶったアッシュが鏡を見てこいつは誰だと思ったように。ついでにアニスに思う存分笑われたことも思い出してアッシュは苛立ちを覚える。
顔の作りは同じはずだ。ただ違ったのは濃い赤であった髪の色が劣化して明るい赤色から先に従って色素が抜けて金に近くなっていたそれだけ。初めて顔をあわせたときは確かに同じだと思った。けれど今は。
それほどの違和感をかもし出しておきながら、知らない人にとっては同じ姿に見えるだろうそれが当たり前なのに。
「あのクソ皇帝、こんなのまで作ってやがったのか」
「アッシュがそんなこと言うと国際問題になるからやめろよな」
「あ? 聞かれなきゃいいんだろ。それにファブレ家の嫡子はお前だけって書類上はなってんだから俺が何を言おうと関係ないし、お前だってこれくらい思ったはずだ。なんか文句あるか」
その言葉にルークが少しだけ目線を彷徨わせた。思ったらしい。
「……うん、実際に使われる日が来るとは思ってなかったよ。いつか入れ替えて遊ぶって宣言してたもんな、ピオニー陛下」
むしろそっちの宣言の方が国際問題に発展しないか、アッシュは頭が痛くなる。父が知れば怒ると思うが母なら「私も見たかったわ」とかいいそうだ。その前にマルクトで全てがもみ消されるか。ジェイドやルークの話を聞けばアッシュが思ったよりもルークはマルクトでいじられているようだ。簡単に呼び出せると思われるくらいには。
「ほんとにこんなのでごまかせたのかなー」
ベッドに乗り上げて投げ出された鬘を手に取ったルークは改めてその手の中のものをぐるぐる回しながら首をひねる。
「だって、ナタリアが『良くお似合いですわ』って笑いこらえてたんだぜ。精一杯アッシュっぽい顔したらガイまで『無理すんな』って。酷くね?」
とすんとそのままベッドに腰掛けて、長い鬘をひざの上におく。そして絡まりそうなそれを手櫛でそっと梳いた。それを見るのが嫌でアッシュは目を逸らす。色が色だけに自分の髪を触られている気分がしてなんともいえない気持ちになる。
「しまりのねぇ顔してるからだろ」
「もともとお前の顔だし、俺は普通にしてるっつーの!」
「どうだかな」
少しだけむっとした顔をしたルークは、けれどすぐに目を伏せてごめんと小さく呟いた。
「まあ、今日はアッシュに迷惑掛けて、ごめん。まさか、ジェイドがあんなこと言い出すなんて思ってなかったからさ」
ルークも予想外だというのは会談直前に繋いだときに分かった。アッシュの頭が痛くなるほど大きな声を上げられたのを覚えている。
「返答しだいだが、まさかわざと仕組んだなんてことはないだろうな」
もしわざとだったら本気で一発殴ると睨みつければルークの肩がびくりと震える。まさかわざとか。こんなことをしたってアッシュが本当の「ルーク」としてルークを押しのけて元の場所に戻るなんて思うはずが無い。貴族の世界は面倒くさいと思っただけだ。
「そ……そんなこと、今やっと思いついたのに出来るわけないじゃん!」
「思いついてねぇだろうが」
口ではそういいながらも、そもそも初めからそんなことは疑っていない。今日の会談が嫌で逃げたとか、すっかり忘れていたとかむしろそれらを疑いはするが、ルークがこんなことを画策はしない。そうでなければあんな子供のような手段でアッシュをバチカルの屋敷に呼ぼうなんてしなかっただろうし、分かっていてアッシュがそれに乗ったのはあまりにルークの手段が稚拙すぎて呆れたからだ。あの時アッシュはルークの口に乗せられたのではない。子供の駄々に少しだけ折れる気になった、それだけだ。
そもそもルークに計画性なんてある気がしない。ある意味ルークはいつだって真っ直ぐで、曲がることを知らない。もし何か画策するならもっと素直に仕掛けてくるはずだ。
ルークはアッシュの心中も知らず、疑われているのかとおろおろしているし、それはそれで今後似たような計画を画策したりしないだろうから放置することにする。
「今日のことだって全部偶然だし、アッシュだって来るって言ったなかったじゃん。何で俺ばっかり。俺が謝らなきゃいけないのピオニー陛下と今日会う予定の人だけだったのに、何でアッシュにまで怒られてんだよ俺」
そう言っているうちにルークがむっとした表情に変わっていく。
「それに、アッシュも何で了承しちゃったんだよ」
「あの二人に捕獲されて、皇帝の名前まで出されて逃げられるのか、お前なら」
「……それは、俺なら無理だけどアッシュなら!」
「俺を何だと思ってんだ」
そう言えば、ルークはえっと小さく声を上げて、そのまま押し黙った。あれに勝てると思われていても、負けて当然だと思われていてもなんとなく癪に障る。
「そもそもお前が、夕方から人に会うって分かってんのに出かけるほうが悪いんだろうが、人のせいにするな」
「そうだよ、だから悪いっていってんじゃん。
夕方まで何もすることがないからどうしようって思ってたら、そろそろディンの店に行く頃だなーって思い出して、じゃあ行って帰るくらいなら問題ないから行ってきなさいってジェイドが、いてっ」
「人のせいにするんじゃねぇよ、それに意味無くナタリアつれてうろうろするな。立場分かってんのか」
「だって、ジェイドが言うなら間違いないかなって……、それにナタリア連れてった方がいいもの手に入りそうな気がするし、俺だってナタリアだっていっつも一人で買い物とか行かされてんだから今さらだろ?」
もしかして一番の問題はあのクソメガネではないだろうかとアッシュは思い始めていた。
ルークを一番に止めるべきだったマルクト側のジェイドが止めなかった、そしてアッシュが来るかもしれないことを知っていた。まさかと思うが、ありえない確率で、アッシュがこんなことに巻き込まれたのはジェイドがルークを今日の会談相手に会わせたくなかったとか? 今日の事態を予測できる者は多分いなかった、だからその憶測はアッシュのただの妄想だ。けれど、楽しかったとも有意義だったともいえない会談は、ルークがその場にいたならなおさらだろう。もしかしたら、こういった申し込みは案外多いのかもしれなかった。それを知らしめるつもりでアッシュに強行にルークのふりをさせたとか。
すべては想像だけれども、ジェイドの思考はいつもそれを超えてくるのだから油断できない。
「こんなことはよくあるのか」
自分の想像に苛つきながらルークに問いかければ何を言ってんだという顔をされた。
「時間に遅れるなんてするわけ無いだろ」
「違う、お前に会いたいとかいう奴だ」
その言葉にルークはああ、と納得したような表情をしたあとに、そのまま小さく首を傾げた。
「うーん……そんなに無いって、そもそも俺なんて名前そんなに知られてないし、ナタリアだってさすがに王女呼びつけたりする奴いねーし大丈夫だって。バチカル戻ったらナタリアはいつもばたばたしてるけど俺なんてゆっくりしてるぜ」
それは多分、裏で苦労している人がいるのだろうと思う。和平が結ばれた今、キムラスカにつなぎをつけたいマルクト貴族は多いだろうし、ルークやナタリアはわざわざマルクトへ飛んできてくれるいい客だ。キムラスカにいたとしても、ナタリアはもともと国政に携わっていたし、ルークは名前だけは知られている次期国王候補だ。話に上がらないはずも顔合わせをしたい貴族がいないはずもない。そして今回のような「レプリカルーク」を一目見たいという野次馬も。
アッシュが正式に名乗りを上げればルークに降りかかるそれらの半分は消えるのだろうか、そのままアッシュにうざいものが降りかかってくるだけなのでルークに我慢してもらうほかは無いのだが、それをジェイドがあの笑顔の裏でアッシュに対しての不満をつのらせていたとしたら。
アッシュにとってはとても迷惑な話だ。
「今まで誰と会った」
ルークはうっと言葉に詰まると少しだけ唸ってそれから幾人かの名前を告げる。それが時々間違っていてアッシュが訂正すれば何だか尊敬のまなざしを向けられた。
「なんだよ、やっぱ気になる? 中には被験者にも会ってみたいって人もいてさ」
その言葉にむっと視線を強めれば、ルークは一瞬たじろいだ。
「大丈夫だよ、俺じゃなくて父上か陛下に申し出てくださいって言ったら大体引き下がったから」
なにが大丈夫なんだ、俺の名前なんて出させるんじゃねーよと思いながらアッシュはため息をつく。
面倒くさい、この一言に尽きる。その面倒くさいことをルークに押し付けていることも自覚しているというか、今日改めて自覚させられたので、ジェイドが画策したにしろ事故にしろ今日のことは運が悪かったと思ってあきらめるしかない。
「え? だめだった……とか」
さすがに今日の会談の間もいろいろ驚いていたルークだ。今頃不安そうな顔をされても困る。普段どんな会話をしているのか予想がつかなくてアッシュも不安にならないでもなかったが、今のところ問題があるとは聞いていないし、ルーク一人でその場に向かわせるとか多分誰もさせないだろうからこのことは考えないことにする。『じゃああなたが行けばどうですか』というありがたくない声が聞こえてきそうだ。
「あんまりぼろ出して迷惑かけんじゃねーぞ」
「あ、うん。がんばる」
今日だってはじめはルークに何か言ってやろうと思っていたが、ルークのせいというよりはジェイドのせいで被害をこうむったのだから怒る矛先はジェイドのはず。けれど、やはりどこかであそこに逆らってはいけないという気持ちがあってルークに半ば八つ当たりをしていただけで、話しているうちにそんな気も失せてむしろ明日のルークがジェイドや皇帝にいじられるのが不憫にすら思える。けれどそれに付き合う気はアッシュにはない。
そんなことを思いながらなんとなくルークを見ていれば、何だよと見返されて他に特に話題の無かったアッシュは言葉に詰まる。
そんな中ふとルークのひざの上の赤が目に付いた。ルークは手持ち無沙汰なのかひざの上に流れる赤い作り物をずっと梳いたりいじったりしている。誰が作ったのかルークを模した鬘のときも思ったが本物かと見まごうほどにその色も質感も丁寧に作られている。無駄なことに金をつぎ込んだなと思わせるそれを見るのは正直むかつく。
「さっさとその鬘と服をしまって出てけ」
そうだ、ルークがこの部屋に来させられた目的はもしかしたら今日会談した「ルーク」がアッシュであることをばれてしまわないように工作するためだ。宿の中ならそんなことをしなくても本来問題ないはずだが、港や街中は誰の目が光っているかわからない。ばれれば困るのは皇帝やジェイドだからアッシュには関係ないのだが、アッシュも加担している以上全く無関係ともいえない。けれどここでルークがこの部屋から出て行けば終わりだ。アッシュが扮した「ルーク」はルークの扮した「アッシュ」が帰ってくるまでその部屋で待っていたくらいの筋書きだ。
アッシュは部屋の隅においてあったもともと衣装が入っていた袋をルークに放り投げればルークはむっと顔をしかめる。
「やっぱりまだ怒ってんじゃん」
「このくらいですんで良かったと思うんだな」
「だってこんな機会無いかもしれないからさ、ちょっと堪能しようと思って」
何のことだと不審な目を向ければ、相変らずルークはひざの上の髪を撫でている。
「この鬘すげー最新技術で作ってるんだって、ほとんど本物と変わらないって言ってた。色も自由につけられるからかなり粘って調整したらしいぜ」
「気持ち悪いほど鬘だってばれなかったしそうなんだろ」
「そうなんだよ、さらっさらで気持ちいいしさ。アッシュの髪なんて絶対こうやって触ることなんて無いだろうから今のうちに堪能してんだよ」
そういいながらルークはまたさらりと赤い髪にその手で触れた。
それを見ればなぜかアッシュの背中がぞくりとする。まるで自分の髪を触られたような。ルークが変なことを言うからそんな変な錯覚に陥ったのだ、多分そうだ。
人に触られることは好きではなかった。それは小さいころの実験体験から来るものなのかもしれないし、もともとそうなのかもしれない。けれどルークがガイやジェイドに頭や肩を触れられてもなんともない顔をしているのだから前者なのかもしれない。そう思えば少しだけむっとする。何に、いろいろなものが脳裏を掠める。同じであったはずなのに同じ苦しみを味わっていないことか、それとも誰にでも親しげにする不用意さか。もしくは。
ルークは撫でることに飽きたのかひざの上の髪を一房掴み上げて不器用な三つ編みを作っては解いている。こんな機会なんて無いというがあってたまるかというのがアッシュの感想だ。どのような状態になればあの髪の位置になるのか、想像がつくだけにその想像に声が出なくなる。ルークのひざに髪が乗るのならばルークの真横にぴたりと寝そべるか、またはひざの上に頭を……、そこまで考えて脳内の想像を振り払う。ありえない。何をどうやったらそうなるのだ。
アッシュは想像に耐えかねてベッドに座るルークのひざの上からその鬘を取り上げた。
「あっ!」
不満の声は無視して袋の中にぞんざいにそれを突っ込む。
「いつまでもそんなもん触ってんな」
「だって、本物触らせてくれないんだからそれくらいいいじゃん」
「誰が触らせるか」
ええー、と不満げなルークはまだ未練があるのか袋にちらちらと視線をやってはアッシュに戻す。非常にうざい。
「なんかさ長い髪ってのも久しぶりだったし、手触りいいしいいなーってそれだけだから」
だから少しくらい、といわんばかりの目がアッシュを見る。その目を見たくなくてアッシュはルークの頭を上から押さえるようにその手を押し付けた。
「てめぇのでも触ってろ」
ぐっとルークの頭を押して、痛いと抗議の声が上がるのを聞きながらアッシュはルークに背を向ける。
「なんだよ、さんざんピオニー陛下とジェイドにいじられてへこんでると思って謝罪と慰めにきたのに」
そんなことを言われれば余計に追い出したくなる。その衝動を少しだけこらえて、アッシュは机の上に置いてあるものに手をやった。その時に目に付いたもう一つもついでのように手にとりポケットに入れて再びルークに近づいた。
「やるからとっとと帰れ」
投げるように渡したそれをルークは理解できない様子で両手で持って、じっと見つめた。
手に持ったその紙束を一枚、そして一枚とめくってやはり首をかしげてもう一枚めくったところで急にそれが何か理解したようにきれいに元に戻してひざの上に置いた。
「あ、ラジエイトゲートの資料」
「なんだ、てめぇがいるっていったんだろうが。説明はしねぇってジェイドに言っとけ」
「えーそれって結局何か言われるの俺じゃん」
「面倒くせぇ」
続けて何かを言おうとするルークの口を一言で塞いで、アッシュはルークを追い出すべくベッドの上に放置したままの正装に手をかけた。上着は途中まで丁寧にたたもうと心がけたが何だか途中でどうでもよくなってぞんざいに上下をまとめて袋に突っ込む。ああ、俺の服とルークが小さく呟いたのが聞こえる。やはり用意されたのではなくルークの服だったのか。だったらなおさら片付けるのなんて雑でいい。
最後に明るい短い髪の鬘を手にすれば、さらりとした髪がアッシュの手をくすぐる。確かにそれが何かを考えなければ手触りはいいかもしれない。なんとなくさっき掴んだルークの頭の感触を思い出してしまう。触れた感覚は似ていたかもしれない。けれどもこんな無機質な冷たさではなくて触れたその頭は温かかった。全然違う。
アッシュの動作が止まったのは一瞬だったかもしれなかった。けれどもアッシュの手の上からそれがさっと奪い取られたことにとっさに反応できなかったのはそのせいだった。
「やっぱり俺のもよくできてるよなー。これアッシュがつけたんだよな。見せてくれたって良かったのに……あっ」
アッシュは無言でその鬘を奪い取ると袋に突っ込む。今日のことを思い出すのもいやだし、一瞬手が止まっていたことを問いただされるのも嫌だった。
「何だよ、俺追い出したところでナタリアとかが駆けつけてくるだけじゃん。会談の内容なんてアッシュとジェイドと俺しか知らないんだから、多分いろいろ聞きに来ると思うぜ。今はアッシュ怒ってるって思ってるから近寄らないけど。俺出てったら機嫌よかったよって言っておくから」
「いい性格になってきたじゃねぇか」
「だてに鍛えられてないからな!」
胸を張って言うことではないが、後ろ向きよりは前向きの方がいいのだろうとアッシュは納得させてため息だけにとどめておく。とにかく何か考えるのが面倒になってきた。いろいろ考えてしまったせいだ、主にルークのせいで。
「それでここにいて何か俺に言いたいことでもあるのか」
意地でも動かないという意気込みのルークだから謝罪以外にも何かあるのだろう、そう思ったのだが当のルークは首をかしげているのだからもう追い出してもいいだろうか。
「あ、そうだアッシュグランコクマに何の用事だったんだ? すぐにジェイドに捕まったんだろ? なんかあるなら明日手伝……」
「てめぇが要るって言ったから資料持ってきたんだろうが、別に用事なんかねぇよ」
「だって、昨日回線繋げてきたじゃん。だからなんか別に俺たちに用事あったのかなーって、思うだろ?」
その言葉にポケットに忍ばせたままの小さな指輪を思い出す。本当にこれを手に入れてからろくなことが起きない。
「俺に用事が無くたって、お前らにあるかもしれないだろう、そう思っただけだ」
「それならもっと連絡しろよな」
したらしたで時間だ場所だと怒るくせにそれで昨日みたいに来いとか言うのだから連絡するのも面倒になってくる。大体、アッシュはわざわざ話しかけなくてもルークがどこにいるか位は分かるし、位置が分かれば大体何をしているかも分かる。連絡を取る必要はもともとあまりないのだ。
昨日はくだらないことで繋いでしまっただけで。
だから早くこんなものは手放してしまおう。
「ほら、これもやるからてめぇはさっさと戻って寝ろ」
「何だよ、グミなんかでほだされねぇから……な?」
鬘の代わりに手のひらに落としたそれをルークはまじまじと見つめて、訳が分からないといった顔でそれを恐る恐る摘み上げた。
「何だこれ、指輪? いや台座になんか譜が刻んであるような……マジックリングか?」
「もらったが俺は装備出来ねぇからやる。使うなり売るなりしろ」
「ええ? だってこれ高いぜ? それにナタリアにでもやれよな、指輪なんて」
ぐるぐると回してみてもルークにはそれが何か分からないらしい、少し唸って、すぐにあきらめたのか手のひらの上において転がしている。おもちゃではないことくらいは分かるのか、せっかくやったのだから少しくらいは嬉しそうにすればいいものをむっとむくれている。多分昨日これを受け取ったときのアッシュの顔と同じだろうと思ってアッシュも微妙な気持ちになる。
「変な譜が刻んであるから売れないんだとよ。俺も調べてないからジェイドにでも調べてもらってから使え」
「変な譜って、何だよそれ。……でも、まあこの宝石はきれいだな、緑色だから第三音素に関係してるのかな、それかエメラルドみたいだから技使うときに効くのか、もしかして悪いもんじゃないだろうな」
「何の効果があるかは知らねぇっていっただろうが。古い遺跡から出てきたらしいからいわくの一つや二つあるかもしれないが……」
その言葉を聞いてルークの肩がびくりと震える。分かりやすい奴だ。
「ええー、それやばいじゃん」
「まあ気にするもんでもないだろ。俺だってそれを手にしてからろくなことが起こってねぇが」
そう言えば、リングを持つルークの手が小さく震えている。
「ろくなことがねぇ一番はお前のせいだぞ」
「あ、今日の」
そう小さく呟けばルークは何事も無かったようにリングをまた摘み上げてだったらいいやと呟く。だったら、何がだ。
「だって、これのおかげで今日アッシュと久しぶりに会えたし、別に悪くな……いや、ヒトリゴトデス」
一睨みすれば調子に乗っていたルークはすぐにアッシュを窺うように口を閉じた。いや、まだ何かもごもご言っている。
「それに」
またもごもごと言いかけて、ちらりとアッシュを窺い見るところを見ればろくなことではないらしい。
「ろくなことじゃなかったら一発殴るから言え」
「だから、この色アッシュの瞳みたいな色だからいいなって、それだけだよ!」
ぐっとルークが顔を上げるとまるで瞳を覗き込むようにルークの顔が近くなる。自分の瞳の色は見えないけれどルークの色なら確かに近いかもしれない。そう思ったときにこれをくれたときの言葉を思い出す。
(昔から風習みたいなもんで、自分に関係する色の宝石を人にお守りとして渡すってのがあってね。今は好きな色とかもありになってるけど、特に瞳の色ってのが『あなたをずっと見守っています』って意味らしいよ。宝石屋のガセかもしれないけどね。緑とか青とか高いじゃないか)
もし本物のエメラルドだったからといって高価だが珍しいものではない。それに緑の瞳なんてありふれている。わざわざアッシュのそれに例えるから変なものを思い出してしまうのだ。
「ほら、やっぱり綺麗だもん」
何を言ってやがる、とか、馬鹿じゃないのかとかいろいろなルークへの罵倒が脳裏を浮かんでいくのだがあまりのことにアッシュは何も口にすることが出来なかった。同じ色だろうがとか言えばルークの言った言葉を肯定してしまうし、色が同じなのは認めているし、何を否定すればいいのか、やはりこの指輪はろくなことがない。絶対だ。
「アッシュ?」
黙ってしまったアッシュにルークが不審そうに呼びかける。今どんな顔になっているのだろうか知りたくなかった。普通の顔をしているつもりだが多分できていないだろう。
やっぱりルークは始まりが自分のデータなだけで未知の生物なのだ。こんなのが断じて自分なわけが無いのだ。それだけは今日認めよう。間違いなくこれが自分と同じもので出来ているとは思えない。
「あ、やっぱりこっちのが手触りいい、かも」
どさくさにまぎれてルークがアッシュの前に流している一房を掴んでさらさらと手の上で遊んでいる。
やっぱり理解不能だ。
どれくらい近しいといっても、ルークを理解することなんて出来ない。レプリカであることの気持ちも、アッシュの髪を触って楽しそうにしていることも、どれだけ酷い言葉をぶつけたか分からないのにこうやって近寄ってくることも。
それは、アッシュとルークが違うモノだからだ。目の前にしてみればこんなにも違う。
けれど。
「何勝手に触ってやがる」
ルークの手から髪の毛を奪い取って、そのままぐっと体を離すように肩を押した。
「今日はてめぇのせいで疲れてんだ、とっとと出てけ。それから誰も来させんな」
「分かったよ、でも明日になったらナタリアには顔出せよな。怒られるの俺なんだからな!」
袋を抱えてしぶしぶといった感じのルークは名残惜しそうに扉の前で振り返る。
「後のことは知らん、二度はねぇからな!」
その言葉に一瞬瞳を丸くした後、ルークはふわりと笑った。
「アッシュ、ありがとう」
パタンと閉じた後、ルークは言いつけを守ったのかアッシュの部屋は静かなままだった。押しが強いと思えば妙なところで真面目だ。
静かになった部屋で、アッシュは大きく息をついた。
ルークの笑った顔を久しぶりに見た気がした。そういえば今日も謝罪といいつつ無駄な言い合いしかしてないような気もする。それが自分達の日常なのだから仕方がない。ルークがアッシュの前で笑うことなんてほとんどないのだ。大抵はアッシュの悪口に耐えかねてルークが怒るパターンだからだ。
だからというのではない。なんとなくその笑顔と言葉がアッシュの心に残った。
ふわりと心のどこかがあたたかくなるような、これは多分嬉しいという気持ちなのだろう。
ルークが元凶のはずで、礼を言われても当然なはずなのに。
ルークに礼を言われたから、そうではないことに気がついてアッシュは小さく唸った。
あいつが、笑ったからだ。
ルーク自身のことは多分ずっと前から認めていた。だからいろいろなことを任せたのだ。けれどルークを認められないという気持ちがずっとあった。それが何か、判った気がしてアッシュはルークの出て行った扉をじっと見つめた。
空を見上げればなんとなくいつもと違って見えた。
青い空に譜石が浮かんできらりと光っている。それはいつもと同じ風景のはずだった。ただ、なんとなく違うと感じたのはつい先日アブソーブゲートを閉じたせいだろうか。譜術士だから感じるのか音素の流れが今までとは全然違っている。あと少しすればラジエイトゲートも閉じられてだんだんと音素が減少していく世界になるのだろう。それがどんな世界なのか想像は出来なかったけれども、多分何とかなるんだろうなという希望的楽観はあった。何とかならないと困る。プラネットストームを止めると決めたときからそれに変わる代替エネルギーや、少ない音素で動く音機関の研究は始まっている。今はマルクト・キムラスカ両国が手を携えて取り組んでいるのだから悪い未来にはならないだろう。
ただ、その先をアッシュ自身が見ることはないことだけが事実だ。この戦いを生き延びたとして、アッシュを待つのは大爆発でアッシュ自身はただ消える運命だ。そしてアッシュのレプリカであるルークも。
ルークがいつ消えるとも知らない体であることは知っている。そもそもはレムの塔で消えてしまわなかったのが奇跡なのだ。宝珠のおかげでぎりぎり形だけ保つような形で生き残って、今この瞬間にも消えてしまうかもしれない。少なくともローレライを解放すればそれに使う超振動の影響でルークは消えるだろう。
その後アッシュが生き残っていれば、アッシュ自身の未来はどうなるだろう。それを聞く相手もなく、調べてもただの机上の空論だけが繰り返されて、多分ここまで体内の音素が乱れていて減少しているこの状態ならば大爆発の相手がいなくても長くは持たないのだろう。専門家に聞いたわけではないけれども。その専門家は非常にアッシュが会いたくないと思っている相手であるが故に。
いろいろなことがありすぎて焦る気持ちを抑えながら、それでも時間だけが過ぎていく。
「アッシュさん、次はどこへ向かうんですか?」
木々の間に隠すように置いてあるアルビオールに立ち入れば操縦席からギンジが振り返って軽く手を上げた。便利だが、アルビオールはどうしても目立つ。人に見つからないようにするには街から離れたところに置くしかなかった。自分も不便だろうにギンジは笑ってアッシュを迎え入れる。
「そうだな……」
席に着きながら、特にこの後の予定は決まっていないことに気がつく。
やるべき用事はそれほど残っていない。後はプラネットストームが停止するのを待ってヴァンをぶち倒してローレライを解放するだけ。その全てがかなりの難事であるはずだが、どれも抜きには出来ないことだ。そのための準備をアッシュは着々と整えている。
「シェリダンにでも行くか」
「シェリダン、ですか」
ギンジが不思議そうに聞き返した。
「もうすぐプラネットストームが止まる。そうしたらエルドラントへ飛んでもらうから一度アルビオールの点検をしておけ。しばらく戻ってないだろう?」
「でも、アッシュさん」
「別に行く場所もない、どこかでとどまるなら何かできる場所の方がいいだろう」
今まで散々ここに行け、次はこっちと酷使してきた覚えはある。アッシュがそんなことを言うのが少し意外だったのか、ギンジはふっと笑った。今まで文句を言われたことはほとんどないのもあわせて、その笑いが子ども扱いされているようで少し気にかかったがそこには触れない。
「はい、では行きます」
ギンジの声と共に機体がゆっくりと動き出す。しばらくの滑走の後浮き上がった空はやっぱり青かった。
それはいつもと変わらない日だった。
アルビオールの中はアッシュが一番安全だと思える場所だ。アリエッタがいた頃は空からの襲撃もありえるかもと思っていたが、それでもある程度高度を上げれば魔物も飛ぶことが出来ない。唯一の心配はアルビオールが落下することだが、ギンジの腕は信用していたし、落ちるその時になったならアッシュにはどうにも出来ない。そんな理由で、ギンジと二人だけのときはアルビオールの中で仮眠をとることは多かった。
今日も目を閉じて寝ているわけではなかったがアルビオールの飛行音を聞きながら何かを考えていたのだと思う。
それは突然だった。
アッシュは今自分がどこで何をしているかすらすっかり抜け落ちるほどの衝撃を確かに受けたのだ。思わず目を開ければそこは見慣れたアルビオールの中。機体がゆれたわけでもない、椅子から落ちたとか何か物理的な衝撃を受けたわけでもなかった。なのに何かが抜け落ちる感覚と、さっと血が引くのを感じる。どきんと心臓がはねた。何も起こっていない、いや今から何かが起こる予兆か。しかしアッシュは未来視なんて信じていなかった。そんなのは預言でこりごりだ。
あるはずのものがない感覚。ちゃんと手足もある。大爆発が進行しすぎたのかとも思ったが今までこんな変な感覚に陥ったことはなかった。
あるはずのもの、がなくなる。ゆっくりと頭を動かしてたどり着いてしまった答えにアッシュは再度血の気が引いた。そんなはずはない、いつだって分かるはずだ。どきんと跳ねる心臓をどうしようもないのに上から押さえつけて、いつものように意識を集中させる。
世界中に張り巡らされた音素の流れから一本の糸をたどるようにそれをなぞればいつだってアッシュはそこにたどり着くことが出来た。
けれど。
世界のどこを探してもその音素は見つからなかった。
たとえ、糸が見つからなくても、アッシュはその自分と同じ特殊な音素をたどることが出来る。世界のどこかに痕跡の一つさえあればたどりつく、はずだった。確かに痕跡はいくつもあった。活動すれば音素を消費する、そうすれば痕跡が残る。けれどその痕跡はぷつりと糸が切れたかのように何度探しても途中で途切れてしまうのだ。
消えてしまったのだ。
そこにたどり着くまでアッシュはかなりの時間を要した。
「もう少しでシェリダンに着きますよ」
ギンジのその声を聞いて、アッシュははっと我に帰る。何が起きたのか理解していた。けれど理解したくなかった。
「ギンジ」
やっとのことで口にした言葉にギンジははいと答える。
「二号機はベルケンドにいるのか」
その言葉に何か計器をいくつか調べた後そうですねと頷いた。
「昨日から動いてないみたいだから多分まだ居ると思いますよ」
「ベルケンドへ向かってくれ」
突然の針路変更にギンジは動揺すらしない。むしろ慣れたように操縦桿を握りなおす。
「え、いいですけど。停めるとこあるかなー」
もう見えていたシェリダンの上空を旋回するとアルビオールはアッシュの指示したとおりベルケンドへと方向を変えた。
突然の変更だというのにギンジは理由を聞くことはない。進路について文句を言うのは天候が悪いときと機体の調子が悪いときだけだ。それがアッシュには都合が良かった。今日のことだってきかれればなんと答えればいいのだ。
ルークの存在が消えた。それでも急ぎたいと思ってしまったのは「かもしれない」可能性を欲したからかもしれなかった。いつか消えてしまうことは知っていた。それが今日か明日かずっと先か分からないことも。けれどどこかで信じていなかったのだ。ルークが自分より先に消えてしまうかもしれないことを。ずっと先に消えるのは自分だと思っていた。けれど、乖離よりも先に戦闘でやられるかもしれない、その可能性もあったのに。
ギンジにそれを告げなかったのはアッシュ自身がやはり信じていないせいだったのかもしれない。確かめねばと思った。
けれど、確かめねばと思ってもレプリカはその確かめる何かすら持っていないのだ。何も残さずに消える。存在した証拠も、消えた証拠も欠片も残らず。
許せないと思った。アッシュに何も言わず何も残さず勝手に消えるなんて、それはアッシュのレプリカとして許されないことだ。レムの塔で消えていこうとするルークを見てどう思ったのかはっきりと覚えていない。ただ、超振動が収束しそうになっているのを見つけて思わず手を出してしまったことだけ覚えている。ただ失敗だけでルークが消えていくことが許せなかったのかもしれない。……今と、そうは変わらない気持ちだろう。
とりあえず確かめなければ。気持ちだけが焦る。もし、本当にいなくなっていたら。
その時自分はどう思うのだろう。
さっき感じたとてつもない喪失感と、焦りと、沸いて来た怒り。
それは今まで何人もの死を見てきたアッシュが感じたことのない感情だった。
それほどまでに、ルークはアッシュにとって、特別なのか。
自問しても答えは返ってこなかった。それは答えを返すことを拒否しているからだ。
ルークの痕跡はベルケンドの入り口から、街の中を点在して真っ直ぐに第一音機関研究所へ向かっているようだった。その痕跡ももう一時間も経たないうちに消えてしまうだろう。大きな譜術を使った時の痕跡すら数日で消えてしまうものなのだ。普通ならたどることの出来ないそれを見つけることが出来るのは同位体ゆえの技なのかもしれない。もしかすれば全部勘違いの可能性すらある。自分達は第音素とも同位体であるが故に、世界に存在する第七音素と自分達の区別を普通の音機関などでは出来ないのだ。この痕跡がルークのものであるのか、ただの第七音その痕跡であるのか、それを証明できる証拠はどこにもない。
けれど、アッシュは足を止めずに真っ直ぐに進んでいく。痕跡などには興味はない。その先にルークがいるのか、もういないのかただそれを確認したいだけだ。
もし、本当にいなかったら。
一瞬足が止まりそうになる。確かめるのが怖いわけではなかった。かつてはその手で殺そうとまでした相手だ。ただ、ルークがいないことでこれからの計画が狂う、多分それが面倒くさいと思っているだけなのだ。きっとそうなのだ。
第一音機関研究所の門をくぐって中に入れば、アッシュの顔を見て不思議そうに首をかしげる研究員とすれ違う。この反応はここ以外でも時々見る反応だった。例えば街中だとか、宿屋だとか。大体の場合先にルークたちが来ていて、ルークと見間違われているときの反応だ。確かにルークはここに来たのだろう。アッシュは知っている研究員を見つけると無理やり捕まえる。
「おい、ここに俺のレプリカがきただろう」
「え、……ええ、ルークさんでしたら奥のシュウ先生の研究室に昼前にこられましたよ。マルクトのカーティス大佐と一緒に」
本当は誰が来ているなどという情報は個人情報なのだろうが、ルークとアッシュの関係を知っている研究員だからアッシュが少し強く睨めばびくびくといった感じでそれを口にした。アッシュはそうかと一言つぶやいて目的の場所へと制止の声も聞かずに歩き出した。
良く知っている、むしろ悪夢さえ見せるようなこの建物になんてできるだけ立ち入りたくなかった。必要があれば足を踏み入れるが、それも最低限だ。今だっていろいろな感情がアッシュの胸中に渦巻く。そんな場所にわざわざ踏み込んで、そこまでして確認しなければいけないことなのか。
いや。
とある扉の前に立てば、その扉はかしゃんと音を立てて勝手に開く。研究室への立ち入りは入室証か、または許可された人物の音素振動数を登録していなければ入れない。いまこの扉が開いたということは、ここにルークが入った、ということなのだろう。
開いた扉の奥にいる人物がゆっくりと振り向く。
「アッシュ、どうして……ああ、そうですよね」
部屋の中央に立っていたジェイドがアッシュの顔を見て一瞬驚いたようなそぶりを見せたが、その表情は変わらない。
「やっぱり分かってしまうみたいですね」
「さすが同位体、というところでしょうか」
奥にはモニターを見つめるシュウの姿がある。何かをしているのか、じっと画面を見つめては時折手元のコンソールで何かを入力したりしている。そのほかには誰もいなかった。
「何か御用ですか、アッシュ」
ジェイドが話を一手に引き受けるつもりなのか、近くの机にもたれかかりながらアッシュに向き直る。その顔には相変らずの分かりにくい表情。
何かなんて白々しい。アッシュがここに来た理由を分かっているのにわざわざ聞くその態度がいつだってむかつく。
「レプリカはどうした」
「そうですね、これは秘密にしたいのであまり言いたくないのですが」
言葉を切ったジェイドが意味ありげにアッシュを見る。明らかに何かあるといわんばかりの態度がただアッシュの反応を楽しんでいるだけなのかもしくはジェイドですら言いにくい話なのか、わざと分からなくしているのだとはわかっていた。ジェイドの性格からすれば前者だと思いたい。けれどアッシュは部屋に入ったときからジェイドが手に何か持っていたそれを見てしまった。緑の宝石がついた古い指輪。そしてジェイドのもたれかかっている机の上に並べられるように置かれているルークの愛用しているその剣。
やはり、という言葉が脳裏を占める。消えてしまったのだ。金属や鉱石は乖離しにくいそれゆえにそれだけ残ったとすれば全てのつじつまは合う。
「おや、アッシュはこの指輪のことを知っているようですね。ルークが見慣れないものを持っていると思ったんです。残念ながらマジックリングではなくただの古い祝福の言葉が書かれたお守りのようですが、どうしました?」
よっぽど酷い顔をしていたのだろうか、アッシュ自身はそんなつもりはなかった。分かっていたことだショックなんて受けない、そう思い込んでいたかっただけかもしれない。実際には何を口にしていいかすら分からなかった。ジェイドはそんなアッシュを見ながら指輪をアッシュに差し出した。思わず受け取ってしまったそれをじっと見る。
ルークは、いなくなってしまった。忘れ物のようにリングをのこして、あれはまさに不幸をもたらすだけの代物だったのだ。アッシュが持っていた経った二日、それだけでもろくなことがなかった。そうと知って渡した。ただそれだけが残って。
後悔、しているのか。何に。いろいろな感情がアッシュの中でぐるぐるする。後悔なんていつだってしている。取り返しのつかないことだっていくつもあった。仕方ない? レプリカだから、いつかは消えてしまうと知っていた。今までいくつもの死を見てきて、それなのに感じなかった感情が浮かんできてアッシュは頭を抱えたくなる。
自分は、悲しいのだ。
「あいつは……」
まだ明確な言葉を聞いていないことを思い出してようやくそれだけ口にする。言葉が欲しいわけではなかった。けれど、消えてしまった証拠など何も残らないレプリカ故に、何を証にすればいいのか分からないのだ。言った言葉のあまりの弱さにアッシュ自身が逆に驚かされる。
「そろそろ時間ですよ」
「そうですね、データは?」
「まあ、予想通り、というところですね」
アッシュの言葉は声を上げたシュウの言葉にかき消された。聞いていただろうにジェイドはアッシュのことなど眼中にないように部屋の奥のモニターに向かっていってしまう。
置いていかれたアッシュはむっと眉を寄せると、再びジェイドに問いかけるべく口を開こうとして、その時何かが開く音がしてふとそちらを見やった。
音がしたのは入り口とは反対側の部屋の壁だと思っていた部分だった。僅かな隙間が開いそこからひょこっと手が出てきて、そのまま扉がゆっくりと開く。その扉はかなり分厚く、重そうに見える。まるでシェルターのようだとアッシュはどこかで思った。
その瞬間、アッシュの中を覆っていた不快感が一瞬にして消え去ったのを覚えている。そしてその扉から覗かせた明るい赤い頭に今何が起こっているのか理解できなかった。
「お疲れ様です。どうでしたか?」
ジェイドが開いた扉に近寄って、その赤い頭にぽんと手を置いた。
「どうって言われたって、暇だった?」
そういう言葉も、首をかしげるその姿も、そこにあるのはアッシュの知っている日常だった。ただ、さっきまではなかったはずの。
ルークの姿がそこにある。
「そういう感想は必要ないんですよ」
「そういわれてもなー、別に特に体調も変わんないし。あれ?」
ルークの瞳がアッシュを捉えるや否や、疑問を浮かべたその瞳が直後にふっと緩む。いつもならしまりのない顔だと思うそれが、アッシュを現実に引き戻す。
「アッシュ、何でここにいるんだ?」
のんきに聞かれたその言葉がアッシュには腹立たしくしか聞こえない。今の今まで消えてしまったものだと思っていたルークが目の前にいる。消えたと思って急いでやってきたアッシュの行動は全て無駄で、要らない手間を掛けさせられただけで。
「……」
言葉が出ない。けれど、その事実にさっきまで酷く不安定だった心がまるで初めから何もなかったかのように平穏になっていることに気がついていた。
「今から説明するところだったんですよ。ルークの音素の流れを観測するために外からの音素を一切遮断できる部屋に入ってもらっている、ということを。もともとは周囲の音素量を調節して体内の音素を調整するために作られた部屋なのですが、レプリカにも応用してこれからのレプリカの治療に役立てるためのデータ採取をしていたのです。いや、この音素遮断装置はかなり高精度だということが分かりました」
「それとアッシュとなんか関係あるのか? あ、レプリカと被験者とで比べるために呼んだとか?」
「この短時間で呼んで来てくれるならいつも助かるんですがね。まあ、私の推測ですが……」
むっと睨みつけるがジェイドにそれが効くはずもない。
「ここに特に用はねぇ、俺は帰るからな」
「装置にルークが入ったことで回線が繋がらなくなったアッシュが様子を見に来た、あたりが妥当だと思うのですが」
それはルークに向けて言った言葉かアッシュに向けた言葉か、どちらにしろアッシュは答える気はない。事実だが、ルークの前で答えたくないだけだ。
消えてしまったと思った、けれど信じたくなくてここまで来ただなんて。
「そうなのか? ごめん、心配掛けて」
「そんなもの、」
心配などしてない、そう言おうとしてルークを振り返ればアッシュは言葉にうっとつまる。ごめん、と言ったその顔はなぜか酷く嬉しそうで、何なんだこいつは。自分の心臓の音が聞こえるのはそれに驚いたからだ、きっとそうだ。消えたと思ったルークがふと現れて、謝りながらにやけているなんて全てが予想外すぎてアッシュの思考が追いついていないだけだ。
アッシュは言葉を切って、そのまま何も言わずに部屋を出ようと扉に向かう。それが逃げているというならそうなのだろう。言ってしまえば形になってしまう。あいまいにしていればいつかなかったことに出来ると思っているわけではない。ただ、ルークに対しては感情が絡み合って、特に今は言葉にすれば要らないことまで口にしてしまいそうで嫌だった。少なくとも今日ここに来た用事はルークがここにいることで終わったのだ。
「アッシュ!」
背中に聞こえる声も無視する。追いかけてくる足音はない。それにほっとして扉をくぐろうとしたとき、聞こえた声にアッシュは余計に足を止めることが出来なくなってしまったのだ。
「あれ ジェイド預けといたあれは? 金属は持ち込めないからって剣と一緒に没収されたよな」
「ああ、それなら……」
手の中には持ったままのリングがある。あの時ジェイドに渡されてぼーっとしている間にルークが現れて、うっかりそのまま持ってきてしまった。もともとはアッシュがルークに渡したもので、もうとっくに売ってしまわれているものだと思っていた。それをぐっと握り締めてベルケンドの街の中をさっきと逆流するように歩く。ルークのことを確認したかっただけでその結果が何であれ長く滞在するつもりはなかったのでアルビオールはそのまま待たせてある。そこまで行けばまたしばらくルークと顔を会わせることはない。今はルークと顔をあわせない場所にただ行きたかった。
商店の客引きの声を背中にただ足を進める。人ごみがわずらわしかった。人の中を縫うように外へと向かおうとするけれども、アッシュは失念していた。
「アッシュ? あなたも来ていたのね」
買い物途中なのかいくつか袋を提げたティアに姿を見つかり、アッシュは舌打ちする。そうだ、ルークが居るという事は当然その仲間もここにいる。昼間の街中ならば鉢合わせする確率は確かにある。もっと人通りの少ない道を選ぶことも出来たのにそれをしなかったのはよっぽどアッシュが動揺していたという証拠だ。
返事があるとは思っていないのだろうティアはそっとアッシュに近づくと、遠くに見える人だかりの中を指差す。
「ナタリアならあっちの店に入って行ったわ、呼んできましょうか?」
「必要ない」
足を止めずに一言だけそう告げる。ティアはそうと一言呟いて無理にアッシュを引きとめようとはしない。それをいいことにそのままさってしまおうとしたとき後ろから聞きなれた声がしてアッシュはむっと眉をひそめた。
「ティア! アッシュ捕まえといて!!」
ざわざわとした街の中でもその声は良く通ると思うのは、それが聞きなれた声であるからに違いなかった。振り向けば道の遠くで赤い髪を揺らして走ってくる人影が見える。
「見つかったわね」
他人事のように呟くティアにとっては確かに他人事なのだろう。
「アッシュ!」
全力で駆けてくるルークと普通に歩くアッシュではその距離が縮まるのは当然だ。今から駆け出せば離せない事はないがそうすれば逃げているとアピールするようなもので、アッシュは一瞬迷った後仕方なくその足を止めた。
「アッシュ! やっと追いついた。ティア、捕まえといてくれてありがとう」
ルークからの礼にティアはちらりとアッシュを見てどうしたものか思案しているようだったが、良かったわねと一言返すだけにとどめた。どう見てもティアがアッシュを引き止めたわけではなく、面倒だからアッシュが足を止めたことを分かっている。そのくらいにはあの仲間達の中でそれなりに苦労しているのだろう。
「そうだよアッシュ、帰るのはまあいいとして、返せよな!」
ぐっと手を突き出して、返せというのだから指輪のことだろう。わざわざそのために追いかけてきたのかと思えば、その指輪がそれほどの価値のあるものではないと知っているアッシュにとっては理解しがたい。
「もともと俺のもんだろうが、それに気がつかなかったんだ、どうでもいいだろうがあのくらい」
「よくない! せっかく……」
「よくねぇのはお前だ、街中で人の名前大声で叫ぶな」
「だって、アッシュそうでもしないとすぐどっか行っちゃうし、だいたいお前が、」
「うるせぇ、だから言うなっていってんだろうが」
「アッシュがあれ持ってかなかったら俺だって叫ばずにすんだのに」
「じゃあ返したらおとなしく黙るってのか?」
「うっ……」
その沈黙はまだ何か言うつもりがあったということだろうか。そのくらいは予想済みだ。そうでなければ顔をあわせるたびに毎回なにやら理由をつけて近寄ってきたりはしない。
ルークが黙ったところでとっとと手の中の指輪をルークに投げつけてここを去ってしまおうと考えていたアッシュはふとルークから視線をはずして少しだけそれを後悔した。
「分かってると思うけど、もっと邪魔にならないところで喧嘩したいならすればいいと思うわ。とりあえず、目立ってるわよあなた達」
ティアでさえルークたちから一歩下がったところで二人を見つめているのに、周囲の知らない人たちは言わずもがなだ。何があったのかとちらちらと二人を見やる野次馬はそう多くはなかったが、それでも二人の周囲は騒動に巻き込まれないようにとそっと避けられた結果人ごみの中でぽっかりと開いた空間になっていて、要するに酷く目立つ状態だった。
ルークは我に返ったのかえっと小さく声を上げると周囲を見回してどうしようと目で訴えてくるし、アッシュはいたたまれなくなってルークの腕を掴んでぐっと引っ張った。
「いいからこい」
「え、ええ?」
目立つことはしたくないアッシュが考えたのはとりあえず人のいないところにいこうとそれだけだった。あのままではいい見世物だ。
はじめは訳の分からない感じで引っ張られるままだったルークも少し歩いているうちに頭が冷えたのかおとなしくアッシュの後をついてくるようになった。
音機関都市と呼ばれるベルケンドは人で賑わう商業街は街のほんの一部だ。少し歩けばそこは研究機関や工場の立ち並ぶ人気の少ない場所に変わる。黙ってついてきていたルークもその時間が長くなるにつれて疑問がわいてくるのも当然で。
「アッシュ、どこまで行くんだよ」
きょろきょろと周囲を見回して、何を不安に思っているのかつかまれた腕を逆にぐっと引き返した。
「別に」
「別にじゃねぇだろ、ここどこだよ。もう、帰れんのかな俺」
独り言のような泣き言をポロリと漏らすルークを振り返って、アッシュはずっとルークの腕を掴んだままだということを思い出す。けれどなぜか離し難くて、そう思ってしまった自分に舌打ちする。アッシュは黙って人の気配がないことを確認するとその手をゆっくりと解いた。どこかの研究所だろうか窓の少ない建物が幾つか並んで、その隙間から奥に海が見えた。確かにどこだか分からないが、海が見えるのだ、ベルケンドは作られた都市ゆえに道も単純で方角さえ分かれば迷うことなく目的地にたどり着けるはずだ。それを伝えてもルークはまだ不満げだ。
「で、まだなんか言うことあんのかよ。こんなとこまでつれてきて」
そう問われてアッシュは何のためにここまでルークを連れてきたのかを思い出して口をつぐんだ。あの場から離れたくてつい騒動の相手であるルークまで連れてきてしまったがそのまま置いてくればよかったんじゃないかと思ったのは今の話だ。アッシュからは何も話なんてない。むしろしたくなくて逃げていた方なのに。
アッシュは不満げなルークに言う言葉を捜して目を逸らす。どうしてといわれても答えられない。なんとなく、見られたくなかったから。それはアッシュ自身がそれともルークを? とにかく騒ぎの中心になることが迷惑であることには変わりない。
「あんまり目立つ行為をするな、どこで狙われるかわかんねぇんだからな」
「うん、そこはごめん。でも」
ぐっと顔を上げたルークの言葉を塞ぐように、手の中にしまったままだった指輪を押し付けるように差し出した。
「別に大した物じゃなかったらしいな。そんなものお前ならいくらでも手に入るだろう?」
古びた指輪はそう大きくもない宝玉と譜の刻まれたシンプルな土台でその譜にたいした価値がなければ指輪自体にも価値がないということだ。いつもは腰に下げている剣にしても、身に着けている響律符にしても、身に着けているのは効果の高い高級品のはずだ。公爵子息としても大事にするほどの価値があるとも思えなかった。
それなのに、ルークはその差し出された指輪を手にとって、本当に嬉しそうに笑ったのだ。とても大事なもののように手の中にぎゅっと込めて、小さくありがとうと言う言葉が聞こえる。
何がそれほどルークをひきつけるのだろうか。アッシュにとっては不吉なそれをルークが手に入れたがる理由が分からなかった。
「でも、アッシュがくれたのはこれだけだよ」
そう言って、ふわりと笑う顔を前も見た。その笑顔はアッシュの心をざわめかせる。どうしてそこで笑うのか分からないからか、それとも。
「別にお前にやったわけじゃない」
「……いいだろ、たいした価値がないんだったらナタリアにあげても意味ないじゃん。だったら俺が持っててもいいじゃん」
「どうしてそこにナタリアが出てくる」
「そうだろ、自分で渡せばいいのにもしガラクタだったら困るから俺に渡したんだろ。だったら」
ルークがアッシュの視界から指輪を隠すかのように手を隠そうとするのを見て、無意識にその手首を掴みあげた。
「何だよ、返せっていっても返さないからな」
何を意地になっているのかむっと睨みつけるような目線に、アッシュもなぜか面白くない。別に返せとかそういうことは一言もいっていないし、そもそもそんなものは要らない。けれどそんなアッシュの要らないものを大切にしているルークがなぜか気に障ったのだ。
それはアッシュが捨てさせられたものを持って目の前に現れたルークの存在を思い起こさせた。そんなものはどうでもいいと思っていた。けれども、手の中からすり抜けて初めてどうでもよくなかったものだと気付かされた。
ルークが消えたと思ったとき、残されたのがその指輪だと思ったとき。
アッシュが感じた喪失感と良く分からない衝撃。失ったと思った。
ルークはただのレプリカで。レプリカの一人としては認めていたけれど、それは多くの人やレプリカの中の一人で、アッシュが利用できる人物の一人に過ぎなかったはずだった。こんな世の中ではいつ命を落とすか分からない。そうやってアッシュの目の前でも幾人もの人やレプリカが命を落としていった。ルークもその一人のはずだった。
けれど、ルークがまだ生きていると知ったその時、アッシュは知ったのだ。こいつを失わなくて良かったと安堵したことを。それまでに感じた喪失感と衝撃がどれほどのものだったかということを。
ルークを失いたくなかったのだ。アッシュを動かしたのはただその感情だけだった。
どうしてそう思うのかなんて、分かっていた。他人にルークを評価されるのにむかついたのも、アッシュに向けられた笑顔を嬉しいと思ったのも、ただの指輪を大事そうに見つめるルークに苛ついたのも。
ルークはアッシュのためのレプリカで、アッシュのために生きて、そうならよかった。
掴み上げた手ごとルークを後ろの壁に押し付ける。
「アッシュ、何怒ってるんだ?」
無言でルークの瞳をじっと覗き込む。その瞳の色はルークの手の中に込められた指輪と同じ色をしている。そこに映るアッシュの瞳の色も同じ色だ。見つめるだけで何も言わないアッシュに焦れたルークが再度アッシュの名を呼ぶ。
呼ばれる名前がなぜか心地よく感じる。
今ルークの視界も心も占めているのはアッシュだけだという自信があった。世界のことも形だけの指輪のことも今のルークには何もない。ただアッシュだけ。
呼ばれた名前に答えるように、アッシュはおもむろにルークの唇に自分のそれで触れた。壁に縫い付けられたルークが少しだけ体を揺らしたが、アッシュは有無を言わさずにそれを押さえ込む。一度唇を離せばルークが小さく息を吐いた。そして何か言いたげに開こうとしたその口をもう一度言葉も吐息も全てを飲み込むように深く蹂躙する。空いた右手でルークの頬に触れ、そのまま滑らせるように耳朶へそして柔らかな髪の中へうずめる。触れたルーク全てが熱く熱を帯びて、そこに命が確かに存在することを実感する。ルークが潤んだ瞳を薄く開いて、何かに耐えるようにぎゅっと閉じた。掴んだままのルークの手が力なく開かれて何かがそこから落ちた。けれどそんなことはどうでもよかった。開いた手のひらを合わせるように掴みなおして、より口付けを深くする。
言葉になんて出来なかった。
言葉になんて出来ないのだ。
認めるわけにはいかないのは唯一つだけだったのだから。
触れて、離れがたいこの熱も、ただ心を占めるたった一つも、それが何か知っていてアッシュは強く思う。
ルークを愛しているなんて絶対に、ない。