指先の赤--
ハロウィンを間近に控え、騎空艇の中は早くも浮足立った空気があった。
ガキの遊びだろうと見て見ぬふりを決め込むつもりだったショウはいささか焦りを覚えていた。この騎空団には子供も少なくない。せめて彼ら用の菓子だけでも用意しておくべきだろうか――いかにも柄の悪い自分に話しかけるガキなどいるまいとも思うのだが、そうとも限らないのがこの騎空団なのだ。
こんなときは素直に恩師を頼るに限る――ツバサ達を頼ってもいいのだろうが、それはそれ。こんな機会を逃す手はない――。ショウは元担任教師の部屋を訪れた。ノックをすると入っていいと返事がある。
「先公、突然すまねェ」
ショウが扉を押し開くと、エルモートはベッドに腰かけていた。ショウは目を瞬く。エルモートの傍にはトレイが置かれ、そこに小さな瓶がいくつか並んでいた。やすりや脱脂綿のようなものも一緒に乗っている。
「別に構わねェけど、どうした?」
エルモートはそう言って、ベッドの空いた場所を顎で示す。ショウはトレイを挟んでエルモートの隣に腰を下ろした。
トレイに並んだ小瓶は透明で、鮮やかな色をした中身が見て取れる。灯りを弾いて光の粉をまぶしたようだ。ショウの手に馴染んだケッタギアの整備工具とは掛け離れた煌びやかさ。化粧道具の類だと知れた。
「先公、それ――」
なんだと訊こうとして、ショウは息を呑んだ。エルモートの爪が染まっている。深い赤と黒のグラデーション。エルモートは少年の視線に気づいて、手を掲げてみせた。
「あァ、ハロウィンだからなァ。こういう色がついてるほうが『らしい』だろ」
広げた指先を丸め、ショウに向かって威嚇する獣の手つきをしてみせる。
――可愛い。ショウは思わず口に出しそうになって唇を引き結んだ。
「……なんか意外だな、あんたもそういうの楽しむほうなんだな」
エルモートは「意外かァ?」と笑って首を傾げる。
「ハロウィンにはランタンがたくさん見れるしな。菓子を焼くのも楽しみのひとつだ」
彼が菓子作りを嗜むと知ったのは騎空団に入ってからだ。楽しみという言葉通りに表情を和らげる姿に、ショウも小さく笑った。
「『作る』じゃなくて『焼く』なんだな」
「言わずもがなだろォ」
エルモートは肩を竦める。そして、爪が乾いていることを確認して、トレイを手に取るとベッド脇のデスクに移した。
「で、おまえの用事は?」
ショウは視線を泳がせた。
「その、ハロウィンなんだが……」
どう言ったものだろうか、そう考えて不意に閃く。
「菓子作り、手伝わせてもらえないか?」
エルモートが目をしばたく。ショウは気恥ずかしさを覚えながら、しどろもどろに言葉を募らせた。
「あー、それで、出来た菓子を俺にも分けてほしいんだ」
そこまで言うとエルモートも察しがついたらしい。にやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「さてはショウくん、なんの準備もしてなかったなァ?」
ショウは観念したように頭を下げた。
「……お恥ずかしながら」
エルモートはクククと笑う。彼はベッドに片膝を立てて頬杖を突いた。柘榴のような深い赤色の爪がひらひらと舞うようでショウは目を奪われる。
ぼうっとしているとエルモートの声が響いて我に返った。
「まァ、いいぜ。日がな一日引き籠ってやり過ごそうなんて考えないだけ、団にも馴染んできたってこった」
ショウはほっと息をついた。
「Thanks」
相談に乗ってもらうつもりでよく考えていなかったが、一緒に菓子作りをする約束まで取り付けてしまった。
(Amazing!)
内心でガッツポーズを取り、ひとまず胸をなでおろす。
なにか言おうと顔を上げると、またエルモートの爪を目で追ってしまう。蝶か花弁でも舞っているかのようだ。妖艶な赤に教師の面影はない。ショウはごくりと喉を鳴らした。
「……先公、その、爪、近くで見せてもらってもいいか?」
エルモートはきょとんとしてから、自分の爪を見やる。
「構わねェが……」
ショウは恐るおそる手を伸ばして、その手を取った。自分の手と比べて繊細な細い手に心臓が高鳴る。
色味の暗い、しかし、つややかに光を纏う赤い爪に見入った。色の深みは深紅の宝石かワインのようだ。ショウは惚れ惚れして双眸を細めた。
「……綺麗だな」
エルモートはくすぐったそうに肩を竦める。彼はなにか言おうとしたが、うまく言葉にできなかったのか、ただ照れ臭そうに唇を曲げただけだった。
その様子に悪戯心が湧いて、ショウは唇に笑みを刷いた。
「……先公、Trick or Treat?」
「あン?」
エルモートが聞き返す。今の彼に渡せる菓子はあるまい。そもそもまだハロウィンではないから、これは正真正銘ただの悪戯だ。
「Trickだな」
そう告げて、ショウはエルモートの指先に口づけた。チュッと分かりやすく音を立てる。
「なっ!?」
エルモートが声を上げて手をひっこめる。彼は赤面して、信じられないという顔でショウを見た。教師の時には見せないような、余裕のない表情にショウは高揚を覚えた。
「Treatはできねェだろ?」
「……ッ今日はハロウィンじゃねェだろ!」
ショウはこれ以上はなにもしないと両手を挙げてみせた。しかし、悪びれずに薄い笑みを浮かべる。
「当日じゃあんた菓子を持ってるだろ」
「当たり前だ! 誰がてめぇに悪戯なんかさせるか!」
怒った猫のように耳を傾けてエルモートが怒鳴る。ショウはわざとらしく視線を逸らした。
「だからだ」
「だからだじゃねェよ!」
ショウは肩を竦めた。
「ハロウィンがどんなモンか好奇心が湧いたんだ。不意打ちをしたのは悪かった。I'm sorry」
エルモートは深く溜息をついた。ひとしきり怒鳴って疲れたのか、枕を抱えてうなだれる。
「クソガキ……」
(あんたが迂闊で無防備なんだろ)
さすがにまた怒鳴らせるのは申し訳ないので、ショウは声に出さずに胸中でそう告げた。
赤い爪に誘惑されて魔が差したのだ。ハロウィンの陽気な灯り、その影が妖しげに揺らめくような気がした。ショウは情欲をひっそりと呑み込んだ。
「いや、悪かった。菓子作りでは好きなだけこき使ってくれ」
エルモートは眉間に皺を寄せ、呆れたように片手で額を押さえた。
「てめぇをこき使ったら俺がやることがなくなるだろうが……」
彼は菓子を作りたいのだ。ショウは苦笑した。
「じゃ、適度にこき使ってくれ」
「……そうするぜ」
エルモートはそう言ってから、もう一度溜息を零した。枕を抱え直し、思い出したようにショウを見る。
「……当日はちゃんと菓子を貰いに来いよ」
ショウは目をしばたいた。エルモートは当日は当日でまた来いと言っているのだ。悪戯されたばかりだというのに、生徒が遠慮することを気にしているらしい。
「俺も貰っていいのか?」
「おまえもまだガキだからな」
その言葉に胸が痛んだが、ここは甘んじて受け入れておく。
「Okay. 楽しみにしてる」
「……おう」
少し恥ずかしそうに耳を下げ、目を逸らすエルモートの姿は、赤い爪の妖艶さとは掛け離れて見えた。ハロウィンの火が見せた幻だったのだろうか。
ショウは少し不思議な気分を味わって、エルモートの部屋をあとにした。
終わり