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    社会人の路地裏が同じマンションに住み始めた話

    ともだちマンション「隣に越してきました、飯田天哉と申します!」
    焦凍がドアを開けるやいなや直角のお辞儀を披露した男は、朗々とそう名乗った。土曜日の昼下がり、食後の眠気に意識を預けかけていた焦凍は、余りに威勢の良いファーストアプローチを前にぽかんと口を開ける。
    「……はぁ、」
    「ハッッお忙しかったでしょうか?!突然のご訪問、誠に申し訳」
    「いや、それは大丈夫です。土日は仕事休みなんで……」
    ただ咄嗟に言葉が出なかっただけなのだが、気にさせてしまったようだ。申し訳なさに焦凍は頭をかいた。
    そんな心配をよそに、"大丈夫"という言葉を素直に受け取った天哉は小さく息を吐くと、シュバ、と音が出そうな勢いで小さな包みを差し出す。
    「これ、つまらないものですが。蕎麦アレルギーでなければどうぞ」
    「そば、……」
    大好物の名前にぴくりと反応した焦凍を見て、天哉の顔がぱっと綻ぶ。
    「もしやお好きでしたか?!」
    「まぁ、はい。あったかくないやつが」
    「それはよかった、是非召し上がってください!」
    それでは、とまたも繰り出された直角のお辞儀は、ぱたんと閉まったドアの向こうに消えた。
    嵐、というには礼儀正しかった。天哉の勢いに取り残されたままの焦凍は、玄関先に立ったまま手の中の包みに視線を落とした。
    ここは単身者向けのマンションだ、家族連れならともかく、一人暮らしで今時きちんと隣へ挨拶に訪れる人も少ないだろう。
    見るに、自分と同じか、そう変わらないくらいの年齢だろうに。真面目な奴なんだな、と焦凍が口もとを緩めた瞬間、ピンポーン、と再度チャイムが鳴った。
    間髪入れぬ来訪の知らせに先ほどの隣人と踏んだ焦凍は、居室側のインターホンを確認することなく、しかし直角のお辞儀には少し心構えしながらゆっくりドアを開けた。
    「とっ、突然すみません! 隣に越してきた、緑谷出久で…」
    立っていたのは天哉ではなく、ひとまわり小柄な男だった。
    「……隣なら、さっき、挨拶に来ましたけど」
    「えっ?」
    焦凍の言葉に大きな瞳を一層見開いて、出久は首を傾げた。なにやらブツブツと呟いたかと思うと、もしかして、と手を打つ。
    「僕とは反対側のお隣さん……ですか?」
    「ああ、言われてみれば」
    「同じ日に引越しだったんだ……その、両隣が引越しだとすごくうるさかったんじゃないですか?すみません……」
    「いや、別に謝られるようなことじゃ」
    出久に罪はないだろうに、心底悪いことをしたとばかりに眉を下げる。こっちの隣人も、真面目なようだ。小さく笑った焦凍に、あの、と恐る恐る包みが差し出された。
    「これ、つまらないものですが」
    小さな包みは、ちょうど今、焦凍の右手が掴んでいるものと同じだ。
    「……そば?」
    「そうです!お好きなんですか?」
    「あぁ、さっきも貰ったから」
    「えっ?!」
    焦凍の手の中にあるものに気付いたらしい出久の視線が、二つのそばの包みの間を行き来する。
    「わ、被っちゃった……!すみません、引越しの挨拶といえば、と思ったんですけどこのマンションなら一人暮らしでしょうし同じものばっかりもらっても迷惑ですよね、うわぁどうしよう……」
    やってしまった、とばかりに頭を抱えてしまった出久に、焦凍は困ったように眉を下げた。
    細くも長く側で暮らせますように願う、引越し挨拶の品。日持ちもするし、何よりも自分の好物で、焦凍としてはなにも困ることはない。
    そう伝えようと肩に手を伸ばしかけた瞬間、あっ、と思いついたように出久が顔を上げた。
    「大根!!うち、大根、あるんで!!!その、おろし蕎麦にでも」
    「おろし蕎麦……」
    焦凍の表情がほのかに明るくなる。どうやら魅力的な提案ができたらしい、と出久はほっと胸を撫で下ろした。
    「持ってきますね!」
    「待っ、」
    そばの包みを持ったまま張り切って踵を返そうとした出久の腕を、焦凍の左手が掴んだ。
    「……それ、折角用意してくれたんですよね。勿体ねぇ」
    「へ」
    「左隣にも声かけて、皆で食いませんか」
    一呼吸間を置いて、出久の頬がぶわりと紅潮する。
    「っい、いいんですか!……わ、」
    ともだちみたい。
    隠しきれない喜びが、へにゃりと下がったまなじりと小さな呟きの中に、満ちていた。
    「友、達……」
    「っ、あぁ!すみません、初対面で図々しいことを……っ」
    「いや、」
    恐縮してまた慌て出す出久をやんわり制して、焦凍の唇が弧を描く。
    「それ、いいな。ともだち」
    それは、とてもやわらかな笑顔だった。
    単に整った顔立ちというだけではない美しさに、出久の胸がきゅっとなる。それが何だか照れくさくて、出久はわたわたと手を振った。
    「っ……お隣!声、かけてきますね!」
    「俺も行く、あと」
    ほんの少しの躊躇いの間。サンダルを引っ掛ける右足の一歩で、それを詰める。
    「敬語じゃなくていい。友達、なんだろ。緑谷は」
    「……! うんっ」
    嬉しそうに頷いた出久の肩をポンと叩いて、焦凍は部屋を出た。
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