好きって言って 空になったグラスを机に置き、座ってしまえばさほど目線の変わらぬ位置からモクマを見つめたチェズレイは、囁くように名を呼んだ。
「モクマさん」
手袋に包まれていない指が今しがた置かれたグラスを押して、机と摩擦する音が聞こえる。
グラスから離れた指がぴったりとチェズレイの膝に置かれ、ほんのりと朱の差した頬が柔和につり上がった。
細くなった瞼から零れる紫水晶の光に、モクマは思わず息を飲む。
「すき」
言ったそばからふふふと零した笑みは、まるでいたずら盛りの子供のようだ。
モクマはあまりに想定外な言葉に、持っていたグラスを落としそうになる。かしこまって名前を呼ばれ、何事かとこちらもかしこまり。きらきらとした紫の瞬きは気品に溢れ、天然石の気高さがあるのに、続いた言葉はとたんにそれをアクリルでできたおもちゃみたいなあどけなさにすり替える。
ぽかん、として一拍。何度か言葉を反芻して、徐々に隠しようもないほど口元がむずむずとにやけていく。
意味などないと分かりつつも、空いている手で口元をさすりながら冷静を装った。
「な、なになに、どうしたの」
「思ったことを、いったまでです」
すとん、と視線を落としたチェズレイは、再びふふふと笑みを零す。
下を向いた横顔からひと房、プラチナの髪が落ちて見えた赤く染まった耳と首筋に、こりゃあ相当酔っているな、とモクマは思った。
机に置かれたグラスは、細い作りだが高さがある。カクテル自体はチェズレイが作った(器用なものだ)ので、自身の許容量のアルコールに留めているとは思うが、それを飲み干してしまったのだ。
久方ぶりの晩酌に、乗り気な相棒。自分もついつい杯が進んで、気を配るのがおろそかになっていた。
「ふふふ、モクマさん、すきですよ」
「それは嬉しいけども、ちと飲みすぎじゃない?」
「そんなことはないですよ。
それとも、子供染みた言葉では足りない?
ふふ、ティアモ、ジュテーム、
ウォーアイニー……」
いたずらに笑いながら、内側から滲むような血色の顔がモクマに向く。
いつもは端正につり上がった目尻と柳眉が、とろけるように下がっていて、存外大きく開く口は、次々と愛の言葉を紡いでいく。
仮面の詐欺師、とは言われるけども、決して感情を無意味にひた隠す質ではない。モクマはその激情を何度も目にし、己の身に知らされた。だから、モクマにとっては、むしろチェズレイは感情豊かで、その情緒を曝け出してきた方が多いのではないかと思う。
ただ、かといって、こうも無防備になるのは稀だ。酔った勢い、というものだろうか。
まだ少し中身の残るグラスを机に置いたモクマは、チェズレイの素肌の指を取り、自身の手のひらに合わせてぎゅっと握った。
紅潮した顔とは裏腹に、重ねた手はしっとりと冷たい。
「アイラブユー、サランヘヨ……。
モクマさん、すき、だいすき」
「酔ってんねえ」
「モクマさんも、好きって言って」
握り合った手を支点に、チェズレイがモクマに身を預ける。
胸元から紡がれる言葉に乗った香りが、その幼げな言動をより際立たせていた。
愛用の香水とも、つややかな髪からとも違う。先ほどまで飲んでいたカクテル。割材に使用したパイナップルの匂いだ。
パイナップルジュース。どこにでもある市販品だ。程よくアルコールの風味を隠し、甘みと酸味、ほのかな苦みで飲みやすいと言っていた。
そうか、それもあって一杯飲めてしまったのかと、自分の胸元に埋まってもなお、ふくふくと笑うチェズレイの頭頂部を見つめる。
「酔ってない時に言うよ」
「私がこれほど愛を紡いでいるというのに……。
ひどい方だァ……」
「だって酔って覚えてないって言われたくないし」
「あなたと違って下衆ではないので、
言いませんよ」
絡めた指の先、きれいに整えられた爪がモクマの甲を引っ掻く。とはいえ、立てる程長さの無い爪は、指の腹で甲を撫でているようなもので。いちど、にど、さんど。抗議というより手すさびのようなそれは、かさついた甲の皮膚を波打たせ、指先からじんわりと汗を滲ませる。
「チェズレイ、キスしてい?」
「ふふ、好きって言わないからダメです」
「ええ~……。
言葉じゃなくて、態度で示すんだよ。里の男は」
パイナップルの匂いと一緒に、チェズレイが笑う。
まさか断られると思わなかったモクマは狼狽え、それをからかうようにチェズレイは自ら頭をモクマの胸に擦りつけた。
さわさわとくすぐったいようなむず痒い刺激に、モクマも笑いが漏れ、諫めるように目の前の頭頂部へキスをする。
「あ、ダメだと言いましたよ」
「いじわる」
モクマがキスを落とせば、チェズレイが頭を振り、そうすれば前より多くのキスが降る。
両手を重ねあったまま、頭二個分だけの攻防は、まるで幼児のじゃれ合いだ。
「っはは、捕まえた」
「あ、こら、ダメと――」
身を捩ってモクマの唇から逃れた先で、赤く染まった耳の先端にふっと息をかけられる。
思わず身を震わせて顔を上げたチェズレイに、繋いだ両手に力を込めて、逃さまいとモクマの影が覆いかぶさった。
きゅう、と結んだ唇が震えている。糖分が残ったそこは、触れた先から溶け合うように甘ったるい。
「――っ、は、ダメ、だと言ったでしょう」
「……嘘つき」
可愛らしい音を立てて唇が離れる。
モクマの不満げな、それでいて全てを暴いたという愉悦を帯びたような声に、チェズレイはふいと顔を背けた。
頬に灯った赤みはみるみるうちにその濃度を上げて、目元の紫が毒を帯びたように色濃くなる。
「あれ、お酒入れてないでしょ。
匂いも味も、全然しない」
唇を捕まえた瞬間、その甘さに瞠目した。そして僅かながらの違和感に気付く。二度三度と角度を変えて唇を食んで、隙間から漏れた呼気で確信した。
いくら甘くとも、量が少なかろうとも、耐性のない人間からアルコール臭がしないのはあり得ない。あるのはむせ返るようなパイナップルの味だけだ。
誘ったのは自分だからと、わざわざキッチンから追い出して、それらしく氷をマドラーでかき混ぜていたくせに。
騙された。そうだ、こいつは詐欺師だった。
逃げたチェズレイを追いかけるように、モクマは背けられた顔を覗き込む。
それも無理やりに避けたチェズレイにため息をついたモクマは、伏せたことで露わになった首筋にすり寄って、耳に首にと再びキスを降らせてやった。
「嘘はついていません。
最初からカクテルだなんて
言っていないでしょう」
「それはそうだけど……」
腑に落ちないといったようにモクマは頬を膨らませた。だがまあ、可愛くいじらしいことを言ってくれると、悪い気はしない。何故にそんなことをいきなり、どんな意図があるんだと面食らう気持ちはあれど、こいつのやること成すことはいつも突拍子もない。そこが面白くて、楽しくて、飽きなくて。どうしようもなく、愛おしい。
敵わないと、己の情けなさに顔を隠したくなるが、自分から繋いだ手は、どうも離してくれないようだ。
「モクマさん」
ざらりと胸に柔らかい髪が流れる。チェズレイは顔を上げてモクマと視線を結び、形のいいくちびるが、とがって、ひらいて、結ばれる。
「酔った勢いでの睦言ではありませんよ」
アクリルが天然石に戻る。気品と気高さは一筋のレーザービームのように角膜から瞳孔を貫いて、モクマの眼球を串刺しにする。
「好きだよ。
チェズレイがいっとう、好きだ」
どちらともなく顔を寄せる。手は繋いだまま。瞳は閉じられ、温度の上がった息がかかる。
くちびるの前、5cm。
「キス、してい?」
「この期に及んで……本当に下衆ですねェ」
「ご存じの通りでしょ」
とがった唇に乗った僅かな不満と羞恥を、皮肉と揶揄を乗せた舌で割り開く。
触れた先から溶けて混ざってしまいそうな熱が、鼻に抜けるパイナップルの香りをより熟れさせた。