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    仁川にかわ

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    仁川にかわ

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    #ブラネロ
    branello

    割れたオレンジ二つ「欲のねえ奴だなあ」
     ブラッドリーが呆れたように言っても、曇り空の色をした頭はぼんやりと揺れただけだった。
    「そう、ですかね」
    「もっと、なんかねえのかよ。お宝が欲しいだとか、女を抱きたいだとか」
    「……あんまり」
     強がりでもなく、ピンと来ない風に首を傾げた。まだ痩せっぽちの身体は枯れ枝のように佇む。再度じっくりと目を見ても、虚空を捉えるように輪郭がぼやけていた。
     妙な奴だ、と思った。北の国に住めば、大なり小なり欲のある者ばかりだ。奪い、奪われ、盗み、盗まれ。そも、欲のない者などここでは生きていけない。己の持ち物にしがみつけないのなら奪われるばかりだからだ。空っぽになった生き物はなす術もなく死ぬ。それだけだ。
     死にかけの魔法使いを拾ったのは気まぐれではある。呼吸も浅く、命の灯火すら見えぬほどだったのに目を惹かれたのは、その魔法使い──ネロ、と名乗った子供が死ぬことを受け入れてなかったからだ。
     故に、問いかけた。このまま野垂れ死ぬか、他者から奪い蹂躙し生きるか。ネロは、ブラッドリーの手を取った。その生にしがみつく掌を、ブラッドリーは気に入った。
     獣のような奴だ。
     それしか知らぬ獣のように、生きることにしか執着がない。どれだけ惨めに倒れても、腹に穴が開こうとも、死んだ方がマシな痛みを味わおうとも、生きることを選ぶ。それなのに、ぼうっとした瞳はその他の欲を写さない。
     初めは珍しさから様子を窺っていた。その内に、理解した。欲がないのではない。欲しがり方を知らないのだ。まるで、産まれたての赤ん坊だ。欲しいものはあるのに、それが何なのか、どうしたらいいのかを知らないのだ。
     まあ、ブラッドリーの気分としては新人教育の一環だった。欲はないよりある方がいい。その上で、欲の扱い方を心得ていたらもっといい。
     盗みが上手くいったら、褒美を与えた。よくやった、と褒めてやった。初めはぽかんとしていたのが、インクを一雫落としたように喜びに染まっていった。その後、瞳が伏せられる。
    「ありがとう、ございます……でも」
    「あん?」
    「こんな、いいもの、俺には勿体ないです」
     消えそうな声で呟いて、手柄の一つとしてかっぱらった宝石に目を落とした。ブラッドリーが先程渡したものである。
     スプーンひと匙程度の違和感を抱いた。遠慮より、謙遜より、どこか恐れのようなものを感じたからである。それがいいものであるとわかるのに、手に入れる喜びより負の感情が優っている。はて、どうしたことか。
    「俺がやるつってんだ。大人しく貰っときゃいいんだよ。それとも何だ、他に欲しいもんでもあんのか」
    「いえ、俺は」
    「……おし、特別だ。言ってみろ。何でもくれてやる」
     言葉を押し切るようにして言い放った。細い体がぎくりと揺れる。戸惑っているようだ。何か言いたげに口籠もっている。
     知れば知るほど、妙な奴だった。欲を知っているのに、どうして自ら突っぱねるような真似をするのか。褒めてやると喜ぶくせに、褒美は欲しがらない。では、何のために動いて、何のために奪うのか。それが知りたかった。少なくとも、今まで会った者の中に同じような者は見なかった。半ば知的好奇心が故に、返答を待つ。そして、ネロはおずおずと口を開いた。
    「何も……何も、いらないです。宝石も、何も。でも、ボスが何でもくれると言うなら、その……よかったら、でいいんですけど」
    「おう、言ってみろ」
    「よくやった、って。もう一度、言ってもらえませんか」
    「はあ?」
     勿体ぶって告げられた台詞に、ブラッドリーは思わず盛大に顔を顰めた。
    「ッ、す、すみませ、ん。あの、今のは忘れてくださ、」
     一瞬で青褪めたネロが慌てて首を振る。逃げ出そうとするのを取っ捕まえて、ため息をついた。そのため息にすら大きく肩をびくつかせ、冷や汗をかいている。失言した、とでも思っているのだろうか。これ以上謝罪の言葉が出てきてもらっても困る。宝石もいらないと言うから何かと思えば、拍子抜けだ。むず痒い頬を掻いて、ううんと一つ唸った。
    「……いや、そんなんでいいのかよ」
     そりゃあ、愚鈍な輩に称賛をくれてやるほどブラッドリーの言葉は軽くないが。ものはいらないから褒めてくれと強請られたのは初めてだった。心の底から、お前の言葉が欲しいと乞われたのは。臍の奥で、むずむずと小さな虫が蠢くような感覚がした。ただ、上に立つ者として、手下を従える者として、よくやったと言ってやった。それが、宝石より高い価値だとこの男は語るのだ。
     照れくさいのだか、こそばゆいのだか、唇をもごもごとさせた。普段のブラッドリーからすると珍しい狼狽具合である。
    「小せえの……じゃ、ない。ネロ」
    「は、はいっ」
    「よくやった。上出来だ。助かったぜ、ネロ」
    「うわ、わっ、わ」
     仄かに赤くなった目元を見られぬよう、元より跳ねてまとまりのない髪を尚更ぐしゃぐしゃに乱した。大きな犬でも撫でるような手付きでも、それこそ大きな犬のようにネロは喜びを見せた。透明な尻尾が揺れているようだ。
     無邪気に嬉しそうにするのを見て、ブラッドリーは胸中でため息をついた。
     ああ、北ではこいつは生き残れまい、と。
     他者から認められる、許される。それは、綺麗な話だ。けれども、ここではそれだけでは生きてはいけない。己の存在を己で証明できないのならば。自らの足の踏み場を、居場所を、その証を他者に委ねるのならば。あっという間に食い尽くされてしまうだろう。少なくとも、ネロにとってはブラッドリーに出会ったことは幸運であったと言えよう。ブラッドリーは物を持たぬ弱者から搾り取るほど暇ではないのだ。だが、世には暇な輩というのは山ほどいる。自分より弱い者からしか奪えない者が、星の数より多くいる。
     求められるままに尽くして、吸い取られてしまえば、心は空になる。それは、魔法使いにとって事実上の死となろう。
     尚のこと、欲望の飼い慣らし方を教えねばと思った。煙のようで、霞のようで、雪のように輪郭がなく、それでいて青く燃える炎のような男が石になるのを見送るのは惜しい。無意識のうちに、そう考えていた。あるいは、己の唯一になり得る存在だと予感していたのかもしれない。何にせよ、手放さなかったことを今でも喜ばしく思うのだから。


     全体的に肉もついて、魔法も覚えて、ボサボサの髪も束ねられた頃。「新入りの小さいの」、ではなく「ネロ」になった頃。まだ、ネロは上手な欲の扱い方を知らないでいた。
    「──調理場、か?」
    「はい、ええと、ちょっとしたものでいいんですけど……」
     夜更け前。珍しくネロがブラッドリーにねだったかと思えば、調理場が欲しいと言い出した。
     盗賊団の食事環境は、正直よろしくない。食えるだけマシだ、と火だけを通して所々焦げた硬い肉を噛みちぎっている。果実だって、皮も剥かずに丸齧りだ。部下も文句は言えど、仕方がないことだとわかっていた。毎日のように暖かいスープに硬くない肉に柔らかいパンを食べられるようなら盗賊団になど入っていない。
    「覚えがあるのか」
    「少しだけ」
     奪うことしか知らない連中に料理の腕など求めても無駄だった。故に舌は飢えたまま。だが、控えめに、けれど頷くネロは腕に覚えがあるという。ブラッドリーは目を丸くした。この男は自己評価の低い男だ。そいつがわざわざ申し出るのだから「ちょっと出来る」程度のものではないのだろう。
    「いいぜ。作ってやる。何が欲しい?」
    「いいんすか」
    「いいに決まってる。うまい飯とまずい飯、どっちが食いたいかなんか決まってるだろ」
    「ボスにうまいって思ってもらえるかどうかはわかんないすけど……」
    「それこそ、上等だ。まずい飯は食い慣れてる」
     二つ返事で承諾したブラッドリーに、ネロはたじろいでいるようだった。述べた通りの理由もあるが、何より、あのネロが初めて欲しいと言ったのだ。叶えてやろうという気分になった。
     はにかんで、ありがとうございます、と零す。その顔を見て、いざ調理場を作ってやったらどんな顔をするのだろうと考えた。宝石を見るより、輝いた瞳をするのだろうか。想像して、口の端で笑った。
     ネロを特別気にかけている自覚はあった。初めは物珍しさからであったが、今はそうではない。ネロは、兎角居心地の良い男であった。痒いところに手が届くどころか、痒いと感じる前に手が届いているようだ。知らず右腕が動いているかのように、ネロが隣にいると全てが思い通りに進む。魔法を教えてやったり、戦い方を教えてやると、もっと居心地がよくなる。磨けば磨くほど輝く。愛銃と同じく、手入れをするほど手に馴染む。
     大袈裟に役に立つというよりか、地盤を整えるのが得意な性分であるようだ。ネロ自身は目立たぬよういるのに、いつの間にか走りやすい道が用意されている。その心地良さを感じているのはブラッドリーだけではないだろう。他の者も、ネロに一目置いているのを知っていた。本人は知らぬようだが。そもそも己を過小評価するのに慣れている節がある。自信のなさともまた違う。確固とした自己の定義がないから、小さく小さく纏まっているのだ。
     どうしたものかね、と頭を掻く。ブラッドリーはネロのような男の取り扱い方を知らなかったし、手放したくない者への接し方も、知らなかった。
     

    「こんなもんでよかったか?」
    「……!」
    「おい、何か言えよ。足りねえもんがあんのか」
    「全然! 十分すぎるくらいで……わ、鍋もある。包丁もある!」
     急拵えで仕上げた調理場にネロを連れて行くと、普段のぼうっとしたのが嘘のようにあちこち駆け回ってはしゃいだ。寄せ集めの器具を持ち上げてはわあわあと歓声をあげている。出会ったときよりも子供のように。呆気に取られたあと、ブラッドリーは吹き出した。こんな風に浮き足立つネロは想像もしていなかった。こんなにはしゃぐこともできたのかと思うと笑いが止まらない。
     飛び跳ねそうな勢いだったネロは、腹を抱えたブラッドリーを見て顔を赤くした。無理やりに表情を整えて、駆け足で寄ってくる。
    「あ、ありがとうございます、ボス」
    「何だ、もう仕舞いか?」
    「……っボス!」
    「はは、悪い悪い。お前が気に入ったならいいさ」
     そう言うと、ネロは黙って俯いた。困ったような、戸惑ったような装いで。それは、与えられることに慣れていない者の仕草そのものだった。ブラッドリー自身、己の発した台詞に驚いた。ブラッドリーが他者に何か与えるとき、善意だとか施しだとか、そういったものは一つもなかった。良い働きをすればその分だけ。見返りが欲しければその分だけ。謂わば等価交換であった。明確に得る利益がないのに与えることはなかった。
     飯を作るからと調理場を設けたが、第一の利益としてうまい食事を考えたのではない。ただ、ネロが喜ぶかと思っていた。ただ、喜んだ顔が見たかった。そんな、親の腹の中に忘れてきたような青臭い感情から与えたのであった。
     確実に絆されているのを感じる。それすら悪くないと思うのだから厄介だ。己なくしては極寒の大地に消えゆきそうな魂を、欲しがっている。お宝でも、スリルでもない。一人の男を。ネロを。
     思考を振り払うように、目の前の肩を叩いた。ボスとして相応しい姿を作って。
    「肉がいい。肉を食わせろ。そいつが対価だ」
     対価、とあからさまな単語を口にすれば途端に肩から力が抜けるのがわかった。
     真実がどうであれ、間にこういうものを挟んでやらないとネロは安心できないのだろう。本当に面倒で、手がかかる。しかし面倒を見てやることも、手をかけてやることにも、どこか誇らしさを感じていた。ネロの存在定義を握っているのは自分だと思えることが、ブラッドリーの存在定義の一つになっていた。危うい考えだと理解していたが、空想上のお遊戯でしかなかった唯一無二、とやらに心躍っていたのは間違いない。幾千年を生きる魔法使いとしてブラッドリーはまだ若く、心で魔法を使う者として、執着を捨てきれなかったのだ。


     肉が食いたい、とは言った。しかし、目の前に並べられた皿の数々に乗ったものは、ブラッドリーの知る肉とは全くの別物だった。視覚、嗅覚、その両方が切に訴えている。これは、絶対に美味い、と。
     くすんだ灰色でない、薔薇色の肉。フルーツの香りが立つソースに、彩りのハーブ。黄金に輝くスープ。不揃いの皿ばかりだったが、見た目も美しい。まるで、ショーウィンドウの向こうに並んでいた景色が飛び出てきたような、嘘みたいな光景だった。
     涎を垂らす者どもを制して、一口。はらはらした様子のネロがシャツの胸元を握りしめている。
    「う」
    「……う?」
    「う、ま、い! ネロ、うまい! すげえなあお前!」
     傍らの背中をバシバシと叩いてやるとネロは勢いよく咳き込んだ。興奮のあまりストレートにうまい、としか言えない。ただしかし、うまいだけではないのだ。体の芯に火がついたような感じがする。噛んで飲み込んだ全てが骨の髄まで沁みていくようだ。食べ進めていくうちに笑みが溢れる。世界が輝いて見える。食べる、とはこれほどまでに心を満たすものだったか。胃袋も脳味噌も喜んでいる。あれもこれもと手を伸ばす。ひとつたりとも既知の味わいではない。けれど、何処か懐かしいような、暖かい料理だった。
     例えば、北に生まれて右も左もわからぬ頃初めて食べたビスケットのように。人目を盗んで舐めた蜂蜜のように。それまでの全てが一変するような喜び。それが、己の為に作られた感激。ネロが、ブラッドリーに捧ぐ為作り上げられたものだ。
     無感動でいられるはずがなかった。
     ゴーサインを出せば、次々に皿に手が伸びる。口の周りをソースでベタベタにしながらうまいうまいと飯をかき込んでいる。きょとん、と。ぽかん、と。一人突っ立っているネロに賞賛と感嘆がてら毛むくじゃらのごつい手で誰かが頭を撫でた。撫でた、なんて優しいものではなく嵐のようにかき回した、が正しいかもしれない。髪の一、二本は抜けているだろう。慰めのように引っ掛かっている髪留めを解いて、整えてやった。それから、今度は正真正銘撫でてやる。
     ネロは相変わらず表情が乏しかったが、むずむずと唇を動かしては胸の辺りを抱き締めていた。目元が和らぎ、指先をじっと見つめている。
     それは、ねだられてブラッドリーが褒めてやったときと表情だった。
     心臓の中心を鉛玉で貫かれたが如く。得も言われぬ激しくも重たい感情がこころを突き抜けていった。口径分の隙間がすっかりと空いて風通しが良い。
     ともすれば風に散りゆきそうな花かと思えば、根を強く張る木々のような、ネロはそんな男だった。面白い奴だ、だとか。今更になってそんな言い訳は使えない。知れば知るほど、言葉を交わすほど、そばに置くほどに、手を伸ばす自分に気が付いていた。一等お気に入りの宝石より、秘蔵の酒瓶より、ネロの比重が重たくなっていくのを理解していた。どうしたって、ネロを眩く、大切なものと心が思って止まない。
     はにかんだ顔が、愛おしかった。苦しかった。痛かった。
     どうしてただ穏やかな感情一色になれないのか、わからなかった。腕を動かさずとも触れられる距離にいるのに。名前を呼んでやるだけで喜ばせることができるのに。何故、何故、心に穴が空いた心地でいるのだろうか。


     それから、幾年か経った。変わらぬ雪景色の中では感覚が狂いそうにもなる。百、二百、と数えて、やっと自分の歳がわかる程度だ。
     そろそろいいだろう、と、ネロが己の相棒であると自他共に認めさせた。ブラッド、と愛称を呼ぶことを許した。そうしてやっと、空いたままだった空洞が埋まった気がした。心臓の片側であり、右腕であると自負できた。
     文字通り満ち足りていた。ネロと居ればなんだってできる気でいたし、事実、なんだってできた。ブラッドリーがスリルの火口に飛び込んだとて、ネロが引き上げる。一人では物足りないことでも、二人ならばできる。ブラッドリーとネロは二人で一つだった。同じ方向を向いていると信じて、疑いもしなかった。一蓮托生の魂だった。そう、思っていた。
     転がり落ちるようだった。
     天空の頂上から、果てなき闇の最下層まで真っ逆さまだ。ネロを見失った日から、獄中で乾いたパンを喰む日々でブラッドリーは考えた。
     ネロのこと。ネロを思う、自分のこと。幸か不幸か、考える時間は腐るほどにあった。そうしてやっと、数百年かけて、やっと悟ったのだ。
     ネロは、初めからブラッドリーのものではなかったのだ。


    「魔法は、心で使うんですよね」
     賢者が、ふとそう呟いた。気紛れに相槌を打ってやると控えめに話し出す。ブラッドリーは異世界からやってきたこの青年のことを存外に気に入っていた。
    「そう思うと、魔法使いは感情と付き合うのが大変そうですね。喜んだり、悲しんだり、怒ったり……その一つ一つが魔法に影響されるんですから」
    「まあ、そういう奴はそうなんじゃねえの」
    「ブラッドリーは違うんですか?」
    「心を飼い慣らすことはあっても、振り回されちゃ命取りだ。上手く付き合わねえと長く生きらんねえよ」
    「そういうものなんですねえ」
     へえ、と感心したように賢者は息を吐いた。何の気無しの雑談なのだろうが、ちらりとブラッドリーの胸には引っかかるものがあった。ただ一人の存在へ向ける想いも飼い慣らせていないのに、その想いが何よりも重たくて大きいのに、よくもまあ生き残れたものだ。監獄へ入る前から振り回されていたにも関わらず、あまり危機感を抱いていなかった。悪いものではないと感じていたし、抱えた心を大切だと信じていた。
     しかしまあ、うまく、証明できないでいる。
     群れなす獣が群れを失えば、くたばろう。けれども、ブラッドリーは群れずとも生きられる獣であった。散り散りになって、手元に残ったのは己のみ。くたばる気はさらさらないが、独りの獣は何を愛して生きればいいだろう。
     拾ったばかりのネロを、獣のようだと感じたことを思い出す。実の所、奴も群れず生きられるものであったのだ。誰にも頼らず、誰にももたれかからず。今では、二人で一つになどなれない。一人きりが、二つあるばかりだ。
    「でも、長く生きていると……俺はわからないですけど、隕石みたいな感情だって、あるんじゃないですか。ほら、オズみたいに」
    「うげ」
     天敵じみた者の名を聞き眉を吊り上げた。賢者の語る内容は言わずともわかる。天変地異の前触れの如き、王子との出会いのことだろう。心を持つ存在に心を揺さぶられることほど難解なものはない。いくら魔力が強くとも長く生きようとも片側だけではどうしようもないからだ。
    「ブラッドリーだって、あるでしょう」
    「……」
     確信じみて、賢者が言う。詳しくは聞いてこないし言いもしないが、ブラッドリーからすれば赤ん坊のような青年も察するものがあるらしい。肯定はすまい。だが、否定もしない。
    「俺みたいな魔法の使えない人間は、長く生きるようで短い命ですから、後悔することも多かったです。もっと話しておけばよかった、だとか。もっと伝えておくべきだった、だとか」
    「……で、何が言いたい。何かあるんだろう。まどろっこしい」
    「はは、隠し事はできませんね。ええと、実は、その……ネロの機嫌が、ちょっとばかり悪いんです」
    「それを俺に言ってどうする。呪い屋だとか、ちっせえの辺りに構ってもらった方が喜ぶんじゃねえの」
    「んん、まあ、これは俺のわがままです。どうやら機嫌が悪いのは仕込んでいたスープをつまみ食いされたからだそうですし」
    「あー、あれか」
     心当たりしかなかったので、頷く。包丁を持って追いかけられてはいないが、かなりお怒りなのだろうと予想できた。大鍋に山ほどあった肉入りのスープを、綺麗さっぱり平らげた記憶がある。予想通り美味かったし、細切れに小さく混じった人参やらセロリやらも口に入ったがそれすらも美味と感じられた。
    「これは、内緒なんですけどね」
    「あん?」
    「……ネロがご機嫌斜めだと、野菜が多くなるんですよ」
     賢者は、悪戯がバレた子供のように笑った。以前、食べなければ健康に悪いと言いながらも苦手だと語った顔とよく似ていた。ブラッドリーは、わははと豪快に笑い横に並ぶ背を突き飛ばす勢いで叩いた。平均的な体格の青年は前のめりによろけて眉を下げている。
    「お前も悪い奴だなあ」
    「ブラッドリーほどじゃないですよ」
    「はは! そりゃあそうだ。だが、正直な奴は嫌いじゃねえ」
     まるっきり善意で固められているより余程やりやすい。これで二人は共犯者だ。ちらりと目配せをすると、応えるように賢者も頷いた。
    「なんだ、仲が良いなあ、あんたたち」
    「わあっ」
     突然現れたネロに賢者はわかりやすく驚いて見せた。渦中の人物の登場にどきりとしているのが伝わってくる。悪い奴だ、と揶揄ってみたものの悪事には向いていない性格だ。隠し事も碌にできないのだろう。いくらブラッドリーが平常を装っていても相手がこれでは自白しているようなものである。
    「お疲れ様です、ネロ」
    「あんたもお疲れ様」
    「良い匂いがしますね」
    「ああ、夕飯の仕込みは大方終わってたんだけどな。追加でスープを作ってたんだ。どっかの誰かさんが食べちまったせいで作り直すことになったスープを、な」
    「……ブラッドリー」
     じとーっと半眼で見つめる賢者に、トゲのある態度を隠しもしないネロ。おっかねえなあ、と胸中で呟き目を逸らした。
    「悪かったって。機嫌直せよ」
    「ハナっからてめえが盗み食いしなきゃいいだけの話なんだよ」
    「……おっかねえ」
    「あ?」
     最早人の目があるというのに取り繕おうともしていない。同じ北の魔法使いであるミスラやオーエン、それからオズに対する様子と全く別物だ。それだから賢者に何となく見抜かれ察せられ黙られているのであるが。ネロがそうしたいならば、とそういう設定に付き合っているがネロ自身は隠す気があるのかないのか隙が多すぎる。賢者とてあえて口を出さず聞き出さないだけで全てを知るわけではない。過去が露呈してしまうのは本意ではないのだろう。
     手のかかる男だ、昔から。
     適当な理由をでっち上げるとして、ああ、と声を上げる。少々芝居じみた語りを述べてみせたのは、意趣返しだ。うっかりにも程がある口の滑らせ方をするのだから、毎回フォローするのも大変なのだ。
    「そういやあ、賢者よ。何か用事があるとか言ってなかったか?」
    「……えっ、あ、ああ。はい。そう、でした、ね? ブラッドリー、ありがとうございます」
     一瞬戸惑ったものの、意図を正しく読み取った賢者はぎこちなく腰を上げた。やはり正直者だ。役者にも詐欺師にも向いていないだろう。足早に去る背中をぽかんとして見送ったネロは、毒気が抜かれたように立ち尽くしていた。
     こちらだけ座っているのも気分が悪いので座れと言外に促す。すっかり怒りの矛先が逸れてしまったからか存外に素直に横に座った。明らかに用事のなさそうな賢者の様子にも引っかかる所があったのだろう。やや後ろめたい表情をしている。
     一応のブラッドリーの任務は、ネロの機嫌を取って、野菜を回避することだ。託されたことでもあるし、六百歳から見たら若造も若造、赤ん坊みたいな子供に妙な気を遣わせた詫びでもある。
     ──なあ、ネロ。ネロよ。愛しき元相棒よ。
     何回も何回も盗み食いをして怒られてきたが、次も同じように怒るだろうか。その内に怒ることに疲れて、諦めるだろうか。どうせ言っても聞かないと、咎めることをやめるだろうか。
     ──なあブラッドリー。最低で最高の己よ。北の盗賊よ。
     そうして食べた飯は、美味いだろうか。
     何が欲しくて、何を求めて、どうしたいのか。何を生きる柱とするか。何処を帰る場所にするのか。己が己であると示す為に、何を根拠にしようか。魂を形作る贄を、誰に求めようか。
     生まれてきてからの全てが物語であるならば、ブラッドリーの物語はネロ無しには語れないだろう。ネロの物語も、ブラッドリー無しには語れまい。
     心の真ん中に、奥底に根付く他者は柔く脆く、根強く。殻で守れやしないのに抉られると死んでしまう。そんな弱さを持つ自分を、あの頃は知らなかった。
     まだネロの心に、ブラッドリーは棲んでいるだろうか。もう千切れて剥がれて、北の大地に捨て置いてしまっただろうか。
     まだ求めていたいのだ。どんな財宝より、世界一の美女を抱くより、スリルに身を焦がすより。あの日、二度目と空いた胸の隙間を、埋めたいのだ。
     従順なネロを無理矢理に閉じ込めるのではなく、自分から生まれた、自分の心で。例えば愛おしさだとか、恋しさだとか。狂おしいくらいに馬鹿らしい感情を。
    「ネロ」
    「……あ、ええと、何?」
    「悪かったよ」
    「さっき、聞いた……。その、そんなに反省してんの? 今更?」
    「お前、明日になったらまた俺がつまみ食いすると思ってる?」
    「そりゃあ、そうだろ。やめろって言ったってやめないし」
    「その度に怒るか?」
    「怒るさ。何、怒られたいの」
    「かもしんねえ」
    「はあ?」
     ただの東の飯屋ならば、北の魔法使いに刃向かうなどしないだろう。必死に東の魔法使いを装っているネロが毛を逆立ててブラッドリーを怒ることが嬉しかったのだ。そりゃあ、本気で怒らせたくはないし怒られたくはないが。相棒を名乗っていたときだってつまみ食いをして叱られたものだ。やる気なさげな眉を吊り上げて、コラ、と手の甲を叩いて。そんなじゃれあいの延長線だと思いたかった。
     本当は魔法舎だけではなくて、世界中にだってこいつが俺の相棒だ、と叫んで回りたいのだ。けれども、今は相棒と呼ばせてはくれない。ネロは、ブラッドリーのものではない。ただのネロと、ただのブラッドリーだ。
     二つは一つではなくて、一つと一つ。
    「怒るのって、結構エネルギー使うからさ。勘弁して欲しいんだけど」
    「だよなあ」
    「だよなあって」
     そういう奴なのだ、と思い知ったのは最近のことである。最近と言っても百年だ二百年だと経つが。怒るときくらい、好き勝手に相手のせいにしたらいいのに。言うは勝手だがされどできないのがネロの性質だ。
     感情の振れ幅が大きく揺れると、精神をすり減らして絞り出す。出さなければ出さなかったで繊細な胸はぺしゃんこに押し潰される。時間をかけてゆっくりゆっくりと治して、また削られる。
     その繰り返しの人生だった。の、だろう。きっと誰より削らせたのがブラッドリーで、誰より痛めつけたのもブラッドリーだ。その自覚くらいはあった。
    「例えば、明日から絶対につまみ食いしないって言ったら、信じるか?」
    「急にどうしたよ。あんた、何の話したいの」
    「なあ、ネロ」
    「……信じない、かな。……これ何?」
     全くもって脈絡のない発言に、訝しげな顔をする。何の話がしたいか。正直、ブラッドリーにもよくわからない。昔のように馬鹿話をして笑い合いたい気もするし、真面目に真摯に語りたい気もする。それでいて、核心を避けて他愛無い話で場を濁したい気もする。
     数多、ネロに繋がる糸を手繰って、手遊ぶばかりだ。
     ネロが、ブラッドリーのためだけに料理をするならば。完成前に手を伸ばすなんて真似はしないだろう。ブラッドリーの喜ぶ顔を想ってコトコト鍋をかき混ぜるネロを裏切る真似はしないだろう。何故ってそれは、ネロが求めるものを知っているから。それを、与えたいと願うから。そのことが、ブラッドリーの欲であるから。
     今も昔も、変わらぬものだった。
     どうしたらまた笑うだろう。照れたように眉を曲げて、不器用に唇を開いて、ほんのり目尻を桃色に染めて。どうしたら、ネロの渇く器をブラッドリーが満たすことができる?
     ネロが自分のものであると思っていた頃は簡単だった。ネロが手元に収まっていた頃は容易かった。ずっと己のものであると信じていた右腕を、どうやって求めたらいい?
     奪うことも叶わない。ネロは誰のものでもなくて、未だ、ネロのものでさえなかった。
    「あー……もうそろそろ、キッチンに戻るよ。腹が減ったなら、パンくらいは切って出してやる」
    「ああ」
    「つっても、スープを鍋一杯飲んだなら入んねえかもだけど」
    「あんくれえで満腹になるかよ」
    「はは、そうかもな」
     するり、隣から体温が消える。まるで懐かない野良猫じみた仕草だった。カラカラと笑うネロは東の料理人然として、こちらを見ない。ひらり翻るエプロンの裾は風に舞う花弁のように。消え去ることを、見送るしかない。不意に立ち止まって、静かに呟いた。
    「美味かったかよ?」
    「……ああ、この世で一番」
     そりゃよかった、と冗談っぽく返すネロに、ああ、やはり。心に小さな穴が空いたような心地でいた。
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    SPOILERイベスト読了!ブラネロ妄想込み感想!最高でした。スカーフのエピソードからの今回の…クロエの大きな一歩、そしてクロエを見守り、そっと支えるラスティカの気配。優しくて繊細なヒースと、元気で前向きなルチルがクロエに寄り添うような、素敵なお話でした。

    そして何より、特筆したいのはリケの腕を振り解けないボスですよね…なんだかんだ言いつつ、ちっちゃいの、に甘いボスとても好きです。
    リケが、お勤めを最後まで果たさせるために、なのかもしれませんがブラと最後まで一緒にいたみたいなのがとてもニコニコしました。
    「帰ったらネロにもチョコをあげるんです!」と目をキラキラさせて言っているリケを眩しそうにみて、無造作に頭を撫でて「そうかよ」ってほんの少し柔らかい微笑みを浮かべるブラ。
    そんな表情をみて少し考えてから、きらきら真っ直ぐな目でリケが「ブラッドリーも一緒に渡しましょう!」て言うよね…どきっとしつつ、なんで俺様が、っていうブラに「きっとネロも喜びます。日頃たくさんおいしいものを作ってもらっているのだから、お祭りの夜くらい感謝を伝えてもいいでしょう?」って正論を突きつけるリケいませんか?
    ボス、リケの言葉に背中を押されて、深夜、ネロの部屋に 523

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