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    とむた

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    とむた

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    パラロイ本編軸後の愛憎+因縁中心の事件物長編。

    後日pixiv公開予定。

    #愛憎
    loveAndHate
    #因縁
    fate
    #パラロイ
    paraloy

    エンドロールにはまだ早い昼時も過ぎ、午後の勤務に慌ただしくなるのは、フォルモーント・シティポリスでも変わらない。街の巡視に向かうものや書類を抱えて廊下を通り過ぎていくもの、または犯罪者と思われる人間とそれを連行する厳しい顔の警官などで煩雑としている。周囲の人々の邪魔にならないように端を歩きながら、カインは愛車のカギを手で遊びつつ自身の部署へと向かっていた。
    「ようカイン!いま戻りか?」
    気さくに話しかけてきたのは同僚の男だった。片手をあげてカインも笑って返す。
    「ああ、午前は見回りで終わったよ。そっちは今から外回りか?」
    「まあな。そうそうお前に伝言があるんだ」
    「伝言?」
    「署長がお前のこと呼んでたぜ。戻ったら署長室まで来いってさ」
    カインは首を傾げる。最近のカインは品行方正に街の安全を守り、時折友人と休息をとる、という、特段事件や問題も起こさずに職務に励んでいた。しかし署長とは件のアシストロイド絡みの事件があってからその後始末や署長自身がカインを気に掛けていたりと、何かと接する機会が多くなっていた。またその辺りの話だろうか、と思案していると同僚は意地の悪い顔をしてカインを小突く。
    「おいおい何かやらかしたのか?心当たりがあるって顔してる」
    「お前が思っているような事なんて何もないよ。どうせ厄介事の押し付けだって」
    「そうかあ?ま、何かあったら俺が酒の一杯でも奢ってやるから泣いてもいいからな」
    「言ってろ」
    カインも相手の肩を小突いて年相応に笑いあったのち、礼を述べて同僚と別れる。未だ慌ただしい廊下を行きかう人々を避けながら、カインは署長室へと足を進めた。

    署長室は署内の中心部にある。しかしその周囲は署長が許可をした人間のみが入ることを許されており、カインは最近まで近づく事すらなかった。連絡など通信端末で事足りたし、彼には何人もの部下がいる。つまりはカインのような若い人間が赴く必要などなかったのだ。それが今ではそれなりの頻度で呼び出される事が増えているのだから不思議なものだった。目的の扉はシンプルだが、所々に装飾が施されており利用者のセンスの良さが伺える。粗雑な様に見えて身だしなみや気遣いが男前な部屋主を思い出して、妙に納得してしまう。カインは指先でドアを叩く。硬質な音が廊下に響いて、数巡おいて「入れ」と短い声が返ってくる。それを確認してカインはハンドルを回して入室すると、部屋の主に向かって気さくに挨拶をした。
    「ボス、用事って聞いたんだが」
    「おまえなあ、まずは失礼しますだろうが。あと敬語」
    カインの態度にブラッドリーは呆れた声と共に小言を零す。それに笑いながら謝罪をしたカインに今度はため息を落とすも、それ以上の言及はしなかった。
    「まあいい。おまえに頼みたい仕事がある」
    「仕事?」
    カインにとってブラッドリーからの仕事の依頼など今更である。改めて呼び出されたうえでの命令になるならば、それは面倒な案件か機密情報が絡んだ案件となるだろう。
    「それで?どんな内容なんだ?」
    「とある要人の護衛だ。前もアシストロイドの護衛をしたことあるだろう?どこからかその噂を聞きつけた金持ちが、是非お前をとご使命だ」
    やるじゃねえか、と揶揄うブラッドリーにカインはこそばゆい心地になり、照れ隠しをするように一つ頬を掻く。そんな若手の微笑ましい姿にブラッドリーは目を細めて笑い、けれど瞬きの後には真剣な眼差しでカイン、と名を呼ぶ。
    「今回の仕事はおまえにとってでかい案件になると俺は踏んでいる。だがおまえならやれるとも思っている」
    ボスのその声は重たくも凛と響き、自然と背筋が伸びる。厳格なその声音の中に、確かに自身への信頼も感じてカインは胸の内がじんわりと暖かくなる。
    普段は気さくなボスではあるが、屈強な男達を束ねて慕われるだけのカリスマ性があった。
    「俺の期待を裏切ってくれるなよ?」
    「はい!」
    「いい返事じゃねえか。普段からそれくらい従順でいてほしいもんだな。ま、ああは言ったが気負いすぎるな。何かあればすぐに連絡しろよ」
    困ったように笑うボスの表情に、必ず成果を上げてみせようとカインは心に誓った。



    耳の横を通り過ぎていくのは、風と街の喧騒。街の至る所をネオンが彩り、電子音が頭上を飛び交う。その中を相棒と共に駆け抜ける瞬間がカインは好きだった。景色が移り変わっていくなかで、ふと見覚えのある2つの背中を見つける。カインは相棒を減速させると、歩道へとゆっくりと車体を近づける。エンジンを止めヘルメットを外すと、その背中に声をかけた。
    「オーエン!晶!」
    「カイン!」
    「カイン」
    振り返った2人はやはり見知った友人で、片方は満面の笑みを、もう片方は表情を変えずにカインの元へと歩み寄ってくる。
    「カイン今日は仕事でしたよね?」
    「ねえ僕知っているよ。サボりってやつでしょ?」
    オーエンが意地の悪い笑みを浮かべてカインを揶揄い、それに苦笑しながらカインも言葉を返す。
    「違うって。外部での仕事が入ったから今から向かうんだ。おまえこそこっちに戻ってきていたなら連絡の一つくらいくれればいいのに」
    「なんでさ」
    「なんでって、俺達友人だろう?大切な友人に会えるっていうなら俺はこいつを走らせるさ」
    指の節で軽く相棒の車体を叩けば、オーエンはぱちくりとその薄紅を瞬かせた後に居心地が悪そうに視線を逸らす。拗ねたように口を尖らす様が普段よりも幼く見えたが、それを揶揄えば今度は口をきいてもらえなくなる事は想像に容易い為、微笑ましく思うだけに留めた。それに晶も笑って、会話の軌道修正をするようにカインに目線を向ける。
    「外部での仕事ってどのような事をするのですか?」
    「今回は護衛任務だ」
    「護衛!すごいです!」
    晶の純粋な称賛の言葉に誇らしくなる自分を律しながらカインは何でもないような顔をする。晶の前では年相応の友でいたいが、警官としてのかっこつけもしたいような、年下の友人に対する少しのプライドがある。
    「おっと、もうこんな時間か。なあおまえら明日の夜空いているか?」
    「私は大丈夫です!」
    「なにかあるの?」
    「折角友人が集まったんだし飲みに行こうぜ!」
    カインが太陽のような笑みを浮かべれば、晶は瞳を輝かせ、オーエンは少し視線を外しながらもソワソワと身体を揺らす。晶に比べて分かりにくいが、これはオーエンが嬉しいときの仕草だった。
    「別に、カインがどうしてもって言うなら行ってもいいけど」
    「どうしても」
    「…しょうがないな。じゃあいいよ」
    やっとオーエンが真っすぐに笑う。それが嬉しくて、カインと晶は視線を合わせたあと、手と手をぶつけて音を鳴らせた。
    「よし約束な!そろそろ行くけどまた連絡するから」
    ヘルメットをかぶり直してハンドルを握る。相棒のエンジンをかければ軽快な音楽が流れ出す。アップテンポなその曲はいまのカインの気分にぴったりだった。
    「はい、カイン気を付けてくださいね」
    「約束破ったら許さないから」
    2人の言葉に片手をあげて応え、その場から離れる。サイドミラーに写る2人の影は、カインの視界から外れるまで大きく手を振っていた。



    カインがそこに辿りついたのは、夕暮れに街が染まる時分だった。ハイクラスエリアの中でも更に高級地の一角。歓楽街と呼ばれるそこは、所謂エリート達が生活を送る街、本来ならば一生足を踏み入れる事は叶わないような空間にカインは立っていた。ここに来るまでに出会った人間は身なりが整っており、殆どの者がアシストロイドを連れている。よく見れば人間同士で会話をしている者たちは極少数で、アシストロイド依存症の問題性が視覚化されていた。件の事件後は多少緩和されてきたとは言え、長年の慣習というのは治らないものだ。それに思うところがあれど、カインにとって現状の問題はそれとは別の所にあった。
    「ここで、あっている、よな…?」
    カインの前にそびえ立つのは巨大な建造物。天にさえ届いてしまうのではないかというほどに高いビルは、見ているものを威圧する。手元にあるカードに記された住所とここが相違ないか、もう10回は確認した。顔を上げては下げるのを繰り返す警察官を周囲の人間は遠巻きに眺めるが、本人にとっては気にしてなどいられない。今回の護衛任務の対象が待つ場所として指定されたのは、確かに目の前にある高級ビルの最上階。
    (確かにボスはでかい案件って言ったけど。物理的にでかいとまでは聞いていないんだが…)
    それでもハイクラスに関連する護衛はカインにとって初めてではない。以前のアシストロイドの護衛だって、カインでは想像もできないようなお屋敷を目にすることもあった。しかし一般市民であり、まだまだ若手のカインにとってはどれも夢物語のような世界だ。自分と住む世界が違いすぎてなんだか落ち着かない。そんなことを気にしていても任務である事は変わりなく。カインは1つ大きくため息を吐くと一歩踏み出した。



    軽快な機械音と共にエレベーターが動作を止める。電子版には最上階を示す文字が点滅し、数秒してドアが左右に開く。目の前の床はよく磨かれた大理石であり、既に一歩を踏み出す勇気がしぼみかけるが、そこは警官のプライドを駆使して凛と歩き出す。街の喧騒とは打って変わって、静かな空間に足音が響く。カードに記された店は高層ビルの最上階の最深部にあった。
    その店は外観こそシンプルに見えるが、所々に拘りがあった。壁は木目をイメージとした赤銅色で統一されておりシックな雰囲気となっており、真鍮のハンドルは年季が入り傷や塗装の剥げがあるが、それもこの外観の味の一つになっている。此方と彼方を隔てる扉も周囲の壁と同じ材質を使用しながら、中心に請託な一輪の薔薇が彫り込まれておりそれだけで絵になる。外からは中の様子が一切うかがえなかったが、カードに記された場所と特徴からここが目的地であるのは間違いない。ここまで来たというのに雰囲気にのまれ、扉を開けるのに二の足を踏んでしまう。
    「ねえ入らないの?」
    「いやちょっと待ってくれ心の準備が…え?」
    「じゃあ僕先に入っちゃお」
    横から見覚えのある白い腕が伸びるのと、目の前の扉が音を立てて開けられるのはほぼ同時だった。葛藤を無視してあっさりと扉は開かれるが、カインにとってはそれどころではない。
    「オーエン!?」
    「うるさいなあ」
    「オーエンが急に声をかけるからですよ」
    「晶まで!?待ってくれどうなっているんだ?」
    オーエンの後ろからひょこりと顔を出したのは晶だった。先ほど約束を交わした友人2人が、自身の任務先であるこの場にいる事に混乱する。それに煩わしそうに顔をしかめるのはオーエンだった。
    「それはこっちの台詞なんだけど。なんでカインがここにいるのさ」
    「いや、だから俺は護衛任務で…」
    「私たちこのお店のオーナーの調査をフィガロに頼まれたんです」
    「は、調査って…」
    「私のことでしょうね」
    凛とした声が空間に響く。歌うような、囁くような、甘美な心地よい優しさが含まれた聴く者の耳に残る声だった。声のする方、オーエンが無遠慮に開いた空間の先に、1人の人間が立っている。一瞬女性かと思ったが違う。妖艶ではあるが、体つきや所作、表情などが男のものであった。その美しいひとは、すっかり固まってしまったカイン達一人一人にゆっくりと視線を向け、そうして花の様な笑顔を咲かせる。それは全てを許す慈愛の微笑みのようであって、けれどとっておきの玩具を見つけたこどもの笑みにもカインには見えた。
    「驚かせてしまい申し訳ありません。店の前で何やら気配を感じたのですが、一向に扉を開けてくださらないものですから」
    「すまなかった。こういう場に不慣れで…」
    「ほら、カインがモタモタしているから」
    オーエンに言いたいことは山ほどあったが、それでも初対面の人物の前なのでぐっとこらえる。カインの百面相に今度は楽しそうに笑いながら男は言葉を続ける。
    「お気になさらず。初々しい反応も嫌いではありませんよ。それで?私に用事があって此処までいらしてくださったのではないですか?」
    男の言葉にカインはアッと声を上げる。目の前の男やオーエン達の登場ですっかり抜けてしまったが、そもそも自身は任務の為にここまで勇気を振り絞ってきたのだ。慌てて姿勢を正すと真っすぐと相手を見つめた。
    「俺はカイン・ナイトレイ。フォルモーントシティ・ポリスの巡査部長だ。ここの店に来れば依頼人と会えるとボ…署長に言われてきたんだが、あんた何か知らないか?」
    「カイン・ナイトレイ…ああ、あなたが。ふふ、お待ちしておりました、その依頼人とは私のことです」
    男が一つお辞儀をする。てっきり待ち合わせ場所に指定されただけだと思っていた為、店主の様に見えるこの男が依頼人である事に思わずたじろぐ。
    「え?そうなのか?あ、いや、そうなのですか?」
    「かしこまらないでください。ありのままの貴方でいいのですよ」
    本心の見えないままの笑みを浮かべながら男は握手を求める。カインは数巡悩んだ末に、そっとその手を握り返す。きゅ、と緩やかに力を込められた手がゆっくりと離れる際に、やっぱり男の手だな、なんて場違いな考えが過った。
    「ありがとう…えっと、」
    「ねえ、お前がシャイロックでいいの?」
    そういえば名前も知らなかったとカインがあげた声をオーエンが遮る。オーエンの口にした名称がやけに耳について首を傾げている間に、男は笑みを崩さぬままオーエンへと視線を向ける。
    「どのシャイロックなのかは存じ上げませんが、フィガロ様の名前が出た以上あなたの想定するシャイロックでしょうね。あの引き籠り博士はお元気ですか?オーエン」
    「うんざりするくらいにはね」
    「こちらの可愛らしいお嬢さんは?ファウスト辺りは好きそうですが、フィガロ様の趣味ではなさそうです」
    「個体名は晶。僕とカインの友人。知ってるのはそれだけだよ。他に情報なんていらないでしょう」
    「そんな警戒なさらずとも、とって食べたりなんてしませんよ」
    「どうだか。お前と理事長は特に信用してないんだよね」
    2人のまるで旧知と顔を合わせたかの様な会話に戸惑ったのはカインだけではなく晶もだった。不思議そうな2つの視線を受けてオーエンはげんなりした顔をする。
    「僕個人は知らないよ。データとしてあるだけ。シャイロック・ベネット、フォルモーント・ラボトリーの理事長の友人」
    「へえ、あれ?シャイロックってどこかで聞いたような…」
    カインは晶と共に首を傾げながらオーエンが連ねた説明を反芻し、暫し考える。シャイロック・ベネット、理事長の友人。歓楽街の高層ビルの店主。妖艶な見た目と柔らかい物腰。
    「シャイロック、ベネット…って、あー!?」
    それら一つ一つがピースのように合わさった時、カインは思わず大声を上げた。
    「うわっ」
    「うるさいな」
    「シャイロックってあの!?高級ワイナリー社長の…!?」
    「おや、私も結構有名人ですね」
    相手を指さしてはいけないという両親の教えが聞こえた気がしたが、いまのカインには何の効力にもならない。そんなカインの反応に、悪戯が成功したこどもの様な笑みを浮かべたシャイロックは芝居がかかった仕草で礼を一つする。ふわりと舞った芳香は、凛と咲く花を連想させた。たっぷりの時間を使って上げた相貌に妖艶さを張り付け、ルビーを煌めかせながら瞬く。形の良い唇が、現実から非現実の扉を開く音を紡いだ。
    「ベネットの酒場へようこそ、可愛らしいお客様方。あなた方に逢える日を心待ちにしておりました。ここは日常から一歩先の特別な空間。どうか、刺激的で魅力的な一夜をお過ごしください」



     店内は想像よりも広々としていた。シンプルなテーブルが4卓とそれぞれに椅子が2脚、反対側にはL字の形をしたカウンターに、背の高い椅子が数脚並んでいる。どれも黒を基調としておりシックな雰囲気でありながら、橙色の照明がほのかに照らす空間はどこか暖かい印象も与える。ハイクラスのエリアでありながら肩の荷が下りる様な、不思議な安心感を覚える店であった。
    「どうぞお掛けになってください。いま飲み物をお出ししますから。そちらのお二人も口腔機能は備わっているようですね」
    「あ、はい」
    「どうせなら甘いのにして」
    「えっと、その」
    応える二人に反してカインは申し訳なさそうに手を上げる。
    「その、もの凄く言い辛いんだが、こんな高級バーの金を払える程の余裕はないんだ。それに仕事中だし。申し訳ないが俺は話だけ聞かせてもらえると嬉しい。2人分の金は払うからさ」
    カインが申し訳なさそうに告げれば、シャイロックはきょとり、と目を瞬かせる。少し考えて一つ微笑むと、そっとカインの背中を押してカウンターの1脚へと座る様に促す。それに困惑しながらも、断ることは気が引けて促されるままに腰掛ける。その様子を見ていたオーエンと晶も視線を交わしながらカインの横に座った。
    「あの、シャイロック…」
    「ご心配なさらず。これは私自身が今日という日に捧げたい一杯です。気まぐれな店主の我儘に、どうか付き合っていただけませんか?」
    きい、と音を立てカウンターの中へと入る。ジャケットを脱いで黒いシャツの姿となったシャイロックは、ボトルを手に取る。戸惑う3人を気にした風もなく、澱みない手つきで機材を操りながら液体を混ぜ合わせていく。金属とガラスがぶつかる音を聞きながら、3人は無言のままでバーテンダーの手技を眺めていた。話したい事は山ほどあったが、それよりも目の前の光景に目が奪われた。1段階明るくなった橙色の照明がカウンターの中を照らす。壁際に備え付けられた棚には所狭しとボトルが並んでいおり、色彩も様々なそれらは照明を受けてきらきらと輝く。その中に凛と立ち出会いの一杯を作り上げている様は、一つの絵画を見ている心地だった。
    やがて音が止むとともに、目の前に一つのグラスが差し出される。カインの目の前にはワインのような見た目のカシスが香るグラス、オーエンの前には甘いコーヒーのような香りのグラス、アプリコットとオレンジの香るオレンジ色のグラスは晶の前にそれぞれ置かれる。
    「どうぞ召し上がってください。ああご安心を、ノンアルコールで作らせていただきました」
    「本当にいいのか?」
    「ええ、普段ならばこのような奉仕は趣味ではないのですが、今日は気分が良いので。この素敵な出逢いに乾杯を」
    いつの間にかシャイロックの手にも一つのワイングラスが掲げられる。そこまで言われて無碍にするのも失礼だろうと、カインは諦めてグラスを軽くぶつけた。オーエンと晶も倣うようにグラスを上げ、互いに軽い音を立てさせ、それにシャイロックは心から嬉しそうに笑う。
    「美味しいです!」
    最初に感嘆の声をあげたのは晶だ。キラキラと瞳を輝かせながらグラスに口をつける様子はあどけない。流石に大人しく口をつけたオーエンも、悪くないんじゃない、などと言いながらも新しいお気に入りを見つけた時の瞳をしている。それを微笑ましく見るカインだって、グラスを傾ける手が止まらなかった。素直な3人の反応にシャイロックは穏やかな笑みを浮かべる。
    「こんなうまい酒は初めて飲んだ」
    「ありがとうございます。それと、料金に関してならばお気になさらず。既に十分すぎる程頂いておりますので」
    「え、それって…」
    「ただいまー!シャイロックいるー?」
    カインの声を遮って扉が大きな音を立てて開く。先程カイン達が入ってきた扉が開かれ、そこには1人の男が立っていた。
    「ムル。先日ノックの作法については再インストールをしたはずですよ」
    「ごめんなさい!」
    シャイロックが呆れたように小言を溢せば、ムルと呼ばれた男は元気よく笑顔で返事をする。それに溜息を一つ溢したシャイロックは、カイン達へと向き直った。
    「騒がしくして申し訳ありません。こちらは私の管理するアシストロイドのムルです」
    「ムルだよー!ワンワンッ!」
    「こら、初対面の方に吠えないで」
    「じゃあ猫みたいに喉を鳴らして擦り寄ればいい?シャイロックはそれで喜ぶ!」
    「ムル」
    「にゃーん!」
    シャイロックが妖艶に笑顔の圧をかければ、対してムルは可愛らしい仕草で無邪気に笑う。そんな2人のやり取りにカイン達は置いてけぼりだった。落ち着いた大人の印象であるシャイロックが翻弄されている姿は何とも言えないものだったし、このアシストロイドのトリッキーな言動も中々にインパクトがある。そもそも、ムルと呼ばれたアシストロイドの見た目に酷く見覚えがあった。
    「気のせいじゃなければ、この前会ったラボの理事長にそっくりな気がするんだが…」
    「カインもそう思いましたか?」
    「へえ、あの噂本当だったんだ」
    困惑するカインと晶に対してオーエンは呆れたように言葉を零す。向けられた2対の視線につまらなそうにオーエンはムルを指さす。
    「ラボの理事長が友人に自分と同じ姿のアシストロイドを送ったって話。ラボ内じゃ割と有名だよ」
    「自分と同じ姿のアシストロイドを…?なんでまたそんな事を?」
    「僕が知る筈ないでしょ?本人たちに聞けば?」
    言われるままに視線をシャイロック達に向ければ、一方は有無を言わさぬ笑みを浮かべ、もう一方はにゃーん!と高らかに鳴く。出逢って間もなかったが詳しくは語るつもりがない事を理解したし、この話題を続ける事は得策でないと本能が警笛を鳴らす。どうしたものかと視線を彷徨わせていると、ムルは好奇心を抑えもせずに獲物を狙う猫の目でカインに近づく。
    「お客様?アシストロイドを2体連れているなんて珍しいね」
    「あ、え、と、違うんだ。こいつらは俺の友人。それぞれシャイロックに用事があってここに来たんだ」
    目線を向ければ晶は行儀良く頭を下げ、オーエンは面白くなさそうに一つ鼻を鳴らす。
    「晶です」
    「オーエン」
    2人が名前を告げれば、三日月の様に弧を描く笑みをより一層深める。思考が読めない笑みだが、カインにとってはどこか憎めないものだった。
    「晶にオーエン。うん、しっかり記録した!それでそれで?シャイロックに用事って何?面白いこと?楽しいこと?ドキドキすること?」
    「ムル。お行儀良くして」
    「はーい!」
    シャイロックの圧のある言葉に、今度こそムルは大人しく座った。カイン達を見渡せる、シャイロックに近い位置に座るその視線には隠す気の無い好奇心がありありと浮かんでいる。
    「本当にすいません。相手を翻弄する事が趣味なもので」
    「あ、いや、うん。大丈夫だ」
    「ねえ、そろそろ本題に入りたいんだけど?」
    どう返すべきか迷った末にあいまいな返事をすれば、我慢の限界だとばかりにオーエンが指先で机を叩く。大人しかった筈だが、とそちらを見ればどうやらグラスの中が空になってしまったらしい。
    「そうだった、なんでお前たちここにいるんだ?」
    やりづらさを感じながら、オーエンの言葉に幸いと話を振る。オーエンは座り直すとムルへと鋭い視線を一つ投げた後にカイン達へと向き直る。少しだけ機嫌が悪くなっていることを不思議に思うも、今は目の前の疑問を解決することが優先だった。
    「さっき晶が言ったでしょ」
    「フィガロにここのオーナー、つまりシャイロックの調査を頼まれたんです」
    「オーエン、人のことを指さしてはだめだぞ」
    「うるさいな。カインだってやってたでしょ」
    オーエンが無遠慮にシャイロックの顔を指さすが、当の本人は変わらずにニコニコと笑みを浮かべている。ムルも、何も言わずにただ傍観に徹していた。
    「ラボの博士がわざわざ調査を?そもそも本人の前で言って良いものなのか?」
    「さあね。あいつは調査内容以外は何も言わなかったし」
    「それで、調査内容って?」
    ここまできたならばいっそ知りたいと、自身の中の好奇心が目を光らせる。その様は此方に向けられる猫の目と同じで、けれど自身ではそのことには到底気がつけない。
    「シャイロックが理事長の資産を持ち去って逃げた、って。そういう噂がラボで広まっている」
    からん、と氷が鳴る音が、やけに耳に残る。訪れた静寂に、猫が一つ微笑んだ。



    数日前の事、オーエンはフィガロから連絡を受けたのだという。

    ご丁寧に正規の通信回線を利用して、応答した直後の挨拶は「やあオーエン。元気にしているかい?」などとまるで遠方に住まう親のような台詞だったから、オーエンは条件反射で回線を切った。次に通信が入ったのは僅か30秒後の事で、今度は強制的に回線がつながるプライベート回線のものだった。いっそ最初から此方を使えば良いのにと、余計な苛立ちを感じながら目線だけで要件を伺う。
    『いやだな、そんな顔しないでよ。今日は純粋なお願いがあって連絡したんだからさ』
    「僕は自由になった筈なのに、結局おまえ達の雑用をやっていることが多い気がするんだけど」
    『おまえが自由に動けるように俺だって色々と頑張っているんだよ』
    ホログラムで表示されたフィガロは、わざとらしく肩を竦める。人間相手にはまだまだ目線を合わせられないくせに、オーエンに対してならば素に近い表情を見せる。少し前までは想像もしなかったやりとりに、左の胸が少し熱を持つのを無視してオーエンは口を開く。
    「それで?つまらない内容だったら、僕嫌だからね」
    『まあそう言わずに。ほら、今回はこの子にも協力してもらうからさ』
    『あの、オーエンこんにちは…』
    「は?ちょっと待って、なんで晶がそこにいるの」
    ずい、とホログラムに表示されたのはオーエンの友人である晶だった。あの事件後、時折、本当に気まぐれに猫のように集まる友人の登場に驚きを隠せない。オーエンの困惑を感じ取ったのか、晶は申し訳なさそうな、叱られる前のこどものような、曖昧な表情を浮かべている。
    『偶々、本当に偶然ラボで会ってさ。おまえ達仲良かったし折角なら一緒にお使いを頼もうかなって』
    『ラスティカの手伝いでラボに行ったら強制的にフィガロに連行されました』
    「証言が違うんだけど?」
    『この子中々肝が据わっているね』
    先ほどフィガロに感じた気持ちが離散していくのを確と感じる。フィガロちゃんそういうとこだよ、というスノウの声が後ろから聞こえて、オーエンは珍しく彼に同意を示した。
    「晶は関係ないでしょ?僕だけじゃあ力不足だとでも?」
    『うーん、そういうわけでもないんだけど。今回は対人能力が必要になるというか、この子がいた方がスムーズにいくと思うんだよね』
    どう返してやろうかと考えているうちに、よく回る舌は次の言葉を垂れ流す。
    『この子もさ、確かオーナーがはっきりしてないんじゃなかった?あの若手ポリスくんがいる間は良いだろうけど、今後誰か管理者がいないと自由に動けなくなるんじゃないかなぁ』
    『お、脅しだ…!』
    『嫌だなぁ。ただの一個人の意見だよ』
    画面越しの応酬にオーエンは深くため息を零す。この流れになった以上、彼のいう事を聞かなければ後々面倒な事になる事はデータに刻み付けられている。
    「それで?今回はどんな面倒で退屈で仕様もない厄介事を僕にお願いしたいわけ?」
    言葉に棘があるなあ、というフィガロの呟きは無視して次の言葉を待つ。フィガロは先ほどまで浮かべていた人好きのする笑みを少し潜ませて、声をワントーン落とす。
    『大きな声では言えないんだけどね。単刀直入に言えば、理事長の資産が持ち去られたって噂がラボで広がっている』
    「は?資産?それこそポリスの仕事でしょ?」
    『あくまで噂。それに内部犯、つまりラボの関係者が持ち去った可能性が非常に高い。そんな情報が外部に出るのは今のラボにとって少し、いや、とても良くないことなんだよ』
    カルディアシステムの本格的稼働やアシストロイドとの共存を目指していまやっと大きく歩み出したこの街は、まだどこか不安定だ。その改革の中心となっているラボトリーの、しかも仲間内で問題が起きたとなれば、それは起爆剤と変わらない。人々は同じ方向に向いている筈なのに、歩幅はバラバラで。それこそ少しの歪みで何もかもが真っさらに、否全てが最悪の方向に傾いてしまう可能性だって大いにある。きっとこの変化を良く思っていない者もいるだろう事も、オーエンは理解していた。人間とは、そういう生き物だと知っている。
    けれど、それでも良い未来を目指したいと思っているものがいる事を、自身の自由を願ってくれた友人がいる事をオーエンは知ってしまった。浮かんだのは夕焼けの色をしたもう一人の友人の笑顔だ。朗らかな声まで聞こえてきて慌ててデータを切り替える。
    『資産が外部組織の手に渡る事も避けたい。でも、いまならまだ間に合うんだ』
    「なんで僕なの」
    『なんでって?お前はラボの事やこの街の事をよく知っている』
    それにね、とフィガロは続ける。あ、まずいと思った時にはもうその唇は音を発していた。
    『お前ほど自由なアシストロイドを俺は知らないよ』
    フィガロが不敵に笑う。その言葉に言い負かされたことを理解して、オーエンは今度こそ降参の声をあげた。
    「はあ、わかったよ。やればいいんでしょ。終わったらちゃんと報酬貰うから」
    『ありがとうオーエン』
    「ふん。それで?どうせ目星はついているんでしょ、さっさとデータを送ってよ」
    『はいはい』
    送られてきた画像データに写るのは一人のハイクラスの人間。その下には〈シャイロック・ベネット.階級:ハイクラス.居住区:歓楽街〉とだけ簡易的に記されていた。
    「こいつ理事長の友人の…」
    『そ、今回の噂の中心人物。あくまで噂だから、直接会って調査してきてほしい。方法は問わない、ただし殺傷はダメだよ』
    「相手が抵抗してきたら?僕や晶が壊されそうになるかも」
    せめてもの意趣返しに意地悪く笑って投げてやる。フィガロはわざとらしく顎に手をあてて考える素振りを見せ、スノウを振り返った。
    『アシストロイドにも正当防衛は適用されるかな?』
    ほんとフィガロちゃんそういうとこだよ、と言う呟きにオーエンは2度目の同意を示した。



    語り終えるとオーエンはもう一度シャイロックを見据える。ローズクォーツとルビーがぶつかる様は美しくも恐ろしい。逸らすことなく見つめ返すシャイロックに怯むことなくオーエンは口を開く。
    「単刀直入に聞くけど、おまえが理事長の資産を奪って逃げたってのは本当?」
    オーエンの言葉に、作り物めいた笑顔を浮かべシャイロックは言葉を返す。
    「半分は正解で半分は間違いです」
    「どういうこと。はっきり言ってもらえる?」
    「そう急かさないで。メインディッシュが出てくるのにはまだ早いでしょう」
    いたずらに笑うシャイロックに苛立った態度を隠す気もないオーエン、それを心配そうに見つめる晶という何とも気まずい空間にカインはどうしたものかと思案する。助け舟を求めるようにムルの方を見るも、一つにこりと笑うだけだった為早々に期待するのをやめた。カインは溜息を吐くとシャイロック達へと向き直った。
    「なあシャイロック、オーエンを苛めるのはやめてくれないか。俺としても出逢ったばかりのあんたを疑いたくはない」
    カインが真っすぐに告げればシャイロックはきょとり、と瞳を瞬かせる。先ほどオーエンへと向いていた冷たさとの温度の違いに、笑いそうになるのを押さえて言葉を続ける。
    「月並みな言葉だが、俺にはあんたが犯罪を犯す奴には見えないんだ。俺の希望的観測も含まれるけど」
    今度は柔らかく言葉を投げれば少しだけ視線を揺らして、そうして出逢ってから一番の笑顔を見せた。それは無垢な花が咲くようで、大人っぽいと思っていた印象が一気に変わる。その変化に反応したのは意外にもムルで、こちら瞳を月のように輝かせる。対してオーエンは更に瞳の温度を下げてシャイロックを睨みつけ、晶がそれをなだめる。それらの視線に気づいたシャイロックは一つ咳払いをすると、次の瞬間にはもう作り物めいた笑顔に戻っていた。
    「そう言われてしまっては私も意地の悪い事は言っていられませんね」
    「最初から素直に話せばいいのに」
    「あなたも大概素直ではないでしょうに」
    「また始まった…」
    どうやらこの2人は相性が悪いらしいと、カインが頭を抱えれば「似たもの同士だからね!」とムルが笑う。カインと晶が首を傾げる横で「似てない(です)」と2人が声をそろえた。



    「それで資産に関してですが、先ほどの通り、半分は正解で半分は間違いです」
    「つまり?」
    「確かに理事長の資産は私が持っています。けれど奪うだなんて、そんな品の無いことはしていませんよ。理事長、ムル本人から預かったものです」
    「その言葉を信じるとでも?」
    オーエンの鋭い声を気にした風でもなくシャイロックは返す。
    「信じるも信じないも、全てあなたの心、次第ですよ。オーエン」
    「おまえのそういうところが本当に嫌い」
    「あの、」
    またもや始まりそうな冷戦の最中、控えめな声が上がる。小さく手をあげたのは晶だ。みなの視線が晶へと集まる。
    「私、シャイロックを信じます。シャイロックの作るお酒は美味しかったですし、カインも言っていたけれど人を傷つけるような方には見えません」
    「俺も同意だ。それに一度言った言葉を裏切れない」
    晶の言葉にカインは加勢する。シャイロックは、それに素直な感謝の言葉を告げる。
    「ありがとうございます」
    「おまえたち、それで騙されていたらどうするの?」
    呆れた様に吐き出すオーエンに、2人は元気よく笑顔で声を揃える。
    「「その時考える!」」
    「馬鹿じゃないの…」
    「流石に私もやり辛さを感じます」
    珍しく意見があった2人であったが、それよりも話の続きだと、シャイロックは表情を正すと今度はカインに視線を投げる。
    「そうして資産を預かった後に、あなたに声を掛けさせていただきました」
    「俺?」
    そもそもカインがここに訪れたのは、シャイロックから依頼があったからであるが、オーエン達の登場で、すっかり思考から外れてしまっていた。
    「今や世界に誇るフォルモーント・ラボトリーの理事長であるムルの資産。そんなものを一般市民である私が管理するなど荷が重いこと。なので護衛を依頼したのです。勿論指名で」
    「なんで俺なんだ?ただの警察官に過ぎない」
    カインの疑問はもっともだった。例の事件の際にその界隈では関係者ができたが、結局の所は一介の警察官である。それにシャイロックのようなハイクラスの中でも階級の高い人間と接する機会など、無いに等しい。それでもシャイロックはおかしそうに笑う。
    「ご謙遜を。巷では有名ですよ。期待の若手警察官、誰にでも優しく誠実な理想の若者、フォルモーントシティの未来の懸け橋」
    シャイロックの連ねる言葉の羅列に、素直に恥ずかしくなる。膨張表現が過ぎる気もするが、悪い気はしないのは人間の単純なところだ。
    「つまりあなたに期待しているのですよカイン。私と彼の資産を守っていただけませんか」
    「え、と、その称賛は純粋に嬉しいんだが、守るって?」
    「それはもちろん、この資産を狙う者たちから」
    そうシャイロックが告げるとほぼ同時に、カイン達が入ってきた扉の方が騒がしくなる。それに瞳を輝かせたのはムル1人のみ。視線を鋭くしたシャイロックを除く3人は目を合わせつつも、嫌な予感を隠せないでいた。
    「なんだか騒がしい気が…」
    「思ったより早かったですね。3人とも此方へ」
    シャイロックに促され、カウンターの中へと入る。酒瓶が並ぶ棚の一つに手を翳せば電子音と共に1人が通り抜けられそうな階段が現れる。所謂隠し扉の出現に、いよいよ非現実の世界に紛れ込んだ心地になる。カインと晶が呆けていると、店の扉が音を立てて開かれる。わざとらしく足音を立てて入ってきたのは数人の男。一見するとハイクラスのような身なりをしているが、よく見ればそれぞれ武装していた。その眼光は鋭くシャイロックへと向けられるが、彼は臆することなく美しく微笑み返す。一気に不穏となった店内で、互いににらみ合いをする。カインは相手に気取られないように、そっと腰の銃のセーフティへと手をかけた。数秒の静寂を破ったのはシャイロックの凛とした声だ。
    「本日の営業は終了しました。どうぞ、後ろの扉からお帰りください」
    「要件なんてわかっているだろう。資産を渡せ」
    「あら、野蛮な方。うちの店はお客様に安らぎと享楽を与える場所。決して狼藉を許す場ではありません」
    鋭い声に男の1人が嫌な笑みをして銃口をシャイロックへと向ける。次の瞬間響いたのは、グラスが割れる音と男の叫び声。此方に向けて発砲した男の手から銃が零れ落ち、うめき声をあげながらその手を押さえる。カインは銃を男たちに向けたまま、声を張り上げる。
    「武器を下ろせ!」
    「フォルモーントシティ・ポリス!?話が違うぞ」
    「落ち着け、あの店主以外はどうでも良いって話だろう。お前たち、良い子にしていれば命までは取らない。俺たちだって殺しはしたくない」
    男達のその目をカインは知っている。目的の為ならば人を傷つける事のできる人間の目。対してこちらは戦闘に特化したメンバーではない。このままここで交戦するのは得策で無いことは明確で、シャイロックと視線を交わす。彼は一つ頷くと戸惑う晶を通路の奥へと押し込んだ。男の数人が銃を構えると同時にカインとシャイロックも通路の向こうへと体を滑り込ませ、それと同時にムルが男たちに向かって駆け出す。正面から向かう姿勢は無謀に見えたが、弾が放たれると同時に姿勢を下げ一人の足を薙ぎ払い、バランスを崩した相手の胸倉を掴むとそのまま床へと叩きつけた。流れる様な動作はまるで猫のようで男達はたじろぎ、カインと晶は思わず感嘆の声を漏らす。
    しかし発砲された店内が無事の筈もなく、数発放たれた弾丸の一つは棚の酒瓶に当たって血潮のような液体を床に散らした。シャイロックの纏う温度が数度下がったのは気のせいではないのだろう。
    「嗚呼、物の価値さえもわからない方だったとは」
    その瞳と声音は酷く冷たく。一つ深いため息を吐くと、ムル、と簡素に名を呼ぶ。
    「なあに?」
    「他のお客様のお相手もしてあげて」
    「それはお願い?それとも命令?」
    「命令です。そして、そのままのあなたで私の元に戻ってきなさい」
    すっぱりと言い切ったシャイロックに満足そうに目を三日月型にして笑う彼は、男を踏みつけたまま紳士的に礼を一つ。ふわりと舞ったアメジストが照明を艶やかに反射した。
    「オーナーがお望みならば。約束しよう、必ず君の元へ戻るよ。ムルとしてね」
    謡うように、呪文のように淀みなく紡がれた言葉には敬愛と歓喜が含まれていて。シャイロックは視線だけを彼に送って、さあ行きますよ、と晶の背を押す。
    「大丈夫なのか?」
    「ご覧になったでしょう?ああ見えて強いので心配はいりませんよ」
    待て!と焦る声が響くが次の瞬間には打撲音と無様なうめき声が聞こえ、信頼するだけの力はあるように思えた。けれど相手は武装しており、他にどんな手を使ってくるのかも予測できない以上、警察官としてムル一人を残すことはやはり気が引ける。数巡の葛藤の後、ムルの方へと駈け出そうとするカインの前を見知った白が立ち塞ぐ。
    「僕も残る」
    「オーエン!?」
    晶の叫びにローズクォーツは此方を一瞥して、すぐに視線は前へと戻される。
    「僕、ムルもシャイロックもまだ信用してないんだよね。こいつらと仲間の可能性だってあるでしょ」
    「えー!ショック!」
    「思ってもない事言わないでくれる?」
    随分な物言いだ、と思いながらもムルを一人残すことに負い目を感じていたカインにとってはオーエンが残ってくれる事はありがたい。シャイロックと晶はカインにとって守るべき存在であり、この場から去る事は現時点での優先事項だ。けれど追っ手をそのままにすることもできない。それにオーエンの語る可能性だって、考えたくはないがゼロではない。この状況でカインにとって問題があるとすれば一つ、危険な場に友を置いていくことができるのか、ということだ。そんなカインの葛藤を見透かしたように、白銀が揺れる。
    「なあに、カインは僕の事を信用してないわけ?」
    「そんなわけないだろ!」
    条件反射で返事をして、しまったと思う。時すでに遅し、言葉にしてからオーエンに乗せられたことに気づいてカインは一つため息を吐いた。
    「大丈夫だよ。…それに、約束したし」
    「…!約束、破ったら許さないからな」
    「こっちの台詞だよ。ほら、さっさと行きなよ。晶の事頼んだからね」
    任せろ、と握った拳をオーエンの肩にぶつける。肩越しに笑ったオーエンはいつの日か桜の木の下で見た笑顔をしていて。カインも同じものを返して。それだけでこいつは大丈夫だと、互いに確信した。



     背後で扉が閉まる音がする。隠し扉が閉まりきると同時に、オーエンはカウンターを飛び越え男達に笑いかける。その顔は先ほどの友と交わした純粋な笑みではなく、獲物を前にした獣のようだった。男の一人が本能的に息を引きつらせ雑に銃口を向ける。引き金を握るも一向に弾が発射されない事に更にパニックになった男は、ガチャガチャと音を立てながら何度も引き金を引く。オーエンは冷ややかな目線のまま一つ跳躍したのちに綺麗な曲線を描いてその頭部にしなやかな足を叩きこんだ。戸惑いの表情を浮かべたまま倒れ伏す光景に仲間の男達は一歩後ずさるが、ムルは楽しそうに瞳を輝かす。
    「銃にハッキングしたんだね。最新のプロテクトがかかっているみたいだけどどうやったの?」
    「僕、世界の全てを知っているんだよ。こんなのコンピューターゲームより簡単」
    ローズクォーツが一瞥すれば、男達の持つ銃は使い物にならなくなる。どうにかして銃弾を放とうと躍起になっていた男達は無駄なあがきだと分かった途端に、それらを投げすて2人へと一斉に飛び掛かる。氷のように冷たい視線のまま踊るように蹴りを繰り出すオーエンと、楽しそうに笑いながら此方はステップを踏んで相手を翻弄するムル。オーエンにとって大変不本意であったが2人の動きは酷く噛み合い、ものの数分で数人いた男達を床に寝かせた。ムルはどこからか出した縄で男達の自由を奪う。それをつまらなそうに見ていたオーエンは足元にあった銃を拾い上げ、くるくると回す。役割を奪われたそれは、オーエンにとっては玩具と変わらない。そんなオーエンを、興味深そうに見つめたムルは興味深そうにニコニコと眺める。
    「なに?おまえのその目、嫌いなんだけど」
    「その目ってどんな目?」
    「好奇心を隠そうともせずに他人の心の中に入り込んでくる、目」
    吐き捨てるように告げたオーエンの瞳には明らかな軽蔑が含まれている。常人ならばそれだけで震えあがりそうな冷たさに、対してムルは笑い声をあげる。オーエンは苛立ちを隠さないまま、手で遊んでいた銃口を雑にムルへと向ける。それにわざとらしくホールドアップするムルが益々腹立たしかった。
    「危機感はインストールされなかった?」
    「されているよ!それよりも好奇心の方が勝つけど」
    ムルは楽しそうに笑ってじゃあ俺からも質問、と三日月の口を開く。
    「なんで最初から銃をハッキングしなかったの?」
    「答えの分かっている質問をするのが趣味?」
    「たぶん!」
    「はあ、悪趣味」
    もう一度銃をくるりと回して、今度こそムルの左胸へと狙いをつけて銃口を向ける。口笛を吹くムルに最早反応する事も億劫で、そのままオーエンは言葉を続ける。その声は澄んだ氷のように冷たくて鋭かった。
    「おまえと二人で話がしたかったからだよ。ムル・ハート、フォルモーント・ラボトリーの理事長とね」
    ガチャリとセーフティが外れる音が静かにバーへと響いた。



    シャイロックのバーから逃げ出した一行が辿りついたのは、高層ビルから少し外れた路地裏だった。どうやら行く当てのあるらしいシャイロックを先頭に、3人は暗い夜道を歩いていた。
    薄暗い路地裏にバラバラの足音が響く。人工の光が届かない暗がりを照らすのは、夜空へと浮かぶ惑星のみ。喧騒に塗れる街から外れた空間は、月明かりも相まってどこか違う世界にいるようだ。夢見心地で空を見上げていた晶の意識を現実に戻したのは、後ろを歩くカインの声だった。
    「なあ、そういえば例の資産って結局どこにあるんだ?」
    その言葉は晶ではなく、晶の前を歩くシャイロックに投げかけられたものだった。晶は肩越しにカインを振り返る。その顔は声音の通りあっけらかんとしていて、機密情報を聞いている人間とは到底思えなかった。呆れを含んだブラッドリーの顔が浮かんで、妙に納得してしまったのは秘密だ。
    「おや?そのお話に関しては上手くはぐらかせたと思ったのですけどね」
    「それ思っていても言っちゃだめなやつですよ、シャイロック」
    思わず晶が声を上げれば、怒られてしまいましたね、と声音が笑うものだからどうも落ち着かない。そんなシャイロックにカインも困ったように笑って、そして一拍の後に今度は真剣な眼差しを彼に向ける。
    「言いたくないなら無理強いしたくはない。けど守るものを知っているのと知らないのじゃ行動の選択肢が変わるだろう?」
    彼の言う事はもっともだ。対象がはっきりとしない護衛ほど、やりづらいものはないだろう。カインは返事を待たずに言葉を続ける。
    「俺は任務としてあんたの護衛を請け負った。でもそれ以上に、いまは友人としてもあんたのことを守りたいと思っている。なあ頼むよ、お前の秘密を一つ、俺に明かしてはくれないか?」
    カインのその瞳は背中越しにも真っすぐと相手を見据え、そこに誠実さしかないのは疑いようが無い。彼らしい、カインだからこその裏表のない言葉に晶は不思議と誇らしくなった。
    その言葉を受けたシャイロックが足を止め、それに半歩遅れて晶、カインの順で歩みを止める。
    振り返ったシャイロックは、無表情だった。美しい造形が月明かりに照らされて、より無機質さを際立てる。それは、まるで人間ではないような。その姿に、胸の中心が音を立てた。知っている人間のはずなのに、そこにある未知の存在を感じて覚えた感情は、困惑と僅かな恐怖だ。それほどにいまのシャイロックの纏う雰囲気はがらりと変わり、思わずカインの方を仰ぎ見る。カインもシャイロックの纏う雰囲気に戸惑っていたが、それでも真っすぐな眼差しは揺るがなかった。
    そうしてお互いに見つめあって、どれだけの時間が過ぎたか。数秒のようにも数時間のようにも感じた静寂は、シャイロックが腕を上げた事で壊された。
    羽織るジャケットの胸元へと伸ばされた手に、カインが僅かに反応したのを視界の端に写す。もしも彼がここで牙を剥こうものなら、カインは全力で晶を守るだろう。考えたくもない可能性が頭を駆け巡るのに、晶はどうすることもできずにただ状況を見守るしかできなかった。
    2人が見つめる先で、シャイロックのしなやかな指がジャケットのボタンをゆっくりと外す。まるで焦らすような動きに、どうも様子がおかしいと、晶は混乱を始める。喩えるならばそう、まるでとってきおきの宝物を見せつけるような。黒に纏われた曲線美が姿を現して、襟元を緩めだしたシャイロックに、やっとの思いで待ったの声を上げたのは晶だった。
    「ちょ、ちょっと待ってください!シャイロック何をしているんですか!?」
    てっきりジャケットに忍ばせた銃で脅してくるとか、個人情報を基に脅しをかけられるとか、そんな類の展開を危惧していたのに。何故かシャイロックの素肌を見せつけられそうになっている事態に、思考が混乱する。
    「何って、カインが求めたのではありませんか」
    「え…?」
    「資産の在処。知りたいのでしょう」
    「あ、ああ…でもそれと今の行動が結びつかないんだが?」
    シャイロックの言葉に返事を返したのは、こちらも明らかに困惑の表情を浮かべているカインだ。先ほどまでの警戒心は薄れているが、この後の展開が読めずにどう動くか考えあぐねているようだった。2人の戸惑う様子に心底楽しそうに笑うシャイロックをみて、晶は肩の力が抜けるのを感じた。
    「ふふ、せっかちさん。ねえカイン。秘密とはヴェールを纏っていて、他者に暴かれず、決して誰の手にもわたらず、私だけのものであるからこそ、輝かしいのですよ」
    笑顔の戻った顔で饒舌に語りながら、シャイロックは止めていた手の動きを再開する。首元のボタンが外されるのを、見てはいけないものを見る様な、それでも決して目を反らすことは許されない空気を感じて凝視する。緊張感が走る2人を知ってか知らずか、シャイロックはそのまま語り続ける。
    「それは他者に暴かれる時も同じ。蕾のようにゆっくりと開かれて、特別な日のプレゼントのように急かされながら覗かれて、そうして手に入った宝石に、みな一喜一憂する。それが喩え歓喜だろうと落胆だろうと怒りだろうと、そこにある感情は秘密が暴かれた時のみに手に入るもの。その瞬間は酷く愚かで、同時に甘美で、私は嫌いにはなれないのです」
    上質な布が肌を滑る音が聞こえて、ついにそれが露わになる。月光に照らされた陶器のような真白い肌。穢れを知らない筈のその白に浮かび上がるものを見て、晶は無意識に呟いた。
    「黒い…百合の花…?」
    そこにあるのは、黒い百合の花だった。正確には百合の花を模したタトゥーが左胸を覆うように、その花弁を伸ばしていた。それは酷く官能的で、けれど文字通り華麗で、どこか懐かしさを覚える光景だった。
    (あれ?なつかしい?)
    ふと浮かんだ違和感に首を傾げる晶の思考が現実に戻されたのは、ふわりと目元が覆われ視界が黒に染まった為だった。
    「カ、カイン?」
    視界を覆う暖かなものはどうやらカインの掌のようで、頭上から焦ったような声音が降ってくる。
    「教育に悪いだろ!」
    「おやおや。もう少しおませさんなのかと思っていたのですが、意外と初心なのですね」
    笑うシャイロックの声に、上手く返す言葉が見つからないのかカインの狼狽えた気配を感じる。
    「カイン、カイン大丈夫です。シャイロックも何か意図があっての行動だと思いますよ。でなければ突然胸部を晒すのは変態の所業です」
    「う…まあ確かにそうか…」
    緩く掌を叩けば、ゆっくりと視界が解放される。カインを仰ぎ見れば普段よりも少しだけ頬を赤らめた姿に、オーエンが見たら揶揄い倒しそうだな、といまはいない友人の顔が思い浮かんだ。次いでシャイロックの方を見れば、先ほどと変わらず月明かりに惜し気もなく花弁を晒しており、カインにはああ言ったが直視するのには恥ずかしさを覚える。
    「すまないシャイロック、騒ぎ立ててすまなかった」
    「なんだか散々な事を言われている気がしますが、まあ良いでしょう。話を続けても?」
    「ああ、頼む」
    カインの言葉に、シャイロックは一つ微笑むと、その細い指先で黒い百合の花を撫ぜる。その様がやはり妖艶で、けれど視線を逸らすことはできなかった。それが好奇心からくるものなのか、それとも純真な使命感からくるものなのかは、晶にはわからなかった。
    「ここですよ」
    百合の花の中心部をとん、と叩く。その言葉の意味が分からず、晶とカインは揃って首を傾げる。
    「え、と…?」
    「どういうことだ?」
    2人の様子を見て、シャイロックは悪戯が成功した子供の様に楽しそうに笑う。
    「ここにムル・ハートの全てがあります」
    「は…」
    「世紀の大天才としての知識、彼が彼として自我を持った記憶、あの人をムルと知らしめる嗜好や思想の全て、その膨大なデータがここに埋め込まれています」
    「資産って話だろう?データなんて…」
    「立派な資産ですよ、カイン。アシストロイドの産みの親と言われているムルの知識や人格をその手にできるのですから。言い値で売ることができますし、その知識を活用すれば更なる発明や悪事にだって使えるでしょうね」
    シャイロックの言葉に何も言えなくなる。つまり彼は、友人であるムルに関するデータが入った媒体を、その胸にメスを入れて大事に仕舞いこんだということだ。確かに彼の言う通り、あのムルの知識や技術を持ってすれば、現在の世界の常識を変えることも難しくはないだろう。それは紛れもない資産であり、同時に脅威にも成り得る。そのデータがまさか、彼の友人であるシャイロックの胸の中に埋め込まれているなど、誰も想像しないだろう。
    「確かに盲点ですね。資産と言えば、お金を思い浮かべますし」
    実際に先ほどまでの晶も同様の考えをしていた。しかし思い直してみれば、あのムルの元となる人物が金銭に固執するとは思い難かった。つまりは先入観を上手く利用した保険なのだ。
    「でもなんで百合の花のタトゥーを?」
    カインの疑問はもっともだった。この街の技術ならば、メスの痕を残すことなどせずにデータを埋め込むことなど容易いだろう。
    「どうせならば、目に見えた方がいいかと思いまして」
    「?」
    「彼がここにある証、ですよ」
    「証…」
    「ええ。何せこれを施したのはムルですから。ここにあのムルの全てがある。その事実はとても憎らしくて、同時に酷く甘美でもある。ああ、そんな自分自身の葛藤を忘れないためでもあるかもしれませんね」
    そう自嘲気味に語るシャイロックは、妖艶で、けれど酷く幸せそうで。何も言えないカインと晶には構わず、シャイロックは満足したように衣服を整え一歩近づく。
    「これで満足いただけましたか?」
    「えっと…」
    にこり、有無を言わさぬ美しい微笑みを間近で見て、思わず狼狽える。それにシャイロックは酷く愉快そうに肩を揺らすと、晶の頬を優しく一つ撫ぜる。
    「ああ、それとも、もっと、深くまで知りたい?」
    「だ、大丈夫です!満足しました!ありがとうございます!」
    「シャイロック!晶にそういうのはまだ早いから!」
    「ふふ、残念」
    2人が慌てて声を上げれば、シャイロックはあっさりと身を下げる。それにあからさまに安堵してしまうのは致し方ないだろう。
    「さあ、そろそろ行きましょう。随分寄り道をしてしまいました」
    「いや、半分はあんたのせい…って本当だ!よし行くぞ晶」
    「は、はい」
    カインに急かされ、シャイロックを先頭にまた歩き出す。雑談を交えて足を進めながら、先ほどのやり取りを思い出す。
    (友人の秘密、それは世界にとって重要な資産で、その資産を預かったシャイロックは、たぶん自らの意思で胸にデータを埋め込んだ)
    アシストロイドである自分と人間である彼にとって、胸にメスを入れてデータを保管することの意味合いは大きく変わってくるだろう。喩えこの身が人間だったとして、その身に友人の全てを預かる事などできるのだろうか、と。浮かんだのはオーエンとカインの顔だ。この2人の為ならば晶はなんだってしたいし、必ず助けになるだろう。けれど、とも思う。その果てに、自身はあのような顔をできるのだろうか。シャイロックのあれは、そう、まるで、
    (恋、しているような)
    その事実に至って、けれど、と頭を振る。きっと、彼らの間にある感情は、自分の中にある言葉では表現できない、否、してはならないのだろう。
    風が一つ吹く。前を歩くチョコレート色の髪が靡いて、月明かりに煌めく。前を歩く彼はいまどんな表情なのだろう。友人を思って笑っているのか、憂いているのか。結局の所は彼の真意を知るなど、到底できはしないのだ。秘密と大きな感情を抱えて歩き続ける3人を、空に浮かぶ月だけが見ていた。



    長いと思っていた暗い路地裏の探検は、あっさりと終わる。辿り着いた先はどこか大きい施設の裏口のようだった。背の高い壁が連なる中に、ぽつん、と扉が一つある。無機質なそれは鉄製の頑丈そうな扉で電子パネルが数個取り付けられている。シャイロックは慣れた動作で電子パネルを操作するとあっさりとその鉄扉を開く。ぎい、と重たい音を立てて開かれた扉の向こうは、薄暗くはあるが路地裏よりも人工的な明るさがあった。
    「足元に気を付けて」
    シャイロックは晶の手を取ると、中へ入る様に促した。カインも周囲を警戒しながら扉をくぐる。街の喧騒があった路地裏と違い、建物の中は音が少ない。しかしよく耳を澄ませば遠くから、人間の気配や機械の音がする。
    「この先にムルの研究室があります。そこでムル達を待ちましょう」
    カイン達が歩く廊下は一本道になっており、左右に時折扉がある程度で人影はなかった。なんだか会話をすることが憚れ、無言のまま足を進める。何度かエレベーターを乗り継いで、やがて渡り廊下の様な通路を通った際に、眼下の部屋に白衣を着た人間の姿が見えた。一人の男性の足元には猫型と羊型のアシストロイドが転がる様に歩いている風景は、見覚えがあった。
    「ここ、フォルモーント・ラボトリー、なのか?」
    「ええ、一応あの人の友人なので。特別に出入りを許可されています」
    「なぜここに?戻るのは余りにも危険じゃないか?」
    カインの問いにシャイロックは一つ頷く。そもそもシャイロックはここでムルの資産を預かったのだから、その場に戻るのは場所が割れているようなものだ。
    「確かにリスクはあります。けれどここは最新鋭の技術を研究する場。セキュリティはそれなりに整っています。下手にどこかで身を隠すよりは安全かと思いまして」
    その言葉に、なるほど一理あると納得する。どちらにせよ追っ手は迫っており、どこに逃げた所で状況はそんなに変わらない。今は一旦体勢を整えてオーエン達と合流するのが先決だと、カインは黙って足を進める。
    かつてオーエンを巡って潜入した研究所の風景は記憶に新しい。あの時は真正面からの潜入だったが、今回は裏口から入った為中々気づけなかった。ガラス超しに見る下の人々は通り過ぎるカイン達に気づいた様子はなく、何やら慌ただしく足や手を動かしている。ペット型のアシストロイド達も懸命に書類の運搬などを手伝っている様は、少し微笑ましかった。感嘆の声をあげる晶を見ると、猫型のアシストロイドに熱い視線を送っている。
    「猫、お好きなのですか?」
    「大好きです!かわいくって…懐っこい子も好きなんですが、可愛く鳴くのに撫でさせてくれない気分屋な子も可愛くって…」
    「晶は本当に猫が好きだな」
    晶は無類の猫好きで、猫を手懐けたり猫の集会所をよく知っている。オーエンも瞳を輝かせて並んで猫を見ていた姿は中々に微笑ましかった。そんな記憶を思い起こしているとシャイロックは一つ笑う。
    「奇遇ですね。私も猫は好きですよ」
    同じ言葉の筈なのに、なぜだか数時間前に別れた紫毛の猫が思い浮かんで、カインは何とも反応に困ったのであった。



    「到着しました」
    機械音と共にスライド式のドアが開けば、そこには白を基調とした円状の部屋があった。壁に数個のモニターがあり、大きな物から小さな物まで様々な形状の機械が置かれている。中心には僅かに音を立てて稼働する大きな機械。何かを管理する部屋のようだが、専門外のカインには全くもってその用途は分からなかった。椅子は数脚おいてあり、シャイロックは上着を脱ぐと椅子の一つにかける。
    「長らく付き合わせてしまいお疲れでしょう。休憩しましょうか」
    カイン達にも椅子を勧め、誰かが置いたのであろうコーヒーメーカーへカップをセットする。液体の落ちる音と、インスタントの香しさに思わず息を吐く。気を張っていた自覚はあったが想像以上に疲労として体に蓄積していたらしく、椅子へ腰かけるとどっと疲れが襲い来る。流石に寝落ちることはなかったが、この3人での場では立ち上がる気力は無かった。そんなカインを心配げに見た晶はシャイロックから受け取ったコーヒーに砂糖を混ぜるとカインへと手渡す。一口つければ香ばしさとほのかな優しい甘みが身体に染み込む。普段ならコーヒーに深いこだわりはなくブラックで飲むことの方が多いが、今ばかりはこの甘さがありがたかった。
    「美味しいよ。ありがとう、シャイロック、晶」
    「礼を言うのは此方です。あなたには色々と迷惑をおかけしていますから」
    シャイロックも椅子へと腰かけると、コーヒーに口をつける。お互いにほっと息をついて、つかの間の休息となる。思えば半日程で色々な事がありすぎた。ボスからの命令から始まった任務だったのが、まるで映画のような話に巻き込まれている。
    (まさかあのシャイロックと知り合って、理事長の資産を守ることになるなんて。銃撃戦をしたのは初めてではなかったが、流石に肝が冷えた。オーエンは大丈夫だろうか、いやきっとあいつのことだから無事に決まっている。この任務が終わったらボスに報告して、そうだボス、)とまで考えたあたりで、カインはおや、と思った。上手く働かない頭を動かそうとして、少しばかり頭を捻って、次の瞬間には、あ、と声をあげた。
    「ボスに連絡すればよかったんじゃ…!?」
    「うわ、びっくりした」
    椅子から立ち上がった勢いのまま携帯端末を手に取る。幸いにもバッテリーは十分にあり、電波にも問題はない。そのまま連絡をしようとして、一度シャイロックの方を見た。
    「ボス、とはもしかしてブラッドリーのことですか?」
    「ああ、俺の上司だ。今回の件、俺だけでなくて上の力も借りるべきだと思うんだ。あんたの秘密の話は絶対言わない。けれど命を狙われている状況は伝えてもいいか?」
    「…あなたって、本当に誠実ですね」
    困ったような、呆れたような。けれどそこに歓喜のようなものも綯交ぜにした表情でシャイロックは笑う。
    「?それってどういう…」
    「お気になさらず。どうぞ、お伝えください。あなた方が無暗に傷つく可能性は少ないに越したことはありません」
    シャイロックの言葉には確かな信頼を感じて。それに礼を一つして、カインは履歴にあるブラッドリーの名をタップする。3度呼び出し音が鳴り、2秒の静寂の後に聞きなれた声が耳に響く。
    『…連絡が遅い。新人教育の時に報連相は叩き込んだ筈なんだがなぁ?』
    音声のみの筈なのにその声音に怒りが込められているのは明確で、カインの背筋が自然と伸びる。ブラッドリーに対しても未だ敬語は扱えなかったが、警察官としての精神はその身に叩き込まれている。張り詰めた静寂の中耐える様に次の言葉を待てば、向こう側で深いため息が吐かれた。
    『ったく…お説教はあとだ。状況の説明をしろ』
    「護衛対象とは合流したが、そこで武装した男たちに襲われた。いまは逃げてラボで休んでいるところだ。敵の素性や組織の大きさが分からない、応援を頼みたい」
    『さっさと言え、馬鹿。良いか、そ…を…くな……す…に…』
    「ブラッド?おいブラッド?」
    ざ、という雑音が混じりブラッドリーの声が不明慮になる。どうやらこちら側の音も聞こえていないようで、時折聞こえていた単語も次第に雑音に塗れ、最終的には通話は切れてしまう。画面を見れば通話終了画面と共に、電波が無いことを示す表示。先ほどまでは問題がなかった筈なのにと首を傾げた途端に、ぶつんという音と共に部屋が暗闇に包まれる。一瞬の後にオレンジ色の薄暗い照明がつき、同時にけたたましいアラーム音が鳴り響く。
    『停電です。停電です。非常電源に切り替わります。』
    「停電!?」
    「恐らく人為的なものかと。追っ手、でしょうね」
    シャイロックと晶も鋭い表情で静かに立ち上がる。その瞳は険しく周囲を警戒している。
    「以前の………でその辺りの………筈…。やはり、内部……」
    「シャイロック?」
    口元に手を当てたシャイロックが何かをつぶやくが鳴りやまぬアラーム音にかき消される。確かめようにも明らかな異常事態に、身体は自然と警戒態勢を取らざるを得ない。このタイミングでの電波遮断や停電が偶然とは思えなかった。この部屋にあるのは入ってきた入口一つのみ。
    「シャイロック!他に出入口は!?」
    「申し訳ありません…ラボの中にまで侵入されるとは」
    最新鋭の技術を誇る研究所に関係者以外のものが侵入するのはそう容易くはない。以前のヒースクリフのパスカードは異例なのだ。一瞬とはいえ停電を起こしたという事は、相手も強行突破に出た可能性が高い。これはいよいよまずいかもしれない、とカインは冷や汗をかくが後ろに立つ晶の姿を見る。晶は決して弱くないが、いまこの状況で友人を守る力があるのは自分だ。カインは晶とシャイロックを背に、銃のセーフティを外すと静かに構えた。
    「カイン!」
    「オーエンと約束した。約束を破ったら、あいつ拗ねちまう」
    晶にとってはもどかしいだろうが、カインには晶の存在は心強かった。友が信じてくれる、友との約束がある、それだけでカインはいつだって前を向けるのだった。



    どのくらい経ったか。永遠の様に思われた時間は、停電の時と同じように突然部屋に明かりが灯る事で終わりを告げる。薄暗い照明に慣れてきた目には少しまぶしく、思わず目を細める。それとほぼ同時に扉が開かれた。そこにいたのはバーに侵入してきた男達と似たような身なりのものから、ラボの制服を着たものまでさまざまで、明らかに先程よりも人数がある。思わず踵を擦れば、まるで後退りのような音がなる。どう見ても不利な状況だった。
    対して侵入してきた男達は明らかな武力の差に余裕の表情でこちらを見る。中には武器を構えていない者もいて、随分なめられたものだと笑いたくなった。出口は男達の背中側、ここから走り抜けたとしてその途中で身体のどこかに穴が空くのは想像に容易い。八方塞がりの状況にカインは舌を打つ。
    「大人しく資産を渡せばお前達はすぐに逃がしてやる」
    「どうだか。あんたらのような奴が約束を守った試しがないんだが?」
    「若いのに経験豊富だな兄ちゃん」
    「お褒めに預かり光栄だ」
    男達が馬鹿にしたように笑うが必死に感情を抑える。冷静さを欠いて行動するのは得策ではない。カインは話しながら、少しずつ相手と距離をとる。せめて2人を物陰に避難させて相手と離せば、すぐにその銃弾で体を貫かれる可能性は僅かにだが低くなる。それでも袋小路のこの状況では打開策とはならない。相手側が完全に油断しているとはいえ、まさに絶体絶命だった。
    (くそっ、どうすればいい。どうすれば2人のことを守ることができる…?)
    どれだけ考えても打開策はなく。降参の意を示したとして、カインと晶の命が助かる可能性だって低い。カインは奥歯を噛み締める。どうにもならないこの状況に苛立ちさえ覚える。カインの葛藤を嘲笑うように、リーダー格の男が銃を持ち上げる。
    「俺たちも暇ではないんだ。そろそろ終わりにしよう」
    「晶!シャイロック!隠れろ!」
    男が銃弾を放つと同時にカインは叫ぶ。2人を部屋の中央にある機械の影に身を滑り込ませ、カインも間一髪のところで銃弾の餌食になるのは免れた。キン、と高い音がして先ほどまでカインが立っていた場所を通過して銃弾が駆け抜ける。かくれんぼか?と笑う男たちの声が酷く耳障りだ。カインは一度瞼を閉じて、す、とレモンクォーツを開く。その瞳には確かな覚悟が宿っていた。
    「いいか、俺が奴らの相手をする。じきにボスたちが来てくれる。時間稼ぎだ。難しいとは思うが隙を見て逃げられそうならそのまま外へ向かうんだ」
    「…!だめです!カインだけにそんな危険なこと…!」
    「でも他に方法がない!」
    晶の意見は想定していた。もし、自分が逆の立場なら、その身が張り裂けそうな思いだろうとも想像がつく。真っ直ぐなカインの眼差しに晶が言葉に詰まる。そんな2人の様子を黙って見ていたシャイロックが静かに口を開く。
    「…資産を渡しましょう。あなた方の命には変えられません」
    「それはだめだ」
    カインはキッパリと答える。シャイロックは不思議そうに、疑念を含めた視線をカインへと送る。
    「なぜ?それが一番利口な行動ですよ」
    「あいつらに資産を渡したとして、俺たちの命が無事であるとは限らない。それにあんただって言ってただろう。あんな奴らに渡したところで、きっとその資産は悪用されるだろうな」
    アシストロイドと人間の共存は始まったばかりで、まだまだ問題は山積みだ。反対派の意見だってあるし、あいつらだってその組織の一つだろう。カインにとってアシストロイドは最早隣人だ。それが悪用されるかもしれないなんて、そんなこと許せなかった。
    「カイン、なぜそこまでするのですか?警察としての使命?正義感?だったらおやめになって。それで心身共に傷つくのはあなたです」
    私はそれが耐えられない、そう告げたシャイロックの声が震えたのは気のせいではないだろう。やっぱりこの人は優しい人だって、信じて良かったとカインは笑う。
    「たしかに、俺はそれらを否定できない。でもシャイロック、俺はあんたが思っているよりも、ずっと単純だ」
    ああ、タイムリミットが近い。そろそろ相手も待ってはくれないだろう。銃を握りなおす。大丈夫、腕前はあのボスのお墨付きだ。きっと守れる。
    これはカインのエゴだ。守ると約束したその誓いを、友人との未来を、自分の心を裏切りたくないという思い。
    「俺の大切なものを守りたい、ただそれだけだよ」



    3.2.1の合図を唱えて、カインは飛び出すと同時に3発弾を放つ。2発は先頭に立っていた男の武器を弾き壊し、1発は1人の足を貫く。その銃声を合図に男達も武器を取るが、この状況まで追い詰められた者が牙を剥くと思っててなかったのか騒めきを感じる。元々寄せ集めの集団のようで、動きに統率が取れていないのは良い誤算だった。カインがすぐに横に飛び退けば、今いた位置には銃痕が残る。銃弾が頬を掠め一筋の血が流れるも、怯まずに更に2発。今度もしっかりと相手の銃を無力化させる。しかし数人無力化したとはいえ人数で勝るのは向こう側で、次第に相手側の攻撃を避けることに専念することしかできなくなる。幸いにも銃弾が身体を貫くことは免れているが、それも時間の問題であるのは明確だった。
    (いまどれだけ経った?ボスはどれくらいで到着する?晶達は無事か?)
    上手く椅子やテーブルを使いながら身を守るが、体力的にも限界を感じ始める。頭に過るったのは過去の映像でも両親の顔でもなく、背中を預けてきた友人の顔だ。
    (オーエン…)
    あの日、約束が果たされないと怒って悲しみ揺れた友の瞳。また約束をした時の、友の笑顔。それが酷く心残りだった。らしくもない想像だと分かってたけれど、どうにも弱気になってしまう。そんなカインの心情などお構いなしに男達は耳障りな声を上げる。
    「遊びは終わりだ。そろそろくたばれ!」
    ごめん、一つ呟いてせめて最期に一矢報いてやろうと身を乗り出したと同時、聞き慣れた声が部屋に凛と響く。
    「くたばるのはお前らだよ」
    不発に終わった金属の音と鈍い打撲音、そして男の呻き声が落ちて部屋には一瞬の静寂が訪れる。今まさにカインのことを撃ち殺そうとした男は白いしなやかな脚の下に倒れ伏している。なにが起きたのか、この部屋にいる誰もが理解できていなかった。白を基調としたシルエット、細身でしなやかな体躯、白銀に包まれる美貌にはあの日の花の色。男を見下ろしていた氷のようなローズクォーツは、カインを見つけるとふわりと溶ける。
    「オーエン…?」
    「らしくない顔しないでよ」
    ほら行くよ、一言放つと掴みかかってくる男を軽々と避けるとそのまま手刀を加え、今度は片足を軸に別の男へと回し蹴りを叩きこむ。それを見てカインは銃を握る。ぐ、と一度だけ瞼を強く閉めて、ツンとした鼻を誤魔化すように大きく息を吸って。開かれたレモンクォーツには、もう諦念はなかった。
    「オーエン!」
    迷いのない銃声が一つ響いて、オーエンに向けられた銃を弾き落とす。騒めきの中、オーエンは満足そうに一つ微笑むとカインの方を見ずに駆け出す。舞うように男達を薙ぎ倒し、ステップの邪魔となるものにはカインの銃弾が撃ち込まれる。床を叩く硬質と、銃弾が弾ける音は、一つの狂想曲のようで気持ちが良い。合図も、視線だっていらない。オーエンの動きが手に取るように分かる。その事実にカインは自身でも知らず不敵に笑う。
    きっと、いまなら世界中の誰にだって負けない。そう叫びたい気持ちを押さえて、長い夜の終わりを告げる銃弾を放った。



    「カイン、なんで僕が怒っているかわかる?」
    「…はい」
    床に倒れ伏す男達がフォルモーントポリスに回収されている横で、アシストロイドに説教される警察官という奇妙な構図が出来上がっていた。機嫌良くステップを踏んでいた筈のオーエンは、いまはその瞳に明らかな怒りを籠めて仁王立ちをしていた。対してカインは先ほどの興奮が嘘のように、オーエンと目を合わせることができないでいる。
    「確かに晶を頼むとは言ったけどおまえの命を犠牲にしろなんて言ったつもりはないんだけど」
    「犠牲にしてなんか…!」
    「僕が来る前、死ぬ覚悟だったでしょ」
    「はい…」
    すっぱりと切り伏せられてカインは最早肯定の意を示すしか許されない。何を言ったって言い訳にしかならない事はカインも理解していた。ちら、とカインの腕にしがみつく晶を見るが、こちらもご立腹のようで珍しくそっぽを向かれてしまう。そんなカインを見て、オーエンは深いため息を吐いた。
    「晶が定期的にルートを送ってくれてすぐに到着できたから良いものを」
    「はい…」
    「…自分が囮になるって飛び出して行った、カインが死んじゃう、って晶が泣きながら通信してきた時の僕の気持ち、わかる?」
    「…本当に、悪かった」
    今度はしっかりと瞳を合わせて謝罪をする。ローズクォーツとイエロークォーツがぶつかって、暫し冷たい沈黙が訪れる。長いようで短い沈黙を破ったのはオーエンの何度目になるか分からないため息だった。
    「どうせまた同じ状況になったら無茶する癖に」
    「う…」
    「約束してよ。もう無理しないって」
    有無を言わさぬ迫力を籠めた目線に対して、声は少し震えていて。そこにあるのは恐怖だった。全能の神である彼が、友を失うことに恐怖を抱いている。それはとんでもないバグのようで、どこまでも人間らしいと思った。けれど、とカインは首を振る。
    「…ごめん、それはできない」
    「カイン」
    オーエンの声が低くなる。怒りが込められたそれには、明らかに悲しみも含まれていて。謝りたくなる気持ちを抑えてカインは続ける。
    「俺は警察官だ。守るべきものがいれば、俺は駈け出してしまうだろう。たぶん止まり方も知らない。そういう風に考えた事がないし、考える気も、無い。それにさ、」
    カインの言葉の続きを2対の瞳がじっと待つ。怒りと哀しみの裏に恐怖と信頼がまじりあって、複雑な色を携えている。それぞれの瞳を順番に見据えて口を開く。
    「友人を守る為だったら、たぶん身体が勝手に動いてしまう!それは俺自身にも止められないんだ」
    眉を下げて笑えば、何度聞いたか分からないため息が2つ。
    「ほんと、質が悪い」
    「オーエンに全面的に同意です」
    呆れた笑いと泣き声混じりの笑いが落ちて、2人は顔を見合わせる。
    「じゃあそうならないように晶が見守ってあげて」
    「もしピンチになったら、またオーエンが助けてください」
    友を守りたい、その強い意志はそれぞれ同じなのだ。それをカインだってわかっている。だからこそ身体は動いてしまうし、きっと彼らはそのたびに怒ってくれる。カインにとってはそれだけで十分だった。
    お互い笑って、そうだシャイロックにも声を掛けようと周囲を見回した時、わざとらしい程の拍手が響く。それは何とも芝居がかかっていて、やけに耳についた。部屋中の視線が一か所に集まる。軽やかに踵を鳴らしながら現れたのは、アメジスト色の猫。バーでオーエンと共に別れた彼は、数時間前とどこか雰囲気が違う。けれどその明確な違いが分からず困惑して横のオーエンを見れば、彼は今日一番の冷ややかな瞳をしていた。
    「実に素晴らしい!人間とアシストロイドの垣根を越えてこれほどまでの友情が築かれているなんて!」
    ムルは仰々しくお辞儀を一つ。まるで舞台上のスポットライトに照らされた役者のように存在感があった。爛々と輝くエメラルドは知っている筈なのに、知らない輝きで。その違和感に首を傾げる。
    「おやどうしたんだい?まるで知り合いのドッペルゲンガーを見たような顔をして」
    「いや…なんというか、ムル、でいいんだよな…?」
    「如何にも俺はムルさ。君が知っているムルでもあり、君が知らないムルでもある。君の知っているムルというのは、もう少し無邪気だ。どこかの誰かさん好みの猫のようにね。けれど俺にその要素が全くないかと問われればその答えは否定になるだろう。それに事実、俺は君に出逢ったことはある」
    「ううん…?」
    不可思議な問答に疲労が蓄積した頭は追いつかない。そんなカインにムルは紳士的に手を差し出す。
    「まずは君に敬意を。君の物語を全て聞きたいけれども今は我慢しよう。あそこの男達みたいにはなりたくないからね」
    オーエンの方をちら、と流し見てウインクを一つ。部屋中に響くのではないかと思う程の舌打ちが横から聞こえた。
    「その回りくどい喋り方どうにかならないの?聞いていて不快なんだけど」
    「そこまではっきりした自我が芽生えるなんて、やっぱりカルディアシステムは奥が深いな」
    「お前ほんと嫌い」
    吐き捨てるオーエンに、2対の瞳が説明を求める視線を送る。今日はオーエンの嫌そうな顔をよく見る日だった。オーエンは最早一瞥すらせずに悪態をつく。
    「僕達こいつらに嵌められたんだよ」
    「人聞きの悪い」
    聞こえた単語に戸惑いを隠せない。不穏な空気を遮ったのは、凛と澄んだシャイロックの声だった。
    「ムル、ちゃんと説明をしてさしあげて。これではオーエンの言う通りです」
    「なんだい、君だって楽しんでいたくせに」
    「ムル」
    「わかったよ。君は怒らせると中々に恐ろしい」
    芝居がかかった動きで降参のポーズをして首を振る。似たようなやり取りを見た事がある筈なのに、全く違うことにいよいよ脳がパンクしそうだ。そんなカインに構う事なく、否、奔放するようにエメラルドは三日月型に微笑むと指先を一つ鳴らす。
    「それでは種明かしといこう。人はいつだって真相を求めるものさ」



    「絶対に、お断りです」
    きっぱりと言い放った友人の顔は月明かりの横で瞬く星々のように美しく、されど全てを燃やし尽くす焔のように恐ろしい。感情に振り回されない、なんて顔をしておきながらムルが知る中で最も感情的なひと。いまだってほら、突き放しながらムルの次の言葉を待っている。なんて分かりやすいのだといっそ心配になる。そんな愚かしいところが酷く好ましかった。
    「なぜ?理由を教えてほしい」
    「理由ですって?」
    ああ、また声のトーンが一つ落ちた。美しい声はその音を下げようと耳当たりは良いが、ファンが聞いたら卒倒するだろう。その声や顔を知る人は、世界にムル一人だろうな、と笑う。いやもう一体いたか、とどうでも良い事に思考を巡らしていれば射貫くようなルビー。どうぞ続けて、と笑みを送れば深いため息が零された。
    「あなたを殺して、あの子、ムルに身代わりをさせろですって?正気とは思えない」
    「正気さ。あと君は一つ間違っているよ。俺を殺すのではなく仮死状態にしてコールドスリープしてほしいと頼んだんだ。間違わないでくれ」
    「同じようなものです。もし、目覚めなかったらと考えないのですか」
    ルビーに悲痛が宿る。ああ、やっぱり美しいな、と微笑んで。ムルは肯定を示すために首を縦に振る。
    「そうしたらそこまでさ。その為のMurr型だ」
    ムルはきっぱりと告げる。そこに一切の恐怖も迷いもなく、あるのは最早好奇心だけという事実に、今度こそルビーには暗雲がかかる。それがどんな色でも好きだが雲は嫌いだ。そこにあるのは愛しい月の君ではないけれど、宝石が曇る事もムルは好まない。けれど、言葉を覆すことはなかった。この口はいつだって友人の意にそぐわない。
    「君の為にもう一度説明しよう」
    ここのところフォルモーント・ラボトリーではとある噂があった。上層部の、極少数しかしらない情報。どうやらラボの情報を狙う組織があるらしいという噂だ。あの一件以来、この街は平穏を手に入れたように思えた。されどそれは表面上の事。世界が良くなるように動いている者たちがいる中で、それを疎むものもいる。アシストロイドに感情や権利がある事を望まないひと。フォルモーント・ラボトリーが発展することを望まないひと。それら1つずつに関しては想定内であり、致し方ないことだとムルは思う。自由の権利を求めるならば、その思考や組織に反発を覚えるものがいる事も、それも自由の形なのだ。一つ一つの芽をつぶすことなどできないし、する必要もない。それが許されることは即ち独裁であり、その結果生まれるのは平穏とは程遠い世界だろう。では何故その噂が問題視されているのかと言えば話は単純だ。その組織が実態を持って動き出したから。反発の意思に自由を許したとて、ラボの情報やムルの保持する情報が外部に流出することは避けたい事実だった。この混沌とするフォルモーントシティで情報や技術が流出し犯罪に活用されてしまえば、それは多くの命を危険にさらすことになる。好奇心に満ち溢れていると自他ともに認めるムルであったが、愛するアシストロイド達が傷つくのを望んではいない。いつか好奇心がそれを求める可能性もあるが、少なくとも今では無かった。しかし問題が一つある。噂の割には相手の素性が中々つかめないのだ。事を起こすならば最悪の場合ムルの命を狙うだろう事は早い段階から想定にある。しかし相手の動きが見えない以上、対策を取ることも難しい。そして恐らく内通者がいるだろうことも想像がつくのだが、そちらは慎重に動いているようで中々尻尾を掴めない。つまりどうにももどかしい状況が続いていた。
    「だったらいっそのこと、炙り出せば良いと思ったのさ」
    ムルは姿をくらませ、誰かがその資産を持ち去ったとラボ内に噂を流す。人間とは噂好きな生き物だ、あっという間に内通者の耳に届くだろう。そうしたら奴らは焦る。自分たちが虎視眈々と狙っていたものが他の者の手に渡ってしまったのだからたまったものじゃない。他の競争者の手に渡ったら、とも考えるのではないかな。躍起になって手に入れようとするだろう、それこそ強引に。持ち去った誰かさんに罪を擦り付けて情報だけ奪えば良いのだから、いっそチャンスだと歓喜するかもしれない。どちらにせよ相手は油断するだろうし、そういう人間は大抵隙が生まれる。そこを仕留める事ができれば無事に事件解決だ。
    「あなたが仮死になる理由が語られていませんが」
    「語らなくてもわかるだろう。保険とスパイスさ」
    部屋の温度が幾度か下がった気もするが、ムルは構わず続ける。
    ムルの記憶のバックアップ、それをMurr型、つまりシャイロックの管理するアシストロイドに移行するのはなにも初めてではない。自身のそれまでを心を持つ機械人形に保存する事でムルという人間が死んでもその記録は残り続ける。Murr型は元々その為に作られた。ムルが消えた時の保険であり、命のストックだ。昔の詩人は言った、人は自身を知る全ての人に忘れられたとき本当に死ぬのだと。ならば自身が覚えているのならば?データとして残り続ける人格に、果たして終わりは訪れるのだろうか。けれどシャイロックに渡したアシストロイドには敢えてムル・ハートとしての人格は組み込まなかった。シャイロックがどのような人格を作り上げるのか興味があり、その人格で生きるアシストロイドに興味があった。人格が変わった末のムルが今のムルと同じ言えるのか、その時にムルがどう思うかなんて、分からなかったけれど、この矛盾も酔狂だと思ったのだ。
    閑話休題。つまり本人は眠って事が収束するまでその身を隠し、バックアップとして動くムルには陽動となってもらう。例えムルが壊されようとも、持ち出す資産の中にこの会話の直前までのデータなら組み込んであるうえに、ムルの変わりは幾らでもいる。事が済んだ後にムル本人が目を覚ませば全てが元通りになるし、ムルの身体が目覚めなくとも今日までのムルは記録されているのだ。
    「嫌だな、そんな瞳で見ないでくれ」
    「やはり、あなたとは価値観が合わないようです。命を粗末にすることに何の意味があるというのです」
    「粗末にはしていない。それに意味ならあるさ。世界平和という大義名分」
    「好奇心に身を任せて火に飛び込む事が?随分酔狂な正義があったものですね」
    シャイロックは煙草に火をつける。嫌煙と人工が進む社会で葉が焼ける匂いを嗅ぐのは久方ぶりだ。真っ白い息と共に苦くも甘い香りが部屋を曇らせる。煙る世界で美人は皮肉気に笑う。
    「だったらまだ無鉄砲に自身の正義を貫くエゴイストの方がマシです」
    「如何にも、君が好みそうな意見だ」
    吐き出す言葉に返るものすべてが気に食わないらしい。シャイロックはまた深く煙を肺に落とした。何を言っても癪に障ると、議論を絶ち切ったらしい。こうなると頑固なのはシャイロックで、ムルは彼が続きの言葉を煙と共に吐き出すのを待つ。声音は鋭いままだが煙を吸い込んだ事で幾分落ち着いたのだろう、会話は続く。
    「それで?ムルに囮になれと。武装した人間を相手にするのは一筋縄ではいかないと思いますが」
    「ああ、そこに関してはもう一つ。これには好奇心も含まれるのだけれども」
    「素直ならば許されると思わないで」
    「まあまあこれは君も好きな類の話さ」
    聞いてくれ、とウインクを送る。もう一度煙草を咥えたのを肯定と取り口を開く。
    今回の件、フォルモーント・シティポリスにも協力を仰ぐ、というのもポリス側からもラボ周辺での不審な人間の動きがあると署長から連絡が来ていた。その時ふとムルの頭に浮かんだのは数か月前の事件の際に出逢った一人の青年だ。夕焼け色と裏表のない笑顔が印象的な、太陽のような若手の警察官。否、それは関連記憶であり、ムルの興味を惹いていたのは、その警察官と連れ立って下町の氷菓子を幸せそうに頬張る2体のアシストロイドの姿。心を持った、誰のものでもないアシストロイド。彼らは互いを友人と呼んでいた。アシストロイドと人間の懸け橋、まさにその第一歩となるにふさわしい彼らではあったがやはり疑念を抱く声が上がっていた。特にオーエン、彼に関しては未知な部分が多く、処分をした方が良いのではないか、という意見も未だに聞く。フィガロが取り合っている今はどうにかなっているが、何か起爆剤があればこの関係性が瓦解するのは簡単だろう。ならばいっそヒーローに仕立て上げれば良いのだ。誂え向きに事件がすぐそこにある。それに純粋な戦力と、物事を進めてくれる人間も欲しい。物語にはいつだって主人公がいるものだ。
    「君が好みそうな青年だ。正義に突き進むエゴイスト。正に今俺たちが求める人材だ」
    「巻き込むというのですか。これは我々のような私利私欲に飢えた大人達の問題でしょう」
    「その通り。だけど若い芽が摘まれてしまわぬように手を回すのだって、我々のような大人の仕事だよ。聡い君が分からないはずがない」
    一石二鳥、みんながハッピーエンドの結末に何の不満があるというのだろう。まあ彼の不満は手に取る様に分かるのだが、その意思に沿うことが友情だとはムルは思わない。ムルとしてはこれ以上語る事はなく、後は葛藤するシャイロックの答えを待つのみとなる。否、答えは決まっているのだ。彼が葛藤しているのはムルへと投げる言葉だけだ。イエスを出すには長い時間をかけてゆっくりと煙を飲み終えたシャイロックは、灰皿に残り火を押し付ける。そうしてまるで別れ話を切り出すかのように、重たい口をゆっくりと開く。
    「…1つ条件があります」
    「言ってごらん」
    「今回の作戦中はムルの人格はスリープモードにして、ムル・ハートとして行動をするように設定すること。事が済んだら元のあの子に戻してください」
    「それはムルに俺の人格が混ざる事が嫌だと言っているように聞こえる」
    「そう言っているのです」
    鋭い言葉に思わず吹き出す。この友人はなんて滑稽で愚かしいのだろう。ルビーが此方を射貫くもこれに関しては彼が悪い。Murr型の試用にあたり、ムルにとって一つ誤算があるとすればシャイロックがあの機械人形に予想以上に入れ込んでいる事だ。懇切丁寧に使用用途を示すデータまで付属させたというのに、取扱説明書を読まないタイプだったらしい。苦しむ事なんて目に見えているというのにそこにムルの名を飾ることも、酷く感情的で人間らしい。あの機械人形に向ける視線を見て、自身にも喜楽以外の感情がある事を知る事ができたのは良い誤算だったと言えるだろう。兎にも角にも、彼が作り上げたムルが書き換わってしまう可能性がある事を恐れているのだ。そこに潜む矛盾に気づいているのかどうか問い詰めたい衝動を抑えて、息を整える。
    「本当に君は面白い。良いだろう笑わせてもらったし、今回はあのアシストロイドのデータへの干渉はやめておこう。約束するよ」
    「…本当に、癪に障る人」
    遂に言葉として吐き出された悪態は、直接的なコミュニケーションを好むムルにとって誉め言葉以外の何物でもなかった。しかしこれ以上怒らせるとウインクでは誤魔化せなくなるのは経験上十分に身に染みている為大人しく彼が言葉を続けるのを待つ。この数十分間ずっと不機嫌な瞳は、それでもエメラルドから視線を逸らさなかった。
    「それともう1つ、質問を。…誰があなたの資産を持って逃走するのですか?」
    ルビーには言語では表せないほどの感情が幾重にも重なる。敢えて簡潔に表現するなら、そう期待と不安。あとは他の誰にもその役目を渡したくはないという執念。ムルはその酷く人間的な友人の瞳が嫌いではなかった。結局の所、彼が求めるものは酷く単純で陳腐だ。意地らしくて、愚かで、滑稽で、今だって睨みながらも俺の口が開く事を今かと待ちわびている。だからこそ酷く愛しいと思うのだ。それにそろそろサプライズプレゼントを渡したって良い頃合いだ。ムルはとびっきりのキザったらしい笑顔でシャイロックを指さす。
    「君以外の誰がいる。分かりきった答えを聞くのが趣味?」
    それとも俺の口からききたかった?そう問うてやれば「そうかもしれませんね」と思いのほか素直な答えが返ってきた為、ムルは拍子抜けする。
    「ここまでされて私だけ蚊帳の外、なんて意地の悪い事あなたならしかねないので」
    「よくわかっている。けれどそれじゃあつまらない。このシナリオは君がいてこそ輝くものだから」
    フォルモーントラボトリーの理事長とその友人の愛憎劇。それに巻き込まれる因縁ある若者達。きっと辿り着くハッピーエンドに、世界は釘付けになる。
    「まるで三文小説ですね」
    「嫌いじゃあないだろう?ああいっそ、君のその美しい身体にメスを入れてデータを埋め込むのはどうだろう。より喜劇的になる」
    それも一つの執念のようではないか。そうしてその傷を疎ましく思いながら、きっと君は葛藤を繰り返す。ムルという資産を抱えて混沌の街を駆ける友はきっと誰よりも美しい。その様を、ムルは最前列で観劇するのだ。



    「どうだい?楽しんでいただけただろうか」
    仰々しいお辞儀を一つして、ムルは顔をあげる。もうなんといえば良いのか分からずに、シャイロックの方を見れば珍しくそっと視線を逸らされる。
    「シャイロックは知っていたってことなのか…?」
    「はい。あなた達を危険に晒すと知りながら誘い込んだのは事実です。黙っていて申し訳ありませんでした」
    此方は深々と頭を下げる。それに慌ててカインは首を振る。
    「謝罪なんてやめてくれ。俺達を思ってのことだったんだろう?」
    「しかし…」
    「結果誰も死ななかった。俺達も、シャイロックも、理事長だって無事だった。いまはそれで充分じゃないか?」
    朗らかに笑って告げればシャイロックは瞳を丸くする。それにムルがおかしそうに笑って、オーエンは深いため息を吐く。晶を見れば「カインのそういうところ、私は好きです」と困ったように笑った。
    「カインには適いませんね。この清純さ、どこかの誰かさんに見習ってほしいものです」
    「はっきり言ったらどうだい。純真無垢なムルが好きって」
    「そう思うのならば早くムルを返してはいただけませんか」
    にこやかな筈なのに温度の低い2人のなんとも言えない熟された会話に、3人は置いてけぼりになる。どうしようかと視線を彷徨わせた先に、数分前までは無かった筈の見慣れた背中を見つけてカインは声をあげる。
    「ブラッド!」
    長身は1拍置いて振り返ると、周囲にいた人間に指示を出して此方へと向かってくる。ニコニコと手を振るカインだったが、向かってくるブラッドリーの表情が険しい事に気づいた途端、ゆっくりと晶の影へと隠れる。
    「カーイーンー?色々言いたい事はあるが、まず俺様の名前は?」
    「俺らのボス、ブラッドリー署長、です…」
    「グッドボーイ。敬語使えるじゃねえか。それで?次に言う事は?」
    「連絡が遅れて申し訳ありませんでした!」
    早口で言い切ると、ブラッドリーは数秒鋭い視線で見つめた後に呆れたような息を落とした。す、と伸ばされた右手に肩をびくつかせるが、それは思いのほか優しい温もりでカインの頭を撫ぜた。
    「まあ、俺も今回の件は一枚嚙んでたからな。少しは悪いと思っている」
    「ボス…」
    「だから!おまえから連絡があったらすぐに動こうと思っていたのに、こんの、駄犬は…!」
    「いたたたたたボス痛い!」
    「うるせえ、愛の鞭だ」
    撫ぜているうちに怒りも湧いてきたのか、次第にぐりぐりと押しつぶされる感覚に声をあげながらカインは笑う。そんな2人のやり取りを見て周囲の人々も笑って、オーエンすらも呆れたような顔をしながらも肩の力を抜いている。
    「あ、そうだフィガロにも連絡しなくちゃ。報酬もらってない」
    オーエンは思い付きのように通信機能を起動させる。ホログラムの向こうに表示されたのは予想していた笑顔ではなく、愛くるしいゴールドのガラスだった。
    『やあやあキュートなスノウちゃんじゃよ』
    「フィガロは?」
    『フィガロちゃんは繊細だから。そんなにエネルギッシュな人間がたくさんの空間は、画面超しでも泣いちゃうのでな』
    余計な事言わなくていいんですよ、というフィガロの声がしてそういえばこの人もアシストロイド依存症だったな、と思い出す。そんなやり取りを興味なさげに切り捨てオーエンは言葉を続ける。
    「報酬。さっさと頂戴」
    『ん?それならもうあげたよ?』
    「は?」
    オーエンの声が低くなるが、気にした風もなくスノウはちょいちょいとシャイロックを指さす。
    『シャイロックのバーでシャレオツなドリンク飲んだじゃろ?』
    「は?もしかしてあれが報酬?うそでしょ?」
    『前払いってやつ?ちょっとこれ凄い事なんだからねオーエンちゃん。あのバーで頼むドリンクどれだけすると思ってるの?』
    「知らないよ。信じられない、報酬って本人が望む物じゃないわけ?」
    オーエンのいう事は尤もだが、今回はスノウが一枚上手だったということだろう。そういえば有耶無耶になっていたが、バーで確かに料金は頂いていると、シャイロックは言っていた。この事だったのかとカインは納得をしてしまう。
    「おや、お気に召しませんか?」
    いつの間にかムルとのやり取りを終えたシャイロックもホログラムを除く。表情を見るにシャイロックはこのことを知っていたようだった。それにオーエンはふてぶてしく返事をする。
    「あの飲み物はドロドロに甘くて美味しかったけど、それとこれとでは話は別。納得いかない、僕頑張ったのに」
    頬を膨らませるオーエンは拗ねた子供みたいだったけど、彼の言い分は尤もだ。少し考えカインは人差し指を立てる。
    「オーエンの監視の制限を軽くするっていうのはどうだ?」
    視線がカインに集まる。笑う者、困惑する者、呆れた顔をする者。
    「賛成です!どうですかスノウ?」
    嬉しそうに声をあげるのは晶だ。その瞳は期待に輝いており、その視線を受けたスノウはうーんとわざとらしく唸ると、画面外のフィガロを振り返る。
    『まあ、オーエンちゃん達がんばったし?ねえねえフィガロちゃんどう思う?』
    『…どう思うって、俺に決めさせるのですか?』
    『だって我アシストロイドだし?オーエンちゃんのオーナー権限は一応書類上はフィガロちゃんだし?』
    『一応とか言わなくていいんですよスノウ様。…非常に面倒ではあるけどできなくはないし、今回の報酬と考えれば、まあ妥協できなくはないかな』
    若干の疲れが滲む声に、あちら側でも今回の騒動でそれなりの動きがあっただろう事は想像ができた。画面が一瞬揺れた後映ったのは少しだけ距離を取り、視線を外したフィガロの姿。
    『今回は面倒事に巻き込んですまなかった。カインの提案、前向きに検討させてもらおう』
    それでどうだい?と笑うフィガロに、オーエンはきょとりとローズクォーツを瞬かせる。戸惑ったように視線を彷徨わせて、結局辿り着いたのはカインと晶の笑顔。少しだけ考える顔をして、そうしてフィガロに告げる。
    「悪くないんじゃない?いいよそれで許してあげる」
    『どうも。まあ今回の件に関しては重ねて感謝するよ。君たちのお陰だ』
    フィガロの純粋な称賛の言葉にオーエンは不敵にわらった。
    「当たり前でしょ。なんたって僕達は最強なんだから」



    それから周囲は少しだけ慌ただしかった。
    『それじゃあ手続きがあるから』とフィガロ達の通信はあっさりと切れる。今頃スノウに縋りついているフィガロを想像すると少し面白い。

    「端的に言って俺は忙しい。お前らの仕事はここまでだ、さっさと寄り道せず帰りな」
    シッシッと犬を払うように手を振ったブラッドリーは言葉の通り多忙の様で、次々と書類の確認やら指示出しやらに追われていた。3人が背を向けると、あ、そうだとカインに声が掛かる。
    「カイン、おまえは後でお説教だ」
    「え、それはさっき」
    「あんなのが?馬鹿言え、後でキッチリ絞ってやるからせめて心の準備はしとけ。ほら返事は」
    「…いえす、ぼす」
    カインの項垂れた敬礼にブラッドリーは満足そうに笑って歩き去っていった。

    「本当に素晴らしい。君たちの活躍でシティの平和は守られた。もっと君たちと話がしたいところだが、残念だが我々には後始末が残っている。是非とも後日君たちの物語を聞かせてほしい」
    今度は俺のおごりでね、とウインク付きでムルはカイン達と連絡先を交換したのちに、ラボトリーの奥へと消えていった。本当に不思議な人ではあったし、散々奔放されたがどこか憎めないところがある人間だった。素直な感想を告げればオーエンにとんでもない顔をされた。

    それと入れ替わる様に現れたのはムルと似ているけれど、どこか柔らかさを持ち合わせたアシストロイドの姿。比較してみれば、表情や声音、仕草などが少しずつバーで会った彼や理事長と違う。ムルはにゃーん!と鳴きながらシャイロックへ抱き着くと嬉しそうに頬を摺り寄せた。それを撫ぜるシャイロックの表情は酷く柔らかくて。感動の再会を楽しむ微笑ましいやり取りであったが、先ほどまでの会話劇を見ていたカイン達としては何とも言い難い光景だった。
    「初めましてだけど初めましてじゃない!ムルだよ!わおーん!」
    「ムル、落ちついて。さて、我々も後始末があります。まずは荒らされた店の修復代を、理事長に、キッチリと、請求しましょうね」
    「わーい!楽しそう!」
    優しい笑みに戻ったシャイロックはカイン達を真っすぐと見据える。その顔はどこか晴れ晴れとしていた。
    「私はこの夜に感謝します。良き友人に巡り合えた。今度は何者にも邪魔されない、今日の夜にも引けを取らない刺激的な夜を過ごしましょう」
    「俺も俺も!一緒にゲームをしよう。きっと楽しい!」
    いつの間にか追加されていた連絡先に、お気に入りマークを付ける。オーエンは不服そうだったが、カインにとって彼らはとても良い友人になれる予感がした。



    周囲が慌ただしい中できる事もないからと、3人がラボトリーを出たのはそろそろ日を跨ぐ時間だった。 
    「色々あったなぁ」
    「まだ現実感ないです」
    「ショートしそう」
    当分は厄介事はごめんだねと零すオーエンに、こればかりは2人とも彼に同意を示した。
    今日のところは兎に角休もうと、それぞれの帰路へ足を向ける。思えばたった一晩で色々な事が起きた。最初はなんて事ない任務だったのに次第にこの街の未来をかけたドラマに組み込まれていたなんて、昨日の自分に言っても信じてはくれないだろう。正直恐怖を覚えた場面もあった。それを乗り切る事は、カインだけではきっと成せなかった。背中を預ける事ができる友、そして彼らと交わした約束があったからカインは前を見つめる事ができたと、心を繋ぐ約束がカインを救ったと胸を張って言える。そうだ約束、と口の中で唱えた途端、ジワジワと胸が熱くなりカインは足を止める。ぎゅうと心臓のあたりを掴むが、どうにも鼓動は収まってくれない。感情が昂って、さっきまでの疲労が嘘のようにいまは走り出したい。今すぐに叫びたい。俺達の友情を世界中に歌って聴かせたい!
    いても立ってもいられなくなって、カインは踵を返すと少し遠くなっている背中へと駆け出した。カインに気づいた2人は振り返ると驚愕の表情をする。それに構う事もできず勢いのままカインは2人に飛びつき、辛うじてオーエンが3人分の体重を支えた。もう当たり前になった温もりを目一杯抱きしめる。
    「あっぶない!」
    「カイン?」
    慌てた声と心配そうな声に、カインは泣きそうになった。嬉しくて楽しくて誇らしいのに、こんな気持ちになるなんて今までなかった。でも涙を見せるのはやっぱり気恥ずかしくってカインはもう一度ぎゅうと力を込めると、パッと顔を上げて高らかに告げる。
    「明日の夕方!あの桜の下で待ち合わせな!」
    「桜?」
    「俺たちが運命の出会いをした場所!」
    あの日、偶々カインの巡視があのルートで、オーエンがラボを脱走した翌日で、目覚めたオーエンの隣に立ったのが晶だった。それは偶然であり、必然でもあって、だからこそ運命と呼ぶに相応しい。
    カインの世界を変えた運命は、とんでもない宝物になった。
    カインの笑顔に、2人はきょとんと瞬いて、そして今日一番の笑顔で頷く。
    「はい!」
    「遅刻したらカインの奢りだからね」
    「それは勘弁してくれ!」
    3人の賑やかな声が重なる。自分の居場所がここだって、魂が叫んでいる。満足するまで笑い合って、やっぱりちょっとだけ泣いて、名残惜しさを感じながら離れる。ずっとその温もりを抱えていたかったけど、自由な彼らが好きだから。それにまた約束をすれば良い。それだけで、世界のどこにいたって誰にも負けない。だから笑顔で、いまはそれぞれの背中を見送ろう。
    「また明日!」
    ああ、こんなにも明日が待ち遠しい。世界よ早く目覚めろと、カインは走り出した。



    「本当に彼らは興味深い。あれほどの友情を築くのは、やはり心あってこそなのだろうか。生憎と俺のそれは世界の定理と違っていたからね。君の激情も、理解可能で理解不能だ。是非とも解剖してその中身を鑑賞したい。BGMは何が良いか。狂想曲?夜想曲?話題のレトロソングでもいいね。ああ、そんな顔しないでくれ。別に怒らせたいわけではない。俺にとって、君は一番感情が動きやすいんだ。君がじゃない、俺が、だ。人間の中で最も俺の心を動かす人だって、今回はっきり分かったよ。あはは、分かりやすいな君は。いやはや心は複雑だね、だからこそ恐ろしくも美しい。紛れもない人間の宝だ。その資産を俺の愛しいアシストロイド達に分け与えた結末が、この街の行く末がどうなるのか、俺にだって分からないし正直どんな結末だろうと俺は愛するだろう。まあ未来のことなんて、魔法使いでもなければ分からないからね。いまはこの結末にただ、拍手を送ろう」
    乾いた音が響いて、三日月の口と悪戯な猫の瞳が輝いた。
    「やはり物語はハッピーエンドで終わるべきなのさ。それでは皆様ごきげんよう。また会う未来が輝かしい事を、共に願おう」
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    とむた

    DONEルチミス。不思議なシュガーのお話。
    いずれ夢十夜みたいにしたいな(願望)
    君に夢を 夜の帳も下りた頃、魔法舎の自室で一人ミスラは空を眺める。そこから見えるのは忌々しい傷をつけた厄災。今日も今日とて、望まぬ長い夜を過ごさなくてはいけない元凶を一つ睨みつけるも、当たり前だが何の効力にもなりはしない。いっそ得意の空間魔法を繋いで直接壊してやろうかとも考えるが、魂が砕けるのは望むことではなかったので考えるだけに留める。その他にもオズへの襲撃も考えるが、身体のダルさを考えるとそれすらも気分が乗らない。連日の寝不足で働かない頭で考える事はどうも纏まりがなかった。何度体勢を変えても、抱き枕を抱え直しても一向に訪れる気配のない意識の消失にそろそろ我慢の限界だった。オーエン辺りにちょっかいをかけに行こうか、と考え始めたあたりで、聞き逃しそうな程小さな音が部屋に響く。部屋へと身体の向きを変えるも音の発生源となるものはなく、気のせいかと瞼を閉じかけたあたりで、また一つコン、と音が鳴る。今度ははっきりと聞こえたそれは、ドアの向こう側から響いたものだった。少し考えて、まあどうせ眠れやしないし、と酷く緩慢な動きでドアへと足を進めた。
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