前髪、切ったら?「前髪、切ったら?」
真後ろから聞こえてきた言葉に、パッと顔を上げた。身動ぎしたことで揺れるテーブルの上のティーカップを横目に後ろを振り返る。しかし後ろの席は空っぽで、何かを食べ散らかしたあとの皿だけがポツンと置かれていた。そんなに広くもない小さなカフェだ、今なら間に合うと、急いで視線を出入口の導線に向ける。女性ウケする小洒落た内装に一切興味を示さず、スマホに視線を落としたままテーブルの間を泳ぐように進む男の姿が見えた。彼は伝票をレジカウンターにヒラリと置いて、自身が視線を落としていたスマホを軽くかざすと、やはり一切のリアクションを取ることなく店を出ていく。声をかける暇もなかった。外へと吸い込まれるように消えていく背中をただ見送って、視線を正面に戻す。
飲みかけの紅茶はすっかり冷めてしまっている。食べかけのケーキは二つ。ひとつはショートケーキ、もうひとつはチョコレート。私はテーブルの端に投げ出していたフォークを掴んで、チョコレートの歪な断面に突き立てた。パキッ、と軽い音がしてコーティングが碎ける。乾いたスポンジとラズベリーソースを絡めて口の中に入れると、なんだか生きた心地がした。きっと、生クリームでは、こうはならない。パリパリのチョコレートと甘酸っぱいラズベリーだから、私は泣かずにいられるのだ。
ポケットから取り出したスマホを左手で弄りながら、唯一とも呼べる友人にメッセージを送る。行儀が悪かろうがどうだって良かった。『彼と別れた』と打ち込めば、即既読がつく。
『なんで?』
『地味だって』
『あー……。でも優しいところと控えめなところが好きって言われたんでしょ?』
『それとこれとは話が別らしい』
『えぇ……?』
『あと、前髪切ったらって言われた』
『それは言えてる。ほとんど目隠れてるじゃん。ってか、最後のセリフがそれ?』
『いや、言ったのは知らない人』
『は?』
ポチポチとやり取りをしていると、控えめな笑顔をうかべた店員が空いた皿と飲みかけの紅茶を下げてしまった。待って、と言おうとしたが中途半端に手を伸ばしたままで、結局は何も言えずに終わる。やっぱり私はなにも出来ない。グズでノロマで地味な女だ。上に向けていた目線をそろりとおろす。すると水色が気に入ってるからと着ていたセーターの袖口に無数の毛玉を見つけてしまい、さらに落ち込んだ。
鞄とコートを手に持ち、そそくさと席を立つ。お会計の段階になって、私をフッて出ていった男のケーキ代を貰っていないことに気がついた。
『最悪』
『かわいそう。見返してやろうよ』
『そんな気ないよ……』
『それじゃあ新しい恋でもしてみれば』
『初カレにフラれた直後に?』
『なにか目標があった方が人生楽しいよ。恋じゃなくても。たとえば、前髪切ったらさんに、切った前髪見せに行くとか』
なるほど、と思った。どこの誰かも分からない男に、切った前髪を見せに行く。馬鹿馬鹿しいけれど面白いかもしれない。その男もきっと、前髪を切った私を見たいかもしれないし。だって彼は様々な会話が飛び交う店内で私たちの別れ話に興味を示し、わざわざ私にアドバイスを残していったのだから。
私はカフェを出たその足で美容室に向かった。店に入るなり「いらっしゃいませぇ!」と甲高い声で叫ぶ店員に怖気づいたが、胸を張って案内された席に座る。それから、前髪を切ってください、と力強く伝えた。……つもりだったが、自分が思っていたよりもか細い声だった。
「後ろはどうします?」
「まえっ、前髪……だけで」
「分かりましたぁ。どんな感じですか?」
「どっ、え……あの、バッサリ、で……」
私の百倍は洒落た格好をした店員が、霧吹きでシュッと髪の毛に水をかけ、手に持っていたハサミをちょいちょいと動かした。バツ、と切られた髪の束がフローリングにボトリと落ちる。黒い塊が重力に逆らわずボトボトと落ちていく様子を見ていると、心がスッキリした。白っぽい色のフローリングが私の黒い髪に覆われていく。勝ち確定の陣取りゲームをしている気分だ。