もぞり、腕の中に何かが入り込んでくる感触にウルフウッドの意識が浮上する。何か、というか、その正体は一人しかいないのだが。
「……トンガリ……?」
寝起きの声は思った以上に不明瞭で、その響きに腕の中の正体がくすりと笑った。閉じたままだった瞼を開けば、薄暗い中でも輝く金糸が視界を塞ぐ。普段はオールアップにしている金髪を下ろした恋人のヴァッシュが身動ぎをして、顔を覗き込んできた。
「ごめん、起こしたか?」
「ん……おんどれ、まぁた徹夜したんか……」
寝てる間に伸び切った無精髭を撫でられるお返しにウルフウッドがヴァッシュの左目尻の泣き黒子を撫でてやると、彼はくすぐったそうに笑いながら胸元に顔を埋めてくる。
「キリのいいところまでと思ったら、朝になってたんだよ~」
「ええ加減にせえ。身体壊す言うとるやろ」
「前よりは減ってるから許してよ~」
「無くせっちゅうとるんじゃ、アホ」
ぐりぐりと胸板に押し付けられる頭を掻き回すように撫でてやり、ウルフウッドは溜息を落とした。
「そりゃ僕だってさぁ、キミと同じ生活リズムの方がいいとは思うんだぜ……でも……ぁふ」
一応努力はしているのだと訴えつつもヴァッシュが欠伸を漏らすので、一先ず叱責を止めにしてウルフウッドはその背を優しく叩く。
「もうええ。とりあえず、今は寝え」
「ウルフウッドは?」
「休みやないし、途中で抜けるわ」
「そっかぁ……」
残念だなぁと言いながら、己の厚い胸板に顔を埋めてくるヴァッシュを抱き締めたウルフウッドが囁いた。
「あと三時間は一緒寝たるから、それで我慢し」
「ん~……うん……」
大好きな恋人の体温と匂いに包まれて夢うつつなヴァッシュは、優しい声に直ぐに意識を落としたのだった。
「……んぇ」
それから数時間後、昼過ぎになってヴァッシュは目を覚ました。自室のものより少し広いベッドの上で伸びをして、布団以外のものが手の中にあることに気付く。
「ウルフウッドのパジャマ……?」
なんで、と首を傾げて、たぶん自分が握り締めていて離さなかったのだろうなと考えた。割とよくあることだ。
「腹減ったな~」
彼のパジャマを手にしたまま、よれよれとベッドを降りてキッチンへ向かう。パンでも焼くか、と思いながら、喉の渇きにも気が付いて、先にミネラルウォーターのボトルを取り出した。
「んごっ」
──のだが、水を注いだコップを傾けた拍子に派手に零す。寝ぼけていたのか、照準を誤ったらしく顎から下にほぼ全ての中身をぶちまけてしまった。
幸いなことに床には溢れていないが、着ていたパジャマの上はずぶ濡れだ。
「水すらまともに飲めない……ぼかぁもうダメだ……介護が必要ですよこれは……」
ぶつぶつ呟きながらびしょ濡れの上衣を脱いで、とりあえずウルフウッドのパジャマを借りて羽織る。流石に上裸でウロウロできるほど暖かい時期でもない。
さっさと着替えればいいやと、脱いだ上のついでにズボンも洗濯機に放り込んで、ふとヴァッシュは閃いてしまった。
──ウルフウッドの作ったフレンチトーストが食べたい。
ヴァッシュの恋人は割と何でもできる男なのだが、中でも料理はその最たる例だった。ヴァッシュとて一応出来るが、幼少期から包丁を握っていたというウルフウッドとは経験値が違う。
加えて、付き合うようになってからはヴァッシュ好みの味付けで何でも作ってくれるのだ。フレンチトーストなんてささやかなものでもそうなのだから、完全に胃袋を掌握されている。
だから、彼にお願いすれば、自分で作るよりも美味しいフレンチトーストが食べられるというわけである。
今から頼めば、ヴァッシュが着替えて顔を洗い終わる頃には出来立てのものにありつけるのではないか。そう思いついたら、もうそれしか考えられなくなったヴァッシュはランドリールームを後にした。
二人とも稼ぎがあるだけに、この家の部屋数は多い。お互いプライベートな空間が必要なタイプなので、それぞれ自分の寝室と書斎を持っていた。
最近在宅勤務を増やしているウルフウッドは、たぶん書斎で仕事をしているだろうと踏んで、ヴァッシュはその扉を開き、
「ウルフウッド~ぉ? ねぇ、僕お腹空いたんだけどさぁ、キミの作った──」
『あっ』
「あ?」
「──っ! ゴメンナサイ失礼しましたッ!」
慌てて閉じた。ドアに背を付けて、ズルズルと床へと座り込んだ彼の、ご機嫌にヘラヘラとしていた顔は今や蒼白である。
「やっ、やらかした……!」
まさかのリモートワーク中だったとは、つゆ知らず……ということもなく。そういえば今日はそんな予定だと聞いていた気がする。ヴァッシュの日付感覚が狂っている所為で忘れていたけれど。
その上、面倒ごとをおねだりする算段だったから、無駄に甘えた声も出した。いい歳の成人男性が見せていい姿ではなかった自覚があり、恥ずかしすぎて死にたくなったヴァッシュは頭を抱える。
ウルフウッドの会社の人と会う機会なんてこの先ない。絶対にない。ないことにさせる。……と、内心で固く決意をしたとはいえ、見られたことは事実。これはウルフウッドにも迷惑をかけるかもしれない。
とにかく今は、と慌ててキッチンへと逃げ込んだヴァッシュだったが、すぐにウルフウッドが追いかけてきて逃げ道を封じられてしまった。
それも、一見ゆったりしているのに、確実に狙いを定めてくる野生の狼みたいな動きで。怖すぎてヴァッシュは早々に白旗を挙げたくらいだ。
「本当に申し訳ゴザイマセンデシタ」
「ええて。別に怒っとるわけとちゃうし。それより」
「ハイ」
「ワイの作った……何が食いたいんやて?」
キッチンの隅に追い込まれて小さくなるヴァッシュに、ウルフウッドはニヤニヤと意地の悪い笑顔で詰め寄る。身長はさして変わらない二人だが、ヴァッシュが背を丸めている所為で、壁ドンしたウルフウッドに覆い被さられていた。本当に逃げ道がない。
「イヤあの、ちょーっとフレンチトーストなんか食べたいカナーって思った次第でして……でも別に自分で作れるから! お前は早く仕事に戻れ!」
「戻れて、おどれ」
「……なんだよ」
深い溜息を落とされて、目の前の無駄に厚い胸板をポカポカ殴っていたヴァッシュは動きを止める。ウルフウッドは、ヴァッシュが身に付けるシャツの裾を摘んでぴらぴらとはためかした。
「こんな格好しといてなぁ、殺生やわ」
「ンガッ……! ち、違うこれは! 水飲む時溢して! だから!」
迂闊にも、彼シャツ一枚という姿のままだったヴァッシュは慌てて弁明するものの、いやらしい笑顔で太ももをするりと撫でられて閉口する。
「あーハイハイ。そういうことにしといたるわ」
「グギギギギ……」
「ほんなら、ちょっと待っとれや。すぐ戻るから」
「だから仕事しろって!」
「今日はもう店仕舞いや」
「んっ」
トドメとばかりに首の付け根に軽く口付けたウルフウッドはさっさと書斎に戻って行ってしまった。
その隙に着替えてしまおうと自室に駆け込んだヴァッシュだったが、宣言通りすぐに戻ってきた恋人によって捕縛され、彼シャツ一枚以上の着衣は許されずに特製フレンチトーストを食べさせられたのだった。
やけにニコニコしたウルフウッドに見守られながら。
余談:牧師さんのパジャマは色々緩めなので、ヴァッシュさんが上だけ着ても下半身は隠れる。
+オマケのモブ視点+
俺の会社には、ウルフウッドさんという人がいる。仕事のできる人で、まだ若いのにチーフの肩書きを持っているくらいだ。
その上、顔も良いし、身長があってスタイルもいい。ちょっと眼光が鋭くて、初対面だったら絶対ヤのつく職業の人だと思うし、道端ですれ違ったら絶対目を合わせちゃいけない人だと思う外見だけど、口を開けば人懐こい関西弁で(場合によっては圧があるけど)面倒見の良いところもポイントが高い。
社内の女性社員……のみならず、一部の男性社員からも支持の高い人だ。そんなだから数え切れないくらいの秋波を送られているウルフウッドさんだけれど、誰かの誘いを受けたという話は一度も聞いたことがない。
いつぞやの年末に扶養家族がいないことはちらっと耳にしたし、独身なのは確実。でも、たまに飲み会に行ってもきっかり一時間で帰ってしまうし、プライベートの話は一切しないしで、謎に包まれている。
そんなところもミステリアスで素敵、と言っている社員もいたが、ここまで謎だと逆にちょっと怖い気もするけどなぁと俺は思っていたりする。決して実家がヤのつく家業なのではとか考えているわけではない。
まあ、別に同じ会社の人間のプライベートが謎に包まれていようと、仕事には関係ないので俺は特に気にせずに日々を過ごしていた。
──だがそんなある日、事件は起こった。
それは、ウルフウッドさんが在宅勤務でリモートワークの日だった。部屋が散らかった様子もないし、特に隠すこともないからだろう。彼はいつも背景などを設定しない人で、背後には部屋の入り口だろうドアが一つあるだけだった。
他の仲間は上司がいない場なのでちょっとふざけた背景にしたり、汚部屋すぎるからと必死に隠していたりしたけれど、これも至っていつも通りのことだった。
業務の報連相に始まり、トータル二時間ほどにわたって簡単なミーティングまで終えたところで、不意にウルフウッドさんの背後のドアが開かれたのだ。
それも。
「ウルフウッド~ぉ? ねぇ、僕お腹空いたんだけどさぁ、キミの作った──」
なんて、彼の人となりを知らない人間が聞いても、甘えていると判る声で話す、金髪の男によって。
ふにゃふにゃとした笑顔を浮かべていたその人は、思わず「あっ」と声を上げた我々(ウルフウッドさん含む)と同時に同じく声を発し、笑顔のままサッと青褪めて素早くドアを閉めた。ごめんなさい失礼しました、としっかり謝罪を口にしながら。
その瞬間、静まり返る場。今のは一体……?と誰もが思っていただろうが、口火を切る者はいない。それはそうだ。ウルフウッドさんが何も言わないのに、そんな勇気のある奴はここにはいなかった。
ひどく長く感じる沈黙を破ったのは、しかし当のウルフウッドさんだった。
「あー、すんません。ちょお外しますわ」
在宅勤務の時はかけているというブルーライトカットの眼鏡を外しながら、彼は席を立つ。疑問形ですらなかったが、ダメと言える人間はこの場に存在しない。ただ口々に「ちょっと休憩ですね!」とか「一息入れますか!」なんて白々しく合わせていた。
そして、彼が離席した瞬間、全員が爆発するように口を開いた。
「誰?! イケメンだったよね!」
「一人暮らしじゃないの? 友達とか? まさか恋人……」
「いや、あの人が着てた服さぁ、あれ絶対ウルフウッドさんのやつだよ! 前に急に確認したいことあるって夜にビデオチャットした時に着てたもん!」
「彼シャツってこと!? やだショックー!」
「マジかー!」
一頻り騒いだところで、またドアが開いて皆が黙り込む。ギシリと椅子を軋ませて戻ってきたウルフウッドさんに、全員が一瞬目配せをし合った。(オンラインなので、気持ちの問題だ)
そして、覚悟を決めた俺が口を開き──。
「あ、あの」
「すまんけど、急用できてん。話もまとまってたし、今日はこんくらいでええかな? もしなんかあったらラインしてや」
言いかけたところで、そう口にしたウルフウッドさんは一方的にオフラインになってしまった。真っ暗になってしまった枠を眺めて、全員がまた大騒ぎする。その後は、もう仕事どころではなかった。
後日、出社したウルフウッドさんにあの場にいた全員が詰め寄ったけれど、
「プライベートやさかい……堪忍してくれへん?」
と、ウインク付きで笑って誤魔化された。誤魔化されるしかなかった。目が割とマジで怖かったから。
そして、その噂は瞬く間に社内を駆け抜けてガチ恋勢を阿鼻叫喚に陥れ、更にはしばらく後からウルフウッドさんが薬指に銀色の輝きを光らせるようになったものだから、一部は地獄絵図と化した。
終