Engagement【⠀13 years of age : 4 more years to go⠀】
「お誕生日おめでとう、ナワーブ」
そうやって病床で微笑む母に、アテネは真新しい幅の広いストールを掛けながら「無理しすぎないで下さいね」と穏やかな声をかけた。
外から薫る潮の気配が少しだけ濃くなる季節だ。
けれど窓から見えるのは灰色の建物や煙ばかりで、もはや陽の光すら届きにくくなってしまった此処にあっては身体に障るものが多いかもしれない。
……折角天気が良かったのだが窓は閉めた方が良さそうだ。
「何を選んだの?」
「ん?」
「アテネに預けていたでしょう?プレゼント用のお金」
今日はずっとお世話をさせてもらっている、可愛い可愛いスプリングの13歳の誕生日だ。
何を作ってあげよう、とアテネも数日前からお祝いに胸を踊らせていた。母もそれは同様であったらしく、「今年は選びに行けそうにないから、好きなものを買ってあげて」と資金を渡してくれたのだ。
……なの、だが。
アテネは内心、困ったような……喜びのような、哀しみのような、そんな気持ちを抱きながら苦笑いする。
質問の回答に、ベッドサイドに座ったスプリングはあまり表情を変えることなく「ソレ」と母の方を指さす。
「……???」
きょろきょろと見回しているが、背後にも横にも何も無い。表情をあまり変えないままスプリングがそれ以上言わないので、アテネが代わりに補う。
「あの……このストールがいいって……言うので」
「え!!?」
若葉色の明るいストールはとても肌触りが良い。
彼のまんまるな瞳の色に似ていて、自分だって素敵だと思って目の端に捉えていた品ではあった。
「好きなモノ選べって、アテネが言うから」
「そうよ、そう……だけど!……あぁもう」
「……すみません…色々見て回ったんですが、どうしてもって」
「いえ、アテネが謝ることじゃないし、ナワーブも悪くないわ」
困ったように微笑むことしか出来ない。
母は改めて若葉色に触れてから、傍らに座っていたスプリングを手招きして、そのままぎゅっと抱き込んだ。
大人しく抱き込まれた少年は、喜んで貰えたのだと全身で受け止めてふにゃりと笑う。
「ありがとう……嬉しいわ」
「うん」
「お誕生日おめでとう、ナワーブ」
もう一度、同じ言葉を腕の中の宝物に呟く。
アテネはそんな二人を眺めるのが好きだった。
母が病にかかってしまってからは、一気に大人びてしまったように思うスプリングの柔らかい表情に安堵する。
そっと窓を閉めて、彼の好物を作りにそっとその場を離れた。
*
「母」と呼んではいるが、アテネは彼女の血の繋がった子どもではない。
なんなら【人】ですらない。
【オートマタ】と呼ばれる機械人形だ。
十数年前に、魔術を使う科学者が技術をもたらしたのを切っ掛けに、飛躍的に国が発達して今ではどんどん新しい型のモデルが出て下級層にも馴染む存在となっていた。
その中でもアテネは旧型も旧型。
初期製造ライン『アテネ』モデルのオートマタだった。
戦闘に特化もしていなければ、家事育児に特化している訳でもない。
自分の記憶のはじまりは、小さな小さな、産まれたてのナワーブを抱える所からだ。おそらく起動がその瞬間だったのだろう。
全力で顔を真っ赤にして世界を憂い泣いていた彼が、自分が抱えあげるとぴたりと泣き止み、にっこりと笑ってくれたのを昨日の事のように思い出せる。
母の心底安堵した疲れた顔と、荒れた部屋。
そこが自分の居場所になった。
その頃はまだ海に囲まれたこの土地は、爽やかな潮の香りと、突き抜けるような蒼い空と、怖いほど深い海と……そんなものも残っていた。
しかし技術の進歩に合わせ、徐々に灰色に染まっていく街に淋しさを隠しきれない。
「何か手伝う」
「わあ!」
音もなく背後からかかった声にびっくりして、手に持っていたリンゴを落としてしまった。
ごろごろと床を転がったそれはちょうどスプリングの方に転がって行き、彼は慣れた仕草でそれを拾い上げて隣に立ちリンゴを水洗いする。
「……母さんは?」
「一回寝た。夕飯出来たら声かけよう」
「私に任せてよ。君の誕生日なんだ」
「……誕生日だから、だよ」
少し低めに、ぽつり、と出た言葉に……眉を下げた。スプリングは無言でリンゴをするすると剥いていく。彼の好物であり、母の食べやすい食材で近頃は常備するようにしていたので、手馴れたものだ。
「……もっと、欲張りになってもいいんだよ」
「充分欲張りなんだ。これ以上はいらない」
「そんなこと言って。一昨年は雨漏り直す為の木材がいいって買って来ちゃうし、去年もリリーのぬいぐるみの為の生地だったじゃないか」
「……『イライ』」
囁くような音で、けれど強く響いた。息を詰める。
滅多に呼ばれない……己のパーソナルネームだった。オートマタにとってパーソナルネームはシステムに干渉する際に必要なキーワードになるので、主以外は知ってはならないことになっている。
そして、その性質上漏洩しないようにと呼ばれることは殆どない。
「……また駄々こねるぞ」
そっと見たナワーブの顔は意地悪に笑っていたけど、ちょっと淋しそうで。その原因も分かっているから、その冗談にしてしまおうとしている優しい言葉に微笑み返した。
どうにもならないことなのだ。
それなら笑うほうがいい。
「あれは正直すごく可愛かったから、また見たいかも」
「馬鹿言え。この歳になってあんなに泣けねえ……それより、余所見するなよ。怪我したら大変だろ」
「こればっかりは人間と一緒にしなくてもと思ったなぁ」
「……そうかな」
「そうだよ」
静かになってしまった空間。
居心地は悪くないが、折角の誕生日なのに……と思ってしまう。
皿に盛られていく綺麗に剥かれたリンゴを一個摘んでスプリングの唇に押し付けた。
「えい」
「……んぐっ、あにふんら」
「味見だよ。いつもと違う品種が売ってて買ってみたんだ」
「……」
開かれた口にリンゴを押し込めると、奥に行った指を引き抜く前に指ごとぱくんと食べられる。
「こら、私の指は食べものじゃないよ……ふふ、くすぐったい、舐めないで」
イタズラに絡んでくる舌を窘めながら「可愛い。あれだね、猫ちゃんみたい」と言えば、不満そうに翠が眇られて、かしり、と指先を噛んでくる。
本格的に猫になってしまったのか、と思い好きにさせていたら、果実の汁でベタつく指でアテネの手を取って、口から出してくれた。
最後にわざとゆっくりと、まるで口付けをするように指先に熱が残り、離れていく。
「……っ」
「……ふん、余裕ぶってられるのも今のうちだからな」
そのままモグモグとリンゴを咀嚼し「うまい」と感想を言われたけれど、アテネは動揺が残っていて何て返したらいいか分からない。
(……すきだ、って、今でも思ってくれているの)
「……指、べとべとになっちゃったじゃないか」
「アテネが口に突っ込んで来たんだろ」
「食べていいとは言ってないよ」
「そ。じゃあ、ご馳走さま」
「~~~~~~っ、もう……」
アテネに残された時間は、限られている。
だから返せることなんて何も無いのだ。
受け取れない想いは、押し付けられることなく、ただそこに在る。
緩やかな時間に甘えたくて――アテネもリンゴの欠片に手を伸ばし、瑞々しい果汁と共にくすぶるものを飲み込むしかなかった。