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    absdrac1

    @absdrac1

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    absdrac1

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    雪国の青幻です。
    自分なりの幾つかの課題を盛り込んだ習作なので、出来はいつも以上に悪くなっています。
    大体こういったものを書きたいという、メモ程度のものです。
    それでも宜しければどうぞ。

    雪国(仮)『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』
     有名な小説の冒頭を少しだけ読み、作家は本を置いた。彼は今、その小説の主人公と同様に、と或る県境まで来ていた。黒煙を吐き出す汽車の窓からは、燃えるように真赤な紅葉が夕陽に照らされて、漆黒の影を纏い始めているのが見えた。この車両には作家の他に乗客は居なかった。隣の車両からは賑やかな子供の声が聞こえていたが、はしゃいで眠ってしまったのか、何時の間にか聞こえなくなっていた。作家は手帳を開き、万年筆を手に取った。
     俄に暗くなった。汽車が隧道の中へと入ったのだ。作家は耳の詰まったような感覚を受け、唾液を飲み込む。隧道の灯りが周囲を橙色の世界へ変えていた。一定間隔で設置されている灯を通り過ぎる度に、物の影の濃淡が交互に入れ替わっていった。橙に染まった手帳には文字が綴られていく。果てしなく続くとも思われるこの暗闇を抜ければ、其処には見知らぬ街が在る筈だった。

         * * *

     気圧が変わった。私は書き物を止めて頭を上げる。耳閉感はもうない。気付けば車内が明るくなっていた。窓の外を見遣ると真白い大地が何処までも続いていた。一面の雪だ。雪は建物や木々を覆い尽くしており、都会ではなかなか眼にすることのない光景だった。隧道に入る前には晴れていた空が、薄曇りのものへと変わっており、白いものがちらちらと舞い降りている。何となく逸る気持ちを抑え、私は万年筆を走らせる。
    「そう云えば、先生の御国は何方どちらなんですか。今まで聞いたことがなかったなあ」
     この旅の見送りがてら、私の担当になったばかりの編集者は私に尋ねてきた。駅のホームは人が多く、彼の大きい声ですらもやや聞き取り難かった。
    「生まれも育ちも此方です。昔から旅行などしたことがありませんし、普段は引き籠もって執筆ばかりです。取材の合間に観光でもしたいものですね」
     私は声を張って答えたが、彼は耳に手を当ててさも聞き難そうにしていた。発車のアナウンスが鳴った。
    「では、雪国へ行くのは初めてなんですね。僕は彼処が出身なんです。小説の舞台にもなっているし、温泉もよい。是非、楽しんでいらして下さい」
     私は頷いて、駅のホームから電車の中へと入った。
    「そうそう、食べ物も美味しいですよ」
     追い掛けてくる担当編集の声に微笑を返して、私は車内の奥へと進んで行った。適当な席に落ち着くと、窓の外を見た。見慣れた都会の風景だった。平生のように、沢山の建物と人が入り混じっていた。担当編集の姿はもはや何処にあるのか分からない。
     連続した時間と空間の中で、それがどうしてこうも変わるものか――。
     今、私の眼前には銀世界が広がっている。人など何処にも見当たらない。まるで作られたような世界だった。何もない匣の中に、誰かが山や家や木を配置し、粉のように雪をまぶした世界――其処には、人だけが置き忘れられたかのように居なかった。そう云う風に感ぜられた。
     だが、実際には人は居る。遠くに見える家々の窓には明かりが点いている。人の住んでいる証左だった。然し、私は想像した。此処は、人々の営みを照らす明かりが点けられた儘、人々が去った世界なのではないか。実際、如何に叡智の光を灯しても、我々はいずれこの世界から去りゆく存在だ。然し自然はその後も残り、新たな世界の一部になっていく。人の居なくなった世界で、只、しんしんと雪が降り積もっていく。そうして、やがては人々の営為など覆い隠してしまうのだろう。
     汽車が停車した。私はホームへと降り立った。冷たい空気が肌を刺し、肺の中まで入って来た。時刻は夕暮れ時であったが、雪明りで然程暗さを感じない。走っている汽車の窓からは誰も居ない街のように見えたが、ホームには疎らに人が存在した。私は荷物を持って改札口から出ると、今度は駅の出口を探した。
    「夢野先生ですね」
     不意に声を掛けられて振り向いた。其処には私と同世代の青年が立っていた。青年は笑顔で言った。
    「僕はYの親類の者です。先生が此方へいらっしゃると聞いて、ご挨拶に上がりました」
     Yとは私の担当編集の名だ。Yはこの街が出身だと言っていたから、縁者が居てもおかしくはない。然し、私は何か引っ掛かるものを感じた。彼の言葉の内容にではなく、彼自身に関してだ。だが、一見すると青年の態度に不審な点はない。
    「それは、わざわざ有難う御座います」
     私達は互いに自己紹介をした。純朴そうな青年だった。彼は私が望むのならば、街を案内するようにYから依頼されていると言った。私は先ず取材をして、時間が余るようであればお願いすると答えた。
    「宿泊先はお決まりですか」
    「はい。Yさんに予約をして頂きました」そう言って、私は旅館までの地図を出した。
    「其処は僕の実家が経営する旅館ですね」
     処が私は、Yからそのようことを聞いていなかった。青年も特に連絡を受けていないようであった。
    「あの人はそう云う、一寸抜けた処があるからなあ」
     確かに、新人編集者であるYにはそそっかしい処があった。そうかもしれませんね、と私が言うと、青年は人懐っこそうな笑顔を浮かべ、私も釣られて微笑した。
     旅館までは青年が案内すると申し出た。二人で駅を出ると、先刻汽車の窓から見た通りの雪景色が広がっていた。白い道が駅から続いている。道の脇に並んでいる街灯が点滅し、やがて点灯した。静かに雪道を照らす灯りは、私達二人の影を作り出していた。そろそろ日暮れであった。僅かに雪が降っており、空の処々から現れては花弁のように舞っていた。花弁の大半は宙の何処かへ消えていき、一部は手袋をした私の手の上へ落ちてきて、其処で融けて消失した。青年と私は歩き出した。私達と共に駅を出た人々も、それぞれ何処かへと向かっている。都会に見られるような慌ただしさはなかった。都会には都会の、此の場所には此の場所の人の営みがあった。見知らぬ街は、私の未だ知らぬ世界を私に見せてくれる。雪の上に残されていく足跡は街灯に照らし出されて、青白く融けていくように見えた。私はふと、汽車の中で感じたような、人の居なくなった世界を其処に想像した。青い足跡が点々と続く、雪に覆われた平原が胸中で迫ってくるように感ぜられた。
    「寒いですか」
     不意に、隣を歩いていた青年が話し掛けたので、私は現実へと引き戻された。
    「ええ、少し。ですが大丈夫です。其れなりに支度はして参りました」
     然し、青年は自分のしていた襟巻きを解き、私の首へと掛けた。
    「震えていらっしゃる。とても寒そうだ」
     そう言って、その襟巻きを私のしていた襟巻きの上から巻いた。
    「あなたが冷えてしまいます」私は慌てて彼の襟巻きを返そうとした。
    「僕なら大丈夫ですよ。慣れていますからね」
     青い毛糸で編まれた襟巻きからは自分のものではない香りがした。
    「どうです。暖かいでしょう。貴方に風邪でもひかれたら大変だ」
     そう言って、青年は笑った。私は何となく落ち着かず、恥ずかしいような気分だったが、体が暖まるに連れて居心地の悪さは消えていった。
     道すがら、青年は私に尋ねた。
    「今回は取材の為に来られたと聞いていますが、此処は温泉と雪ばかりの田舎街です。僕らにとっては何でもない処ですが、屹度そう云うのが見たいのでしょう」
    「そうですね。次回作の舞台が雪国なので、直接見てみたいと思いました」
    「どんな雪国が見たいんですか」
    「見たいものが分かっているのならば、見る必要などないでしょう。何の先入観もなく有りの儘を素直に見て、初めて見たいものが分かるのではないでしょうか」
    「それもそうですね。いえ、仰る意味はよく分かります。けれど、雪国を見たいと思った時点で、貴方は何かしら『雪国』に関する先入観を持っている筈なんだ」
    「仰る通りです。ですが、その先入観を打ち砕く為にも、その場所へ行ってみることは必要でしょう」
    「そうかも知れませんね。僕は逆に都会へ行ってみたいから、貴方と同じようなものです」
    「そうしたら、今度は私がご案内致しましょう」
    「著名な、而も、こんなに綺麗な作家先生と何度もご一緒出来るなんて光栄だ。是非お願いします」
     そう言って、青年は私の方を向いて微笑した。
     街灯を横切る度に、白い雪の上に落とされた私達の影が伸縮を繰り返す。一つの街灯の先にあるもう一つの街灯は二つ目の影を雪の上に作り出し、その街灯を通り過ぎると更にその先の街灯が三つ目の影を作る、と云った具合に連鎖していく。背の高い青年の影は私のものよりも長く、私の影は彼よりも着膨れをしている。二つの影は絡み合い、まるで踊っているように見えた。ぼんやりと雪上の影絵を眺めながら歩いていると、再び彼から話し掛けられた。
    「今日はお疲れになったのではありませんか。汽車なんて都会の人には珍しいでしょう」
    「確かに疲れましたが、今まで旅行をしたことがありませんので、よい刺激になっております」
    「では、宜しければ取材先もお供しますよ。旅慣れていないのなら、案内人が居た方が効率がよい。勤務先では休みを取ってあるんです。僕は美術講師をしていますが、今は学校が休みなので、出勤しても仕方がないんですよ。――ああ、あれです」
     青年が指差した先には、大きくはないが風情のある門構えの旅館があった。私達が門を潜って入ると、玄関の前では女将が出迎えていた。女将は丁寧にお辞儀して私に言った。
    「またお越し頂いて有難う御座います。前回お出でになったのは確か……」
     私の顔を見て、女将は考え込んでいる様子だった。
    「いいえ、私は此方を利用させて頂くのは初めてです。お世話になります」
    「はあ、そうでいらっしゃいましたか」
     女将は首を傾げている。ですが、お客様のお顔は見覚えがあるように思います……。女将は屹度そう続けたかったに違いない。だが、私はこの街へ来るのは初めてである。
    「母さん、この人は有名な小説家なんだ。雑誌かテレビかで顔を見たことがあるだけだよ」
     私の後ろに居た青年が、女将と私の間に入ってそう言った。
    「そうでしたか。でも確かに直に拝見したことがあるような……」
     息子の言葉にも拘らず、女将はやはり戸惑った様子だった。女将の困惑は多少なりとも私の当惑に繋がった。
    「綺麗な人だから印象に残り易かったんだよ。僕だって顔くらいは知っているんだから」
     この言葉にも私は当惑した。私は普段からメディアへの露出は最小限に抑え、著者近影も載せないようにしている。駅のホームで青年に声を掛けられた時に抱いた違和感の原因に辿り着く。――彼は一体何処で私の顔を見知ったのだろう。だが、私はその疑問を口にすることはなかった。どうした訳か、言い知れぬ不安と重くるしさを感じて、私は押し黙った。嫌な予感がしたのだ。青年が私の顔を覗き込む。
    「どうしたんですか。顔色が少し悪い。早く部屋へ行って休みましょう。此方ですよ」
     そう言って青年は私の荷物を持って座敷へ上がった。古めかしい旅館の廊下を歩いて彼に案内されたのは、奥まった処にある角部屋だった。青年は襖を開けて畳の上に荷物を置くと、私に尋ねた。
    「どうしますか。具合が悪いのなら蒲団を敷きますが」
     彼は部屋の入り口に立った儘の私に近寄り、私の額に手を当てた。
    「一寸失礼します……。平熱のようだが、念の為体温を測りましょう」
    「大丈夫です。少し疲れてぼうっとしていただけです。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
     私は青年を安心させる為にそう言ったが、彼は尚も私の顔を見詰めている。
    「僕は少し離れた処に住んでいるんですが、今晩は此処に泊まります。何かあったら言って下さい」
     私が断るのにも拘らず、彼は隣の部屋が丁度空いているからと言って聞かなかった。早々と旅館の受付へ行って、此の部屋の隣室の宿泊手配をしてしまった。
     青年が、明日の朝にまた迎えに来ますと言って出ていくと、私は窓の近くへ行って外を眺めた。既に日が沈んでいたが、街は雪明かりで仄かに発光しているように見えた。街灯が薄白い闇の中で丸い光を放ちながら、浮かぶように点在している。静謐な光景だった。先刻までは微かに降っていただけの雪の花が、何時の間にか大きくなっており、私の眼に入る街に雑音ノイズを生じさせていた。宙を舞う六花ばかりではない。地面に積っては徐々に厚みを増していく白い絨毯も同様だ。降り積もる雪は一時的に色々のものを我々の眼から隠してしまう。良いものも悪いものも、見たいものも見たくないものも、見るべきものも、見るべきでないものも――。それは一時ひとときの世界の空白を作る。そうして、我々は屡々疑問に思う。――其処には本当は何が在っただろうか。やがててはそのように疑問に思うことすら忘れてしまう……。然し、春が来て雪が解ければ、再びそれらが世界へと現れる。それは喜ばしいことなのかも知れない。……だが、雪解けの季節が来ず、何も彼も忘れていれば、却って上手く行くこともあるのだろう。雪など解けなければよい。私は心の何処かでそう思っている。

     明くる日の朝、青年は私の部屋へやって来た。私は朝餉を食べ終え、取材に行く準備をしていた。私は昨晩返し損ねた襟巻きを青年に渡そうとしたが、彼はそれを拒んだ。
    「あなたの持って来たものよりも暖かいと思います。よければこれを使って下さい」
     そう言って、昨日と同じ様に私の首に自分の襟巻きを巻いた。私は礼を言ったが、心中困惑していた。この襟巻きは、彼の匂いが強すぎるように感じられた。それは不快なことではなかったが、彼の香りは私の心をざわつかせた。
    「体調はどうですか。顔色は悪くないようですね」
     青年に至近距離で見詰められ、私は彼から視線を逸して「大丈夫です」と言うのが精一杯であった。それでも彼は満足したのか、では出掛けましょうと、私に笑いかけた。
    「今日は何方へ行かれるんですか」
     二人で旅館を出ると青年は私に尋ねた。
    「敢えて何も考えていません。初日は街を歩いて惹かれるものがあったら行ってみる、と云った感じで、気の赴く儘にぶらぶらしようと思いました」
    「そうでしたか。では、散歩をするとしましょう。何か気になることがあったら言って下さい。僕に分かる範囲でお答えしますよ」
     私達は先ず駅前の通りへ行った。出勤や通学をする人々が多少居り、昨晩とは異なる印象だった。雪は止んでいたが、空は薄曇りで何時でも降ってきそうな様子であった。駅前通りには然程店は多くない。只、温泉旅館が通りの両側に幾つか見えた。
    「処で、温泉には入りましたか」白い息を吐き出しながら、青年は言った。
    「昨晩に少しだけ。朝も入ろうと思ったのですが、寝過ごしてしまいまして。帰ったらまたゆっくりと浸かってみようと思います」
    「彼処に見えるのは有名な老舗の温泉旅館なんですが、僕の家の旅館も居心地は悪くないでしょう。料理にも自信はあります」
    「昨晩と今朝、とても美味しく頂きました」
     そのような話をしながら、私達は駅前通りから中央通りへと向かった。其処には商店街があり、洋品店や喫茶店などが立ち並んでいた。
    「古本もあるのですね」
     窓ガラスの向こうに沢山の書物を見掛け、私は言った。
    「この辺では有名な古書店です。宜しければ入ってみませんか」
     取材とは関係がないと思われたが、そもそも何が切っ掛けでアイデアが浮かぶのかは分からない。私は行ってみることにした。
     店に入ると、古書の独特の香りに包まれた。店の主人が奥から出てきて、カウンターの前に座り、本を読み始めた。然し、ふと私を見て親しげにこう言った。
    「やあ、君か。随分とご無沙汰だね。てっきり引っ越したのかと思っていたよ」
     私は又もや名状し難い不安に襲われた。
    「いやいや、人違いですよ。此の人は旅行で初めてこの街に来たので」
     青年は私の代わりにそう言ったが、店主は白髪混じりの顎髭を撫ぜながら私の顔を凝と見た。
    「有名な小説家なんですよ。夢野幻太郎と云うんです。本屋を営まれている方ならご存知じゃありませんかね」
    「そう云えば、聞いたことがあるような気もするな。まあ、兎に角ゆっくりしていってくれ」
     店主は暫く考えていたようであったが、再び本の上に視線を落として文字を追い始めた。青年も適当に本棚に眼を走らせている。私は居た堪れない気分であったが、二人の様子を見て、自分も本棚の下の方に収められていた或る作家の文学全集から一冊を抜き出した。
     捲った頁に書かれていたのは、或る雪国を訪れた男の物語であった。その雪深い村へやってきた主人公は、村人から知り合いのように声を掛けられる。恰も以前から此処で暮らしていたかのように、主人公と村人は交流をしていく。その内に彼は、自分はこの村で生まれ育って、一時的に外の街で暮らしていただけなのだと、屹度自分は記憶喪失だったのだと思うようになる……。
     著者は私のよく知っている作家であったが、このような小説を読むのは初めてだった。男が本当に記憶喪失であるか否かは明らかにされていない。何時の間にか、本を持つ私の手が震えていた。此処に書かれていることは私自身の状況に少し似ていた。この街には私のことを知っている人が居る。その人達の記憶は誤りでなく、私の方が誤っているのかと云う疑問が生じた。私は息苦しさを覚え、本を棚へ戻すと、深く呼吸をして落ち着こうとした。時計の秒針の、時を刻む音だけが異様に大きく響いている。私は胸を抑えながら音を鳴らしている時計を探したが、それは何処にも見当たらない。店を一回りしてきた青年が、私の処へと戻ってきた。
    「どうしたんです。顔色が真青だ」
     青年が心配そうに俯いている私の顔を覗き込んだ。
     私が記憶喪失――。そのような筈はない。私の記憶は連続している。現に、この青年は私のことを知らないではないか。
    「今日はもう取材を止めて旅館へ戻りましょう」
     青年は私の肩を抱くと、古書店から出ようとした。大丈夫だと彼に伝えたが、この言葉には根拠がない。案の定青年は取り合わなかった。
    「昨晩も具合が悪そうだった。この儘旅館まで真直ぐに帰りましょう」
     そう言って私の手を握り、歩き出した。古書店を出て、中央通りから大通りに出た。そこから旅館のある方の道へ抜ける。道行く人の何人かが、振り返って私の方を見たような気がした。恐らく青年も私と同様のことを感じたのだろう。私を落ち着かせるようにこう言った。
    「貴方がとても綺麗だから、人目を引いてしまうんですよ」
     そのようなことはない。彼らは確かに見知った顔を久し振りに見たので、私の方へ振り返ったのだ。青年は私の手を握り締めた儘歩き続けた。大きめの通りは避けるようにして小道に入った。角を曲がった処に県立高校の裏門があった。其処を出ようとする一人の男性が居た。恐らくこの高校の教師だろう。彼は私達を見て言った。
    「おや、久し振りだね。元気にしていたかい」
    「K先生」と、青年はその男性に言った。男性は青年に笑い掛けると、今度は私に向かって言った。
    「君が出した本をこの前読んだよ。とても面白かった。本屋にも平積みにされていて、すごいじゃないか」
    「先生は此の人のことを知っているんですか。小説家としてではない、此の人のことを」
     青年は掠れた声で男性に尋ねる。
    「私が教え子のことを忘れる訳がないだろう」
     教師は青年に言うと、再び、私に言う。
    「彼は忘れているのだね。君の仕業だろう。彼に記憶を戻して上げなさい」

         * * *

     作家は書くのを止めた。汽車はまだ目的地に到着しない。ひた走りに走る汽車の中で、夢か現か判然としないものを書き綴ってきた。作家は頭を抱えると、今まで書いた分を黒く塗り潰した。それでも飽き足らずに頁を破った。
     物語は一見矛盾を生じているかのように見えるが、そうとも言い切れない。小説家が本当に見知らぬ街へ行くのであれば、街の人がこの小説家のことを知っている筈がない。だから、この小説家はこの街のことを知っているのだ。では、小説家は嘘を吐いているのか。嘘を吐いたのは担当編集に対してのみである。小説家はこの街で生まれ育ち、一度だけ街を出た。その後は帰省をしていない。従って「小説家が初めてこの街にやって来た」と云う叙述に誤りはない。また、「見知らぬ街」と云う記述があるが、明示的にこの街のことを指してはいるとは限らない。
     作家には故郷での非常に辛い思い出があった。処が、どうしても取材で故郷へ戻らなければならない。思い出を塗り替える為、道中彼は小説を書き始めたのだった。
     斯くして青年と小説家は雪深い街で初めて出逢う。見知らぬ街は、未知の世界のみならず、未だ知らぬ自身の内面まで小説家に見せようとしている。そうして、旅先で恋に落ちる――。そのような流れは、在り来りの小説のようで作家は気に入らなかった。だから、小説家が記憶喪失であると設定した。然し、忘れることなど出来なかった。辛い思い出ばかりではない、青年とのよい思い出も多くある。それらを含めた故郷での思い出の何も彼もを消し去ることは出来ない。作家は小説家が嘘を吐いているものとした。では、青年はどのような状態にさせればよいのか。辛い現実はなかったものにしたい。彼の記憶をなくして、は彼ともう一度出逢う必要があった。
     作家は、小説家は、自分は、私は、彼と再び恋に落ちる物語を書こうとした。

         * * *

    「先生、その必要はありません」
     青年は教師に言うと、此方を向いて私の眼を見詰めた。
    「俺はもう思い出している。君と此の高校で出逢ったことも、君を愛したことも」
     私は愕然とした。辛い記憶などなくてよい。降り積もる雪にさえ、嫌なことを覆い隠して欲しいと願った。その願いが叶うのならば、この雪が融解さえしなければ彼は忘れた儘となる。また、あの出来事は夏に起きた。だから、夏が来なければそれは起こらない。その為には雪の解ける春が来なければよい。あの出来事はなかったのも同然になる。然し、雪解けが来ずとも彼は思い出してしまったのだ。嗚呼、過去の記憶がなければ、却って上手く行くことがあるものを。
     私は総てをなかったことにすべきなのか。人の想いが多くの元凶だ。だから、人など居なければよい。人の消え去った白い世界――汽車の中で私の想像した世界が本当のものであればよかったのか。だが、私のこの想いすらも何かの元凶なのか。現に、彼は思い出してしまったのだから。
    「雪が降っていれば記憶を消せると思ったのかい。それは自分の記憶かい。それとも俺の記憶かい。少なくとも俺は覚えているよ。いや、君が幾ら俺の記憶を消したとしても、俺は思い出す。思い出せなかったとしても、再び君を愛するだろう」
     然う、私はこの街で生まれ育ち、あの時までは此処を出たことがない。それ以来この街を訪れたことはない。従って、私はこの街へ来るのは初めてだが、この街に居るのは初めてではない。旅館や古書店へは何度も足を運んだことがある。旅館の女将や古書店の店主が私の顔を知っていてもおかしくはない。旅館や古書店で私が当惑したのは、見知らぬ人が自分を知っているからでも、自分が記憶喪失であると云う疑念が湧いたからでもない。私自身の記憶を消さなかった後悔からである。古書店で読んだあの小説のように私自身が記憶喪失であれば、美しいこの雪国で、私は彼との恋愛を楽しんだことだろう。だが――。
    「私は自分の記憶を消そうとしました。けれども消せなかった。あなたとのことを忘れることなど出来ない。だから、私は嘘を吐くことにしました。」
     彼への想いから私は自分の記憶を消すことが出来なかった。街の人々が私のことを覚えている可能性もあったが、それでも私はこの街へ戻ってくることを止められなかった。故郷を離れてからどれ程彼に逢いたかったことか。そして実際に、駅のホームで元気な彼と再びまみえることのできた私の喜びは如何ばかりのことか。
    「これも君の描く物語なんだろう。今もこうして嘘を書き連ねているのかい」
     嗚呼、私は彼の記憶を完全に奪えなかった。私の描く物語ならば、それを為し得ることが出来た筈であろう。詰まり、私は真にそれを望んではいなかったのか。それこそが、私の嘘だ。

     あの時――高校の時の夏、彼は事故に遭った。私の所為だった。
     私と同じ学級になった日に、青年は私に話し掛けてきた。私はそれを無視した。私の家は貧しく、私自身は貰い子で、そのことを理由に周囲から苛めにあっていた。彼が私を気に掛けるのは、恵まれた者の貧しい者に対する同情心からだと私は考えた。そのような同情心は不要で屈辱的なものであった。青年は私に言った。「友達になろう」と。私は彼を睨みつけて答えた。「友達など要らない」と。
     青年はそれからも何度も私に話し掛けた。私はそれを無視し続けた。然し、心中何処かで私は友達と云うものを欲していたのだろう。何度冷たくあしらっても構ってくる彼に、私は次第に惹かれていった。そのような或る日、彼が病で倒れた。現在の医学では完治困難な難病とのことだった。すぐに入院をして治療を受け始めた。私は彼の入院先へ駆け付けて、自分の想いを伝えた。彼は太陽のように笑って私を受け入れた。
     季節は夏の真盛りであった。私は毎日のように彼の見舞いに行き、学校や街中まちなかで起きた様々な出来事について話したり、自分の創作した小説について語った。
    「君の作る物語が好きだよ」
     彼はそう言って、明るい笑顔を私に見せた。
    「巷間の噂も君を通すと面白い事件に変わるんだ。君の観察眼と洞察力は鋭いし、何気ない出来事から稀有な物語を作るには、何を加えてどう調理すればよいのかよく分かっている。語り方も軽妙洒脱だ」
     私は否定した。自分の考えたものなど何の価値もない。けれども彼は、私が自分を否定した数だけ私を肯定してくれた。彼が居なかったら、私は今、物書きにはなっていないだろう。
     真夏の強い日光をカーテンで遮った病室で、彼だけが一際眩しく見えた。彼はそっと私に言った。
    「君が好きだよ」
     病室に誰も居ないことを確かめて、私達は接吻と抱擁を交わした。太陽すらも知らない、私達だけの秘密だった。
     処があの日、青年の見舞いに病院へ行った帰りにそれは起こった。彼は何時ものように病院の出口まで私を送ってくれた。私は青年に手を振って、横断歩道を渡ろうとした。その時、高速で走る乗用車が急に道路に入って来た。乗用車はブレーキを掛けず、ハンドルも切らず、その儘突っ込んでくる。突然のことで動けなくなっている私を青年が突き飛ばす。私は道路の脇へと転がり、青年は乗用車と衝突した。
     病院の治療室に運ばれた青年は意識不明の状態に陥った。難病に罹患している為に治療には制限があり、予断を許さない状況が続いた。助からないかも知れないと医者に告げられた時には、私は絶望に打ち拉がれて、信じてもいない何かに祈り続けた。そのようなことには何の意味もないと知りながら、私には只其れだけしか出来なかった。
     けれども、三日後に彼は戻ってきてくれた。目を覚ました時、青年は私を見て「君が無事でよかった」と言った。彼の母親は泣いていた。彼と彼の母親を見て、私はこの街を出る決心をした。私は彼の側に居てはいけない。私は屹度また彼を危険な目に遭わせてしまう。この考えが大袈裟なものであることは分かっていた。只、私は怖かったのだ。大切なものが自分の前から消えてしまうことに、私は到底堪えられそうにない。それが自分の所為であれば尚更だ。況してや彼は難病を患っている。大切なものなど始めからなければよい。然し、私達は出逢ってしまった。だから、願った。降り頻る雪が人の足跡を覆い隠すように、私の過去も消えて見えなくなってしまえばよい。私は都会の大学を受験して、高校を卒業すると同時に上京した。彼には何も告げずに、私は彼の前から消え去った。

    「嘘を真実にする為に、私は嘘を重ね続けます。私と出逢わなければ、あなたは事故に遭わなかった。私と居るとあなたは不幸になる」
    「過ぎたことだ。それに君と出逢わなくとも、俺は事故に遭ったかも知れない」
    「不幸になったあなたを見て、私が不幸になりたくない。これは私のエゴです。私は酷い人間です。だから、あなたの側には居られない」
    「然し、君は戻ってきたじゃないか。俺との思い出を消すことが出来なかったじゃないか」
     嗚呼、彼の記憶も消せず、自分の記憶すらも消すことが出来ない。私は間違っているのだろうか。このような小説まで書いて。あなたに再び逢いたくて筆を執った。けれども、描き出されるのは釦を掛け違えたようなちぐはぐな物語――。
    「恐らく、君は間違えたのだろう。けれど、間違わない人間なんて存在しないよ。雪が解けて春が来れば、また花も開く。それは昨年とは違う花だけれど、同じくらい綺麗に咲くことが出来るんだ。俺は今では病気も寛解して、こうして普通に生活出来るようになった。仮にそうならなかっとしても、大切なことは忘れない」
     彼は私の頬を流れる涙を拭うと、私の身体を抱き締めた。
    「一緒に雪解けを待とう」

         * * *

     汽車は隧道を抜けた。眩しい光が窓から射し、作家は眼を細めた。眼前に銀世界が広がっている。白い着物を羽織った山や家や木が見えた。雪の上には足跡が残っている。どんなに雪が降り積もっても、人は足跡を残していく。それは決して消せない物語だった。
     汽車が駅へ着いた。作家はホームへと降り立った。
    「お帰り、夢野」
     六年前と変わらぬ笑顔の青年が、六花の舞い降る白妙の大地に立っていた。
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