「今日は俺の誕生日だった?」「私の恋人に何かご用でしょうか」
そう言って謝憐は花城を自分の側へと引き寄せた。
今日の殿下はどうしたというのか、照れの一つもなく堂々と花城を自分に寄り添わせる。
日頃、花城の手が謝憐の腰に回ることはあっても逆は殆ど無いが、太子殿下の白い手はそっと自分よりも太い腰に回っていた。
彼らは多くの人にとって一概に言いにくい関係だ。
時に慈悲深い武神と敬虔な信徒として、時には上天庭の神官と絶境鬼王として、時にはまるで老公と娘子としてそこにある。
本日の太子殿下はまるで鬼王として鬼市で伴侶を連れ添って歩くときの花城のようだったのである。
しかし、それを知る者はこの場に一人として居なかった。
人間界の旅行先である。二人が連れ立って海浜公園の白いタイル張りの遊歩道を歩いていると、謝憐は散歩中のゴールデンレトリバーに思いっきり飛び掛かられた。
これはよくあることで、生まれた時から動物にこれでもかというほどに好かれる太子殿下である。
押し倒してベロベロに顔を撫める犬を花城は引き剥がし、大笑いしている謝憐の顔を拭く。謝る飼い主に笑って手を降る謝憐に、花城は洗い流したいだろうと、近くにあった洗い場を案内した。
謝憐が顔を洗っている間、花城は近くのワゴン販売で氷水につけられた飲み物売りを買いに行った。
それで謝憐が花城のほうへ顔を向ければ、彼は若い女性二人に声をかけられて居たのである。
花城は女性たちに興味を示さずに、店主に代金を支払い、冷たいガラス瓶を2本指に挟んで持っていた。
彼は謝憐のほうを見ると笑い、軽くその瓶を一度揺らす。
その笑顔に彼を見て居た女性たちが虜になったのがわかった。
気づけば、謝憐はさっと彼の元へ駆け寄り、初めの言葉を、牽制と自信に満ちて言っていた。
女性たちは何故か謝憐と花城の並び立つ姿を見て、キャーッ!ときゃらきゃらした叫び声をあげて、一瞬で退散してしまった。何故か笑顔満面である。謝憐はポカンとしてしまったが、花城もまた謝憐を見つめてキョトンと目を丸くしていた。二人は顔を見合わせて、ぷっと笑い出した。
「哥哥、髪も洗った?とても濡れている」
「あはは。だって暑くて……」
突き抜ける青空には、カモメが風に乗って浮かび上がる。
潮風が二人のシャツを煽る。謝憐の昔に比べて現代風に短くなった髪や肌についた水滴が散って、光の粒になって輝いた。
風と陽の光が彼の柔らかな絹糸のような髪を透かして、乳白色の相貌に縁がオレンジがかった暖色の影を細やかに写す。
穏やかな瞳の中で小さなプリズムが踊っている。
今日は暑いから、彼の肌はよりいっそう潤って太陽よりよほど目に眩しい……。
「三郎?」
首を傾げた謝憐に花城は持っていた冷たい瓶を差し出した。
ゴク、と喉を鳴らしアップルサイダーのしゅわしゅわとした微炭酸を二人は味わった。
「昼食を取ったら部屋に戻って、昼寝でもしない?今晩は長いと思うから」
「いいね、天庭に顔を出すのは明日の日中で良いみたいだから夜までゆっくりしよう」
「今年は去年とは趣向を変えた催事を用意してる」
謝憐は「嬉しいな。楽しみだ」と朗らかに笑った。
今日は謝憐の誕生日だ。
***
朝早くから行動して居たので、午後2時にはホテルに戻って、よくよく空調の効いた部屋の広いベッドで二人は昼寝をした。
前夜は日付が変わるまで花城と睦み合って、時計の針が頂点を越えてすぐに祝いの言葉を贈られたものだし、今夜は宴会だからだ。
オーシャンフロントの客室であるので、ベッドから体を上げれば眼前に広がる大きな窓の向こうのシアンの大海原が一望できる。船がそこにペインティングナイフの刃で引いたような白波を立てている。
謝憐が目を覚ますと、花城はそのバルコニーにイーゼルを置いて、本当に絵を描いていた。
違うのは、その眼前に広がる海ではなく、午前に歩いた遊歩道と満面の笑みの謝憐がそこに描かれていることだった。髪と肌についた水滴の一滴一滴にこだわっている。
正面の海と空は、青緑の海と赤紫の空が強烈な太陽の白い光によって天地の境界を曖昧にされ、一体となっていた。境目など無いようだ。光の波長によって異なる色に変じるアレキサンドライトという石があるが、その石が発する色合いに非常によく似て居た。
謝憐のイメージでは夕焼けとは橙色であり、水平線は「両断」の象徴のようなものだった。だが、この街の夕焼けは青緑の海と赤紫が融合し、調和していた。
「三郎、見て」
バルコニーに謝憐が現れたことにも気づかないほど没入をしていた花城も、声には引き上げられる。
彼もまた目の前の絶景に「綺麗だ」と嘆息した。
「君という人は……こんなにも美しい光景が目の間に広がっていたのに今まで気が付かないで昼間の私を描いてたの」
くす、と花城は笑う。
「この光景を背景にもう一枚、貴方を描きたい気分だ」
言って、目の前の光景から視線を外し、花城は真珠の恋人を見やった。
そして彼は持っていた筆を、思わず取り落とした。
太子殿下が膝をついていたのだ。
これに、真っ先に彼がしたのは太子殿下の身体の心配であった。「殿下!」と声を上げながら、彼も咄嗟に膝をつこうとしてーー。
謝憐が顔を上げる。太子殿下が差し出していたのは小さな箱であった。
その中にあったのは、指輪だった。
ラウンドブリリアントカットされた大きな光の石が、6つ爪に支えられて指輪の中央に鎮座している。
「私と結婚して欲しい」
それは片膝をついて指輪を差し出す、プロポーズだった。王道のダイヤの指輪。異国の地においての結婚の申し込みの流儀。
現代では、このプロポーズが流行っているのだ。全世界的に。主流と言っても良い。伴侶となる人に片膝をつき、この世で最も硬い透き通った輝石の指輪を差し出すことが……。
花城が謝憐からの求婚を受けることは何もこれが初めてではない。当然、鬼王からもこの数百年間何度も太子へ求婚している。
でありながら、鬼王は硬直してすぐに返事を返せない……という失態を演じた。
彼はまっすぐに自分を見据えてくる恋人の瞳から視線を外し、ダイヤを見つめ、そしてバルコニーの床板につかれた太子殿下の膝を見つめた。
謝憐はいつも彼が待ってくれるように多くの時間を待った。だが、いつまでも恋人の視線は彷徨っている。
なので、もう一度告白した。言葉を変えて隻眼の恋人へ願った。
「私と結婚してください」
目の焦点があってなかった花城が、夢から覚めたようにはっとして返事をする。シンプルにただ一言、「はい」と。
謝憐は破顔一笑した。どこかほっとしたようでもある。断られるわけないと、もう今の彼は解っている。でも、あまりにも黙っている時間が長かったものだから。
左手薬指にその指輪をつけようとすると、花城はばっとその手を振り払った。これには目をぱちくりさせた謝憐である。
「いや、手が……私、汚れているので。殿下は立ってください」
彼は置いてあったタオルで懸命に絵の具でベタベタの手を拭っている。花城はしつこく手を拭き、さらには背をむけて海を見ながら手を拭いた。
その姿に謝憐は「婚約指輪を贈るのも奇妙かもしれないね」となんとなく言ってみる。
謝憐は笑いながらも恥ずかしげなく、「もう私たちは結婚しているのだし」と続けた。
花城がこれにグッとタオルを握りしめたことに彼は気が付かない。
「そんなことはない。死ぬほど嬉しいです」
そして花城が振り返って見せた顔は悪戯っ子の笑みであった。いつもの、野生的でありながら品の良い笑みだ。
「お願いします」
口元を上げ、嬉しそうに彼は左手を差し出す。謝憐は今度こそその手を取る。彼は謝憐の旋毛に話しかけた。
「第2関節まで指輪を一気に通すことができれば、結婚生活では新郎が主導権を握れるっていう言い伝えがあるらしいよ」
「そうなの?やってみようかな。いつも私は悪戯好きな妃に主導権を握られているからなぁ」
謝憐は指輪をそっと花城の薬指につけた。第2関節まで指輪はするりと入っていき、花城は笑った。
「いつも俺のほうが貴方に主導権を握られているのだから、こうなるのも必然だ」
「ええ?」
「ありがとうございます殿下、そろそろ立ち上がって……」
「哥哥って呼んでよ」
「哥哥。そろそろ立たない?」
「そんなに私が膝をついて、自分が立っているのが困るかい?」
謝憐が言えば、花城は眉を下げた。立ち上がって向き合った謝憐に花城は「どうして今日?貴方の誕生日なのに。これじゃあ俺がもらってる」と言った。
「今プロポーズしたのは……真剣な顔で私の絵を描いてくれている君があまりに美しくて、感極まってしまったんだ」
「………」
「この旅行でずっと渡そうと思ってたんだ。実はそこの教会も借りてる。一緒に行って欲しいと思ってるけど、まだ時間はあるかな」
「……もちろん。ふふ、でも俺たちとは宗教が全然違うよ?」
「構うもんか。教会で式を挙げても、宗教の違う人間なんていくらでもいるよ。私がやりたいんだ」
「あははははは」
「それに君の信仰はもうよく知っている」
「ふ、それは嬉しいです。自分の全てをかけて貴方に示して来たから」
「………ふふ。実はこんなものを用意してある!」
「え?」
部屋の中に入って行った謝憐は真っ白なタキシードを取り出した。二着ある。花城はクローゼットの中に袋がけされた白いスーツがあるとは思ってたが、謝憐のフォーマルスーツと思って触れずにいた。それを出して来たようだった。
この流れではウェディングドレスが用意されてるのではと花城はちょっとドキドキして、色々と思索を回らすところであった。
紅蓋頭はもうお互い千回は被ってきたが、こういった趣向はまた珍しい。
「じゃあ結婚指輪は俺に贈らせて?最上級のものを用意するよ」
「ふふふ、実はそれももう用意してある!……それにもう君にはずっと前にこの上ないものを貰っているよ」
そう言って、謝憐は自身のシャツの上からボタンを3つ外し、チェーンを指先に絡めるように指輪を引き出して見せた。花城の薬指に光る金剛石に勝るとも劣らない煌めきが、太子の心臓の位置にいつも座しているのだ。
「………やっぱり今日って俺の誕生日だった?」
「いいや。私の誕生日だよ。私が今日という日を最高の1日にしたかったんだ。そのために必要なんだよこれは!」
タキシードをベッドの上に広げながら謝憐は言った。
「実は鉱山での採掘中に落盤事故があったんだ。でも、私も君と随分と長い間過ごして、現場の男たちだけではなく、自分のことも咄嗟に庇えた……君が私を変えてくれたんだ」
「殿下……。……?、鉱山に行ったんですか」
「君も私も生まれて、……人として出会ったんだ。だからこそ、私の出生の日に感謝を伝えたくて。祝ってもらうことを当たり前にするのではなく、自分でも自分の生まれた日を素晴らしくしたいと思った。誰かに祝ってもらえる喜びと何乗にもなる。鉱山で働く人々と顔を突き合わせてよくよく感じたことだ」
花城は鉱山?とまた思ったが、謝憐の気持ちが何よりも嬉しかった。
「鉱山で採掘している最中……?まさかこのダイヤ……」
「流石に研磨や加工はできなかったんだけど、可能な限り原料は自分で入手したくて」
「……いったい…」
「まあそれはいいじゃないか。君に喜んで欲しかったんだ」
色々な意味で花城は、本当にこの人はどれほど時が経とうとも自分の予想を遥かに超える方と思い知った。ロシアとナミビアの世界の歩き方と世界3大カッターズブランドの本が謝憐の書斎の本棚に並んでいることは把握して居たが、まさかこんな……。
花城は左手薬指に光る指輪をじっと見つめた。どれほど苦労したのだろうか。いや、そもそも何時?どうやって?二人でずっといたのに…。
これから教会に行き、二人は鬼王と神官であることを誰も知らない土地で、二人っきりの結婚式を挙げる。
そして日が暮れきった夜には、誰もが二人を知る鬼市で例年同様盛大な誕生祭が開かれる。巨大なケーキに蝋燭が刺さり過ぎて天高い火柱をあげているだろう。
「この格好で鬼市に戻っちゃおっか!」
「いいね。俺もこの指輪を見せつけたい」
花城のタキシードは銀の装飾や蝶の紋様がある。
花城という男は、精巧にデザインされたジュエリーが人に置き換えられたような男であった。そしてその絶世の宝飾品はとある太子殿下のためのものだった。
「君は私の最高のプレゼントだ!」
終。