スワンプマンは二度笑うのかサマータイムレンダの同一性の取り扱いについておそらく多くの考察がなされていると思うので、ここではシンプルに以下の疑問について取り扱うこととする。
すなわち、この物語において大半動き喋るのは潮の影であるにもかかわらず、それが潮本人であるかのように我々が感じるのはなぜか。そして、その影によってもたらされたハッピーエンドが、実体としての潮によって実感されるのはなぜか。
この疑問について、いくつかの道筋を辿りながら、私は実体とはそれ自身が影であり、解釈であると結論したい。
まず初めに肉体の同一性について、ライプニッツの同一性の原理、およびテセウスの船による思考実験によってそれが不完全であることを示す。
第二に、本編における影と実体の関係について改めてひもとき、そこに総合的な移行と呼びうる実体の移行が前提されていることを明らかにする。
第三に潮の本体の消失と、影としての潮の特殊な有様について述べ、少なくともその特殊性は潮の実体と影との入れ替え可能な特性とは関係ない、と証明する。
第四に、タイムリープと実体および影の入れ替え可能性の影響について考察する。ここではタイムリープ自体は実体/影の相互移行可能性とは関係ないと結論する。
第五に、ここで我々は潮の特殊性とは、実体/影の入れ替え可能性が他の個体と優位な差を持たないにもかかわらず、影のままタイムリープを繰り返す、ある種の〝存在〟としての特殊性であると主張する。
すなわち、潮はそのような存在として〝作られて〟いる。
第六に、われわれの感じうる情動が何によってもたらされるのかについて。すくなくともそれは、同一性を保つ肉体が同一であるかどうかや、および影や実体といった何らかの特性によるものではないと述べたい。それは、存在自体についてではなく、存在同士の関係にこそ宿る。
それは「情が湧く」のような登場人物たちの言動にもみられる。
第七に、最終的に我々が救われるのは影である潮によってであり、しかしエンディングに存在するのは実体としての潮でしかなく、そこに存在としての断絶がありうるという事実、およびある種の「夢」として回収された物語があくまで構造的に慎平のモノローグとして回収されるのだとすれば、実体の潮に過去の記憶があるのは不自然ではないか、という疑問について考察する。
最終的に、実体としての潮には事実としての過去は存在し得ない。ある種の可能世界としてのみ存在する、影の存在する過去世界と、慎平によって繋げられたのではないかと考える。それは宇宙に空いたある種の穴であり、事故だ。すなわち思い出せなかった可能性も十分にありえた。けれどそこにつながりを持たせることで生まれる潮の側からの同一性の証明により、私たちは安堵する。そして、その安堵をもってハッピーエンドにしたこの物語が、私はとても好きだ。