The calm before the stormラノシア沖に人知れず浮かぶ、小さな島。
先程ほんの一瞬顔を出した月が再び厚い雲に隠れ、浜辺に寄せる波と、潮風が木々を揺らす音だけが暗闇を縫って響いている。
ざわざわと静かに続いていた環境音を、ぱしゃり、と水を蹴る音が遮った。
ずぶ濡れで波打ち際から上がってきた人物…アルダシア・ガラムは目障りに纏わりつく長い髪を搾り、顔に滴る海水を片手で拭う。
ふと視線を上げた先に、数人の人影があった。
「…おかえりなさい、アルダシア。私を放って他所で夜遊びかしら?」
「シーナ…」
二人の男を従えた妖艶な女が、両手を大きく広げて音もなく近づいてくる。蛇のように全身を覆った鱗。暗闇に光る金の瞳。月明かりに照らされた異形の女…シーナは、濡れて張り付いた髪を指でついとよけ、血の気のない唇でアルダシアにそっと口付けた。
「こんなに冷たくなって、かわいそうに。何があったのかは聞かないわ。さぁ、いらっしゃい。私が暖めてあげる、貴方の身体も、心もね…」
(何が暖めるだ。体温も持たないくせに、気色の悪い蛇女め…)
心の中で吐き捨てながら、アルダシアは唇に微笑みを貼り付けてシーナの身体を軽々と抱き上げる。
波打ち際から歩を進めるその姿は、さながら人魚姫と結ばれた王子のようだ。
「嬉しいよシーナ。君のような賢くて美しい女が俺を癒してくれるなんて、至上の喜びだ」
「それで?例の薬はどんな様子だったのかしら」
「ああ、良い具合だ。だがもうあれ以上は強くしないほうが良いかもしれん、下手をすると上手く使う前に相手が死んじまうな」
「そう。もう少し改良が必要かと思ったけれど、この辺りで一度定着させたほうが良さそうね」
「賢明だろう。…いつものルートから新規開拓ができそうでね。俺の方に少し多めに回してくれないか、素敵なお姫様」
「もちろん構わないわ。他ならぬ貴方のためだもの…」
砂浜の終わりで地に降りたシーナは薄衣の裾を持ち、アルダシアの厚い胸板をそっと撫でて囁いた。
「服を乾かしていらっしゃい。ベッドで待ってるわ」
「ああ」
「ふふ、可愛いアルダシア。私のそばにいる限り、この海は貴方の味方よ…」
アルダシアはこの上なく優しく魅力的な微笑みをシーナに残して、島の隠れ家へ続く道へ消えていく。
シーナは穏やかな表情のまま、遠ざかっていく背中に小さく呟いた。
「ええ、そう。ちゃんと貴方の味方だったのよ?まさか私の大事なウェドの魂を穢そうとするだなんて…愚かなことをしたわね」
背後に控えていた男たちが、そっとシーナの手を取り、細い指に口付ける。
「いい子ね…あの男はもう要らないわ。またウェドに手を出される前に殺して、魂だけ持ってきて。もう間もなく、あの子の魂は祈りで満たされる。私の望みは果たされる…」
シーナの瞳が、暗闇に怪しく光る。
「ふふ…待っていてね。すぐに迎えに行くわ、ウェド…」
遠く水平線に稲光が走る。
大きな嵐が、少しずつ、確実に、近づいてきていた。