3度目の夜は 1度目は、何も考えることができなかった。知的犯罪の申し子と呼ばれたこの頭も、仮面の詐欺師と言われた顔も、わたしの持ちうる武器はことごとく鈍らと化し、ただただ目の前の、情けなくて逞しくて、何も持っていなくて全てを持っている男が、私に愛を囁き伝える声と行為だけに身も心もずくずくに熔かされてしまった。この世の幸せと愛おしさを煮詰めた夜に、このまま混ざり合って一つになってしまうのではないかと、ああ、一つに溶けては手を繋ぐことも、あなたの心音を聞くこともままならない、と少しだけの恐怖。けれど、あなたが手を取り抱き寄せれば、指と指は絡まって繋がり、心音はべつべつの音を重ねていた。あなたと私、べつべつ身体と心がある。だから手を重ね、身体を重ね、心が重なるのだと、安心して目を閉じた。
2度目は、ややなし崩し的だったかもしれない。未だあの夜の熱が漂う気配を感じているのに、私たちは何事もなかったかのように振舞っていた。日に日に高まるぎこちなさにも、お互いに気付かない振りをしてやり過ごす。今思えば滑稽な状況だろうが、それでも自然に振舞えていると思っていた。1度目の夜からそう遠からず、私たちは再び枕を共にした。お互いに直接的なことも、決定的なことも何一つ言ってはいないのに、同じ寝具に腰かけて手を重ねれば、あの日と同じ熱をはっきりと感じた。二人とももう、何事もなかったかのように振舞うことも、ぎこちなさに気付かない振りをすることもできなかった。取り繕うことを止め、何かに急かされるように、まるでそれを知ったばかりのティーンのように甘い睦言ばかり囁き合って、夢うつつのまま、気付けば二人ともベッドに沈んでいた。
――そうして、さて。3度目の夜は。
熱風と硝煙を背に、爆ぜた炎が一本の鎖に反射して夜の闇を裂く。
「モクマさァん、見てください! あァ、また爆発しましたよ! 計画通りだ」
「はいはい、舌噛むよ~」
爆風を推進力に、2回3回と揺られて夜を移動する。適当な建造物の屋上に着地し、計画通りに沈んだ対象のビルに目を細めた。
「おーおー、今回も派手なことで」
「首尾は上々。お疲れさまです。モクマさん」
「お前さんもね。じゃ、帰ろっか」
先ほどまで二人分の体重を支えた鎖を握っていた、赤く充血した手をモクマさんが差し出す。手を重ねれば、手袋越しでも巡る血潮の熱が感じられた。
***
セーフハウスへ戻り、汗や埃、砂、硝煙の臭いと、ドロドロになった身を清める。
シャワーコックを捻り、ぱたぱたと降り注ぐ水流を浴びながら目を閉じれば、つい先ほど、下衆共を粛清した光景がハレーションして再生される。
(ああ、あのモクマさんの大立ち回りといったら!)
思わず身が震えた。組織の機能はとっくに手中にあったが、物量的な意味では我々二人では手に余る組織だった。見苦しく逃げ惑う連中が多かったのだ。
当初の予定では、多少の人数は取り逃すことも想定内だった。取り逃した者の行動パターンも予測済みで、その場合は翌日以降足取りを追う。1~2日で組織の人間は掃討できると踏んでいた。
だと言うのに、結果といえば組織の連中は全て、モクマさんがいなしてしまったではないか! 狭いビル内を縦横無尽に駆け、一対多勢に怯む様子さえ見せず、剣呑な眼差しを隠しもしないその姿!
感嘆の息が漏れる。胸に手を当てれば、あられもない心音がする。
――あの熱に、触れたい。触れられたい。いつかのように抱かれたら、どうなってしまうのだろうか。
よぎった思考に頭を振る。水圧を強め、頭を鎮めようとするが、高鳴る心臓は今にも皮膚を突き破ってしまいそうだ。
この思いを自覚したのはいつからだっただろうか。
身体を重ねた初めての夜。そこから幾ばくもなく迎えた2度目の夜。
その2つの夜には言い訳ができた。磁石が引き寄せられるように、否定も肯定もなく、ただそれが当たり前だと、抗えようのない愛おしさと幸せを享受した夜だったと。
では、3度目は?
1度目と2度目の境を倍にしても、2度目と未だ訪れぬ3度目の境には届かない。
3度目はいつだろうか、とふと思い、そう思ったことに、私はモクマさんとの夜を求めているのかと自覚した。
そして、自覚をしてしまったら言い訳ができない。抱かれたい、愛されたい。そういう欲を、あなたに持ってしまったと、伝えなければならない。
こうなったのは今回が初めてではない。その度に、昂るこの思いを汚らわしく感じ、この身に灯った熱が恥ずかしくてたまらない。
こんな姿を見られたら、この思考を気取られたら。モクマさんは私を浅ましいと思うだろうか。きっとそうだ。モクマさんはいつも平気な顔をしている。1度目も2度目もなかったかのように、話題に出すこともなければ、その熱を漂わせることもなかった。
私はシャワーを止め、湯船に浸かる。身体に疼いた熱と、欲に茹った思考が溶け切るまで、長く、長く、湯船に沈んでいた。
「えらく長かったね。だいじょぶ?」
「ええ。お待たせしてすみません」
髪を乾かし、上気した身体を冷ましてようやくリビングへ戻れば、あまりの長湯に心配げな顔をしたモクマさんに出迎えられた。テーブルの上には、指示も依頼もしていないミネラルウォーターが準備されており、さも当然のように差し出される。こういった気遣いを平然とやってのけるのだから、質が悪い。私の思いなど知らないくせに、とんでもなく悪い男だ。
「疲れちゃった?」
「いえ、少し考え事を」
「仕事? 今日俺が頑張って仕事終わらせちゃったじゃない」
「ええ、それはそれは見事な手腕でね。
お陰で明日の予定がなくなってしまいましたので、それについて少しばかり」
上手く取り繕えているだろうか。嫌に気遣う風の言葉を躱しながら、ベンチ型のダイニングチェアに座れば、自然とその横を陣取る。こういう時に限って、距離が近い。せっかく湯船で溶かした思考が、再び形作られてしまう。冷ました身体が、再び汗をかき始めてしまう。
もたげた灯が渦巻く炎になる前にと、渡されたミネラルウォーターを何度も嚥下した。
「じゃあ少しぐらいお寝坊したっていいんだねっ!」
「不規則な生活リズムは心身ともに不調を来たしますよ」
手を頬にあて、ふざけた顔をつくるモクマさんに様々な種類の怒りが沸くが、その半分以上が八つ当たりなのは理解している。それに、この顔の時は半分冗談で半分本気だ。今日の大立ち回りから鑑みても、少し疲労が溜まっているのかもしれない。降って湧いたような休日ぐらい、ゆっくりしてもいいだろう。
「ま、最近根詰めてたし、久々にゆっくりしようや」
「休息も仕事の内ですしねェ。では、晩酌にでもお付き合いしましょうか?」
そこまで言って、そういえば晩酌の準備がないことに気が付いた。大抵は私が入浴中に晩酌の準備が整っていることが常だったのに、食卓の上はがらんとしている。
浴室であれほど自己嫌悪したというのに、私はまだ彼との時間を求めている。生活リズムに言及した同じ口で、自ら晩酌の提案など、まともな思考のパズルができていない。けれどその一方で、これ以上今日の彼と共に居ては、それにアルコールでも入ってしまえば、私はあらぬことを口走ってしまうかもしれないとの危惧があった。自分から提案しておきながら、墓穴を掘ったとの後悔。一緒にいたいのに、一緒にいたくない。なんと強欲なことだろうか。
「あー、今日は、ちょっと。やめとこうかと」
モクマさんの返答に、少し安堵した。自身の浅ましさを気取られていないかだけが気になって、その時彼の視線が泳いでいることに気が付かなかった。
私は私の後悔と安堵を悟られないよう、平静を装って口早に聞く。
「おや珍しい。ではもうお休みになりますか?」
大丈夫、きっといつも通り皮肉に笑えているはずだ。モクマさんを先に寝室へ促し、私はもう少しばかりここで休息しますと物理的な距離を取れば、浮ついた思考も治まるはずだ。
軽口を添えて席を立ち、残ったミネラルウォーターに手を伸ばした。
「休むっちゅうか……」
濁した言葉と同時に、伸ばした手が掴まれた。その手のひらは、鎖を掴んで二人分の体重を支えていた時よりも熱い。熱帯の雨季のような湿度を持っていた。
「なあ、チェズレイ」
乞うような視線と目が合った。私はこの目を、この熱を、この湿度を知っている。掴まれた手がくん、と引っ張られ、再びベンチに着席すれば、ぐん、とモクマさんが距離を詰める。
「俺が明日の仕事を終わらせて、寝坊したいってのはさ」
見知った空気が漂い始める。皮膚が接着した部分が熱くてしょうがない。
「お前と一緒にいたいって、ことなんだけど」
言葉の度に漏れる息が顔にかかる。そのぐらい、距離が近い。口を開けて閉じるたび、私の口に触れるのではないかと身を硬くするのに、モクマさんはそれ以上は近づかない。乞うような視線のまま、私に問うて黙っている。
あの大立ち回りは仕事を明日に持ち込まないため。明日に仕事を持ち込みたくないのは、今日の夜を長く過ごすため。夜を長く過ごしたいのは、わたしと共に過ごしたいから。見知った空気が、その期待を雄弁に語る。
「お前が嫌ならしない。でも俺はしたいと思ってるよ」
「あなた、そんな素振り、見せなかったくせに」
「そりゃあ、まぁ。早々がっつくのも、恥ずかしいじゃない」
へらりと下がった眉に、1度目も2度目も感じた愛おしさが溢れて、思わずその眉尻に口を寄せた。額までもしっとりと汗を滲ませ、唇から塩っぽさが伝わる。そこまで近づいてようやく、モクマさんの顔が赤く上気しているのに気が付いた。
そのまま空いている手でモクマさんの頭を抱く。ぴったりと触れ合って、着衣越しでもモクマさんの体全体が高い熱を持っていることが伝わった。そして私も同じ体温を、皮膚を突き破ってしまいそうな心臓の鼓動を、モクマさんに感じ取られただろう。わたしも、あなたと同じだと。同じ期待を持っていると、語ったも同然に。
「わたしも……、モクマさん、あなたとしたい」
「ん、おんなじで嬉しいよ」
頭を抱いた手を頬に滑らせる。言い訳も大義名分もなく、ただあなたと抱き合いたいと、言葉で、目線で、身体で伝えてしまった。羞恥も後悔も同時に襲ってくる。しかしそんなものに呑まれる前に、モクマさんに呑まれてしまう。無遠慮に上唇と下唇を割り開いて、手に伝わる熱さなんて比べ物に成らない程の、粘膜の熱が口内に侵入する。何かを考える前に、思考はぐずぐずのどろどろに溶けてしまう。私が浅ましいとラベリングした感情を、嬉しいとラベリングする目の前の男に、何もかもが支配されてしまう。
「んっ……むぅ、ちゅ、ぁ……っ、はぁ……」
「っはぁ……、ベッド行こうか」
何も考えられずに、呼吸も上手くできなくて、瞳に水膜が浮かんできた頃にようやく唇を離される。同時に息を整える間もなくすくい上げられ、モクマさんはベンチを跨いだ。
重心を預けて凭れた胸も、私を抱える屈強な腕も、火傷しそうなほどに熱い。まだ服も脱いでいないというのに、二人ともが薄く汗をかいていて、不快なはずなのにもっともっとと肌を摺り寄せた。
さして遠くもないのに、急ぐような大股ではすぐに寝室の前へたどり着く。
何の変哲もない見慣れたドアの向こうには、3度目の夜が待っている。