強く風が吹いて、髪の毛がかき乱される。桜の花びらといわず葉までもが勢いよく飛んできて、ニコラスは慌てて腕を上げて顔を庇った。ごう、と渦巻くような風が通り過ぎていくのをやり過ごす為に閉じていた目を、おさまったところで開く。
「おう、大丈夫か? トンガリ」
「う、うん。凄い風だったね」
隣を歩いていたヴァッシュに声を掛けると、彼は苦笑しながら乱れた髪を直していた。
ヴァッシュはニコラスの通う大学のOBだ。ニコラスが現在師事している教授の研究室に出入りしている研究者で、ちょうどヴァッシュが訪問している時に出会った。
見た目は現役大学生と言われてもおかしくないほど若々しいヴァッシュだが、企業に属して植物に関する研究をしている歴とした社会人だ。普段何をしているのか、ニコラスにはよく分からないけれど、現地調査だとか何だかで国内外をしょっちゅう飛び回っていることもある。
そんな植物専門の人間が理工科系の教授とそんなに関係があるものなのかと首を傾げたものの、色々繋がりがあるのだと言われれば、ニコラスもそういうものかと納得するほかない。
ともあれ、そうして邂逅したヴァッシュと何度か顔を合わせるうち、気が付けばニコラスは恋に落ちていた。
元々ニコラス自身、面倒見がいいと言われる性分で、ヴァッシュは兎にも角にも放っておけない人間だった。しっかりしているようでどこか抜けていて、ひたすらにお人好しで、自分のことを等閑(なおざり)にする。
だからトラブルに巻き込まれることも頻繁にあり、その上それがニコラスの目の前でよく起こるものだから、面倒を見ているうちに目が離せなくなっていたのだ。
「こんなにも付き合ってくれるのは、きみくらいだよ」
いつだかに言われたのは、そんな台詞だ。
通り掛かった少女の逃げ出したペットの捜索だか、はたまた探し物だったか。内容は定かではないが、手伝いを安請け合いしたヴァッシュと共に草むらを掻き分けていた時である。
「ああ? ンなモン……」
オドレのせいやろが、と言い掛けたニコラスは口を噤んだ。
自分が今ここにいるのはヴァッシュの所為ではない。彼に頼まれてはいないし、別に放置して帰っても良かったのだ。それなのに、手伝うと決めたのは自分自身だ。
──首を突っ込みすぎたか。
冷静になると、そんな思考が湧き上がってくる。思えばヴァッシュはいつだってニコラスに無理強いをしてきたことはなかった。
明言はしないまでも一定のラインは引かれていたし、ほどほどで手を引けるようにはなっていたのだ。
だから、どんなトラブルに巻き込まれても、帰ってもいいよと言われても、文句を言いながらも敢えて彼の隣を選択してきたのは自分だったのだ。──いつだって。
「……迷惑やったか」
先程の言葉は、もしかしたらそういった意味で言われたのかもしれない。勝手について回っているくせに、文句の声はデカい年下を、煩わしく思っても仕方がないだろう。
「ええっ? ち、違うよ! そうじゃなくて」
そう考えたニコラスの問いに慌てたような声が返ってきて、しゃがみ込んでいた彼はゆっくりと傍らに立つヴァッシュを見上げた。
ツーブロックの金髪が陽光に透けて輝くのを眩しく感じたニコラスは目を細める。加えて、色素が薄くて日常生活でも欠かせないのだというオレンジのサングラスの反射光が目を刺してきたが、どうにかヴァッシュの瞳を見つめた。
「……そうじゃ、なくてさ」
はにかんだヴァッシュが、ほんのりと頬を染める。視線が外れかけて、でもどうにか引き戻したらしい碧色の虹彩がニコラスを映した。
「嬉しくて。ありがとうって言いたかったんだ」
ふわり、という表現が相応しい笑顔でヴァッシュが微笑む。
その瞬間、ニコラスは恐らく一瞬心臓が止まり、次いで激しく高鳴るのを感じた。
「は……」
耳元で鳴っているのではないかと錯覚するほどにうるさい拍動に、ニコラスは何も言えずに唇を戦慄かせる。頬の熱さから、きっと顔は真っ赤になっているだろうことだけが知れて、慌てて下を向いた。
「……別に、礼言われることちゃう」
「うん。ありがとう」
「……おん」
手持ち無沙汰に雑草をぶちぶちと引き抜きながら、己が恋に落ちてしまったことに、ニコラスはその時気が付いたのだった。
そこから必死になってアプローチを開始したニコラスの努力は昨年どうにか実り、今年、付き合い出してから初めての春を迎えた。
年末年始を除いて、ほぼ動き回っていたヴァッシュはようやく暇ができたらしく、サプライズのようにニコラスの元を訪れてくれて今に至る。
「やっぱり桜は見ておきたくて」と宣う彼に「ワイに会いに来たんとちゃうんかい」とツッコミはしたものの、久方ぶりのデートに文句を言えようはずもなく、誘われるがままに近場ながら桜の名所である公園へ足を運んだのだった。
「春の嵐ってやつかなぁ」
「雨やないだけマシか」
「桜がすぐ散っちゃう訳だよ」
中身のない話をしながら、隣り合って桜並木を歩く。ヴァッシュは子供のように首を上向けて歩くので、「転びなや」、ニコラスは注意をしながらその手を取った。柔らかく握り締めると、ヴァッシュはきょとんとニコラスを見てから、にこりと笑って指を絡めるように手を繋ぎ直した。
「オンドレ……」
「掴むなら、ちゃんと掴んでおいてくれないと」
「タチ悪いわ、ほんま」
「ええ?」
笑う恋人を咎めるようにわざと手に力を入れる。痛い痛いと言う声に溜飲を下げたニコラスは、隣が静かになったのを見計らって視線を向けた。
突風は先程のものだけだったのか、今は穏やかな風が時折通り抜けるだけで、桜の花びらもはらはらと舞っている。
絶えず花弁の舞い落ちる光景はどこか幻想的だ。その景色にヴァッシュも見入っているのだろう、また彼の視線は遠くへと向かっている。
それをいいことに、ニコラスはヴァッシュの横顔ばかりを眺めていた。見慣れたといえば、見慣れた顔だ。長い睫毛、高い鼻、薄めの唇。睫毛は濃いめの金髪よりも更に暗めの亜麻色だが、今は太陽光を受けて黄金色に輝いている。
光の加減で青にも緑にも見える瞳は、よく晴れた青空の下では、その色を映し取ったようなターコイズブルーに染まっていた。
──ワイの恋人、めっちゃ美人だったんやな。
彼の顔立ちが整っていることは分かっていたが、改めて実感した事実に衝撃を受けたニコラスは思わず溜息を吐く。付き合う前から男女問わず声を掛けられている場面をよく目にしており、それは隙のある雰囲気の所為だと思っていたが、顔立ちのせいもあったのだなと今更ながらに気がついたからだ。
「ウルフウッド? どうしたの?」
「なんもないわ。ワイのアホさに呆れとっただけや」
「……んん?」
「分からんでエエ」
話を誤魔化すように繋いだ手をぶんぶんと揺らせば、深刻な話ではないと察したらしいヴァッシュは楽しそうに笑って流されてくれる。二人の手の中に桜の花びらを捕まえたいと言って、ニコラスの手を引っ張って振り回しては笑っていた。
無邪気で可愛らしい笑顔に、苦笑しながら付き合ってやっていたニコラスは、ふと思い立って口を開く。
「ちゅうかやな、オドレ」
「うん?」
「そろそろワイのこと苗字で呼ぶのやめーや」
付き合って数ヶ月。手を繋ぐことも、キスもしたけれど、名前を呼ばれたことは一度もない。それを言い出すと、
「ウルフウッドだって滅多に呼ばないじゃないか」
そう、ヴァッシュが唇を尖らせる。確かにニコラスも普段は彼のことを妙なあだ名で呼んでいるが、ごくたまに名前を呼ぶこともあるので、ヴァッシュよりはマシだろうと訴えた。
「オドレはマジで一回もやろうが。ワイの名前知っとるか?」
「あ、当たり前じゃないか」
「ほんなら、呼んでみ」
「ええっ、今ぁ?」
「ちょっと名前呼ぶだけやろが。ほれ、はよせえ」
「もう……」
急かすニコラスに、ヴァッシュは照れくさそうな様子で眉尻を下げる。おそらく、本人も特に気にしてはいなかっただろうことを、こうして迫られると恥ずかしく感じるのだろう。
じわりと頬を染めたヴァッシュはもじもじと何度か口を開閉させては俯いてしまった。はよう、とニヤついたニコラスが更に急かせば、思い切ったように顔を上げる。
そうして、開きかけた口を一旦閉じたかと思うと、ニコラスにぐっと身を寄せた。そして。
「……ニコラス?」
耳元で、大切なもののように名前を囁かれたニコラスは思わず仰け反った。耳を押さえようとした手は、ヴァッシュと繋がれていたからだ。
「おっ、おどれ、ホンッッッマ……」
「どうしたの?」
「ほんまタチ悪いわ!」
耳まで真っ赤にし、普通に呼ばんかい!と叫んだニコラスが足音荒くその場を去ろうとするのに、ヴァッシュはつい笑ってしまう。文句を言いながらも、繋いだ手が離されることはなかったからだ。
「待ってよ、ウルフウッド」
「なんやねん!」
「きみも呼んでよ」
くすくす笑うヴァッシュが手を引くように声をかければ、荒げていた語気を収めたニコラスが不意に立ち止まる。むっすりとした顔が振り返るので、これは文句が飛び出すかと少し身を引いたヴァッシュに、しかしニコラスはニヤリと笑うものだから肩透かしを喰らった。
「安うないで、ワイは」
「なっ、人には散々言ったくせに!」
「あーあー、聞こえへんなぁ」
「ずるいよ!」
「ずるいってなんやねん。そもそもやなぁ……」
ニコラスとヴァッシュは、ぎゃあぎゃあとじゃれ合いながら桜並木を歩いていく。──互いの手は、しっかりと絡めたまま。
そんな二人を見て、通りすがりの黒猫が呆れたように、にゃあと鳴いたのだった。
終