夜、月の眠る部屋 暗い室内で、ふと目が覚めた。
窓からは月の光が射し込み、床とシーツを青みがかった白色で柔らかに照らしている。夜中だというのに、珍しく起きてしまった。寝つきや眠りの質は良い方だと思っているが、覚めてしまう事はそう無いため、我ながら不思議だった。
寝返りを何度かうってみたが、なかなか元のように意識は滑り落ちていかない。何度か体勢を変えてみるも、一向に好転する気配がないので、少し気分を変えるかと思い立つ。ベッドから身を起こし、傍に揃えて置いていた室内履きへと両足を滑り込ませる。備え付けの水差しを傾けてみたが、もう中身が無いようだった。仕方なく、タルタリヤは寝室のドアを開ける。
部屋を出ると、長い廊下が続いている。泊まっているこの宿は璃月の建築形式を取っているようで、木材の床と白壁、天井から下がっているランプと、異国の調度品ではあるが、見慣れたものとして目に入る。規則正しく並ぶ板張りの床には、窓枠の装飾で切り取られた、長方形の薄青い月明かりが等間隔で並んでいる。
どっちだったかな、と思って左右を見回していると、窓の前に立っていた人物が、こちらに気付いて呼びかけてきた。
「こんばんは、公子殿」
「鍾離先生?」
意外な人物に会い、タルタリヤは目を丸くした。いつものシャツと裾の長いジャケット姿とは違い、薄茶色の寝巻きを身にまとっていて、足元は自分と同じ室内履きを履いていた。普段はオレンジがかっている焦茶色の髪が、今は月の光を浴び、青白く縁取られて光っている。
「こんばんは。こんな夜遅くに起きてるなんて、珍しいね。鍾離先生は夜更かししないものかと思ってたよ」
「俺もたまにはするぞ。公子殿は」
「不意に目が覚めちゃってね。寝直せなくて、気晴らしに水を取ってこようと思って出てきたところ」
「そうか」
「じゃあ、また明日」
そう言って、タルタリヤは片手を軽く振りながら去ろうとする。
夜も遅いし、あまり長い時間話し込むのはやめておこうと思ったのだが、歩き出した背中に向かって、鍾離はひとつ提案を投げかけた。
「もし眠れないのであれば、物語を聞かせてやろうか」
「…子供じゃないんだけど?」
思いがけない提案に、振り返りつい怪訝そうな顔をしてしまう。月を背に、鍾離は身体の前で軽く腕を組みながら、少し首を傾げた。いつも片耳に付けているピアスは今は無く、音は立たない。代わりに黒髪が、首の傾きでさらりと揺れた。
「まあ、俺が話をしたいだけというのはある。思うに、気晴らしに部屋を出てきたのだろうとも思ってな。だが、嫌ならいい。夜も遅いからな」
そう言って、鍾離は体勢を元に戻し、外の空高く浮かぶ月に目を向けた。気晴らしに出てきた、正にその通りだったので、正直言ってちょっと悔しい。
嫌ならいいと言ってはいたが、何となく聞き手を待っていたような雰囲気を漂わせている事には気付いている。気付かないふりをしても良かったが、この人の話す事は興味深いものが多く、機会を逃すのは惜しい気がする……というのは、後付けの理由かもしれない。はあ、と気づかれない程度に小さく息を吐く。
「良いよ、その話に乗ろう」
放った言葉を聞いた途端、月を見ていた人はぱっとこちらに顔を向ける。顔の向きを変えた拍子に、後ろに付けている髪飾りの透き通ったオレンジ色が、きらりと光を返して輝いた。その時俺がどんな顔をしていたのかは自分でも分からないが、こちらの顔を見た鍾離が、はは、と明るく笑った。何か笑うような顔をしていただろうか?と思うも、なんだかこそばゆい気持ちになって、気を取り直すように言葉を重ねる。
「ちょっと水を取ってくるから、待ってて」
「ああ」
微笑んだまま頷かれて、送仙儀式の一件のように、また良いように扱われたのでは、という考えが後から頭に浮かんだ。もう取り付けてしまった話なので、無かったことには出来ないのだが。タルタリヤは片手で頭をわしゃわしゃと掻きながら、目的のものを取りに歩き出した。
***
透明なコップに入れた水を飲みきって、ベッド脇のサイドテーブルに置く。こん、とガラスと天板がぶつかって硬質な音が鳴り、側面を伝い落ちる雫が、天板まで到達しコップの底面に沿って広がり、小さな水溜まりを作る。真っ白な布団を被って、良い具合になるよう身体の位置を調整している間に、鍾離は室内にあった椅子を側へ持ってきて、そっと床に置く。着ている服の合わせが乱れないよう気を配りながら、丁寧な所作で腰を降ろした。すっと歪みのない姿勢でそこに居る。
なんだか病人と見舞いに来た人のようだな、と柔らかな枕に後頭部を沈めながら考える。
「今更ながら、この状況恥ずかしいんだけど…」
「話に乗ったのは公子殿だろう」
「それはそうだけどさ」
ぐうの音も出ないが、何も言わず素直に話を聞き始めるのは癇に障るので、申し立てはしておいた。とりあえずは。
「まあ待て」
宥めるかのような口調で返される。
あまり物申すのも格好がつかないし、そもそも了承したのは自分自身である。そこで口は閉じて、物語の開始を待つことにした。鍾離は顎に手を当てて、瞼を閉じて少し考え込む。やがて話す内容が決まったようで、琥珀色の両目を徐に開ける。
「では、始めるぞ。昔、璃月の村で伝わっていた話だが……」
滑り出すように、滑舌の良い声で語り始めた話は、璃月の民話や逸話、地形や仙人と人の歴史と多岐に渡った。また、璃月に限らず、他国の御伽話や書物までも網羅していた。それは幼い頃、氷上釣りをしながら父親が話す物語を聞いていた時の、次はどんな話が聞けるのか、どんな展開が待ち受けているのか、そして自分の知らない国の文化や生活が垣間見られる楽しさを感じた、外気の寒さと暖かい時間を思い起こさせるものだった。
そして、故郷の弟や妹達にせがまれて、小さなランプを枕元に置き、御伽話をした夜のことも、頭の端で思い出す。
どのくらいの時間が経ったかは分からないが、瞼が重くなり、視界がぼんやりと狭まってきていた。とある物語を話し終えた鍾離が、うとうととしているタルタリヤに気付いて席を立つ。
「丁度区切りも良いし、ここまでにしよう」
「ん……鍾離、先生」
半分眠りかけているような、ぼやけた意識のまま、タルタリヤの口から途切れ途切れの言葉が溢れていく。上手く言葉を繋げられずもどかしいが、眠気の方が強い。
「何だ?」
「先生、は…夜、ちゃんと、寝ら…れている?」
意識が溶けていく。何故、そんな事を聞こうと思ったのかは、わからない。蕩けた微睡みの中では考えがまとまらず、端から解けて消えてしまう。ただ、そんな覚束ない視界の中で、鍾離は目を瞠った、ような気がした。薄闇の中で、琥珀が柔らかに形を変える。
「俺は、大丈夫だ」
どこが…何が?質問に対して曖昧な返答をする鍾離先生は珍しいな、と思ったところで、かろうじて保っていた意識が途切れた。
寝息をたてているタルタリヤを確認してから、鍾離は微かに息を吐いた。手を置いていた椅子の背もたれを一撫でした後、起こさないようにと気を払いながら移動し、ドアに取り付けられた、鈍い金色のノブを静かに回して開ける。
「おやすみ、公子殿」
ひとつ言葉を置いて、月の光が射す部屋を辞した。
***
窓から差し込む、暖かな日の光で目が覚める。
数回瞬きをし、身体を起こす。ふあ、とあくびが出た。よく眠れたな、と思いながら、身支度を始める。部屋に備え付けの洗面台の前に立ち、冷たい水で顔を洗っているところで、ふと昨夜の事を思い出す。そういえば…鍾離先生に寝ている顔を見られたのでは?と思い当たる。
話に乗った時点ではそこまで気にしていなかったが、いつか勝負で勝ちたいと思っている相手に、寝顔を見られたのは、結構…詰めが甘いというか、弱みを見せたようなものなのではないか?という思考が頭をもたげた。
そういった考えに辿り着いてしまうと、居ても立っても居られず、タルタリヤは手早く残りの身支度を済ませて部屋を出た。
宿の建物の外、一人で景色を眺めている鍾離を見つけて、タルタリヤは声をかける。
「おはよう、鍾離先生」
「おはよう、公子殿」
「昨日はどうもありがとう!で、提案なんだけど、次は鍾離先生が寝るまで、俺が物語を聞かせるってのはどうかな!?」
こちらの寝顔が見られてしまった事実は取り消しようがない。よりにもよって記憶力が良すぎる相手なので尚更。だったら、こちらもやり返すまでだという考えに至った。
鍾離は数回瞬きをして、何かを悟ったような表情を一瞬した後、柔く笑った。
「いいぞ。昨夜は俺が一方的に話すだけだったからな。公子殿の話も聞きたい」
後日、鍾離の家にタルタリヤが訪問するのは、また別のお話。