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    口調分かランポス/(^o^)\

    ##星

    星8「どの面下げて言っているんだ貴様はっ」
     ダン、と拳が分厚い天板を割る勢いで長机を叩く。反動で机は跳ね、大音声で肌がびりびりと震え、鼓膜がギンと痛んだ。背後でひっと小さく息を呑む音が聞こえたが間違いなく我が子だろう。灰髪の彼の後ろに隠れたのかもしれない。怖い目や危ない目には幾度となく合わせてきたが、この手の恐怖には慣れていないだろうから少し可哀そうなことをしたかもしれない。これも経験だと割り切ってくれることを願いながら、ベレスは黒髪の男に対峙して肩をすくめて見せた。
    「周りの人にはあまり変わらないと言われているけれど、さすがに十年以上も会っていないと分からないかな」
    「馬鹿にしているのか貴様! 見間違えるものか、己の所業に対して悔恨も悲嘆も慚愧することもないその顔、一度たりとも忘れたことはない」
     怒りのあまりかかすれた声とともに、男ののどからはぐるぐると唸り声が漏れていた。
    「……私は恥じ入ることも、後悔するようなことも、したつもりはないからね」
    「はっ、己の手で愛する男を殺しておいてか。さすがは悪魔と呼ばれるだけのことはある。その全く変わらない見た目も悪魔ゆえか。いや、お前が血祭りにあげた者たちに呪われたか」
     憎悪を隠しもせず睨みつけてくる黒髪の男に、そんなことはないとベレスは首を横に振った。
    「女神の祝福だよ」
     途端に男は蔑みを浮かべた眼をベレスに向け、吐き捨てた。
    「女神などいるものか」
    「どう思うかは君の自由だから否定はしない。でも一つだけ……あの子は、私を呪ったりはしなかったよ」
     ベレスは首に下げた鎖の先の指輪に服の上から触れた。少なくともベレスは、祝福してくれたと思っている。
     けれどこの言葉も胸を押さえるしぐさも、黒髪の男の怒りの火に油を注いでしまったようだった。男は腰を下ろしていた長椅子を倒す勢いで立ち上がって身を乗り出す。
    「あいつを知ったような口を叩くな!」
    「知っているよ。君ほどは知らないかもしれない。けれど君が知らないあの子を、私は知っている」
    「貴様あ……!」
     怒りのあまりに言葉を見失ったのか、代わりにギチ、と噛みしめた歯が鳴る音が聞こえた。わなわなと体を震わす黒髪の男の犬歯をむき出しにした口からはふーふーと獣のような荒い息が室内に響いている。
     それはまるで、あの戦場の日を彷彿とさせる様相だった。
     舞い上がる砂埃。霞む太陽。どこまでもいつまでも続くと思われた時は終わり、自分は彼の血の滴る首を懐に抱いている。叩きつけられる怒声。その声の主を縋るようにして押しとどめていたのは、彼の――。
     いや、とベレスは内心で首を振った。誰もかれもが生きていると考えるのは甘い。たとえあの戦乱を生き延びていたとしても、あれから十数年。けがや病気で儚くなることは充分ありうるし、生きていても袂を分かったかもしれない。懐かしい顔ぶれを立て続けに見たからと言って、さらにその続きをと望むのは勝手が過ぎるだろう。
     瞬きして幻影を振り払い、ベレスは訊いた。
    「君が知る彼は、どんな子だった?」
    「……それを知ってどうしようという気だ」
    「どうもしない。ただ知りたいだけ。あの子が小さかった頃の様子。どんなふうに成長していったか。どんな風に生きたのか。……優しい子だったから、きっと皆に愛されていたんだろうね」
     直後、男が吠えた。鞘走る硬い音もした。
    「気安くあいつの事を口にするな! ああそうだとも、あいつは民を思い国を思い全てなげうってきた。それを貴様が誑かして殺した! 悪魔め、やはりその首切り落としてあいつの墓前に捧げてやる!」
     黒髪の男が机に足をかける。低い机だ。踏み台にして跳び上がり、机からさらに数歩の距離も一瞬で詰めて切りかかるのに絶妙な高さだった。男の重心が下がりぐっと体が沈む。
     ――そういえばまだ生徒だった頃の彼は、瞬発力に秀でていたことをベレスは思い出していた。
     机の天板を踏みつけ、曲げた膝の上に載せるように深く折りたたまれた身体の重心が移り滑らかに前のめりになる。発条が圧され反撥する力を溜め込んでいるようすはまさしくしなやかな獣のようだった。このまま体重を踏み込んだ足に乗せきり重心を踵から爪先へと傾けていったなら、放たれた矢のようにこの男は切りかかってくるだろう。その手はすでに牙となり爪となる剣の束を握り込んでいる。小さいながらもいくつも置かれた燭台の炎を受けて、ぬらりと橙に光る痩躯に見合った細身の剣だ。彼の剣技と瞬発力はこの剣をよく活かすだろう。筆を封じられているベレスはとにかく初撃を躱さなければいけない。ただし無闇に避けてはいけない。離れているとはいえ背後には、我が子がいるのだから。
     ベレスはすぐに反応できるように全身の力を抜きながら、斬りかかろうとしてくる黒髪の男のわずかな動きの変化も見逃すまいとじっと凝視した。ベレスをねめつける男の重心が静かに傾く。沈んでいく体がぴたりと動きを止め、白刃を手に鋭い眼光がベレスへと放たれる――
    「だめぇっ!」
     薄暗い部屋には不釣り合いな澄んだ声に驚いたのか、黒髪の男がぎょっとしたのが分かった。踏み切る勢いも太刀筋も反れて、ベレスは数歩あとじさるだけで剣の間合いから逃れることができた。視線の先では机を向こう側からこちら側へと飛び越してきたような形になって、とんとんと弾むようにたたらを踏んだ男がぎらつく眼光で声がした薄暗がりを探っている。その隙間を縫って、金色の光がベレスと男のあいだに転がりこんできた。
    「ベレス、こんなところ早く出よう」
     その声に突然現れたいるはずもない人影に茫然としていた黒髪の男ははっと我に返ったようだった。ベレスにしがみつく少女にかすれた声で問いかける。
    「待て貴様、誰だ」
    「早く、ベレス」
    「誰だと訊いている!」
     ぐいと強引に引かれた腕を、少女はいやと振り払った。意外なことに男の手はすぐに外れて、その隙にベレスは少女を自分の体の後ろに引っ張り込んだ。
    「この子には手を出さないで」
     少女を背後で庇いながら黒髪の男を睨みつけるベレスに、少女とともに控えていたはずの灰髪の男も加勢する。
    「そうですよ。ただでさえ怖がっていたのに、今のはだめですよ」
    「おまえ、こいつに味方する気か」
     低く唸る黒髪の男に、灰髪の男はにこりと微笑んで返した。
    「いいえ、この子に味方したんです。子供相手に大人げない。本当に君、いつもに増して怖いですよ? 鏡持ってきましょうか?」
    「いらん!」
     子供の前でも仇敵を斬ることにためらいはないがあまりにも気勢をそがれ、忌々し気に舌打ちして黒髪の男はぷいと顔を背けた。代わりに灰髪の男に向けて、八つ当たり気味に言葉を叩きつける。
    「それよりどういうことだ。子連れなどと聞いていない」
    「どうと言われても、僕はちゃんと伝えましたよ。報告通り先生と、それからお子さんがいるって。君に伝わるまでの伝令の間で齟齬があったんでしょうか」
     首をひねる灰髪の男に、白々しい、と黒髪の男が吐き捨てた。
    「あ、そういう言い方止めてください。僕はちゃんと伝えたんですから」
    「ちっ、お前はそうだろうな」
     苛々を隠し切れない黒髪の男に、灰髪の男が肩をすくめた。その様子を見ながら、ベレスは確認する。
    「……あの護衛隊のなかに君たちの仲間がいて、その仲間からの報せを受けて罠を張ったということでいいかな」
    「仲間、というより協力者といった方が近いですね」
    「私を見つけたその協力者が、隊が出発する前にこっそり君たちに連絡を取った、と」
    「ええ、そうです」
    「生徒のひとりだろうか」
    「いいえ。でも、王国兵の生き残りです」
     ベレスの背後でおうこく、と口の中で繰り返した少女に目を細めてから、灰髪の男はベレスに視線を戻した。
    「あの戦場の前線にいましたから先生の姿は目に焼き付いていたそうです。噂の傭兵と同一人物とは信じがたいがあの姿は間違いないと言うので、それを信じて僕たちで待ち伏せすることにしました」
    「そう……それに気づかずのこのこやってきてしまったというわけだ」
     乾いた笑いを漏らすベレスは、最後にため息をついた。
    「今までもこういう仕事はしてきたんだけどなあ」
    「気を付けていない時が一番危ないといいますよ、先生」
     気は張っていたが感傷に浸っていたことは事実だ。
    「そうだね。違いない」
     すっかり当たり前に言葉を交わすようになったベレスと灰髪の男に、黒髪の男が苛立たし気に舌打ちをした。
    「なにを馴染んでいる。……おい子供、それ以上その女の拘束を解こうなどしようものなら、女ごと貴様も斬るぞ。出てこい」
     ベレスの背後で少女の肩がびくりと跳ねた。男の言葉への恐ろしさと、いたずらを見とがめられてしまった時のような反応の半々だ。生来の気質か育った環境ゆえか、はかなげな印象のわりに少女の肝はなかなか据わっている。その見た目に油断していっぱい食わされた人々も少なくないのだ。とはいえ、今その行動力を発揮してもらっても仕方がない。
     振り返ったベレスに目で促されて、観念した少女はもうなにもしませんと訴えるように両手を掲げながら、ベレスの背後からおずおずと灰髪の男の側へと顔を出した。
    「なっ……」
     薄く涙の膜が張った目で見上げてくる少女の容貌に、黒髪の男は絶句した。怒りに赤黒く染まっていた顔が一変して、血の気が引いて行っているようだった。言葉もなく瞬きも忘れ、見開いた目で少女を食い入るように見つめて困惑している。
    「……せめてなにか反応しないと。この年頃の子は繊細なんですから」
     はっと我に返った男が、ベレスをねめつけた。
    「どういうことだ貴様……説明しろ」
    「どうもなにも、私の子だよ。傷つけるつもりなら許さない」
    「ふざけるな! そんな言葉で納得できるわけがなかろう!」
     冗談でなくぴりぴりと殺気を放つベレスに、黒髪の男は怒号を返した。ぴょんと文字通り跳ね上がった少女が再びベレスの背後に隠れ、その腰にぎゅっとしがみつく。
    「そう言われても、そうとしか説明のしようがない」
    「実子だそうです。殲滅部隊から姿を消したころに産まれたんですよね?」
    「そうだよ」
     あっさりと頷いたベレスに険しいまなざしを向けた男の顔に、じわじわと嫌悪の色があらわれていった。
    「そうか……かつての男を忘れられず、慰みに容姿の似た男を見つけて股を開いたというわけか」
     明かな侮蔑と嘲笑。わかりやすい挑発だ。乗る必要はない。だが、そうと分かっていてもベレスには受け流すことなど到底できなかった。
    「今の言葉、取り消して」
    「なぜだ。事実だろう。なにをそう怒る」
    「事実ではないからだよ。取り消しなさい」
    「断る。事実を事実と断じて何が悪い」
    「取り消して!」 
     声を荒らげたベレスに、けれど黒髪の男はやかまし気に片目をすがめただけだった。
    「煩い、がなるな。そういえば貴様がそうまで怒りを露わにするのは初めて目にする気がするな。それほどまでに触れられたくないことだったならばもう言うまい。耳が痛いからと声を無視し意にそぐわないからと叩きつぶす、それが貴様らのやり方だからな。せっかく生き残った俺たちの命運もここで尽きることになる――」
     急速に静寂が戻ってきた部屋で、男は片方だけ口端を吊り上げて嗤った。
    「もっとも、武器もなく拘束もされた貴様一人でなにができるか見ものではあるが」
     言うや否や黒髪の男はベレスを払いのけるようにして横に引き倒した。後ろ手に拘束されているために腕が使えず受け身を取れず、したたかに体を床に打ち付けて呻くベレスに縋りつこうとする、先ほどまでその陰に隠れていた少女の腕を黒髪の男は素早くとって引き寄せ、いつでも絞め殺せるようにと首に手をかける。男がわずかでも指先に力を籠めれば、少女は昏倒するだろう。それがわかるだけに出遅れた灰髪の男は身構えたまま、広げた両の手のひらを男に向けて落ち着けと訴えるしかないようだった。
    「や、やだ、離して!」
    「だめ! だめ、その子だけは――!」
     床に倒れながら青ざめ、髪を振り乱して懇願するベレスに、黒髪の男は剣先を向けた。
    「貴様らが殺した民たちも、そう懇願していただろうさ」
     首筋に向けられた冷ややかに見下ろしてくる黒髪の男の視線に、ベレスは色をなくした顔をゆがめた。
    「平和のためだったんだ」
    「はっ、殺しまわっておいてなにが平和だ」
    「戦争だった。彼女は全てを壊しきるまで戦争を終わらせるつもりはなかった。一番穏便に戦争を終わらせるための話し合いをするには、相手を打ちのめして戦意を奪うしかなかったんだ」
    「その話し合いをする機会を設けるために、あいつは貴様に会いに行った」
     ベレスは呻いた。確かに会った。けれどもあの時すでに互いに結論はほとんど決まっていて、互いが相手に譲歩を願っていた。だがうねり蠢く気運の中で、個人の意志を挟み込めるような時期はすでに過ぎ去っていた。残されたのはただただ自分たちが背負う責のみ。それまで過ごした日々、接した人々、環境、託されたもの、それらに報いるためにも、引くわけにはいかなかった。話し合いの場を設けるには、旗頭を折るしかない。実際彼は彼の命と引き換えに、残された国民の生命を救った。
    果たしてそれをこの怒りに染まった男にどう伝えればいいのか、伝わるのか、ベレスは言葉を探しあぐねていた。
    「王と軍師、それほどの立場で意志が挟めないというなら、誰ならできた。貴様の言う女神か? それとも悪魔か? 本当に戦争を終わらせたいと思っていたなら、貴様は命をとしてでも大司教に停戦と話し合いを進言せねばならなかった。そうすれば、あいつも死なずに済んだ」
    「それは……」
     言葉を失ったベレスに、少女を引きずったまま男は一歩詰め寄った。男はわかり切ったことを突き付けただけだ。なのにベレスには言葉を失う程度の覚悟と考えしかなかったということに、怒りが再燃する。
    「貴様のような女のために、あいつは!」
     引きずられながら少女は身をよじったり足をばたつかせたが、首を押さえられていてはろくな抵抗にもならなかった。むしろ首が絞まり、視界が暗く明滅する。しかも相手は歴戦であり、大人と子供の対格差ではなんの妨げにもならなかった。せめて鈍く光る剣先がベレスから反れるようにと、首を掴んでくる手を細い指先で引っかいてはみたが、やはりなんの意味もなさなかった。
     ――悔しい、と少女は泣いた。
     いつでも自分を守ってくれるベレスを、いつかは自分が守れるようになりたいと思っていた。なのになんの役にもたたない。自分にはなんの力もない。ただ守られるだけで、それが途方もなく悔しい。少女は泣きながら、首を絞める手に爪を立てた。もはやそれくらいしかできなかった。
    「ちっ、煩わしいっ」
     男が少女を払いのける。少女はベレスとは反対側の床にたたきつけられる寸前に灰髪の男に受け止められて、幸いにも体を打ち付けることは免れたようだった。
     流れ込んできた酸素にせき込む少女がそれ以外に異常はなさそうなことを確認して、灰髪の男は眉をひそめて黒髪の男に抗議した。
    「今のはやりすぎですよ」
    「黙れ。その阿婆擦れの娘など生かしておく必要などどこにある。そんなに母親といたいなら、この女を殺したらすぐにその娘も冥途に送ってやる」
     打ちひしがれていたベレスがぴくりと反応し、訴える。
    「やめて……その子だけは殺さないで。助けて、お願いだから」
    「煩い」
     激昂して剣を振り上げる黒髪の男に、灰髪の男が冷静に忠告した。
    「殺しちゃだめです、先生には訊くことがあると言ったのはあなたでしょう」
    「はっ、聞くべきことなどもうない。聞くにも値しないとこいつ自らが証明した」
    「君になくても、僕にはあります。だからまだ、殺すことは認められません」
     憎悪と義憤の視線が冷ややかにぶつかり合う。睨みあう両者の足元では、少女の名を呼びながらベレスが芋虫のように身をよじっていた。当然、黒髪の男はそれを見逃すような輩ではない。
    「往生際の悪い」
     男はベレスを蹴り転がし、両手で剣の柄を逆手に握った。だが傭兵として染みついた性か、ベレスは体を丸めてせき込みながら無防備な腹を見せようとはしなかった。ならばと男は呻き丸まった背に狙いを定める。腰部は後ろ手に拘束された腕が邪魔で狙えず、丸まった背は筋肉と肋骨で守られているため斬るには固い。むろんそこを斬ることも突くこともできるだけの切れ味を誇る剣だが、刃こぼれが起きる可能性があった。この憎い女のために愛剣に傷をつけることは気に入らないからそれはしない。あえて肉と骨を斬りつけて痛みと恐怖を植え付けながら死を与えることもできたが、いくら憎い相手とは言え拷問とも呼べるそれを行うことは男の剣士としての矜持が許さなかった。
     ぴたりと据えられた切っ先の先で、ベレスが少女のもとに向かおうと丸まった体を伸ばそうとしていた。緊張した筋肉がゆるみ伸びる。その瞬間に狙いを定めて目を細めた男はふいに、身じろぎするベレスの首元で光るものに気が付いた。それは白い襟飾りと上衣の間で細く輝いて、体の下へと消えていく。
     首飾りであることは容易に察することができた。これから厳寒の冬に向かおうとするこの土地で金属の鎖を付けている無知には噴飯ものだが、実際に笑うほど男は軽妙ではないし、考えるとすれば剣技への影響だ。言うまでもなく支障はない。取るに足らない些細なものだ。だが男はそれが気にかかって仕方がなかった。細く淡い金の光。それがどうしようもなく、脳裏に人影を呼び起こしてしまう。幼い頃からの友。忠誠を誓った、なのに守れなかった今は亡き主君。
    「――あっ」
    「なんだ、これは」
     男は剣先で器用にその鎖を掬い上げ、その先で揺れる光を認めると唸った。最初は金の円環――指輪だと思った。だがよく見ればそれは金製ではなく、透明なガラスのようなもののなかに無数の金色の細い糸が無数に埋め込まれていて、それが光っているのだとわかる。その金の細い糸の正体がなにかも、男は直感的に理解してしまった。
    「……罪を贖うために命だけでなく、奪っていったものも返しに来たか。殊勝な心掛けだな」
     あの時ベレスは口づけた王の首を膝に抱いてなにかをしていた。その場ですぐに返された首を改めてみると金の髪が一部切り取られていて、王の命のみならず髪もひと房奪っていったのかと男は憤怒したものだ。その時の、髪だ。
     男は力任せに鎖を引きちぎって遺髪を取り返した。引きちぎれるまで細い鎖に首を締められていたベレスは咳込みながら、男が手にぶら下げる鎖とその先で揺れる金糸の指輪に手を伸ばす。
    「返して……それは、私のものだ」
    「ばかげたことを。これは貴様が奪っていったもので貴様のものではない」
    「首は、返したでしょう」
    「ああ、髪が一部切り取られた首がな!」
     男は吐き捨てた。
    「それほどまでにやつの一部が欲しかったならば、地にひれ伏して乞えばやつのことだ、髪の一房程度めぐんでやっただろうよ。慈悲を受けた貴様が自刃し死に果てればよかったのだ! 今から俺が貴様を殺してやる。あいつとおなじところへ行けると思うな。地獄の底で貴様が殺し今も苦しみにあえぐ民たちの憎しみと怨嗟に永遠に責め苛まれるがいい!」
    「ま、待ってください!」
    「ええい、先程から邪魔ばかりするな!」
     黒髪の男は灰髪の男を睨みつけた。灰髪の男は困惑しながら、床にへたり込みながらも黒髪の男を睨みつける少女をちらちらと見ながら男に訴える。
    「この子が言うには、その指輪の中身はこの子のお父さんのものだそうです。だとしたらそれは陛下の遺髪ではありませんよ」
    「貴様、そのどこの馬の骨ともわからない娘の言うことを信じるのか。これがあいつのものでないと言い切れるのか」
    「先生は肯定していません。それに君がさっき言ったんじゃないですか。先生は陛下のことを忘れられず、戦後によく似た男性との間に子供を作ったんだろう、て」
    「だとしてもこれはあいつの……ディミトリの遺髪だ」
     食いしばった歯の隙間から絞り出すように吐き出された確信に満ちた言葉に、灰髪の男は返す言葉を失った。続く言葉を求めて、灰髪の男はベレスを振り返る。
    「……そうだよ。それは間違いなくあの子の髪で、私達のお守りだ」
    「認めたか、罪を罪とも思わない恥知らずめ。死して悔いるがいいっ」
     灰髪の男の期待に反して黒髪の男を挑発するように睥睨しながら明かしたベレスに、男は予想に違わず怒りを露わにして剣を振り上げた。
    「はい、そこまで」
     軽妙な声とぱん、と手を叩く音がして、ぴたりと動きを止めた憤怒に顔を真っ赤に染めた黒髪の男の背後の暗がりから、背の高い影がゆらりと姿を現した。特徴的な赤髪闇に馴染むその姿に、ベレスは息を呑んだ。
    「君は……」
    「どうも、お久しぶりです。相変わらずお美しいですねえ、先生」
     垂れ気味の榛色の双眸を弓形に歪ませ、男はベレスに笑みを向ける。
    「本当に、記憶とまるで変わらない……すっかり俺達よりも年下じゃないですか。さすが、女神の愛し子と呼ばれたのも納得ですよ」
    「悪神の申し子の間違いだろうが」
    「お前なあ、女性に対してそういう物言いはよくないぞ」
    「ちっ、与太話に付き合うつもりはない。斬るぞ」
     ベレスと剣先との間に立ちふさがるようにして立った赤髪の男は、「良いわけないだろう」と低く囁いた。
    「先生にはいくつか確認したいことがある。剣を納めるろ。……お前も、ひとつ気にかかることがあるんだろう。だからひと思いに剣を振るえないんじゃないのか」
     榛色の瞳を無言で睨みつけた黒髪の男は、やがて不満気に顔を反らした。
    「ふん、勝手にしろ。ただし」
     男は倒れ込んだままのベレスの足側に回り込むと、赤髪の男の言葉を否定するように容赦なく剣先を振った。
     少女の悲鳴と、腱を断ち切られたベレスの苦痛の声があがった。
    「高名な悪魔といえどこれでしばらくは動けまい。縛っておけ」
     露払いした剣を納めた男が、興味を失ったようにベレスに背を向け部屋を出ていく。あとに残されたのはベレスとベレスに取り縋る少女、少女をなだめようとする灰髪の男と、肩を竦めて黒髪の男を見送った赤髪の男だった。
     赤髪の男はすっかり扉が閉まったのを認めるとやれやれと息を吐き、灰髪の男にベレスに取りすがる少女の治療をするように指示をした。
    「いやっ」
    「大丈夫です、この人は白魔法を使える人です。お母さんをちゃんと治してくれますから、君もこちらで傷がないか確認させてください」
     説得されて少女はしぶしぶベレスから数歩離れた。そんな少女を安心させるように赤髪の男は片目を瞑って見せたが、少女には不審げに眉を顰められて不首尾に終わってしまった。
     なにをしているんだと言わんばかりの灰髪の男の視線に肩をすくめた赤髪の男は、ベレスの足元に回り込み屈む。ぱっくりと割れた赤い傷口からとめどなく血が流れているが、あまりに見慣れすぎたせいかそれに対する感傷はもうなにも浮かんでこない。
    「元気そうでなによりですよ、先生。あいつの分もね」
     ほの暗さを含んだ声で呟きながら、赤髪の男はベレスの傷口に手をかざす。まもなく淡い白色の光の粒子が集まりベレスの傷を癒しはじめたが、いくらも経たないうちに赤髪の 男は手を離してしまった。本当に治療してもらえることに安堵していた少女は、ふっと掻き消えた治癒の光に顔を曇らせ、いぶかし気に赤髪の男の顔を見た。
     表情は重く、はしばみ色の暗い。その視線の先では血を流し、床に倒れ伏したベレスがうわ言のようにかすかな声で呻いていた。
    「話し合いには私が斃れるか、あの子が斃れるかしないと……あの子が誰かの手で殺されるなら、それは私がいい。私が最期の女になりたかった。私も最後はあの子がよかった。だから私たちは、私たちが私たちであるために己を貫くしかなかったんだ……」

    令和4年12月30日
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