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    男相の霊文に裴茗が意中の女子を奪われる話。

    ###三毒瘤

    男相の霊文に裴茗が意中の女子を奪われる話。一世を風靡する傾城の舞姫が居るという。
    纒足の舞姫だ。纒足で美しい舞を披露する。

    さて、昨今の市井の話種は、その舞姫を羽振りのよい色男が散々口説いていることだ。
    その舞姫があとほんの僅か……そよ風ほどの一押しでその色男に靡きそう、という時になって彼女の態度は翻った。色男は横から現れた他の男に意中の女の心を掻っ攫われたというわけだ。これがなかなか痛快なこと。

    明姫から輝石の微笑みを向けられる相手となったのは、ある公子であった。
    温かい闇のような包容力の中に、青く燃ゆる炎のような野心を灯す。
    知性と品格を兼ね備えた、書生である。

    豊かな財産と秀麗な美しさをその書生は持っていた。
    書生は舞姫が望むものをよく理解していた。美辞麗句を弄して舞姫を籠絡したのは色男と同じであったが、書生は非常に機知に富んでいた。

    舞姫はとても頭がよかったけれど、舞姫はつまりは舞妓に過ぎず、その本質はどれほど綺麗な言葉で並べたてても妓女である。決める権利はおろか、意見する権利もない。
    けれどこの書生は彼女の言葉を真摯に受け止め、彼女を尊重し、また時には相談すらした。これは彼女の心をたいへんに満たすことだった。

    それに書生は贈り物一つとっても、その辺りの男とは違った。

    女に紅一つ贈るにしても、彼女の好みを把握し、彼女に似合う色を贈った。
    実はこれは色男も彼女に高級な紅を贈ったことがある。朱赤のつるりとした滑らかな紅だ。
    しかし、これは彼女にはあまり似合わなかった。彼女の肌は月夜の晩には精白に青を透かしたような透明感を放つのだ。この肌に朱は合わなかった。
    書生は美女の日光を忌避して作り上げた陶器の肌に映えるよう暗色の紅を贈った。
    濃く引けば黒にすら見えるがほんの少し角度を変えれば深紅に見えなくも無いという感じの……。これがこの美女に映えること。並み男では紅は赤と思うものだ。

    書生はあまり今まで恵まれていなかったようで、多くの苦労をしてきたようだ。しかし、それをくどくどと言うことはせず、微かな薄幸さが影を落としていた。
    影のある美青年というのは何時の世も女性の心を大いに震わす。
    かくして青年は、淑女の心を射止めたのである……。


    ***


    色男こと裴茗は天井を見上げていた。

    腕を組み、舞姫と例の書生が茶店へ現れるのを待つ。

    ズッ、と味の薄い茶を嚥下したとき、軽やかな笑声と落ち着き払った低音の声が店内に響いた。
    二人は奥の個室に一旦消えたが、茶器が運ばれてくる前に庭へ出てきた。玉砂利を踏み、庭の透き通った泉を二人は見ており、裴茗は窓からそんな二人を見つめた。

    舞姫と書生はひそひそと話していたが、武神が耳を澄ますとその声ははっきりと聞き取れる。

    「本当です。雨水を含むと透き通る花があるのです」

    書生はなかなかに耳馴染みの良い声である。

    「まぁ、それは神仙の世界の話ですか?」
    「いいえ、人の世での話です。非常に可憐で、あまり大きな雨粒を受けると散ってしまうほど儚い。ただ深山に咲く花ですから、そのような意味では神仙や道士のほうがよく見かけるでしょう」
    「では私も見ることができるかもしれないのね……いつか見てみたいわ」
    「これを」

    書生はそっと、小さな花を差し出した。

    「まさか、これが?」

    青年は微笑みを浮かべ、「ここは泉があっていい」とそっと静かな水面の上に浮かべた。

    「なんて可愛らしい……」
    「この花を見て、貴方を思い出したのです。貴方のようだと」
    「まぁ、」
    「大輪の花も勿論お似合いです。しかし、この秘めやかな花に貴方の面影を私は見たのです」

    舞姫は美しく、数多の男に求婚されている。書生はあくまで一介の書生であり、官職でも何でもないのだ。
    しかし、舞姫は深い喜びを湛えた声で「嬉しいです」と、呟いた。

    それは誰が聞いても分かる恋する少女そのものであった。

    「だから貴方があのような男に誑かされているのを見るのは、心苦しいのです」
    「誑かされるなんて……ええ、でも、あの方にはもうお会いしておりませんわ。わたくしには貴方様だけ」

    ン?と裴茗は思った。

    今のは私の話か。

    書生は満足したように頷き、二人は茶店の卓へと戻ってゆく。

    実は裴茗、この男が神官なのではないかと疑っている。

    先ほどの会話はついに尻尾を出したかと思ったが、少々断定する要素に欠ける。

    神官が長い間人の世に踏み入る際には、俗人の皮を被り、自身の身分や周囲の評判を捏造する必要がある。
    しかし、目的が済めば姿を消してしまうのだから角を突けば粗が出てくる。例えば、戸籍はあっても、誰もその人物の過去を知らず、どこに住んでいるかもわからない……などだ。
    まさしくこの書生がそうだった。上等な衣服で贈り物も高級だが、誰も彼を知らない。書生はあくまであまり家の外には出ないし、遠方に家はあると言い張っているが。

    一体、この書生何者か。
    この私が狙い定めた美姫をこのように横から掠め取るとは。

    だが……いやしかし、見事な男である。裴茗は同じ男として鼻持ちならないのと同じくらい、この書生に興味を惹かれた。
    裴茗は思うところがあり、さらに付けていき二人の会話を注意深く聞く。

    「貴方の真心は光栄です。しかし、私は貴方を抱いて逃げる力はありません……纒足を解いて千里を歩ませるような、残酷な真似もできないのです」
    「貴方と共に行けるのならば千里でも万里歩めます」
    「いいえ。いいえ。大変な苦痛で、痛みで狂ってしまう」
    「貴方様は、色々なことを知ってらっしゃいますね」
    「靴屋の知り合いがいるのです。その知人曰く、纒足の女性と駆け落ちしたがった客の男がいまして、纒足を解いて足を解し、解した足で逃れられるような靴を所望されたと。しかし、女性はやはり大きな痛みを伴いました。その足で万里を歩かせるのは正気ではない。少なくとも愛ある行為ではないでしょう。ただ、……本当にあの男が彼女を愛していたのならば、万里でも背負って逃げたのかもしれません」

    自分にはその力もないのです、と言わんばかしに書生は凪いだ瞳でじっと彼女を見つめた。
    二人は静かに見つめあっていたが、ややして舞姫を老齢の女が呼びにきた。
    彼女の上役が呼んでいるという。舞姫は憤慨したが書生は「行ってください」と穏やかに微笑んだ。

    卓には書生がただ一人になった。

    「邪魔するぞ」
    「どうぞ」

    裴茗が声をかけると、書生は窓の外の庭を見たまま返事をした。そして振り向く。書生と色男の視線が交錯する。
    黒衣の書生はまさしく眉目秀麗、落ち着いた目元からは深い知性を窺わせる聡明そうな男であった。
    しゃらんと男は背筋を伸ばして、冷たい鈴音が聞こえてきそうな佇まいだ。

    男である裴茗でさえも、息の飲む。そして彼は唖然として、口を開いた。

    「………どういうつもりだ。傑卿」
    「どういうつもりと思いますか。自分の心に問いかけてみては?」

    霊文は男神の姿だった。クックックと「彼」は喉を鳴らして笑った。
    怒るのは裴茗側のはずだったが、彼は何だか霊文が激怒しているように感じ、たじろぐ。
    隣の部屋から声が聞こえた。

    「他人に意中の女子を奪われ恨めしそうに見ている貴兄は、貴重で傑作だ」

    裴茗は振り返る。驚いたのは、その声であった。公子が姿を現し、扇を広げて口元に当てて軽い嘲笑を向ける。眼前に広がる大きな扇に広がるのは「水」の文字であった。

    呆然として目を見開く裴茗の目の前で無渡はパン、と扇を閉じる。

    「嘘だろう。水師兄、貴方まで居るとは」
    「貴兄が狙っていた婦女が霊文に見事に奪われているのは、見応えがあった。久々に愉快だった。金に代え難い私の時間を費やす、価値のある遊興だ」
    「…………傑卿といい、多忙な貴方方がわざわざ人の恋路を邪魔しにくるとは。一体何がしたい?」

    霊文はまた微笑み「ご自身の心に問いかけてみては」と繰り返した。裴茗は霊文の微笑みが氷のように冷た過ぎて、助けを求めるように無渡を見た。

    「私は霊文に協力したに過ぎない」
    「は?」
    「最近北方に妖魔が大量に出ているらしいな。それをお前が対応せずに裴宿に丸投げしているとも聞いた」
    「そ、れは事実だが、武神の話であるし、失うとしても私の信徒だ。何故貴方たちが出てくる」
    「私には関係ない。しかし、霊文は迷惑を被っている。何か被害があると、まず霊文のところへ報告が行くからな。捌くのも一苦労なほどのようだ。その多忙さのなかで貴兄に灸を据えに来るほどにはな」
    「…………」
    「今回の一件、浮き世に名を流す明光将軍が霊文真君に意中の女の心を奪われたというのはたいそうな語種となろうよ」

    ははは、と無渡は楽しくてたまらないと言った様子であった。

    舞姫が戻って来たのを見て、男たちは姿を消す。
    物陰から劇でも鑑賞するように霊文と舞姫のやり取りを端正な男たちは見つめた。

    改めて霊文を見れば、真君としての神像よりも少々若く仕立てている。
    そんな美青年は舞姫の頭を優しく撫でた。そして長い腕で優しく包容した。
    彼女の心は完全に霊文に傾いている。その目には抑えきれない希望があった。

    裴茗は気がつく。霊文は円満に彼女と裴茗を別れさせるために、このような手段に出たのであって、まさかこの女がここまで本気で自分に惚れ込むとは思っていなかったのだ。

    霊文真君はほとほと困り果てていたのだ。女心がわかるのは当然のこと、真君はその実、元君であるのだから……。女が女心がわからんはずもない。
    彼女の心がまた裴茗に傾いたりしないように巧妙に繋ぎつつも、自分は貴方を落籍することも逃げ出すこともできないと言葉遊びじみたやりとりで伝えていたのだ。


    ***


    此度の逢瀬を終え、霊文が物陰で見ていた二人の元へやってきた。
    水師はかなり機嫌良さげに扇をパタパタを扇ぎ、「これは貴殿らの新しい伝承として後世まで末長く語り継がれるだろう。私もその普及のために尽力を惜しまないと此処に誓う」などと最悪の発言をして、帰り支度をしている。

    そんな水師の腕を裴茗と霊文が両側からがっしりと掴んだ。

    「駄目だ。逃さないぞ水師兄」
    「そうです。ここまで来たら一蓮托生です。散々見世物を楽しんでおいて、自分だけが観客で居られると?」

    無渡はしばし動きを止めたが、大の男二人に固定されて彼も動けない。憤然と問う。

    「私に何をさせたい」

    霊文が答えた。裴茗は二人のやり取りを静観する。

    「彼女を落籍してください」
    「私が?何故?たかが妓女一人身請けなど貴殿らでも容易いだろう」
    「一見客として落籍して欲しいんです。通常の倍値を出すと言って断る妓楼はありません。私でも老裴でもなく第三者でなければ角が立つ……」
    「……どちらかが変身していけば良い」
    「だから、そこは見物料ですよ。貴方もちゃんと関わっていただきたい。段取りは私が組みます」

    水師はしばらく黙っていたが、扇をパン!と鳴らし嘆息した。

    「女には指一本触わらんぞ」

    結局は、身内に甘い男であるので。

    裴茗が「青玄に「哥!穢らわしい!」と泣かれるでしょうからね」と大笑いした。霊文も笑って「結構」と頷く。

    しかし、ややして笑っていた裴茗がかなり名残惜しそうに言った。

    「しかし、惜しい……。あの踊り子は本当に気にいってたんだ。傑卿、これからは私も気をつけるからやはり譲ってくれないか?」

    これに無渡は何を今纏まった話を蒸し返すと言いたげに胡乱な目を向けた。

    「裴将軍。貴殿らしくもない。どうしてそうもみっともない真似ができる?お前は南宮傑に負けたんだ。敗者が惨めに足掻いても見ていて気持ちの良いものではない」
    「言いようが酷すぎるだろう!」
    「ははははははは!!」
    「傑卿も爆笑しすぎだ!」
    「だって…諦めてください。老裴」

    裴茗は、彼らしく自身が色男であると理解した仕草で額に指先を当て、「敵わないな、貴方たちには」と息を吐いた。

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