不遣の雨 窓の結露を指で拭って外を眺める。待ち人は未だ来ない。
――こうして待っていても、仕方がないのでしょうか。
濡れた指先をまだ温かさの残っている手拭きで包んだ。先頃から降り続く晩秋の雨は、徐々に冬を運んでくる。私の居るこの喫茶店の外は、冷たい水の膜で覆われた別の惑星のようだった。
――止まないものでしょうか。雨が止まなければ、彼が来られない。
気分が塞ぎ、それを紛らわそうと短い溜息をわざと吐く。そうして机の上に頬杖を突き、読みかけの本を繙いた。その内容は一人の作家が喫茶店で人を待っているというものであり、現在の私の状況と全く同じであった。
読み進めるうちに、物語の作家の待ち人が既に亡くなっていることに気付く。この作家は、雨が止んだ後に雲間から青空が見えるのを、即ち、親友の去っていった空が見えるのを待っていたのである。作家の親友が死亡していることは明記されず、喫茶店内での何気ない出来事と、それを見ていた作家の思索が、親友との思い出を絡めて綴られている。
例えば、雨に纏わる思い出がある。作家の自宅へ遊びに来ていた親友が不意に言うのだ。
「君と会っている楽しい時間も軈て終わりが来る。雨でも降れば、僕は暫く帰らずに済むだろうか?」
――遣らずの雨と言いますが、彼を何処かへ遣らない雨ならば、降り続いてくれればこれは重畳。
然し、彼を此方へ遣らない雨ならば、それを消し去ってしまいたかった。私が物語の作者ならば、それも可能であろう。だが、この作者は前者も後者も行わなかった。雨は何時かは止む。そして、自分の愛する人の生も。
露の取れた窓ガラスの向こうを再度見た。相変わらず寒々とした世界が広がっている。対して店内は温かい。何時であったか、彼との睦言の尽きなかった夜を思い出す。
その晩も雨が降っていた。身体を寄せ合って暖を取った。彼は温かかった。シャツを通しても感じる彼の身体や耳元に触れるような熱い息遣いは、私を高揚させた。然し幾ら気分が昂ぶっていても、私は作家である。言葉を紡ぐことを止める訳にはいかない。宛ら降り止まぬ外の雨のように、現状に就いて考察する私を、彼は可笑しそうに見詰め、そして言った。
「君との夜が明けてしまうのが惜しい。けれど、君が話をしているうちは、朝が来そうにない」
君の言葉は遣らずの言葉だと彼は語った。だが、それはお互い様だろう。そう彼に言うと、彼は自身の意志を伝えてきた。そうして、私は彼に抱かれた。
それからどのくらい時が流れただろう。
――いや、違う。
これは物語の作家の思い出話だ。私の記憶ではない。……
その時、店の時計が午後三時を告げた。何時からこうしているのだろうか。本来ならば、愛しい人を待つ時間と云うのは気分が浮き立つものの筈だ。然し、ふと疑問に思う。
――そもそも、私に待つべき相手など居ただろうか。
「そういう状況に僕があったら、屹度迎えに行くだろうね。待っているのは性に合わないから」
彼の声が聞こえてきた。只待つのではなく、この空の下を探しに出て行くのも、確かに一つの手段だろう。そう思って立ち上がった。喫茶店の扉を開けて外へ出る。ドアベルの音がひとつ鳴り響く。
雨は止んでおり、先刻までより空が明るくなっていた。泥濘に注意しながら横断歩道を渡り終える。
ふと誰かの声が聞こえた気がして、面を上げる。雲の隙間に虹が見えた。