一番の護衛 新しい任務に向けてオペレーターや職員たちが慌ただしく準備を進める中、見知った二つの背中を見つけたレオンハルトは大きな声で呼びかけた。
「エアース! ドクター!」
先に反応したのは黒い兎耳を垂らした少年で、ジトリとした視線をこちらに向ける。何も知らない人からすればともすると怒っているようにも見えるが、これが彼の常態であることを知っているレオンハルトからすればなんら問題ではない。むしろ少し楽しそうな、これからの任務に向けて高揚しているような雰囲気さえ感じた。
遅れて振り返ったドクターは気さくに片手を上げた。
「やぁレオンハルト。見送りに来てくれたの?」
「もっちろん」
笑顔でそう答えれば、小さなため息が聞こえた。
「わざわざそんなことをしなくても、行って帰ってくるだけだ。五日後には戻ってくる」
嬉しそうなドクターと対照的にエアースカーペの反応はにべもない。レオンハルトは苦笑する。
「そりゃあエアースなら時間ぴったりに作戦を終わらせるんだろうけどね。でも今回の任務地はちょっとばっかし危ない所なんでしょ? さすがに心配になってさ」
「いつも通りやるだけだ」
「もうっ、そうだけどさぁ」
「心配してくれてありがとう、レオンハルト」
このまま平行線を辿りそうな会話にドクターが割って入る。マスクとフードですっかり顔は見えないが、柔らかく微笑んでいるであろうことは想像に難くなった。
「確かに源石多発地帯みたいだけど、大丈夫。みんなにも協力してもらうしさ」
そう言いながら彼が見渡す先には数々のオペレーターたちの姿があった。
「もちろん、エアースカーペもいてくれるしね」
「当然だ。護衛だからな」
黒髪の少年は鷹揚に頷く。そのまま、自然に言葉を続けて。
「ドクターのことは俺が守る」
その一言が、鼓膜を揺らした瞬間。
レオンハルトの胸に言いようのない感情が込み上げた。
身体中の筋肉が硬直して、ぐっと息が詰まる。
「……レオンハルト?」
エアースカーペの胡乱げな呼び声で、忘れていた呼吸を取り戻した。急速に流れ込む空気に、喉が冷える。
「どうかしたのか」
「いや、ううん、あはは。何でもないよ。それならいいんだ。でも本当に気を付けてね」
二人の顔を見ることができず、視線を少し外したまま早口で捲し立てる。視界の端でエアースカーペが首を傾げた。
「おい、アンタ――」
「あっ、俺あっちで積み込み手伝ってくるから!」
何事か問いかけられる前に、レオンハルトは脱兎のごとくその場から逃げ出した。そのまま移動車両へ荷物を積み込んでいた職員に声をかけ、戸惑う彼を尻目に残りの荷物を運んでいく。
終わったら今度は荷物が置いてあって床の掃除に明け暮れ、さらにまた別の手伝いを――と繰り返している内、いつの間にか二人の姿は他のオペレーターたちや車両と共に消えていた。無事に出立したらしい。
深く息をついて、レオンハルトはその場にしゃがみこんだ。
エアースカーペはレオンハルトの護衛だった。幼い頃から行動を共にし、一緒にいることが当たり前で。レオンハルトが天災トランスポーターに就任した時も、幼馴染は迷う素振りも見せず護衛の座に就いた。
とはいえレオンハルト専属だったわけではない。もしそうなら、レオンハルトに仕事が来なければエアースカーペの仕事も発生せず、たちまち食い扶持に困ってしまっただろう。
だからエアースカーペは相方の天災トランスポーターに仕事の依頼が来ない間は、第三者の護衛任務に従事していた。他の天災トランスポーターや商人、果てはどこぞの要人など、この荒れ果てた土地で護衛を欲する声は少なくない。しかしそれらはあくまで単発的な仕事だった。金で結ばれた信頼こそあれど心からの絆はほとんど芽生えない。
しかしロドスに就職してからは必然的にドクターの護衛となることが多かった。たとえレオンハルトとエアースカーペが一緒の部隊であったとしても、エアースカーペの第一優先はドクターの守護だ。それに不満を持ったことなど一度もない。ロドスにとってドクターは希望の光。全員で守り支えていく必要があるのだから。そのことは重々承知しているし、レオンハルト自身もまたドクターの力になりたいと思っている。
けれど。
『ドクターのことは俺が守る』
自信に満ちた声。己の立場を自負する表情。迷いのない真っ直ぐな瞳。
それらを向けられるのは自分だけだと、当たり前のように思い込んでいたから。
「…………」
彼の心からの献身を享受する存在が他にできた――という事実に、レオンハルトの心は未だに追いついていなかった。
もう明日には彼らが帰ってきてしまうというのに。一体どう顔を合わせればいいのか。考え続けても、答えを導き出すことができない。
「レオンハルトさん」
見上げると、グレイが食器の乗ったトレイを手に立っていた。気づけば周囲の喧騒が耳に煩い。人がいない内に昼食を済ませようと早めに食堂を訪れたはいいものの、物思いに耽っている内にすっかり時間が過ぎてしまったらしい。
「ちょうど席、いっぱいみたいで。相席させてもらってもいいですか?」
「うん、もちろん」
慌てて机上のトレイを自分側に引き寄せる。野菜とパテがサンドされている最初は温かかったパンも、今では水気を吸ってすっかり冷え切ってしまっていた。
「珍しいですね、お一人なの」
空いた席に座りながら、グレイはそう口火を切った。
「そうかな?」
「はい、いつもエアースカーペさんと一緒にいる印象があります」
「んー、最近はそうでもないけどね」
今だってそうだ。彼が今どこで何をしているか、レオンハルトには知る由もない。離れ離れの時間が続くことにも、もうすっかり慣れつつあった。そのことがまた小さく胸を刺す。
暗澹とする胸中を知ってか知らずか、グレイは話を続ける。少し予想外の方向に舵を取りながら。
「僕、お二人に憧れてるんです」
「へ? なんでまた?」
思わず素っ頓狂な声が出た。そんなことを言われたのは初めてだ。目の前のグレイははにかむように笑った。
「幼馴染で相棒って、今から手に入れようとしても手に入らない、唯一無二の存在じゃないですか。そんな相手がいるなんて素敵だなって」
きらきらとした瞳に、今度はレオンハルトが気圧される番だった。肌の表面がむずむずするような感覚に耐えながら口を開く。
「ってそんな、綺麗なだけの関係じゃないけどね。お互い遠慮なんてないし、くだらない喧嘩もするし。腐れ縁って言うかさ」
「そういうのもひっくるめて、ですよ」
咄嗟の弁明にも、グレイは自分の意見を曲げなかった。野菜の浮いたスープを一口飲んで、幼い少年は優しく微笑む。
「羨ましいです」
かけがえのない、宝物でも見るような視線に。
レオンハルトは靄がかっていた心がうすらと晴れていくのを感じた。
「ありがとう、グレイくん」
「え? 何がですか?」
唐突な感謝の言葉に目を白黒とさせるグレイに、ウインクを送る。
「ちょっと自信が持てたよ」
「はい……?」
未だ戸惑う少年を尻目に、レオンハルトはべしゃべしゃのサンドイッチを口に放り込んだ。
部隊の帰還は予定通りだったが、購買部で店員と話が弾んでしまい出遅れてしまった。速足でレオンハルトが発着場へ向かっていると丁度良く、廊下の奥から黒い兎耳が歩いてくるのを見つけた。
「エアース、おかえり」
入れ違いにならなくてよかった。そう思いながら手を振って名を呼ぶと、彼はすぐにこちらに気づいた。
「ああ」
真っ直ぐ近づいてきたエアースカーペは立ち止まると、不意に耳の先からつま先までレオンハルトの全身を観察するように眺めた。
「何?」
その行動の真意が分からず首を傾げると、黒髪の少年はふんと鼻を鳴らす。
「よかった」
「だから何が?」
「もう元気そうだな」
「…………」
やはりあの時。こちらの態度が変わったことを彼は見逃していなかったらしい。レオンハルトが答えに窮していると、エアースカーペは自然な調子で続けた。
「心配したぞ。アンタが拾い食いでもして突然腹を壊したんじゃないかって」
「そんなことするわけないでしょ!? 俺を何だと思ってるのさ」
「可能性の話だ」
冷たくあしらいながらエアースカーペは宿舎の方へ足を向けた。レオンハルトもその後を追う。
あの日感じたもやもやはグレイのおかげで大分霧散した。レオンハルトにとってエアースカーペが唯一無二なように、エアースカーペにとってのレオンハルトもまたそうであることに何の揺らぎもない。黙ってあることないこと想像してしまうことが良くないのだと、レオンハルトはごく自然な調子で話題に出す。
「エアースってばさ、結構ドクターのこと気に入ってるよね。俺が守る、なんてさ」
黒い耳がぴくりと反応し、エアースカーペが一瞥を寄こす。
「それはアンタもだろう」
「それはまぁ、そうなんだけどさ」
そうなんだけど、そうじゃなくて。と、言い募れば言い募るほど気持ち悪い方面に向かってしまうだろう。次の言葉に悩んでいると、呆れたような苦笑が聞こえた。
「遊びの時間を減らしてでも一緒に立ち向かう、だなんて。他のやつに言っているのを聞いたことがないぞ」
「あれ、なんかそれ言った覚えがある」
ぶわりと呼び起こされたのは昇進時の記憶。二度目の昇進にしてやはり専用の制服やアクセサリーが支給されないことに落胆しつつ、これからもよろしくというドクターを安心させようと少し格好を付けてみたのだ。よくもそんな臭い台詞が言えるな、と突っ込んできたのは横にいたエアースカーペだった。確か彼も同時に昇進したのだ。
「まぁ、実際ドクターにはがんばってほしいしね。応援したくなるっていうか」
「もちろんだ」
レオンハルトの感想にエアースカーペは相槌を打って、さらに言葉を重ねる。
「ロドスの研究が発展すれば、鉱石病の治療方法が見つかるかもしれない」
「うんうん。壮大な夢だよね」
「そしたら、治るだろう」
思わず立ち止まった。
前方に視線を向ければ、緋色の瞳が真っ直ぐにレオンハルトを見つめている。
――その時が来るのはまだまだずっと先だと思っていた。
原石融合率もまだまだ低く、血液中源石密度はアーツの力で非感染者よりも下回るほどだ。だから普段は自分の病気のことなんて頭の片隅にすら存在しない。ただ薬を飲む時に少しだけ、ほんの少しだけ嫌な気持ちを思い出して。けれどすぐに水と一緒に呑み下してしまうくらい。
けれど、彼は。エアースカーペはもしかしたら、当事者であるレオンハルト以上に真剣なのかもしれない。砂浜で一粒の砂金を探すような途方もない夢に。
「そういえばアンタ宛に手紙が来てるぞ」
さっきそこで貰ったんだと差し出された手紙を、いまだ放心状態のレオンハルトは慌てて受け取る。差出人を見れば昔から良く鉱石の鑑定を依頼してくる、とある町の町長だった。金払いも悪くない、数少ない良客だ。
「出発の日を決めたら教えてくれ」
己も同行することが、さも当然のように。そう言い放ってさっさと自室へ消えていこうとするエアースカーペに、レオンハルトは大きな声で答えた。
「もちろんさ、相棒!」