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    記憶喪失になっちゃったよくあるディミレス。
    ぷらいべったー(2020-04-23)からお引っ越しとちょっと加筆。最初に書いたのが3年前という衝撃:( ´꒳` ):書き終わるのいつになるんだろうね。

    ##光

    光の人1「ベレスが倒れた……?」
     フォドラの中央ガルグ=マクから、文字通り飛んできた急使が息を切らしてもたらしたその知らせに、ファーガス神聖王国国王ディミトリは愕然とした声を漏らした。
    「はい。何人もの医者に診ていただきましたが、誰もが口をそろえて原因不明と」
    「セテス殿やフレンはなんと言っていた」
    「自然と回復するのを待つしかない、と」
     ディミトリはどさりと椅子に座り込んだ。もう立っていられなかった。
    「そうか――」
     声と息を吐き出す。肺腑が空になるほど息を吐き、背が丸まるに任せてディミトリは腿に肘をつき手で顔を覆った。呼吸すら阻むような重苦しい沈黙が部屋に満ちる。伏せた瞼の裏に浮かぶのは、数節前に最後に目にしたベレスの穏やかな微笑みだ。信仰を預かる大司教の務めを果たすため、ガルグ=マクへと帰っていった人。あと数節と待たずして再びこの王都フェルディアへやってきて、春が来るまでここで過ごすはずだった。凍てつくファーガスの冬を温める、柔らかな光として。
     ディミトリは息を吐いた。
    「ガルグ=マクへ向かう。急ぎ手配しろ」
     是、と短く答える従者の声にディミトリは思考を切り替える。執務等々の公に関してはドゥドゥーが手配する。自分がしなければならないのは――
     翌朝、ディミトリは早々と車上の人となっていた。叶うことなら昨日のうちに出立してしまいたがったがそうもいかず、王印が必要なものはすべて夜明けまでに済ましてきた。今日以降訪れる至急の案件は、どうしてもというものは書類ごと使いを出すと言うことにし、ほかはドゥドゥーとたまたま王都別邸に滞在していたフラリダリウス公に代行と判断を任せてある。事情を知ったフェリクスが、いいから早くいけ、と言ってくれたのは本当にありがたかったと、窓の外を飛ぶように流れる景色を見ながらディミトリは思う。
     本当は急使のようにドラゴンを駆り、空を飛んで一足飛びにガルグ=マクへ向かいたかった。だが悔しいことにディミトリにはそれだけの距離を一息に飛べる技量がなかったし、空の上と言えど必ずしも安全とは言えず、唯一無二のファーガス王がその危険を冒すことは許されなかった。
     もどかしさにじりじりと焼かれるディミトリがその知らせを受け取ったのは、ガルグ=マクの建物が遠いながらも目視できるだけの距離に近づいたころだった。さっと青ざめたディミトリは、馬を走らせろ、と御者に吠えた。傍らの小さな影が首をすくめたのを視界の端に捉えながら空を伺う。すでに陽は傾いて、木立の長い影が無数に地面を這っている。おそらく日没までにガルグ=マク大修道院にたどり着くことはできないだろう。だが裾野に広がる市街地ならかろうじて行ける。市街地のファーガス公館から馬を駆ればいい。きっと止められるが、止まる気などない。一刻も早くベレスのもとへ行きたかった。

     ディミトリがガルグ=マクにたどり着いたのは、誰もが寝静まる夜更けのことだった。知らせが飛んだのかたいまつを掲げた門兵が仲間に合図を送り、内側からくぐり戸が開けられる。ディミトリはすばやく馬を降りると轡をとって門をくぐり、そこで大司教補佐のセテスが待っていたことに驚いて目を見開いた。セテスもディミトリを見て目を見開いていた。
    「連れてきたのか」
    「待てと言い聞かせる時間が惜しかったので。……私が馬を降りるまで起きていたんですよ。轡を取ろうと振り返った時には眠っていましたが。それよりベレスは」
     馬を門兵に預け、セテスとともに足早に歩きながら尋ねる。返ってきたのは渋い声だった。
    「医者と、何らかの術の可能性も考えて魔導士にも診せた。魔道の可能性は極めて低いとのことだ」
    「では」
    「心因性のものだと、医者は診断した」
     ベレスは精神への負担による記憶障害を起こしている。
     急使とセテスの言葉を合わせ、状況がひとつ浮き彫りになる。冷ややかに早くなる鼓動に急かされながらディミトリは確認した。
    「教会のことは覚えているんですね」
    「ああ。我々のことも覚えている。今が何年の何節かも、次に控えている行事がなにかも。だが、――君たちのことは分からないそうだ」
     気を遣ってか一瞬言いよどんでから告げられた言葉に、ディミトリは固く歯を食い締める。
    「君も、君の仲間も。かつての教え子たちの存在も、分からないと言っていた」
    「なぜ!」
     悲痛に叫ぶディミトリの内側の冷静なところでは、さもあらんと声がした。先の戦争では、戦場に出た兵士の誰しもが血で手を汚した。攻め入るため、あるいは守るために、先兵から後詰めを問わず誰もが数えきれないほどの敵に命をさらして殺し殺されてきた。
     それはディミトリも例に漏れず、けれどもおそらく最も手を赤く濃く染めたのは、ベレスだったとおもう。屠った人の数ではない。見知った人を誰よりも多く斬っていた。あえてそうしていたと、戦勝に沸く宴の場の片隅で他でもなく彼女が言ったのだ。
     ――君たちに学友を斬らせるわけにはいかないから。
     酒ではなく花茶を片手に、小さな赤い果実をぷちりぷちりと指先で潰しながら、静かに、囁くように、そう言っていた。
    「くそっ」
     そうして茶に浸した指先から漂う鮮やかな赤色を思い出しながら、ディミトリは口汚く吐き捨てた。
    「ディミトリ、抑えなさい」
     たどり着いた部屋の前でセテスにたしなめられる。ぐっと奥歯を噛んで怒りをこらえて入った部屋には、寝台に横たわるベレスと、ベレスを見守るフレンの姿があった。
    「ディミトリさん……」
     ディミトリを見上げたフレンが沈痛な声を漏らす。ベレスの様子は、という問いかけに、フレンはゆるゆると力なく首を横に振った。
    「お兄さまがお伝えしたと思いますが、聖教会も、ファーガスもご存じでしたわ。旧アドラステア帝国のことも、解散した同盟のことも、戦争のことも、前線に立っていらっしゃったことも、戦争が終わったことも。ただ、なんと申しましょうか……結果だけは覚えていて、過程は忘れていらっしゃるようですの」
    「結果だけ」
    「ええ。帝国が戦争を仕掛けたことも、ファーガスが攻め込まれたことも、持ち直したことも、同盟がファーガスの傘下に加わる形で解散したこともご存じでした。ただ、誰が帝国を指揮していたのか、ファーガスを誰が率いたのか、同盟を導いたのが誰だったのか、ということは分からないそうです。お名前を申し上げてもはかばかしい反応はありませんでしたわ」
    「俺が名を告げても、分からないと言うことか。ベレスにとってはファーガスの王でしかないと言うことか」
    「ディミトリ……」
     気づかわし気なセテスの声がする。それに振り返ることなく、ディミトリはベレスの枕元に立った。気を使ったフレンが立ち上がり椅子を譲ってくれる。腰を下ろして静かに寝息を立てるベレスの頬へと手を当てると、夜気に触れているせいか少々肌がひんやりしている。いささか顔色が悪いが、緩やかに上下する胸の呼吸は一定で穏やかだ。表情も穏やかで苦しげな様子はない。その点だけは、少しだけよかったとディミトリは思った。
    「……我々だけに、していただけますか」
     ベレスを見つめる視界の端に、兄妹が不安げな顔を見合わせる様子が映る。彼らが心配するのはベレスの容態と、己の気性だろう。自分がどれほどベレスに心酔し、依存と呼べるほど愛しているかは彼らも知っているはずだ。そんな自分となにも知らない状態の彼女を一部屋に閉じ込めたらなにをしでかすか……そんな不安を抱くのは己の過去の言動からしても止むをえまい。けれど。
    「お願いします。ベレスを傷つけるようなことは絶対にしないとブレーダッドの名にかけて誓いましょう。ただ今だけは、ともに過ごさせてください」
     再び彼らは顔を見合わせ、やがて頷いた。
    「では、今夜は任せよう。だが君たちも長旅の疲れがあるだろう。あまり思いつめず、必ず休みもとりなさい」
    「わたくし、お布団と羽織れるものをもってまいりますわね」
    「分かっています……ありがとうございます」
     旅装をときフレンが用意してくれた清潔な服に着替えたディミトリは、ベレスの枕元に改めて腰を下ろした。体格の良いディミトリには少し小さな椅子がギシ、ときしむ。静かな夜にその音は大きく響いて、すぐさま弾かれた様に背もたれから離れてから音が鳴らないように慎重に座り直した。
     部屋には静寂が満ちている。聞こえるのはおのれの呼吸と、身じろぎによるかすかな衣擦れ。ときおり窓の外から、フクロウの声が響いていた。
     深いため息とともにディミトリは、静かな寝息を立てて眠るベレスへと視線を向けた。瑞々しい新芽色の髪に輝くような白い肌。柔らかく弧を描く眉に今は閉ざされた瞼の向こうの、実は好奇心が強く感情豊かな翡翠の双眸。すっと通った鼻梁にふっくらと柔らかな頬、つやのある桃色の唇、つんと尖った顎先。白く細い首の先、白い絹の寝衣にくるまれた胸元は、呼吸に合わせて静かに上下している。
     指先をくすぐる温かな呼気にディミトリははっと我に返り、伸ばした手のひらを拳に強く握ってひっこめる。
    「くそっ」
     再び悪態が口を突く。ほかの誰でもなく当時の自分を、今に至るまで彼女の苦しみに気づかなかった自分を痛罵したかった。ベレスはディミトリをはじめとする教え子たちの心身の負担を減らすため、率先して他学級の生徒たちを手にかけた。ディミトリたちにとって学友なら、教師であったベレスにとっては教え子だったというのに。
     それは当時もわかっていたはずなのに、ディミトリは知己を斬らずに済んだことにすさんだ心のどこかでほっとしていた。避けられない道だと諦めてはいても、できる限り避けたかった。その甘さを、ベレスはたった一人で引き受けていた。刈り取った命の重みを、たった一人で背負っていたのだ。
    「……どうして言ってくれなかった」
     ディミトリはベレスの手を握って自分の額に押し付けた。
     すっぽりとディミトリの手のひらに収まる、小さな手だ。いつだって自分に差し伸べてくれて、支えてくれた優しい手。
     いったいどれほどの重さだったのだろう。戦争を終えてすでに数年経っている。ディミトリが見過ごしていた重荷の存在をちらとも見せないまま、ベレスはなにを思いながら背負い続けていたのだろうか。
    「訊いたところで、お前は答えなかっただろうな……」
     気づかなかった自分自身にディミトリは憤った。あれだけ親身に寄り添ってくれたというのに。戦いがひとつ終わるたび、踏み荒らされた戦場に向けてひっそりと祈りをささげていたのを知っていたというのに。
    「……話を聞く余裕が、俺にはないと思っていたか?」
     あの頃、ディミトリはただ前に進むことだけしか考えていなかった。立ち止まったベレスがたった一人でなにを思っていたかはわからない。けれどもひどくつらい重荷であったことは事実だ。だからベレスの無意識は一向に軽くならない負担を、はじめから記憶を失うことで彼女を苦しみから解き放ったのだ。
    「それでもこれほど思い詰める前に、話してほしかった。背負うものを分かち合えないとお前が思っていたとしても、お前を支えようという俺の気持ちは変わらないのに」
     そこまで追い詰めた自分に、果たしてベレスに触れる資格はあるのだろうか。
     ――いや、ない。
     あろうはずがない。
     鋭利な刃のような胸のうちからの言葉にひゅっと息をのんだディミトリは、慌ててベレスの手を掛布に収めて手放した。小さくつるりときれいな手とは反対に、自分の手には傷跡がそこかしこに残っている。生きるため、守るために負った傷だ。それを恥じるつもりは毛頭ない。けれど。
    (……醜い、な)
     ベレスに触れるにはあまりに醜い手だと思った。生きるよりも守るよりもなによりも、復讐を為すために誰彼構わず槍で貫き命を刈り取った獣の手。かぶった血をどれだけ洗い流したって、皮膚を通り肉に染みこんだそれを拭い去ることはできないというのに。よどんだ血と肉の腐った臭いが漂った気がして、ディミトリは顔を背けた。
     その矢先、ふいに衣擦れの音を聞いて、ディミトリは弾かれたように顔を上げた。
     清潔な寝具に包まれたベレスが目を覚ましていた。首を少しかたむけ、ぼんやりと瞬きを繰り返しながらディミトリを見つめている。
    ぱちり、ぱちり。
    懐かしい翡翠色があらわれては消えて、やがて長い睫毛が大きく開く。枕もとのディミトリの姿をようやく認めたようだった。その瞬間、ディミトリの耳の奥で、ディミトリの名を呼ぶ弾むような声がした。
    「君は……?」
     けれど実際に聞こえたのは緊張と警戒に覆われた硬く平坦な声だった。その声音、それ以上にかけられた短い言葉に、刃で斬りつけられたようにディミトリの胸はひどく傷んだ。
    「新しい、衛士の人……?」
    「っ、俺はっ――」
     本当に記憶から消え去っているのか。
     突きつけられた現実に、ディミトリは言葉を失った。心のどこかでは、顔を合わせさえすれば思い出してくれると期待していた。ほかのなにを忘れても、かつての教え子であり、強い絆で繋がれ公私ともに支え合う夫である自分のことだけは思い出してくれると、そう信じてすらいたのだ。
     けれども事実は変わらなかった。根拠のない自信を打ち砕かれ、衝撃と胸の痛みになんと答えるべきかディミトリが言いよどんでいる間に、ベレスが乾いた咳をした。そういえば誰何した声もずいぶん乾いてひび割れていたことを思い出して、ディミトリは慌てて水差しを傾け、小ぶりな玻璃の器を差しだした。
     けれどもベレスは首を横に振る。
    「体が冷えるから。気持ちだけもらうよ」
     透明な器が揺れて、波紋が広がる。
     ありがとうと囁くベレスのそれが方便であることに気づかないほど、ディミトリは愚かではなかった。夜の誰もいないはずの寝室に見知らぬ者がいる。それが口に含むものを勧めてくる。怪しいことこの上なく、警戒しないほうがおかしいというものだろう。
     そう分かっていてもベレスのことが心配で、ディミトリは未練がましく言い募った。
    「……毒などは入っていない。ただの水だ」
    「そういうことを気にしているわけではないんだけど……もう、下がっていいよ」
     こわばった笑みと声はやはりひび割れていた。
    「だが」
     水が注がれた玻璃の器を手にしたままちっとも引こうとしないディミトリに、ベレスはそっと息を吐いた。
    「……たしかに執務時間中に私室に入ることは許可しているけれど、今は夜。しかもここは寝室だ。私は寝室に他者がいることは好まない。警護なら、扉の外でしてほしい」
     ぴしゃりと跳ねのけられて、ディミトリは肩を落とした。やはりベレスの中にディミトリはいないのだ。新任の衛兵かなにかに諭すように語られた言葉が胸に突き刺さる。
     大きな体躯の男がしおしおと体を丸める様子を哀れに思ったのか、ベレスが声音をやわらげて言った。
    「……君が私を案じてくれているのはうれしく思う。けれど私的な空間に入らないでほしい。心配させたくないんだ――?」
     やんわりと断りを入れていたベレスは、最後の方には言いながら不思議そうに首をかしげていた。
    「ベレス……?」
    「誰を心配させたくないの……? 私室に入ることは許してる、そんな人はここに何人もいる。でも、笑って、仕方がないって言って、本当は嫌がってる……あれは――」
     呟くベレスの声にだんだんと困惑が混じり始めていた。目眩をこらえるように額に手を当てて伏せた顔がみるみる青ざめていく。
     ここにはいない、と呟きベレスは額の生え際の毛をくしゃりと握りしめた。そのまま掻きむしりそうな勢いに、ディミトリはベレスを止めようと思わず身を乗り出す。刹那、甲高い音を立ててディミトリの手の中で玻璃の器が割れ、水と破片がベレスの寝具へと飛び散った。
    「っ、すまない!」
     寝具にできた水たまりにパタパタと雫が落ちる。透明なばかりでなく、赤い色の混じった雫にベレスは驚いて目を見開いて、割れた破片を握りしめる固い拳に手を伸ばした。
    「いいから、ゆっくり手を開いて」
     血の滴るこわばった拳の指を一本ずつほどかれていく。ディミトリは身を固くしたまま、されるがままに掌を開いていった。現れたのは、玻璃の破片で切り裂かれた傷だらけの手のひらだ。今も血がしたたり落ちて、清潔な真っ白の寝具を汚していく。触れるベレスの指先を、赤く汚していく。
     ディミトリは我に返って、今更ながら手をひっこめた。
    「すまない、今なにか拭くものを――」
    「そんなものより君が先だよ。ほら、手を出して」
     ベレスに強引に手を引っ張りだされる。それから血で汚れるのもいとわずにベレスはディミトリの手のひらから丁寧に玻璃の破片を取り除くと、傷口に向けてそっと手をかざした。傷ついた手のひらに繊細な光が降り注ぐ。じんわりと伝わる温もりが心地よい。
    「治癒魔法は得意なんだ」
    「そう、か――」
    「うん。昔は使うことすらできなかったんだけれどね。率先して傷を作る子につらい思いをしてほしくなくて、必死になって習得したんだ……?」
     ドキリと心臓を跳ねさすディミトリの気持ちを知る由もなく、ベレスは言いながらまた怪訝そうに眉をひそめた。自ら発した言葉に混乱しているのだろう。考えることに意識が向けられたためか治癒魔法の光は気づけば消えており、半端に癒えた手のひらは、じくじくとむず痒い痛みをディミトリに訴えてくる。
     ディミトリの記憶にある限り、戦いのたびにベレスを困らすほど傷をつくっていたのはほかならぬディミトリ自身だった。
     ディミトリはその身分のため、衛生兵だからといって誰にでも無防備に傷をさらせるわけではなかったから、治療を任せる相手はどうしても限られていた。にもかかわらず傷や痛みには人一倍強い自覚があったものだから、自分の治療は後回しにして先に戦後処理にあたり、そのたびに自分を探しに来たベレスが呆れたように眉尻を下げてほんのり笑って治療をしてくれたものだ。傷薬や包帯でなされていたそれは、いつしか温かな光を放つ治癒魔法にとって代わっていたものだから、驚いて聞いたことがある。いつの間に覚えたんだ、と。
     ――我慢強くて手のかかる子がいてね。何度言っても傷を隠して治療をさせてくれないから、早く治せるように勉強したんだよ。まったく、痛いだろうに、どうしてああも頑ななんだろう。
     小言すらも懐かしくて、ディミトリは重ねられたベレスの手のひらを握りかえして甲を額に押し当てていた。
     小さくても温かい手だ。幾度となく払いのけても、諦めることなく差し伸べてくれたこの手が、深い闇の底にいた自分を光の下へと引き上げてくれた。救ってくれた。
    (だが、俺が救われた分、お前が闇へと囚われた――)
     ディミトリが囚われていた闇ではないけれど、ベレスを損なうそれを闇と呼ばずになんと言えようか。そしてそこに追いやったのは、ディミトリなのだ。
     ――この手を、放すべきなのだろう。
     ベレスを飲み込んだ哀しみの源流がディミトリならば、この手を放してベレスを解き放つべきだった。ディミトリという軛から離れ、自由を得たなら。ベレスがしたこと、背負ったものは消えないけれど、ディミトリという重荷はひとつ消えるだろう。ベレスを苛むもののひとつは消える。過去から目をそらすこともせずに済む。きっと記憶の一部を失った今より悪くなることはないだろう。
     けれど――
    (手を離すなんて、できるものか)
     エゴとも傲慢なわがままとも分かっていたけれど、それだけはどうしてもしたくない。もうこの手に縋らなければいけないほど弱いつもりはないけれど、いつだってこの手に触れ、寄り添い、導き導かれ、支えあいたい。そう願いながら、あの日女神の塔を上ったのだ。ベレスは願いを叶えてくれたというのに、はるか彼方で見ているだけの女神はその意思を無視して、彼女を奪おうとでも言うのか。
     ディミトリのなかにふつふつと怒りのようなものが湧いてきた。
     ベレスを追い詰めたのはディミトリなのだろう。けれど、だからと言って記憶を奪い去ってどうする。忘れたところで事実は消えない。ベレスが背負ったそれを罪と呼ぶなら、罪ごとベレスを背負う責任がディミトリにはあるのではなかろうか。重くても苦しくても前へ進み続けることが、罪を背負ったものの責任ではないだろうか――
     ふいにそわりとうなじの産毛が逆立った気がして、ディミトリははっと目を見開いた。それがそっと毛先を揺らされたからだと分かったのは、今度はそっと手ぐしで髪の先を梳かれたからだ。驚いて顔を上げれば、ベレスがぱちぱちと目を瞬かせ、こてんと首を傾けた。
    「ああ、ごめん。ええと、髪が絡まっているのが見えたから気になってしまって、つい。嫌だったね」
    「そんなことはないが……」
     穏やかに過ごしていた時のことが脳裏によぎる。柔らかな朝の光の中、微笑みながら髪を梳いてくれた。眩しいほどの光景。けれどベレスの記憶の中にその光景はないのだ。なぜならその時をともに過ごしたのは、ディミトリなのだから。
     ディミトリは震える唇を噛み、声までも震えないよう心を鎮める。きゅうと締まった喉元が苦しいほどに痛かった。
    「……あまり気軽に、知らない相手というなら尚の事、こういうことはしない方がいい」
    「そうだね。普通こんなことはしないのだけれど、なぜなんだろうね」
     苦笑を浮かべる翡翠色の双眸が、ふっと遠くを見た。
    「……そう、こんなことしないのに、どうして私は……」
     ベレスの視線が自らの手のひらに落ちる。手入れが行き届いたきめ細かな肌の手。けれど指は節が太い。手のひらの指の付け根は、右の中指第一関節の筆だこがかわいく思えるほど、皮膚が固く厚くなっている。
     ベレスは覚えている。
     奇妙な縁でこのガルグ=マクにやってくるまでは、傭兵団の頭を務める父とともに各地を転々としていたことを。もちろんベレスも一傭兵として組織に所属し剣を振るい、生計を立てていた。無数の命を刈り取り、フォドラを飲み込んだ戦争でも平和を勝ち取る一助となったこの手。灰色の悪魔と呼ばれ、差し出した手に忌まわし気な目を言葉を向けられたことは数えきれない。
     けれど。
     この手を取ってくれた人がいた気がする。おずおずと、大切そうに包んでくれた人がいた気がする。両手で縋りつく手もあった。どの手もあたたかく大きく、遠慮深げなのにしっかりと握って離したがらない。そんな人がいた気がするのに、それが誰だか思い出そうとすると、面影は淡い光になって溶けていってしまい分からなくなる。
     ベレスはもどかしさにため息を吐いた。こめかみがずきんずきんと鈍く脈打ち痛い。頭の芯も重く、考えようとしても思考が巡らない。
    「悪いけれど、君はもう下がっていいよ」
     はっと息を呑む音が室内に響く。まるで玻璃が割れるような繊細さを孕んだ響きに、ベレスの胸はなぜだかざわついた。そんなことをする必要などないのに、言い訳のように言葉を紡いでしまう。
    「先ほども言ったけれど、ここは私室の奥部屋だ。無闇に踏み込まれたくないんだ。……そういえば、君はどうやってここまで入ったの」
    「それは、セテス殿に許可を頂いて」
    「セテスが?」
     信頼できる名前を上げられて思わず驚いた様子を見せたベレスは、少し考えてから「訊きたいのだけれど」と見慣れぬ男を見上げた。
    「私は君を知らないのだけれど、今も警戒しているのだけれど、君は私を知っているんだね?」
    「ああ、そうだ」
     強くうなずいたディミトリに、ベレスは眉をひそめながら続ける。
    「君と私が知人であるとセテスもそれを知っていて、こんな夜更けにも関わらず君を部屋に通した」
    「それは……すまない、急いで馬を走らせてようやく先刻ついたばかりなんだ。どうしても少しでも早く、お前の様子を見たくて」
    「だからといって、朝まで待たせることなくこんな夜更けに、しかも従者に起こさせずに直接客人を部屋に通すなんて妙な話だね」
     ベレスは細く息を吐く。頭の中がぐらぐらと揺れている。
    「直接部屋に入れても問題ないと判断できるほど君はセテスに人となりを知られている。身分も確かということなんだろうか。……もしかして君は医者なのかな。確かに最近めまいが多いと言ったけれど、早馬を飛ばしてくるほど実は差し迫った状況なのかな」
    「いや、医者ではない……」
     交わす会話にじわじわと期待が沸いてきていたディミトリの心が、ベレスの言葉にみるみる冷えていく。
    「……そう」
     ベレスがため息とともに首を横に振った。頭の中がゆうらゆうらと重く揺れる。限界だ。
    「君が何者かはわからないけれど、遠路はるばる来てくれえありがとう。でも申し訳ないのだけれど、とても疲れているんだ……話があるなら、また明日にしてほしい……」
     言うやいなや、ベレスの身体はぐらりと大きく前に傾いた。そのままぐにゃりと倒れそうになるのを慌ててディミトリは手を伸ばして支え、身体に障らないよう慎重に背を支えながらベレスを寝台に横たえさせる。ほっと弱弱しく安堵の息を吐くベレスの姿に、ィミトリは頷くしかなかった。
    「すまない。体調がすぐれないと聞いて急いできたというのに無理をさせてしまった。今夜は休んでくれ。話はまた明日に」
    「うん……申し訳ないね……」
     鉛のように重い頭の先から足の指先まで、身体が溶けていくような感覚を覚えながらベレスは詫びた。そのまま閉じてしまいそうな瞼をなんとか持ち上げて男を見やり、身体を支えてくれた手に、生乾きの傷が見えてベレスはようやく思い出した。感覚の薄い指先が、焦燥感のようなものでぴくりと疼く。
    「ああ……、手の傷も癒さないと……」
     はっとした風にディミトリは傷ついた右手を左手で握って隠しながら、気にするなと首を横に振った。
    「けれど……」
    「この程度怪我のうちには入らない。眠りを邪魔して悪かった。どうか休んでくれ」
    「でも、……」
     掛布の下から出たベレスの手が重たげに揺れながらディミトリに伸びる。とてもそんな気力はないけれど、それでもそうしなければいけないと奇妙な衝動がベレスを動かしていた。
    「ならば代わりにこうして」
     ディミトリが、掬い上げるようにしてベレスの手を恭しく両手で握る。手のひらがすっぽりと包まれてまるで見えなくなったのがこんな時なのにおかしく、ベレスはふふ、と笑った。実際は弱弱しい咳のように胸の奥で肺腑が震えて、かすかに唇と呼気が揺れて、今にも瞼がとじそうな目元がわずかに緩んだ程度だったけれども。
     彼は、強張っていた表情が柔らかな笑みを浮かべた。
    「手を握って、お前が眠るのを見守らせてくれ」
    「……けれど……」
    「お前を決して害したりしないと誓う。大丈夫だから、今は眠ってくれベレス」
     ディミトリは静かに囁いた。一呼吸のちにはベレスの目はすでに閉じていて、どこか緊張にこわばっていた身体から力が抜けていくのが見て取れる。穏やかに繰り返される寝息と寝顔を見ながら、ディミトリは両手で握ったベレスの手に額を押し当てて繰り返し繰り返し呟いた。
    「大丈夫だ。大丈夫だから」
     なんの根拠もない。気休めにもならない。そう分かっていても、そうしなければ叫びだしてしまいそうで堪らなくて、ディミトリはひとり祈り続けた。

     * * *

     ベレスは自分をよく知っているであろう、けれどもベレス自身は知らない男に不本意ながらも見守れて瞼を閉じた。ふんわりとした枕に頭を預けふかふかの寝具に包まれて、どっと眠気が押し寄せてくる。つないだ手から伝わる熱いほどの温もりが、眠りに落ちきる手前で現実にわずかに意識を繋ぎ止めていた。
    (……こんな状態じゃ、治癒魔法もかけられないのに)
     そうは思うものの、男の願いを拒むのもどういうわけか憚られ、振り払うこともできずにこうして手を重ねたまま眠りにつこうとしている。白魔法で傷口を覆うべきなのに、実際には男の手に自分の手がすっぽりくるまれている状態だ。……やはりこの手は、朧な記憶に重なる。
     瞼に、目を閉じる間際に見た男の顔が浮かんでくる。さらさらの金の髪、宝玉のような青い隻眼、白い肌。意志の強そうな凛々しいはずの眉をへにょりと下げて、細めた眦も下げて、柔らかく笑ったその顔。そして耳奥でよみがえる、「大丈夫だから」と囁かれたかすれ声。
     ――泣かないで。
     深い水底から湧き上がる水泡のように、暗闇に光が射すように、唐突にその思いがベレスの胸に押し寄せてきて、泥濘のなかでふわりと意識が湧き上がる。
     この人を泣かせてはいけない。悲しませてはいけない。そうしたらきっと自分も途方もなく悲しくなる。きっと泣いてしまう。だから大丈夫だよと言って、この人を安心させてあげなくては。
     使命感のような警鐘が胸に頭に鳴り響く。けれども口を開こうにも頭と体が切り離されたようで動かず、重ねた手の指先も重くてぴくりとも動かせない。ただただ彼から包み込まれる温もりが伝わってくるだけだ。一度閉ざした瞼もやっぱり開かなくて、それどころか意識はするすると深い眠りの底へと落ちていく。
    (……この人のことは、知らない。けれど、泣いているような気がして)
     だから思わず、手が伸びていた。
     ぶつり、と意識が途切れる音を、ベレスは頭の中で聞いた。闇に闇を重ねたような漆黒が押し寄せてくる。かすかに感じていた光が遠く消えていく。深い闇の底に沈み込みながら、幻のように遠ざかる光の一欠けらに気だるい手を伸ばした。
     ――でも、どこかで会ったことがある気がするんだ。


    令和5年3月29日
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