星7 巧妙に隠された獣道のような道とは言えない道を通り、途中で休憩をはさみ、男が言うねぐらにたどり着いたのは夕刻近くだった。色をなくした空にはまだ明るさが残っているが、樹影は黒く濃く、根元には闇がわだかまっている。門に焚かれて揺れる篝火の赤が目に痛かった。
「ここは……誰かの屋敷?」
とても近年、しかも素人たちの手で建てられたようには見えない石造りの門とその奥に見える屋敷の規模に、ベレスは男に尋ねた。
「どうでしょうね。僕たちが来た頃には誰もいませんでしたけれど、誰かのお屋敷だったのかもしれません」
隣で苦笑しながら分からないと答える男に、それもそうだろうとベレスは頷いて足を進める。たとえ本来の持ち主が誰か分かっていても明らかにすることはあるまい。ここは平和を乱す反乱軍のねぐらだ。その関係者となればたとえ従属していたとしても教会側が黙っているはずもなく、殲滅されるのが目に見えている。その殲滅隊は、かつてはベレス自身が率いていた。
南方にも北方にも西方にも出撃したが、思い返してみれば北方へ赴くことは全体として少なかったかもしれない。それは長期間かかる遠方への討伐を大司教が認めなかったのもあるし、西方の異国からの襲撃に対処せねばいけなかったのもある。それにひょっとしたら、自他に厳しい大司教補佐がこっそりと気を使っていてくれたのかもしれなかった。実際どうだったにしろ、今となっては知る由はないのだけれども。
「この部屋です」
考えに耽っていたベレスは声をかけられてはっと顔を上げた。目の前には男が持つ手燭の明かりを受けて艶々と黒光りする、重厚な木の扉が行く手を遮るように立ちふさがっていた。屋敷のつくりからくる重苦しさを払うような瀟洒な彫刻が施されているわけではなく、縁取りをした浮き彫りの大きな四角を縦と横に並べる、華よりも剛を求めた簡素ながら堅牢な印象の扉だった。
(いかにもファーガスらしい……)
ベレスは苦笑した。閉ざされたままだというのにこの扉からは肌を刺すようなぴりぴりと張り詰めた気配が漂っている。男がしてくれた話から察するに、この先の部屋にいるのはベレスが想像する通りの人物だろう。
「約束。この子は必ず守って」
「ええ、必ず」
「命に代えても、必ずだよ」
男に着いてきながら館からここまでの間取りは覚えたが、それを役立てることはないだろう。できることは、この男が無事にわが子をここから連れ出してくれるだけの時間を作ること、そうしてくれることを信じることくらいだ。
「ベレス……」
少女の不安げな声に、ベレスは振り返って微笑んだ。
「大丈夫。このお兄さんが、あなたのことは必ず助けてくれるから」
でも、と愁眉を寄せる少女の声に、まいったなあと苦笑が重なる。
「僕、お兄さんなんて呼ばれたのなんて久しぶりですよ。この子にしてみたら、どちらかというとお父さんでしょう」
「そうだろうか。君は今でもそういう雰囲気だけどな」
「上手に言いますね。でも、ありがとうございます」
けれど、と続けようとした男をベレスは制した。
「この先ずっと近くで守ってと言っているわけじゃない。ここから無事連れ出して、どこか安全な街から村まで逃がしてくれればいい」
「簡単に言ってくれますね……僕がそれでいいと思っても、彼らが――彼がそれを認めるとは限りませんよ」
「彼が私をどんなに憎んでいたとしても、この子に危害を与える理由にはならないでしょう。私の因果はこの子には関係ない」
ぴしゃりと言うベレスに、泣きそうな声がぽつりとつぶやく。
「そんなこと、言わないでよ。私はベレスの子なんだから、関係ないなんてことないのに」
ベレスは声を和らげた。
「関係ないと言って逃げなければいけないよ」
「でも、ベレスを置いていくなんて」
「生きていればいつか会えるよ。会えない間も、私はいつでもあなたの傍にいる」
「……父さんのように?」
ベレスは目を細め、頷いた。
「うん。父さんのように、いつでも傍で見守っている」
「うん……うん、分かっている。まずは自分が生き残ること」
「その通りだよ」
自分に言い聞かせるように呟きながら頷く少女を見守っていた男は、ベレスに尋ねた。
「ところで先生、最初から怒らせる気でいませんか」
まさか、と苦笑しながらベレスは首を横に振った。
「私が何をどう言うとか以前に、彼はすでに怒っているでしょう。最後に会った時も、飛びかかってきそうな勢いで怒っていた」
実際、仲間に抑え込まれていなければ飛びかかってきていただろう。当然だ。ベレスはそれだけのことをしたのだから。
「だから怒りは甘んじて受け止めよう。だけどこの子を害することだけは絶対に認めない。もしもの時は彼を殺す。君も殺す」
扉の向こうからの殺気と変らないくらいの本気に、男は灰色の髪をくしゃりとかき混ぜて参ったなあと呟いた。
「先生が相手じゃ、僕の腕じゃとても敵わないのに」
「弓術じゃ君の方がずっと上だよ」
「だから弓が有効に使える距離まで時間を稼ぐから、お子さんを連れて逃げてくれということですか」
「正解」
じっと見つめ返してくるベレスに、男はもう一度参ったなあと呟いて首を垂れ、少し考える素振りを見せたあとやがて顔を上げた。
「うん……分かりました。お嬢さんのことは必ず守って近くの街に送り届けましょう。子供を巻き込むのは、僕も嫌ですから」
「ありがとう」
「いえ。君も、それでいいね」
少し眉を寄せながらも、はいと頷いた少女に男は黄緑色の眦をまぶし気に細めた。
「それじゃあ先生、そろそろ心の準備はいいですか」
「ああ」
「お嬢さんは、僕の隣にいてくださいね。怖い人がいますけど、むやみに噛みついたりはしないから怖がらなくても大丈夫ですよ」
「……分かりました」
不安げに眉を寄せながら頷いた少女の様子に脅かしすぎたかと苦笑しながら、男は扉を数度叩いておとないを告げた。
かちゃりと音を立てて扉が開く。
薄く開いた扉の隙間から、怒りと緊張に満ちた空気があふれ出していた。肌をひりつかせるそれは戦場のものと寸分たがわず、ベレスは思わず剣の柄に手を伸ばしたくなる衝動を理性で抑え込んだ。そんなことをしたら話し合いどころではなく、少女を逃がすこともできなくなってしまう。とにかく冷静に。ベレスは細く息を吐き、視線を扉の奥へと向けた。
薄く開いた扉の先にいたのは、ベレスの知らない女だった。きりりとした眼差しは鋭く、戦場を知っている人間だと直感で分かる。それは向こうも同じだったのだろう。女の厳しい顔つきに緊張が走るのが見えたが、すぐさま男に目線を走らせて頷くと、扉を大きく開けてベレスらを室内に招き入れた。男が扉を支えてベレスに入るよう促し、反対に女が廊下に出ていった。
すれ違いざま、女の口からほっと安堵の息が吐かれたのが印象的だった。
扉が閉まる音を聞きながら、ベレスは室内の中央に歩を進めた。
(なるほど、これは)
息も詰まるはずだと納得する。いくつかの手燭が揺れる程度の薄暗い部屋の中は押しつぶされそうな怒気に満ちていた。背後で聞こえた衣擦れは、我が子が怯えて男の背に隠れた音だろうか。そんなことを思いながらベレスは部屋の奥、分厚い窓硝子すらびりびりと震わしそうな怒気の発生源である男に視線をすえた。
「――よくも、のこのこと」
男の口から地獄の底を這うような怒りに満ちた低い低い声が絞り出される。どうせ怒らすなら――すでにものすごく怒っているけれども――下手な策を弄しても無駄なだけだ。となればいつも通りでいるしかない。
「やあ久しぶり。元気そうだね」
ベレスが声をかけた刹那、男の怒気がぶわりと一気に爆発した。
令和4年11月16日