怖いこと--
蒸し暑い夜が続いていた。そんななか、食堂でのなにげない会話から、調理場でよく見かける男の「夏は怪談っしょ!」の一言で、怪談大会の開催が決まった。どうやら東のほうの島では夏の風物詩らしい。この騎空団には東の出身者も多い。
要するに背筋の凍るような「怖い話」をして暑い夜を過ごそうというものだ。
その企画を聞いたとき、ショウは思わず渋い顔をしてしまった。ツバサが笑う。
「んだよ、もしかして怖ぇの苦手かぁ?」
ショウは舌打ちをする。
「……怖いっつうか、驚かせるのあんだろ。あれは苦手だ」
「あ~、あるな。分かるぜ。怖かったわけじゃねえよってな」
ツバサは同意を示した。
「でも、まったく動じねえ人達もいるからな。けっきょく胆力の違いなんかなあ」
ショウは周りを見回した。確かに、どう驚かせても微動だにするまい、そういった達人がこの騎空団には何人もいる。自分もそうできれば、どれほどラクだっただろうか。
ショウは溜息を零して、席から立った。
「とにかく、俺はパスだ」
「前にもやったけど、けっこう面白い話もあるぜ? みんなビビり散らしてっから気にすんなよ」
「パス」
ツバサにそう言って断り、ショウは食堂をあとにした。
夜になり、怪談の会に参加する者たちは用意された部屋へ向かっていた。酒や菓子を持ち込もうとしている者もおり、ショウは通りすがりにそれを見て苦笑した。ツバサの言うとおり、きっと楽しい「遊び」だろう。
人の波に逆らって通路を進み、甲板に出る。夜風が上着をはためかせた。
手すりに腕を置いて溜息を零す。月明かりが雲を銀色に照らしていて、闇に光の霧が漂っているようだった。美しい光景であると同時に、幻想的でどこか寒々しく思える。
それをぼんやりと眺めていると足音が響いた。見張りだろうか。外に出ることを先に知らせておくべきだったかと、ショウは人影を振り返った。灯りを持った影がこちらに近づいてくる。
その灯りが見慣れたランタンだと気付いて、ショウは思わず息を呑んだ。
「ショウじゃねェか」
こちらの顔を見て取ったらしい、元担任教師の声が響く。
「なにしてんだァ。てめえは怪談はいいのか?」
エルモートがランタンを掲げて、ショウの顔を照らした。教師の時の格好ではない、騎空団において普段よく見かけるフードを被ったローブ姿だ。
ショウは灯りに目を細めながら応える。
「俺はいい。あんたこそ」
「俺ァ今日は見張り番なんだよ」
「代わってやろうか」
エルモートは呆れたように笑う。
「バァカ。不寝番をガキにやらすわけねェだろ」
エルモートはランタンを杖にぶら下げ、手すりに立て掛けた。彼自身も手すりに手を置く。そして、ショウを見て、フッと笑みを浮かべた。ショウはその笑顔にドキリとして、動揺を隠そうと月を見る振りをして視線を泳がせる。
「なァんてな。俺も代わってもらったのサ。怪談はニガテでな。当番の奴は出たがってたし」
そう語るエルモートにショウは意外な気がした。
「……怖ぇの苦手なのか?」
エルモートは視線を雲海に向けながら眉を下げた。
「いンや。楽しんでる奴らには言うなよ――もっと怖いモンが他にあるだろって思っちまうようなヒネくれ者には向いてねェってコトさ」
ショウはエルモートを見つめた。風を受けた己の上着や、エルモートのローブがバタバタと音を立てる。
エルモートは横目にショウを見て、いかにも気まずそうな笑みを浮かべた。大の大人が怖がって格好悪いだろうとでも言うようだ。
「夜の森とかよォ、獣の気配がするだけで肝が冷えるだろ」
騎空団で依頼を受けたときに発生する野宿のことを指しているのだろう。だが、それは嘘だとショウは感じた。
――この人はなにが怖いんだ。
月明かりを浴びたエルモートは晒している肌に銀の粉をまぶしたようで、それこそ怪談に出てくる人ならざる者のようだった。フードの影の奥で鈍い金色の瞳が輝いている。
「おまえはなんで怪談会に出ねェんだ?」
不意に尋ねられて、ショウは答えに窮した。エルモートはそれを答えたくないと受け取ったのか、柔らかく双眸を細めた。
「ま、無理に出ろとは言わねェさ。怖いのが苦手で出てない奴も、興味がなくて出てない奴もいる」
ショウはエルモートのほうを向いたまま、片手で手すりを掴んだ。
ツバサに伝えた理由は嘘だった。誰にも言いたくなかったから、それらしいことを言って誤魔化したのだ。
このまま黙っていれば、エルモートは問い詰めるようなことはしないだろう。
しかし、どう言葉にしようかと考える自分を自覚して、ショウは息を呑んだ。誰かひとりにでも、本音を知ってもらいたいという欲求が生まれてしまったのだ。
誰にも分かってもらえない。そのつらさがショウにはずっと棘のように刺さっていたから。聞いてくれる人を見つけたら、欲が出てしまった。
「今夜の風は気持ちいいが、あんまり夜更かしすンなよ」
エルモートの声が響き、それが見張り番に戻る前振りだと察して、ショウは我知らず身を乗り出していた。エルモートの腕を掴む。金色の瞳が驚いたように見開かれた。
ショウは視線を合わせることが出来ず、しかし、相手の腕を離すことも出来ず、頭を下げてうつむいた。喉になにかが絡むような感覚を押しのけて、なんとか声を絞る。
「俺は……死んだ奴らのことを考えちまうから……」
エルモートの視線がこちらを見ている。ショウは顔を上げられなかった。
足元のはるか下では騎空艇のエンジンが低い唸り声を上げている。その音に紛れて、怨霊の声が聞こえてくるのではないかと思えた。
「……そうか」
エルモートは察した様子でそれだけ呟いた。
怪談に多くある死者の話を聞くと、タンダム商会が起こした事故で亡くなった者たちのことがどうしても脳裏を過った。恨みつらみを語る声は作り話をしているのに、まるで自分が責め立てられているようだった。
恨まれて当然だと思うのに、それをつらいと感じることが、彼らを悪者のように扱っているようで、ますます自分に嫌気がさした。
肩に手が触れて、ショウはおそるおそる顔を上げた。エルモートがこちらを見下ろしている。彼は肩に触れた手で、今度はショウの頭を撫でた。
優しい手つきにたまらなくなって、ショウはエルモートを抱きしめた。拒まれたくなくて力いっぱい抱きしめると、エルモートの手が背に回された。慰めるように背中を叩かれる。
ショウはぎゅっと目を閉じて、エルモートの肩に顔をうずめた。
「……先公」
「怖ェときにひとりでいる必要はねェさ」
ショウは肩に額をこするように頷く。抱きしめた身体から人肌の熱と鼓動が伝わってきて、それが怯える心を慰めてくれた。今この身を包んでいるのは人のぬくもりだ。
やがて冷たく思えた月明かりが柔らかく感じられるようになったころ、ショウはおもむろに恥ずかしくなってきた。元担任教師を相手に自分はなにをしているのだろうか。
それに抱き締めている身体が細くてどうにも気まずい。このまま無理やりどうとでも出来てしまうのではないか。それをこの人はこんなに簡単に許していいのか――そこまで考えて、ショウはばっと顔を上げた。恩人を相手になにを考えているのだ。エルモートの肩を掴んで彼を引き離す。
「……先公!」
「お、おう?」
急に大声を出したショウにエルモートが目を瞬く。
「今夜は世話ンなった! Thanks!!」
それだけ告げると、ショウは踵を返す。顔が真っ赤になっている自覚があって、見られたくなかった。
「歯ァ磨いて寝ろよォ」
エルモートの声が追いかけてきて、ショウは足を止めた。振り返らずに答える。
「Good night!」
「あァ、おやすみ」
優しい声音を噛みしめながら、ショウは甲板から船内へと戻る階段を駆け下りた。
走り去った生徒を見送り、エルモートは小さく苦笑した。
「若ェな」
赤面した少年の顔を思い出す。おおかた、柄にもなく年上に泣きついて恥ずかしくなったのだろう。
案外と年相応の可愛げがあるものだと思いながら、エルモートは見張り番の定位置へと向かった。
終わり