ふくふくふくふくと、幸福をはらんだ湯気がたちのぼる。
このところ、初夏のような気候が続いていた。ヒーロースーツも夏仕様に調整すべきか、と頬の輪郭を伝い落ちる汗の滴を拭いながら考えていたのがつい半日前。
それなのに今朝は、一瞬迷った末にエアコンのリモコンを手に取って「暖房」ボタンを押した。体温調整は得意な焦凍でもフローリングを踏む足の先に冷えを感じる。今、二人分の体温にあたためられた布団の中でぬくぬくと眠るいとしいひとが、少しでも快適に起きてこられたらいい。
やかんを火にかけて、食器棚からマグカップを二つ出す。さすがに豆を挽く時間は中々取れないが、美味しいものを探してはストックしているコーヒーのドリップバッグも、二つ用意した。湯が沸くまでに昨晩出久が買って帰ってきたパン屋の袋をダイニングテーブルに出し、何種類もあるパンを頭の中で自分用と出久用にわけた。――わけることが、できるようになった。出久は何が好きで、自分は何が好きだと思われていて、そういうことが分かるようになったからできることだ。
しゅんしゅんと音を立ててやかんの湯が沸く。ドリップバッグの外袋を開けてから、マグカップに熱湯を入れてあたためる。くるり、とお湯をひと回し、シンクに湯を捨てればカップの底からほかほかと優しい湯気があがった。
ぺり、とドリップバッグのフィルターを慎重に開く。力任せに(というほど力を入れたつもりもないのだが)開けると中身をぶちまけてしまうから、そうっと。カップの淵に優しく紙の爪をひっかければ、あとは湯を注ぐだけだ。
沸かしたての熱湯が一筋、フィルターの中へ落ちた。さらさらとした豆全体を湿らせるように少量注いで、一旦やかんを置く。キュッとかさの減ったコーヒー豆は、まるで突然の熱にびっくりして身をすくめたみたいだった。けれど次第に、ふくふくと膨らみはじめる。幸福をはらんだ湯気をあげて。
「いい匂い」
「緑谷、」
ぽす、と背中にちいさな衝撃を受けて、焦凍は振り返った。ぼさぼさの緑の癖毛をぐり、と擦りつけられたので、笑いながら撫でてやる。
「おはよう、もうすぐコーヒー出来る」
「ん、」
「……くっついてると危ねぇぞ」
やんわり離れるよう促すが、むしろ腰に回された腕の力が強まっただけだった。苦笑して、気をつけろよ、とだけ告げる。
30秒ほど蒸らしてから、少しずつ湯を足していく。豆の真ん中を穿つようになるべく細く注ぎいれるたび鼻先をくすぐる淹れたてのコーヒーの香り、蒸気、腰にしがみつく腕と身体のぬくもり。
「できた」
「やったぁ」
へへ、と気の抜けた笑顔で伸ばされた両手に、焦凍はカップの持ち手を向けてやった。
受け取った出久は、ふーふーと珈琲を冷ましている。吐息に押された湯気が、自分の手元から立ち上るそれと混じって巻き上がっていった。
「んー、おいしい! あったまるね」
花が咲いたように笑う出久に微笑み返して、焦凍もマグカップに口をつける。く、と手首を曲げて、角度のついたカップから喉に熱い液体が流れ込む前の、ほんの一瞬。
「だいすき」
こてん、と傾げられた頭が腕にあたる。自分の寝間着で擦れた緑の髪が布地にくっついたことに気づく余裕もなく、焦凍はただ動きを止めることで精一杯だった。
「……っぶねぇ、噴き出すところだった」
「へへ、ごめん」
なんか言いたくなった。さして悪びれる様子もなく、出久が笑う。
「熱湯みたいな奴だな」
「え、どういうこと?」
「なんでもねぇ」
今度こそ、コーヒーをゆっくりと口に含む。胸の中、ふくふくと膨らんで広がっていくこのあたたかさを、きっとひとは幸福と呼ぶんだろう。