異世界から真木晶という新しい賢者が召喚された年の、年に一度の厄災の日。月が一番ひとの世界に近づく夜。魔法使いたちは、それぞれ手傷を負いはしたものの、一人の死者も出すことなく、月を迎撃することに成功した。
めでたしめでたし。
とはいかないのが、ネロとブラッドリーであった。
二人とも深刻な怪我はなかったが、疲れ切り、ほうほうのていで魔法者の前庭の地べたに座り込んでいる。折れた箒はそこらへんにほうっている。ついさっきまでネロの腕の中で庇われていたリケは、ミチルの呼ぶ声に応えて駆け出した。遠くでファウストがこどもたちを叱っている声がするが、それにも安堵の色が濃い。ネロの隣にはブラッドリーがあぐらをかいていた。胸ポケットから葉巻を取り出して魔法で火をつける。ネロにも差し出してくれる。ネロが素直に受け取って口にくわえると、ブラッドリーが火をつける。ゆっくりと遠ざかる月を見送りながら、ネロは煙を吐き出して、出し抜けに、
「待たせたな。約束通り、俺のことを処刑してくれ」
と言った。少し前に二人で取り決めたフィガロと双子を襲撃するという話はーー話せば長いので事情は割愛するがーーいろいろあって先延ばしになった。いずれはやるが、今じゃない。そういうことになったのだ。つまり、当初のネロの申し出通り、今年の厄災を追い返したら、処刑をするような雰囲気になっていた。
ネロの隣で舌打ちが鳴る。
「おれは約束した覚えはないぜ。てめえが勝手に言ってんだ」
「でもいずれは処刑しなきゃいけないだろ。今する?」
ネロの明日の朝食の献立の話をしているかのように落ち着き払っている。ブラッドリーは肺から深々と息を、煙を一緒に吐き出し、面倒そうに答えた。
「今はいやだ」
「なんで」
「あのな、疲れてんだよ……こんななりで今からひと仕事しろって?」
ブラッドリーがうんざりした顔で言う。その様子ーーネクタイはどっかに飛んで、ついでにボタンも二三個飛んで見事な胸筋を晒し、そこかしこに切り傷が増えて血が流れているーーを上から下まで眺めて、確かに、とネロは思う。
「腹減ってるし。チキンも食いてえしよ」
「え、俺も疲れてんだけど」
「じゃあ今夜じゃなくていい。次チキン揚げてからにしようぜ、処刑の話は」
ブラッドリーはそう言って笑ったが、ネロは首を振った。
「いや、伸ばし伸ばしにすんのはよくねえ。ならチキンは今夜揚げてやる。最後だから味わって食えよ。明日処刑してくれ」
「……」
「時間も決めとこう。そうだな……中庭のからくり時計あるだろ。あいつが昼の鐘を鳴らしたら、あんたに処刑されるよ」
「ネロ」
「約束する」
ネロはブラッドリーが止めるまもなく早口ではっきりと宣言すると、からりと朗らかに笑った。憑き物が落ちたような笑顔だった。そして立ち上がると、ブラッドリーを置いてさっさと歩き出した。その夜はフライドチキンを大量に揚げて揚げて揚げまくり、最初は喜んで食べていた仲間たちからストップがかかるまで揚げた。ネロさんもういいです、寝ましょう、寝なさいネロ、今日大変だったからハイになっちゃったんだね……寝ようね……よしよし……いいこいいこ……と周囲に諭されてふらふらとベッドに入って夢も見ずにぐっすり眠った。だからブラッドリーがチキンをどんな顔で食べたかネロは知らない。
さて満月の次の日。ネロはゆっくりと起きて、中庭で猫に餌をやり、あんなことの翌日でも早起きのカインとハイタッチをしたり、起きてきた他の魔法使いとゆるゆると挨拶を交わしながらキッチンにやってきて、昼食の準備などをした。やっぱり最後の最後まで料理をしたいものなのだなあと自分でもしんみりするものがあった。途中からカナリアが合流してきて、並んで昼食を作る。
「あれ、お昼の鐘、鳴りませんね。ほら中庭の、時間になると光りながらダンスを踊る……」
と配膳をしながらカナリアが言った。
スープを受け取りながら、賢者もああ、と頷く。
「そういえば。昨日の厄災で壊れてしまったんでしょうか。大変な戦いでしたから……」
そう言ってネロをねぎらうように目配せをしてくる。ネロは首をひねった。
「いや、中庭は無事だったはずだけど」
迎撃戦は主に前庭とその上空で行われた。中庭は被害が軽微なはずだ。それだからネロも昨日からくり時計をしるしにしようと言い出したのだ。
「からくり時計でしたら、臨時検診です」
とアーサーが現れて賢者に微笑みかけた。
「臨時検診、というと」
「実は前から少し調子が悪かったようなのです。三拍子で踊るはずが時折り四拍子だったり、日替わりでいろんな色に光るはずが一気に全部の色に発光したり」
「全部の」
「ええ、虹色に」
「へえ…」
ネロ、カナリア、賢者が同時に「ちょっと見たいかも……いやそこまで興味ないかも……」という顔をした。
「ヒースクリフがこの1年間毎日観察と記録をしていて気づいたらしい」
「あの子そんなことしてたのか」
「いったいどうして?」
「趣味だそうだ!」
「ああ……」
「それで、ずっと気になっていたそうなんだが、厄災に備えてファウストが鍛えてくれているのにそんなことにかまけている場合ではないと自分を律していたそうなのだ。だが昨日で一旦厄災との戦いも一区切りがついたからな、控えめで優秀な、まさに東の貴族の鑑のような彼も自らの内なる欲求を解放している。健康的で良いことだな!」
「ええと、つまり、アーサー。ヒースクリフは何をしてるんですか?」
「はい賢者様。ヒースクリフは時計を分解しています。修理に三日はかかるそうです。当初は1日で終わるはずだったようなのですが、中身を調べていくにつれてどんどん予定が延びているようで。ですがとてもいきいきとして楽しそうですよ」
賢者は苦笑した。目を輝かせて一心にからくりを分解する美貌の少年が目に見えるようだったので。頷きながら、自分の世界の言葉で言い替える。
「システムメンテナンスですね」
「しすてむ…?」
今度はアーサーが首を傾げた。カナリアも瞬きしている。
「おかしくなってしまったものごとがうまくいくように、手入れをすることです。よく、終了予定日から延びたりするんですよ。専門家ではないので、なんとなくの偏見かもしれませんが」
と賢者が自信なさそうに説明をするのを聞きながら、ネロは曖昧に口元だけで微笑んでいる。
今日の昼、時計の鐘が鳴ったら、処刑される。
今日の昼、鐘が鳴らなかったら……それは、処刑されなくても約束を破ったことにはならない。少なくともネロはそう理解している。ネロがそう理解しているなら、それが真実になる。魔法も約束も、心が司るものなので。そういうわけで、ネロの今回の約束は達成も破棄もされず、ただ無効となってしまった。
昼過ぎに疲れた顔でキッチンに現れたブラッドリーはネロの顔を見て、ふらりと中庭の様子を見に行き、ヒースクリフと一言二言会話をして、またキッチンに戻ってくると、ひと言、「飯」と言った。もう昼はとっくに終わっていて他の魔法使いもカナリアもそれぞれ食堂から引き上げているのにおうへいな態度である。ネロは一言嫌味でも言おうと思ったがやめて、手早くうまい飯を作り、ブラッドリーはそれをたいらげた。ネロはその様子を対面に座って頬杖ついて満足気に眺め、
「それでさ、出鼻くじかれちまったけど、いつ俺のこと処刑する?」
と言った。さきほどはこいつに飯を作るのも最後かもしれないと思って嫌味を飲み込んだのだ。ブラッドリーは眉を上げる。
「は?」
「なあ、今夜? 明日?」
「おもちゃ買ってもらうガキかてめえは」
「さっさと済ませた方がいいじゃん」
「じゃんってお前」
ブラッドリーは子供をたしなめるような声を出したが、ネロが気にせず機嫌よく微笑んで答えを待っているのを見ると、黙りこくった。
ブラッドリーが喋らないのでネロはしかたなく自分で決めることにした。昨日は日付を細かく決めたからうまくいかなかった。
「じゃあヒースが時計を直したらにしよう」
「時計なあ」
「時計が直ったらあんたに処刑されるよ、約束する」
ネロは言い切って、鼻歌を歌いながら皿を洗った。
「申し訳ありませんアーサー殿下……出過ぎた願いではありますが、この時計、おれに預けていただけませんでしょうか。中央の国の財産なのは承知しております。しかしどうしてもこの手で完璧なものにしたいのです」
「もちろんだヒースクリフ。頭を上げてくれ。お前が修理してくれるなら信頼できる。いつまでも待とう」
中庭でくりひろげられるのは貴公子同士のうるわしいかたらいである。満足そうに眺めていたシノが、ネロとファウストに「見ろ俺の主君を、アーサーと並んでも絵になる」と言う。
「いつも見てる」
「いつも見てるよ」
「うん」
大人二人の答えにシノは頷き、ふふんと笑った。
「あの時計、直らないの?」
と、細い指先で猫を撫でながらファウスト。
「虹色に光るのは直ったけど、ワルツを踊るはずが浮かれたサンバになるらしい」
「へえ」
「見ていていたたまれない、自分だとしたら舌を噛んで死ぬほど辛い、ってヒースが同情してる。かわいそうだからちゃんと直してやりたいってさ」
「ヒースらしい」
ファウストは微笑むと、
「3日といっていたがもうひとつき、これにかかりっきりだ。彼も忸怩たるものがあるんだろう。あれで、頑固な子だから。今の見立てだとどれくらいかかりそうなんだ?」
すると聞こえていたらしいヒースクリフがこちらを振り向き、
「一年はかかると思います。部品をいちからブランシェットの工房で作るので……必ず完璧に仕上げてみせます」
と言った。目ぇバキバキだった。目ぇバキバキでもいささかもその造形美が損なわれないので、ネロはひそかに感心した。アーサーは「そんなことまでしてくれるなんて」とにこにこしている。ヒースが楽しそうなのでシノも機嫌が良い。ネロはちょっと首を傾げて、人知れずため息を付いた。足元にまとわりついていた猫が膝に乗ってくるのをぼんやり撫でながら、約束について考えていた。
からくり時計が直ったら処刑される。
からくり時計が直る前に処刑されたら、それは約束を破ったことになるだろうか。
(微妙なとこだな……)
約束を破って魔力を失ってから死んだら、魔法使いは石になるのだろうか。それとも、もう魔法使いではないから、人間のように体が残ってやがて腐っていくのだろうか。それはいやだな、と思った。ネロの望みはキラキラした石になってブラッドリーに食べてもらうことなのだ。ブラッドリーに一年待ってくれと言うべきだろうか。処刑される身でそんな注文がつけられるか? (今まで散々仕切っていたのを棚に上げて)ネロは悩んだ。ブラッドリーが「てめえの希望なんか知らねえ、今すぐ殺す」といえば、ネロに抗うすべはない。でも石になりたい。そこは譲れないのだ。
「あー……おれってほんと間が悪い……」
と、小さく呟く。猫が不思議そうに耳をぴんと立てた。
その夜つまみ持参でブラッドリーの部屋を訪れて、
「あのさ、処刑の話、ちょっと待ってくんね」
と切り出すと、ブラッドリーは、
「は?」
と眉を上げた。やっぱりだめかな……と思いながら、かくかくしかじかで時計が1年かかるんだって…と説明する。促されるままソファの隣に座って、ぐちぐちと話し続ける。
「ほら、時計直ったらって約束しちまったし」
「おう」
「おれが勝手にした約束だけどさ。あんたも約束したことになってるかもしれないし。万が一あんたが約束破ったことになって魔力失っちまっても怖いしさあ……だから……」
「いいぜ」
「裏切り者が何を身勝手なこと言ってんのって話だけど……えっ?」
「いいぜって言ったんだよ」
「いいの?」
「ああ」
ブラッドリーは頷いて、
「待ってる」
と微笑んだ。あんまり力強く輝くような笑顔だったので、ネロは若い日々の憧れが鮮烈に蘇り、ときめきをこらえるように胸を抑えた。早くこの人に食べられたい。賢くてかわいいヒースががんばってくれますように。
ブラッドリーはネロの肩を抱いてグラスを傾けた。窓の外で星がまたたいていた。からくり時計の人形の乙女は虹色に光りながらサンバを踊っていた。
ヒースクリフはああいった顔とああいったふるまいに反して、頑固で完璧主義者でプライドがレイタ山脈より高い。その上機械が大好きだった。賢者の世界に生まれていたら高専でロボコンに出場していたし鳥人間コンテストにも出ていただろう。しかし現実の彼は東の国の大領主、ブランシェット家の嫡男。魔法使いながら社交界の薔薇にして、賢者の魔法使いである。しかも東には因習めいた村が多いので地元の任務でよく怪我をする。つまりとても忙しかった。そのためかわいそうなからくり時計の人形の乙女は長い間、虹色に光りながらサンバを踊っていた。
からくり時計がなかなか完成を見ないうち、「旦那様」ことヒースクリフの父君は引退し、ヒースクリフは領主となった。
そこからはもう目の回るような忙しさだ。政治的な立ち回り、見合い話、合間を縫っての訓練、経営の勉強、シノと喧嘩、厄災を追い返す、罪人からの嘆願、領地の視察、クロエが立ち上げたブランドとブランシェットの職人の協力の契約、手紙のやり取り、たちのわるい魔女に一目惚れされる、厄災を追い返す、シノと仲直りをする……。
からくり時計は完成しないまま百年経った。とうにいなくなったかの賢者が言ったように、しすてむめんてなんすとはおうおうにして長引くものだ。
「ネロの手料理久しぶり」
「おういっぱい食いな」
ようやっと後進に領主の座を引き渡して引退したヒースクリフは、少年のときと同じ品の良さでネロの作る食事をちまちまと口に運んでいる。隣でシノは、こちらは少年の頃よりずいぶんと洗練されたカトラリー使いで、それでも大口でばくばくとかっこんでいる。ネロのそのときの店での、ささやかな宴だった。ファウストは教え子の成長に祝杯を何度もはしゃいで半裸で踊ったあと猫を抱いて寝ている。シノが魔法でブランケットをかけてあげた。
「お役目お疲れ、しばらくゆっくりしなよ」
ネロがねぎらうと、ヒースクリフは絶世の美貌をほころばせ、
「これからシノと旅に出るんだ」
と言った。シノは大仰に胸に手を当て、「お供します、我が君」と恭しく頭を下げる。もうそれにヒースクリフもいちいち照れたり怒ったりはしない。ネロは、ああそうなの、そりゃいいね、土産話楽しみにしてるよ、と言った。
……からくり時計は?
と思ったけど、とても言えなかった。かわいいこどもたち(ネロにとってはいつまでもそうだ)が、あまりにうきうきしていて、とても水をさせなかったのだ。
ヒースクリフは別れ際にネロの手をそっと握って、「ブラッドリー、早く出てくるといいね」と言った。ネロが瞬きしている間に、ヒースは閃くように笑って、シノと一緒に空に飛び上がってしまった。
何年か前に賢者の魔法使いという仕組みは終わりを迎えていた。ブラッドリーは再び牢獄に戻され、それきり顔を見ていない。
一度だけ面会に行った。ブラッドリーは退屈そうだったが、ネロの顔を見てうれしそうに笑った。まるでいつかの夜の逆をなぞるように、ネロは困り果てて、ブラッドリーは落ち着き払っていた。
「刑期がまだあるからしかたねえだろ」
「処刑はどうすんだよ」
「坊っちゃんに言えよ、時計直らねえんだからしかたないだろ」
「そうだけどさ……」
「出たらちゃんとやってやるよ」
ブラッドリーが子供をなだめるように頭を撫でるので、ネロは、
「約束する?」
と聞いたのだ。
「約束はしねえ、魔法使いだからな」
穴蔵の中にいてほしいと願った。だが鎖に繋がれ自由を奪われたブラッドリーを目の当たりにするのは、想像していないほどの苦痛だった。
「待ってろ」
とひとこと、ブラッドリーは命じた。ネロは頷いた。
更にそれから月日は流れ、たいていの魔法使いにとってはあっというまに三百年が経った。
ネロは、いつかブラッドリーに制裁されるのが分かっていたので、かえって心が安定して、日々の生活や料理、客あしらいにかつてないほど前向きに取り組んだ。逃亡犯にありがちなことだが、見つかると妙に開き直ってしまうものである。ネロもその例にもれなかった。
その間雨の街で店を持ったり、畳んだり、逃げたり、また店を持ったりを繰り返していたネロは、人間と同じような速度と体感で日々を過ごしていた。魔法使いは、魔法使いの中だけでくらしているとあっというまに百年が過ぎ去るが、人間とつきあうと人間の時間に合わせてしまうものだ。人間の尺度では途方もなく長い、長寿の魔法使いにしては恐ろしく密度の高い、三百年の、としつき……。
それはネロのいつでもじめじめとして水圧の高い心では抱えきれないほどの記憶と思い出、ささやかな人間関係を積み重ねていった。
そんなわけで、久しぶりに店に遊びに来たヒースクリフがふと、
「あの、人形のこと、ずっと待たせててごめんね」
と申し訳無さそうに言い出した時、ネロは心底キョトンとして、
「人形?」
と聞き返した。あれ、常連の一家の幼い娘のプレゼントにブランシェット製のお人形でもねだったんだっけ?と首を傾げた。
ネロはもちろん、処刑の約束をしたことを覚えている。誰のものにもならず、求愛に答えず、その日をまっている。けれどその仔細までは、すっかり忘れてしまったのだった。
ヒースクリフは驚いたようにしていたけどやがて、百年に一夜しか咲かない可憐な花が咲くように微笑んで、なんでもないよ、と呟いた。それから、
「……先月で、刑期終わったんだってね」
と言った。
「そうらしいな」
とネロは頬杖をついて、気だるげに答えた。
ネロはブラッドリーを待っている。いまかいまかと。なんでこんなに数百年も引き伸ばされたか細かいことは忘れてしまったけど、とにかく処刑をされるはずだし、待っていろと言われたのだし。
しかし健気に待つ料理人を尻目に、元囚人の男は、ブランシェット城の宝物庫にいた。ものを盗むためではない。そこには例の時計がずっと壊れっぱなしで放置されている。そういうことになっている。しかし実のところ、そこにはもう数百年前に完璧に修復されていたからくり人形の乙女がいて、ひややかなうすい水色に光りながら、優雅なワルツを踊っている。
その指先を盗賊の大きな手が捕まえて、うやうやしくくちづけを贈った。
「ああ、ずいぶん待った! この俺様が!」
宝物庫に案内した本人である何代か前の当主・ヒースクリフは「キスならネロにしたらいいのに」と思った。
シノは「キスならネロにした方がいいぞ」と口に出して言った。
ブラッドリーは「したことねえよ」と言った。東のこどもたち(ブラッドリーにとってはいつまでもそうだ)は顔を見合わせた。
「キスのひとつもしてないのにこんな我が物顔してるのか?」
「キスのひとつもしてないのに修理終わったってネロに言うなよって定期的に手紙まで書いてきたの?」
声を揃えてそう言うと、ブラッドリーはふん、と笑って、
「そんなもんしなくても、俺はあいつの男さ」
と言った。
ファウストは黙ってワインの瓶とグラスを魔法で取り出し、人数分注いで、ブラッドリーに渡した。ブラッドリーはその勝利の祝杯を受け取り、ぐい、と一息で飲み干すと、
「しすてむめんてなんすってやつもたまには悪くないってことよ」
と言って、にやりと笑った。
ネロは雨の街で、ブラッドリーを待っている。
誰のものにもならず、求愛に答えず。日々の仕事に取り組んで。ネロはブラッドリーを、待っている。