ゆらゆら、ごくり ちかちかと瞬く火よりも、煙のほうが、なんだか放っておけない気持ちになる。
ゆらりゆらりと揺蕩って、広がって、薄まって。そしていつのまにか空気とひとつになって、消えてしまうから。
「緑谷」
帰宅するや、焦凍はベランダに続く掃き出し窓を開けた。夜、ほんの数分の、静かな時間。それを乱さないようそっと力を入れたのに、アルミの窓枠はカラカラと嘲笑うような音を立てた。
「ん? あ、おかえり轟く、」
はっと気付いたように出久が振り返る。その動きに合わせて、漂う紫煙がゆらりと揺れた。広がって、薄まって、――きっとそのうち、空気とひとつになってしまうんだろう。そしてそれは、今日に限ったことではない。
「吹きかけてくれ、煙」
「……へ?」
突拍子のない要求に、出久はぽろりと煙草を取り落としかけた。すんでのところで指に携えなおし、ほっと息を吐く。訝しむ緑の視線が、焦凍を捉えた。
「い、やいや、轟くん吸わないだろ」
「あぁ」
「煙たいよ」
「だろうな」
出久は何かいいたげに口を開いて、けれど思い直したように唇を結んだ。きっと自覚があるのだ、このキャッチボールは自分が不利なんだと。
「……その、身体にいいもんでも、ないし」
「しってる」
どうにかして焦凍を止めたいと紡がれた言葉は、ブーメランのように出久へ返っていった。煙たくて身体にいいもんでもないそれを指先に挟んだまま、うぅんと声をあげて考え込んでしまう姿がいとしいと思う。
「どうして、……って聞いてもいい?」
「……ずっと想像してたんだ、お前が煙草を吸う時に」
焦凍は指をのばして、出久の胸元をトン、と突いた。
「胸いっぱいに煙が渦巻いて、溜め込んでたもん、白いもやが攫って包んで」
そのままゆっくりと指を上へ――唇まで辿らせて、焦凍はにこりと笑った。
「ここから、でてくる」
そのまま、下唇を柔く押してみる。夜風と煙草に水分を奪われた唇は、けれど柔らかい感触がした。
「……こたえに、なってないよ」
「そうか?」
どこか拗ねたように出久は唇を尖らせた。文字通り目と鼻の先だ、まだ"そこ"には焦凍の指先があることを知っていながら。
「緑谷が吐き出すなら、毒でもいい」
ゆるされたような心地で、焦凍は指先に触れた唇をもう一度押し返した。反射的に薄く開いた唇のあわいから、赤い舌がのぞいた。
「消えてほしくねぇ。……変か?」
尋ねながら、焦凍は首を傾げた。そりゃあ、変に決まっている。いくら親しい間柄とはいえ、他人の吐き出した煙草の煙を吸いたいだなんて、変な頼み事以外の何者でもない。
「……へん、だよ」
「そうか」
だから出久の返事に、焦凍はただ頷いた。けれど同意を得たはずの彼は、その"変"な願い事を笑い飛ばすでも咎めるでもなく、ただ噛み締めるように口をもごつかせている。
「緑谷? 困らせたなら、」
「変だよ、……なんで」
焦凍の言葉を遮って、手すりにもたれていた出久がずるずるとしゃがみこむ。
「嬉しいとか、思っちゃうのかなぁ……」
ぽつりと呟かれた言葉に、焦凍はパッと目を輝かせた。
「みどりや」
「あ、や、嬉々としないで!……もう、」
「わりぃ」
「……いくよ、」
スゥ、と夜風を吸い込む音がして、出久の唇がすぼめられる。まるで口づけをねだるようで、目が離せない。
ふぅ
出久が控えめに吐き出した息の勢いに乗って、紫煙に視界を覆われる。それを躊躇いなく吸い込んで、焦凍は咽せたがる胸をグッと押さえた。
「と、轟くん、大丈夫?」
「……大丈夫だ」
「…………ほんと、変だよ」
「今更だろ、俺はとっくにおかしい」
おまえを好きになってから。そう付け加えると、出久は大きな瞳がこぼれそうなほどに目を見開いて、ぱちぱちと瞬きした。直後、火が出そうな勢いで赤くなった顔を両腕でバッと覆う。腕の隙間から、もう、と細く拗ねた声がして、焦凍はくつくつと笑った。
出久は、時折煙草を吸う。
それは決まって誰かを救えなかった自分の無力さを噛み締めている時だった。その苦味が、息苦しさが、人知れず消えてしまうことがないように――そう祈りながら、焦凍はすっかり煙たさの消えた胸元をさすった。