その宝石は森の中 その日ヒースクリフの部屋に立ち入ったシノが見つけたのは、リングケースの中で花咲くように綻んでいる、白い宝石を戴いた指輪だった。近づいてまじまじと眺めれば、地金には繊細な掘り模様が施されている。誰の手によるものか、シノには一目で分かった。製作者がこれを誰に渡すつもりなのかも。
最近よくブランシェットの屋敷に出入りしている、年若い女性。ヒースクリフが彼女の来訪を落ち着かない様子で待っているところをシノは何回も目撃している。そして彼女が来ると、二人は屋敷の奥に引っ込んでしまうのだ。
今まで色恋沙汰など一切なかった人見知りのお坊ちゃんに、懇意にする人が遂にできたのであれば。それはシノにとって願ってもいないことだった。心から祝福し、背中を叩いて、さすが俺の主君だと声をかけてやらなければならない。
まだその言葉を伝えていないのは、二人が本当に色恋の仲にまで発展しているか分からないからだ。分からないなら聞けばいい。早く聞いてはっきりさせればいい。そうシノも、思ってはいるけれども。
「…………」
シノはそっとリングケースを持ち上げた。
この美しい指輪が彼女の手に渡れば、二人は間違いなく結ばれるのだろう。空を覆う木々の隙間から覗く月光のような白を指の上で輝かせる女性。その隣で少し照れたように微笑むヒースクリフ。
それは絵に描いたような幸せの光景で。
思い描いていた通りの主君が得るべき幸福の姿で。
目の前に見えているかのようにリアルなその光景が、シノの眼前にありありと浮かび上がって。
ひとつ、瞬きをしてシノは――駆け出した。リングケースに収まる指輪を手に持ったまま。
魔法舎の廊下を一目散に駆け抜けて、階下へ。誰もいないホールを渡って玄関をくぐり、呼び寄せた箒に跨って夜の闇へと飛び込んだ。
他人の物を勝手に持ち出すなど言語道断だ。例えそれがヒースクリフの物であっても。それでもシノの手は布張りの小箱を離そうとはしなかった。
胸の辺りが締め付けられたように痛い。
この痛みをシノは……知っている。
ヒースクリフが女性を待つ、その光景を目にする度に心がちくりと痛むようになったのはいつからだろう。
恐らくは件の女性に会うために、魔法舎からブランシェット家に戻るというヒースクリフにあれこれと理由をつけて同行しなくなったのは。
ヒースクリフが彼女と結ばれる想像をする度、祝ってやらなければと、そう言い聞かせるようになったのは。
自分がこんな風におかしくなってしまったのは一体、いつからだろう。
何も考えずに箒を飛ばし、辿り着いたのは慣れ親しんだシャーウッドの森だった。適当な木々の割れ目から中に降り立つ。どこかじめりと湿気を帯びた空気を胸いっぱいに吸い込むと、シノの気持ちも幾分か落ち着いた。それでも手の中に罪を抱えているという事実は消えない。
加えてシノは既に気づいていた。よく知った魔力が追いかけてきていることを。なにせ部屋の扉やら何やらを全て開けっぱなしにしたまま出てきてしまっているのだ。気づかれないはずがない。それに何より……大切な指輪が机の上にないともなれば、焦りもするだろう。
逃げ場などありはしないのだ。
やがて影が頭上へ飛来しぴたりと止まる。ひらりと目の前に少年が降り立った。
「シノ」
覚悟していた呼びかけに、シノはゆっくりと頭を上げた。
月光を背に、ヒースクリフが立っている。柔らかな白い光は、なるほど手の中に収まる宝石によく似ていた。
「悪かった」
いつでも眺めていたいはずの彼の蒼い瞳を、この時ばかりは見ることができなかった。俯いで地面を見つめたまま、シノは両手でリングケースを差し出す。
「誓って、中身には触ってない」
てっきりすぐにでも取り上げられるだろうと思っていたが、不思議なことにヒースクリフは手を伸ばすことはしなかった。
「どうして、指輪なんて持ってこんな所に?」
どうして、こんなことをしでかしたのか。指輪を持ち出して、どうしたかったのか。シノは上手く言葉にすることが出来ずにいた。
ただ、幸せそうに寄り添う二人を想像した、あの瞬間。
この指輪さえなければ。
そんな馬鹿げた考えが、脳裏を確かによぎったのだ。
「教えて、シノ」
「……分からない」
だが、本心をそのまま吐露することは憚られた。シノがまさか、ヒースクリフが好きな女性と結ばれることを快く思っていないなどと、万が一にも気づかれてはならなかった。従者失格だ。
硬い沈黙が二人の間に横たわった。言葉で責め立てなじられるよりも余程辛い時間だった。
どれほどそうしていたのか、やがてヒースクリフのしなやかな指がリングケースを持ち上げる。手の中の重みがなくなって、ふっと肩の荷まで降りたようにシノには感じられた。そうだ、これでいい。あるべき物はあるべき場所へ。
パカ、と小気味のいい音を立てて小箱の蓋が開く。収められていた指輪をヒースクリフがそっとつまみ上げた。乳白色の宝石が月の光を受けて柔らかな青白い煌めきを放つ。瞬きの間のその美しさにシノは息を呑んだ。彼がその宝石を選んだ理由がやっと分かった気がする。
そうしている間にも小箱をポケットにしまった金髪の主君は、そのまま流れるようにシノの左手を取った。しゅるり、黒い手袋を丁寧に取り去られ。
「ヒース?」
何をするのか、と問うよりも早く。
金属の冷たさが薬指の先に触れる。
するりと何の引っかかりもなく、リングは指を滑って根元で止まった。
白い宝石が収まった己の指を、シノは呆然と見つめる。
「シノが何を勘違いしたのか知らないけど」
ヒースクリフは困ったように小首を傾げた。
「この指輪は、シノへだよ」
「…………」
何を言われているのか、分からなかった。告げられた言葉を咀嚼して。己の指にぴったりな指輪を見つめて。
「あの、女の人は」
シノにできることは、微かに震える声でそう問うことだけだった。
「女の人?」
「お前が最近、お屋敷でよく会ってた」
「あぁ、あの人は宝石職人でね。その石の扱い方を教えてもらってたんだ」
迂闊だったな、とヒースクリフは眉尻を下げる。
「シノがヤキモチを焼いてくれるなんて、思いもしてなかったから」
「ヤキモチ……?」
ヤキモチなら知っている。ヒースクリフがシノを差し置いて他の人を褒める時、自分の方をもっと褒めてほしいと何度も思ったことがある。その気持ちがヤキモチだと。
けれど今のこのモヤモヤとした、ともすれば主君の望みが叶わないことを願ってしまうような黒い気持ちが。同じヤキモチだとは、シノには到底思えなかった。これはそんな可愛らしいものではない。もっと恐ろしい名前がつけられるべきだ。
「好きだよって俺、シノにずっと伝えてたけど」
ヒースクリフの声色には微かに責めるような色を帯びていた。
「シノが全然本気にしてくれないから、ちゃんと形にしようと思って」
そう言われても、シノには心当たりがなかった。好きと言われたことは何度もある。けれどそれは友愛だとばかり思っていた。指輪を贈ったりするような、そんな恋愛の感情だとは露ほども思わなかったのだ。
シノがヒースクリフを主君で友人だと思っているように。
ヒースクリフもまたシノを従者で友人であると思ってくれていると信じて疑っていなかった。
それは結局、違ったのだけれど。
――両方とも。
「本気だよ、俺は」
晴れた日に澄み渡る空のような色に見つめられ、シノは我知らずたじろぐ。
「……俺は」
俺は従者だ。
お前の友達だ。
恋人には相応しくない。
そうはっきりと、拒絶すべきだった。
「その指輪、貰ってくれる?」
ヒースクリフの問いかけにシノは言葉を詰まらせた。
貰えない。そう答えるべきなのに。
「それとも、要らない?」
寂しげな声と共に、ヒースクリフの手がシノへと伸ばされる。
「……ごめん、ヒース」
指輪を取り返そうとする手から流れるように。シノは右手で己の左手を掻き抱いた。小さな宝石には、決して触れないように。
「返したく、ないんだ」
この指輪がヒースクリフの愛情の証だと言うのなら。
他の誰の手にも渡って欲しくないと思う気持ちに、もう誤魔化しは効かなかった。
シノの言葉にヒースクリフは手を下ろした。
「どうして謝るの?」
「分かってるんだ。俺じゃ、お前の恋人には……」
「謝らないで」
再度伸ばされた手は今度こそシノに届き。ヒースクリフの両腕が身体に回った。
「嬉しいよ。シノがちゃんと考えてくれてて。だから、謝らないで」
「ヒース……」
おずおずと、シノもまたヒースクリフの背中に手を回す。嵌めた指輪が当たる感触は違和感しかなかった。大鎌を握るには正直邪魔でしかないだろう。それでも、不思議と嫌な気持ちではないのだけれど。
ヒースクリフとの抱擁などもう数えきれないほど経験しているはずなのに、身体が震えて仕方なかった。今この瞬間に恐ろしい間違いを犯している感覚が消えない。冬の凍てつく風に晒されるより痛みを感じるのは、やはり己にその資格がないということなのかもしれない。けれど腕の中の少年から距離を取るという選択肢もまた、選び取ることができなくて。
(これが、好き、という感情なのか)
こんなことなら一生知りたくなどなかった。そんな悔恨の念を覚えながら、シノはそっと左手を空にかざす。浮かび上がるような白い宝石だけは罪深い己を優しく見守ってくれているような気がして、シノは唇をきゅっと引き結んで目を閉じた。