タイトル未定*
――明るく朗らかで、そこにいるだけで場を明るく照らすような温かさを持つヒノエ。その後ろについて回り、輪に入っているのだかいないのだかよくわからぬ距離で佇むだけで、こちらから声を掛けてもにこりともせずひと言ふた言返すだけの無口な妹。扱い難く近寄り難い印象の少女は今、背筋を伸ばして玄関前に立ち、仇でも睨むような目でこちらを見据えていた。
「姉さまは具合を悪くして寝ています。帰ってください」
震える声でそう紡ぐミノトの姿に、隣に立つミハバと顔を見合わせる。
自分たちは何か彼女を怒らせるようなことをしただろうか? こんなにも強い感情を滲ませる姿は初めて見る。
どうする?と目で問うミハバ。私はしばし迷った末に、ミノトの方へと一歩踏み出し持っていた手提げを差し出した。眉を顰めるミノト。
「……なに?」
「お見舞いのもの、なんだけど……」
ヒノエが体調を崩している話は里の人から聞いていた。とはいえ少し風邪っぽい程度だそうだが、不安に思ったミノトが里長のところにまで相談に行ったらしい。そう深刻な話でないことは大人たちの様子から察したが、それでも親しい相手の様子が普段と違うと聞けば心配にもなる。
「そう、ですか……。ありがとうございます……」
ミノトの表情から敵意は消えたけれど今度はなんだか泣き出しそうに見えて。私は彼女に手提げを渡す前に中身を一つ取り出した。
「あのね、これ」
「おにぎり? ……あの、姉さまはのどが痛いと言ってます。お粥やおじやならまだしも、これはちょっと……」
「あ、違うの。これはミノトの分」
「えっ……」
驚く彼女の手におにぎりの包みを持たせる。
「ミノトがヒノエの看病してるんでしょ? そしたら、ヒノエのそばでも食べられるおにぎりがあった方がいいかなって」
ミノトのことだから寝ているヒノエから離れたくなくて自身の食事を疎かにするかもしれない。でもおにぎりならば食卓以外の場所でも食べることができる。野菜も取れるようにと中具はワカナさんとスズカリさんから貰った佃煮や浅漬けなどにした。最初はうさ団子にしようかとも思ったが、それだと自分で食べずヒノエにあげる為にととっておいてしまうかもしれないから。
「……私、に?」
手の上に置かれた包みをじっと見つめるミノト。
「えっとね。形がきれいなさんかくで、ちょうどいい大きさのはミハバが握ったやつ。形がまるくておっきいのはね……」
「……あなたが?」
「私が握ろうとして、うまくいかなくて、ミハバが補強してくれたやつ!」
不器用な私では中具をきちんと収めることができず、あれこれ試行錯誤するうちに浅漬けで濡れたご飯がぽろぽろとこぼれ形にすらならなくなってしまったのだ。それをミハバが更にごはんで包んでどうにかおにぎりの体にしてくれた。ミハバのものと比べると少し、いやだいぶ大きいので口の小さなミノトには食べにくいかもしれない。
それを伝えると、少女はふふ、と声を出して笑った。珍しい反応に驚いてミノトを凝視していると彼女はゆるりと首を傾げて、
「……ありがとう」
今よりずっと幼い頃に見た、その控えめながらも優しげな笑顔をはっきりと覚えている。
*
――私にとっては里のみんなが家族のようなものだ。中でも特に小さい頃からかわいがってくれたゴコク様のことはおじいちゃんと呼んでいっとう慕っていた。
老人を敬愛し長寿を祝う休日が、祖父母に感謝する日にもなっていると聞いて、母に感謝する日も父に感謝する日も特にすることのなかった自分はようやく育ての親に孝行する機会が訪れたと喜んだものだ。
とはいえ何を贈ればいいのか。悩んだ私は師であるウツシ教官に聞いてみることにした。ハンターを目指す為に師事することになった教官だが、一見それとは無関係な私生活に纏わることでも厳しく指導し優しく相談に乗ってくれる。
「ゴコク様ならなんでも喜んでくれるとは思うけど、そうだなあ。ただ何かを買って渡すよりも、キミが手を加えるようなものが良いかもしれないね。…………咥えるじゃない。咥えないで。ほら、これで手を拭いて」
自らの口に突っ込み唾液まみれになった指を、懐から取り出した手拭いで拭ってくれる。「キミはたまに予想もつかない行動を取るね」と少し疲れたような表情で呟くが、すぐに笑顔になって「でも、行動力があるのはいいことさ!」と言った。私が何も答えずとも彼はこうして一人で喋り続けるので、見ていて飽きない。
手紙。手料理。似顔絵。いくつかの案が出た。手間暇がかかるものだと自分には少々敷居が高いので、写真立てを作って贈ることに決めた。作るといっても素朴な木枠の既製品に自分なりの装飾を施すだけ。これならば不器用な自分でもできそうだ。
購入した写真立てを持って自室に戻り、宝箱をひっくり返す。綺麗な石、包装に使われていた紐、拾ったフクズクの羽、他にも他にも使えそうな物はたくさんある。これらを木枠に糊付けすれば世界に一つしかない写真立てが完成だ。糊を乾かすべく机の上に置いて次の日まで放置する。
夕食を食べ、床につき、わくわくしながら眠った。そして朝。写真立てを買った際に貰った紙袋にしまい直そうとしてはたと気付く。気付いてしまった。昨日はちっともそんなこと思わなかったのに!
「……すっごく変」
木枠の上をミミズのようにのたくる紐と、でこぼこと白く固まった糊。砂や泥は付いておらず形も比較的綺麗とはいえそれでも単なる石でしかないものがいくつも張り付き、挙句毛が開き汚らしく見えるフクズクの羽。まるでゴミ捨て場から拾ってきたかのような有様だ。おかしい、自分は宝物で飾り立てたはずなのに、どうして?
こんなものをおじいちゃんにあげられない。私は衝動的に家を飛び出した。
鈍色の空の下、家から少し離れた家屋の軒下で一人で蹲って泣き続ける。泣いて、泣いて、沢山泣いて。馬鹿らしいけれど、そのときの自分は本気で絶望していたのだった。
「おじいちゃん。ごめんなさい」
帰るなりそう切り出した私に、ゴコク様は一体何をやらかしたのかと眉を顰める。またもや涙がこぼれそうになるのをぐっと堪え、
「今日のために、写真立てを買ったの」
「写真立て?」
「でも、変になっちゃって」
自室からあの写真立てを持ってきて手渡した。項垂れる私と手元の写真立てを見比べ更に疑問符を浮かべるゴコク様。
「どういうことでゲコか? 話が読めんゲコ」
「あの、今日は……おじいちゃんに感謝する日だから……」
手紙とか、料理とか、教官に相談して、色々考えたけど。訥々と語る内にようやく意味を理解したゴコク様は驚いて写真立てをまじまじと見つめた。
「これを、ワシの為に作ったんでゲコか」
「うん。こんな風になっちゃって、ごめんなさい……」
「て……天才ゲコ」
早速写真を入れて飾るゲコ〜! と小躍りすらするゴコク様に目を丸くする。でも変だよ、と投げかけるも彼は大真面目な顔で、ここのこの部分が良い、ここもこういう風に見える、とこちらが意図したものかはさておきとにかく褒めちぎってくるのである。単純な私は言われてみればそんな気がすると頷いてさっきまでの落ち込みはどこへやらすっかり自信を持ち直し、人生で初めて自分一人で用意した贈り物は大変満足な結果となった。
何年経ってもゴコク様の部屋に飾られ続けているその写真立て。当然というかなんというか、やはり見るに耐えない出来である。視界に入る度に恥ずかしさで堪らなくなることもあった。けれど今では私にとっても大切な思い出の品だ。
*
――突然降り出した雨はあっという間に本降りになった。慌てて軒下に入るとそこには先客の少女が蹲っている。けれどその髪も服もどこも濡れてはおらず、どうやら降り出す前からここにいたらしい。
「ヨモギちゃん?」
声を掛けると、彼女はびくりと身体を震わし縮こまりながら私を見上げる。
濡れていないと思ったのは間違いだった。頬も、手も、膝も、ぐしょぐしょに濡れている。悲しげに下がった眉と潤んだ目にこちらの胸も苦しくなった。
「降られちゃって。ごめんね、私もここにいてもいい?」
「…………うん」
微かな声と共にこくりと頷くヨモギ。その隣に並んで腰を掛け、仄暗い曇天を見上げる。
さあさあと雨は降り続いた。そこに時折混じる、鼻を啜る音。ふと、私もこんな風に泣いたっけと思い出す。あのとき傘を持ってやってきてくれたのはミノトだった。まさか彼女が私の為に迎えに来てくれるとは思わず大層驚いたけれど、本当はゴコク様に傘を持っていくつもりで通りがかっただけだと聞いて思わず笑ってしまった。
「……あの」
呼びかけられた気がして隣を見る。
「生き物はみんな、いつか死んでしまうって、本当?」
その問いかけに私は大層な衝撃を受けた。何か失敗をしてしまったとか友人と喧嘩してしまったとか、そう、今思い返せば笑い飛ばせるような些細な出来事でも私はこのようにぐずぐずと泣いていた。だからきっとこの少女もそうだろうと実に勝手なことながらも思い込んでいたのだ。
返す言葉に迷って黙り込む私を映した彼女の目から、更にぽろぽろと涙が溢れていく。
「ほんとうなんだ……」
「あ、いや、……」
弱った。彼女は賢い。賢すぎる。私のような筋力バカに彼女の相手は荷が重い。言葉から受け取れる以上の様々な懊悩が彼女の頭には渦巻いているのだろう。かけるべき言葉がわからない。いや、でも。
「……本当だよ。生き物はみんな、いつか死ぬ」
彼女の欲する言葉をあれこれ悩んでも無駄ならば、せめて真摯に答えるのが誠意ではなかろうか。賢い彼女はきっと彼女なりの答えを自分で導き出せると信じて。
「だから受け継ぐ。生きているものへと受け継いで、続いていく」
ハンターとは、モンスターの命を戴く職業だ。決して命を軽んじてはいけない。その重みと常に共にある自覚を忘れてはならない。無意味に絶やすことはしてはいけない。必ず、別の形で生かさなければならない。
我が師が教えてくれたこと。
上手く説明できたかはわからないけれど、彼女はじっと私の言葉に耳を傾けてくれた。
「死を悲しいと思う心も貰ったものだから、無くそうとはしなくていい。いっぱい泣いて、いっぱい悲しんで、貰ったぜんぶを大切にしよう」
「……悲しいのは、辛いよ」
「そうだね。長生きの努力はできるから、がんばろう!」
ぐっとガッツポーズをしてみせる。彼女は考え込むように俯き、何かを言いかけて。
そして突然、がばっと膝に顔を埋めた。
「でも! 作ったら食べないとダメになっちゃうもん!」
「…………え、なに?」
「がんばって作ったら、食べてほしいけど、食べたら無くなっちゃうの! でも食べなくてもダメになって、結局無くなっちゃう……食べてもらえばその分、食べた人の元気になって、完全に無くなるわけじゃないっていうのはわかったよ? でも、がんばって作ったそのうさ団子には二度と会えないって思ったらやっぱり悲しい!」
「…………うさ団子」
「ねえ、どうにかできないの? どうしても、形は残せないの?」
顔を上げ、うるうると揺れる瞳でこちらを見つめるヨモギ。
思わず、はは、と乾いた笑いをこぼした。
「……写真に撮ればいいんじゃないかな」
「写真 そ……その手があったかぁ!」
叫びと共に立ち上がる。一気に元気を取り戻すヨモギに反し、私はすっかり脱力してしまった。うさ団子。彼女の努力は知っているので、それほどの愛着を持てるほどに上達したのは良いことだと素直に思う。それに、暗い空気を払う為にわざと団子の話ではぐらかしたのかもしれない、とも。いずれにせよ。
「お話聞いてくれてありがとっ!」
この愛らしい笑顔が見られればそれだけで悩み答えた甲斐があったというものだ。
雨はいつの間にか上がっていた。
*
――里の中でも歳が近く似たような趣味を持つミハバとは、幼馴染の中でも特に頻繁に連んでいた。ふたりで生み出した夢と欲と憧れをふんだんに詰め込んだ空想武具は数知れず。団子屋前の長椅子に腰掛けどちらの考えた武器の方がかっこいいかで実に白熱した議論の後、彼はふと遠くを見つめた。
「あのさ。オマエは里が好きか?」
唐突な質問に何故そんなことを聞くのかと反射的に返しそうになるのを飲み込む。考えて、まず浮かぶのは背中だった。この里の長でもなければ馴染みの友人でもないたった一人の遠いその背を頭から振り払い、今までにあったあれやこれやを思い返す。
「……あまり意識したことなかったな。好き、だと思うけど」
ただ好きと言うのも違う気がするのだ、と結んだ。里一つ。それは私には大きすぎて、好きだとか嫌いだとかそういう括りとは少し違う場所にある。そうか、と小さく聞こえたけれど隣に座る彼はこちらを見ない。仕方がないので私も正面を見据える。
一定の間隔で振り下ろされる杵。つかれる度に臼の中で跳ねるように伸びる団子生地。ぺったん。ぺったん。ぺったん。ぺったん。長い沈黙の後、彼は大きなため息をついて俯いた。
「この里にいてもハンターにはなれる。でも一流を目指すなら一度里を出て勉強した方が絶対に良いってなったら、どうする?」
「一流」
「そう。師匠みたいなハンター」
「それは……」
「師匠みたいになるには、師匠と離れて。里を出て。一人で、勉強するべきだって知ったら」
あり得る話だ。
ただハンターになるだけならば里を出る必要はない。ここではかつて襲来した大災禍、『百竜夜行』の再来に備えハンターでない者も里守としてモンスターと戦う為の訓練を受けている。他の里や村よりもずっと学ぶ環境が整っているはずだ。
けれど、例えば里長のような。例えばゴコク様のような。例えばハモンさんのような。例えばウツシ教官のような。並みのハンターでは太刀打ちできないような強大なモンスターをも退ける一流のハンターになるには、単なる知識と技術だけでなく相応の経験が必要になるだろう。
私が目指すのは何がやってきてもこの里を守り抜ける、そんなハンターだ。
「もしそうなったらさびしい、けど……里にいても、里を守れないなら。必要なものすぐにかき集めて絶対に強くなって戻ってくるよ。ミハバもそうでしょ?」
ね、と彼の背中を叩く。
「あらあら、心強いですね」
うふふ、と笑うのはうさ団子の皿を手にしたヒノエ。俯いていたミハバはその声でようやく目の前に立つ彼女に気付いたらしい。ヒノエさん、と顔を真っ赤にして立ち上がった。
彼の場合は里が好きかどうか以前にヒノエと離れたくないだけなのでは。誰にでも優しく温かな彼女に好意を寄せるのはわからなくもないが、未だ恋がわからぬ自分にはどうも不純に思えてしまう。と、いうか。私などに相談せずともヒノエにひと言がんばってとでも言ってもらった方が早そうな気がして釈然としない。
「私も、もしもおふたりがいなくなってしまってはさびしいですわ。でもきっとすぐに帰ってきてくれると信じていますからね」
「は、はい! 必ず!」
ほらね。
でもそんな素直でわかりやすい幼馴染も微笑ましくて嫌いじゃない。もういっちょ背中を押してやるかと席を立ち、訓練に行ってくると言って二人に手を振りながらその場を後にしようとすると、慌てたようにミハバが駆け寄ってきた。
「あ、あのさ! えっと……」
「なに?」
「俺、絶対に一流の武器を作れるようになるから! 一流のハンターになったオマエが使いこなしてくれよ!」
ぐっと握り拳を突き出すミハバ。私は笑って、拳を打ち合わせた。
*
――空が赤い。
「あら、目が覚めました?」
ヒノエがこちらを見下ろし笑いかける。私は身体を起こして辺りを見回した。たたら場前のベンチの上。すぐ傍らに腰掛けるヒノエ。
「……膝枕?」
「はい。寝心地はいかがでしたか?」
「気持ち良かった、けど」
「けど?」
「……気持ち良かったです」
「うふふ。よかった」
じきに太陽が沈む。彼女はこんな時間まで自分を見守ってくれていたのか。
教官の課す訓練は年数を重ねる度に苛酷になっていった。限界まで突き詰められた厳しい修行の日々。弱音を吐きたい気持ちもあった。しかしこれを耐え抜かねばハンターの道はないと言われればがんばるしかない。そんな私の心を挫けぬよう支えてくれたのはヒノエだ。いくら感謝してもし足りない。
「教官は?」
「眠ってしまったあなたを見て、今日は切り上げようかと言って見張りへ向かいましたよ」
「怒ってた?」
「いいえ。笑っていました」
それはそれでなんだかな、と苦笑いする。あの人の特訓は途轍もなく厳しいけれどそれ以外ではむしろ甘い。彼女もふふ、と笑いをこぼした。同じことを考えているのかもしれない。
風が吹いて、空の雲を流していく。
「明日から、しばらく里を離れるんだ」
昔にミハバとした会話を思い出すけれど、私の場合は一人ではない。教官付き添いの元少し遠くへ行くだけだ。聞いています、とヒノエは頷く。
「でも、すぐに帰ってきてくれますよね?」
「もちろん」
ヒノエの手がそっと私の手に重ねられた。夕焼け色に染まった美しい竜人の娘は祈るように目を閉じる。ゆっくりとその顔が近付いて、こつりと額がぶつかった。
「待っていますからね」
私も目を閉じる。ヒノエの息遣いを感じながら彼女の手をしっかりと握った。
「ハンターになったら。今まで支えてもらった分……守ってもらった分。私が、ヒノエを守るから」
「……約束ですよ」
「約束」
そうして、日が完全に落ちるまで、ずっと。
寄り添い合いながら、結んだ約束を噛み締めた。
*
――駆け巡る記憶。私は里のみんなが大好きだ。みんな、みんなが大好きだ。守りたい。大切にしたい。取りこぼしたくない。だから。
愛用の得物を掲げ眼前の敵を睨み付けた。大振りな攻撃を転がって躱し、深呼吸しようと息を止めたその瞬間、死角から耳をつんざくような咆哮を食らい身が竦む。音の衝撃で頭が痺れ止まりかけた思考を、とんと背中に受けた重みが引き戻した。
「いくよ愛弟子!」
遠かったはずの背中が今ここにある。泣き出しそうになるのを堪えてこちらを取り囲む大型モンスターの群れへと視線を戻した。
「ッはい!」
返事と共に駆け出すのとほぼ同時、一瞬にして張り巡らされた鉄蟲糸によって周囲のモンスターが地に縫い留められる。手近な一匹に自身の翔蟲を放ちながら跨ると、尾を操り複数のモンスターを纏めて薙ぎ払った。
――見てごらん、愛弟子!
うす暗い森を抜け、急に開けた視界に思わず目を閉じた私に、教官はそう声を掛けた。
快晴。抜けるような、広く深い青の空。どこまでも続く草原の海が風に吹かれて波打つ。息を呑むほど美しく澄み切った光景に、私は思わず息を呑んだけれど。
思った反応と違ったらしく、教官は弱々しい(けれど声量は殆ど変わらぬままの)声で問うた。
――気に入らなかった?
――いえ……とても綺麗です。ずっと抱えていた迷いに、答えを出せるくらい。
鮮明な視界がどれほど綺麗でも。瞼を持ち上げるほんの一瞬。わずかな隙間に差す眩い光にすべての景色がぼやけて溶けたその瞬間が何より好きだったから。
そうか、私はそうなのだ、と。すとんと腑に落ちてしまった。
きっとこの恋の最も大きな幸福は、想いを口にしたその一瞬にしかないのだ。
で、あれば。例えその先、死が二人を別つまで共に歩めたとしても。互いに築き合う新たな関係がどれほど尊く美しく私の心を満たしてくれるものであったとしても。そんな未来を空想しながらもすべてを胸に秘め続け、最も望んだ一瞬に焦がれてもがく時間には敵わない。
だから決めた。
いつか来るそのときにそばに誰かがいてくれるとは限らない。それでもいい。私は、この命が尽きるそのときにこそ、この恋慕を初めて口にしよう、と。
そしてもし、そこに想い人がいてくれたなら――ああ、本当にそんな最期を迎えられたらどれほど幸せだろう!
犇くモンスターの群れへと突き進みながらも、私の心は揺れている。絶望的ですらあるこの状況、足掻くことをやめたからとて誰に責められるはずもない。そう考えてしまうくらいには自分の感情に参っていた。
師弟のままでいたい。この切なくも眩い今の関係は、想いを伝えたが最後二度と返ってこない。一度決壊した理性で堰き止められるような熱でないことは自分が最もわかっている。けれど抑え続けるのも苦しい。泣き叫びたいほどつらくて、痛くて、ままならないのだ。
それでも腕は武器を振るい、脚は攻撃を避け、頭は生存の道を探し続ける。いくら教官が強く、鉄蟲糸技に長けているとはいっても、この数のモンスターを一人きりで止めることは不可能だろう。ここで私が倒れればモンスターは里へと向かう。そうして、私の愛する人たちを害するのだ。ミノトの、ゴコク様の、ヨモギの、ミハバの、ヒノエの笑顔が浮かぶ。私は里のみんなが大好きだ。みんな、みんなが大好きだ。守りたい。大切にしたい。取りこぼしたくない。
「教官――」
「大丈夫だ! キミならできる!」
結構な距離があるはずなのに教官の声があまりに明瞭に響くので、私はもうなんだか笑ってしまうのだった。