悪人 足音、怒号、打撃音。下品な金の柱に、趣味の悪い赤い絨毯が鈍く反射している。そういえば、俺の元居た組織のアジトもこんなだったと、彼方にあった記憶がふっと蘇った。思い出して楽しい記憶ではない。乾いた銃声と共に意識は現実に戻って、リロードの隙に横っ面を殴り飛ばした。あ、デジャヴだ。と、またしても楽しくない記憶が蘇った。あの時の俺も、こうやって今の上司に殴られ、気絶したのだった。
半年ほど前だろうか。いやもっと前かも知れない。時間の感覚が分からない程、自分を取り巻く環境が変わったのはこの1年の間だ。
酒癖も金遣いも荒い男の元に生まれ、母親は立ちんぼ。立派に半端なならず者に育った俺は、殺された父親の代わりに地元の一番でかいマフィアの鉄砲玉になった。死んだ親父はどうだってよかったが、断れば母親と弟妹がどうなるかなんて分かり切っていて、俺に選択肢や拒否権なんてなかった。
無駄に頑丈な身体を持ったおかげで死ぬことはなかったし、色々と無茶もしたが、組織やボスに忠誠心などあるはずもなく。ただただ自分が生き、家族を守るためだけに何だってやった。人を殺すことに、抵抗はなかった。
状況が一変したのは突然だった。組織の下っ端も下っ端、チンピラ上がりの俺には噂でしか聞いたことがなかったし、所属組織が狙われているなんて考えもしなかった。ただボスから指示されたことだけをこなす毎日では、他人事だった。仮面の詐欺師が、この組織の壊滅に動いていることなんて。
アジトに響く緊急サイレン。俺と同じ鉄砲玉たちが、殺せと怒号を上げてアジト内の侵入者を追跡する。
トップグレードのセキュリティをものともせず、内部構造を知り切った俺たちさえも追いきれぬ前に、侵入者はあっという間にボスの執務室前にたどり着き、悠然と歩を進めていた。
ようやく追いついた俺たちを一瞥することもなく、スマートにドアをノックする。金と権力を誇示するかのように施された金装飾は、何度見ても辟易するほど下品だったのに、ドアの前にその男が立っているだけで、美術品かのように錯覚した。
その男が仮面の詐欺師本人だと、その時の俺は知る由も無く。誰かの放った銃撃に、慌てて自分も銃を構えて、そのどの金装飾よりも美しい金の髪に狙いを定めてトリガーを引いた。
が、それはいきなり現れた黒服のナイフによって軌道を逸らされ、影も形も音もなく現れた敵襲に瞠目している間に、俺はあっけなく鳩尾を殴られ、腕を捻りあげられ、横っ面を張り倒されて気絶していた。
目を覚ました時にはもう、組織は壊滅状態だった。ボスや上層部の行方は知れず、俺同様仕方なく従事していた下っ端たちは、警察に拘束されるわけでも、詐欺師の組織に捕縛されるでもなく、捨て置かれていた。しかしそれは、俺たちにとってみれば組織から解放されたのと同義で、でも、代わりに後ろ盾も仕事もなくし、途方に暮れたのも事実だった。
自由が手に入った代わりに、これからどう家族を養えばいいのか。金がなければ、母がまた立ちんぼをするか、親父みたいな男に無心をするか。妹は働いてはいるが稼げる額なんざ知れている。弟は本来ならまだ学校に行く年齢だ。このままでは弟は俺と同じ道、妹は――と、嫌な思考を振り切る。
しかし、今更真っ当な仕事なんてできやしないし、伝手もない。窃盗や詐欺で小金を稼ぐチンピラにまた戻るか。それともいっそ似たような境遇の奴らで徒党を組むか。
考えあぐねる中、思い返すのはあの日に見た後ろ姿だった。
「――そして我々の動向を掴んだ、と。
いくら休暇中とはいえ、潰した組織の構成員に足取りを追われた挙句、こうも簡単に捕まってしまうとは……。
少し部下の教育が行き届いていないのでは?」
「いや、お前さんが休暇中は貼り付くなってあいつらに言ったんだろう。
それに休暇だからって無防備に出歩いてちゃ、そりゃ簡単に見つかるよ」
「フフフ、私には優秀なニンジャさんが付いておりますしねェ。
休暇中ぐらい、羽を伸ばしたいのですよ」
組織が壊滅してから1か月。ようやく掴んだ詐欺師の組織の行方だというのに、目の前のやり取りは実に呑気なものだった。敵意がないことを伝え、組織に入れて欲しいと願い出たのはこちらだというのに、俺を無視するかのように繰り広げられる会話。
片方は詐欺師本人だが、もう片方は分からなかった。隙だらけの風貌で、東洋系の顔つきをしている。俺の周りにいた連中よりもずっと小柄で、こと噂通りの詐欺師の横にはとても似つかわしくない人物だった。
「で、我々の組織に入りたいと?
まァ、ここまでの情報収集能力、そして臆せず接触してきたことは褒めましょう。
あのような下衆の組織内で死せず前線部隊として働いた丈夫さから鑑みても、なかなか優秀な人材でしょうねェ」
だったら、と俺は前のめりになる。しかし詐欺師はくるりと踵を返した。
アジトで見た、あの後ろ姿だ。豪奢で下品なドアを美術品にしてしまった美しさは、今この何の変哲もない夜の街中でさえ健在で、思わず息を飲んだ。
「しかし、潰した組織の下部メンバーであることに変わりはない。
捨て猫を拾う趣味もなければ、慈善活動も行っておりませんので」
ぐ、と唇を噛んだ。冷酷さを滲ませた声に、背筋が震える。それでも諦めきれなかった。
俺は地べたに膝をつき、頭を下げた。マフィア入りを懇願するなんて馬鹿げているが、俺にはそれしか分からない。母親と弟妹を人質に取られ、俺の命なんてなんとも思ってねえ奴らを守るために死線をくぐる。そういう生活をずっと続けるのだと思っていた。
そこに差した光といっても大げさじゃない。たとえそれが同業だったとしても、たとえまた駒と使われようとも、恩を感じていたのは確かだ。そして、家族がどうとか、恩がどうとか、ごちゃごちゃ御託を並べたが、結局のところ忘れられないのだ。この美しき詐欺師のことを。
それでも、詐欺師は何も言わず、靴音は遠ざかっていく。俺は項垂れ、深く息をついた。
「頭、上げな。
あいつはああ言ってるけど、結構お前さんのこと買ってると思うよ」
降りかかってきたのは、小柄な男の声だった。顔を上げた俺に手を差し伸べ、引っ張り上げる。
状況が飲み込めず気後れする俺に、明日朝にここへ行けと紙片を渡した。
「ニンジャさんの紹介ですって言えば通じる。
ウードってヤツだ。面倒見がいいから、頼ってやってくれ」
紙片にはこの辺りからやや離れた位置にあるコンドミニアムの住所が記載されていた。
あっけに取られているうちに、そのニンジャとやら男は詐欺師の後を追いかけて行った。
それからその住所が詐欺師の組織の暫定アジトであり、俺は加入を認められたのだと理解するのは、二人の姿が闇に紛れて視認できなくなってからだった。
***
「あなた方のお陰で今回も邪魔立てされることなく、言質を取ることが出来ました」
話は冒頭に戻る。昏睡させた相手組織の連中をふん縛っていると、相手ボスの部屋からチェズレイ様とモクマさんが出てきた。
今の俺の上司、ウードさんが頭を下げるのに合わせて、俺も頭を下げる。チェズレイ様は額から垂れたひと房の髪を指先で弄びながら満足げに微笑んで、コツ、と杖先を赤い絨毯に当てた。
「あとはお任せを。先にお戻りください」
「お言葉に甘えて」
ウードさんがチェズレイ様に再び頭を下げて、そのまま俺たちに目配せする。手筈通りなら、しばらくの後警察がここへ立ち入るはずだ。
軽い足取りで横を過ぎ去るチェズレイ様の、あの時美術品のようだと思った姿が、今は触れられそうな距離で、鮮明に動いている。どんな豪華な金装飾よりも美しかった、かつて狙ったあの金の頭部。それが振り返った時の表情は、もう知っている。何度もそれを横目で見てきた。あの時も、振り返ればこんな表情をしていたのだろうか。
俺はその秀麗な見目とは裏腹に、存外男らしく大股で歩いていくチェズレイ様を今日も横目で見やる。黄金比の横顔、なめらかな鼻筋に柱の金がわずかばかりに反射して、すうっと一筋の光が走る。その光が零れて軌跡を描くかのように、高い位置で結われた金の髪の毛先が揺れた。薄暗がりの中、それだけが光源のように見えて――、俺は慌てて止まっていた手を動かした。
チェズレイ様は振り返らない。革靴と杖が、絨毯を叩く少しだけ高い音が遠ざかる。その後ろには、背景に溶け込むような真っ黒の装束を着たモクマさんが、音もなくぴたりと追従していた。
***
この組織は、特定の拠点、アジトを構えなかった。各所にセーフハウスなるものはあったようだが、一所に留まることは少なく、作戦の為に現地へ乗り込み、作戦を終えればその場を離れた。多少は現地に留まり動向を窺う役割を担った構成員もいたが、何故か俺は常に帯同することをウードさんから指示されていた。拒否する理由もなければ、家族を救ってくれたチェズレイ様に付き従えるならば、むしろありがたいことだったが。
次に降り立ったのは、故郷よりも少し肌寒い国だった。
チェズレイ様はモクマさんと一緒に先に入国したらしく、俺たちは二人と顔を合わせないまま、やや郊外にあるホテルへ向かわされた。
ホテルは会員制のもので、想像よりも小規模であった。ウードさんによると、ホテルごと借り上げているそうだ。小規模とは言え、個室にしては大きすぎる部屋を与えられ、基本的にホテリエは立ち入らないらしい。呼べばすぐ来るそうだが、仕事柄いない方が都合は良い。恐らくそういったことも織り込み済みなのだろう。
個人に割り振られた部屋に入り、身支度と荷物の整理をする。とはいえ、その国々で身分の設定は変わるのだから、そう大した荷物はなかった。いつも持っているのは、家族の写真。汎用性のある普段着。潜入時の機動性に長けた服。そのぐらいだ。
「この後は」
「特にチェズレイ様から指示はない。恐らく、こんなに仰々しいホテルを用意したのも、休暇を兼ねているんだろう。
まったく何もないということはないだろうが、まぁ今は羽を伸ばしてもいいのだろうな」
ウードさんが困惑気味な顔をしてため息を吐く。この表情も見慣れたものだ。チェズレイ様はこうやって詳細を伝えずに休暇期間を設けることがよくあった。多少は予想していたことだ。前回の作戦はそこそこ大がかりなもので、おそらくその慰労も込めてだろう。
何かあれば連絡するとウードさんから言われ、俺たちはしばしの休暇を過ごすことになった。
***
結局半月ほどは何を指示されることなく、悠々自適な日々を過ごした。単純に部屋で休息したり、中心地に繰り出してみたり。
たまにモクマさんと顔を合わせることもあった。ウードさんと何か話し込んでいたり、古参の連中と稽古していたり。俺はまだまだその域には達していない。モクマさんとの手合わせは、まずウードさんと互角に渡り合えないとその資格はないのだ。
「この国は曇りが多くてどんよりしちゃうねえ」
「そうっすね。でも涼しくて今の時期には丁度いいです。故郷は暑いんで」
俺達下っ端構成員が過ごすフロアにふらっと現れたモクマさんは、たまたま廊下に出ていた俺を見つけて気さくに話しかけてきた。ウードさんに用があったと言う。そしてそろそろ、この国での仕事が始まると。マフィアの仕事、と言えば血生臭いことだが、モクマさんの口ぶりは言っちゃなんだが呑気で、何というか、緊張感や真剣みをあまり感じない。ふざけているわけではないだろうが、本当にマフィアに属する人なのかと思ってしまう。
ただ別に、それを嫌悪しているわけでもない。仕事についてはチェズレイ様やウードさんが指揮を執っているわけだし、モクマさんのそういった親しみやすさや人懐っこさに、救われている部分もある。以前の組織ではyesしか言えない奴隷だったのだから。
「そっか。たしか赤道に近かったね、あの国は。
ご家族は元気にしてる? 仕送り足りないなら、俺からチェズレイに言おっか?」
「あっ、いえ、充分っす。借金も減ってるし、弟も学校に通えてるみたいですし」
「そりゃあ良かった。
……お前さんは、家族の元へ帰りたいと思わないのかい?」
「いえ……、家族が生活していくのにはまだ金がかかるし、向こうに仕事の当てはないし……。
あと、まだチェズレイ様やモクマさんに恩を返せてないので」
――それに、とついて出そうになった言葉を飲み込んで、口を噤む。目を細めて問うモクマさんから視線を外した。
この人は時折こういった表情をする。何かを見定めているような、何かを見透かしているような。さっきは緊張感や真剣みがないなんて言ったが、この鋭さには居心地の悪さを感じる。
「マフィアに恩義を感じる奴がいるかい。悪事に手を染めさせてさ、真っ当な道も用意してやれない。
お前さんの優秀さにかこつけて利用しているだけだ、って言ったらどうするのさ」
へらっと笑った顔は、それが冗談だと物語っていた。居心地の悪さはまだどことなくひっかかってはいるが、単純に俺の心配をしてくれただけだろうか。冗談めいた言葉で、そんな大層な組織じゃないと、俺を気遣っているのだろうか。
なんにせよ、今の俺にこの組織を抜ける選択肢はなかった。
「元々真っ当な生まれじゃないんで。
今はここから抜けるってのは考えられないっすね」
「そうか。じゃ、今後も期待してるよ」
いつも通りの人好きする笑顔で手を振ったモクマさんは、俺に背を向けてフロアを後にした。
その背を見送りながら、飲み込んだ言葉を反芻する。
――それに、離れがたい。モクマさんとも、ウードさんとも、チェズレイ様とも。
いや、分かってる。ウードさんはともかく、下っ端の俺がモクマさんや、ましてやチェズレイ様にとっては取るに足らない存在だというのは。こうやってモクマさんはフランクに接してくれるが、その対象は俺でなくてもいいだろう。別の奴がいれば、そいつにそう接するだけだ。チェズレイ様は、言わずもがな。言葉を交わしたのだって、組織に入れて欲しいと懇願した以来、何度あっただろうか。
それでも、離れがたい。死線を抜けて、敵地に悠然と立つ金装飾の如き姿。それをいつまでも、見ていたい。いつかはその横で。いつかは、その前で。下っ端の構成員ではなく、名前を呼ばれ、その足元にレッドカーペットを敷くが如く、貴方の道を拓きたい。
「ボーっと突っ立って、どうした」
「あ……ウードさん。いや、モクマさんと少し話を……」
モクマさんはとっくにいないのに、なぜだか呆然と廊下に突っ立ったままだった俺に、ウードさんが声をかけた。
ウードさんは10分後にミーティングルームへ来るよう、他の構成員を招集しろと指示を出した後、ため息のような息を漏らした。
「あまり呆けるな。俺たちはマフィアだ。
チェズレイ様も、モクマさんもな」
「え……ああ、はい」
俺を一瞥して部屋へ戻るウードさんに、深く考えず返事をした。
その時はまだ、ウードさんの言葉の真意は分からなかった。
***
この国での仕事は、恙無く進んでいた。
俺がしたことは根回しの為の潜入と情報の精査。それから敵の本拠地潰しの際の戦闘員。戦闘員としての役割は、まだもう少し先そうだった。
今は次回潜入先の下調べと、諸々の買い出し。半分ほどは休暇の続きのような空気だった。
「あ、これ……」
買い出しに出た先で、ふとジャケットの内側に違和感があった。取り出してみれば、小型の端末。
前回の潜入時、チェズレイ様とモクマさんがVIPルームへ向かう際、モクマさんからセキュリティに引っ掛からないようにと預けられたものだ。
たまたま一番近くにいただけだろうが、なんとなく認められた気がして嬉しいというか、誇らしいというか。浮ついた気持ちと共に思い出す。
戻ったら返しに行こうと、再び内ポケットに端末を仕舞おうとしてふと思う。
――そういえば、チェズレイ様とモクマさんはどこにいるのだろうか。
借り上げホテル内でチェズレイ様の姿を見たことはない。ミーティングルームにすら顔を出したこともなかったな、と思い出す。俺達構成員の作戦や指示は、全てウードさんが指揮していたから、たぶんチェズレイ様はウードさんに指示を出していたのだろう。
モクマさんはちょこちょこ顔を出してはいたが、かといって同じフロアにいるふうでもなかった。ウードさんなら知っているだろうか。
思い返してみれば今までも様々な国を転々としたが、チェズレイ様とモクマさんと同じ住居域にいたことはあっただろうか。もちろん、マフィアのボスとその側近、構成員とじゃ立場が違うから、生活区域が違うのは当たり前だろう。ただ、執務室みたいなものもなかったような気がする。今回のようにホテルの場合は同一フロアにはいなかったし、セーフハウスであれば、構成員のみが使用するコンドミニアムがほとんどだった。
チェズレイ様はともかく、モクマさんは一体――。
そもそも、モクマさんのこの組織における役割は何なのだろうか。チェズレイ様の護衛、側近。ナンバー2。どの肩書も、そう言われれば納得するが、何となく腑に落ちない感じもする。
確か東洋のシノビだったとは聞いているが、詳しい出自は知らない。シノビだというのだから、チェズレイ様の護衛として雇われているのかも知れないが、彼らの距離感はマフィアのボスと側近のそれではないように思う。雇用主とその護衛であれば、あんな風に対等な話し方はしないだろう。
この組織の起こりがチェズレイ様とモクマさんの二人からであるのは聞いているが、その関係だろうか。しかし、そもそもかの仮面の詐欺師が、何がどうあって元シノビとマフィアを興したのか――。
端末を持ったまましばし思案して、これを返すついでにでもモクマさんに聞いてみようと再び内ポケットに仕舞った。きっとモクマさんなら、仕事がまだ序盤の今、思い出話として話してくれるだろう。ついでにウードさんや他の奴らも知らないような話をしてくれるかもしれない。
目的の店は目視できる距離まで来ていた。さっさと用を済ませホテルへ戻ろう。そう歩を進めた時、通りの向こうに見覚えのある影を見つけた。
「モクマさん、か?」
後ろ姿だったが、背丈や衣服、あの髪色。どれもがモクマさんと一致する。それに、この国で東洋系の人物などそうそういない。
街中で何を、と一瞬思ったが、モクマさんであればその辺りをぶらぶらしていてもおかしくはない。丁度良かった、端末を返そう。ただ名前を呼ぶのは憚られる。俺は静かにモクマさんの後を追った。
***
モクマさんはそのあとすぐ道を曲がり、ずんずんと小道を進んでいった。さして歩幅が大きいわけでも、速度が早いわけでもないのに、追い付けない。
何度か名を呼ぼうかと思ったが、人目がある以上やはり憚られた。端末で連絡を取ろうともしたが、そんなことをしているうちに見失ってしまうだろう。見失ったって連絡が取れればいいのに、その時の俺は何故かついて行かねばならないと、視野狭窄に陥っていた。
黄色い羽織は目立つはずなのに、追えば追うほど見失いそうになる。
俺は一心不乱にモクマさんを追って、自分がどこにいるのか、どこに向かわされているのかも分からなかった。
ようやくモクマさんの脚が止まった時、正に“隠れ家”というに相応しい佇まいの小さな家が、目の前にあった。
「見失わずによく追ってこれたね。やっぱりお前さんは優秀だ」
翻ったモクマさんが、いつもの人好きする笑顔で言う。
「な……んすか、これ」
「最初は単純に追われてると思ったんだけど、途中でお前さんだと気が付いてね。
でも東洋系の怪しげなおじさんと、若い黒服が仲良くおじゃべりってわけにもいかないだろう。
ここなら、静かに話ができる」
で、何か用かい? とモクマさんは目を細めて問うた。いつか感じた居心地の悪さに、何故だか緊張する。
「あ、いや……預かってた端末を、返そう……と」
「あ! あれね、あれ。預けっぱなしだったか。そりゃすまんすまん。
どこにやったって、チェズレイに怒られたんだよねえ」
「部下に預けたままとは……。
彼が我々を裏切って情報を抜く可能性は考えないのですか?」
玄関が開く。ため息交じりなのに、クリスマスベルを鳴らしたかのような声の響き。
首元にかかった髪を気だるげに払ったチェズレイ様は、モクマさんに視線を降ろした後、俺を見た。
悪いことなど何一つしていないというのに、その視線に心臓が早鐘を打ちそうだ。
「それは私が預かりましょう」
チェズレイ様が近づく。手袋の均整なステッチが分かるほど近づいて、襟を掴み、強引に内ポケットから端末を引き摺り出した。
私はされるがまま何も言えず、裾を払うように手が離れてから、ようやく自意識が戻ってきた気がする。
「ああ、それと。
貴方には明日、ここを発ってもらいます」
「は……」
「妹君がご結婚されるそうですね」
置いてきぼりのまま話が進み、何がなんだかさっぱり分からない。
妹が結婚するなんてのも初耳だ。俺は目を白黒させて、チェズレイ様を見る。チェズレイ様は懐から紙片を取り出し、俺の目の前に差し出した。
どくどくと心臓が鳴る。いつの間にか口で呼吸をしていて、喉が渇いた。
風に揺られる薄い紙を受け取って、走り書きのインクを見る。会社名と名前。住所。書かれていたのは、俺の故郷だった。
「十分資金は得られたでしょう。
これが貴方の新しい名前と住所、勤務先です。もちろん、後ろ暗いものではありません」
チェズレイ様は役目は終えたとばかりに、家へ戻っていった。
処理が追い付かないままでいる俺に、モクマさんが肩を叩く。
「お前はまだ若い。あの時は自棄を起こされるよりはと拾ったが、もうその必要はないね?
お前さんは本当に優秀だから、その力を家族に使ってほしい」
ウードにも伝えてある。そうモクマさんは言って、チェズレイ様と同じく家へ入った。
一人残された俺は、どうにもできず、しばらくその場から動けなかった。
***
あの隠れ家からホテルへ戻れば、俺の帰国準備は何もかも終わっていた。
あとは荷物をまとめろと、航空チケットをウードさんから渡されたが、到底納得できなかった。
何故、どうしていきなり。何かやらかしたつもりもなかった。優秀だと自負つもりはなかったが、それなりに上手いことやっていたはずだった。
また恩を返せていない。モクマさんと手合わせだってしていない。チェズレイ様を、チェズレイ様の横に立って、モクマさんみたく、あの人の隣に――。
「もう、終いだ」
理由を言うでもなく、諦めろと一蹴するウードさんに、俺は噛みついた。今思えば、相当な馬鹿だ。
胸倉を掴もうとした腕は払い落され、組み伏せられた。この長すぎる休暇に気が緩んでいたのかもしれない。いや、俺を救い、守り、居場所を作ったこの組織が、マフィアであることを俺は、忘れていたのかもしれない。
ウードさんは懐に手を差し込んだ。ガチャ、と重たい金属音がして、そういえばここでは終ぞ人を殺さなかったなと、俺はウードさんに謝罪した。
そうして荷物をまとめて、組織を抜けることを承諾したのだった。
***
「忘れ物はないか」
「ねぇっすよ、そんなもん。
そもそも何もかも、もう向こうに揃ってんでしょう」
「まぁ、そうだな」
空港で、入国した際よりも多い荷物を持って出国手続きに向かう。
見送りに来たのはウードさんだけで、組織を抜けるのはこんなにもあっけないものかと思った。
「お前は優秀だ。こんな世界じゃなくたって生きていける」
「どうだか。薄汚ぇ世界に生まれて育ったんすよ、俺」
モクマさんもウードさんも、俺を買いかぶり過ぎだ。ろくでもない男と商売女の間の子。生まれてこの方、薄汚ぇ生活と仕事しかしてねぇって言うのに。
「世話になりました」
「殊勝なこと言うじゃねえか」
ふっと笑ったウードさんは、時間だと俺を促した。
元気でやれよ、と声がかかり、俺は少しだけ頭を下げて搭乗ゲートに向かった。その後、ウードさんが何か言った気もするが、アナウンスと雑踏で、それは聞き取れなかった。
「汚ねぇ世界に生まれ落ちたのと、わざわざ汚ねぇ世界を選択したのじゃ、
どっちがより悪辣なんだろうな」
***
飛び立っていく飛行機を、ウードとモクマがガラス越しに追っている。
空港内は絶え間なく喧騒が響き、二人の会話を気に留める者は誰もいない。
「お前にはいつも辛い役目をさせちまってるねえ、ウード」
「……いえ、これも務めですから」
「何か言いたげだね」
「あいつを優秀だと買っていたようですので」
モクマにとって、ウードがこう言葉を返してくるのは些か驚きだった。
口応え、と言うには可愛らしいが、何か思うことがあったのだろう。言外に含んだ棘がモクマに刺さる。
しかしモクマにとってその棘は、あまりに軽くて弱い。
「惜しい気持ちもちょっとだけあるけどね。
でも……ウード、お前さんには分かるだろう」
言外に含ませたはずの棘は、ナイフとなって言葉と共に返ってきた。いや、シノビなのだから、手裏剣あるいは苦無といったところか。
人心掌握はボスの代名詞といったものだが、なかなかどうして、この人も食えない狸だと、ウードは内心毒づく。
二人の視線は徐々に小さくなる機体を追うのみで、交わることなく前を見据えていた。
お互い表情は見えないが、ウードはモクマの表情が、手に取る様に分かるようだった。
「……私は、チェズレイ様を敬愛するのと同様に、モクマさんのことを敬愛していますよ」
「その言葉は、感謝だけに留めようか。それとも掘り下げた方がいいかい?」
「お好きに」
「……お前さんは本当に優秀だ。これからもよろしく頼むよ」
負け惜しみの言葉は、どんでん返しをしたようにひらりくるりと躱される。
ウードの想像した通りの表情で、モクマはウードを見ないまま歩き出し、言葉なく頭を下げたウードが、その後ろを静かについてゆく。
絶え間ない喧騒、人種のるつぼ。小柄な東洋の中年と、精悍な黒服の青年。誰にも気に留められないまま、二人は空港を後にした。
***
しばらくの後、組織は再び拠点を別国に移すこととなった。
構成員たちの指揮はウードに任せ、モクマとチェズレイは二人だけのセーフハウスで準備を進める。
荷物はさほど多くない。この国で駐在を任せる構成員への餞別だけをすぐ出せる位置に置いて、タブレットから視線を外さないチェズレイの隣へ、モクマはどっかりと座る。
「なーに見てんの」
「世界情勢を。まぁ、なんとかなっているようですね」
言葉と共に画面を消したチェズレイは、まるで隠すように画面を伏せる。面白くない気持ちもするが、一瞬だけ見えた画面をモクマは脳内で展開した。ひと月ほど前、空港で送り出した彼の故郷。1年ほど前から俺たちの縄張りになっているが、近辺の配下組織は上手く治めているいるようだ。彼の妹は、幸せな結婚生活を送っているだろうか。
「あいつは元気かねえ」
「おや、あなたが追い出したくせにそんな慮りを?」
「人聞きが悪いねえ。お前さんだって賛成したろ」
「私はそもそも拾う気はなかったと申し上げました。あなたにも、彼にもね」
「でも、困ってることも事実だった」
「飼いきれないことが分かっているのに拾う方が、悪辣だと思いますが」
「あいつは捨て猫じゃない。優秀な人間だよ」
言葉のラリーには、息つく間もない。それはお互いに、相手の言い分を拒んでいるからだが、今回の件は自分の分が悪いとモクマは自覚していた。
「あの青年が私に対して劣情を宿していたことなど、最初から分かっていたでしょうに。
わざわざ帯同させ、その炎を大きくする真似まで。そしてそれを見過ごした挙句、出戻りさせる役目は部下に押し付ける。
下衆もここに極まれり、ですねェ」
「それはちょっと俺を買いかぶり過ぎだ。
帯同させたのは本当に彼が優秀だったから。それはお前も認めるだろう」
「ほう……つまり、私への思慕を手綱に、その優秀さを利用したと?」
「助かった部分は多い。俺もあいつに言ったさ。『利用してるだけだ、って言ったらどうする?』ってね」
「ハッ、白々しい。あなた、随分と悪党面になりましたねェ」
チェズレイがモクマの輪郭を撫でる。モクマは好きにさせたまま、くつくつと笑った。
「優秀、優秀といいますが、我々の関係に気がつくまでの聡さはなかったようですがね」
指に顎先を引っ掛けてこちらを向かせたチェズレイは、ついばむ様なバードキスをひとつ落とす。
モクマが目を瞑り、抵抗なくそれを受け入れれば、チェズレイは満足げな笑みを漏らして、しかしまた憐憫の表情を浮かべながら「それにしても」と言葉を続けた。
「つくづくウードが可哀そうだ。あなたの嫉妬の尻拭いをさせられるなんて」
「それにはぐうの音も出ないな。空港でも釘刺されちったよ」
「おやおや、お可哀そうに」
「でもねえ……」
嫌われたくないじゃない。と、モクマはあっけらかんと答える。
チェズレイはますますウードに同情し、それでいて隠し立てすることないモクマの奸悪さに、思わず唇をなめずった。
「俺が約束をしたのはチェズレイとだけだからね~。
俺が逃げないのは、お前さんのことだけ。ねっ」
「こんなものに忠義を持ってしまったが最期。……まァ自業自得か」
得意の乙女顔で己の所業を誤魔化すモクマに、チェズレイは眉を顰める。頭を抱えながら独り言ちた後、口の中で笑いを噛んだ。
「まァ、抜けた人員は次国で補填しましょう」
「次? もういいじゃない。うちには優秀な構成員くんがたくさんいるよ」
「次はウードの手を煩わせない人がいいですねェ」
皮肉に笑ったチェズレイが、伏せたタブレットを拾い上げる。奇しくも丁度、ウードから車を回したとの連絡が入ったところだった。
「優秀な構成員がお待ちですよ、モクマさん」
「ほんと、困るぐらい優秀だねえ」
そのまま席を立ったチェズレイは、縋るモクマの手を払いのけ、流れる様にジャケットを羽織る。
コンパクトに整った荷物を抱え、颯爽と玄関ドアを開けた。
モクマはそれを追うように自身の荷物を引っ掴むと、餞別を片手に、ウードの車に乗り込んだのだった。