平行世界 並行世界・パラレルワールド。
世界の時間軸のとある時点において分岐し、この世界と並行して存在するとされている世界のこと。
ルークがびくりと肩を揺らしたのは、がたんと窓ガラスが大きな音を立てたから、ではなかった。
確かに外はもうすでに暗く、その様子は窓ガラス越しにも見ることは出来ないし、そこに迫っているという嵐もまた、昼間だったとしても目に見えるものではない。けれど、またがたりと窓がゆれて、雪国ゆえに二重になった頑丈な窓なのに外れてどこかに行ってしまうんじゃないかと思うくらいのものすごい風の音が聞こえる。普段ならば外の音すら聞こえない宿の一室にも近づいている嵐の足音がじりじりと近寄ってくるのが手に取るように分かった。
その音はもちろんルークの心臓をどきりとさせたし、一晩経てば嵐も過ぎるとジェイドが言ったので布団でもかぶってやり過ごすことは出来るだろう。
けれど、いまルークの頭の中を占めているのは迫る来る嵐ではなかった。
「……」
小さなため息がルークの後ろから聞こえる。そのたびにルークはびくりと肩を揺らしてちらりと肩越しに後ろを振り返ってしまいそうになってぐっとこらえているのだ。
ルークの目の前には今日の日付しか書かれていない日記があって、それに集中しようとペンを握り締めてペン先をインクに浸すのだけれども、いざそこに何かを書こうとするととたんに何を書けばいいのか分からなくなってしまうのだ。
出だしはどう書こう。例えば、「いま後ろに仏頂面のアッシュがいます?」……だめだ、もっと楽しくなるようなことを書こう。そうだ。
『今日は珍しくケテルブルグのホテルに泊まっている。いつもは高くてあんまり立ち寄らせてくれないここを選んだのは……』
その日は夕方からグランコクマへ向かう予定でアルビオールの舵を切って広い空をぐんぐんと進んでいた、はずだった。
「……飛べないことはないですが、嵐が近づいているみたいですね。少し計器にノイズが入ってきてますので、できればどこかで停泊したいのですが」
おずおずと後ろを振り返ってノエルが飛べないかもと言うのをルークははじめて聞いた。
空は確かに北に向かうごとに少しずつ暗くなり、アルビオールのガラスにぽつりと水滴もつき始め、外に出たくないなくらいには思っていた。けれどアルビオールの中に雨が降る訳でもないし、どのくらいの風が吹いていてどのくらい影響があるかなんてパイロットであるノエルにしか分からない。今までだって多少の雨くらいならばノエルは何も言わずに目的地にまで飛ばしてくれたし、出発する前に天候が悪ければ経路を変更することも時間をずらすこともあった。けれど、飛行中にノエルがそんなことを言うのは初めてなのでルークは少しだけ驚いたのだ。
ノエルは案外頑固で、一度決めたことは譲らなかったし、特にアルビオールに関しては世界でも特にこの機体を限定すればノエルが一番理解しているといえる。故に、無茶な運転は決してしなかったし、けれど出来ると言ったことは多少の天候の変化があろうともやり遂げていた。なのに今日そんなことを言うのならばこのまま進むのは本当に危険なのだろう。
「どこなら降りれますか?」
グランコクマへと行くことを決めたのもジェイドだし、何かやるべきことがあって向かうのだろうに、静かにノエルにそう問いかけたのはやはりルークと同じことを考えたからだろう。
「計器に少しずれが出ています。グランコクマ方面から嵐が近づいているようですので、少し離れますがここから東、または南へ引き返すことになります。なのでアルビオールが降りられるような平野で一晩過ごすか、ダアトへ戻るかケテルブルグへ向かうかですね」
どこかで一晩嵐をやり過ごさなければいけないのならば、一番目的地に近いのがこの付近の平野に下りることだ。アルビオールの中には食料も毛布もそれなりに積んであるし風で飛んでいくことも多分ない。一晩ならどうとでもなるだろう。
けれどノエルを初めとしてこのアルビオールには女性も乗っていることだし、きっと嵐の間もノエルはアルビオールから降りないだろう。そう考えればちゃんとした港、あるいは軍港を借りてアルビオールを避難させるべきだとルークは思った。もちろんジェイドもそう思っただろう。自分達は交代で戦うことも荷物を持つことも出来るが、操縦士に代わりはいない。
「ケテルブルグまでいけるのでしたらそちらへ向かいましょう」
「はい、了解しました」
操縦桿を握りなおしたノエルが真剣な表情で機器を見つめた。ゆっくりとアルビオールが進路を変えていくのが分かる。ルークには空の上ではどこに向かっているかなんて分からないが、ちゃんとケテルブルグにむかっているのだろう。
進路を変えて数分後、先ほどまでさほど暗いと思わなかった空がにわかに暗くなって窓に打ち付ける雨が時間を経つごとに強くなってきた。嵐は北西からやってきているという、北に向かうという点では近づいているとも言えなくもない。けれどノエルが大丈夫だといった到着地点だから絶対に間違いはないと思うが、暗くなる空にルークはなんとなく小さな不安を覚えずにはいられなかった。
機体の右側の窓の奥を覗きこんでルークはうっと声を漏らした。
「ルーク、どうした?」
隣に座るガイがアルビオールの計器から目を離してルークへと向かった。さっきまで揺れる計器ばかり気にしていたくせにこんなルークの小さな動きに反応するなんてどうかと思うが、気付かれたものは仕方がない。べつに、と誤魔化しても視線の先を見られれば簡単に分かられてしまうのはずっとルークの側で見守ってくれていた以上仕方がないのだ。
ガイはああ、と小さく声を上げてその分かっただろう原因をあえて言わないでいてくれた。なのに。
「ご主人様、あっちすごい雷ですの。おへそ出してちゃ危ないですの!」
そういいながらぐいぐいとそのふわふわとした背中をルークの無防備な腹の上に押し付けてくるものだからくすぐったいやらむかつくやらで、ルークは思わずその両耳をぐっと掴んだ。
「ミュウ~?」
これではルークが雷を気にしていたのがばれてしまったようなもので、ガイは苦笑いしているしティアはミュウとルークの間で視線をさまよわせているし、散々だ。けれどまた視界の向こうで一条の光の線が空の上から下まで走ったのがみえてびくりと体を振るわせた。やっぱりガイは苦笑いをしている。もう見るなと言いたかったが声を出せばまたよけいな反応が出てきそうだったのでルークはぐっと押し黙った。
別に雷が怖いわけではない。確かに幼い頃は雷の音もあの空の天辺から地上までを一瞬で引き裂くような光の柱はルークに恐怖を与えたが、その理屈を知ってからはそれほどの恐怖の対象とはならなかった。雷に当たるのは嫌だが、見る分には稲光の一瞬世界が白く照らされて幻想的だとすら思う。けれど、幼い頃に心に焼きついた恐怖というものはそんなに簡単に取り除かれたりはしないのだ。
特にルークは怖いものからも痛いことからも、今考えれば驚くほどの慎重さでそれらから離されていたように思う。人の手では如何ともしがたい自然の脅威しかルークを驚かせるものは屋敷にはなかった、それだけだ。
だから、本当に怖いわけではないのだ。
けれどそれを伝える人はいない。ルークは窓から目をそらせてあと半刻ほどで到着するといわれたのでもう何も見ないように目を閉じた。
ケテルブルグ港にアルビオールを無事に入港させ、ルークたちが馬車でケテルブルグへと向かったのは夕方を回って日も落ちてからのことだった。
この時間になれば普段ケテルブルグへ向かったとしても宿に空きがないときもある。特に今日のような嵐が近い、というよりはもう風が吹き始めているし、いつもなら開いている店も店じまいしているところも多い。にぎやかで明るいはずのケテルブルグは日が落ちたからというだけでなく、いつもより暗い気がした。
人が外を歩いていない、というものもあるだろう。ということは、いつもなら外にいる人や今から港に行こうという人がいないという事実がもしかして泊まる所がないんじゃないかという疑問に摩り替わるのは当然だ。今まで使ったことはないが、最悪はネフリーに頼れば少なくとも寝る場所は確保できる……と思うのだが、それは最終手段だ。
いつもの宿は埋まっていて、もしかしてここもうまってはいないかとびくびくしながら一番奥にあるケテルブルグホテルのフロントへ声をかければ案の定ほとんど埋まっている状態だったけれど、何とか部屋を確保することが出来た。いつもより少しだけ高い部屋になったが仕方ない、ここはラッキーと思って堪能すべきだとルークは思った。
ルーク達がケテルブルグへついてから三時間ほど経っている。ひとまず部屋が取れて一息ついた後に、このあたりの嵐の状況から交通情報などアルビオールの上では正確に手に入れることの出来なかった情報を集めた。
今夜中にはどうにかなるだろうと思っていた嵐は明日の昼前までは風も止まないらしい。予定していた出発時刻の変更を余儀なくされてしまう。港にいるノエルにも伝えないといけないだろう。まだ雨風の強くならないうちにと、アルビオールが心配でならないらしいガイと夜食を持っていくんだと籠を抱えたアニスがケテルブルグを離れたのが一時間ほど前だったと思う。港に客を迎えに行くというホテルから出してくれる馬車に乗って二人で出かけたその間、ルークとジェイドはラウンジでアニスたちを待ちつつ外の様子を眺めていたのである。部屋に戻ってもよかったが、こんな天候の中外に出てくれた仲間がいるのに部屋でぬくぬくしているのは性に合わない。途中でナタリアとティアも合流して賑やかにアニスたちを待っていたはずだった。
はずだったのだが。
アニスの声がする少し前、ルークたちの前に現れたのは港でアルビオールの中にいるはずのノエルだった。
「嵐が近づいているということで、もっとちゃんとしたところにいたほうがいいといわれたので……」
そう申し訳なさそうに言うノエルにこちらが申し訳ない。アルビオールの中なら安全だろうがノエルも女の子である。本来ならば一人で港なんかにおいておくわけには行かないのだ。
「でも、アルビオールは?」
「それは、ちょうど兄が現れまして、それで自分が見ててやるからって追い出されたんです」
兄、といわれて一瞬ぴんとこなかったルークの脳裏にあの人のよさそうな笑顔が浮かんで、同時にノエルの言った事実から重大なことが判明した。
「ギンジも……アルビオールだよ……な」
「はい、それでですね……」
ノエルがものすごく言いにくそうに口ごもって、ちらりと視線をルークの後ろのほう、ホテルの入り口の方向へ向けた。
その時である。
「たっだいまー」
ルークの背後で明るい声がしたのは。
明るい声がルークの背後から聞こえて、ルークはアニスたちが帰ってきたんだと振り向いて、振り向いたことをちょっと、いや結構後悔した。
アニスの向こうでガイが笑っているのかなんなのかよく分からない微妙な表情をしている。多分ルークも似たような顔をしているのだろう。唯一満面の笑みなのがアニスだ。
「いいもの見つけたから拾ってきたよ!」
そこには、トクナガを背中に背負ったまま不機嫌な顔を全く隠さないアッシュがいたのだ。
声も出ないルークたちにアニスは満足なようで、逃げないからこれをどけろというアッシュにそうだよね、もう外出れないもんね☆ などといいながらトクナガをアッシュの肩から引っ張り下ろした。
どこでアッシュを拾ってきたのかは分からないがケテルブルグに入ってからアッシュはずっとトクナガを背負って歩いていたのだろうかと同情を禁じえない。少なくともホテルの中ではあの格好だったのだろう好奇の目線がアッシュに突き刺さっているのが見えた。こんな状態なのに比較的おとなしくしているのはその所為だろう。
「アッシュ、貴方もこちらに用があってまいられたのですね」
アッシュにどう話しかけるか考えているうちにナタリアがすっと立ち上がってアッシュの前に歩み出た。空気を読んだから、というよりは全く読まずに、といった方が正しいように思うが、ナタリアのこういうところは素直に賞賛に値すると思う。
「お前達と同じだ。俺もここで足止めだからな」
アッシュが仕方なくといった顔で答えるのを見て、多分そうなんだろうと思った。そのくらいの理由でなければアッシュがわざわざルークの滞在する街に近寄ろうなんて思わないはずだ。ましてやアニスに捕まったからといって姿を現すなんて。
いつもならば、アッシュは回線を通してルークの居場所が分かるらしいので本当に用事がないならばルークを避けて歩くし、ギンジや漆黒の翼情報で何度同じ街に滞在していたのに知らなかったことがあるだろうか。そのたびにルークはこの回線が一方通行でしかないのを悔しく思ったのだ。
そのくらいアッシュは徹底的にルークを避けていたのでこんな形で邂逅するなんて思わなかった。
「だからさ、ノエルの分もギンジさんがアルビオール見てくれるって言ったから、夜食は押し付けてノエルと戻ってきたんだよー」
そう明るく言うアニスだが、ノエルが安全なところに居るのはもちろん歓迎べきことだ。だがしかし、予定外に増えた人数分、予定外のことが起こるはずなのだ。
「でも、部屋もう空いてないかも」
もともと取れた部屋はシングルは全部埋まっていてツインだけだった。残りはスイートルームくらいだがそんなものはルークたちのお財布事情で手が出せるわけはない。もともと四部屋確保できていたのでベッドに空きはあった。ただ、アッシュが一人で借りる部屋は残されていなかっただけで。
そんなわけで、公正な判断の結果ルークとアッシュが同室になったのは仕方がないのだろう。
アッシュが誰と同室なら構わないかというのが最大の判断基準だ。ガイもジェイドも構わないと笑顔で言うものだから、アッシュにはほかに選択肢がなかった、それだけだ。
少なくともルークとともにいるなら命の危険はない。最後にそう断言したアッシュの言葉がルークには喜んでいいのかどうなのか悩むところだ。ガイだってジェイドだって夜中に襲ったりしないし取って食ったりしないのに、と思うがアッシュの中では違うのだろう。一度アッシュの中での彼らの位置というものを確認してみたいと思ったが、聞くのがちょっと怖い。
もうちょっと歩み寄れたら、聞けるのかもしれない。それがどのくらいのちょっとかは分からないけれど。
けれどルークはそんな消去法でも自分を選んでくれて嬉しかったのだ。
うきうきとアッシュを案内して部屋に入れば、すぐに荷物を置くとアッシュはどこかに行ってしまった。
何かを食べに出かけたのか、ホテルの中でも買い物は出来るから買出しに出かけたのか、もしくはナタリアと話でもしているのか。「ここが部屋だよ」以外の会話をしなかったものだから、ルークはアッシュの行き先を悶々と考えたりしていたが、考えても仕方がないとごろりとベッドに横になった。
窓側のベッドに転がったルークはカーテンに手を伸ばして外の様子を見た。
雪国仕様のしっかりとした窓は外の風の音も雷鳴もそれほど大きくは聞こえない。けれど時折空を真白に染める稲光だけは何もさえぎるものもなくルークに届く。ぴかっと光るその少し後に雷鳴が小さく聞こえる。一人でいる部屋は静かで遠くの雷鳴もしっかりとルークの耳に届いてしまう。
このままきっと夜中も雨と雷の音しかしないのだろう。アッシュと騒ぐという選択肢はルークの中にない。もちろんアッシュにもないだろう。けれどルークはこのせっかくの機会に少しでもアッシュに近づきたかったし話だってしたかった。だが、会話というものは相手にその意思がなければ成り立たないものだ。ルークと同じ空間にいたくないと言うのは悲しいかな分かってしまうけれども、機会くらいは欲しい。
自分からアッシュを探しに行こうかと考えもしたが、この嵐だ、荷物もここにあることだしアッシュがどこかに行ってしまう事は考えにくい。今日はこの天候のせいかスパも人が多くてアッシュは行きたがらないだろうし、時間をつぶせるような場所はどこにもないはずだった。
一時間ほど一人で悶々としていただろうか、目をつぶっていたのは暇だったからで眠かったわけではないのだが、眠っていたようだ。目を開けるのも億劫でけれどまだ寝る時間でもないので目を覚まさないといけないとがんばるけれども瞼はルークの思いに反してほとんど上がらなかった。
その時ふわりと何かが頭に触れた気がした。それは温かくて、撫でるようにルークに触れていく。それを感じたときに特に理由は無い、目を閉じていいんだと思った。だから目を開けずにそのままで。ふわふわとした気分の中、微睡んでいた。
「うわ……っ、と?」
ひときわ大きな雷鳴が耳に届いて声を上げてしまった時にルークはようやくもしかしたら寝ていたのかと気がついた。それくらい寝た、という意識は全くなかった。
「ああ……アッシュ帰ってたんだ」
一瞬で覚醒したのは雷鳴が大きかったせいか、それとも目を開けたその視界の中にアッシュがいたからか。もしかしたらアッシュが帰ってきた音で目が覚めたのかもしれないと思うほどにアッシュとばちりと目が合って、ルークは気恥ずかしさに小さく笑って誤魔化した。
アッシュは二つ並んでいるベッドの間に立って、ルークを見下ろしている。どうせ間抜けな顔をしているとでも思っているのだろう。目があってすぐにアッシュはふいと目を逸らす。返事もないということは自分と会話すらしたくないということだろうか。それでもルークはアッシュと何かのコミュニケーションをとることをあきらめるつもりはなかった。
「アッシュいつもと服が違うな」
いつもの師団服ではないのはルークの目にも珍しかったのでそう言っただけなのに、アッシュは自分の服を少しだけ見下ろし、再びルークへと視線を向けたときにはなぜか苛立った視線に変わっている。
「風呂に入ったんだから当たり前だろう。道中少し濡れたし、ホテルの中であの格好のまま歩き回る趣味はねぇ」
そういえば、アッシュのルークより少しだけ濃い赤い髪がしっとりと濡れている気がする。前髪もいつもきちんとまとめて上げられているのもなく、はらりと顔に少しだけ流れたそれがいつもと違う雰囲気をかもし出しているのだろうか。アッシュが帰ってきて風呂に入っていることすら気がつかなかったルークはどうなのだろう。可能性としては……
「もしかして、スパに行ってきたとか?」
「……」
無言で否定された。スパに行くならフリーパスがあるよ! と伝えたかっただけなのだが、アッシュが喜んでスパに行くとも思えなかったので言わなくてよかったかもしれない。
「いや、ナタリアたちはどうせだから楽しむ! ってスパに行く話ししてたからアッシュもいったかなーと……あ、もしかして後悔してる……」
ぎろりと睨まれてルークは語尾を濁して黙らざるを得なかった。水着姿をみたかったのかなと一瞬思ったのだが、口に出さなくて正解のようだ。
話題を変えようと、ルークは立ち上がってアッシュのほうへ心もち歩み寄った。けれどアッシュは手元の荷物から剣を取り出して手入れをはじめていたのでルークのほうを見もしなかった。
「なあ、夕食は食べたのか?」
アッシュがホテルについたのは夕時にはすこし遅い時間だったはずだ。今はすでに十時を回ってレストランよりもバーが賑わう時間になってきている。
「さっき食べた」
つれない返答にルークは次の言葉を続けることが出来ない。
「風呂は……はいったみたいだし、じゃあ……」
「ごちゃごちゃうるせぇ、黙れ」
そんな一言で黙らされて、ルークは恨みがましくアッシュを見つめるしかなかったが、アッシュはルークのほうさえ向いていない。じっと手元の剣を見つめる目の方が真剣そのもので、剣に負けたのだとルークはそんなことで落ち込みたくはなかったが、負けたものは仕方がないとあきらめた。
アッシュは会話に付き合ってくれなさそうだ。もったいないけれどもアッシュが同じ部屋にいることを許容してくれているだけで今日は我慢するのがいいのだろうか。
「いいじゃん、どうせ暇なんだし話くらい……」
小さく呟いた言葉は別にアッシュに向けたものではなかった。ただのぼやきだ。当然のようにアッシュからは何の反応もない。アッシュから話を振ってくれるわけもなく、アッシュは相変らずの仏頂面で、やはりルークと同じ部屋に押し込まれたことは不本意なのだろう。難しい顔で剣の手入れを済ませて枕元に立てかけた後、その様子をじっと見ていたルークをちらりと見て、やはり何も言わずに荷物の中から何かの報告書だろうか紙の束を取り出してめくり始めた。これは本格的にルークの相手はしてくれないということだろう。
アッシュは構ってくれないし、ルークだってこの嵐の中することはない。もともとケテルブルグに来る予定はなかったのだ。それに少し早い時間についてしまったため、やるべきことは先にやってしまっていたし、けれど寝るには少し早い時間でルークはどうしようか悩む。アッシュと話をしたい気持ちはある。けれども話すきっかけも内容も思いつかない。
そうだ、ガイのところに行ってみればなにかアドバイスをもらえるかもしれないし、アッシュもルークなんて部屋にいないほうがいいだろう。それはとてもいい考えに思えた。
持って行くのは、ルームキーだけでいいだろうとそれを手に取り歩き出そうとしたルークの背中に声がかかったのはその時だった。
「どこに行く」
まさかアッシュから声をかけてくれるなんて思ってもなかったのでむしろ驚いて振り向けば、やはり仏頂面のアッシュがさっきまでは向けてこなかった視線をルークに向けていた。手に持ったものを確認するように視線がすべって、鍵しか持っていないことを確認したようだ。
「え? あ、ガイの所にでもいこうかなと……」
正直に告げればアッシュの口から一番に漏れたのはため息だった。
「な……なんだよ、別にいいだろ。スパでも買い物でもどこにいこうと!」
手に持っているものをみればどこに行くかなんて簡単に分かるだろうに、さすがに女性たちの部屋にいこうなどの強い心は持ち合わせていないし、アッシュがそのことを言ったとも思えない。アッシュだってルークがいないほうが落ち着くに決まっているのに、何故そこでため息なのかルークには分からない。
「行くのはいいが、多分いないぞ」
「え?」
けれどアッシュから告げられた言葉にルークはその内容よりもアッシュがそれをわざわざルークに告げてくることのほうに驚いたのだ。
「さっきバーで眼鏡と飲んでるのを見たから部屋にはいないだろうと言ったんだ」
「そうなんだ、アッシュ教えてくれてありがとう」
アッシュは知っていてもそういうことは教えてくれないと思っていたし、純粋にアッシュに感謝しただけなのだが、アッシュはルークの感謝の言葉が来ると思っていなかったのか不自然ににルークから視線を逸らせたのが見えた。
「別に、お前が出たり入ってきたり、いなかったらいなかったでまた騒ぎそうだったから。それに子供はそろそろ締め出される時間だろうが。話なら明日すればいい」
目を逸らされたその横顔はアッシュらしくない言葉を吐きながら少し照れているようにも見えた。ああ、自分で言って何でこんなこといってんだとか思いながら恥ずかしがっているのだろうかとルークは想像して、それに対してアッシュに何か言うのはやめた。
アッシュのいつもの冷たいと思われる言葉だって、アッシュが悪意を持ってルークに投げかけているとは思わなかった。こんな自分でも手を貸してくれるし、時折情報だってくれる。突然切りかかられることも今はないし、部屋を共有するくらいにはルークの存在を認めてくれているのだと思う。アッシュが苛立って怒鳴ったりするし、言葉だって時々はきついけれども、それでもルークがアッシュのことを嫌いになれないのはアッシュがルークのことをアッシュなりにちゃんと見てくれていることを感じているからだ。
「そうする」
ルークはルームキーをもとあった机の上におき、荷物の中から日記帳を取り出すと机の上に広げて机に向かって腰掛けた。どこにもいけないとなればもうすることはない。日課の日記を書いていればそこそこの時間になるだろうから早めに寝よう。そうすれば外の雷鳴も、アッシュの仏頂面も気になることはないだろう。せっかくアッシュがいるのにもったいない気はするけれども、あまり話しかけすぎて嫌われるのも困る。二三話しかけたけれどももう短い返事しか返ってこなくて、機嫌を損ねたわけではないのだろうが顔にしっかりと面倒だと張り付いていたので話しかけることをやめてしまった。
ルークは荷物の中から日記帳を取り出して、部屋の隅にあるテーブルへ置いた。向かい合わせに二脚ある一人掛けのちょっとだけ豪華な椅子に腰掛けると少しだけほっとするのは視界の中にアッシュが映らないからだ。背後に居るアッシュが気になるが、また話しかけてもうるさいといわれるだけだしルークは寂しく日記に向かったのだ。
後は何を書こうか、そう考えながら走らせていたペンを止める。アッシュと何か話しでも出来たらもうちょっとここに書くことも増えただろうなと思うと日記の隙間が恨めしい。ルークの行動が何か悪いのかと思い返してみても、普通に話をふっただけだと思うのに、話題が悪かったのか。けれどアッシュの好みそうな話題なんて知らない。ナタリアの話、といっても今日は部屋に入る前にナタリアに捕まって話をしていたようだし、かといってこの間はそれならアッシュを釣れると思ったのに、やっぱり怒られたのだ。だったら何の話をすればいいのか。結論の出ないまま今日の絶好の機会を逃してしまった。
もう少し、アッシュのほうがルークに対して優しい気持ちで接してくれれば、と思うのは贅沢だしルーク自身が認められる努力不足なのだろう。アッシュの為に日々前を向いて進んでいるわけでもないけれども少しは歩み寄って欲しい。
ちらりとアッシュを振り返ればやっぱり難しそうな顔をして何かを読んでいる。何を読んでいるのかと目を凝らしている間にアッシュが少しだけ顔を上げて、目があってしまってすごく気まずい。なに読んでるんだと聞けば答えてくれただろうか、けれどその機会はもうすでに過去のものだ。どんな答えが返ってきたのか、素直に答えてくれるかうるさいと一蹴されるか、思い描いてもその未来は自分には降ってこないのだ。
アッシュから目を逸らしてルークはもう書くことのない日記に目を落とした。時間はまだ早い。けれどこんな沈黙と居心地の悪さを感じているくらいなら早く寝るべきだろう。
丁度よく、外で稲光がして直後に大きな雷鳴が轟く。
「……明かり消えたりしないよな」
音素灯も音機関で出来ている。雷が近くに落ちたりすれば雷の持つ音素が一気に流れ込んでその負荷で音機関が故障してしまうことがあるのだ。何度か体験したことのあるその暗闇は、稲光とのコントラストで余計に怖いと感じてしまう。
呟いてから、雷や暗闇が怖いと言っているようなものだと気がついたが、出た言葉は消えない。アッシュが聞いていないといいなと思ったがこの距離だ、無理だろう。
案の定後ろから鼻で笑われた気がした。
「このくらいのホテルなら避雷針もついてるだろうし、そもそももう夜なんだ明かりが消えたところで暗いだけだろ。さっさと寝ればいい」
馬鹿には……されていないのか、けれど子ども扱いされたような気がしてルークはむっとする。
「別に明かりが消えたって怖くなんかないし」
そう言えば、アッシュはああと小さく呟いて、なんでもないことのように言ったのは。
「本当に怖かったのか」
「違うし!」
ルークはパタンと日記を閉じると荷物の中にしまって、アッシュのほうを見ることもなく自分のベッドへともぐりこんだ。これ以上何か言えばまたアッシュに馬鹿にされそうだし、本当は明かりが完全に落ちてしまうのではという恐怖もあった。風は強いし、雷も止まない。耳を塞いでしまいたかったがそれをアッシュに見られるのも嫌だ。毛布の中にもぐりこんで横になればモヤモヤとしながらも眠れるだろう。その行動が完全にアッシュの言葉を肯定しているのは分かっていたけれども、事実の部分もあるのだから仕方がない。これはただこれ以上ぼろを出さないための自衛策なのだ。
そういえば、今日なら言えると思っていたお休みなさいの一言をアッシュに結局告げられなかったなと思いながらルークの意識はゆっくりと沈んでいった。
酷い雷鳴に一瞬意識が浮上する。
ここは安全だ、それがなぜかは分からなかったがそう思ったのでルークは瞼を閉じたまま布団の中に顔をうずめる。目を閉じているから稲光がカーテン越しにルークへ襲ってきているかは分からない。酷い風の音と雷鳴はルークに届くけれども、別に怖くなんてなかった。
ここはあたたかいから、安心できるのだ。
それがなぜかは全然思い出せなかったけれども。
1.Side A ルークの場合
いつもならばカーテンの隙間から光が差し込んで鳥の声が聞こえてそれが朝だと告げてくるはずだった。けれども嵐が過ぎてまだ強い風が止まない今朝は朝を告げる使者はどこにも現れなかった。すなわち自分で時間を確認して起きなければいけない、ということだ。いつもならば朝の光か、もしくはガイが同じ部屋のときは起こしてくれるし、別の部屋であっても起こしに来るのは大抵ガイだ。けれどガイが来るまで起きない場合は寝過ごしている場合が多いので他の皆にまたかという白い目で見られるのだ。またか、といわれるほど寝坊はしていない……気はする。が、他の人よりは多いということも分かっている。いったん意識が浮上してくればとりあえず時間を確認してまだ寝るか起きるかを決めないといけない。そう思いながらも、二度寝するのに丁度気持ちのいい布団の中の温度はそこから抜け出すことを拒んでいるかのようだ。
誘惑に負けもぞりと布団の中に再びもぐりこめば、足が何かに当たって違和感を覚える。あれ? また間違って荷物をベッドの上に置いたまま寝てしまったのだろうか。どうせ脱ぎ捨てた服か何かだろう、皺になってると嫌だな。そう思いながらとりあえずベッドの中から蹴りだそうとすればそれはびくともしなかった。再びあれ? と思う間にルークの腕に何かが触れて、というよりはつかまれてぐっと引き寄せられる。その感触にルークはうとうとしていた頭が一気に覚醒してばちりと目を開けた。触れられたものは人の手のそれに間違いはなかった。目が覚めた頭に一気に寝る前の情報が押し寄せてくる。ここはケテルブルグのホテルで、嵐が来ているから泊まらざるを得なかっただけで、同じようにケテルブルグに足止めされたアッシュがこの部屋の同室だったはずで……
「!」
目を開けたルークのその視界に初めに入ってきたのは赤だった。ケテルブルグホテルで寝ている間に誰かが部屋に侵入してくることは考えにくいが、絶対にないわけでもないだろう。けれど寝ているルークの腕を掴むなどという行為が普通の状態で行われるわけはないということも知っている。ルークの隣のベッドで寝ているのはアッシュのはずで、もし侵入者がいたならばアッシュが気がつかないわけもないと思ったし、何よりもその視界に入ってきた赤い色に覚えがありすぎて、ルークは声を上げそうになるその喉をぐっと息を飲み込んでこらえた。
「まだ早ぇじゃねぇか、もう少し寝てろ」
頭の上から降ってくる声にどきりとすると同時に、腕を掴んでいたその手がゆるりと移動してルークの耳に触れそこから後頭部を包むように撫でると、息を呑む間もなく柔らかな温度に包まれた。
ルークは息が止まるかと思った。いや実際に止まっていたのだろう、多分もう死んだんじゃないかなとすら思った。
けれどやっぱり生きていたその証の吐息は目の前にあった白い肩に触れてルークへと跳ね返ってくる。ああ、アッシュは普段からあんなにきっちり着込んでいるからこんなに色が白く見えるんだなと考えていたのはルークの思考がまともでなかったせいだ。そうでなければアッシュに抱きしめられているようなこの状況からの脱出を一番に考えなければいけなかったはずなのだ。けれど、ルークはこの温かさを心地よいと思ったし、いわゆる起きていると思っていたけれど起きていなかったということなのだろう。これは全てルークの二度寝した結果の夢で、状況におかしなところがあるのも夢だから仕方がないのだ。そうに決まっている。
そうでなければ、アッシュがルークにこんなに優しく触れるわけはないし、こんな近くで体温を感じられるわけもない。
ルークとアッシュとの間に出来た毛布の隙間から少しだけ冷たい風が入り込んでくる。少し寒いなと思ったその直後にその隙間を埋めるようにアッシュがルークのほうへ覆いかぶさるように移動してきて、すき間もなく抱き寄せられた。アッシュの腕が背中に回って、向かい合わせにぴたりと合わさるようにアッシュとの距離はゼロだ。抱き込まれたルークの目の前にはアッシュの白い喉に赤い髪がゆるく流れているのが見えてどきりとする。布越しに感じるアッシュの体は呼吸と同じリズムをきざんで、多分ルークのそれも伝わってしまうだろう距離に息が止まりそうになる。少しルークが首をずらせばきっとアッシュにその唇で触れることが出来るのだろうと思う思考に、いやそれはどうなんだとルークの中でブレーキがかかる。だって抱き寄せてきたのはアッシュだし、何よりルークはこの状況を決して嫌だとは思っていないのだ。
そう、夢の中でくらいアッシュに触れたっていいだろう。だってルークはアッシュにどんなに嫌われているとしたってアッシュのことが好きなのだから。
どきどきとする心臓をなだめながらゆっくりとアッシュに触れようとする唇があと少しで届こうとしたとき、ルークの額に温かい何かが触れた。
思わずその感触がなんだったのか視線をずらして確認してしまってルークは今度こそ本当に死ぬと思った。
だって、見上げたルークの目に飛び込んできたのは柔らかな光を灯したアッシュの顔と、多分額に触れたであろう正体であるその唇だったからだ。似たようなことをルークがしようと画策していたことなんてすっかり棚の上に放り投げて、ルークは今度こそ目が覚めたと思った。いや今覚めなければいけない、こんな夢を見たことすら目を覚ました瞬間に全部忘れるべきなのだ。ルークの心臓の為に。
アッシュの瞳の中に目を丸くして驚いた顔のルークが映っているのが見えた。夢だと分かっている夢は明晰夢だとどこかで聞いた。それは自分の意思で夢を左右できるのだ。ならば今すぐ起きることも可能だろう。起きろ、今すぐ。
「ルーク?」
その聞いたことのないような優しそうな声がアッシュのものなんて信じない。そもそもあいつが名前なんて読んだ事があっただろうか。よくてお前、大抵レプリカか屑だ。これは夢、だから起きる!
「俺は、起きるんだ!」
宣言して起き上がろうとして、けれどそれは失敗に終わった。
なぜならば。
「うるさい、もうちょっと時間までおとなしく抱かれてろ」
さらに強くルークを抱きこむアッシュの腕に阻止されたからである。
そして、ルークは今起こっていることが現実だと初めて気がつくのであった。
まだ外は暗い。
それはまだ夜が明ける前の時間であったし、窓の外が豪雨であるせいでもあった。
これでいい天気だったならば、昇ってくる朝日を見ながら澄んだ朝の空気を吸って、外に逃亡するのにとルークは思っていた。それすら心はすでに逃亡している証拠である。現状を理解しようとする気すらルークにはなく、ルークはただ毛布を一枚頭からすっぽりとかぶってベッドの隅っこで壁に背を向けてひざを抱えて、部屋の中で起こっている出来事を眺めていた。
目の前にはこんな早朝だというのに今にも決闘でも始めそうな表情でにらみ合っているアッシュとガイがいた。なにやら言い合っているらしい言葉は断片的にルークの耳には届いているが聞きたくなかった。
なぜならば、その内容が実にさわやかな早朝には聞くに値しないことだと思ったし、それが自分のことだなんて思いたくなかったからだ。
「アッシュ! お前ルークのベッドでなにやってんだ。しかもルークと一緒のベッドになんて!」
「ああ? 別に当たり前だろ。それよりもお前のほうが勝手に俺達の部屋に入ってきて朝っぱらからうるさい」
「ああ当たり前とか、お前いつの間にそんなに開き直って……前からルークを狙ってるとは思っていたが、だからアッシュとルークを同室にするなんて反対だったんだ!」
「何言ってるんだ、俺がルークと同室だなんて当たり前だしいつものことだろう? 昨晩だってそんなにうるさくしてない、と思うぞ。うるさかったんなら悪かったな」
「晩ってなんだ晩って。何かあったのか? ルーク! ルーク?」
ガイとアッシュの視線がルークにふいに向いてルークは答えることなんてなくて毛布に顔をうずめた。それをガイが何と勘違いしたのかは知りたくないが別にどうでもよかった。
「お前が突然部屋に飛び込んできたからルークがおびえてるじゃねーか。とっとと部屋に帰れガイ」
「何言ってんだ、俺はルークの悲鳴を聞いたからルークを助けにきたんじゃないか。あんなにおびえたルークの姿はお前のせいだろうが!」
確かに至近距離で抱き込まれたアッシュに耐え切れずに悲鳴のようなものを上げてしまったのはルークだ。それは覚えているし、なんだか体感ものすごく早くにガイがルークの前に到着したのも覚えている。ガイの顔を見て心底ほっとした記憶もある。けれど、この状況から逃れようとしたルークをあろうことかアッシュがルークを抱き込んでとどめたのだ。そこからどうやって逃げ出したのかは覚えていない。けれどベッドの隅という安住の地を手にいれたルークはそんなことは終わったことだったのだ。
「ああ、あれは寝ぼけてたんだろ。ルークはよく俺と寝てること忘れてベッドからけり落とそうとするからな。そろそろ慣れて欲しいんだが」
「よく、そろそろ? そんなにお前ら……実は俺の知らないところで会ってたりしてたり……なのか? ルーク、お前をそんな悪い子に育てた覚えは!」
ガイがじりじりとルークに近寄ってくるのをアッシュがルークの前で押しとどめている。不可解なアッシュの態度もルークを混乱させていたのだが、何か鬼気迫るようなガイの表情にもあっちにいきたくないと思う。要するにルークの逃げ場はなかったのだ。
「ガイ? 何を言ってるんだ?」
「おかしいのはアッシュの言動だろうが。ルークと二人きりにするなんて初めてなのに朝っぱらから悲鳴が聞こえてきたんだ。またくだらないことで喧嘩でもしてるんだと思えば……まさかルークの貞操の危機だったなんて! ああ、俺はこのままアッシュを切ればいいのか? 何で剣を持ってこなかったんだ俺」
本気で苦悩しているっぽいガイに足元にアッシュの剣が転がっているだなんてことは言わない方がいいだろう。それよりも自分はそんな危機を迎えていたのか、それは知らなかった。……知らない。そう思い込もうとしたのに、ルークの耳にはまだ知らない事実があったらしかった。
「ガイ、お前まさか俺が今までルークに手を出してないとか思ってたのか? そんなわけないだろ」
「なっ……お前!」
アッシュに掴みかからんとするガイとは対称的にアッシュの表情はさも当然のことを言っているような、ルークでさえそんな事実があったのかと思ってしまうほどの顔だったから、ルークはまるで芝居でも見ている気になっていたのだ。
それは自分ではない架空の「ルーク」と「アッシュ」がいてその話を聞いているかのような。
「ルークお前ガイに話してないのか? いやそんなわけはないな、この間だってこれでさんざんからかわれて……ルーク? どうかしたのか?」
ただ黙ってひざを抱えているルークにアッシュがそっと手を伸ばしてくるのをルークは避けたりはしなかった。そっと毛布を避けて頬に触れた手がするりと頬をすべる。その手が確かにアッシュの手だなんてルークはじっと見たことなんてないから知らない。アッシュがルークを目の前にしてこんなに穏やかな声をかけてきたことなんてなかったからその声音が何を意図するのかなんて知らない。
ただ知っているのは、アッシュは決してルークの名前を呼んだりはしないということだけだ。
「アッシュ」
「なんだ、ルーク」
一言呼べば、柔らかい返事が返ってくる。だからさっきも夢だなんて思ったのだ。アッシュがこんな声で自分を呼ぶはずなんてないから。
「お前は誰だ?」
頬に触れたままだった手を掴んで引き降ろしながらルークは目の前の確かにアッシュの姿をした彼をじっと見つめた。
そんなルークに一瞬目を丸くしてアッシュはルークの瞳を見返す。不思議そうな色をしたその目が次第に真剣なそれに変わっていくのが見える。アッシュはルークの中の何を読み取ろうとしているのか、分からないけれどもルークから視線をそらせたりはしなかった。
「え? なんだルーク? アッシュも」
ガイが訳も分からず二人の様子を少しはなれておろおろと見ているのが視界の隅で見えたが、アッシュがじっとルークの瞳を覗き込むものだからルークはただ見返すだけだ。
「お前は……」
アッシュの唇が小さく動いて、ゆっくりと瞬きしたのが見えたその時。
「痛っ……」
突然に襲ってくる覚えのある頭痛にルークは思わずその目を閉じて頭を抱えた。その頭に優しく触れてくるのは、多分アッシュの手だ。回線を繋がれている、というのは分かった。けれど目の前にいるのにそれをする必要などあるだろうか。
「そんなわけ……ねぇよな。悪い、ためしに繋いでみただけ……なっ!」
『この屑が、とっとと俺から離れやがれ!』
それが聞こえたのはほとんど同時だった。聞きなれたアッシュの怒声にほっとするとともに、アッシュは心の声と口と別々の調子で話が出来るのかとすごいなと思って目の前のアッシュを見上げればなぜかものすごく微妙な顔をしていた。例えればさっきルークの部屋に飛び込んできたガイの顔のような。
思わずルークはぱっとその手を離して、ごめんと一言呟いた。
『だから、とっとと離れろ。てめぇ朝からなんなんだ。勝手にベッドにもぐりこんでくるし、挙句の果てにおはようのキ……キスだとか、ふざけるのも大概に……』
「え? 俺、そんなこといったっけ?」
寝ぼけていたとしてもそんなこと言ったことなんて生まれてこの方ない……はずだし、手ならとっくに離した。
目の前のアッシュを見上げれば、顔を片手で覆いながらルークの近くのベッドの端に力なく座り込んで小さくそうじゃねぇと呟いている。
「だから、おまえの目の前にいる俺は俺じゃねぇんだよ!」
「アッシュ?」
アッシュの言っている意味が分からず首を傾げているところにきいんとひときわ大きな音が脳裏に響いたのだ。
『お前のことなんて嫌いに決まってんだろうが! ふざけんな屑が!』
「俺がお前のこと嫌いになるわけないだろう。俺が愛してるのはルークお前だけだ!」
同じ声が脳裏と耳に同時に響く。そのどちらの言葉もルークにははっきりと届いてしまって、ルークは混乱しないわけはなかった。その対極の言葉がルークの中でごちゃごちゃになってぽんと弾けた、気がした。
残った言葉は。
「ルーク、泣くな。俺もちょっと混乱してるが……とりあえず泣かせたあいつは絶対ゆるさねぇがな」
そっと毛布ごと抱き寄せられて、ルークは自分が泣いていることにやっと気がついた。おかしい、アッシュが、ではなくたぶん自分がおかしいのだ。アッシュが自分のことを嫌いだなんて分かっていたことだ。似たような言葉はいつだって投げつけられていたはずなのに。それと同時に聞こえたような言葉は多分自分の空耳なのだ。そうでなければこんな驚きと悲しみが入り混じったよく分からない感情がぐるぐると頭を渦巻くことなんてないのに。
そっと頭をなでてくれる手が気持ちよくて、ルークはそっと目を閉じた。いつの間にか頭痛はなくなっていて、アッシュに撫でられたら回線のときの頭痛がなくなるんじゃないかと勘違いしそうだ。いや、多分そんなことはないだろうけど。
だって、今ルークの頭をそっとなでてくれているのはアッシュではない。アッシュの顔をしてアッシュの声をしているけれども、違うのだ。多分、違うからこそこうやって素直に頭をなでられることだって出来るのだ。
それはどのくらいの時間だったのか、それほどの長い時間ではなかったとルークは思うがなかなか目を開けるタイミングがつかめなくてルークはぐっと額をアッシュの肩口に押し付けた。
「おや、騒がしいと思ったらお邪魔でしたか。ガイ気になるのは分かりますが馬に蹴られますよ」
「……ジェイド、さっきから覗いてた……よな?」
「人を幽霊みたいに言わないでください。朝刊を確認しようと思ったら嵐で何も届いてなくて無駄足だった私がたまたま通りかかっただけですよ」
わざわざ丁寧に説明してくれているということは覗いていたということをきっぱりと肯定してくれたということだろう。いつからか、は分からない。ルークはジェイドの声を聞いたときに慌てて顔を上げるべきか悩んだが、慌てる必要もないなと思い直して、触れていたアッシュの腕を少しだけ押す。そうすればアッシュも何かを心得たのかルークを抱きこんでいたその手を離して、最後にぽんぽんと頭に軽く触れた。
「いつもこうだったら……いや、やっぱり気持ち悪いな」
「……俺の扱われ方に何か疑問の残る言葉だな」
ルークのそのある意味酷い呟きに目の前に居るアッシュは微妙な顔をしてそう答えた。
「さて、もし二度寝をするつもりがないのならこの状況を説明していただきたいのですが、よろしいですか?」
状況といっても、ルークがベッドの上で引きこもっていて、アッシュがそれを抱えていて、それをガイが見ている……非常によく分からない状況だ。そもそもは何が発端だったんだろうか。そう思いなおしてルークは思い出した。
「そうだジェイド、アッシュが変なんだ!」
「そうですか。先ほども何かおかしな言葉を聞いたと思ったのですが、空耳ではなかったようですね。そう、愛してるとかアッシュなら絶対に口にしなさそうな言葉を」
ジェイドの口から淡々とその言葉を告げられると、それが単なる単語が並んでいるだけだということが分かるから不思議だ。……とすればさっきのはそういう意味ではなかったのかと思ってルークはフルフルと首を振ってその声を追い出した。その不思議な言葉とともについてくる言葉の方が思い出したくなかったからだ。
「たしかにアッシュは変だがルーク、そうじゃないだろう?」
一方、はっきりと変だと指差された本人は非常に不本意そうな顔をしていたが、変だとしか言いようがないのだから仕方がない。
「だったらどういえばいいんだよ。アッシュがやたら触ってくるし、なんか優しいし、でも俺の身に覚えのないことばかり言ってるってことは変だろ?」
自分で言って並べてみてもそういえばおかしいところばかりなのにどう見てもアッシュで、アッシュではないと思ったのも何故だか分からない。
「とりあえずルークその引きこもっている場所から出てきなさい。その下にとても人に見せられないようなものがあるのでなければ」
そう、ルークに言っているはずの言葉なのに途中からジェイドの視線がルークでなくその横に座っているアッシュに向かっているような気がしたのは気のせいだろうか。アッシュはそんなジェイドの視線をなかったことにする……と思いきや、ルークに向き直ってじっとルークを見つめるとおもむろにルークのかぶっていた毛布をめくった。
少しだけひんやりとした空気がルークの首筋に触れて少しだけ身震いする。そういえばここはケテルブルグで、ホテルの中はそれなりに温かいとはいえまだ早朝だ。本当ならルークはまだ夢の中にいる時間なのにと、無駄なことをつらつらと考えてしまうのは目の前のアッシュが何も言わないせいだ。
「なんだよアッシュ。寒いだろ」
「いや、確認しただけだ」
何を確認したのか、いまいちルークには分からなかったがアッシュが確認しなければいけないことはクリアしていたのだろう、けれどめくられた毛布はそのまま剥ぎ取られてしまう。
「ああ、俺の!」
べつにそれがないと不安だというわけではない。起き抜けに少し驚いて逃避していただけだ。今はその驚きも不安もなくなった、というわけではないが落ち着いているし、目の前のアッシュに見えるアッシュじゃないような彼が何を考えているのか少し分からないことだけは少し困る。
「ルーク」
毛布を奪った彼はそうルークに呼びかける。今まで聴いたことのないような声音は今日だけでどのくらい聞いただろうか。これがこの声で聞けるならば別にいいかなと思うくらいの声ではあった。それは確かにアッシュの声だったからだ。
「な……なんだよ」
呼ばれなれてなくてルークは一瞬声に詰まるのは仕方がない。呼ばれたいと思ってはいたが実際に呼ばれてみると心臓に悪いので出来ればやめて欲しいと思うくらいだ。
「悪かったな、驚かせて。もう不用意に触らない、別に確認したいこともあるから来い」
言葉とともに伸ばされた手をルークは無意識に取ろうとして、はっと気がつく。
「ジェイド、やっぱりアッシュ変だよな!」
「ええ、間違いありません。おかしいです」
「だから、それを確認するって言ってんだろうが。お前ら原因を確認するっていう頭はねぇのか!」
指差されたのが嫌だったのだろうが、アッシュは大きな声で叫んだ後、有無を言わさずルークの手を取ってベッドから引き摺り下ろした。さっき不用意に触らないって言ったところではないのかとルークは思ったが、アッシュはこういう奴だったような気もする。むしろルークの知っているアッシュの行動に近くてほっとするくらいだったのでルークはあきらめて安住の地を去ることにした。
2.Side B アッシュの状況
ルーク達が泊まっているケテルブルグホテルは高級リゾートホテルである。観光地であるケテルブルグの中でも一番いい宿泊施設であり、今日は特に昨晩からの嵐でケテルブルグにとどまっている人が多いために空いている部屋がなく、とれたのはいつもより贅沢な部屋らしい。アッシュはそう聞いていたし、ギンジにアルビオールを二号機の分も見てもらっているからどうせ部屋も二人部屋しか取れなくて空いていたしお金は請求しないよという確約を得た上でルークと同じ部屋に泊まったのだ。
お金は請求されなくとも何か別のものを払わなければいけないのだろうとは思ったが言われるまではこちらからは何も言わないと心に決めて、居心地の悪いルークとの同室の一夜を明かしたのだ。
ホテル自体は居心地はとてもよかったし、セキュリティもしっかりしている上にあまりローレライ教団の影響も少ないここはマルクト国内であることをのぞけばアッシュが安心して寝られる場所のひとつだ。昨晩は押し切られるようにルークと同室を余儀なくされたが、別にそれだって断固拒否するだけの理由など無かったから最終的には断らなかった。
ルークとガイとジェイドと誰を同室に選ぶかだなんてこのなかでならルークしか選べないだろうに、ルークはそのことに酷く喜んでいて逆にむかついたのも覚えている。ジェイドは論外だし、ガイなら朝生きていない可能性がありそうだし、ルークならアッシュに危害を加えることは絶対無い。そう思い込むのは危険だという気持ちはどこかにあるけれども多分それは事実なのだから仕方がない。
それに、別にアッシュはルークと一緒に居たくない、というわけでは決してなかったのだ。
確かに昨日の晩だって何かと話しかけてこようとするルークをうざいと思ったし、アッシュの言動にいちいち反応するルークにいらついたりもした。例えばアッシュから何か話をすればまた違ったのかもしれない、けれどアッシュはルークと何を話せばいいのか見当も付かなかったし、もともと世間話なんて得意ではない。それを分かっていつまでも話をするギンジなどは慣れたのかもともとただの大物なのか分からないが、アッシュは話を聞かないということはない。
ルークだって普通に話しかけてくればいいのに、どうしてそうびくびくと人の顔を窺うように話しかけてくるのだろうか。それを見るたびにいらついてしまうのは仕方がないし、ルーク相手には多少口が悪くなるのも自覚している。
ルークがアッシュに対してそんな態度しか取れないのは、アッシュの今までの行いが原因だと言うことは分かっているのだけれども。
過去はなかったことには出来ない。今更、ルークにどんな態度を取ればいいのだ。
確かに視野が狭かった少し前までのルークならばアッシュの態度は非難されながらも一部納得されただろう。けれど今は真っ直ぐに前を向いているルークは時には視野が狭くなっているかもしれない。けれど見つめる先はアッシュの目指す場所に近い。その道はずれてはいるものの、アッシュと時折交わることもある。効率で言えば別行動するアッシュのその行為は無駄なのかもしれない。ルークたちはキムラスカ・マルクト・ダアト三国の後ろ盾があるがアッシュには何もない。けれど同じ場所に二人は要らないのだ。ルークはルークとして動けばいいし、アッシュはアッシュとして別の道を行けばいい。
とっくに、ルークがただ自分のレプリカであるからといって自分のものではないということはわかっている。そんなことはルークが思い通りに動いたりしなかった初めの頃の苛立ちで気がついていたはずだ。そう思い込んでいたのは確かだった。
けれどいまだ認められない気持ちがアッシュの中にあるのは、きっとルークが自分のものではないと知りたくないからだろう。
その気持ちにアッシュはとっくに気がついていた。
ルークのことが嫌いでともに居たくないというわけでは決してない。
それはむしろ……
「なあ、アッシュ。さっき目の前にいるアッシュはアッシュじゃないって言ってたけど、どういう意味だ?」
ぴたりと体を寄せられて、けれどベッドの端に座っているアッシュには逃げ場がなくどうしようもないところに、ひざの上になんとなく置いていた手にルークの手が触れて、いや掴まれてぎゅっと押し付けられる。正直痛い。
「……それは、何のことだ」
「えー、だってさっきお前がいったんじゃん?」
少しだけ首を傾げてアッシュの言葉を待っているルークはなぜかいつもと違って非常にあれだ、可愛く見える……気がする。いやそんなはずはない。けれどいつもと違う気がしているのは確かだ。
それは今日目が覚めたときから始まったのだ。アッシュは時計を見て目が覚めてから一時間も経っていないのだということに気がつき愕然とする。まだこの時間でこの疲労ならば夕方までにきっと自分は死ぬのだろう。
「さっきから言っているが、とりあえず離れてくれ」
「やだ、だって今日お前おかしいもん。風邪? 昨日濡れてたし。大丈夫俺が看病してやるから、な?」
な? と、非常にいい笑顔を見せられてアッシュはうっと息を詰めた。その言葉の響きとあいまってルークの笑顔がきらきらして見えたのは絶対に気のせいなのだ。
そもそもルークがアッシュの前でこんなに笑顔だったことなんてない。アッシュがそうさせているのだろうとは思う、アッシュだってルークを笑わせれることなんて言ったこともないししたこともない。ただ、ギンジが言うにはルークはいつも笑っているらしいのだが、そう不思議そうに言われたので蹴りたくなったことはある。アッシュはそれがただの八つ当たりだということも知っていた。
それなのに、目の前のルークのこの笑顔はなんだ。そして起きてからこのかた、ルークがアッシュから一度たりとも離れていないのはもっとなんなんだ。声をかけることさえびくびくしていたルークが声をかけるどころか、抱きつくどころか……だからアッシュはまだ早朝だというのに疲れきっていたのだ。
「ルーク、その前に貴方は先にちゃんと着替えなさい。アッシュも、見せびらかしたいのは分かりたくもないのですが、ルークがこんな雪の降るケテルブルグでもしっかり薄着で走り回る、というのを考えていただきたいですね」
そんなアッシュにべったりとくっついているルークを咎めたのはベッド脇に置かれているテーブルセットに優雅に腰掛けているジェイドだった。その声にルークはしぶしぶ了解の返事をしてアッシュのそばを離れる。その体温が消えたことを寂しいだなんてアッシュは決して思っていない。思っていないのだ。何かを追い払うように首を振ってけれど目の前のジェイドが面白いものを見る目つきでアッシュを見ているものだから居心地が悪くて、アッシュは足元に目を落とした。
少しだけ豪華なこの部屋には小さなテーブルセットが設置されており、けれど椅子が二人分しかないためそこにはジェイドとガイが陣取っていた。その所為でアッシュはベッドに座らざるを得ず、そこに喜んでルークが隣に侍っているのである。椅子がもう一つあれば違ったのだろうか、いやこの今までの状況をかんがみるとルークがアッシュのひざの上に乗りあがってきても多分不思議ではない。それは間違いなく不思議な光景であるはずなのだがなぜかアッシュには容易に想像が出来た。なぜならば。
「ルーク、コートは用意してるのか?」
「そんなもん持ってきてるわけないじゃん。アルビオールの奥にしまったままだよ。とりあえずいつもの……じゃだめかな」
「……ベルセルクにしとけ」
「そうする」
ルークが自分の荷物をひっくり返し始めた頃に苦笑いしながらそれを手伝いに行ったガイとの会話だ。ケテルブルグに来るのにコートすら用意してないとは何事だと振り返ったアッシュは振り返ったことを後悔した。
目に入ってきたのは寝巻きを今にも脱ぎ捨てようとするルークの背中。別に同性だから目の前で着替えることは構わない。昨日だってルークはアッシュの横で何も気にせずこの寝巻きに着替えて布団に入って行ったし、問題などどこにも在るわけがない。……のに、アッシュは見てしまった。ルークの首筋にある赤い……それだけでない、その白い背中にも似たようなそれ、が……見える、気がしてアッシュははっとそこから目をそらせた。昨日はそんなものなかった……はずだ。はっきり見ていたわけではないが、あの首筋の位置ならば普段の服でも目に付くはずだし着替えていたときも何も思わなかった。そして昨晩それからルークはどこにも行っていない。もし誰かの出入りがあればドア側に陣取ったアッシュが気がつかないわけがない。とすれば、夜中にルークとともにいたのはアッシュだけ。そしてその跡を残せるのもまた……
表情は変えていないつもりだったが、ふと視線を感じてずらした先のジェイドに面白いものを見る目で見られていたのでどんな顔をしていたのか知りたくもない。ただ分かるのは自分は無実だ、ということだ。
そんなことをしたいだなんて思ったことがない……といえば嘘になるから昨日は……思っても行動に移していないことだけは確かだ。なんせアッシュの知るルークはいつだってアッシュから一歩線を引いて、後一歩近づけないのだ。無理やりその一歩を踏み込んだときには大抵口げんかになって終わるから近づかない方が平和に終わるのだろう。けれどアッシュが何度も口げんかになって終わっているのはその一歩に踏み込みたいからだ。多分そうだと思っていたのだが、今日一歩どころかルークから踏み込まれまくればそれはそれで対応に困ることが分かってアッシュは手詰まり感を感じていた。
いや、今はそれではない。ルークの背中についたあの跡も含めて、ずっとルークに感じていた違和感とどうしてもかみ合わない会話をどうにかしなければいけないのだ。そのためにこんな針の筵みたいなジェイドとガイとルークに囲まれた会議を開く羽目になっているのだから。
「お待たせ」
アッシュが思案にふけっていたそのうちに着替えが終わったらしい、やっぱりルークは自分の席と決めたアッシュの横にぴたりと張り付いて、また手を取ろうとしたからそれだけは阻止した。
「アッシュ、今日は変だし冷たいし、何だよもう!」
怒ったならば離れてくれればいいのにその気配がないということはそういうことなのだろう。相変らずルークの体温を側に感じながら、アッシュはふと目の前に差し出されたそれに手を伸ばした。
「とりあえず飲み物でも飲んでから話をしようじゃないか、アッシュ」
「あ、ガイありがとう」
同じようにルークにも渡されたそれはほかほかと湯気を立てて温かそうだ。ケテルブルグの朝には丁度いい薄いコーヒーとミルクのにおいがした。対してアッシュの持つそれはよく冷えた透明の、明らかに水だった。
「いや悪いな、アッシュの好みが分からなかったから。それなら間違いないだろ?」
絶対に嫌がらせだと分かるのに、言い返せないのはルークがアッシュはコーヒー飲めないからな! とドヤ顔でばらしやがったからだ。
「……どうしてお前がそれを知っている」
それはまだ誰にも言ったことはないはずだった。目の前にコーヒーが出されれば飲めないこともないが好んで飲もうとは思わない、それだけだ。あの苦さが苦手だとかそんなわけではないのだ。
「お前が言ったんじゃん?」
そんな当たり前のように言われても、アッシュは戸惑うばかりだ。
今朝から絶対に何かがおかしいのだということは分かっていた。横でカップを傾けているルークは確かにアッシュの知るルークそのものの姿をしているけれども、アッシュの知るルークではないのだろうとアッシュは結論付けていた。それもかなり早い段階からだ。
ルークはアッシュの前ではこんな顔なんて絶対にしなかった。笑ったりむくれたり、ただ普通にころころと表情を変えるなんて。そうだ、ルークがアッシュの前でこんなに普通の行動を取っているところなんて見たことがなかったのだ。
アッシュはそれほど長くルークと過ごしたわけではない。けれどその短い間の中でルークがただ普通にいたことなんてあっただろうか。怒ったり悲しんだり、時には緊張の中でルークはアッシュと対峙していた。
それもそうだ、初めはただの敵だったし、アッシュにとってのルークは自分のレプリカであり利用するものだった。やっとたどり着いた、敵ではないけれど味方でもない微妙な位置から動けないでいたはずだったのに、今朝のルークはそんなものは軽く飛び越えてアッシュとの間に壁どころか隙間すらなくなってしまった状態だ。
ルークの言動とこの距離ともろもろを繋げ合わせて、今のルークとアッシュの関係が何に該当するか、さすがのアッシュもなんとなく回答が浮かんだ。理解はしたくないけれども。この様子だと多分ガイもジェイドもそのことを知っているようだ。
だから、アッシュは思い切ってその疑問を口にすることにした。多分これを避けて通ることは出来ないし、これをはっきりさせておかないと本当に今日これから生き延びる自信がない。
「俺の記憶にはないんだが、俺とこいつは……その、どういった関係……いや、このレプリカが!」
けれど口にしようとすればそんなもの口にするようにアッシュの口は出来ていないのだ。そんな、ルークと自分とがなんだか恋人同士のような気がするだなんて。けれどアッシュは先ほど何かルークがおかしいと思って試しに回線を繋いだときに、「アッシュは俺のこと嫌いになったのか?」と少し潤んだ目で見つめられたときとか、なんと答えたかはあまりの衝撃に覚えていないが多分いつものように嫌いだとか答えたのだろう、そう言ったのに、なぜか目の前のルークは一瞬泣きそうに見えた後、くるりと表情を変えて笑顔になったのだ。あまつさえその笑顔で抱きついてきた、のは多分夢ではない。「アッシュ愛してる」のオプションもついていたはずだ。もしそれが全て夢だったとしてもアッシュは驚かない。過去に似たような夢を見たことがあるからだ。
そう、今朝からルークの様子がいつもと違う上に意図しないことばかり起こっているにも拘らず、アッシュが力ずくでそれを排除しない理由はそこにあるのだ。また当たり前のようにアッシュの横にぴたりと寄り添って座るルークの言動一つ取ってみても、アッシュには積極的にそれを排除する理由がない、むしろどこかで願っていた状況であったからだ。
アッシュは今まで誰にも口にしたことはないが、ルークのことは嫌いではない。むしろ気になる、いやもっと上の好きであることを自覚していたのだ。
誰にも言ったこともないし、これからも言うつもりはなかったけれども。
それは、世界の情勢もあったし、それよりもアッシュの命の期限が迫っているからでもあった。
近い未来に自分は世界から消える。その間に出来ることはそれほど多くない。ルークのことが好きだという気持ちとともに、ルークに対してのわだかまりもまだ消えずにアッシュの中で残っている。
実際にルークを目の前にしてどうしようもなくいらついたり、憤ったりするのもアッシュがルークに向けるさまざまな感情が混ざり合ってよく分からなくなるからだ。
彼が自分のレプリカでなければそこまでの複雑な感情を抱かなかっただろう。けれど彼が自分のレプリカでなければそんな感情の中の愛しいという感情を見つけ出せなかっただろう。
だから、アッシュは今の状況にとても困惑していたし、どう反応していいのか分からなかったのだ。目の前にいるルークはアッシュの知るルークではない。むしろ夢の中だといってくれたほうが納得するくらいのルークの反応はアッシュが想像していた以上で、総合すればあり得ない事実しか浮かんでこないので非常にアッシュは困っていたのだ。
「……アッシュ、もしかして」
ルークがアッシュの腕を小さく引いた。見つめる瞳が不安そうに揺れた。その顔にアッシュはうっと息を詰める。この顔は反則だ。こんな顔をされたらただでさえぐらぐらと揺れそうなアッシュの気持ちが揺れる。だから危険なのだ、今のこの状態は非常に。
「記憶にない、といいましたね。もしかしてアッシュの態度が大変おかしいと思われるのは記憶喪失、とか」
「そうだ、ジェイド。ルークの悲鳴を聞いて部屋に入ってきたらアッシュがルークに怒鳴ってたんだ。最近はなかったと思ったのに、まるで以前のアッシュみたいに……」
「記憶喪失? って本当か?」
ガイがここぞとばかりにアッシュを指差してくるのをアッシュは無言で叩き落した。距離が近いのに指差すとそのまま突かれそうで怖い。いやそのつもりだったのかもしれない。朝からガイからは殺気しか感じない。ルークに対して過保護なところはあったが少々いきすぎなのではと不安に思う。それは今日に限ったことではないのだが。多分話が進まないのはこいつが原因だと思う。ジェイドに目を向ければ同じことを考えていたのか無視しろとお告げがあったのでそうすることにした。アッシュはとにかくこの状況を整理したいのだ。
「いや、俺の記憶に曖昧なところや抜けているところは思い出す限りない」
今日の日付や、このホテルに泊まった経緯などを告げればそれはアッシュの記憶に相違はなかった。アッシュももしかして自分の都合のいい未来に飛んできたのかと一瞬ファンタジーなことを考えもしたが、それが違うことは起きてすぐに確認済みだ。あとは何らかの要因で自分の記憶が改ざんされている、出来るのかと問えば出来ませんねぇと簡単に返ってきたからないのだろう。ジェイドの質問にアッシュが答え、その逆をいくつか繰り返して分かったことは一つだけだ。
「ルークとアッシュ、貴方は恋人同士ですよ。不本意ですがね」
「だからその記憶がないと言っている」
食い違うのは実にその一点だけだったのだ。それになんだジェイドが言った不本意という言葉は。なぜか眼鏡の奥の瞳がきらりと光った気がしたのは気のせいか。それよりもくいと引っ張られた腕の先に不安を隠さないルークがいて、アッシュはどうしたものかと悩む。このルークはアッシュのことを恋人だと疑っていなかったわけだし、けれどアッシュはそうではない。だがしかし、そんな顔をされればアッシュだって離せと振り払えないのは仕方がない、嫌なわけではないからだ。一つ息をついてルークのいない左手で右腕を掴むルークの手に軽く触れた。とたんにルークの瞳が期待に少し揺らめいた。こんな小さな反応がアッシュには新鮮で、もっと見ていたいと思ったがそんな二人を見つめる二対の目があることを思い出してアッシュは手はそのままにジェイドに向き直る。
「確証はないんだが」
そう前置いてアッシュはジェイドの反応を見ることにした。
「さっき回線を一度繋いだんだ。その時たしかにこいつが回線が繋がった反応をした」
その言葉にルークがうんうんと頷いた。
「こんな近くいるのに回線繋いできたから文句いったんだ。そしたら悪いって謝ってくれたからじゃあいいやって抱きついたら怒られたんだ」
その時のことを思い出したのかむっと眉を寄せたルークだが、そんな顔をされても困る。なぜならば。
「俺はそんなこといってない。離れろとはいったが」
「そうだよ、アッシュ。回線では愛してるって言ってくれるのに何で口では嫌いとか言うんだよ。俺ものすごく落ち込むんだからな! ツンデレもこじらせたら死ぬんだぞ」
ツンデレとはなんだと問い返す気も起きず、ツンデレなら心で思ってるほうが本当の声だからいいけどと解決したらしいルークはそれで機嫌がよかったのかと思っただけだ。
「……ルーク、人間は本当に思ってもいないことを口には出来ないんですよ」
「え? そうなのか? じゃあ……あれは……アッシュ?」
だからそんな目で見るなとアッシュは思った。けれどルークが同時にそれが聞こえたというのならば多分何かがおかしい。アッシュは回線を繋ぐときにルークのように口に出したりはしないけれども、何かを口にしながら回線で別の言葉を伝えることはない、というよりも不可能だ。回線は文字を送るのではない、同じ言語野で処理しているのだ。ルークと回線で話をしているときはアッシュは基本無言だし時々呟いているかもしれない。そう考えればあの時感じた違和感は確かにそれだ。
「お前だって俺と回線で会話するときに口と頭と別々に処理できるか?」
「出来るわけないじゃん。俺基本声出さないとお前に伝わってる気がしないし」
「時々無言でがんばっててもアッシュとの会話に集中したら結局口に出してますしね。駄々漏れですよ、貴方達の会話」
そうなんだよなと顔を赤くするルークを見て普段こいつらは一体どんな会話をしているのか気になるが恐ろしくて聞けない。アッシュは今のところはそこを聞き流すことにした。
ともかく、口にする言葉と回線で伝える言葉が違うということはあり得ない。けれどそれは実際にアッシュだけでなくルークにも起こっている。
「ルーク、回線でアッシュに言われた言葉を教えてください」
ジェイドの言葉にルークは小さく頷いて、けれど首を捻りながら指折り数えているのは何を数えているのだろうか。
「だって、声同じだからどっちがどっちだったか……アッシュが言ってくれたら分かるよ!」
さもいい考えだと言わんばかりのその顔はやめろ。そして何かを期待する瞳も。
「俺がこいつに繋いでから言った言葉は三回。離れろ、朝からうざい、……あとは」
「嫌いだって言われた!」
いかにも不服そうな声でルークが指を折りながら数えてまた首を傾げている。
「途中のはいいけど最後のは抜かすなよな、ほら」
そしてまた期待の眼差しだ。
「だからその三つしか俺はお前に回線を通して伝えてない」
「だってアッシュ言ったじゃん。「愛してるのはお前だけ」って。あ、あと「目の前にいる俺は俺じゃない」ってどういうことだ?」
非常に認めたくないことなのだが、ルークの初めにいった言葉は確かにアッシュも聞いたのだ。ルークに繋いだ回線はルークの聞いている音も拾うことがある。ルークの視界を確認するのはアッシュにもそれほど簡単なことではないし、そうアッシュが仕向けないと見えないが、音だけを繋いでいるときにはルークが意識して拾っている音はアッシュには聞こえるのだ。アッシュがこの状況がおかしいと思ったのはその音を聞いたからでもある。
「俺が言ったのか? 目の前にいる俺は俺じゃないって」
大きく頷くルークにジェイドも何か思いついたような表情をしている。
「それは、まるでアッシュが二人いるみたいな会話だな」
ガイはそんなわけはない、くらいのつもりで呟いたのだろう。けれどアッシュはそうだなと小さく答え、ジェイドもそうでしょうねと言う。それに驚いて声を上げたのは残ったガイとルークだけだ。
「平行世界」
ジェイドがひとこと呟いた。
3、Side A ルークと平行世界
「何だそれ、ぱられるわーるどって?」
「パラレル、今私達のいるこの世界と平行して存在していると考えられている世界のことです。並行世界とも言われています。確認する手段はどこにもないのですが、今私達が住んでいるこの世界には同じような時間軸に同じようなけれど違った世界がいくつも存在している、という説があります。例えば、夕食を肉にするか魚にするか迷っていたときがあるとします。ルークはその時肉を食べました。けれど迷った先で魚を食べた選択をした場合の未来というものも選択する前には存在したわけです。そこで貴方の歩むべき未来が分かたれた、と考えれば夕食に肉を食べたルークと魚を食べたルークそれぞれの世界は同時に発生し同じ時間軸で進んでいくわけです。そんなふうにある時点で分かたれた同じ時間軸の違う世界というのが存在するかもしれない、というのが平行世界です」
よく分からなかったが聞いたことがある、気がする。
「でも肉食べたって魚食べたって変わらないじゃん」
その日食べたものが違ったからといってその後の行動が変わるわけでもない。
「例えば、ですよ。では貴方が奇跡的にアッシュの完全同位体だったということはその奇跡が起こらなかった可能性もある。そうすれば同じ現在が訪れたでしょうか」
その問いにはルークはううんと唸って悩んだ。もし自分が完全同位体でなければバチカルにアッシュの代わりに送られることは姿がそっくりなのだからあったかもしれない。けれど検査をすればアッシュではないのは音素振動数で分かっただろうし、完全同位体でないなら超振動は使えないからアクゼリュスには行ったかもしれないがセフィロトを壊せるのは超振動を使えるアッシュだけ。その先の未来は……
「そう、ルークの言うように夕食に何を食べたかなんて未来にそれほど影響するものではないでしょう。この瞬間にも無数に生まれる並行世界は発生と消滅と融合を繰り返して螺旋のように流れていくのです。今私達のいるこの世界が正解であるとは限りません。明日にもこの世界は消滅してしまうかもしれないし、他の世界と融合しているかもしれない。ちょっとしたことが大きく外れて全く違う未来になるかも知れない。けれど、アッシュと話をしていますと、その話と私の記憶と違いはないように思えます。とすれば非常に近い世界にいるアッシュの存在がこの世界のアッシュと入れ替わった、というのが今はじき出る解答でしょうか」
ジェイドはそれでもすっきりとした顔をしてはいなかった。今ジェイドの言ったことだってただの仮定であるし、答えが紙で上から降ってくるというものでもない。アッシュも難しい顔をしている。たしかにアッシュがジェイドと話していた昨日までのことは特にルークの知らないことはなかったように思う。ルークの知っているこの世界とアッシュのいただろう世界の情勢は言葉にする限りは同じ、覚えている限りの誕生日や事件の起こった日時なども違わない。さらには昨日の晩御飯さえ同じだったのだ。この事実だけならば目の前にいるアッシュがルークの知るアッシュでないと思えるほうがおかしい。
「ルークの理解しやすい概念で言えば、どれだけ抗おうとあがいてもいまだ覆しきれない『預言』と同じなんだろう。何をしても結局預言の通りに世界は進んでいる、ということはどんな選択をしても多少の誤差として処理されて結局預言からは大きくずれることはない。選択によって分かたれた世界は多少の違和感を無視してまた一つに融合される。それに気がつかないだけで、世界は増えたり減ったりしてるんだろう。けれど融合されない世界の枝葉はどこかに必ず存在する。預言のとおりでない未来に行くこともまた可能だということだ。俺がここにいて違う世界が存在するのならばそれは俺にとってもお前らにとっても、いい方向の可能性になるということなんだろうな」
預言、そういわれればなんとなく理屈が分かる気がする。預言が示すのは未来に向かう一本の道だ。どの道を通っても結局は決められた一本の道にしか進めないというのが預言でそれを覆すために自分達は奔走しているのだ。枝分かれした道の先にあるのが定められた道ではないのならば、目の前にいるアッシュが同じような道を歩きながらも自分達との差異が少しでもあるのならばきっと可能性はある。
「でも、それなのにアッシュはほとんど同じ過去を過ごしてるんだよな」
それは結局預言の鎖から解き放たれることはないという証拠ではないのか。そこは不安に思ってしまわないはずもなかった。
「多分、それはたくさんあるはずの並行世界の中でもそれほど遠くない時間に分岐した世界だからでしょう。どこからどこまでが同じなのかは分かりませんが」
「近い……そうだよな。アッシュの目的だって早々変わらないだろうし、同じところに行ったりしてるのもおかしくなんて……ないよな」
納得しようとしても、どうしても納得できない点というのは存在する。例えば、ルークの記憶とアッシュの言葉の相違があった点はたった一つだけ。
「だったらどうしてルークは俺と付き合ってないんだ」
「知りませんよそんなことは。こっちのアッシュに聞いてください」
非常に不満だと言いたげにむっと眉を寄せているアッシュはルークの知るアッシュの表情と同じだ。けれどルークがそのアッシュを見つめているのに気がついて、ふっと表情を緩める。
「ルーク、お前には怒ったりしてないから気にするな。俺がいらついてるのはこっちの俺に対してだけだからな」
そんな言葉を少しだけ柔らかな表情で言われればルークはむしろうっと息を詰めて逃げ出したくなる。これはアッシュであってアッシュではないのだと身をもって知るというのはこういうことだろう。
「どうした?」
そんなルークに気がついてさらに声をかけてくれるので、さらに逃げ場が欲しくなる。
「俺っ、アッシュがそんなこといってくれるのに慣れてなくてっ、その、ごめんっ」
どういう反応をしていいのか分からなくて困っているだけなのだ。けれどそれをうまく伝えられなくて、でもアッシュの顔は近いし、その距離は本当に慣れていないのでだめなのに。
横にぴたりと寄り添うように座っていた距離をわざと手のひらひとつ分くらいあけて、ルークは少しだけ腰をずらした。この距離がいけないのだ。今まで隙間のなかった場所に冷たい空気が通って少しだけ肌寒い。けれどこれが普通なのだ。むしろ隣にアッシュがいることすらなかったのだ。そのぬくもりがどんなものかも知らなかった。
これ以上はだめだ。このアッシュはまさに夢のような存在で、ルークが今まで顔をあわせてきたアッシュは彼ではないから。ルークが触れたいと思ったのは。
「ああ、悪い……」
アッシュがどう思ったのかは分からない。けれどその距離はつめられることはなかった。それだけだ。少し寂しいとは思わない。
「……ジェイド、この気持ちをどう表現していいのか分からないんだが」
「おやガイ、気があいますね。同感です」
「……お前ら……大変なのはアッシュなんだぞ」
別にジェイドとガイの存在を忘れていたわけではない。けれどこの場で一番気になるのは別世界からきたというアッシュの存在でしかないだろうにルークが彼に気を取られるのも当たり前のはずだ。彼だって不安なはずだ。当たり前に目覚めた世界が違う世界だなんて、間違えてルークを抱き締めて寝ていても仕方が……仕方がない?
「どうかしましたか? ルーク」
「いや、今まで忘れてたけど、ここにいるのは違う世界のアッシュなんだろ? そしたら俺達の世界のアッシュはどこに行ったんだ?」
目の前にいるのがルークの知るアッシュではないならそのアッシュは。世界を超えてしまうということがどういうことかルークには分からない。地殻に行くとかそういうことでもないのだろうし想像もつかない。
「そうですね、理論から言えば同じ世界に同じ人物は二人同時に存在できないので別の世界のアッシュがこちらに何かの要因で現れたその時点でこちらのアッシュはどこかに追い出された、または……消滅した」
「えっ!」
思わず声を上げたのはルークだけではなかった。ガイも同じように声を上げて、何を考えたのか目を彷徨わせている。
「違うぞルーク、俺は純粋にあいつのことを心配しているんだ!」
「そうだよな、当たり前だよな」
でも、それを力説するところにほんの少し疑問に感じることがあるがいいとしよう。それよりも問題はアッシュが……もしかしたら。
「アッシュが……消滅するって、まさか」
「理論上はありえる、ということですよ。自然に同じ音素振動数を持つものが存在しないのはそのせい、とも言われています」
「でも、俺とアッシュは……」
「人工的に作られた場合は、また少し違うんですよ」
ほっとしたのもつかの間、問題は解決してないじゃないかとルークはぐっと顔を上げて、けれどその瞬間に頭の上からぐっと何かに押されてむっとその主を見上げた。
「なんだよアッシュ、アッシュの危機なのに」
「……思い出せ、お前はさっき誰と回線で会話した」
その声に焦っていた気持ちがすっと消えて、頭の中がクリアになる。アッシュが消えると聞いてごちゃごちゃといろいろなことを考えていたような気がするが、何を考えていたかもすっかりと忘れてしまった。その代わり思い出すのはさっきルークを襲った頭痛とともにやってきた声のことだ。
「アッシュと……話した」
その時の声は確かにアッシュだと思ったし、目の前のアッシュが口にしていない言葉が聞こえたということはもう一人アッシュがいるという証拠で。よかったと思わず口に出る。アッシュは間違いなく存在している。
「だったら俺と入れ替わりに俺のいた世界にいるんだろ。……行動が同じってことは俺と思考も大体同じだろうから下手なことはしてないだろうが……ルークに何かしてやがったら……」
「だ、大丈夫だ……と思うよ! こっちのアッシュはちょっと俺に対してはあれだけど、俺以外にはそうでもないし」
舌打ちが聞こえてきそうな声音にルークは安心させようとアッシュに語りかけたのだが、フォローする言葉が見つからないことに気がついて途中で逆に焦った。
「それは一番フォローになってないぞ、ルーク」
ガイの突っ込みも遅く、だったらフォローしてくれよと思ったがガイがそんなことをするはずもなかった。いつも一番文句を言っているのはガイだからだ。
この空気をどうしようと思ったけれども、打開策などルークは持っていなかった。
この世界のアッシュは入れ替わったままだし、どうしてそうなったのかすら全くルークには分からない。アッシュになら分かるのだろうか、そう思ったその時。
『レプリカ、聞こえるか』
きいんという頭痛とともに頭の中に響く声がする。聞きなれたその口調は確かに。
「アッシュ?」
思わず口にすれば、隣に座っているアッシュがルークの顔を覗き込み小さく笑ったのが見えた。どうしたんだと口にすれば黙れとジェスチャーで示されてルークはとりあえず口をつぐんだ。
『そっちにいる俺もどうやら回線を繋いでいるらしいな。違う場所にいても繋がるのは同じ世界の被験者とレプリカ同士……か。やはり根本的なものが何か違うんだろうな。それはそれで都合がいい。多分ジェイドあたりが気が付いていると思うが並行世界の俺同士が入れ替わったようだ。こっちでも原因と元に戻る方法を考えるからそっちで何か分かったらそっちの俺から連絡をよこせ。……あと、そっちの俺に何かされてないだろうな。二つの世界で俺達の関係だけが今のところ違うらしい、だから気をつけないといけないのはお前だけなんだ。別にお前を気にしてるわけじゃねぇ、それぞれの世界で修復できない何かが起こるとしたら俺とお前が関係しているだろうから俺が戻れなくなるのが困るだけだ。だから気をつけろ』
ルークの口を挟む間もなく一気にまくし立てたアッシュはそこでいったん言葉を閉じた。ルークの脳内に残響のような音だけが響く。現実に目の前にいるアッシュは一言も言葉を発していないが脳内のアッシュと同じように向こうのルークと会話しているのだろうか。それはどんな会話なんだろうと少しだけ気になる。だって、彼らは自分達とは違う、いわゆる恋人とかいう関係らしいのだから。それが一体どういうものなのかルークにはぼんやりとしか分からない。今日の朝からアッシュはよくルークに触れたし、言葉だっていつもよりも柔らかいから、そういう温かいものに包まれているような感じなのだろうか。やっぱり分からない。
『……もう何かされたんじゃないだろうな』
なんとなくその声が怖い、気がしてルークは今朝からの出来事を何があっただろうと思い返さざるを得なかった。何もなかった、気がするがなかったのか? アッシュが入れ替わって朝起きたら一緒のベッドで寝てて、抱きしめられたりしたけどそれはアッシュが自分の世界のルークと間違えただけだし、ふいに触れてきたり抱きしめられたりしたのも混乱したり不安なルークを思っての行動だというのが分かるから別にどうってことはない。むしろこんなことになって不安なのはアッシュのほうだというのに、すごく申し訳ない気持ちになってきた。
「ああ、そういえばキスはされたっけ」
それがあったからやっとこの事態が現実だと思ったし、夢ではないと知ったその時にちょっと動転して叫んでしまったのだ。思い返せばそう大したことでもなかった。
そういおうとしたのに。
『それはどういうことだ! くそ、あいつ……』
「なにやってんだお前! くそ、あいつ……」
同じような音が頭の中と耳に同時に届いてまるでハウリングしているようにぐわんと頭に響いた。思わず耳を塞いで、けれど回線の音はそんなものでは防げないのを忘れていた。
『とにかく俺が戻れるまで気をつけろよ!』
「とにかく俺が戻るまで気をつけろよ!」
また二重奏が響いて、同時に回線がぷつりと切れた感覚がある。じんとした脳裏の痛みと残っているかのような残響にルーク小さく首を振って耳を塞いでいた手を離した。
「回線、繋げてたんだ」
「ああ、そっちもだろ。ったく本気でこの状況ありえねぇな」
多分あっちの世界でもアッシュが同じようなことを言っているのだろうと予測できて、ルークは不思議な気持ちとともに笑いがこみ上げてくる。なんだという顔でアッシュに見返されて、いつもなら怒られる場面なのにとそんなことも面白く感じる。
「だって、多分俺が言われたのと同じようなことアッシュが言ったんだと思うと、平行世界って面白いなって」
「あっちのルークも笑ってたな。まあ、もともと同じ人間だしな、考えることも同じなんだろ。いやまて……」
「科学的な見地からすれば、いったん分かたれた世界は全く同じではありませんから、この世界とアッシュの世界での差異はあるはずです。貴方達の関係性から考えても同じ台詞が出てくるとは思えないのですが……そういうことなんですかね」
「そういうことなんだろ」
アッシュとジェイドが何か目配せしあってそのあと同時にルークを見て納得したような顔をするのでルークは意味が分からない。
「どういうことなんだよ」
人の顔を見て笑うなと言えば、悪いとアッシュから声が返ってくるので逆にびくりとする。アッシュが謝るなんて! と思ったがこのアッシュはアッシュじゃないんだ、耐えろ俺とぐっと我慢した。
「だから考えることは同じだってことだろ」
それは分かる。そんなに遠くない過去に分かたれた世界ならば育ってきた環境は同じだし、同じ事態に陥ったらきっとそう違った行動は取らないだろう。自分の言動がおかしいのかと思い返してみてもそれほどでもないと思う。多少まだ箱入りなところはあるが自覚があるぶんまだ処置はある。
「別の世界にいるのか……」
思わず口にすれば、まだ名残のある頭痛になんとなく寂しいものを感じる。確かにアッシュとは何かで繋がっているままなのだろう、そのことはルークを安堵させたけれど結局アッシュがどこにいるのか分からないのだ。いや、どこにいるかはわかる、けれどそれがどこに手を伸ばせばいいのか分からない場所だということでどこにいるのか分からないと言ってもいいんじゃないかと思う。
「アッシュ」
呟いたらさらに寂しくなった。とんとアッシュが背中に触れて、呼ばれたと勘違いしているのかとアッシュを見れば柔らかな笑みで返された。
「さっき話したんだろ? 俺だってなんともないんだからあっちも大丈夫だろ」
まるで回線でも繋がっていて心を読まれたようなそんな気がして少しだけ恥ずかしくなってうつむいた。実際には目の前のアッシュとは何も繋がらないし、一言だけで分かってしまったのならばもっと恥ずかしい。そして、そんな一言で察してもらえるようなもう一人のルークが少しだけうらやましくなった。
もっと近くで、いろんなことが分かればいいのに。
せっかくアッシュと一緒にいれる機会だったのに、ほとんど会話もないまま今日こそはと思えばこんなことになって。目の前に確かにいるアッシュはルークの理想のアッシュに近い。こんな優しくて穏やかに話を聞いてくれたり隣にいたりしてくれたらアッシュとルークの関係だってこれほどこじれたりはしていないだろうに、何を自分達は間違ったんだろうか。顔をあわせるたびにルークは反省しかなかったから間違いだらけだったのは分かる。けれどそんな関係だったって、アッシュは最終的にはルークを見捨てたりはしないし、手を貸してくれるし、こうやってホテルに無理強いしたのに付き合ってくれる。アッシュから飛んでくる厳しい言葉だってどこかでルークに期待してくれて、落胆して、それで出る言葉だと言うことも分かっている。落胆させる自分が悪いのだけれど。
「元に戻る方法は分かるのか?」
「少なくともこんなことが起こったことはないから分からないな。ジェイドは……」
「こんな事象があったなら預言を覆そうなんてあがきませんよ。平行世界においては理論上は預言のない世界もあるはず、ですから。それが確認できないから世界は預言は星の記憶であり覆すことが出来ないとされているんです」
「預言……か。この世界と俺の世界でそれほど差異がないのも預言の所為であると考えればよく似ているのも理解できる気がするが、そうか、俺達のことは預言にとっては些細なことか、まあそうかもしれないな。他の誰かの人生に干渉してないし、子供が生まれるわけでもないし」
少なくともルークにとっては些細なことではなかったのだが、確かに他への影響というならば夕食のメニューとさほど変わらない事象なのかもしれない。さほど変わらない事象であれば平行世界同士はアッシュの入れ替わりのように時々干渉しているのではないか? 実際は知らないだけでこういうことはもしかしてあることなのかもしれないとルークは思った。
「もしかして、こうやってアッシュの世界みたいに近い世界から入れ替わってるっていうことはあるんじゃないかな。だって、時々昔のことを話してたら自分の記憶と違うことがあるじゃん? それって記憶が違うのか、もしかして世界が入れ替わってたってのは?」
「まあ、ないとは言い切れないでしょうね。実際に目の前に入れ替わった人がいることですし。アッシュとルークのように決定的に違う事象がなければ記憶違いだと思い込むこともあるかもしれません」
「じゃあ!」
「けれどそれを確認する術はありません。ので調べても無駄でしょうね」
冷たいジェイドの言葉にルークは落胆する。
「他には何か解決策はないのかよー」
「今のところは、むしろ平行世界と入れ替わったということにすら私は懐疑的なのですからどうしようもないですよね。いいじゃないですか別にそのままでも。幸いにして世界情勢はそちらのアッシュの世界と変わっていないようですし、言葉まで違うような異世界に行ったんじゃないんですから問題ないでしょう」
そういわれれば問題はなさそうに思える。この間読んだ冒険小説でも異世界に迷い込んだ主人公が言葉から習慣からあまりの違いに戸惑いながら帰る方法を探す、なんてのがあったのを思い出す。あれは結局帰れなくて、そこの世界のヒロインとくっついて終わったと思う。アッシュにとってはルーク以外はほぼ同じ世界だから基本的には問題はない……のか。
そう、ルーク以外には多分問題なんてないのだ。
「むしろこっちのアッシュは手は早そうだが、話は通じそうだし、ルークにもむかつくほど好意的だし、総合すれば悪くないんじゃないか、ルーク」
ガイがアッシュをほめるなんてとルークはそのことにものすごく驚いて思わずアッシュを見ればアッシュも同じように驚いていた。ああ、あっちのガイもアッシュには厳しいのかとほろりと来る。これでいてアッシュはガイのことは大事にしているのをルークは知っているからだ。
ルークが思っているよりもアッシュの世界はルークの世界と同じだ。元に戻るのが一番いいが戻れなくてもアッシュにとってはそれほど大したことはないのかもしれない。特に向こうのルークがどうだか知らないけれど、自分とそれほど変わらないのだろう、ならば。
「いいわけねぇだろ」
アッシュがむっとした表情で呟いた。
「だってなんともないし大丈夫だって」
「俺もだが、ルークが、だ。俺は絶対に戻れないって言われたってあがくし、ルークの為に自分の世界に戻る」
少し怒ったような表情に見えるのはアッシュが真剣だからだ。じっと見つめながら言われた言葉は自分に対してのそれではないのだと分かっているのに、どきりと心臓が跳ねる。ルークの為に、そんなことあいつは絶対言わないだろう。いまあいつがあっちで何を言っているのかルークには分からない。別に帰れなくてもいいかといっているかも、そう思えば胃のあたりが少しだけ痛む。
「俺が何とかして戻ってあっちにいる俺をこっちに投げて帰せばいいんだろ。だから大丈夫だ。俺はお前が望んでないこともしないつもりなんだが……信じられないかもしれないが」
ルークは今時分がどんな顔をしているのか分からなかった。アッシュが戻ってこなければ、と一瞬考えて胸の中に落ちてきた気持ちはなんだろう。寂しい、つらい、いやそれよりも大きな、名前も付けられないくらいの気持ち。
ルークから回線が繋げないように、アッシュの存在だって感知することは出来ない。声の繋がった先にアッシュがいたのかすら確認できないのだ。
目の前にいるアッシュが手を伸ばそうとしてルークの少し手前でぴたりと止めてゆっくりとその手を下げたのが見える。このアッシュが遠慮なくふいにルークに触れてこようとするのは、彼らの関係ゆえだろう。それほどに彼らは近くて、もしかしたらもう一人のルークはアッシュの存在を確認できてこんなにも不安に思うことなんてないのかもしれない。向こうの世界に行ってしまったアッシュは言葉も冷静だったし戸惑いはあっても平気なのだろう。目の前のアッシュだって落ち着いてあっちのルークのことだけでなく自分のことすら気にするほど余裕がある。そんなアッシュの側にずっと居た、ルークの為にと言い切ってくれる人がいるルークは大丈夫なんだろう。
そうしたら、大丈夫じゃないのはただ一人、自分だけなのだろう。
「……ジェイドでもわかんないものはしょうがないよな。何とかなる、よ。大変なのはアッシュなんだし、俺出来ることあったするからな!」
できるだけやる気に満ちた顔を作ったはずだった。今すぐどうこういったところで答えが出るわけでもない問題だし、ジェイドの言う平行世界は理論はあるのだから調べれば案外簡単に答えが出るかもしれない。けれど結局そのあたりはルークにはどうにも分からないことだらけだ。
アッシュが別の世界のアッシュと入れ替わったという事実さえルークにはいまいちはっきりと理解できていないのだ。ただ分かるのはルークの知るアッシュは目の前にいないこと、それだけ。ルークにできることは多分そう多くない。しなければいけないことも多分ない。
つまりルーク一人が大丈夫じゃなくとも、どちらのアッシュにも問題ではないのだ。ただルークがぐっと我慢していればいいだけ。それならば出来る。
解決する日が今日なのか一年後なのか来ないのか分からないけれども。
やる気を見せたルークを見ながらため息をついたジェイドはせめてグランコクマまで行きたいですねと呟いて外を見た。
「私が何でもできるとか思ってないですよね、ルーク」
「え? ジェイドは何でも知ってるんだよな!」
「非常にわざとらしいですが、まあいいでしょう。……ひとまず、嵐が過ぎないうちは何も出来ませんけどね」
ルークもつられて外を見た。まだ暗い中を風の音だけが外の嵐の様子を伝えている。
昨日の情報では昼ごろまでは強い風も止まなくて船も出ないだろうといわれていた。もちろん空を飛ぶアルビオールも飛行できないだろう。アッシュのことがなかったってルークたちは昼過ぎまでここで足止めなのだ。
「アッシュはどこに行くつもりだったんだ?」
「お前らと一緒だ、グランコクマに向かう途中で嵐にあったからここで足止めされたんだ。特に急ぐ用事でもないしな、しばらくお前らと一緒にいるつもりだ」
アッシュが一緒に行動してくれるなんて、ルークはその言葉に目を丸くして聞き間違いでないか頭の中で何度か反芻した。間違いなく言った。いやでも、このアッシュはルークの知っているアッシュよりだいぶ性格が丸くなっている気がするからもしかしたらそんな行動もよくあったんじゃないか、だからそんな簡単に一緒になんていうのだろうか。
「おや、違う世界のアッシュは素直ですね。こっちのアッシュは絶対に一緒に来るなんて言わないのに」
ジェイドの言葉に頷いたガイを見てアッシュはむっと眉をひそめた。ジェイドとガイの反応にだろうか、それともこっちのアッシュの言われようについてだろうか。
「……なんだその顔は。いつもは俺が別行動したほうが効率がいいから別行動しているだけで、この状況なら原因も解決策も分からない上に連絡を取れるのがお互いのルーク同士を通じないと出来ない。だとしたら一緒にいたほうが今回は効率的だろう? 多分向こうの俺も同じことを言っていると思うが」
「まさか!」
思わず反論してしまったルークの声にアッシュは苦笑いをしている。ルークの反応は間違っていないはずだとガイを見ればそうだよなとアイコンタクトを返してきた。アッシュからは生暖かい視線だけが送られている。
「あ……だって、お前と違ってこっちのアッシュは達と、いや俺がいるからだと思うけど一緒に行動なんかしないっていつも言ってるし、お前は慣れてるかもしれないけど俺にとっては驚くべきことなんだって」
取り繕うつもりでもないけれど、アッシュが心外そうな顔をするので言い訳じみた言葉になってしまっったかもしれない。けれど事実しかないのである。
「今言っただろ、俺だって普段はルークと別行動している。何日も一緒に行動したことなんてねぇよ。だから今は特別な状況だから一緒にいるって言ってるだけで」
「えぇ? だってお前と向こうのルークは……」
恋人なのに、という言葉は口のなかに消える。
「自分のやるべきことをやれない奴なんてお前だって好きになったりしないだろ? 俺はルークにそんな姿は見せたくない、だから会えないのも仕方ないと思ってる。まあ話は出来るしな」
ちなみに前回顔をあわせたときを聞くと二週間前だというからルークがアッシュとケセドニアですれ違ったのと同じだと知る。恋人って言ってもそんなものなのかと少しだけ夢が崩れた気がしたが、アッシュなら彼の言うとおりどんな時でもやるべきことを絶対に優先させるだろう。そんな人でなければそうだ、ルークは彼をまぶしく思ったりしない。
「どのくらいの期間になるのかな、いつ戻れるかな」
アッシュがしばらく一緒にいる、ということはルークにとって未知数で、なんだかそわそわとしてくる。どのくらいの期間だろうか。とりあえず昼までは確定だがそれ以降は分からない。なんだか嬉しいような、けれど不安もある。
「さあな、ひとまず三日様子を見て何も分からなかったら俺はこっちで別行動させてもらう。幸い情勢は同じみたいだし、何か違って俺の役に立つこともあるかもしれない。あとは入れ替わった俺の代わりに。俺の世界じゃないからって放置するわけにもいかないしな」
「え? 三日?」
「確認するには十分だろ。どうにかなる時はなる、ならないときはならない。時間を無駄にするのは性分じゃない」
アッシュの示した時間の短さにルークは驚くが、アッシュは時間とか決められたものについては生真面目なところがある。そんなに急がなくてもといつも思うのだが、それは彼も同じらしい。
「そうですね、急いで何かしなければいけない、というのでもないですし。ただ、あまりこちらの世界とあちらの世界がかけ離れてしまうようなことがあれば、もし戻れる手段があったとしても出来ない、ということになるかもしれませんが。そもそもの理由が不明ですので、私としてはもうどっちだっていいんですが」
「どっちだっていいって、お前もガイと同じ意見かよ」
「そもそも、このアッシュがどう違うのか分からないですよね。見た目も同じ中身も大体同じなら構わないでしょう?」
ルークはそれを聞きながらジェイドの言いたいことが分かった気がした。
「つまり、面倒くさいと」
「なんですか、そんなことは一言も言ってませんよ?」
何を言っているのだと笑っているジェイドの目は笑っていないのをルークは知っている。多分もう別の自分のことだろうか、そんなことを脳内で考えているだろうことも。
「……くそ、もういいだろ、とりあえずお前ら部屋に帰れ。どうせ今日は昼までどこにもいけねぇんだ、休ませろ」
全く解決策が議論されないまま、ジェイドもまともに考えてくれないらしいことを察したアッシュがむっとした声でそういうのも多分仕方がないんだろうと思った。
時計を見ればまだ日の出の時刻を過ぎたばかりの時間だった。いつもならまだ寝ている時間だし、さらに今日は中途半端な時間で起きざるを得なかったのだ。どうせ嵐が過ぎないと動けないからと明日はゆっくり起きても大丈夫だよねと女性陣が言っていたのを思い出す。ホテルの部屋がまっていたせいで続きの部屋を取れなくて彼女らは違うフロアで休んでいるためにルークの悲鳴も聞こえずに今はゆっくり夢の中のはずだ。
ルークが今朝目が覚めてから一時間ほどしか経っていないなんて驚きだ。もう昼くらいになった気分だったルークはその時間を見て急に眠気に襲われた。
起きてからずっと目が覚めるようなことばかりだった。けれどそれの全てに理由がつけば、アッシュと一緒に寝てたこととか抱きしめられたこととか、ルーク間違いということにすれば、一応は納得したし、恋人同士ならば普通なのだろうからそう大したことでもないのだろう。ルークにしてみれば大したことだったが、ただの事故だと思えば……割りきろう。そう思えば安心して次に押さえ込まれていた眠気というものが襲ってくるのも道理で。
「そうですね、ひとまず朝食が終わってから考えましょうか。ルーク」
ふいに呼ばれて変な声で返事をしてしまってぱっと口を手でふさいだがもう遅い。隣でアッシュがプルプルしているところを見ればばっちり見られたようだ。いつもより倍恥ずかしい気がする。
「不安なら私たちの部屋で休んでもいいですが」
「え? ガイは?」
「アッシュと一緒か、床に転がしとけばいいんじゃないですか?」
「……誘ったのはジェイドなのにベッドを譲るのは俺限定なんだな……」
ガイが少ししょげているが、その二択ならば結果はどう見たってジェイドの言ったとおりにしかならないだろう。ジェイドの提案を少しだけ脳裏でシミュレートした、悪くないな。そもそもルークはよくてもアッシュがルークと二人部屋ということに落ち着かないだろう。
「じゃあ……」
「荷物もここにあるんだ、別にここでいいだろ」
ジェイドの提案に乗ろうとしていたルークはふいにアッシュから方肩に手を回されてぐっと引き寄せられてどきりとする。
「でもアッシュが……」
「俺がいいといってるんだが、お前がいやならジェイドの部屋に行けばいい」
嫌かといわれれば、少しスキンシップが多いところをのぞけば目を合わせても口げんかにならない分昨晩寝ようとした時よりはストレスもないだろうし、やっぱりガイを床に転がすのは忍びないのでルークは決断した。
「ここで休むからいいよ」
寝るだけだ、知らない、といえばそうなのだろうがアッシュだといえばアッシュだ。ちゃんとルークが違う世界のルークだと認識してくれさえいれば寝ぼけて恥ずかしい行動を取ったりしないだろうし、何より怒らないアッシュと同じ部屋にいられるというシチュエーションは捨てがたい。これでちょっとだけ慣れて……とかなんて思ってはいない。アッシュがいいというからベッドで寝るだけだ。さすがにガイを床に転がすのは忍びなかったのだ。
「そうですか、では九時ごろに朝食にする予定ですからそれまでに」
そういいながらこっそり居座ろうとしていたガイを引っ張ってジェイドが部屋を出ようとしている。ガイはいてもいいんじゃないかなと思ったがアッシュが居心地が悪いだろうから黙っておく。ジェイドもきっとなれない空間のアッシュのことを考えてなんだろう。
「ルーク! 何かあったら絶対叫べ。いつでも飛んでくるからな! それとアッシュ、分かってるんだろうな」
びしりと指差したその指の先をアッシュは酷く嫌なものでも見るようにちらりと見て目を逸らした。ぐっと何かをこらえているような表情はなんだろう、聞いてもいいのか悩む。
そんなことを考えているうちにジェイドたちはドアの向こうに消え、部屋は最初の二人だけの空間になる。
とたんに静かになったように感じる部屋に、窓の向こうから強い雨音と、いまだ消えぬ雷鳴が遠くに聞こえた。
「雨、止まないな」
とたんに何を話していいのか分からなくなるのは、アッシュと対峙したときのいつものことだ。
「雨は今日一日はやまないかもな。まあ多少の雨ならアルビオールも飛べるし問題はない」
そう言ってアッシュは寝るためだろうか少しだけ腰を浮かせた。
ルークは別に今日の予定を確認したわけではなかったし、雨の話をはじめたいわけでもなかった。けれど気になり始めればその音はさらに強くルークの耳を打つ。こんなに音はうるさかっただろうか。さっきまで全然気にならなかったのに。耳を塞いでしまいたいと思った。特に低く唸るような雷鳴が聞こえ始めたその時には。
「とりあえずさ、朝食の時間までもっかい休もうぜ、寝て起きればまた何かいい考えが浮かぶかもしれない……し?」
「我慢しなくていい」
あっと声を上げる間もなくルークとの間にあった僅かな距離が詰められて、頭をそっと引き寄せられる。内心の不安を見抜かれたのかとどきりとするけれど、目の前のアッシュにはルークの心は見えないはずなのに。
「別に、何も我慢してないし。……お前いつもあっちの俺にこんなことしてんだ」
「不安ならそういえばいい。俺のルークはやっと少し治ってきたってのに、こっちは全然だな。お前見てるとほっとけないんだ仕方ねぇだろ」
そんなこと言われたことないな、と思った言葉は口に出ていたのか。
「だから苛々する気持ちはわからないでもないな」
「だったら離せよ。あっちの俺がどこか別のところに行ったんじゃないし、こっちのアッシュのことはちょっとは心配だけど、それだけ!」
苛々するといいながらそんな目をしていないのだから、このアッシュが何を思ってルークに手を伸ばしているのか分からない。ルークの知るアッシュならばその目に浮かぶのは面倒くさいむかつく邪魔だなにやってるんだ馬鹿か、まあこのくらいだろう。何かにいらついているときが多いように思う。それがルークに対してだけ……ではないとはおもうのだが。
「ちょっと、ね。もう少し心配してやってもいいんじゃねぇか? 例えば、お前がやけにおとなしく俺に寄りかかってるのを見てると、向こうのルークは何やってんだろうとか俺は思うんだが」
そういわれてルークははっと自分の状況を冷静に見つめ返した。わざわざ自分から離したその距離はゼロで、ルークの右側はアッシュの体温をじっと感じるほどに近い。何気なく伸ばされた手を振り払わなかったのもルークだが、それが別に嫌だと思っていなかったことに気がつく。
そんなことは当たり前だ。アッシュの声でアッシュの体温で近くにいてくれたらとても振り払うことなんて出来るわけがない。
そうだ、ルークはアッシュのこと好きなのだから。
他の世界でもそれは変わらなかったらしい。アッシュとルークが恋人だと聞いても男同士以上に被験者とレプリカなのにとかそう言うことは全く思わなかった以上に、うらやましいなと思ったのだ。
それは夢の世界だったし、目の前のアッシュが存在する世界はきっと夢の世界なんだろうと思う。とすればいまアッシュはルークの夢の世界にいるのか。それは申し訳ないことをしたなとちょっと思って、そして気がついた。
「向こうの俺は、もしかしておとなしくない……とか」
「いや……多分。そういう意味で言ったんじゃないんだが……まあ、向こうにいるのが俺じゃないってちゃんと分かってたら襲ったりはしない……と思う」
聞きなれない単語が聞こえた気がしたので、ルークはそれを聞かなかったことにしようと思った。多分アッシュなんだからどんな苦境に陥ったとしても何とかするんだろう。
「アッシュはさ、俺なんかと違って何でもできるし、俺もそんなに心配してないんだ。でも俺何にも役に立ってなくてごめん。ちゃんと考えるしちゃんと手伝うから」
むしろ手伝わせて欲しかった。
目の前にいるアッシュがルークに優しくしてくれるのは、向こうの世界のルークが自分よりちゃんとしていて、アッシュに好きだと思われるに足るよう成長しているからで、自分に向けられるこの手はそのおこぼれに過ぎないのだろうと分かっている。その手が自分の求めるアッシュでないと分かっていても、ルークの中に少しでもその願望があるからこそ振り払ったり出来ない。
本気だとわかるようにじっとアッシュを見つめてそう言ったのに、アッシュは困ったように笑うだけだ。
「お前は無理しなくていい。こっちの俺はどうだか知らないが、少なくとも俺は絶対にお前を傷つける気はない。嫌なら嫌といってくれていいし、そんなに、警戒するな」
その言葉にルークはびくりと一瞬体を震わせた。アッシュの言葉は優しいし、世界は違っても彼がアッシュならばその言葉は信じられるのだろう。
「……慣れないだけだ。お前とこっちのアッシュは違うし」
「お前の態度を見てればそうだろうな。ちょっと触っただけで緊張してるだろ」
そうかもしれない。アッシュから触れられることなんてないから目の前の彼がそうでないと分かっていても体は正直に反応する。
「別に嫌なわけじゃないし。だって……」
「俺のことも好きだろう?」
「なっ……何で!」
何を言っているのか、とか、何で分かったのかとか。そんなことを口にするのはアッシュじゃないとか、いろいろな言葉が渦巻いてどれも出てこない。
「どこまで俺とお前の世界が一つだったかは分からないが、俺とお前が居る限り、お前が俺のことを嫌いなわけがない、違うか?」
その無駄なくらいの自信はどこから来るのだろうか。そしてそれは間違いではないことをルークは身をもって知っていたし、その理由なら納得せざるを得ない。
アッシュがアッシュである限り、多分どんな世界になったとしてもルークはアッシュのことを嫌うはずがないと断言できる。アッシュがどう思うかは分からないけれども。こうやって好きになってくれる世界もあれば、自分達みたいに嫌われている世界もあるのだろう。
「そうだよ、アッシュのことは嫌いじゃないからどう見たって全く同じのお前に触られたって俺が文句言えるわけないだろ。もう、どうせアッシュにこうやって頭なでられるなんて機会なさそうだから遠慮なく撫でろよな!」
半分やけくそにぐいと頭をアッシュに向ければ言葉どおりアッシュはルークの頭に手を置いてぐりぐりと撫でる。というよりも動物か何かになって構われているような気分だ。ひとしきり撫でたあとその手は離れて、代わりに頭を抱えるように引き寄せられた。
「よかった」
何が、と小さく呟いた言葉は届いたのか。肩口に額を押し付けるように抱きこまれてルークはどういう体制でいたらいいのか分からずにそのままじっとしていた。
「お前が『アッシュ』を嫌いだ、何て言われたらどうしようかと思った」
ルークがそんなことを言うはずがない、さっき自分が言ったことなのに何を言っているのだろうか。
「アッシュが俺を嫌いでも俺がアッシュを嫌いになることなんてどんな世界だってないと思う。だってアッシュは絶対に俺の被験者で、アッシュだろ?」
そうだなと小さな言葉が返されて、けれどその手は緩まない。そろそろ離して欲しいし、アッシュは休みたいんじゃなかったのかと思ったが、ちょっと肌寒い空気の中ではそのぬくもりは丁度いいかなと思ったのでそのままにした。
「多分お前は勘違いしてると思うが」
ルークの返事を聞かずに話を続けるアッシュのそれは多分独り言なのだろう。ルークはそう思うことにした。だって。
「俺も、たとえどの世界に存在したって、ルークのことは愛しいと思うはずだ。多分な」
4.Side B アッシュの翌日
風の音で目が覚めた。
まだ嵐は過ぎ去っていないらしい。外は薄暗いが、枕もとの時計を見れば八時少し前だった。こんなに遅くまで寝ていることはあまりないのに、それほど寝た気がしないなと思って気がつく、というより思い出した。
ケテルブルグホテルのツインルーム。ぼんやりと光る音素灯の下で窓に近いほうのベッドの真ん中が膨らんでいてゆっくりと上下しているように見える。
それは昨日の晩も見た光景だったはずだし、自分が置いたはずの荷物の位置さえ変わったようには見えない。
ここが、自分の今まで過ごしてきた世界と違う世界だなんてどう考えたら分かるだろうか。
アッシュはベッドから起き上がり、寝乱れた髪を手で掻き揚げようとして目に付いたそれにむっと眉をひそめた。
手の甲に落書きのように書かれた文字。見たくなくて軽くこすったが、そんなに簡単に消えるインクではない。しかし、今すぐ手を洗ってしまおうかとも思ったが、これを手に書かれたときに言われた言葉が頭をよぎってアッシュは手を止めた。
右手の甲に書かれた一文字はアッシュの名前の頭文字だ。「目が覚めたときにこのことが夢じゃないって分かるようにしるしつけとこうぜ!」とマジックを片手にいい笑顔だったまだ夢の中にいるはずの顔を思い出して少しだけむかついた。有無を言わさず手を取られて、利き手にかいといたら自分で書けるわけないから証拠になるよな、と呟きながら書かれたのだが、あいにくアッシュは左手もつかえるのだ。自分で書こうと思えばかけると言おうと思ったが、ただでさえうまいとは言いがたいルークが紙でない手の甲に書いた文字はどう見ても自分で書いた文字ではないので言わなかった。これがあれば今あったことが冗談だと思わないだろう。かかれたことは冗談くさいが、もうマジックで黒々と書かれてしまったものは仕方がない。
確かにその文字を見たらげんなりしたのだから効果はあったのだろう。代わりにルークの手にも書くように強要されたが、朝起きて手に何も書いてないルークがいたら戻ってるってことだよなとか、ルークの頭の中は多分それほど変わらないのだからアッシュの世界のルークも同じことをしていたら意味がないと思うのだが、アッシュは言わなかった。最終的には書かされて、満足したようにルークはベッドに横になったのだ。いや、満足したのかどうかは分からない、その前は寒いから一緒に寝ようとかよく分からないことをほざいていたのだから。それを阻止して、最終的な落としどころが手の甲への落書きだったわけだ。
アッシュ同士が入れ替わっているというのは事実らしい。もしかして寝ているうちにまた戻っているかもしれないと思ったがそれを確認できるようなものは思いつく限り隣で気持ちよく寝ているルークの手の甲だけだ。毛布を奪い取って確認するかと思ったがせっかく静かに寝ているのだからおとなしくしてもらいたい。隣の部屋のジェイドかガイは多分どちらかは起きているだろう、話をしにいけば分かるが行きたくない。どうせ九時前にはガイがルークを起こしにやってくるだろうし、それまでまた現実逃避に寝るかとも思ったがすっかり目が覚めてしまった。
これからどうするか、考えても仕方がないことだ。
平行世界というものの存在は聞いた事があるが所詮ただの空想だ。存在もしないもののところに行き来する方法があるわけもなく、調べたところで何もでないのだろうということは分かっていた。けれど、この事態はどうにかしないといけないことは確かで。
アッシュのいるこの世界で困っているのは、多分アッシュ一人なのだろう。アッシュ一人が入れ替わったところで世界の流れは変わらない。いや、もともとほとんど変わりのない世界だったのだ。ルークのことを恋人にしてようがしてまいが、アッシュは一人で行動するだろうしそうすれば行ったところもやったことも同じであるはずで。
もし、ルークが恋人だったら。
それを考えて、アッシュはえもいわれぬ何かが体の中からこみ上げてくるようなそんな気持ちになる。これはどういう感情なのだろうか。恥ずかしい、あり得ない、嬉しい、気味が悪い、幸せ。ごちゃごちゃとした感情の中ではっきりと浮かんでくるのは恥ずかしいと嬉しいの二つだ。
いつからだろう、自分のレプリカなのに彼は自分ではなかったし、彼の意思を持って被験者である自分の手の中にいると思っていたそこからあっという間に遠くへ行ってしまった。初めから手の中になんていなかったのだと分かったのはしばらくしてから。けれど彼が自分のレプリカであるという思いを抱いていた時間が長すぎて、未だにどう接していいのかわからない時がある。
ルークに、自分は何を望んでいるのか。
初めはただの都合のいい手駒を手にいれたつもりだった。けれど彼は自分ではない、アッシュの思い通りの行動なんてするはずもなく、その差異にいらついたし、逆にルークに気がつかされることだってあったし、ルークはアッシュの背中を追っていると思っているけれどもアッシュは時折追い越されている気がして焦っていることもあるのだ。ルークに追いつかれるのはいい、けれど追い越されるのはだめだ。アッシュは被験者であるからというだけでなくルークの前にいなければいけなかった。それは、ルークから今のところ無条件に向けられている被験者への羨望と尊敬の念を失いたくないからだ。
今の強い被験者と、弱いレプリカという状況が崩れたときにアッシュに何が残るだろうか。ルークは着実に成長して、何かにこだわって動けない自分なんかよりもずっと先に行ってしまうだろう。その時、ルークからどんな視線を向けられるようになるのかが怖かった。
アッシュはルークが思っているほど何かできるわけでも、何かをしてきたわけでもない。ただルークの被験者であっただけ、ルークよりも出来ることが少しだけ多かっただけ。自分のことを知って、見つめなおして急激に成長していくルークにアッシュが惹かれることはあっても、被験者に対する以上の感情をルークがアッシュに向けることはないと思っていた。
今だって、ルークがアッシュにこだわっているのはアッシュが被験者だからだと思っている。それ以上にアッシュには何もなかった。
再びアッシュは手の甲を見つめた。これを書いたときのルークの顔はさもすごいことを思いついたような子供の顔をしていた。こっちのルークはアッシュの知るルークよりも自由で自然に見えた。それがうらやましいと思うのは多分間違っている。
それはただ、うらやましいではなくアッシュがルークに対してただ自分の感情だけで押さえつけてきた結果だ。もう一人の自分はどうやってルークの心を手に入れたのだろうか。
平行世界でそれが現実にあるのならば、アッシュがどこかで違う選択をすれば笑うルークを目の前にすることが出来ていたかもしれないということだ
なのだろう。それがどの段階で、いつだったかなんて思い返しても分からない。ただ分かるのは今の自分は積み上げてきたその選択しか出来なかった、ということだ。別のアッシュには出来た、それだけだ。
もし、このまま戻れなければ。
まだ惰眠をむさぼっているルークはその笑顔を自分にも向けてくれるだろうか。そうならば戻れなくても……そう思いかけて、昨晩にアッシュの顔色を窺いながら話しかけてきたルークの顔を思い出す。
聞かれたから答えた、それだけだったのだがルークはだんだん話さなくなって、終いには部屋を出て行こうとさえした。自分の態度があれだったのはその時ですら自覚していたし、けれどあの場面で何を話せばいいのだ。消去法でルークと同じ部屋を選んだが、ルークと一晩同じ部屋でいるなんて初めてだ、アッシュだってこういうときにどういう会話をするかなんてシミュレートすらしていなかった。
ルークはどうだろうか、ひとしきり話しかけ話題が尽きたところを見ると同じなのだろう。結局ルークはあきらめたようなそんな表情でアッシュに話しかけることをやめたのだ。
はじめて顔をあわせた頃のルークは世間知らずで、けれど傲慢とも思えるほどしっかりとした自分の意思を持っていた。けれど今のルークはアッシュの前では自分の意思を隠しがちなことを知っている。今のいろんなことを押し殺したような言動は自分の前でだけなのかそれは分からない。
ただ、こちらのルークのようにそれほど何かを押し殺したようにはみえないルークというのは本来の彼に近いのかもしれなかった。アッシュが好ましいと思うのはどちらかといえばこちらのルークだ。
けれど、今アッシュの頭の中を閉めているのは、めったにアッシュの前で笑うことのないルークのほうだった。どんなに世界が近いといっても、ずっと見てきたルークは彼ただ一人なのだから。
戻らなければ、と思う。彼の為にも。
アッシュは考えながら別にルークをじっと見ていたわけではなかった。起き上がってベッドに腰掛けて外の様子が気になると思えばこの方向を向くだろう。ただそれだけだ。
けれど結果的にはルークをじっと見つめていたことになるのだろうか。ルークの寝顔など見たことはなかったけれども、自分のそれと同じとは思えない幼い顔にもしかしたら自分も同じような顔をして寝ているのではと一瞬不安になる。そんなはずはないと首を振って、なんとなくその顔を見つめているとその瞼が酷くゆっくりと開かれた。
ぼんやりとした緑の瞳が天井を彷徨って、ゆっくりとした動きでアッシュを見た。
「アッシュ……?」
呟きながら、ルークは毛布の中から手を伸ばし何かを強請るようにアッシュに差し出してきた。時計だろうか、そう思って視線をさまよわせれれば、早くと急かすようにさらに手が伸ばされる。
「何がいるのか言え、わかんねぇんだよ」
これがこの世界のアッシュならば分かるのかもしれないと思うとなんとなくむかつく。アッシュの知るルークはこんなことはしてこないし、されてもこうやって分からないことも。
「手」
返事は一言だった。言えとはいったがむしろ起きろという意味だったのだが、やはりアッシュの言葉は全く通じていない。
引っ張り上げて欲しいのか、そんな子供じみたことと思ったがもしかしてこっちのアッシュはいつもやっているのかと思えばむかついてアッシュは投げやりにルークの伸ばした手に手を重ねた。
「違う、右手だって」
お断りされると思わなかったのでアッシュは何か言う気も失せて言われるがままに手を出して、そこでやっとルークが何を言いたかったのか気がついた。アッシュは出した右手でルークの手を掴みくるりとひっくり返した。その手の甲には。
「アッシュ見えないんだけど」
「俺が見てるんだ」
「……ああ、ということはまだアッシュなんだな……おはよ。抱きつきたいのは我慢する」
ぜひ我慢してくれと、先に起こさないでよかったとアッシュは心底思った。
ルークはもともと触ることも触られることもそれほど抵抗がないようで、ガイあたりにはよくくっついていたし、ナタリアと手を繋いでいるところも見たことがある。アッシュに対してはそんなことは全くなかったので、ガイにくっついているのを初めて見たときはいらついたし、今でもそうなのだが、それがアッシュとの間に溝がなくなればこうなるのだということは数時間前に実感した。慣れればそうでもないかもしれない小さなスキンシップも今のアッシュにはむしろ毒だ。くっつかれるのが嫌なのではなくて、それに対して大げさに反応してしまうだろう自分が嫌なのだ。
「まだ雨降ってんだよな、せっかくアッシュいるから朝練一緒にしようと思ったのに」
もぞりと起き上がってアッシュの手なんてなかったかのようにカーテンを開けると外を見ているルークを見ていれば、やはり同じルークなのに違和感を覚えるということはどこかアッシュの知っているルークと違う言動なのだろう。一つは、アッシュと同じ空間にいることが当たり前な言動をしているところ、ほかにも違和感を覚えるが特にどこがとはいえない。それほどルークのことを知っているわけでもないし、普段のルークがどうなのか思い出そうとしてもそうはっきりと出てこない。
ルークの表情ではっきり覚えているものといえばアッシュの顔色を窺うときの顔と、半ば睨みつけるようにアッシュに挑みかかる直前の顔だ。アッシュと話をするのにルークはそれだけ気を使わなければいけなかったということだろう。
全部自分が悪い、目の前のルークを見るたびに思うのはそんなことばかりだ。後悔するくらいならそんな言動をしなければいいのに、後悔するのはいつも後だ。そして今思ったって次にルークにいつ会えるか分からないのに。回線ならばいつでも繋がるのは分かっている。けれどただルークを確認するためだけに繋ぐなんて、戻る方法が見つかったのならまだしもただ目が覚めただけで。多分こんなことをしていてはいつまで経っても後悔するしかないのだろう。今まではそれでもいいと思っていた。けれど目の前に可能性を見せ付けられれば、少しでもと思ってしまうのは仕方がないことだ。
「俺をお前の知ってる俺と同じ扱いはするな。お前の当たり前は当たり前じゃねぇんだよ」
「えー、でもアッシュだろ? 言ったじゃん、お前がアッシュである限り俺はお前のことも好きだから安心しろよって」
「余計安心できるか、絶対もとの世界に戻ってやる」
「なんだよ、アッシュ俺のこと嫌いじゃないだろ?」
そんな当然のことのように言われても、アッシュには返事のしようがない。そうだといえば目の前のルークが安心して笑うのか、そう思えばそれも違う気がした。それだけのためにルークにも言ったことのないことばを言うつもりはなかったし、それなりに気を使っているのだろう目の前のルークに対しても意味がない。
アッシュは気がついていた。アッシュの手の甲を見たときのルークの表情も、うっかり口にしてしまったいつもの言葉に違う反応をしただろうアッシュを見た時の表情も。彼にとっては当たり前のことが今は当たり前ではない。それはアッシュも感じているような違和感とストレスをルークもきっと感じているはずだ。それはここにいるアッシュが彼の望むアッシュではないから。それなのにいつもどおりにしようとして、時々失敗しているルークを見てアッシュは思ったのだ。
絶対もとの世界へ戻ってやる。自分のためだし、自分の世界のルークのためだし、目の前のルークの為に。
「アッシュー、出かけるの昼ごはん食べてからだって」
無造作に部屋の扉が開けられてアッシュはその雑さに侵入者をうっかり睨んでしまった。侵入者、もといルークはぴたりと動きを止めて誤魔化すような笑顔を顔に貼り付けてから、とってつけたように扉をノックした。
「今更おせぇよ」
「あいかわらず細かいよな、アッシュ。もっとおおらかに生きないとデコが後退するぜ?」
今度はうっかりでなく睨みつけると、ルークは貼り付けた笑顔を少しだけゆがめて、それでもそのまま部屋に入ってきた。
常々、アッシュの世界の方のルークはアッシュに対して一歩も二歩も引いた言動をすると思っていたが、なさ過ぎるというのも問題ではないか。こっちのアッシュはどれだけこいつを甘やかしているのだと思ったが、相変らずということは同じことを何度か叱られたのだろう。それでこれかと思うと、ルークの性格がそもそも問題なのだろう。
そういえばこいつは家から出たこともなかったほどの超箱入り息子だったなと思い返す。人に対しての遠慮というか思慮が足りないのは否めない。そしておかしなところでしか遠慮しないものどうやったら治るだろうかと思ったがなかなか難しいようだ。
とりあえずその課題は元の世界に戻ってからだ。こっちのルークを矯正するつもりは全くない、というより今のアッシュにはすでに手がつけられない。少し機嫌の悪い顔をすればすぐに引いたりたじろぐのが常だったルークの態度がここに来てそれが全く効いてないとすれば、それがただの飾りだったということはこっちのルークには分かっているのだろう。普通の顔で近づいて、椅子に座っていたアッシュの正面に何の遠慮もなく座ってテーブルに肘をついてアッシュを覗き込んでくる。
「何やってんだ?」
「荷物を確認している。戻れるのがいつになるか分からないし他人の荷物だからって置いとくわけにもいかねぇだろ。使うものは借りるし使わないものは……アルビオールにでも突っ込んどけばいい」
テーブルの上にはこまごまとしたものが広げられてはしまわれていく。そして、走り書きのようなメモがその横に増えていく。昼からはこのホテルを出なければいけないし、どう見ても自分の荷物にしか思えないそれも自分ではない他人の荷物には違いなかった。開けてみてもグミの個数などに相違があるものの、使っているペンも服も同じにしか見えないのが困るような安心するような。人のものを勝手に使う、という面においては多少の抵抗はあるが、だからといってすべて揃えなおすとしても使うのは結局そいつの金だし、使えるものは勝手に使ってもいいだろうとアッシュは決めて、必要そうな日用品などを面倒なのでホテルの売店でそろえようと勝手に決めていた。多分もう一人の自分も似たようなことをするんだろうなという予感はあったのでいっそ気にしないことにする。
「そのまま使えばいいのに、アッシュのだろ?」
そういうのはルークだけではない。出たくはなかったのだが朝食の為に部屋から引きずり出されて皆の前に姿を現さねばならなかったアッシュは、何が違うの? という目で事情を聞いたらしいナタリアたちから見られ、アニスにはつつかれて睨めば珍獣みたいな目で見られ、いつもの調子でルークを呼べばものすごい目でティアから睨まれ、アッシュは反応に非常に困ったのだ。自分は普通にしているつもりなのに周囲から好奇の目で見られるということは非常に居心地が悪いものだ。
さらには、アッシュがルークと付き合っていないのだということを理解するや否や、ものすごい非難の目を向けられたのは納得がいかない。「そんな、アッシュが絶対にルークを幸せにすると宣言したから私達はルークを貴方に一時譲ったのに!」とか聞き捨てならない単語がちらほら聞こえたような気がしたし、ルークはルークで、「アッシュはちゃんと帰ってくるって言ったから俺待つんだ!」とか何か可愛い宣言をしているし、「私はこのままでも構いませんよ、つまりルークは今フリーである、と……」「悪の手から奪い返すチャンス?」などと呟く声とか。多分皆本気ではないのだと信じている。
原因も解決策も分からないまま入れ替わってしまったアッシュを気にしてくれている……いやからかっているだけなのかもしれないが、多分それほど重大なことだとは感じていないのだろう。
世界の中でアッシュとアッシュが入れ替わっただけ。世界の一部であるアッシュは変わらずそこにいる。記憶を失ったわけでも戦えなくなったわけでもない。「使える」という観点から見ればアッシュの存在は入れ替わったとしても十分だ。解決策はおいおい考えましょうと言うジェイドの言葉でどうも皆納得できてしまったらしい。
そうだろう、世界の優先事項はほかにある。アッシュが動けないのならばそれは困る事態だがそうではないのだ。この世界のアッシュもいなくなったわけでもなく、存在する場所も分かっている。ひとり遠い場所で帰って来れなくて、代わりの人がきてくれた、そのくらいの感覚なのだろう。
この環境で困っているのはアッシュ一人だけ。そして誰もその気持ちを分かってくれないのだ。
世界が違うってどういうことなのか、何度も似たような言葉でアッシュに問いかけてくるそれにアッシュは自分の記憶が間違っている錯覚に陥るだけ、と答えるしかない。
この違和感をどう表現していいのか、多分実際にその場に立ってみないと分からないだろう。同じなのに少し違う気がする。それがただの錯覚なのか本当に違うのか、並べて見比べてみることが出来ないからこそわからない。ねえ、と質問が重ねられる前にアッシュはさっさとその場を逃げ出して、自分の部屋に閉じこもることにしたのだ。
ジェイドあたりは顔を出すかと思ったら結局顔を出したのはルークだけだ。
「これからどうするんだ?」
「今日はお前達とグランコクマまでいくんだろ。俺ももともと二三日滞在する予定だったし、お前らも三日は居ると言ってたな」
「……戻るまでずっと一緒に居ればいいじゃん。俺と離れたら向こうから連絡あったときにお前と連絡つかないし、それに……」
「そもそもお前らと居る理由がない」
今までもルークにそう言ってきたように、アッシュは自分がともに行動しない理由をその一言で終わらせてきた。それを言うといつもルークは何かをこらえるような少し悲しげな表情をして、そうだよなと告げるのだ。
「そうだよな」
聞きなれた台詞、だけれどもその声音はアッシュの知っているものではなくて、アッシュはその違和感を突き止めようと思わずルークを見てしまった。
ルークは笑っては居なかった。けれど、その表情は悲しげなそれではなく、むしろ仕方がないとでも言うようなあきらめの表情だ。
「俺は俺のできることをやって、お前はお前のできることをやれば同じことを二人でやるより、二倍のことが出来るかも、だろ。お前もそうなんだな。後は、隠さずやってることを教えてくれたらなおいいんだけど」
「お前らの行動は基本ヴァンにはばれてるだろ、表で堂々としてろ。俺は裏方でいい」
分かってくれているとは思わなかった。こっちの自分はルークに告げたのだろうか。アッシュはいつも初めの一言でルークが引き下がるからその続きを言ったことはない。聞けば答えるのに、ルークが考えているだろうルークのことが嫌いだからとかそういう理由ではないのだ。
多分、どこかで分かっているのだろうとは思う。わかっていなければもっとうざい程の口調で誘うはずだ。ルークは決めたことは我を通す。たとえばアッシュが帰らないといっているバチカルに帰そうとしていることとか。
もしアッシュが望むならばルークを排除することだってそう難しいことではない。自分が被験者であると言えばそれだけでいいのだ。ファブレの名前を取り戻すことだって、表舞台で世界の存亡に関わることだって、簡単に出来る。それをしないことこそ今のアッシュの意志であるとルークは理解しているのだろうか。出来ない、ではなくする必要性を感じていない、それだけの理由に。
ルークとは何も奪い合っているわけではないのだ。かつてはルークに奪われたと思っていたものは、別にアッシュから失われたわけではない。アッシュが生きている限りそれらはアッシュのものであるし、ルークが手にしたそれも同時に失われることはない。
ルークと繋がっている、そうは言ってもルークのことなんて何も理解できないし、ルークもそうだ。けれどこの目の前に居るルークは自分よりもお互いに理解しあえているのだろう。同じ言葉を伝えても、伝わり方がまるで違う。そうだ、そう理解して欲しかったんだと気がついても、本当に理解して欲しい彼には伝わらない。
いつか、そんなときが来るだろうかと思って、アッシュはむっと眉をひそめた。
同じ時間軸でいま目の前のルークは理解した、けれどアッシュの世界のルークは出来ない。それがいつかなんて、ずれてしまったその歯車はもうかみ合わないかもしれない。
どうやったら、実践した世界があるのだから聞けばいいと思うが、それはこちらの世界がすぐれた世界のようで、まるで自分が人生に失敗した気持ちになる。ある意味失敗したんだろう。限りなく高かった自分とルークとの壁をきれいに消したこちらの世界と、いまだ顔が見えるくらいまでしか取り払えていない自分の世界と。顔が見えるだけましだと思っていた。もしかしたら壁がもっと分厚くなっている世界もあるかもしれないのだ。
参考にするだけだ。もしかしたらそれが世界を救う道に繋がるかもしれないではないか。その可能性は限りなく低いけれども、アッシュにはただ理由が必要だっただけだ。
「おい、知っていたら教えろ。こっちの俺がこれから何をしようとしていたかとか、今まで何をしていたかだとか。……ただ、もう調べたところにもう一度いく何て無駄足を踏みたくないだけだからな」
「大体同じ、とかアッシュ、ジェイドと話してたけど。大体ってことは違うこともあるんだよな。でもアッシュは秘密ばっかりだからあんまり俺も知らないよ。俺の行動なら日記見れば分かるんだけど……見るか?」
軽い言葉とともにひょいと昨日もその鞄から取り出された赤い表紙の日記帳を渡されてアッシュは一瞬戸惑った。日記というものは自分だけが知っていればいいもので、そうそう人に見せるものではない……はずなのだが、もしかしてルークの常識では違うのだろうか。
「人の日記なんか見てどうするんだ」
「じゃあ、アッシュの日記見れば? 鞄に入ってるだろ道具袋の奥の、黒い奴」
何でそれを知っているんだ、と思ったがルークの知っている物はこっちのアッシュがつけているそれに違いなかった。アッシュだって荷物をあさったときに同じものを発見している、が、決してそれを覗こうなんて思わなかった。なのにルークはアッシュの隣まで来てひょこっとその荷物の中を覗き込むと、無造作に黒い表紙のそれを取り出してぺらぺらとめくり始めたのだ。
「アッシュ、日記はちゃんと毎日書かないと意味ないって」
「……書くことがある日だけで十分だろうが、じゃねぇ、他人の日記を勝手に!」
まるで自分の日記を読まれているような気分になってアッシュは慌ててルークの手の中からその日記を奪い取った。見られて困るものは書いてはいない……と思う。後で読み返して悶絶するのは嫌なので基本その日に起こった事象だけを書き連ねているはずだった。それが自分の日記ならば。
「だって、アッシュの日記ってスケジュール帳みたいな感じであったことしか書いてないんだもん。もっと俺のこととか書けよなって言ったのに」
「そもそも他人の日記を見るな」
「えー、べつに見ていいって言われてるし。俺のだって見ていいよ? もともと日記なんて誰かに見せるためのものだろ?」
根本的に考えることが違うのだ、とアッシュは少しだけ頭を抱えたくなった。記憶喪失だと思われていたルークにとっては日記は人にも見せるものなのだろうが、一般的にはもちろんアッシュにとってもそうではない、はずだ。けれど見てはいけないと単純に思っていたその中身には純粋に惹かれるものがある。ルークの言うようにそれがただのアッシュがいつも書いているような淡々とした記録であるならば今までしたことも、これからすべきことも、アッシュの世界との違いも同じところも把握できるのかもしれない。それにルークとのことも。
「見てもいいって言ったのは、こっちの俺か」
「そうそう、書いてるときに覗いたらどうせ覗くならもっとくっついてろって言われたから、これって見ていいってことだよな!」
……多分それは意図が違うと思う、のだがアッシュはルークが見てもいいといったその言葉を免罪符にして、自分のものでないけれど「アッシュ」の日記をゆっくりと開いたのだ。
「結局読むんだ」
「一番役に立ちそうだからな、どうせあっちも俺の日記くらい見てるんだろ」
単純に考えれば向こうのアッシュもこれを手にとっている確率は高い。見られてないならそれでいいし、見ていたならおあいこでそれでいい。日付は二月前ほどからのもので、アッシュが使った日付と同じ日付が一番初めのページに書かれている。アッシュはそれを比べやすくていいと思うだけにとどめた。深く考えてはいけない。どうしてこれほどアッシュとルークとの関係だけ差異が出ているのに、ほかのことには全く差異がないのかなんて。
「読むんだったら俺ほか行ってようか?」
席を立ちかけたルークをアッシュは視線でとどめた。
「別に、居ればいい」
確認したいときにすぐに聞けるからと一言付け加えれば、ルークは仕方ねぇなと小さく笑った。
5、Side A ルークと日記とその中身
「俺にとって日記って、また忘れたときに思い出せるように書き留めるためのものだったから、今は違うけど書き始めた頃はちゃんとかいてるか医者もその時に居た教師も俺の日記を見てた。だから日記は自分のその日にあったことをそれを忘れてしまった自分に教えるためのものだったし、誰に読まれても構わないものだったから」
今は違うけど、ともう一度付け足して赤い表紙の日記を机の上に置けば、アッシュのその手が日記にそっと触れた。手を取られるんだろうかと思ったがその直前で止まってしまったのを少しだけがっかりした。
「その時に多分アッシュの日記もあったやつは読まされたと思うけど、正直覚えてないしもうどこにあるか分からないんだけど、ごめん」
「……俺はあの時、ヴァンにさらわれたのを建前にバチカルを出ることを結局は自分で選んだんだから、お前がそのせいでしたことは別に謝ることじゃない。……読まれて困るものは多分書いてないしな」
そういいながら、アッシュは手に持った黒い表紙の冊子をおもむろに開いた。
「だから俺の日記読めばいいのに。アッシュのそれ、勝手によんじゃまずいんじゃ……」
「今も昔も読まれて困るようなことは書いてないと思うし、……まあ書いてても読んでるのが俺なんだから問題ないだろ? どうせ誰にも言わないし、最終的に俺は多分こいつと会うことはないだろうし少なくとも俺は恨まれても実害がない」
そういいながら平然と日記を読み進めるアッシュをルークはもう止めなかった。多分怒られるのは自分だし、それも理不尽な気もするけれども、アッシュの言うとおり、この世界のアッシュが何をしてきたか、これから何をしなければいけないのか、知ることは大切だし、二つの世界の差異に世界の未来を開く光があるかもしれない。二人のアッシュがお互いに意思の疎通が出来ない以上、現在手元にある資料でそれを推し量るしかないのは必然で。とすれば、最大の資料は多分アッシュの手の中にある黒い表紙の日記だ。ルークはその中を見たことはない。見るか? とアッシュに言われたけれども後で怖いので絶対見ないと首を振って阻止した。
けれど見たいという気持ちはある。あるのでアッシュの手元を覗き込みそうになる気持ちを抑えるのが面倒で、どうせアッシュも構ってくれないだろうしどこかに行こうかと腰を上げた。
「どこか行くのか?」
「いや、アッシュ何か読み始めたら話しかけても答えてくれないだろ? 俺もすることないし、しばらくガイのところにでも行こうかなと」
そう言えば、アッシュはそうかと小さく告げて手に持っていた日記をテーブルの上に伏せた。
「お前が嫌なら無理にとは言わないが、俺はおまえがそこにいてくれたほうがいい」
「?」
あまりに聞きなれない言葉にルークは立ち上がりかけたその腰を再び椅子に沈めた。むしろ力が抜けたといってもいい。
「それは、どういう?」
「別にお前をとって食いたいとかいうんじゃねぇ、ただ俺がお前の顔が目の前にあったほうが安心するし、やる気が出るだけだ」
「ああ、そういうこと」
世界は違うがあっちの世界もこっちも同じルークだ、恋人、だというのなら側に居たいだろうに近くにいるのがこんなルークで申し訳ないがそれでも良いと言ってくれるなら特に用事もないしここに居よう。ルークも本当は少し、せっかくアッシュの姿をしている彼がここに居るのだから見ていたいと思ったから話を切り上げて部屋に戻ってきたのだ。ここなら遠慮して他の人は入ってこないから、実質二人きりになるから。
「早く戻れるといいな」
「そうだな、でもお前も可愛いぞ」
今日は空耳がよく聞こえる日だ。ルークの声とはまた少し違うアッシュの声で、聞いてはいけない空耳がやけに今日はよく響く。
「なっ……、にを」
ゆっくりと耳に染込んだその言葉を理解するのに一秒、多分それでもかなり長い時間にルークは感じた。そして椅子から滑り落ちるように床に転がったのがその一秒後だった。ケテルブルグホテルの絨毯はふかふかで、よくミュウが転がっているなと思い出したのはそのふかふかとした床に手をついたその時で、そのおかげでしりもちをついたおしりは痛くはない。けれどルークはそこで止まるわけには行かなかった。ずるずると引きずるように後ろに下がって、突き当たったベッドにしがみつくようにそこによじ登った。
「……少しは慣れろ」
「絶対無理だって、俺んトコのアッシュはそんなこと絶対に言わないから!」
びしっと指をさして、非難の声をかけるけれども、一向に効いた感じはしないのがむかつく。むしろ楽しそうにしているところとか。
「それは……言うかも知れねぇぞ。同じ俺だからな」
ないないとルークは力いっぱい首を振った。目の前に居るアッシュだけが特殊な経過を超えてこんなアッシュになってしまったのだ。どんな選択をしたってアッシュがこうなるわけはない。特にルークの世界のアッシュが、あんなことをもし言うとしたら……
「そんなことがあるなら、預言なんていくらでも吹っ飛ばせる気がするな……」
それはありえないことが起こるというたとえだったのだが、それを聞いたアッシュはそれなら俺の世界は余裕だなとかほざいている。
だめだ、仕草とか口調だとか、ちょっと偉そうなところとか、総合すればアッシュなのにアッシュじゃないところがかなりの勢いでルークの心臓に悪い言動ばかりで、だから近くに居たくないと思ったのだ。けれどそれがアッシュである限り近くにいたいという気持ちもあって、ルークは少し離れたベッドの上でひざを抱えてどうしようかと悩んだ。そんなルークを見てアッシュは小さく笑うと再び日記を読む作業に戻ったようだ。静寂が訪れると今まで悩んでいたこの場を離れたいという気持ちが小さくなって、少し離れたこの場所ならまあいいかなと思い始めるようになるのは現金なだけだ。
こんな穏やかな空間を、いつかこっちのアッシュとも手に入れることが出来るのだろうか、それは夢だと思っていたけれど、叶う可能性はゼロではないことだけ分かった。今はそれだけでいいと思った。
「アッシュ」
消え入るような呟きは、日記を読んでいる彼には届かなかった。それでいい。届けたいのは目の前の彼ではなかったのだから。
「世界にひずみが出やすい場所というのは確かにあるそうです」
現在地はグランコクマの軍本部にあるジェイドの執務室だ。他国の軍本部というのは酷く落ち着かない気持ちになるが、アッシュもそう感じているようで、勧められたソファーにすら座る気配がない。座ったら逃げられないだろうと呟いたのが聞こえたが、敵地ではないのだし……いやアッシュにとっては敵地には違いなかった。ついさっきもケテルブルグから飛び立つアルビオールの中で、ジェイドとガイに遠まわしに嫌味を言われ続けて少しへこんでいるのが見えたからだ。
「アッシュ、聞いてますか? だからルークに触るのならばこちらのルークは貴方の物ではないのですから、ちゃんと断りを入れてください」
「……ルークには言うがお前らに言う必要はないだろうが」
「いいえ、さっきも言いましたが、私達の中でも決まりというものがあるのです。アルビオールの座席だって、食事の席でだってルークの隣は大抵ガイが座っていますし、座りたい席があるならば自己申告して了承を取ってからというのがルールです。貴方は当たり前にルークの隣にいすぎます。それはこちらの世界の常識ではないと理解していただけますよね?」
その言葉にアッシュがこっちもかと小さくつぶやいた。こっちもとはどういうことだ。あっちでも何かやられたのだろうか。
「ジェイド、アッシュだって違う世界で不安なんだろうからちょっとくらい大目に見ろよ。俺は別に構わないからさ」
「そうだ、そういうことにしとけ」
全く不安なんてなさそうなアッシュがそんなことを言っても誰も信じない。
「そうですか、私達では貴方の力になれないようですね。少し気になる点に思い至ったのですが、今の貴方には必要なさそうですし」
ジェイドが心底残念そうに言うのは演技だということはルークもアッシュも分かっているから、その言葉に焦ったりはしない。けれど演技だということは何かジェイドの求めることを言わなければその気になる点、というのは教えてくれないのだろう。アッシュを見れば眉間にむっと皺を寄せて考えているというよりは悩んでいるようだ。
「……俺をいじっても何も出ないんじゃないか。いじるなら別に居るだろうが」
「まあ、そうなんですけど。今目の前に居るのは貴方ですし。その様子では貴方の世界でもいろいろありそうですけど。同じ状況になったなら私も手加減しませんし?」
「あったからそれは後の楽しみにしといた方がいいと思うぞ……」
「後なんてないですよ?」
この状況でアッシュがあっちのジェイドに何をされたのか、ルークは聞けなかった。アニスもアッシュはいじりがいがあるといっていたくらいだからそうなのだろうか。ルークと対しているときにはそんな隙なんてなさそうに思えるのだが、プロからしてみれば違うのだろう。現に今だって、ルークはよく分からないがアッシュが押されているということは何かの弱みでも握られているのかもしれない。けれどこの短期間で弱みを見つけられるとは思わないし、アッシュとジェイドで共通している何かといえば。
「俺のこと?」
そもそもの原因もアルビオールでの席順のことだった気がする。ルークの隣がどうとか。
「ああ、ルークは気にしなくてもいいんですよ。これが私とアッシュのコミュニケーションですから」
ずいぶんと殺伐したコミュニケーションだなと思ったが、そういうやり取りも政治の場なんかではきっと必要なんだろう。彼らはルークよりも大人だからそういうこともあるのだろうとルークは納得したことにした。
「なら、そろそろお前の気がついたことを言ったらどうだ。俺をさっさと元に戻して本来のコミュニケーションとやらを取ればいい」
アッシュもこのやり取りにうんざりしたようだ。そうですねといったジェイドもそろそろ飽きてきたところだったのだろう、不毛な言葉の行き来をやめて手元の資料に目を落とした。
「さっきも言いましたが、世界のひずみ、というものがときとき観測されます」
「ひずみって?」
「いわゆる音素の流れが狂っている場所です。多すぎても少なすぎてもそこは正常な場所とはなりません。通常、世界を巡っている音素は風に乗り世界中を一定の方向で回っています。最終的にはセフィロトから地殻を通って音譜帯へと吹き上げられる一連の流れですね。どこから発生しているか分からないといわれている瘴気も一説には淀んだ音素が発するものだといわれています。淀んだ音素、流れが狂っている場所、思い当たりませんか?」
「……瘴気が充満していた、魔界か」
「はい、魔界に降りたときにあり得ない音素の流れを感じました。その所為であの場所は天候もずっと荒れた状態で、音素の暴走はひと時も止まることはありませんでした。地上でも雨が降ることも風が吹くこともあります。ただ、それが自然の音素の流れ範囲を超えた、昨日のような嵐となると音素の流れが何かの要因で狂ったので突発的な嵐が起きたのだと考えられます。実際に一週間前までの予想される気象情報の中で嵐が起きるという予報はありませんでしたし、だからアルビオールをこの方角へ飛ばしたのです。最近はこういった予定外の悪天候というものが少なくありません。これも世界の音素の乱れによるものである、と考えられています。とりわけ、昨晩の嵐は大きなものでしたから、そこで何か起こったと考えられますね」
確かに昨日の雨風はルークが今まで見てきた中でも大きなものだったし、アルビオールが飛べないといわれたのも初めてだった。けれどそれくらいのことであっちとこっちの世界で入れ替わったりしているのだったら、こういう話はもっとたくさん聞くはずだ。ルークはそんな話は聞いたことがない。お話の中では別世界に行ってしまったとか、そういうものは見たことはあるけれども。
「音素が乱れて世界にひずみが出来て二つの世界が一瞬混ざった、と。そんなことがあるのか」
「知りませんよ。でも現に貴方達は入れ替わっているのでどうにか説明をつけようとすればそのあたりでしょう。観測されている世界のひずみは光の屈折がおかしい、くらいしか発見されていませんからね。普段よりも強い何かの力が働いた、そう例えば雷とか。あれも空にたまった過剰音素を排出するための自然の装置ですから」
雷は普段使っている譜術よりもはるかに強いエネルギーであると聞いたことがある。それならば人が扱いきれないような音素も保有しているだろうし、計算上では計り知れないことが起こっても不思議ではないのだろう。それがどのくらいのありえなさかはルークには分からないけれども、なんとなくすごいんだろうなくらいは分かる。
「入れ替わった原因は雷?」
ルークがそう問えば、そうかもしれませんとジェイドは確信なさそうに呟いた。
「もし平行世界が存在してそれが交わってしまったというのならば考えられるのは、雷により一点に世界のひずみが現れそこで混ざりそうになった世界でアッシュだけが入れ替わった、とすると何とかつじつまがあわせられると思うのですよ」
「でもなんでアッシュだけ?」
嵐に巻き込まれたのはケテルブルグだけでもない、その中でジェイドが集めてくれた被害状況などから見てもアッシュのような状況に陥った、という話は聞かない。
「今回入れ替わった世界はほとんど同じようですし、もし入れ替わったとしてもなんとなく変な気がするくらいで気がつかない方も居るかもしれません。それよりもあなたたちは世界でも特殊なのを自覚してますか? 同じもの同士で超振動でも起こったんじゃないですかね。ルークも一瞬でバチカルからタタル渓谷まで飛んだことがあるでしょう? アッシュ同士だったから世界を超えちゃったのかもしれないですね、本当に貴方達は常識というものをなんだと思ってるんですか」
最後の方は投げやりに聞こえたが気のせいではないだろう。
ジェイドもいろいろぶっ飛んだ考えを持っていたりするが、ルークには確認できないが数式や物で表現できるぎりぎりの範囲内に収まっている。その点、ルークたちはジェイドに非常識と言われ続ける前例も数式でも表しきれない塊だ。
それはある意味自覚している。なんせローレライという存在するかどうかも分からない意識集合体との完全同位体なのだから仕方がないだろう。好きでこんなふうに生まれたわけではない。
「だとすれば、元に戻るには……」
「雷にでも打たれてくればいいんじゃないですか?」
投げやりすぎる返事にアッシュは口をつむいで突っ込みもしなかったし、異論も唱えなかった。ルークもジェイドがこの後に「特大のサンダーブレードでもプレゼントしましょうか?」というのではないかとはらはらしたからだ。
結局やはり結論が出ないまま、ジェイドは仕事がありますからとルークたちを執務室から追い出した。
「ジェイド考える気がないんじゃないか、もしかして」
グランコクマの街を歩きながら隣を歩くアッシュにぼやく。もうちょっと真面目に考えてくれてもいいのにと思う。
「これだけの時間に、あれだけちゃんとした資料を集めてたんだから何もしてないわけは無いだろ。考えても答えは出ないかも、というのは俺も同感だしな」
資料といっても、あれはジェイドの仕事内容の範囲内のマルクト領での昨晩の嵐の被害状況ではなかっただろうか。むしろアッシュたちのことがついでなんじゃないかと思う。ジェイドにしてみれば、少しだけ協力的なこっちのアッシュのほうが使いやすいだろうくらいに思ってそうだ。
「そういうお前は何もしてねぇじゃねぇか」
「俺に出来ることが何かあると思う?」
「……まあ、ないだろうな」
「うーん、雷ねぇ。雷の鳴ってるところに行ってみるとか」
「やめとけ。ひずみが出来たとしてもそれが丁度いいところに繋がってる可能性は低い。なんせ、平行世界はいくらでもあるんだからな」
いい考えだと思ったがさっさと却下された。もしそれでいいのならジェイドも提案してるだろうし、こんな天気のいい青空の下を歩いてなんか居ないだろう。
そう思えば、アッシュと二人で連れ立って街中を歩くなんてことは初めてなんじゃないだろうかと思う。
アッシュは珍しく教団服を着ていなくて普通の格好に剣だけ腰に下げている。ルークにとっては珍しかったが、アッシュにしてみれば戦う必要のないときにわざわざ目立つ教団服を着たりしない、ということだそうだ。この服もこっちのアッシュの荷物の中から取り出したものだから、こっちのアッシュも似たようなことをしているのかなとルークは思って、アッシュのことは何も知らないのだと改めて気付かされる。それに、アッシュとなんとなく自然に話をしているような気がするのもたぶん、気のせいではないだろう。このアッシュにも少しは慣れたということか、もしくはアッシュが気を使ってくれているか。……だいぶ気を使わせている気もする。
アッシュも用があってグランコクマに行くのだといっていたし、けれどいま夕方なのにアッシュはどこへ行く気配もなくルークと連れ立って歩いているのだ。アッシュと一緒に歩けることは嬉しかったけれども、その事実に気がついてしまうと急にその気持ちがしぼんでいく。
「ルーク、どうした?」
そうやって、ルークのことに気がついて声をかけてきてくれるなんて、今まで想像もしていなかった。やっぱり、このアッシュは自分の知っているアッシュじゃなくて、こんな言葉をかけてもらえるもう一人のルークはもっとしっかりしたルークなんだろう。ルークも少しはちゃんとできれば、アッシュもこうやって声をかけてくれるようになるだろうか。
「アッシュはここですることがあったんだろ、解決策も見つからなかったし先にすれば? 俺は宿に帰るし」
どうせ明後日までここに居るのだ。今日はもう調べ物をしようにも開いていないだろうし、細かな情報収集などはルークは不得意だ。せめて戦闘で役に立つために訓練でもしようと思っていた。それがいまルークのできることだと思ったからだ。
「……俺とじゃ居心地悪いか」
「いや、そんなわけじゃ……」
「お前は、俺には気を使わないでいい、って言ってもきかないんだろ。まあ、俺もギンジがアルビオールもってどこか行っちまったから明日まで動けない。それまでにすることはゆっくりするさ、気にすんな。俺がお前と居たいだけだからな」
そんな言葉を柔らかな表情で言われれば、ルークはうっと息を詰めてしまって何も言うことが出来なくなる。
「……俺にそんなこと言ったって、何もでねーぞ」
「そうだな、抱きしめたら怒るだろうから我慢してるところだ」
なんでもないような顔で言った様に見えて、目がそれほどなんでもない視線ではなかった気がしたのでルークは三歩ほどアッシュから離れてから「じゃあどこに行く?」と告げた。そんなルークをアッシュが苦笑しながら見ているのがルークには不思議な光景に思えたが、それほどの違和感を覚えたりはしなかった。
ああ、多分こんな空間を願っていたし、嬉しいんだ。ルークはその時ほんの少しだけ、もしこのままアッシュが戻れなくても構わないかもしれないと思ってしまったのだ。
その晩、アッシュからの回線で連絡が入った。
6、Side B アッシュの作戦
アッシュは考えていた。
雷という要因でもし世界が一瞬交じり合って、その所為でアッシュが入れ替わったとしたら、もしそれを再現できるならどうやるだろうか。
雷があればいい、というのではないだろう。あれは音素を濃縮して膨大なエネルギーを発生させる要因でしかなく、同じ条件の自然現象というものはおこらない。確実にアッシュのいた世界とこの世界をつなげるには……
「なあ、アッシュ。何してんの? そろそろ飯だぜ」
「……うるさい、黙れ。それに食事は一人で取るって言っただろうが」
「えー、一緒にとろうぜ、ほら皆アッシュと話したいって」
どうせまた延々といじられるに決まっているのだ。だれが姿を見せるか、と今日は宿でも一人部屋を確保したくらいだ。なのにルークは当たり前のようにアッシュのベッドに腰掛けて足をぶらぶらさせている。
「話すことなんてねぇ」
今朝からのいろいろを隣で見ているくせに、ルークはどうしてアッシュを死地に追いやろうとするのか。実はアッシュのことが嫌いだからあえて嫌がらせをしているとしか思えない。
そうだろう、話を聞かされたこっちのアッシュはルークが好きだと開き直ってからまめに連絡は取るし、いつの間にか会っているし、すっかりルークがアッシュにほだされてしまったんだと、主にガイが嘆いていた。二度は土下座しても許さないぞといったガイの目より土下座したのかという事実にアッシュは驚愕する。
何をさせられたんだろうかこちらの自分は。ルークを手に入れるために何を失ったのか知りたくない。
何もしていない自分は多分ルークに好かれるようなことは一切ないと自覚している。むしろ冷たい言動しかルークにしていないのだ。もちろん、こちらのルークにも同じような言動しかしていない。それでもルークがいまだアッシュの部屋で居るのは、この世界のアッシュが積み上げてきたものが根底にあるからだろう。それには多分この言動が見栄だということも含まれているのかもしれなかった。
「うん、そう思ってさ、アッシュが向こうのルークと会えないから落ち込んでるんだそっとしといてやって、って言ったら納得してた、ナタリアたちが」
それで納得されても逆の意味で困るような気がするのだが、どうせそれほど馴れ合うつもりもないし、さっさと戻るつもりもあるのでなんと思われようが構わないはずだ。はずなのだが。
「……それで本当に納得したのか」
「当たり前じゃん。俺とアッシュだぜ?」
それ以上は聞かないほうがいいだろう。そう思ってアッシュは戻る方法を考えることに戻ることにした。
いろいろと考えている間、ルークはベッドの上でごろごろしていたり時折アッシュの後ろまで来て何かを覗き込んだりしてうざいといえばうざかったが、話しかけてきたりはしなかったのでそれらの行動を放置した。どのくらい経っただろうか、ルークのことを呼ぶ声が扉の向こうから聞こえてルークがそれに返事をした。多分夕食の呼び出しだろう。アッシュは目でさっさといけと伝えると、ルークは仕方なさそうにベッドから降りた。
「なあ、アッシュは早く戻りたい?」
「当たり前だ。お前こそ、俺じゃないほうがいいんだろうが」
問いかけに答えたのは、ルークもそう思っていると思ったからだ。けれどルークは少しだけ目を逸らせて、結局下を向いてしまった。
「戻ってきて、欲しいけど。もし無理だったらどうしようって、思わない?」
「来れたんだから戻れるだろう」
「そうじゃなくて、アッシュが戻らなくてもいいやとか思ってたら、だってあっちにも俺がいるんだろ? アッシュがこんなに冷たくてつれないのにそれでもアッシュのことすきだって言うんだったら相当素直で可愛いんじゃないかって。お前も不安だから早く帰りたいんだよな?」
冗談で言っているのかと思ったら、その目は意外と真剣でたじろぐのはアッシュのほうだ。自分の世界のルークの話なんてしただろうか、してないと思うのにどうして断言するのかとか、知らないうちに向こうのアッシュと話しでもしているのか何を聞かされているのか不安になる。それより、そんな話はアッシュも聞いたことがない。
「俺はただ、元の世界に戻りたいだけ……」
「じゃあ、向こうの俺のことは全然心配じゃない? 戻ってお前じゃないとか言われたらどうするんだよ」
同じルークの声なのだ、脳内再生はいとも簡単に行われ、結果アッシュは面白くない気持ちでいっぱいになる。
聞いた話を総合したもう一人のアッシュがルークに自分と同じような態度を取るとは思えなかった。自分でさえ、このルークは自分の知るルークとは違うのだと思っただけで相手の態度もあったがいつもよりも厳しい態度を取れなくなった。ルークによく似た関係のない他人ならばそういう行動も取れるのだ。あっちに行ったアッシュはもう一つ棘が取れてむしろルークに甘いらしい、それならなおさら、ジェイドにすら懐いたルークは自分のことを認めてくれる奴には弱い。
アッシュがちゃんとわだかまりを超えてルークを一人の人として認めれば簡単にルークは自分を懐に入れるのだろうと分かっているが、そのわだかまりを超えられないからこそできないのだ。奴はそんなものとっくに簡単に越えただろう、ということは。
「心配だろ?」
アッシュは何も言わずに口をつぐんだが、多分表情で見えてしまっているのだろうとは思う。ルークはいつだってアッシュに話しかけたそうにしていたし、アッシュの一言ですぐに萎縮するし、なのにその顔はちらちらとアッシュを窺うのだ。言えばいいのに、と思うがそれを止めたのは自分だし、たまにはっきりと言ったと思ったら力みすぎて喧嘩腰で、そのペースに乗ってしまうと口論になる、苛々とするループはいつだって終わらない。自分が変わればいいのかルークが変わればいいのか。多分どちらかが変われば多少はましになるのだろう、今目の前に居るルークのように。
けれど。
「俺が見てきたルークはあいつだ。お前だってそうだろ」
「……そうだよな。まあ浮気してたら一発殴っとけばいいし……うん。早く戻ってこないかな。お前のことも俺好きだけど、やっぱりアッシュの方がいい。超振動とかでぱぱっと飛んできてくれたりしないもんかな」
放っておいたらこいつはまだいらないことを口にしそうなので、アッシュは今度は部屋にいてもいいぞとは言わなかった。
「超振動は手品じゃねぇぞ。くだらないこといってないでさっさと出てけ」
一人になって、再び部屋の中は静かになった。ルークにとってアッシュはただの被験者で、こっちの世界なら恋人というオプションがついているらしいので多少は違うだろうが、自分達の間には結局それしかない。別にルークが誰を好ましく思おうともそれは仕方のないことだし、そう思ってアッシュはむっとする心を抑えた。
仕方ない、はずだ。だって自分はルークに対して何もしていないし何もやっていない。やろうとしたことだってあったし、言おうとしたことだってあった。多分その時のどれかの選択で自分達の世界とこの世界が分かたれたのだろう。けれど結局同じような世界、同じような状況だということはアッシュのルークに対する行動はすべてニアミスで、全部が後もう少し足りなかった、ということなのだろう。
今朝アッシュの日記を読んでそう思った。あるときのケセドニアで、アッシュはルークが居ることを知っていて会いに行かなかったし、こっちのアッシュは会いに行った。移動すればすぐの街にいたときにもどうせ情報だけ知りたかったからと回線で済ませたときにも場所を言えばルークは来たはずだった。会いたい、と思ったときに回線すら繋がなかったから会えなかった。
一つ一つは小さなことだったのに、重なって結局アッシュとルークの関係は進まないまま。それでいいと思っていたアッシュの前に、うらやましいほどの別の自分が居た。けれど決して成り代わりたいとは思わなかった。
だから、アッシュは戻りたいのだ。あっちのアッシュがどう思っているかは知らないけれど、選択を間違えた自分の世界にため息でもついているのだろうか。
方法は、どこかにあるはずだ。
その時、さっきルークが言った言葉が頭を掠めた。
「超振動で……?」
今のところ分かっているのは、違う世界を繋がなくてはいけないこと。
世界のひずみによって世界が繋がる可能性がある。
世界のひずみは音素量が狂うことによって発生することが多い。
雷のように一度に大量の音素を凝縮した場合などは可能性が高い。
大量の音素を集めることは可能だ。手元にはローレライの剣もあるし、第七音素だけでなくその他の音素もアッシュは集めることが出来る。自然に集まったそれでなく、意思をもって集めて凝縮させたそれならば人の手で集めることの出来る量でも足りるだろう。さらに、世界を繋ぐには。
少しだけ目を閉じて自分の中を覗き込むように探れば小さな光が見えて、その先には必ずルークが居る。それは世界を超えて自分の居た元の世界のルークにしか繋がることはない。それならば、アッシュと元の世界を繋ぐ糸は確かに存在するのだろう。その糸を手繰ればルークに、世界にきっとアッシュはたどり着く。後はどんなものでも消滅させられるという超振動で世界に切れ目を入れれば繋がるはずなのだ。
アッシュとルークが繋がっている。それだけが最後の砦であり、最大の好機だ。
『アッシュどうしたんだ? 何かあったのか?』
つなげる気はなかったのだが繋がってしまったようだ。どうやら食事中のようで、本当に自分の世界のルークなんだろうなと不安になったが、何度も確かめたのだ間違いはないはずだ。
「また後で話す」
一言でぶちりと切ってから、もう少し説明したほうがよかったかと思ったが切ったものは仕方がない。
少し経ってからルークが部屋に飛び込んできて、「アッシュなんかあったのか?」と叫んできたので、繋がっている先が間違っていたのかと一瞬焦ったが「あいつはなんなんだってアッシュが怒ってた!」という言葉を聞いて少しほっとしたのと同時に、あっちのアッシュにほだされてそうなルークに多少の危機感を覚えたのである。
「アッシュ、ほんとにここでいいのか?」
「別にどこだっていいが、どちらかといえば行きやすいところのほうがいいだろ。成功するとも限らないし、失敗したら別のところに行けばいい」
「そんなもんかなー、なあガイ」
「うん? どうせ俺にはすることないし、近くて安全な方がそりゃお前を連れて行かなきゃいけないだったらいいだろ。ケテルブルグは雪が深いし、パッセージリングまでいくのに遠すぎる」
そう、アッシュが回線を繋げてまで元の世界のルークと話したことは、アッシュの考えたことを一度実践してみようと翌日にどこかのパッセージリングへ行くことを提案したのだ。それにはルークを通してお互いのアッシュと話をしなければいけなかったが、面倒だと思ったが同じことを考えていたらしい相手もやるかと言ったので、多分今頃は同じようにパッセージリングに向かっているはずだ。
「シュレーの丘なら敵も弱いし、そこそこパッセージリングまで遠いわけじゃない行くのは楽だけど、ケテルブルグに近いアブソーブゲートの方がいいんじゃないかなと思うんだけど」
「位置は多分関係ないと思いますよ。ケテルブルグがアブソーブゲートに近いことは多少はあるでしょうが、そんなに頻繁に何か起こるようでは観光地になりません」
後ろからついてきているジェイドは確認したいだけですので、といいながら戦闘にさえ参加しない。別にそれはどうでもいいが、別についてこなくてもいいのに純粋に研究対象なんですよといわれれば断わってもついてくるだろう。
アッシュの試算をジェイドには伝えている。可能性はありそうですからやってみますかといわれたので大体間違っていなかったのかもしれない。出来ないならすっぱりと出来ないというだろう。ジェイドがそれを提案しなかったのは多すぎる音素を扱うことも、違う世界を繋ぐことも普通では出来ないからだ。だから出来るとは言わなかった。
この方法でも出来るかどうかはわからない。けれど、できなければ別の方法を探すだけだ。これで世界が壊れてしまうとか、そういうリスクがあるなら考えるが入れ替わった異物を取り替えるだけ、それ以上に世界に干渉するつもりもない。元に戻ればお互いの世界を繋ぐ糸もなくなる、すなわち数多あるうちの平行世界の中でその世界と繋がる可能性は限りなく低くなるということだ。そんな些細な干渉なんて世界にとっては瑣末なことだろう。この世界では預言に逆らうことすら瑣末なことにされてしまうのだから。
アッシュが一番前を行って、ルークがその隣を歩く。けれど時折後ろに回ってはジェイドやガイと話をしていたりするがアッシュはそれに加わることはない。それが自分の話題であってもだ。関わるとろくなことがなさそうだからだ。
「そろそろ着くよ」
またちょこちょことアッシュの横に並んだルークがその先を指差す。アッシュだって何度もここを訪れているから分かる。アッシュたち以外はパッセージリングが見えるぎりぎりの場所で足を止めて遠くから見ている。普通ではない音素の使い方をするのだ、多少の危険はあるし、離れていた方が何かあったときに助けになる。
ゆっくりとパッセージリングへと足を進めて行く。
セフィロトツリーとしての役目を終えたパッセージリングはそれでも白く輝いて、セフィロトの主としての役割を果たしている。
アッシュはその正面で足を止めた。
「アッシュ、俺は何をすればいい?」
ルークがその横で足を止めてアッシュを見た。
「回線を繋いでくるそいつの声を聞いてろ」
ルークはその声にうんと大きく頷いてきらきらと光るパッセージリングをじっと見つめた。まるでその奥に求める人物が居るようなそんな瞳で。その目は決して自分には向けられなかった。別にそんな目を向けて欲しいと思わなかったし、向けて欲しい瞳は別だったからだ。目の前のルークの瞳は向こうの世界のアッシュに向いていて。
そして。
『アッシュ、ちゃんと繋がってるよ』
頭の中に声がする。少し控えめな、アッシュの知るルークの声だ。少しだけ緊張しているように聞こえるその声に、アッシュは回線を通してそのままでいろと返す。
『……うん、アッシュが帰ってきてくるの、待ってるから』
その言葉にアッシュは一瞬思考を止めて、脳内に響くその声を反芻する。いや、普通に考えたら突然入れ替わってしまった知っている人が返ってこれるかこれないかという場面では、待ってるの一声くらいはあるだろう。それがアッシュのいいように聞こえてしまうのはアッシュが多分そう望んでいるからだ。
「俺がこの繋がっている回線をたどって近づくから、お前も引き寄せる気持ちで俺を呼べ」
それは人の意思でどうにかなるものではないかもしれない。けれどアッシュはこの世界の音素の一つである第七音素の同位体であり、世界を滅ぼす力すら持っているのだ。一つ世界を引き寄せるくらいできるはずだ。多分その平行世界は思ったよりもずっと近い場所にあるはずだから。そうでなければアッシュとルークがこうも簡単に繋がったりはしないだろう。どこまでこの回線が繋がるかは分からない。音素が繋がっていさえさえすれば多分繋がるのだろう。とすれば、二つの世界はどこかで音素が繋がっているのだ。
回線を通じてルークとの間に距離はいつだって感じることはなかったし、今だって世界をはさんでいることを全く感じない。
目の前に音素を集めていけば、音叉をかたどったパッセージリングがひときわ強い光を放った。セフィロトツリーを支えていたこのリングもまた膨大な音素を受けるためのものであり、アッシュが今から集める音素くらいならばたやすく受け止めるだろう。世界の揺らぎというものがどういうものなのかアッシュは見たことがない。けれど、世界でただ二人だけ、単独で超振動を使えるアッシュには音素が分解する直前の揺らぎというものは感じたことはある。音素が弾け飛ぶ瞬間のあのエネルギーがたまった状態ならば、あの吸い込まれるような光の渦の中に見たこともないものが引き寄せられるのも分かる気がした。
あっちはちゃんとやってるんだろうなと思ったが確認する手段がない。世界がどんなものかも分からないし、繋がった状態がどういう感覚なのかも分からない。
『アッシュ?』
その声とともに、アッシュはぞくりとした感覚が首筋を這い上がってくるのを感じた。これは歓喜だ。今まで当たり前に感じていたルークが居るという感覚。それはこの世界のルークが居るという感覚だった。けれどアッシュはもう一つ、今繋がっている回線の向こうのルークの存在が、パッセージリングの向こうにあるようなそんな感覚に襲われたのだ。多分ルークもそれを感じて、声を出した。
繋がった、と思った。
『アッシュ!』
その声がするほうに向けて、アッシュはローレライの剣を振って世界を切り裂いた。
7、Side B アッシュとルークのその結果
一瞬まぶしい光に包まれて、けれど直後に光でなくて温かい何かにルークは包まれた。
「帰ったぞ」
「おかえり、アッシュ」
ぎゅっと抱きつけば抱き返してくる、丸一日くらいしか離れていないはずだったのに、酷く遠くに行っていたようなそんな気分になる。
「アッシュ、だよな?」
さっきまで側にいたアッシュも確かにアッシュだったから、見た目ではどうしても区別がつかない。確かめる方法は……と思ってルークの腰に回っていた手を掴むと思いっきりひっくり返した。
「ルーク、お前何する……」
「書いてない!」
感動的な再会だったはずを何かよく分からないままに壊されてアッシュは少しだけむっとした顔をしたけれども、ルークがなにやら嬉しそうに右手の甲を撫でるのでどうでもよくなった。けれど台無しにした詫びはもらうべきだとアッシュは一人で勝手に考えて決めて、右手の甲を掴んでいるそのルークの手ごと引き寄せて、驚いた丸い目を間近に感じながらその唇を奪ったのだ。
「もう一人の俺と楽しそうなことをしてたみたいだな」
「いや、これは……だってお前が居ないのが悪いんじゃん!」
そういいながら、ルークとアッシュは顔を見合わせて笑った。触って確かめて確かにずっと同じ世界で暮らしていた相手だとわかる。
「アッシュがここに居るってことは代わりにいたあいつはちゃんと戻ったんだよな」
「……そいつのこと気になるんだな」
「アッシュだってどうせあっちの俺のことかまいまくってたんだろ」
「まあ、前のお前を見てるようで可愛かったな」
その言葉にルークはどうせ俺はかわいくないよとむくれたので、アッシュは耳元で何かをルークに呟いた。あっという間に機嫌を戻したルークはあっちのアッシュもかわいかった! と得意げに言えばアッシュは微妙な顔をした。
「ほんとにどうして俺たちみたいに付き合ってないんだろうな?」
8.Side A アッシュとルークのこれからのこと
光が収まったときに、目の前にいたのはさっきと変わらないルークの姿だった。確かにルークにこの手が届いたと思ったのに、やはりそんなに簡単に違う世界が交わったりしないのだろうか。これでだめなら、後は何をすればいいのか、アッシュの頭はいまは何も考えられなかった。
「アッシュ?」
ルークをじっと見たまま動かないアッシュに焦れたように、ルークがおずおずと一歩アッシュに近づいて顔を覗き込んできた。
「こっちのアッシュかあっちのアッシュかどっち?」
そもそもアッシュはまだこっちがどちらか分からないのだから答えようがない。何か目印でもつけとくべきだったかと今更気がついて、その時思い出した。
「印……か」
「え? 何アッシュ?」
手が届くほど近くにいたルークが悪いのだ。アッシュはルークの左手をぐっと掴んで強引に引き寄せた。突然のことにルークは思わずバランスを崩してアッシュに顔からぶつかって抗議の声を上げる。だがアッシュが確認したかったのは唯一つ、その左手の手の甲だった。昨日の晩にまた悪戯のようにルークに書かれた落書きはなんだかさらにグレードアップしてミュウを書いてもいいかといわれたのでぎりぎり阻止したよく分からない模様になったのだ。今度は何で書いたのかなかなか落ちずにいまだうっすらと手の甲によくわからない模様が残っている。グローブ着けて隠すから! とせがまれたので大きく×を書いてやったらアッシュの馬鹿とペンを投げられて危うく顔に落書きされるところだったのを覚えている。消していてもうっすらと後が残っているはずのそれが、今掴んでいるルークの手の甲には全く形跡すらない。
ということは。
「戻った……のか」
「え? 戻ったの? 本当に?」
こいつは待っているといいつつ信じていなかったのか手を離したその時にようやくルークの顔が至近距離にあることに気がついた。そういえばひどく近いところから声が聞こえると思った。目が合えばルークがぱっと一瞬で顔を赤くしてぐいっとアッシュを押し返した。
「お前が引っ張るからだろ! 俺のせいじゃ……」
それは何かを考えてのことではなかった。わざとらしげにぐいぐいとアッシュを遠ざけようとするルークにいらついたのもあるし、自分の世界に帰ってきたことを実感したかったということも、ただ、目の前にルークが居ることを確認したかっただけかもしれなかった。
押し返そうとする腕を掴んでそのまままたルークを引き寄せた。
「え? お前やっぱりあっちの世界のアッシュだろ? 紛らわしいことすんな……って?」
言いながら抵抗が緩んだのが分かって、アッシュはそれがどうにも気に入らなかった。アッシュはこんな近くにルークを感じたことはなかったのに、それがあいつの反応だと思うとすると、答えは一つだ。
「てめぇ、あいつならよくて俺では抵抗するとはどういうことだ」
「えぇ? やっぱりアッシュ? なに、ちょっと待って、意味が分からないんだけど」
それは、自分でないアッシュなら意味が分かるということか。再び体を離そうと力を入れるルークの頭をつかんでぐっと肩口へ押し付ける。
「意味が必要なら教えてやる。なぜか入れ替わった世界でお前だけが元の世界と繋がっていた。だから帰ってこれた。感謝してる、これでいいか」
肩口でルークがなにやらもごもご言っている。何を言っているのか聞こえないが何でもかまわない。とりあえず今はルークを手放す気がないからだ。
「だから、アッシュがこんなことするはずないし俺に感謝するはずないし、だから下手な冗談やめろよな!」
肩口からようやく顔を上げたルークが悲鳴のような泣きそうな声を上げた。
「俺は、アッシュにちゃんと、会って、もしかして俺のいる世界なんかに帰ってきたくなかったかもしれないけど、俺はお前のいる世界がいいんだ」
「ちゃんと俺だって分かってんじゃねーか」
「分からないわけないだろ、あっちのアッシュはもっと優しかったし、撫でてくれたし、そんな悪口じゃないし」
「あぁ?」
もう一つの世界の自分はどれほどだっただと気になる言葉ばかり並んでアッシュは苛々する。自分がそうでないのは理解していても、だ。
「でも、俺はアッシュがいい。俺のこと認めさせたいアッシュはお前だけだから」
肩口でおかえりなさいと呟かれて、アッシュは眩暈がする気がした。
さっきよりも確実に戻ってきたという実感がじわりと腹の底から沸いてくる。そうだ、帰ってきたのだ、自分のルークのもとへ。
「可能性ってすごいよな、俺とアッシュが恋人同士だったりしてるだなんて。だとしたら、きっとこの先も預言なんてひっくり返せる可能性もあるよ」
そう言って小さな笑い声を立てたルークの声を聞いて、めったに見ないルークの笑顔がそこにあると思うとその顔が見たくなってアッシュはルークの拘束を解いて少しだけ身を離した。
けれどそこにあったのは何? と首を傾げるルークの顔だけ。もう一度笑えともいえず、アッシュは自分の失態にむっと眉を寄せた。それを怒っていると思ったのかルークは慌てて手を振って違うと口を開いた。
「いや、別に俺がアッシュと恋人になりたいとか言うわけじゃなくって!」
「なりたくねぇのかよ!」
「えぇ?」
思わず言ってしまった言葉は引っ込められない。けれど、ルークを手放さないアッシュの言動からは今さらだと思ってもうあきらめることにした。ルークから離れていろいろ考えたのだ。ありえないと思っていたことが実現する可能性も、ルークがどんなことがあっても自分から離れていかないだろうという確信も。
ありえないと思っていたことが起こった世界に行かなければアッシュは信じなかっただろう。可能性、それがほんの少しでもあれば、それは現実に起こりうるのだ。
例えば、ルークの手をとっても振り払われない可能性とか。抱きしめても抱き返される可能性とか。今までいろんな選択を無駄に捨ててきた。どっちの選択がよかったかなんてやってみないと分からないというが、やってみたって分からないのだ。その一方を目の前に見せ付けられることなんて普通はありえないのだから。それがあったのならばアッシュにとってはただ幸運なことだったのだ。これはきっと。
「あいつと俺がほとんど同じ行動をしてたのはどうしてだと思う?」
「同じアッシュだからだろ?」
「そうだ、同じ、なんだよ。お前に対する気持ちも同じだから、あの世界とこの世界にほとんど差異がなかったんだろ」
もう確認なんて出来ないことだが、二つの世界にこれから同じ未来がくるのか分からないけれども、多分似たような未来になるんじゃないかと、アッシュは勝手に思っていた。これから先に唯一つの違いだった二人の関係に差異はなくなる予定だからだ。
世界は平行のまま願う未来へと、進んでいく、はず。