その恋を喰い破れ 無味無臭。それが私にとっての食に対する当たり前だった。
この世界には三種類の人間が存在する。
ひとつ、『フォーク』
ふたつ、『ケーキ』
みっつ、『それらに属さない"普通"の者』
フォークとケーキは捕食する側と捕食される側の関係にある。フォークにとってケーキの存在そのものがご馳走であり、味覚を持たないフォークが唯一『味や匂い』を感じ取ることができる。聞いたところによると、フォークがケーキと出会えば本能的に『食べたい』と思ってしまうらしく、ケーキの汗や涙といった体液、そして皮膚などがとても甘露な味をしていてそれはそれは美味だという。捕食衝動に歯止めが効かなくなるとケーキを物理的に……つまり血肉すらも食べてしまうとか。私はこれまでにそういった事件を見聞きしたことはないが、単に起きていないのか、それとも秘密裏に処理されているのか、定かではない。
私がフォークであると判明したのはまだ幼い頃だった。口の中に食べ物を入れても味がまったくしなかった。ただ無味無臭の固形物が舌の上を転がり、咀嚼され喉を通るだけ。私はそのことを不思議に思い当時私と弟の忘機の面倒を見ていてくれた叔父に伝えてみた。すると叔父の顔色が変わり、真剣なものとなった。
そして私は自分がフォークと呼ばれる存在なのだと知った。叔父は幼い私にも理解できるよう、丁寧に説明をしてくれた。特に念を押されて言われたことがある。
──この先、急に食欲が湧いてもその相手と深く関わらぬこと。そして己の内にある衝動を抑えること。
私はその言葉を胸に刻んで二十年以上生きてきた。幸いにもケーキと思わしき人間とは出会ったことがない。相変わらず味というものがわからないが今ではすっかり慣れてしまった。
今日も仕事で取り引き先との会食があったが、なんとか乗り切ることができた。これも忘機のお陰だ。事前に一度会食が行われる店へ赴き、忘機に料理を食してもらう。そしてその料理がどんな味なのか教えてもらい、いざ会食で味を聞かれたときにその料理の特徴を答えるのだ。味覚のない兄に文句一つ言わず協力してくれる忘機には感謝が絶えない。
「(帰ったらお礼のメールを送っておこう)」
帰路の途中、駅の構内でそんなことを思いながら改札の前まで来たところで懐からパスケースを取り出す。
「おや……?」
おかしい。パスケースが見当たらない。懐にも、スーツのポケットにも、カバンの中にもどこにも無い。
「(まさかどこかで落とした……?)」
財布はあるしICカードはまた再発行すればいいので帰るには困らないが、失くしたことには少なからずショックを覚える。
だが失くしてしまったものは仕方ないとICカードを再発行しようと窓口に向かおうとしていたときだった。
「あの、このパスケースを落としたのは貴方ですか?」
「え?」
声をかけられ振り向くとそこには一人の学生が立っていた。差し出されたパスケースに視線を落とすとそれは確かに私の物だった。
「ああ、そうです。私ので間違いありません」
「それなら良かった」
「ありがとうございます。これから再発行しようとしていたので手間が省けました」
「そうでしたか」
紺色のブレザーを身にまとった青年は淡々としていた。恐らく忘機と変わらない歳の子だと思うのだが忘機とはまた違った雰囲気の落ち着きがある。
「それじゃあ俺はこれで」
「あ、ちょっと待ってください。パスケースを拾ってくれたお礼がしたいのですが……」
「いえ、俺はただ拾った物を持ち主に届けただけなので。気持ちだけ受け取っておきます」
「ですがそれだと私の気が済まないのです。ああ、あそこにあるカフェでお茶をご馳走させてください。時間は大丈夫ですか?」
「……まあ、大丈夫ですが」
「ふふ、ありがとうございます」
半ば強引になってしまったが私も大人。些細なことでもお礼はしっかりしなければならない。これも叔父から受けた教えのひとつだ。
私と学生の彼はカフェに入ると空いている席についた。店員から受けとったメニューを眺め、抹茶ラテを頼むことにした。味はわからないが何となく自分に合いそうな気がする。
「遠慮せず好きな物を頼んでください。あ、ケーキセットとかどうですか?」
「ケーキ……」
「苦手ですか?」
「いえ、そんなことは……。じゃあお言葉に甘えてそれをいただきます」
店員を呼び、抹茶ラテとケーキセットを注文する。彼は紅茶とチョコレートケーキを選んだ。
「君はこの辺りの学校に通っているのかい?」
「はい」
「学年は?」
「二年です」
「二年か。私には弟が一人いてね、その子も二年生なんだ」
「そうですか」
他愛のない会話をしているうちに注文したものが運ばれてくる。私の前には抹茶ラテ、彼の前には紅茶とチョコレートケーキ。忘機以外の人と仕事以外で飲食店に入るなんて滅多にないからなんだか新鮮な光景だ。
「さあ、召し上がれ」
「いただきます」
彼はまず紅茶に口をつけるとそれからフォークを手に取りチョコレートケーキをひとかけ口に運ぶ。
チョコレート……甘い味がするとは聞いたけれどどれくらい甘いのだろう?ああ、でも中にはビターという苦みのあるチョコレートもあるんだっけ。彼が食べているチョコレートケーキは甘いのだろうか?
「……あの、一口食べますか?」
「え、どうしてだい?」
「さっきからじっと見ているので……食べたいのかと……食べさしになりますが」
そんなにまじまじと見ていたんだろうか?物欲しそうに見えたのならそれはそれで恥ずかしい……。
どうするか少し考えたが彼の気遣いを無下にするわけにもいかないので一口だけいただくことにした。
──まあ、味なんてわからないのだけど。
「それじゃあ一口だけ」
フォークを受け取りチョコレートケーキを少しだけ切り分け口に運ぶ。
その瞬間、自分でも驚くほどの衝撃が全身を駆け巡った。
「……あまい」
そう、甘いのだ。つまり味がしたのだ。
あまい、あまい、あまい。とてもとてもあまい。
混乱する。どういうことだ?どうして急に味がした?何も特別なことなんて──。
「(…………あっ)」
フォーク。そうだ、私は彼が口をつけたフォークを使ってチョコレートケーキを食べた。フォークには彼の唾液が少なからず付着していたのだ。
つまり、彼は──。
「あの、どうかしました? 甘い物は苦手でしたか?」
「っ、あ、いや、大丈夫だよ。このケーキ甘くて美味しいね」
咄嗟に笑顔で誤魔化すが身も心も動揺で震えていた。体の震えは必死に抑えるが、心臓が今までにないくらい激しく鼓動している。
なんということだ。まさか、まさか、彼があの『ケーキ』だなんて!
彼はただ私が落としたパスケースを拾い届けてくれただけ。私はそのお礼にとお茶をご馳走した。
それだけ、本当にそれだけの、些細な出会いだというのに……。
親切な一人の学生が一瞬にして『ご馳走』に変わってしまった。
知らなかった。あんな僅かな唾液だけでこんなにも甘く美味しいと感じるなんて。
知らなかった。『ケーキ』という存在がこんなにも『フォーク』の食欲を駆り立てるなんて。
ああ、嗚呼、どうしたことか。
私は今どうしようもなく、彼を──。
「大丈夫ですか? 顔色がよくないですよ」
「っ! すまない、急用を思い出してしまって……会計は済ませておくから私は先に失礼するよ」
「は、はい。ごちそうさまでした」
私は席から立ち上がりレジで会計を済ませると足早にカフェを出た。そしてトイレへと駆け込み手洗い場に両手をつくと顔を俯かせ何度も深呼吸を繰り返す。
「まさか、今になって出会うなんて」
『ケーキ』とは無縁の人生だった。できれば一生無縁でいたかった。その甘露な味を、捕食衝動に触れるのが恐ろしかったから。誰かを傷つけてしまう、その可能性があるというだけでも私には耐え難いものだったから。
しかし、あのとき確かに思ってしまったのだ。
──彼を食べたい、と。
***
あの男性はなんだったのだろう。
俺はただ拾ったパスケースを渡しただけ。なのにこうしてお茶とケーキまで奢ってくれた。
単なるお人好しか?それにしてはなんだか途中から様子がおかしかったが……。
残りのチョコレートケーキにフォークを刺し口に入れる。程よい甘みとほろ苦さが広がった。
「まあ誰でもいいか」
──あの男性が『フォーク』でさえなければ、な。