ど 大小の砂礫が広がる川辺で火の番をしていたディミトリは、視界の端で音もなく動くものに気が付いて反射的に体を強ばらせた。
目を凝らしてそちらを見る。けれど燃え立つ炎で揺らめく影のなかに動く影は見当たらない。
(見間違いだったか……気を張りすぎているのかもしれないな)
苦笑しながら気を緩めようとした矢先、炎の揺らぎとは明らかに違う動きをした影に、ディミトリはすぐさま息を詰め体中に緊張を巡らせた。
それは炎の灯りがかろうじて届く、暗がりの中に息を潜めていた。闇の中で、ちろ、と鮮やかな赤い舌が見え隠れする。
ディミトリは息を殺した。
折よく炎が爆ぜて、一瞬だったものの、赤い火明かりにそれがはっきりと浮かび上がった。しきりに舌を出し入れする裂けた口にとがった頭、段差のある首から続く太く薄茶色の体は寸胴で、白い縞模様が細く入っている。この事態に陥ってから、ベレスが真っ先に注意するよう言っていた毒蛇だとディミトリは気づいた。血清がなければ噛まれた者の多くが命を落とし、助かっても重い後遺症が残るという危険な蛇だ。
緊張に体を強ばらせながら、ディミトリは椅子替わりの倒木からそっと腰を浮かせた。いかな危険な生物とはいえ、こちらが彼らに近づかない限りその毒牙にかかることはないけれど、彼らが戯れに近づいてきた場合はその限りではない。そして今この毒蛇は、火とディミトリの視線から逃れるようにスルスルと地を這いながら、絶対に向かっては行けない方向へ、つまりはベレスがいる洞の方へと向かっているのだ。見過ごすわけにはいかなかった。
見失わないよう瞬きもせず蛇に視線を据えたまま、ディミトリは立ち上がる。手にしているのは投擲も出来る手槍だ。けれどいかにディミトリが槍の扱いに慣れていようとも、小さくて動きの素早い獲物に対しては不利だった。しかも、相手は毒蛇だ。間合いが長い槍と言えども、むやみに近づくのは危険だった。
衣擦れの音、砂利を踏む音を立てぬよう最大限に気を配りながら、ディミトリは蛇の方へと体を向ける。手を肩の上にあげ投擲の構えを取ると殺気に気がついたのか、蛇は動きを止めて鎌首をもたげ、炎を反射する猫のような艶々した目でディミトリを見つめてくる。焚き火の明かりを受けて、ちろちろと出し入れされる細く赤い舌がはっきりと見えた。
呼吸を詰める。より確実に仕留めるならもっと近づくべきだが、へたに距離を詰めれば蛇は逃げ出すかもしれない。
(森の方ならまだいい。だがもし、先生がいる洞に逃げ込まれたら……)
それがディミトリには気がかりだった。もし森へ逃してしまったら、この星や月明かりも届かない夜闇の中、蛇に警戒して一晩過ごさなくてはならなくなる。決してよくはないが、まあなんとかなるだろう。だがもしベレスがいる洞に逃げ込まれでもしたら。
ディミトリの全身にどっと嫌な汗が噴き出した。
(駄目だ。先生はいま動くことができない。となれば、ここで仕留めるしかない)
失敗のできない緊張に槍を構えた手に汗が染み出してきて、ディミトリは柄を握りなおした。
まんじりともせず、両者はにらみ合った。炎が揺れて居なければ、毒蛇が舌の出し入れを繰り返していなければ、まるで時が止まったような錯覚に陥っていたかもしれない。
噴き出した汗がこめかみを伝い、首筋へと流れていく。
痛いほどの緊張のなかでしばしにらみ合ったのち、ひときわ大きい粗朶がはじける音をきっかけに、ディミトリはごく短い動作で一息に槍を放った。返す動作で腰の剣を引き抜き、反撃に身構える。
しかし、槍はまっすぐに空を裂き寸分過たず蛇を貫き、地面に突き刺さっていた。衝撃に跳ね上がった蛇の体が突き立った柄に巻き付きのたうっている。ぱっくり避けた口が声なき声を上げるように口が大きく開き、断末魔を上げるように震える赤い舌と鋭い牙がのぞいていた。
確かに狙っていたとはいえ、こうも思惑通りに行ったことに驚きながら、ディミトリはなおも警戒を解かず蛇へと近づいた。
串刺しにされた蛇は助けを求めるように蛇体をくねらせて長い尾で地面を叩き、もんどりうって身もだえている。行きつく先は死しかない、どうしようもない運命に囚われた蛇にディミトリはほんの少し憐れみを覚えていた。
けれども今この蛇を解き放てば、間違いなくディミトリに襲い掛かってくるだろう。襲い掛かってこずともすぐさま草むらに身を隠したとて、傷がいえることはないし長くも生きられまい。
(無用な情けをかけては、無駄に苦しませるだけだ)
ディミトリは剣を握り直すと切っ先を蛇の首筋に据え、牙に気を付けながら素早くその頭を切り落とした。
飛んだ蛇の頭が点々と血を散らしながらディミトリの足元に跳ね落ちる。とろりと血が滲み出る断面から生々しい肉の色が見えていた。落ちた頭も槍に貫かれたままの体も、未練がましく槍に巻き付きそれ自体が意思を持っているように蠢いている。
本能的な恐怖と気味の悪さにディミトリは顔をしかめた。頭を切り落とされたにも関わらず未だに動く蛇体。理性はなくただ本能や反応だけで動き続けているそれが、得体のしれない怪物のように思えておぞましい。
しらず鳥肌が立っていた腕をさすりながら、ディミトリは首の断面から血を流してのたうつ蛇体が力尽きるまでを見守った。哀れに思うと同時に脳裏をよぎったのは、毒蛇だが酒に漬ければ薬になるし調理すれば食べられるというベレスの言葉だ。
ディミトリはちらりと洞を見た。ベレスはすでに休んでいるためか気配はなく、火明かりも見えなかった。
(救助がいつになるか分からない。ここは森の中だし川もあるが、食料がいつでも手に入るとも限らない)
少し迷った末、ディミトリは決めた。
(この蛇肉も、食料に数えたほうがよさそうだな)
あいにくと酒はないから薬にはできないし蛇を捌いた経験などディミトリにはないが、食料として皮をはぎ骨を剥がすことは鳥や獣と同じだろう。
(それくらいなら、俺でもできるかもしれない)
顔を上げたディミトリは蛇に視線を落とした。蛇はのたうつ力もすでに失い、ぴくぴくと弱々しく痙攣している。おぞましくはあるが、よく見てみれば胴体は太く肉厚だ。きっと食べ甲斐もあるだろうし、酒漬けで薬になるのなら、きっとこの肉だけでも滋養があるのだろう。滋養があるのなら、きっとベレスの怪我にもいいはずだ。
(明日はこの蛇肉の料理にしよう)
これはいい考えだとディミトリは思った。
一人で勝手に怪我をしたあげく、ディミトリを巻き添えにしてしまったと落ち込んでいるベレスを、彼女の好きな食事で励ましてやれる。……もっとも、大修道院の食堂のような食事には程遠いけれども。それでも、ベレスはきっと喜んでくれると言う確信がディミトリにはあった。
「驚いてくれるだろうか、先生」
いつも淡々とした表情のベレスは昨日も今日も顔を曇らせていた。それが目を丸めてぱちくりと瞬きを繰り返すさまを想像して、ディミトリは思わず頬を緩めた。ベレスの笑顔はいまだにほとんど見たことはないけれど、心は笑っていてほしい。悲しい顔などしていてほしくない。その一助になるのなら、ディミトリもできる限りのことはしたいと思っている。
ひとりきりの夜通しの火の番ではあるが、これほどわくわくするような任務はないだろうなと思いながら、ディミトリは調理に取り掛かった。