塞翁が馬 バレンタインデーといえば、想い人や日頃感謝している相手に気持ちを伝える日である。
チョコレートを渡すことが習慣となっているが、相手の好みに合わせて違うものを贈ることも少なくない。とはいえ、やはりチョコレートありきのイベントであり、巷では高価なものから珍品まで様々なチョコレートが店頭に並ぶ。
(幸いにも先公は甘いモン食えるから、俺は慣例に従ってチョコレートを用意すればいいわけだ)
世話になっている騎空団が立ち寄った島で、ショウは街を訪れていた。近隣では大きな都市で、チョコレートを売っている店はもちろん、手作り用の材料も手に入るし、有名なショコラティエが構えている店もある。時期を考えれば、団がこの島を訪れたのもバレンタインデーが理由なのかもしれない。
ショーウィンドウに並ぶきらきらとしたチョコレートを眺めながら、ショウは小さく息をついた。花のような意匠、宝石のような飾りつけ、工夫を凝らした味付け、きっとどれを手に取っても問題はない。
(だが、どうせならよりGreatなチョコレートを贈りたいというものだ)
心を込めるなら手作りだと言う者もいる。だが、商人を目指している身としては、厨房に立つよりも己の目と足で極上の品を見つけることのほうが自分らしい贈り物だと思えた。
目を閉じれば、炎を身にまとうエルモートの姿が思い浮かぶ。彼を知らぬ者からは災いのように畏れられる炎だが、ショウには輝く光が溢れて見えていた。彼に似合う品を選びたい。
そこまで考えて、ショウは再び嘆息した。街路灯のポールに寄りかかって、商店街の往来を見るともなしに見つめる。菓子店を前に心躍らせる様子の少女たちが目に付いた。
(俺が好きだと言って渡しても、先公は受け取ってくれない……)
言葉にすると、それはバレンタインデーに浮き立つ心を刺すような冷ややかさがあった。
エルモートは子供には優しいが、子供では彼の心に手を掛けられない。身も心もどちらも大人にならなければ、彼は手に入らないのだ。
まるで世界の仕組みに試されているようだと思う。時間というどんな努力をしても縮まらない距離があることは歯痒い。
視界の端で少女が店の扉を開く。ドアベルの音が耳を打って、ショウは首を振った。
恋心は受け取って貰えないだろうが、日頃の感謝は伝えたい。今日はそのためのチョコレートを探しに来たのだ。
商店街の表通りから枝分かれた細道へと足を踏み出す。栄えているだけあって、裏通りも小奇麗にされていた。ショウはさらに足を進めて、人通りの少ないほうへと向かった。掘り出し物でもないだろうかと目を光らせる。
(とはいえ、あんまり怪しいモンを渡すわけにもいかねェよな)
エルモートが喜んでくれることが肝要なのだ。
しばらく歩むととうてい観光客は訪れないであろう裏路地へと辿り着いていた。古めかしい建物がひしめき合う一方、ひとけがなく閑散としている。ここまで来ると菓子店はないように見えた。
引き返そうとしたショウの足が不意に止まる。
煉瓦造りの小さな建物。開いた戸の横に、開店中の看板が立てられている。中の照明は明るくないことが外からも見て取れた。出窓に飾られているのは水晶やランプ、杖、カード――魔法具の店だ。
(マナリアではよく見かけたが、最近は久しく見てなかったな……)
ショウはふらりと店の戸をくぐった。
店の中はやや暗く、その中で複数のランプや燭台が妖しい光を浮かべていた。棚や台の上には出窓に置いてあったような魔法具が並んでいる。そして、奥まったところにカウンターがあり、店主と思われる中年の女がいた。
「いらっしゃい」
ショウを見て微笑む。ローブを着た姿は店主自身も魔術師なのか、あるいは演出なのか、それは分からなかった。店内に他の客はいない。
目的もなく踏み込んだショウは少し気まずくなって視線を泳がせた。
「……あー、少し見てもいいか?」
「どうぞ」
女は鷹揚に頷く。
ショウは杖が飾られている棚の前に立った。指示棒のような短いものから、腰の高さほどあるような大きいものまで並んでいる。
ケッタギアのタービンリアクターを動かす際に杖は使わないが、学院の授業では何度も扱ったことがある。エルモートも杖を持っているし、スフラマールもそうだ。基本的で一般的な魔法具と言える。
「お客さん、初めてですよね。旅人さん?」
店主が聞いてくる。
「学生だ。今は騎空団でベンキョーさせてもらっている」
「へえ、すごいですね」
店主はカウンターを回ってショウの傍へと歩み寄って来た。背の高い少年を見上げて、愛想を浮かべる。
「騎空団でということは魔法学校にないものには興味ありますか? この時期ならではのものも扱っていますよ」
「ん?」
店主はショウについてくるように促すと、カウンターの奥の棚から白い紙箱を取り出した。カウンターの上で広げてみせる。
それはチョコレートだった。どこにでもありそうなハート型をしている。ただ、その甘い香りが強く鼻を突いた。
目を瞬くショウに店主はにこりと微笑んだ。
「恋の魔法を掛けたチョコレートです」
ショウは言葉に詰まった。女の笑顔を前に冗談だろうという言葉を呑み込んでしまう。
「……あー……どんな魔法だ?」
「あなたの魔力を込めて食べさせれば、相手はあなたを好きになります」
店主は淀みなく答える。ショウは顎を撫でた。
信じがたい。人の心を操るような高度な魔術が、たかが菓子ひとつで実現できるとは思えない。だが、体内に取り入れるものだから、まったく非現実的とも捨てられなかった。
しっとりとした甘い香りは緊張を和らげるようで、ひょっとして――という気持ちにもさせた。
ショウは小さく笑って、顔を上げた。
「悪いが、必要ない」
店主を見据えて答える。
「信じられませんか?」
首を傾げる店主に、片手を振ってみせる。
「効果はどうあれ、これを頼る気にはなれない」
店主は「ああ」と笑った。
「ご自身に自信がおありなんですね」
「そんなものはない」
ショウは肩を竦める。プライドらしいプライドはドモンの策略に嵌った際に道端に落としてしまった。だが、そのおかげで人に助けを求めることができたのだ。
ずぶ濡れの生徒を迎えてくれた赤毛の臨時教師が脳裏に浮かぶ。
「いえ、おありに見えますよ」
憧憬を遮る声にショウは店主を見返した。
商売としては客のご機嫌取りも仕事だろう。ショウは特に言い返さず、ただ商品を断ろうとだけ考えた。
口を開こうとして、ふと視界が揺らぐ。違和感を覚えながら瞬きをするショウの耳に店主の声が聞こえた。妙に遠く響く。
「自信満々で、自分がカモだとも気付かない子供に見えますよ」
足から力が抜け、急激に瞼が重くなる。ショウはカウンターに手を突きながら店主を睨んだ。
「……てめぇ」
しかし、それ以上は言葉が出なかった。闇に吸い込まれるようにショウの意識は遠のいた。
その場に崩れ落ちた少年を店主が見下ろす。
店主は息をつくと、チョコレートの箱の蓋をかぶせた。チョコレートに掛かっていたのは香りを嗅いだ者を昏倒させる術だ。
ショウの傍に膝をつき、その上着を掴む。
「……どこのお坊ちゃんだか。見るからにいい服を着て、もう少し警戒心を養ったほうがいいんじゃないかね」
「ご忠告、ドーモ」
背後から響いた声に、店主はぎょっとして振り返った。
赤い髪のエルーンが店の入り口に立っていた。黒いフードを目深に被り、杖を掲げた姿は一目で魔術師だと見てとれる。陽の光を背に受け、まるで不吉を運んできた烏のようだ。
「本人にはあとで伝えておくぜ」
にやりと笑う口元には余裕があった。荒事に慣れている、日陰を歩んできた人間だと窺い知れる。
店主は立ち上がると、忌々しく男を睨んだ。
「魔術師の店で他人が好き勝手に出来るとでも思ってるのかい?」
男は答えず、笑みを湛えたまま悠々と店の中へと入って来る。
店主はカウンターに立て掛けてあった己の杖を手に取った。歩み寄る男のブーツが床を鳴らす。
「警告はしたからね!」
店主は攻撃魔法の呪文を唱えた。男に向けた杖の先から光の束が放たれる。
店内には自衛のため、魔法の威力を上げる仕掛けがしてある。並大抵の者では防げない――その確信を打ち砕くように、金色の双眸が冴え冴えと輝いて、女を見ていた。女は杭で打たれたように動けなくなった。男は放たれた魔法ではなく、術者を見ている。そんなことが出来るのは魔法を受け切る算段がつき、かつ次の攻撃にまで備えられる熟練の魔術師だ。
男が杖を振ると、炎が渦巻いて店主の魔法を呑み込んだ。そのまま魔法だけを焼ききって、二人の間で掻き消える。
店主は奥歯が震えるのを自覚した。
(……ディスペル)
相殺したのではない。男の術がこちらの魔法を消し去ったのだ。
自身に有利なこの環境下で打ち負けたとあっては到底かなう相手ではない。
「ちくしょう……!」
店主は歯噛みして杖を握り締めた。
負けを認めた呻きに、男は眉を下げて笑う。少年の傍まで歩んできて、意識のない身体をその背に背負う――どう見ても男より少年のほうが体格がいいのだが――。
「まあ、いいベンキョーになったかもな」
そう呟いて出ていこうとするエルーンに、店主は疲れたように息を吐いた。
「あんたなんなのよ」
「……コイツの教育係みたいなもんだ」
男はそう答えてから、「どいつもこいつ手間を掛けやがる」と零した。
◇ ◇ ◇
騎空艇のエンジン音が聞こえる。ケッタギアのタービンリアクターよりもはるかに大きなエンジンが奏でる重低音――ショウははっと目を開いた。そのまま起き上がる。騎空艇の自室だ。
「おお、おはようさん」
声を掛けられ混乱したまま顔を向けると、ベッドのすぐ隣でエルモートが椅子に腰かけていた。
「どっか具合の悪いところはねェか?」
問われてショウは自身を見下ろした。上着を脱いだ普段と変わらぬ格好をしている。
「どこも……いや、なんで……」
ここにいるんだ?という疑問に、エルモートは片眉を上げた。
「覚えてねェのか? てめぇ、店でぶっ倒れただろ。もう昨日のことだぜ」
店――その単語をきっかけに記憶が蘇る。店主の女の馬鹿にしたような声が耳に響いた。ショウは拳を布団に打ち付ける。
「Damn it」
エルモートはククと笑った。
「もっと気を付けろ、だとよ」
「ああ、くそ……」
ショウはガシガシと頭を掻いた。詳しくは分からないが、エルモートがここにいるということは、彼が助けてくれたということだろう。大きく息を吐いて、気を取り直す。
「あー、世話になったみたいだな。Thanks」
「ガキの世話すンのはいいけどよぉ」
エルモートは背もたれに腕を回して椅子に寄りかかりながら、ショウに向き合った。
「汚ねェ大人がいることは知ってるだろ。もちっと勘を働かせろよなァ」
卑劣な大人がそれと分かる顔をしているのなら、苦労はしない――要するに見知らぬ土地で他人を簡単に信じるなということだろう。
ショウは握っていた拳にまた力を入れて俯いた。
「……反省はする」
殊勝に答えてから、窓の外を見やる。晴れた青い空が広がっていた。眩しさに双眸を細める。
「浮かれてたんだ……」
ショウはぽつりと呟いた。エルモートが首を傾げる。
口にしてから急に恥ずかしくなって、ショウは自身の指先を揉んだ。なんでもないと打ち捨てても良かったが、目の前にエルモートがいて、欲が出てしまう。
「あんたに、どんなチョコを贈ったら喜んでもらえるか考えてたら……」
その言葉にエルモートが眉を寄せる。ショウは慌てて言葉を続けた。
「いや、その、いつも世話になってかっら、礼をしたくて……」
エルモートは渋い顔をしたが、すぐ息を吐いた。迷うように視線を巡らせたあと、生徒に向き直る。
「べつに礼なんかいらねェけど」
そう言いながら、片手をショウに差し出す。
「それで、チョコは?」
ショウが店を訪れてから一日経っているのなら、今日はバレンタインデー当日だ。
ひらひらと手のひらを振られて、ショウはうぐと呻いた。エルモートは分かっていて煽っているのではないかと思えた。
「……まだ、買えてなくて……」
正直に白状すると、エルモートは喉の奥で笑った。椅子から立ち上がる。
ショウは顔を上げた。もう行くのか、面倒ばかり掛けるクソガキに呆れたのか、そんな不安が顔に出る。捨て犬のような顔をする生徒に、エルモートは思わず噴き出した。
「なにダセェ顔してンだよ」
彼はそう言ってから、どこに隠し持っていたのか、綺麗にラッピングされた紙袋を取り出した。それをショウの頭に載せる。
「え?」
ショウは目をしばたいた。エルモートがふっと微笑む。
「最近、おまえらベンキョーちゃんとしてっからな。おやつだ、おやつ」
つまり、バレンタインデーのチョコレートだ――間違いなく義理だが。ショウは紙袋を両手で掲げた。袋の口に取りつけられている空色のリボンが輝いて見えた。
「Thank you!!」
「声がでけェ」
エルモートが顔をしかめて、頭上の耳を押さえる。
ショウはひとしきり紙袋を眺めたあと、はっとしてエルモートに向き直った。
「俺……」
自分は用意できなかったのだと思い出す。騎空艇が航行しているということはもう買いにも行けない。
エルモートは眉を下げて笑うと、ショウの頭をぽんぽんと撫でた。
「礼なんかいらねェって」
その声が優しく響いて、ショウの胸を熱くした。
そのまま部屋から出ていこうとする後ろ姿にショウが何も言えずにいると、エルモートは扉の前で振り返った。にやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「気まずいってンなら、ホワイトデーに倍返ししてくれてもいいぜ」
ショウは一瞬ぽかんとして、すぐに声を張り上げた。
「楽しみにしててくれ!」
「声がでけェって」
エルモートはそう繰り返すと、耳をぴんっと跳ねさせた。そのまま扉の向こうへ姿を消す。
ショウはぎゅっと唇を引き結んだ。扉が閉まる直前、エルモートの横顔が少し気恥ずかしそうだったのは見間違いではない。飛び上がりそうなほど喜ぶ生徒の相手をするのは、照れ屋の短期講師にとっては虚勢を張る必要があったのかもしれない。
ショウは高鳴る胸を押さえるように紙袋を強く抱いた。そのままベッドに転がる。
「……なんてGreatな日だ」
噛み締めるように呟いて、ショウはエルモートの姿を反芻するべく目を閉じた。
終わり