本当に生きているのかと思う程美しく静かに寝る男から、珍しく衣擦れの音がした。
スプリングが微かに沈む感覚と同時に、手袋をしていない指先が無遠慮に俺の腕をまさぐって、独特の冷やっこさに鳥肌が立つ。
何かを確認するように皮膚の薄いところをなぞりながら手首を掴んで、手のひらと手のひらが重なった。
(起きてはいない……ようだが)
されるがまま、視線だけで確認してみる。長いまつ毛は呼吸に合わせて上下して、規則正しい寝息が鼻から抜けていた。
一方で俺は。こうもぺたぺたと触られて、まどろみの思考が覚醒した。ぱっちりと目を開いて、それでも決して気配は気取られぬように。
もちろん隣の男を揺り起こし、「どうした?」なんて無粋なことはしない。滑らかな指先が、俺の指の股を行ったり来たりするのを、なんだかちょっとエロいな、なーんて、そんな下衆い思考を楽しむ。
引っ掻いてんのか、くすっぐってるのか。あまり長さの無い爪が、俺の関節に引っ掛かる。関節の皺をなぞられれば、思わず息が漏れそうになって慌てて唇を噛む。
こうまじまじと見てみれば、同じ本数、同じ皺。だのに本当に同じ人間なのかと思う程、俺たちの指は、手は、違う。
手入れの行き届いた美しい指。白魚のような指、なんて形容の仕方があるが、こういうことを言うのだろう。普段は手袋で隠されていることも、その神秘性をより一層高める。この指で、鍵盤を叩き、鈍い刃もまた携えているなんて、妖しくて、危なげで、背徳感すら覚えてしまう。
一方は、太くて短くて薄茶色のおじさんの指だ。節は太いし、付け根には出来ては潰れてを繰り返した肉刺で、凸凹している。美しいの真逆にいる。けれどもそれはそれで、気に入っている。そう思えるようになったのは最近だが。この手が、指が、守っているのだと、そう自負している。
それに。
こんなにも美しい指がその素肌を晒して無防備に触れるのが、この指だと思えば。
来るとこまで来たなと、自分で言うほど下衆な思考を握りつぶす代わりに、奥歯を噛んだ。
――と、そんなおじさんの指をなぞっていた動きに力が籠る。
いつぞやのように小指に小指を引っ掛けたかと思えば、俺の小指を包むように全ての指で掴まれる。
今やお互いに切っても切れぬ壮大な約束の乗ったそこに目を細めれば、一瞬。思い切り引っ張られて、おじさんの小指は男の口元へ。
やけにその瞬間がスローモーションに見えて、開いた口に歯並びが綺麗だなとか、そんなに大口開けるかね、と置いてきぼりな思考が次々に浮かんで、その後は一気に現実に引き戻された。
思い切り噛まれたのだ。小指を。根元から。一思いに。
「いっ――ッたぁ!!」
「っ、うるさ……」
抑えることもできず絶叫する。本当に噛みちぎられるかと思った。反射的に手をひっこめたもんだから、チェズレイの頬を引っ張ってしまったかもしれない。チェズレイは大層不機嫌な声で頬をさすっていた。
「なっ……なして……」
「うるさいですよ……一体何事ですか……」
「それはこっちのセリフぅ……」
ふうふうと噛まれた箇所に息をかける。ぐるりと一周、はっきりと歯形がついていた。
状況が分かっていないのはお互いで、しばし見つめ合って沈黙。チェズレイが俺の顔と指を交互に見やって、ふいと視線を空に投げた。
俺の頭にははてなマークばかりが浮いて、涙目になりながら小指をさする。大事な指なんじゃないの?
「……あァ、なるほど」
「勝手に納得せんといてえ」
「ゆめを、見ていました」
頭上に浮かんでいたはてなの間に「夢」の文字が入る。詳しく説明しちゃくれんか。
「いや、モクマさんがね、私との約束を破棄する、と」
「言わんよ!?」
「違います。破棄にすると言いだしたらどうする? と聞いてきたので」
「それも言わんよ……」
「夢の話です。しかし不思議と怒りは湧きませんでした。落胆とも、諦めとも違う。
腑には落ちませんが、意外とすんなり納得しましてね」
「いや、納得しないでよ……で、なして俺の指を」
「……約束をしたその指だけは、裏切らないでほしいと思って」
「……ん? んん?」
「それで、食いちぎってやろうと」
なるほど……なるほど? 理解できるか? それ。と、はてなマークが消えることはなかったが、チェズレイがあまりに他意のない顔をしているもんだから、そういうものかと変に納得してしまった。
が、そもそもの前提が間違っていることは伝えなければ。依然空を見るチェズレイの顔をこっちに向かせて、ぴりぴりと痛む小指を白魚のような小指に引っ掛けた。ぐっと力を入れて巻き付ければ、骨に響くような痛みが未だ突き刺さる。
「もちろん、お前さんを裏切ることも、約束を反故にするも、死んでもないよ」
「当たり前です。私が殺すので」
「はいはいそうね。ほら、まだ3時だよ。言葉遊びは今度にしようや」
「あなたの下品な叫び声で起こされたのですが?」
眉根を寄せて口を曲げる。いつの間にか、こんなにも素直な顔を見せるようになったのか、と感慨に耽る前に、とんでもない言いがかりだと俺も眉を下げた。
痛む指を離して、まるで子供を寝かしつけるかのように額を撫で、胸をとんとんと叩く。うっとおしそうに払われてしまったが、次第に呼吸音は規則正しくなり、チェズレイは再び寝入ってしまった。
(噛みちぎるったあ、またお転婆なことで)
いくらか刺激的な痛みは去り、じんじんと滲むような痛みをはらんだ小指を見つめて自嘲を漏らす。存外悪くない痛みだ。
朝になれば痛みも歯形も消えているだろうか。少しぐらい痣になって、数日残ってくれてもいいのにと、焼きの回ったことを思いながら、俺も静かに目を閉じた。