不眠 夢野の容態は回復しつつあった。早朝夢野の様子を見に行った時には、昨夜からの熱が大分下がっていた。昨晩は五分粥を少ししか口にしなかったが、今朝は全粥を半分ほど食べている。
兄弟三人が朝食を食べ終えた頃、天谷奴がやって来た。夢野が寝込んでいることを伝えると、男は女の部屋へと向かった。
天谷奴の大柄な後ろ姿を見ながら、一郎は僅かに心配になった。病床の夢野と二人だけにして問題ないのか。これまでの一郎であったら微塵も湧かない疑問である。杞憂だとは分かっている。夢野との付き合いは天谷奴の方が長い。夢野としても、信頼を置いているのは一郎よりも天谷奴の方であろう。
然し、夢野と天谷奴の関係に就いて、一郎は不思議に思うことがある。作家とその担当編集者と云う仕事上の繋がりを超えた、何かがあるような気がしてならない。だが、一体何が考えられるのだろう。彼らは只の少々親しい仕事仲間であろう。親しいとは云っても、単に仲がよい間柄とは異なる。上辺には現れない処で、別の結び付きを引き摺って動いているように思える。
一郎は夢野の部屋の前まで足音を立てずに歩いて行った。そうして扉に近寄り、耳を澄ます。
「風邪か」
「ええ。ご迷惑をお掛けして済みません」
天谷奴の響きのよい低音と夢野のしっとりとした声が聞こえてきた。
「次の仕事への着手までは少し余裕がある。ゆっくり休め」
普段の天谷奴からは想像し難い言葉である。然し何処か命令じみた印象を受ける声音だ。息を潜めて扉に耳を押し当てる一郎に、夢野の声が刺さるように響いた。
「汗をかいてしまったので着替えます。天谷奴さん、そこの濡れタオルで背中を拭いて下さいますか」
「おいおい、若い人妻が気軽に人前で肌を晒すんじゃねぇよ。旦那に殺される」
「誰にでも頼むことではありませんし、貴方なら殺されても死にません。それに、今更でしょう」
「まあ、そうだな」
そこで暫く会話が止む。天谷奴が夢野の体を拭いているのだろう。そして、夢野は彼の前でその肌を晒しているのだ。昨日、彼女が一郎に見せたように――。一郎の手のひらに汗が滲む。知らずに強く握りしめていたのだ。今すぐ扉を開け、彼らにその行為を止めさせたかった。
「一郎に拭いて貰えばよかったんじゃねぇか」
「誰にでも頼むことではないと言ったでしょう。一郎さんは駄目です」
「お前の旦那に殺されるからか」
「……そうですね」
再び静寂――。
「ほらよ、拭けたぜ」
「有難うございます」
「お前の肌なんて見るのは何年振りか。結婚してからは旦那の絵でばかりだ」
「今後もそうはないでしょう」
「おう、何度も殺されたくはないからな」
夢野は僅かに沈黙した。
「私は此処へ来るべきではなかったと思うのです。貴方の所為ですよ」
「だったら、今すぐ山田家から出て行けばいい」
「……貴方に恨み言を言っても仕方ありませんね」
「分かっているじゃねぇか。全てお前の選択した結果だ。俺は選択肢を与えただけだ」
「それが選ぶべき道でなかったこともあるでしょうし、選択肢に正しい道がないこともあるでしょう。けれども、私は小説家ですから」
「そう云うことだ。じゃあ、俺は帰る」
ゆっくり休め、と最後にもう一度天谷奴は言った。
一郎は扉から離れ、廊下と台所の境付近まで戻った。夢野の部屋の扉が開き、天谷奴が出て来る。廊下へ出た一郎を見て、何時もの胡散臭い笑顔を寄越す。
「思ったよりも元気なんで安心したぜ」
「何を話していたんだ」
一郎は向けられた笑顔に、なるべく無表情な顔を返すように努めた。だが、自分の感情を隠すのは上手くない。ひょっとすると睨み付けていたかも知れない。天谷奴は笑顔を崩さずに応じてくる。
「聞いていたんだろう」
気付かれている可能性は多少あると思っていたが、改めてこの男の勘の良さに内心舌を巻いた。
「あんたと夢野さんとの関係は何なんだ?」
「盗み聞きしても悪いとは思わないんだな」
「聞かれていると知っていたんだろう。それに此処は俺の家だ。彼女を守る義務がある」
天谷奴は一郎の顔をまじまじと見た。それから、にやりと口元に笑いを浮かべた。
「一寸変わったな、お前。何があった」
「質問に答えろ」
「知れたことだろう。編集者とその担当作家」
それだけではないだろう、と詰問しても、「そう思うのならば、それでもいいぜ」と返されるに違いない。だが、天谷奴は次のように続けた。
「そう云うことじゃない、と言いたいんだろう。だがな、人は自分自身のことを案外把握していないものさ。自分と相手との関係もそうだ。自分は友達だと思っていても、相手はそう思っていなかったりする。第三者に客観的に名付けて貰うのが手っ取り早い。夢野の旦那にでも訊いてみることだな」
「あんた自身はどう思っているんだ」
「さあな。編集者と担当作家と云う関係以外に、名称付けなければならない関係はないな。質問の答えは以上だ。さて、お前も俺の質問に答えるのが筋ってもんだ。お前、一体何があったんだ」
一郎は舌打ちをした。つくづく食えない男だと思う。
「何もない。それに、俺は別に変っていない」
「嘘が下手だな。少しは夢野を見習え」
「『人は自分自身のことは案外把握していない』んだろう」
天谷奴はさも愉快そうに声を上げて笑った。
「じゃあ、ヒントをやろう。俺達の会話を聞いたのだって、心配からではなく、不満があったからだろう。心配だったのなら、俺と一緒に部屋に入った筈だ。だがそうしなかった。不満だったからだ。然しそれは認めたくはなかった。だからこっそりと俺達の様子を窺うと云う消極的手段に出た。何が不満なのか。夢野に自分以外の男が近づくのが嫌なんだ。以前のお前なら、不満ではなく心配になっただろうな。況してや、盗み聞きなんて絶対にしなかった。これがお前の変化だ」
天谷奴はそこで一旦言葉を切った。一郎に近づき、やや声量を落として続けた。
「重要なのは変化であって、切っ掛けは何でもいい。まあ、先程の夢野の様子を見て、大体何があったのかは予想が付く。だが、俺が気になったのは勿論そんなことじゃあない。重要なのは変化を起こすことであり、どのように変化するかだ」
そこまで話すと、天谷奴は帰ると言わんばかりに背を向けた。玄関の方へ歩いて行く。一郎はやや憮然として彼の後に続いた。
「じゃあな。期待してるぜ」
そう言って出て行った。
数日後、仕事帰りに天谷奴はと或る大学病院へと足を向けた。
見慣れた病棟の受付を通り過ぎ、何時もの病室へ行く。一番奥の窓際のベッドのカーテンは、半分ほど開いている。
「よお、元気か」
天谷奴の呼び掛けに、ベッドの上の青年が笑顔で応じた。
「まあまあです。入院している身分なので、すごく元気だとは言い難いですね」
この青年は爽やかで人当たりがよい。現在は休職中だが、大学で美術講師をしている為か、知的な雰囲気も漂っている。誰もが彼に好い印象を抱くであろう。
「天谷奴さんこそ、不眠は治りましたか」
「この前、お前さんの嫁にも訊かれたよ。治っていない」
この前と云うのは、病床の夢野を見舞った時のことである。部屋を出る間際に、彼女に訊かれたのだ。
――天谷奴さんはまだ夜に眠れませんか。
――ああ、相変わらずな。だが、もうお前が何とかしてくれる訳じゃあないしな。
この会話は一郎の気配が夢野の部屋の前から去った後に交わされたものだ。従って、彼は天谷奴の不眠を知らない。そして勿論、これに纏わる天谷奴と夢野の過去に就いても――。
その日、天谷奴は夢野の肌を拭きながら思った。この肌と声は男を狂わす。天谷奴がしたようにタオル越しにでも彼女に触れ、その香りを嗅ぎ、しっとりとした声を聴いて、情欲を覚えぬ男はいまい。あの肌が平生着物に打ち隠されていてよかったと天谷奴は思う。否、衣を身に纏っている時でさえ、彼女に如何わしい視線を向ける男は少なくない。平常心を保った儘夢野と接することが出来る男は、天谷奴くらいであろう。
然う、天谷奴は夢野に欲情しない。或る種の不眠症だからだ。不眠と云っても、天谷奴特有の症状のものである。
「言うまでもないと思いますが、今後も不眠治療に僕の妻を利用するのは止めて下さいね。まあ、彼女がそうしたいと言うのなら仕方がないですが」
青年が天谷奴に釘を刺すが、その口調は飽く迄も穏やかだ。こう云った皮肉を言う処は夢野に似ている。夫婦揃って容姿に恵まれ、才知に富んでいる。誰もが羨む組み合わせだろう。然し、二人を長い間見てきた天谷奴は、彼らが何時でも光の中で生きてきた訳ではないことを知っている。そうして天谷奴自身も、常に暗闇の中に居たのではなかった。